中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(下)

中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(下)
――隠遁者西行,その生涯からみる死生観――
植
V
村
雅
史
第三期「高野中心時代」
1.高野山移住
前章3「初度陸奥の旅」でも触れたように,この長旅が契機となって出家後のセカ
ンドステージとなる高野山に庵を結び,治承四年(1180)六十三歳の頃に伊勢へと
移るまでのおよそ三十年間を,そこを生活の拠点とすることとなったという窪田氏1
などの説もあれば,久安五年(1149)の落雷による火災で消失した大塔・金堂・灌
頂院の復興勧進に招かれたという『高野聖』2における五来重氏の説などもある。
この時代は社会的にも大きなうねりが胎動しはじめていたときだが,宗教史的に
も天台・真言の自力の教えから他力による浄土思想が爆発的に広がろうとする黎明
期であり,法然・親鸞が世に出る直前の時期であった。雑修の西行は仏道専一の僧
ではなかったが,そのかれが真言密教大本山の高野山へと導かれていったことは少
なからず仏道への思いが京洛時代よりも大きなものになっていたと考えられる。と
はいえ,目崎氏3は,
高野にこもりたりけるころ,草のいほりに花のちりつみければ
138
ちる花のいほりのうへをふくならば
かぜいるまじくめぐりかこはん4
の一首から「住房を「草の庵」と称していることに注目」したうえで,
「高野山とい
う,道場であり霊場である山中に入った」とはいえ,
「僧房に集住生活をなす多数の
別所聖と同様な生活形態をと」らずに,
「山里の草庵にひとり住む閑寂の境地を選ん
だ」と想定し,寂然が高野に出向いた際の応答歌からその境涯の主目的が「数寄心
の満足にあった」と考えられた。これは,
「高野という名だたる山中の霊場を選んだ
以上,これを仏道修行に励み俗塵を遠ざかる便宜とする心構えが一隅に内在したこ
とは」認めたうえで,
「俗界との絆が完全に断ち切られたわけではない」ということ
に注目しているということである。このことは,高野中心時代の西行を追ううえで
は前提とすべき視点であると思う。そのような思いをもって高野での草庵暮らしを
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第49号(2014)
基盤にして,京や吉野へ出向いたり,熊野・大峰山へ修行に入ったりをくり返しな
がら,保元の乱や崇徳院の讃岐配流,四国巡礼の旅,高野山東別所蓮花乗院勧進な
どを経験した時期がこの高野中心時代である。
2.詞花集への入集
天養元年(1144)崇徳院宣下による『詞花集』が,七年後の仁平元年(1151)西
行三十四歳のときに,藤原顕輔によって撰進され奏覧された。
『古今集』以来六番目
の勅撰集で四百九首が撰ばれている。そして,そこに西行の一首がはじめての勅撰
集への入撰を果たした。一方で先にも述べたが,歌稿の下見を任された常磐家から
は為忠をはじめ三寂からも入撰歌はなかった。
身をすつる人はまことにすつるかは
すてぬ人こそすつるなりけれ5
まさに「出家とはいかなるものか」という西行自身の問いを象徴するような作品
である。
「無常の現世」「世を遁れるもの」「世を遁れないもの」
,行きつ戻りつする
不規則の揺れ動きを感じる一首である。この歌は『詞花集』巻十,雑下に「題不和,
読人不知」で採られている。身分卑賤ということで中央歌壇へ名を連ねることがで
きずに,もっぱら野にあって作歌することに専心していた西行であったことが,よ
み人知らずという扱いになった。しかし,そのような扱いにもかかわらず入集した
という事実は,西行にとっては非常に大きいものとなったと思われる。先述の大原
三寂とのやりとりのなかで,勅撰集入集へのこだわりがあったことをみればその喜
悦が想像できる。そしてそれは,その後の藤原俊成撰の『千載集』での十八首,そ
の息子定家撰の『新古今集』においては集中最多となる九十四首を採られるまでに
なるかれの実績の第一歩でもあった6。
3.鳥羽院崩御・保元の乱・崇徳院配流
高野山を生活の中心としてから十年が経とうとするあたりから,世は風雲急を告
げる様相を呈してきた。そのはじまりは,保元元年(1156)七月二日の鳥羽院崩御
であった。院は在俗時代の西行とその主徳大寺実能を具して検分に出向いた鳥羽離
宮安楽寿院を臨終の場所と決めており,そこで卒去なされた。このとき,京に下っ
ていた西行はその「あさからぬ」縁を感じながら長い詞書とともに三首を残してい
る。前掲782「こよひこそおもひしらるれ」歌からの連作である。
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一院かくれさせおはしまして,やがての御所へわたしまいらせけるよ,高野よ
りいであひてまいりあひたりける,いとかなしかりけり,このゝちをはします
べき所御覧じはじめける,そのかみの御ともに,右大臣さねよし,大納言と申
ける,候はれけり,しのばせをはしますことにて,又人さぶらはざりけり,そ
の御ともにさぶらひけることのおもひいでられて,おりしもこよひにまいりあ
ひたる,むかしいまの事おもひつゞけられてよみける
782
こよひこそおもひしらるれあさからぬ
君にちぎりのあるみなりけり
をさめまいらせける所へわたしまいらせけるに
783
みちかはるみゆきかなしきこよひ哉
かぎりのたびと見るにつけても
をさめまいらせてのち,御ともにさぶらはれける人/\,たとへんかたな
くかなしながら,かぎりある事なれば,かへられにけり,はじめたること
ありて,あくるまでさぶらひてよめる
784
とはゞやとおもひよらでぞなげかまし
むかしながらの我身なりせば
この鳥羽院の死を契機に,近衛帝への不本意の譲位,そして近衛夭折後も崇徳皇
子重仁への譲位が叶わず,弟の雅仁(後白河天皇)の継承という辛酸をなめていた
時勢から,
ようやく政治の表舞台へ躍り出るための叛乱を崇徳が起こすこととなる。
鳥羽院崩御十日後七月十二日の保元の乱である。
それは,皇室内での対立,摂関家内部の対立,さらに新興の武家勢力であった源
平のそれが表出する戦でもあった。崇徳側が内大臣藤原頼長を中心として,源氏の
正統である為義を先頭にした陣形に対して,後白河側は信西入道の策謀の下,頼長
の兄である摂政藤原忠通,中央政権内での地位を獲得しつつあった平清盛,崇徳側
に与した源為義の子義朝というものであった。そしてこの義朝の戦略にて,崇徳側
の陣取る白河殿に夜襲をかけ一夜のうちに勝敗を決したのである7。
ほんの数日前まで鳥羽院の葬送に参列していた西行が,この戦をどこで見ていた
のかは判然としないが,流れ矢に当たって命を落とした頼長とは別に,弟覚性法親
王のいる仁和寺御室の宮へ輿を乗り入れ,謹慎の身となった崇徳院のことを聞きつ
け奉伺に馳せている。これまで知遇をえてきた崇徳院のことを心底心配しての行動
である。それは,謹慎という厳戒態勢が敷かれる京の移動は容易ならざるところで
あったろうし,時勢からしても鳥羽院の法要に参列した者が,敗帝でもある崇徳の
下に参じるということは尋常ならざる行動であったろう。それもこれも,弓馬に秀
でた北面の武士であった在俗時代の血や,そのときにつくられた人脈がことを成し
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えさせたのであろう。しかし,さすがに仁和寺へ足を踏み入れることは如何ともし
難く,そこに出て来た兼賢阿闍梨に歌を託している。
世中に大事いできて,新院あらぬさまにならせをはしまして,御ぐしおろして
