山桜の里 戸赤 - やまざくら

第 162 号
戸赤地域づくり推進事業機関紙
平成 25 年 5 月 29 日発行
(1)
豆花 山桜の里 戸赤
栽
培
今年は播種した豆が
腐食することもあった
定遅
植霜
すを
る心
か配
がし
難て
しい
いつ
めし者の具ポ定は
てな同間合ッ植五地花
いが士隔やトさ月元豆
まら情な畝苗れ二特
す作報ど間のま十産の
。業を、、芽し日の定
を交栽株出たご花植
進換培間し。ろ豆
今までの経験から株間
今性 れのる後九しせ最三はた四は
年 化 年 ま 来 こ 半 日 か る 盛 日 り こ 日 五 山 を思い切って広げた
はに間す訪とにのしこ日間イとご月桜
日つ通。客がな連くとにをベしろ二の
大なじ はでっ休、は合開ン、だ、盛
ジがて 千きて前二難わ花トやっ三り
ャる外 五まか半十
、
ズ方来 百しらは七
研法者 人たい肌日
究をと と。い寒か
会考の 推こ花くら
とえ接 計のを連二
凍み大根、花豆パイなど物販はお客
のて点 さ間見休十
手打ちそばは一番人気
様に喜ばれる
連いを
携き持
がたち
イベント初日の4月27日季節外れの降雪、サクラの花芽も素直には咲けなか
ういな
ったのかもしれない
まとが
れ思ら
、い、
季ま地
節す域
まつり前日に仕込みの準備
。活
一番人気
とけど感
にた継を
し協続生
て議的か
いをなし
ま始活た
す
。め動交
日大ジャズ研究会が応援
るに流
出演
こ向な
【木地の学習№31】第 2 回目は寛政七(1795)年であるが、氏子狩帳が残されていないので氏子狩をしたものか
どうかは分からないが、次の文書によって金龍寺の住僧興宗が来たことは確かである。①「此度木地挽
住居之山々巡行ニ付分明ニ相知候間…」②寛政七年の「宗旨請印證」を七点ほど確認している。今までの
氏子狩帳には木地小屋巡回の漏れがあったが、この寛政七年の文書の木地小屋巡行は、ほぼすべての木
地小屋を回って宗旨請印證を発行している。次回の寛政十二(1800)年の君ヶ畑氏子狩帳二九号簿冊に
は、寛政七年の木地小屋をなぞるようにして巡回しているのが分かる。もれなく巡回するようになるこ
の時期が、根元地が会津木地小屋に対して確固とした支配権を有した時であるとみなしてもよいのでは
なかろうか。享和三(1803)年も金龍時による回国と思われるが、この年の「宗旨請印證」は見つかって
いない。しかし、
「是迠茂寛政七卯年、享和三亥年近頃者文政十亥年」に会津に来て、人別改めを済ませ
たという文書がある。文政十(1827)年には、蛭谷と君ヶ畑が共に会津での氏子狩をしている。
(会津地方歴史
民俗資料館「木地語り」より)〈つづく〉
)
URLhttp://www.t-yamazakura.com/
山桜の里 戸赤
第162 号
平成 25 年 5 月 29 日発行 (2)
やまざくらまつり4日前の新聞折り込みチラシ
(上)5月8日福島民報
連休中の
話題
(上)5月12日福島民報
( )
右
5
月
8
日
福
島
民
友
(上)5月8日福島民報
(ストーリー性のある村づくりのために[№2]・紅梅御前宮)王は個の途中、奈良路より近江信楽→東海道→甲斐→信濃、そして上
州沼田を経て会津に入られたが、檜枝岐から奥会津を通り、七月十六日山本村にお着きになり戸右衛門
宅にお泊りになった。そして翌十七日、里人らの案内で越後路を目指して高峰峠まで出立された。平家
方の柳津の住人石川有光はこれを知って、栃沢の方より多数で高峰峠に押し寄せた。するとそのとき、
一天にわかにかき曇り、雷鳴は轟き雹は氷玉となって石川の軍勢の頭から叩きつけた。以仁王もまた予
期せぬ暴風雨のため前進することもならず、止むなく山本村に引き返されたが、王の一行には雹の害は
なかった。そして天候の回復するまで二日間山本村に泊まったが、この間に王は、
『高峠の風吹き戻す山
本に心とどめしみちしるべして』との歌をお詠みになり戸右衛門宅に下し置かれた。このとき同時に『大
内』という村名も賜り、山本村を大内村と改称、高峰峠も氷玉峠と呼ぶようになった。
(
「会津の歴史伝説-とっておきの33話-・小島一男著」
〈発行所歴史春秋出版株式会社〉出典)
〈続く〉