【二人の織田信康】 〈信秀弟信康〉 与次郎(公記)。与二郎(「言繼卿記」天文二年七月条)。與次郎信康(寛政譜)。与次郎信 康(寛永譜)。信康(群書織田)。信秀の弟。天文十三年、稲葉山城下の合戦戦死(公記)。 この人物は前述の如く信秀弟。『寛政譜』『寛永譜』には法名は載せていない。以下、 この人物を弟信康とする。 〈もう一人の織田信康〉 もう一人織田信康が実在する。信長妻の実家生駒氏の史料である(家長公伝記書付、生 駒宗直物語、生駒系譜)。それをまとめると次のようになる。 神野山城守 民部少輔入道竹院 妙寿 織田信康 休意 女 利豊 信清 信益 生駒家長 女 信忠 信長 生駒家長は信清に仕えていた。その母方の系図である。一見すれば分かるように、信康 と信長は全く世代が合わないのである。 信康については、犬山朴岩信康(生駒宗直物語)、同付札に「与三郎、十郎左衛門。信康。 朴岩」、織田信康入道朴岩(家長公伝記書付)としている。 この人物を地元地誌は犬山城主信康として次のように記録する(犬山里語記)。 織田与次郎信康。信長公伯父。始め木下城に住む。天文十六年九月廿二日、稲葉 山城下で戦死。仭叟白巌大居士。 『同記』は江戸後期の著作であり、流布する系図や軍記の影響を当然受けている。「信 長伯父」は一例である。しかし、地元にしか伝わっていなかったと思われる「仭叟白巌大 居士」という法名を載せている。 信康あるいは信康白巌という人物の史料は他にも見られる。 羽栗郡松倉村(新選美濃志)を本拠とし、後に、信長・秀吉に仕え子孫を旗本に残した坪 内喜太郎利定という人物がいる(寛永譜)。 これによれば、坪内藤左衛門の本姓は富樫氏といい「犬山城主織田白巌」に仕え坪内氏 に改めたという。そして喜太郎までは次のように続く。 坪内藤左衛門 對馬守 惣兵衛尉 -1- 勝定(藤七郎・玄蕃) 喜太郎利定 この関係は『寛政譜』『阿波国古文書所収坪内系図』も同じである。 喜太郎と信長はほぼ同年齢だから、藤左衛門と同時代の織田白巌と信長とでは全く世代 が合わない。 そこで、「玄斎(宗兵衛)、古玄蕃(玄蕃允)、後玄蕃(喜太郎)」(永禄八年十一月三日坪 内文書貼紙)とあるから、玄斎(宗兵衛)、古玄蕃(玄蕃允)が兄弟で、後玄蕃(喜太郎)は古 玄蕃の息と世代を短縮してみる。 藤左衛門 対馬守 宗兵衛 古玄蕃 〈信定〉 後玄蕃 〈信秀〉 〈信長〉 それでも白巌は信定の前の世代、西巌(公記)と同世代となる。玄斎、古玄蕃、後玄蕃を すべて兄弟としても白巌は信秀以前の人物になる。「犬山城主織田白巌」と信長は全く時 代が違う。 結論は、犬山朴岩信康=仭叟白巌大居士==犬山城主織田白巌であり、信長とは全く時 代の違う信康が浮かび上がってくる。 【信清の父はどちらの信康か】 〈非父子説〉 弟信康と信清を父子としない場合を挙げよう。 『寛永譜』『寛政譜』共に、弟信康とするだけで、息を載せていない。両譜は信長の姉 妹の夫に「犬山鉄齋」「犬山銕齋」を載せながら、弟信康の子として書いていない。書き 漏らすにしてはあまりにも幼稚である。 織田信光には子があるから書き、弟信康には子がないから書いていないと単純に考える べきではないか。 『織田家雑録』も妹婿信清とその子孫を載せているが、弟信康との関係は書かない。 〈士林泝洄に依る弟信康・信清父子説〉 弟信康と信清を父子とする系図は二つある。より早く成立したのが、『士林泝洄』。こ ちらは尾張徳川藩士家譜。 なお、『士林泝洄』の完成は延享四年。徳川義直の代から編纂が始まり、徳川綱誠の代 に及んだ(士林泝洄序)。綱誠が元禄十二年死去しており、この頃にはほぼ完成していたと 思われる。法華寺本は編集されており、『士林泝洄』を使用したと考える。 これは弟信康・信清を父子とする最初の系図と思われる。 信清の息源十郎は徳川義直に仕え、女子は結城秀康と徳川義直に嫁ぎ、子孫は尾張藩に -2- 栄える(士林泝洄)。