仁和寺の北院におはしましけるに,まいりて,けんげんあざりいであひたり,
月あかくてよみける
1227 かゝるよにかげもかはらずすむ月を
みる我みさへうらめしきかな
そして,二十二日に讃岐への配流が決まると翌二十三日には,崇徳は女房三人を
具して仁和寺を出ることとなる。そして,讃岐の地にて
「吾深罪に行れ,愁欝浅からず。速此功力を以,彼科を救はんと思ふ莫太の行
業を,併三悪道に抛籠,其力を以,日本国の大魔縁となり,皇を取て民となし,
民を皇となさん。」とて,御舌のさきをくい切て,流る血を以,大乗経の奥に,御
誓状を書付らる。8
と自らの境涯を怨み,世を怨む崇徳であったが,吉本氏は『西行論』9において,鳥
羽院の死を契機に院政の機会を獲得しようという崇徳の執念に,西行は同情はする
ものの,そのあさましさへは批判的であったという見解を述べられている。
そして,讃岐に流れてから院が現世の欲ではなく「後世を願う」ようになるとい
った「仏道に出逢う契機を得」るには,その「境涯に陥ちこまな」ければならかっ
たはずなので,
「いまの崇徳の境涯はむしろ喜ばしいものだといえる」というような
思いで「冷酷に崇徳院の幽閉生活を掴みとっている」という考証を,以下の「冷淡
にうけとれる西行の客観的な詠み口」ととらえている歌から導いている。
さぬきにて,御こゝろひきかへて,のちのよの御つとめひまなくせさせをはし
ますときゝて,女房のもとへ申ける,この文をかきぐして若人不瞋打,以何修
忍辱
1230 世の中をそむくたよりやなからまし うき折ふしに君あはずして
これもついでにぐしてまいらせけれ
1231 あさましやいかなるゆへのむくひにて かゝることしも有世なるらん
1232 ながらへてつゐにすむべき都かは 此世はよしやとてもかくても
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1233 まぼろしの夢をうつゝにみる人は めもあはせでや世をあかすらん
かくてのち,人のまいりけるにつけて,まいらせける
1234 其日よりおつる涙をかたみにて
おもひ忘るゝ時のまもなし
西行は,崇徳が讃岐に流されてから長寛二年(1164)八月十五日の崩御までの間,
一度も出向いていない。旧来からの関係性,保元の乱直後の仁和寺拝謁などを考え
れば,時間に拘束されることもなく高野で隠遁していた西行が理由もなく崇徳を訪
ねないことの方が不自然である。そこには,面会することよりも女房などを介した
歌の交換を通じて,「あさまし」き心から解放されて心を鎮めるためにも真に発心
されることに賭ける意図があったように思える。しかし,配流されてから四年の後
に卒去なされた。ときに崇徳四十六歳。西行は四十七歳であった。
4.大峰入
また,この高野中心時代には大掛かりな修行にも出ている。最たるものが,修験
道の霊地大峰山の回峰巡行である。
『古今著聞集』巻二「西行法師大峰に入り難行苦
行の事」の最後には「大峰二度の行者也」10とあり,この伝えがどこまで信に足る
ものであるかということはあるが,
『山家集』にある大峰で詠まれた作品が二群に分
けて収められていることは,その説に通じるものがあるかもしれない。それは,隠
遁者が軽々には入峰することのなかった霊場だけに,西行の信仰への強い思いがそ
の動機となっていたのは間違いのないことであろう。
大峰山は熊野と吉野の間に存在する。西行には大峰山作品群とともに,吉野へ出
向き桜花を詠じた作品,熊野の地に籠った際に作歌したものも残されている。熊野
は,記紀万葉の時代から知られていた山岳や那智の大滝を神格化した原始自然信仰
からはじまった霊場であるが,その信仰は平安期から真言密教と修験道を取り入れ
ることで神仏習合の性質をもつようになっていた。その熊野とともに山岳信仰の代
表的な聖地とされていたのが大峰・金峰山であった11。
高野山を拠点に草庵生活を送っていた西行にとっては,真言密教と深い関わりを
もつ信仰だけに,熊野・大峰へ向かうことは必定の流れであったのであろう。そし
てその契機となった一つとして,目崎氏12は,
「熊野山臥の大立物なる大僧行尊に対
する西行の敬慕」を挙げられた。その根拠は以下の『山家集』にある
みたちより生のいはやへまいりけるに,もらぬいはやもとありけんおり,おも
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ひいでられて
917
露もらぬいはやもそではぬれけりと
きかずはいかゞあやしからまし
平等院の名かゝれたるそとばに,もみぢのちりかゝりけるをみて,はなよりほ
かのとありけるひとむかしと,あはれにおぼえてよめる
1114 あはれとてはなみしみねになをとめて もみぢぞけふはともにふりける
の二首が,僧正行尊の『金葉和歌集』(雑上)に採られた,
大峯の生のいはやにてよめる
くさのいほなにつゆけしとおもひけん
もらぬいはやも袖はぬれけり
大峯にておもひもかけずさくらのはなを見てよめる
もろともにあはれとおもへ山ざくら はなよりほかにしる人もなし13
の二首の本歌取りとなっていることから,苦行の間に西行の頭をよぎったのは「行
尊の面影と作品であり」,この行尊を「先達として修行しているがごとき思いに打た
れていたのであろう」というものである。
行尊は,天喜三年(1055)から長承四年(1135)に生きた参議源基平の三男であ
り,小一条敦明親王の孫にあたる。白河・鳥羽・崇徳の護持僧であり園城寺長吏,
天王寺別当をつとめたのちに天台座主となった人物である。そして,修験道行者と
して山岳遍歴をしつつ作歌にも親しんでいたのである。
なお,上の二首も含めた『山家集』における大峰作品群を引いてみると,一つ目
は前掲917「露もらぬ」歌と,
をざゝのとまりと申所にて,つゆのしげかりければ
918
分きつるをざゝのつゆにそぼちつゝ
ほしぞわづらふすみぞめの袖
の二首となり,二つ目の群は,
大みねのしむせんと申所にて,月をみてよみける
1104 ふかき山にすみける月を見ざりせば 思出もなき我身ならまし
1105 みねのうへもおなじ月こそてらすらめ 所がらなるあわれなるべし
1106 月すめばたにゝぞくもはしづむめる みね吹はらふ風にしかれて
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をばすてのみねと申所のみわたされて,思なしにや,月ことに見えければ
1107 をばすてはしなのならねどいづくにも 月すむみねの名にこそ有けれ
こいけと申すくにて
1108 いかにしてこずゑのひまをもとめえて こいけにこよひ月のすむらん
さゝのすくにて
1109 いほりさすくさのまくらに友なひて さゝの露にもやどる月かな
へいちと申すくにて月をみけるに,こずゑの露のたもとにかゝりければ
1110 こずゑもる月もあはれをおもふべし ひかりにぐして露のこぼるゝ
あづまやと申所にて,しぐれのゝち月をみて
1111 神無月しぐれはるればあづまやの 峯にぞ月はむねとすみける
1112 かみな月たにゝぞ雲はしぐるめる 月すむ峯はあきにかはらで
ふるやと申すくにて
1113 神無月しぐれふるやにすむ月は くもらぬかげもたのまれぬ哉
平等院の名かゝれたるそとばに,もみぢのちりかゝりけるをみて,はなよりほ
かのとありけるひとむかしと,あはれにおぼえてよめる
1114 あはれとてはなみしみねになをとめて もみぢぞけふはともにふりける
千ぐさのたけにて
1115 わけて行色のみならずこずゑさへ 千ぐさのたけは心そみけり
ありのとわたりと申所にて
1116 さゝふかみきりこすくきをあさたちて なびきわづらふありのとわたり
行者がへり,ちごのとまり,つゞきたるすくなり,春の山ぶしはびやうぶだて
と申所をたひらかにすぎんことをたゞ思て,行者ちごのとまりにて思はづらふ
なるべし
1117 びやうぶにや心をたてゝおもひけん 行者はかへりちごはとまりぬ
三重のたきををがみけるに,ことにたうとくおぼえて,三業のつみもすゝがるゝ
こゝちしければ
1118 身につもることばのつみもあらはれて 心すみぬるみかさねのたき
天ほうれんのたけと申所にて,釈迦の説法の座のいしと申す所をがみて
1119 こゝこそはのりとかれける所よと きくさとりをもえつるけふ哉
以上の十六連作となる。
これらの歌が詠まれたのが修行時のことかどうかは定かではないが,この大峰の
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修行が,武門時代には弓馬に長けて強健であった西行をもってしても,非常な困難
を極めるものであったことを,前出の『古今著聞集』巻二「西行法師大峰に入り難
行苦行の事」が伝えている。
「西行法師,大峰をとを(ほ)らんと思ふ志深かりけれども,入道の身にてはつ
ねならぬ事なれば,思煩て過侍けるに,宗南坊僧都行宗,其事を聞て,
「何かくるし
からん。結縁のためにはさのみこそあれ」といひければ,悦て思立けり。
「かやうに
候非人の,山臥の礼法たゞしうして,とをり候はん事は,すべて叶べからず。たゞ
何事をもめんじ給ふべきならば,御ともつかまつらん」といひければ,宗南坊,
「其
事はみな存知し侍り。人によるべき事也。疑あるべからず」といひければ,悦て,
すでにぐして入けり。宗南坊,さしもよく約束しつる旨を,みなそむきて,礼法を
きびしくして,せめさいなみて,人よりもことにいためければ,西行涙を流して,
「我は本より名聞をこのまず,利養を思はず。只結縁の為にとこそ思つる事を,かゝ
る憍慢の職にて侍けるをしらで,身をくるしめ心をくだく事こそ悔しけれ」とて,
さめ/″\となきけるを,宗南坊きゝて,西行をよびていひけるは,
「上人道心堅固
にして,難行苦行し給事は,世以しれり。人以帰せり。其やんごとなきにこそ此峰
をばゆるしたてまつれ。先達の命に隨て身をくるしめて,木をこり水をくみ,或は
勘発の詞をきゝ或は杖木を蒙る,これ則地獄の苦をつぐのふ也。日食すこしきにし
て,うへ忍びがたきは,餓鬼のかなしみをむくふ也。又おもき荷をかけて,さかし
き嶺をこえ深き谷をわくるは,畜生の報をはたす也。かくひねもすに夜もすがら身
をしぼりて,暁懺法をよみて,罪障を消除するは,已に三悪道の苦患をはたして,
早無垢無悩の寶土にうつる心也。上人出離生死の思ありといへども,此心をわきま
へずして,みだりがはしく名聞利養の職也といへる事,甚愚也」と恥しめければ,
西行掌を合て隨喜の涙をながしけり。「誠に愚癡にして,此心をしらざりけり」と
て,とがを悔てしりぞきぬ。其後はことにを(お)きて,すくよかにかひ/″\し
くぞ振舞ける。もとより身はしたゝかなれば,人よりもことにぞつかへける。此詞
を帰伏して,又後にもとを(ほ)りたりけるとぞ。大峰二度の行者也。」14
そして,これだけの苦行とともに残された十八首からは,「月はもはや昔見た月
ではなかったし,山林流浪の旅も,深く入れば入るほど,昔あこがれたものとは違
っていた。西行は地獄を見たのである」のだが,だからといってかれは「神仏を尊
んだが,仏教の思想にも,神道の教理にも,わずらわされることはな」く,常に感
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中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(下)
――隠遁者西行,その生涯からみる死生観――
じていた「既成の仏道からも出家する必要」性を顕現化する一つの手段が「大峰修
行」ととらえていた。なので,「西行は,自分の心の中にある仏を歌によって発見
し,歌によって形を与えたといえるであろう」と白洲氏15は考えておられる。また
佐藤氏16は,「西行において,和歌は,自己が隠遁者であろうとすることの表現で
ある」ゆえに,「和歌の堅さがある。行尊のように,仏法の修行者であることが自
明の前提としてあって,そのうえで和歌を詠んでいるのではな」く,「西行にとっ
ては抒情の在りようそれ自体が原郷世界への近接の如何を示すことであ」り,「抒
情の在りようは絶えず意識化され」て歌となっていたと考えられている。西行大峰
入が,修行によって仏道に専心するということではなく(あくまでも信仰心の帰依
する先が仏道・神道にあるのではなく),歌によって昇華されるという両氏の考え
は首肯すべきものである。
5.四国の旅
そのかみまいりつかうまつりけるならひに,世をのがれてのちも,かもにまい
りけり,としたかくなりて,四国のかたへ修行しけるに,またかへりまいらぬ
こともやとて,仁安二年十月十日の夜まいり,幣まいらせけり,うちへもいら
ぬ事なれば,たなうのやしろにとりつぎて,まいらせ給へとて,心ざしけるに,
このまの月ほの/″\に,つねよりも神さび,あはれにおぼえてよみける
1095 かしこまるしでになみだのかゝるかな 又いつかはとおもふあわれに
旅立ちが仁安二年もしくは三年ということを詞書で確認できることは貴重なこと
ではあるが,
その双方の説があり考証を決する資料は現在見出されていない。
如上,
陽明文庫本では仁安二年となっているが,仁安三年(1168)であったとすれば,西
行五十一歳のときに出立したことになる。とはいえ,どちらにしても四国の旅に関
する歌は,羈旅の歌のなかでも群を抜いて多い17。その最初が1095「かしこまる」
歌である。
出家前から折に触れて参詣していた賀茂の社に,十月十日の夜に詣でて幣を奉っ
た。それは,齢を重ねて五十を越えたことで再び帰ってくることが叶わないかもし
れないという切実な思いからのものであった。そしてこの四国旅の目的は,三好英
二氏が『西行歌集』
(下)18において「一には崇徳院の讃岐白峯御陵参拝,一には弘
法大師の遺跡巡礼」であるとしたことで,諸家の見解はほぼ一致している19。よっ
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て,この旅が物見遊山なものでないことも明らかである。しかし,この旅は同行西
住と出向く予定であったので,高野での生活を中心としていた西行にとっては明る
い思いにさせられる面もあったのではなかろうか。それを思わせるのは,西住が近
親者の病気のために同行できなくなった際に,
西の国の方へ修行してまかり侍けるに,みづのと申所にぐしならひたる同行の
侍けるが,したしきものゝ例ならぬ事侍とて,ぐせざりければ
1103 やましろのみづのみくさにつながれて こまものうげにみゆる旅哉
と悲しみの思いを詠っていることである。しかし,その後二人は落ち合うことがで
き無事にそろって四国へと渡った。そして一つ目の目的を果たすべく,崇徳院の住
まわれた松山の地を訪ねたのだが,そこにはすでに跡形も残っておらず,
さぬきにまうでゝ,まつやまのつと申所に,院おはしましけん御あとたづねけ
れど,かたもなかりければ
1353 まつ山のなみにながれてこしふねの やがてむなしく成にける哉
1354 まつ山のなみのけしきはかはらじを かたなく君はなりましにけり
と詠んだのち白峰御陵に参拝し,
しろみねと申ける所に,御はかの侍けるにまいりて
1355 よしやきみむかしのたまのゆかとても かゝらん後は何にかはせん
を残した。院への鎮魂歌20である。配流されてから崩御なさるまでの四年,そして
この旅で展墓するまでの四年,つまり最後に接近した仁和寺から都合八年という長
い歳月が経っていた。
「白峰御陵参拝」の後には,もう一つの目的である「弘法大師の遺跡巡礼」に向