『士林泝洄』編集に際し、源十郎は父信清を弟信康の子とする家譜を 藩に提出したものと思われる。 女子が二人も家康息に嫁いでおり、源十郎も腐心したであろう。そこで、信長と繋がる 家系を創作する必要が生まれ、弟信康を祖父とする家譜を捏造したと思われる。 この家譜を踏襲したのが、『群書類従所収織田系図』。尾州法華寺所蔵に原本があり、 元禄九年に織田長清が写したという。 おそらく、法華寺は疑うことなく『士林泝洄』を採用し、弟信康・信清を父子として制 作したと思われる。これを、織田長清が書き写した。このように事が進んだのだろう。 法華寺本は、各大名・各藩の織田氏・津田氏を網羅していることに特色があり、同時に それが難点である。大名織田家だけでなく、加賀藩・池田藩[小田井織田氏]・尾張藩に散 った子孫を一本の系図にまとめている。本来、これらは別個のものと思われる。 継ぎ接ぎの無理がはっきりするのが、織田信次系の系図[加賀藩津田氏]で、その結果、 年代上大きな誤差を生じている。 弟信康・信清父子説も次のようにいくつかの無理を結果的に生じている。 信清は叔母[信長姉妹]を娶ったことになってしまう。あり得ないことではないが、そう あるわけではない。いつ頃娶ったのか。背景はどうなのか。全く不明である。 天文十九年[推定]、 「犬山・楽田衆」は信秀と衝突した(公記)。この時、信清は何歳か。 十七歳の信長より年下だろう。この歳で実力者の伯父に敵対できるであろうか。また、信 清が信秀に敵対する理由、信清家臣団が信秀に反発する理由は何なのか。 信清を弟信康の息とすることで、不可解なことも生じてくるのである。 実は、弟信康と信清を結び付けた『士林泝洄』も矛盾が見えている。同譜は信康につい て次のように説明している。 与三郎、天文三年九月廿二日、稲葉山城 下で戦死。法名・白岩。 子細に見ると与次郎信康でなく与三郎信康となっている。 〈生駒宗直物語に依る父子説〉 『士林泝洄』『群書類従』には無理が多い。俄然、『生駒宗直物語』等の記述が浮かび 上がってくる。 これなら、非父子説も説明できる。信清と信姉妹の婚姻も納得できる。天文十九年の叛 乱も別系の織田氏と見ればこれまた納得。 『生駒宗直物語』付札に「与三郎、十郎左衛門。信康。朴岩」とあり、与三郎信康なの である。これは与次郎信康と別人であることも仄めかしている。 【信康・信清系図】 朴岩信康あるいは白巌信康は、「巌」「岩」が共通し、信秀以前の弾正忠家の分流では なかろうか。 『言繼卿記』天文二年七月十日条に「織田十郎左衛門尉頼秀」がいる。この十郎左衛門 は「三郎城」の使を務めており(同)、信秀に近い一族に違いない。彼が信清自信かもしれ ない。そうでなくとも信清に繋がる人物だろう。 -3- 西巌 信定 信秀 信長 信康 白巌 信清[頼秀ヵ] [与三郎、十郎左衛門、信康] このような系図を提案したい。 弟信康が与十郎寛近の養子として犬山へ入ったのは確実だろう(『織田信長の系譜』横 山)というのは全く不確実である。 「信康、犬山城居住」(群書織田)、「犬山城主、織田信康、信長公伯父。仭叟白巌大居 士」(犬山里記)に拘ったために陥った、後追い解釈である。 結論は、信長祖父以前に分立した、犬山城主織田信康・信清父子が実在したという単純 な話しである。 繰り返しになるが、天文十九年(『織田信長の系譜』)、「犬山・楽田衆」は信秀と戦っ た(公記)。信清は幼少ではなく、信清家は信秀からは独立した勢力であったと考えれば、 すっきりするのである。 また、信長姉妹と信清の婚姻についても、無理なく理解できるのである。→織田信秀 なお、朴岩は信清の法名かもしれない。これ以上史料がなく可能性の一つとして挙げて おく。 -4-
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