かっている。その最初は大師誕生の地での行道であった。そして,大師少年期の修
行地といわれる我拝師山や曼荼羅寺などで修行に励んだ。その後には,
おなじくにゝ,大師のをはしましける御あたりの山に,いほりむすびてすみけ
るに,月いとあかくて,うみのかたくもりなく見えければ
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1356 くもりなき山にてうみの月みれば しまぞこほりのたえまなりける
と庵を結んでしばらくそこで暮らしながら作歌している。この頃に,西住は帰洛し
たらしく,
四国の方へぐしてまかりたりける同行,みやこへかへりけるに
1097 かへりゆく人のこゝろを思ふにも はなれがたきは都なりけり
ひとりみをきて,かへりまかりなんずるこそあはれに,いつかみやこへはかへ
るべきなど申ければ
1098 柴のいほのしばしみやこへかへらじと おもはんだにもあはれなるべし
と西行はひとり柴の庵に留まることを決めつつ詠っている。そして仏道精進したの
ち,翌年都へと戻っている。
目崎氏21は,「この修行の動機ないしは目的」を「重要視」されていて,三好氏
の見解に異論はないとしたうえで「展墓と巡礼のいずれがより直接かつ重要な動機
ないしは目的であったかと言えば,私は前者であろうと思う。なぜならば,それは
単に崇徳院への追慕の念に促されたといったものではなく,院の怨念を慰撫・鎮定
するという深刻な使命を見るべきだからである」と種々の資料を用いて考証された。
たしかに,在俗時代からの院と西行とのつながりを考えれば,展墓のもつ意味の大
きさは容易に想像ができる。しかし,山田昭全氏が『西行の和歌と佛教』22のなか
で書かれている,「高野山中心時代の前期に積んだ真言密教研鑽の成果が,彼の大
師信仰を加速した」ということを考えても,二つの目的に軽重をつけること自体む
ずかしいことのように思われる。日によって,時によって,心境によって大事なる
ふたつのものの間で絶え間なく揺れ動くものとはそういうものではないだろうか。
6.高野山蓮華乗院勧進奉行
西行が四国旅から戻った頃の時勢といえば,平清盛が仁安二年(1167)に太政大
臣に就任して平家が最盛期を迎えているといったところであった。
そのようななか,
西行は治承四年(1180)頃に伊勢へ移住するまでのおよそ十年間を再び高野山を基
盤として暮らした。
この高野中心時代の終盤における西行の出来事としては,蓮華乗院の勧進奉行が
ある。鳥羽法皇御追善を目的として,皇女五辻斎院頌子内親王は大義房賢宗に高野
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山東別所に蓮華乗院の建立を命じたのだが,賢宗が半ばにして絶命したことで,そ
のあとを受け継ぐこととなったのが西行であった。その大役を仰せつかることにな
ったのは,かれが高野に暮らしていたこともあるがそれだけではない。この五辻斎
院頌子内親王の母方の祖父が,西行の旧主である徳大寺実能だったことが大きい。
そして安元元年(1175)にその院宣を全うし,蓮華乗院が創建されたと『紀伊続風
土記』に残っている。また二年後の治承元年(1177)には,この蓮華乗院を高野の
中心である壇上に移建し,宝憧院谷にあった蓮華乗院も同様に壇上に移建した。高
野を生活の基盤にするようになっておよそ三十年,西行六十歳のときである。
後述するが,西行は重源からの依頼を受け東大寺再建のための勧進として,再度
の陸奥の旅に出ることになるのだが,それとともにこの高野山蓮華乗院の勧進もか
れの生涯における史実として残っている。そして,この「勧進」に注目した五来氏
は西行像についての新たな見解を発表されたのである。
五来氏は『高野聖』において,西行が世に広くいわれているような「歌聖」では
なく「初期高野聖」であると主張したのである。つまり,
「五十年にわたる出家生活
の,前十年と後十年をのぞいた円熟の三十年間を高野の聖として隠遁と回国を勧進
にすごし,その副産物として多くの作歌をのこした」23と考えられたのである。西
行の隠遁人生の一義的な目的は「勧進」であって,それに付随してえられる産物と
して「作歌」があったというのである。この説に対しては諸家からの反論があり,
その点においてもそれまでの西行研究に一石を投じたものであった。たとえば,石
田吉貞氏は『隠者の文学―苦悶する美―』
「人間西行―勧進聖説について―」24のな
かで,五来氏の挙示したものは旧主徳大寺家,そしてその関係における皇室との間
の西行独自の人間関係による特殊な「勧進聖の仕事」などであって,
「普通の世俗的・
職業的な勧進聖とは,どうしても考えられない」と反論された。それに対して目崎
氏25は,この両者の説が「ともに書物の性質上十分な論証がおこなわれていない」
としたうえで,五来氏の列挙された十項の論を精緻な検証を重ねたうえで否定され
た。
VI
第四期「伊勢河内時代」
1.伊勢への移住とその生活
西行は三十歳の頃よりおよそ三十年にわたって居を構えていた高野を下り,治承
四年(1180)六十三歳の頃から伊勢へと移り住んだ。その根拠となっている作品に,
―54―
中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(下)
――隠遁者西行,その生涯からみる死生観――
福原へ都うつりあるときこえし比,伊勢にて月哥よみ侍しに
435
雲のうへやふるき都に成にけり
すむらん月の影はかはらで26
の一首がある。平清盛によって安徳天皇,後白河そして高倉の二上皇を奉じて福原
遷都が敢行されたのが同年六月であることからそれがわかる。この年は,以仁王の
平家打倒の令旨を奉じて源頼政の挙兵,源頼朝の伊豆での挙兵,源義仲の信濃での
挙兵,そして平維盛と頼朝による富士川の戦と,源平争乱の火蓋が切って落とされ
たときであった。
この伊勢という地には,出家した後に幾度か訪れていることが,年時は特定でき
ないながらも作品からうかがうことができ,西行にとっては親しみのもてる地であ
ったことが推察できる。殊に,出家直後に修行のために赴いたのであろうと思われ
る歌がある。
世をのがれて伊勢のかたへまかりけるに,すゞか山にて
728
すゞか山うき世をよそにふりすてゝ
いかになり行わが身なるらん
そして,
新宮より伊勢のかたへまかりけるに,みきしまにふねのさたしける浦人の,く
ろきかみはひとすぢもなかりけるをよびよせて
1397 としへたるうらのあま人ことゝはん 波をかづきていくよ過にき
1398 くろかみはすぐるとみえし白波を かづきはてたる身にはしれあま
の二首では熊野への修行に際し新宮から伊勢に入ったことを物語っている。
このように縁があったとはいえ,なぜ西行がこのタイミングで伊勢という地を選
び長期滞在をしようと思ったのかという諸説ある動機を,目崎氏は『西行の思想史
的研究』27において整理されたうえで持論を展開された。まず,川田順・窪田章一
郎・久保田淳三氏の説を,
(1)神宮祠官荒木田氏の存在(川田・久保田)
(2)高野山に対する失望(川田・窪田・久保田)
(3)本地垂迹思想による神宮崇敬(川田・久保田)
(4)源平合戦期の社会的事情(窪田)
―55―
駿河台大学論叢
第49号(2014)
とまとめ,それぞれに首肯すべきものは含まれると前置きしたうえで,(1)につい
ては西行の生活の物心両面を支えるうえでは重要な存在だが,
「西行ほどの強い自己
主張に生きた人物が,荒木田氏の招きだけでついフラフラと動き出したとは考えに
くい」とし,第二次的な動機であると考察された。また(2)については,西行は高
野中心時代もそこにのみ籠っていたわけではなく,京と高野を「往来」していたこ
とを考えれば,
「高野山が厭でたまらなければ」たとえば京などの伊勢以外の場所に
行くこともできたとして,
「高野退去と伊勢移住という二つの事実は直接結び付くも
のではない」とした。そして(3)については,
「神宮崇敬」は伊勢に入ったのちの
七年間で「本格化したものと考えられる」ので,
「動機としてよりも,むしろ在住に
よって深まった物心両面への影響」とされた。
(4)については,
「源平合戦の「社会
的事情」は京においてこそ深刻」だったわけで,窪田氏のいう「源平争乱期に入っ
た社会的事情」が「延暦寺・円城寺・興福寺のみではなく,高野山,熊野までも治
承四年後半期に戦争の波にまきこまれるようになった」という
「高野山を念頭に置」
いたとらえ方は適当ではないとした。そのうえで,西行の伊勢在住期間に焦点をあ
て,その期間すなわち文治二年(1186)に伊勢の生活を終えたタイミングが「内乱
の全期間とピッタリ符号している」ことから,伊勢移住の動機を「戦乱からの避難・
疎開であった」とされた。
たしかに目崎氏の考察のように,治承・寿永の争乱が第一の動機であることには
同意できる。しかしここでも稿者には,動機の順位付けということはあまり意味の
あることではないように思われるのである。川田・窪田・久保田三氏の(1)〜(3)
が動機であったということも量質ともに,
「社会的事情」と同等のものであると想像
する。いや,同等・同質・同量ということすらも不適当かもしれない。計るべきも
のでも,計りうるものでもないといった方がより近いかもしれない。
そのような複雑に去来した動機の結果として移住した伊勢であったが,ここでも
草庵を転々と構えていたことが作品から判断することができる。しかし,地理的に
ではなく心情的な中心には伊勢神宮があったと思われる。そのパトロン的な存在と
なった荒木田家とのつながりは,伊勢時代の基盤となるものであった。
荒木田家は内宮祠官を勤める家で,歌人を多数輩出した家でもあった。西行との
関わりをもったのは氏良・満良兄弟である。そして,この荒木田氏などの神官たち
とのサークルを中心に歌交をつづけつつ,晩年の作となる歌を多数残している。ち
なみに弟の満良は,後に出家して西行の弟子となって蓮阿と名乗るようになり『西
行上人談抄』を残すこととなる。
―56―
中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(下)
――隠遁者西行,その生涯からみる死生観――
また文治二年(1186)に,二度目の陸奥旅に向かうまでの伊勢時代に,家集を整
理・編纂する作業にも没頭していたと考えられている。なかでも,陸奥旅から戻っ
たあとの最晩年に伊勢内宮外宮の両宮に奉納することとなる,西行の歌人人生の集
大成ともいえる『御裳濯河歌合』
『宮河歌合』の編纂作業には相当の労を費やしたと
思われる。この『両宮歌合』は,平安のはじめのころから貴族社会において競技と
して行なわれてきた歌合とは異なり,己の歌二首を番えるという形態をとる自歌合
である。西行の生みだしたものではないが,それまではあまり見ることのない形態
であった。しかしこの歌集を境にして,後鳥羽院・良経・慈円・俊成・定家・家隆
なども自歌合に取り組み,鎌倉期にかけて盛り上がりをみせることとなった。
『両宮歌合』は,ともに三十六番からなる七十二首の撰集である。西行は,貴顕
でもなく北面・左兵衛尉という卑官で出家し,その後も高僧の地位をえるような人
生を送ってきたわけでもないことから,中央歌壇には参加しようにも叶わない身分
であった。もちろん,出家したかれの思いから想像するに,そのようなことはまる
で望まずに,在野の歌人として観念的な作歌ではなく実感の作歌によって,これま
での人生を積んできたと思う。よって,狭い人間関係による小さなサークルでその
腕前を披露することはあっても,所詮その範囲での知名度であり,その範囲での評
価であったといえよう。したがって,晩年になりその経年成長してきた作歌能力へ
の自負心を形にすることや客観的な評価を把握することが,この歌集編纂の目的の
一つであったと思われる。しからば,三十六番の構成から撰ぶべき作品の内容・レ
ベルまで,渾身の力を込めたことであろう。結果としては,神祇歌ではじまり,四
季歌・恋歌・釈教歌・賀歌と並べ,最後にまた神祇歌となる構成に落ち着いた。と
はいえ,この時期にどの程度の編纂ができていたかは判然としないが,南北長期の
連歌師坂十仏が『伊勢太神宮参詣記』において,西行が庵を結んでいた安養山を訪
れたときのことを記したなかに,
「宮河の歌合も,この所にてあつめけるとぞうけた
まわる」の文があることから,ある程度の形にはできていたと思われる。そして,
伊勢時代の終わりとともに陸奥の旅に出立し,その後帰洛してからこの歌集を完成
させ,『御裳濯河歌合』は俊成に,
『宮河歌合』は定家に,その判を依頼したのであ
る。
そして,その俊成に判を仰いだ『御裳濯河歌合』三十六番左として,
71
ふかく入て神ぢの月をたづぬれば またうへとなきみねのまつ風28
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駿河台大学論叢
第49号(2014)
の一首があり,そこには詞書は付されていないのだが,『西行上人集』には,
高野山をすみうかれてのち,伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに,大神宮の御山
をば神千山と申,大日の垂迹をおもひてよみ侍りける
という詞書が残されており,この一首がまさに晩年の伊勢時代に作歌されたもので
あることが見てとれる。ちなみに,
『御裳濯河歌合』での俊成の判詞は,「ひだりの
哥は,心ことば,ふかくして,愚感,難仰」とあり,のちに『千載集』に採られた
十八首のうちのひとつとして撰んでいることからも,
その評価のほどがうかがえる。
また詞書にもあるように,伊勢における西行の本地垂迹への意識の高まりは,
「お
ほかた,哥はすきのみなもとなり」29と,一種境地に立てたような言葉を残すほど
に作歌に命をかけてきた人生と,高野山での仏道修行,熊野三山入峰,旅という修
行を重ねてきた人生という,すなわち歌道と仏道の共存,融合の末にたどり着いた
西行にとっての神仏習合といえるかもしれない。これ以外にも,神仏習合思想のも
とに詠まれている作品は散見される。そのうちの一首が,
伊勢にまかりたりけるに,大神宮にまいりてよみける
1223 さかきばに心をかけんゆふしでゝ おもへば神もほとけ成けり
である。
このようにおよそ六十代を過ごした伊勢時代は,「自ら自由をえらんで自由の中
に方向を見失い,長い間迷ったり苦しんだりして」30歩んできた人生において,そ
の思想も作歌もいよいよ集大成に入ったという時代であったといえよう。
そして,その伊勢を離れる契機となった二度目の陸奥旅へと向かうのである。
2.再度陸奥の旅
源平争乱を沈痛な思いで受け止めながらも,わが境涯を安定させたる伊勢の地を
去り,生涯最後の旅となる二度目の陸奥へ出立したのは,文治二年(1186)齢六十
九のときである。初度のそれから数えて,四十年の年月が流れていた。その老躰を
酷使して向かわねばならないのには,相応の目的があった。逆説的にいえば,その
ような目的が発生しなかったのであれば,これほどまでに充実感をえていた伊勢の
地を離れることはなかったのかもしれない。
―58―
中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(下)
――隠遁者西行,その生涯からみる死生観――
平重衡による南都焼き討ちにおいて焼失した東大寺再建のための沙金勧進依頼,
それが目的であった。それは東大寺の重源上人に請われてのことであった。しかし,
目崎氏31は「重源の懇請が動機」だったことよりも,「平家一門とかねて浅からぬ
関係をもっていた西行はその南都焼討の罪業に対して無関心たりえず,東大寺再興
勧進によって平家の菩提を弔う」ためという,より積極的な目的が内面にあったの
ではないかと考えておられる。北面時代からの平家とのつながりを考えれば,全面
的に首肯できる見解である。
出立して,遠江国にある山を目にした際に詠まれた西行歌の代表作がある。
あづまのかたへ,あひしりたる人のもとへまかりけるに,さやの中山見しこと
の昔に成たりける,思出られて
475
年たけて又こゆべしと思ひきや
命なりけりさやの中山32
詞書の「あひしりたりける人」は,これから沙金勧進を依頼する奥州藤原秀衡の
ことである。この歌は,まさに前言を裏付けるような一首であろう。老境に達しえ
て,それを数寄よりも実感として詠んでいるところに若かりしころには表現しよう
のない奥深さが感じられる。しかし残念なことに,この再度陸奥の旅で詠まれたと
確定できるものは,『新古今集』に撰入された次の一首のみである。
あづまの方へ修行し侍りけるに,ふじの山をよめる
1613 風になびくふじのけぶりのそらにきえて ゆくゑもしらぬわが思哉33
安田章生氏は『西行』34のなかで,この歌を「一切は空であること」そして「長
い人生の旅路の果て近く,「行方もしらぬ」そのままに,澄明で平安な世界に,西
行の心は同化していこうとしていた,ないしは同化していた」と解釈しておられる
が,まさにそれ以外の解釈は当てられないものであると思う。それもそのはずで,
西行はこの一首を自讃歌の第一としていたと『拾玉集』において慈円は書き記して
いる。
その後も旅をつづけ,
同年八月十五日には鎌倉に入り頼朝に謁見していることが,
『吾妻鏡』文治二年(1186)八月の条に記されている。それは,鶴岡八幡宮に参詣
した頼朝が鳥居のあたりを徘徊している老僧に会うことからはじめられている。そ
の老僧が西行その人だとわかると,営中へ招して弓馬のことならびに和歌のことつ
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駿河台大学論叢
第49号(2014)
いて談じようとしたのだが,西行は「秀卿朝臣以来九代」伝わってきた「兵法焼失」
してしまったので「皆忘却了」,歌については「僅作三十一字許也」なので「全不
知奥旨」と答えた。しかし頼朝も諦めず尋ねたことで,結局は弓馬兵法についての
仔細な話となり終夜に及ぶこととなった。そして,翌日の午剋に「銀作猫」を賜わ
って退いたのだが,それを門外で遊んでいた子どもに与えて,その足で平泉を目指
したようである。
およそ四十年ぶりとなる平泉での行動についての資料は見出されていないので,
どのようなことがあり,どのような心持ちで,どのようなところを回ったのかは判
然としない。しかし三十歳頃の頑健な肉体で旅した,それも数寄心の赴くままに過
ごした奥州と,老躰には困難な道程を踏破してたどり着き,秀衡と面会し任務を果
たしたあとに感じる奥州とは,まるで異なる感懐をえていたのではないだろうか。
それから翌文治三年(1187)に帰洛している。そして同年十月二十九日に,陸奥
で再会したばかりの秀衡が没する。その二年後文治五年(1189)には,頼朝の泰衡
追討により奥州藤原氏は滅ぼされ,天下統一がなされた。これらの報せは,七十を
越え己の死さえも近づいてきていた西行には一入の悲歎をもたらしていたであろう。
3.千載集撰入と歌論
西行が再度の陸奥旅から帰西した翌年の文治四年(1188)には,十八首を採用さ
れることとなった『千載集』が奏覧となった。西行寂滅の二年前七十一歳のときで
ある。これは寿永元年(1182)に後白河院から撰集の宣下があり,俊成が撰進した
勅撰集であった。このころ歌壇の中心は,藤原清輔から釈阿俊成の御子左家となっ
ていた。中央歌壇とは一線を画していた西行にとっては,世に作品を送り出すには
最適な人物が歌壇の長となっていたことになる。家柄も,身分も,家族も捨て出家
した西行にとって,歌を捨てられなかったこと,歌稿を捨てなかったことは隠遁者
の思想としてはなかなか融合し難いものであったのか,それとも融合しえていたの
かという思想観については次の研究課題として本稿での追究はしないが,少なくと
も『千載集』へ撰入されることを願っていたことは推量できる。それを想起させる
のは,西行が『千載集』の勅撰資料として撰者俊成へ歌集を送り届けているという
行為である。それは『山家集』のみならず俊成の『長秋詠藻』
『続拾遺集』に残る応
答歌からも知ることができる。
左京大夫35俊成,哥あつめらるゝと聞て,哥つかはすとて
―60―
中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(下)
――隠遁者西行,その生涯からみる死生観――
1239 はなゝらぬことのはなれどをのづから 色もやあると君ひろはなん
かへし
俊成
1240 世をすてゝ入にし道のことのはぞ あはれも深き色もみへける
この応答歌については,研究者によっては,
『千載集』以前の俊成の私撰集のため
に送った自家集のことをいっているという説もあるのだが,いずれにせよ撰入を目
的としてこのような行動をとっていることに変わりはない。ちなみに,西行と俊成
のつながりはいつからはじまったものなのかは定かではないのだが,徳大寺家・常
磐家を通じてのものであろうことは諸家の一致をみるところである。俊成は西行の
四歳年長というほぼ同世代であり,西行が在俗時代に随身として仕えていた徳大寺
実能の子公能の妻が俊成の妹となる。さらに,大原の三寂寂超(為隆)が出家した
ときに残された妻の美福門院加賀を妻とし,その間に定家をもうけた。のみならず,
寂超の妹となる為忠の娘も娶っているということで常磐家にも非常に近しい人物な
のである。それもあってか,三寂末弟の寂然や同行西住などとのサークルにも参加
していたことから,西行との歌をとおしての交友が親密であったことがわかる。も
ちろん,その交友関係のよしみだけで『千載集』に十八首が採られたわけではない
が,三十四歳のときに『詞花集』によみ人しらずとして一首入撰してからおよそ四
十年が経過し,余命をも直視せねばならなくなってきたころに,円位法師という名
で採られたことは感慨深いものがあったはずである。以下に,その十八首を引いて
おく。
69
おしなべて花のさかりになりにけり
266
おほかたのつゆにはなにのなるならん
やまのはごとにかゝるしらくも
たもとにおくはなみだなりけり
よをそむきてのち修行し侍りけるに,海路にて月をみてよめる
515
わたのはらはるかになみをへだてきて
みやこにいでし月をみるかな
同行上人西住,秋ごろわづらふことありてかぎりにみえ侍ければよめる
602
もろともにながめ/\てあきのつき
ひとりにならんことぞかなしき
西住法師みまかりけるとき,をはり正念なりけるよしをきゝて,円位ほうしの
もとにつかはしける
603
寂然法師
みだれずとをはりきくこそうれしけれ
さてもわかれはなぐさまねども
このよにてまたあふまじきかなしさに
すゝめし人ぞこゝろみだれし
返し
604
―61―
駿河台大学論叢
873
第49号(2014)
しらざりきくもゐのよそにみし月の
かげをたもとにやどすべしとは
874 あふとみしそのよのゆめのさめであれな ながきねぶりはうかるべけれど
925
ものおもへどかゝらぬ人もあるものを
あはれなりける身のちぎりかな
月前恋といへるこゝろをよめる
926
なげゝとて月やはものをおもはする
かこちがほなるわがなみだかな
寒夜月といへるこゝろをよみ侍ける
1006 しもさゆるにはのこのはをふみわけて 月はみるやとゝふ人もがな
月歌とてよめる
1020 こんよにはこゝろのうちにあらはさん あかでやみぬる月のひかりを
よをのがれてのち,しらかはの花みてよめる
1062 ちるをみてかへるこゝろやさくらばな むかしにかはるしるしなるらん
花のうたあまたよみ侍りけるとき
1063 花にそむこゝろのいかでのこりけん すてはてゝきとおもふわが身に
1064 ほとけにはさくらのはなをたてまつれ わがのちのよを人とぶらはゞ
1146 あか月のあらしにたぐふかねのおとを こゝろのそこにこたへてぞきく
1147 いづくにか身をかくさましいとひいでゝ うきよにふかき山なかりせば
寿量品のこゝろをよめる
1228 わしのやま月をいりぬとみる人は くらきにまよふこゝろなりけり
高野の山をすみうかれてのち,いせのくに二見浦の山寺に侍けるに,太神宮の
御山をば神ぢやまと申,大日如来の御垂迹をおもひてよみ侍ける
1275 ふかくいりてかみぢのおくをたづぬれば またうへもなきみねのまつ風36
如上,その俊成には,
『千載集』奏覧の同年に『御裳濯河歌合』の判を依頼してい
る。多用であるうえに,出家の身であることや己の齢のことなどもあり,その時期
は判の依頼を断っていた俊成であったが,
『御裳濯河歌合』の一番の判に際してそれ
を引き受けたいきさつが長文で述べられている。それには「むかしより互いに己を
知れるによりて」
「むかしの芳契は旦暮忘るゝことなし」と昔からの親しい間柄であ
ったことが込められている。そして西行はその最晩年にあって,自らの作品がどの
ように受け入れられ,評価されるものであるかを知りえる機会として,その判を心
待ちにしていたと思われる。それは俊成の子定家に託した『宮河歌合』においても
同様であった。
俊成はその好意によって早々に加判して返したのであるが,文治三年(1187)に
―62―
中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(下)
――隠遁者西行,その生涯からみる死生観――
はまだ二十六歳の若さであった定家にとっては荷が重いとみえて,判を終えるまで
に二年の月日がかかっている。老い先長くない西行は,このころすでに河内国の弘
川寺に移り長く床に就くようになり,幾度かの督促を定家に申している。定家もそ
のような西行の容態を知り,なんとか完成させ届けるに至ったのは入滅前年の文治
五年(1189)八月のことであった。そのときのよろこびの心情を,西行は『贈定家
卿文』として書き送っている。
西行の晩年期に当たる伊勢河内時代には,この定家をはじめとした次世代の歌界
を担っていくこととなる若者たちとの歌交が急激に増えた時期でもある。後年西行
の弟子となり『西行上人談抄』を残した蓮阿とその兄氏良を中心とした荒木田氏の
サークルもその一つであったが,それ以外にも,
『二見浦百首』を詠むことを西行に
勧められた良経・寂蓮・家隆・隆信・公衡などがいた。そして,高僧として名を残
すこととなる慈円・明恵との交友もあった。彼らに対して,自身の歌論を論じてい
たことが『西行上人談抄』からみてとれる。
哥はいかやうによむべきぞと申しかば,上人いはく,和哥はうるはしくよむな
り。古今集の風躰を本としてよむべし。中にも雑部をつねにみるべし。(中略)
おほかた,哥はすきのみなもとなり。心のすきてよむべきなり。住吉の明神も
それを色/\に感じ給なり。したがひて太神宮の神主は,心きよくすきて和哥
をこのむべきなり。御神よろこばせ給べし。抑,哥はさきにいひつる両首の哥
のさたにて心えつべし。貫之が哥のやうに,させることばのよせもなくいひな
がすべし。たゞし,さればとて,よりこむことばのよせをよむまじとにはあら
ず。よからんをばよむべし。(中略)おほかた,諸道このむこと,その心ざし
ひとつなり。侍従大納言のありしは,まりこのむは,おもひかけぬ木の本にた
ちよりても,この枝のこずゑのまりのながれんには,いかにかたつべきとあむ
ずる也。哥このむもさやうに思べし。又彼大納言のありしは,をのれは一千日
まりけたるなりと。雨のくだる日は大極殿,又所労の時はかきおこされて,あ
しにまりをあてしなりとありき。それほどに心ざしあらんには,哥もなにかあ
しからん。猶たゞ行住坐臥に心をなすべしといはれしなり。
(中略)むかし上人
のいはれしは,つねに心すむ故に悪念なくて,後世をおもふもその心すゝむな
りといはれき。此ことまことなり。蓮阿満七十のとし,いまは余念なしと思ひ
て,家をいでゝ念仏門にいりしより,専一向に浄土をもとむるに,和哥をこの
みし心にて道心をこのめば,まことに発心すゝみやすかりけり。37
―63―
駿河台大学論叢
第49号(2014)
などと書かれている。さらに,『明恵上人伝記』には,
西行法師常に来りて物語して云はく,
「我歌を読むは,遥かに尋常に異なり。華・
郭公・月・雪,都て万物の興に向ひても,凡そ所有相皆是虚妄なる事,眼に遮
り耳に満てり。又読み出す所の言句は,皆是真言に非ずや。華を読めども実に
華と思ふ事なく,月を詠ずれども実に月と思はず。只此の如くして縁に随ひ興
に随ひ読み置く処なり。紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かゝやけ
ば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本,明かなる物にも非ず,又色どれ
る物にも非ず。我又此の虚空の如くなる心の上において,種々の風情を色どる
と云へども,更に蹤跡なし。此の歌即ち是如来の真の形躰也。去れば一首読み
出でては一躰の仏像を造る思ひをなし,一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふ
るに同じ。我此の歌によりて法を得る事あり。若しこゝに至らずして妄りに人
此の道を学ばば,邪路に入るべし」と云々。38
とある。
また慈円は,
「先和歌ヲ御稽古候へ。歌御心エナクハ,真言ノ大事ハ,御心エ候ハ
ジ」39と真言の大事を請おうとしたときに,このように諭されたと『沙石集』には
残っている。これらの伝がどこまで信に足るべきものかはさておき,晩年の西行に
とって歌道と仏道の深い層での融合,結びつき,連関というものが一つの極みに達
しつつあり,それを伝承することに力点が置かれるようになっていたとみることは
できよう。人間観や死生観などの西行の思想を考察するうえでは,重要な時期とな
ることは間違いないところであろう。
4.入滅と伝説
如上,
『宮河歌合』の加判が定家より届けられた文治五年八月から半年後の建久元
年(1190)二月十六日,河内国弘川寺で西行は七十三年の生涯を閉じた。二十三歳
で出家してから五十年の歳月が経っていた。その最期は,あまりにも有名な歌とと
もに現代まで語り継がれている。
77
ねがはくは花のしたにて春しなん
―64―
そのきさらぎのもちづきのころ
中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(下)
――隠遁者西行,その生涯からみる死生観――
山家集に残るこの一首は,作歌年時は不明ながらも辞世歌でないことは考証され
ているところだが,それ故に西行の伝説がはじまったともいえる。叶うのであれば
釈迦入滅の日に桜の下にて死にゆきたい,という自身の願望が現実のこととなり,
残された人々がそれを予言めいたこととしてとらえるようになったことが,後世に
語られる代表歌となったなによりの所以である。その感歎,驚歎ぶりは,俊成・定
家・慈円などがこの一首に呼応して詠んだ歌が物語っている。ここではその歌だけ
を拾っておく。
ねかひおきし花のしたにてをはりけり
はちすのうへもたかはさるらん
(長秋詠藻)
もち月の比はたがはぬ空なれど 消えけむ雲の行方悲しな(拾遺愚草)
君しるやそのきさらきといひをきて ことはにおへる人の後の世(拾玉集)
そうして伝説的な臨終を迎えた,生前は地下の歌人であった西行の作品が,その
花を咲かせることとなるのは,死後十五年を経て奏覧された後鳥羽院勅撰の『新古
今集』への九十四首の撰入にある。これは集中最多の採用数であった。実質的な撰
者であった後鳥羽院がどれほど西行を賞賛していたかは,
『後鳥羽院御口伝』にみて
とることができる。
西行はおもしろくて,しかも心もことに深くてあはれなる,有難く出来がたき
かたも共に相かねて見ゆ。生得の歌人とおぼゆ。これによりておぼろげの人の
まねびなんどすべき歌にあらず,不可説の上手なり。40
「生得の歌人」
「不可説の上手なり」とまで言わしめたのである。没後に訪れたそ
れらの評価や逸話がたちまちに言い伝えられることとなり,それらが『撰集抄』
『西
行物語』
『西行物語絵巻』などを生みだし,生前自ら進んで歌壇の圏外に身を置いて
いた遁世歌人が,史上名だたる歌人たちの中心,歌壇的存在として扱われるように
なっていく礎を築くことになったのである。
VII
結語
以上,(上)(下)にわたり西行にまつわる伝とそれに対応する作品を,その社
会的背景と照応させながらクロノロジックに追うことで,「人間」西行の骨格とな
―65―
駿河台大学論叢
第49号(2014)
るものを形成してきた。それを進めるにあたり,これまでの諸家による西行研究で
概ね採られている五期時代区分において,三期・四期に分かれる高野時代をひとつ
にまとめて三期とし,四区分として行なってきた。
序につづく二章において,その生涯区分説についてからはじめ,西行の自伝他伝
を含め残存する限られた文献,西行の系譜によって,「人間」西行の大枠を形成す
る土台とした。そして三章では,二十三歳にして出家するまでの在俗時代をその出
家動機説に関わりをもつとされている人物に焦点を当てたうえで追った。続く四章
では,出家直後のまだ隠遁生活に慣れないなかで庵を結んで閑居した様子を,地理
的な観点を軸にみていくとともに,人生におけるはじめての長途の旅であり,次の
高野時代へとつながる契機となった初度陸奥の旅について言及した。その高野での
三十年間という生活を,修行と勅撰集撰入,保元の乱に端を発した崇徳院の不遇と
その慰霊のための四国旅,そして高野時代晩年の勧進奉公を取り上げて五章でたど
った。六章では,それまでの躰も心も揺れ動きながら出家の意味を,隠遁の意味を
探った時代から趣の変わった晩年期を伊勢移住と再度の陸奥行を挙げてみてきた。
その所々で,「人間」西行にかかわる思想的なことに言及してきたが,あくまで
も本稿の主旨はその骨格・大枠づくりであったので内奥には立ち入ることはしてい
ない。そしてこの大枠をより「人間」西行の内奥へと進めるためには,出家以前の
在俗時代における社会的地位が出家後五十年間において,歌人として,仏者として
どのような変遷をたどったか,そしてそれを立証するための歌境と仏道の展開の考
証が必要となってくるであろう。
歌境の展開ということになれば,家集における四季・離別・羈旅・賀・恋・雑・
釈教・神祇といった歌の分類ごとの検討が必要になる。仏道のそれとなれば,高野
や熊野,大峰などの修行も含めて家集のみならず他伝の書を追究せねばならない。
そして最終的に「人間」西行の内奥にたどり着くためには,その思想を可変不変双
方の観点から検討を進め,出家前の思想と出家後の移り変わりのなかで変容したも
の,また不動だったものに迫らねばならない。それに迫る手だてとしては,本稿で
形成した大枠に照合させたうえで,作品の解釈を構築するということになるであろ
う。その作品の構築を分類ごとに試みることと同時に,作歌年時を推測しながら経
年的な構築も行い,その二つの構築群を乗ずることで考察を深めていかねばならな
いであろう。
少なくともそれら今後の課題を明確にすることにおいては,本稿の執筆意義はあ
ったのではないかと思いたいところである。
―66―
中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(下)
――隠遁者西行,その生涯からみる死生観――
注
1
窪田章一郎『西行の研究―西行の和歌についての研究』174 頁 東京堂出版部,
1961
2
五来重『高野聖』 角川書店,1984
3
目崎徳衛『西行の思想史的研究』147−148 頁 吉川弘文館,1978
4
本稿に引用した脚注の付かない西行歌抄及び歌番号は,久保田淳編『西行全集』
「山家集」による。
5
久保田淳編『西行全集』
「西行和歌集成(勅撰和歌集)」からの引用。『詞花集』
(雑下,371)
6
とはいえ,
『新古今集』については,西行の死後十五年が経ったあとのものであ
ることから,生前よりも没後にその評価は急転したように思われる。
7
『保元物語』では,崇徳側でも源為朝が夜討ちを進言するも頼長に却下されたと
残る。
8
『日本古典文学大系 31』
「保元物語 平治物語」181 頁 岩波書店,1971
9
吉本隆明『西行論』II「武門論」 講談社,1990
10
『日本古典文学大系 84』
「古今著聞集」94 頁 岩波書店,1974
11
熊野から吉野へ向かう道で大峰に入ることを順峯,吉野から熊野への向きを逆
峯という。
12
前掲書(目崎)213 頁
13
『新編国歌大観(第一巻勅撰集編)』「金葉和歌集」152 頁 角川書店,1983
14
前掲『日本古典文学大系 84』「古今著聞集」93−94 頁
15
白洲正子『西行』118−119 頁 新潮社,1996
16
佐藤正英『隠遁の思想』203 頁 筑摩書房,2001
17
窪田氏は『西行の研究』において 259 頁から推定歌を含め四十二首を挙げてい
る。
18
三好英二『西行歌集』下 大日本雄弁会講談社,1948,前掲書(目崎)226 頁よ
り引用。
19
前掲書(目崎)226 頁
20
上田秋成が『雨月物語』の一篇として「白峰」を書いたことは周知のことであ
る。
21
前掲書(目崎)226 頁
22
山田昭全『西行の和歌と佛教(山田昭全著作集)』423 頁 おうふう,2012
23
前掲書(五来)159 頁
24
石田吉貞『隠者の文学—苦悶する美—』136−140 頁 塙書房,1968
25
前掲書(目崎)293 頁
26
前掲『西行全集』「西行上人集」からの引用。
27
前掲書(目崎)第七章「伊勢における西行」
28
前掲『西行全集』「御裳濯河歌合」からの引用。
29
前掲『西行全集』「西行上人談抄」からの引用。
30
前掲書(白洲)257 頁
31
前掲書(目崎)238 頁
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駿河台大学論叢
第49号(2014)
32
前掲『西行全集』「西行上人集」からの引用。
前掲『西行全集』「西行和歌集成(勅撰和歌集)」からの引用。
34
安田章生『西行』225 頁 彌生書房,1993
35
伊藤嘉夫氏が年時を考証したことで,詞書にみえる「左京大夫」は誤りであっ
て「右京大夫」であることがわかった。
36
以上十八首,すべて前掲『西行全集』
「西行和歌集成(勅撰和歌集)」からの引
用。
37
前掲『西行全集』「蓮阿記(内閣文庫本)」からの引用。
38
『明恵上人集』「梅尾明恵上人伝記」151−152 頁 岩波書店,1989
39
『日本古典文学大系 85』
「沙石集」251 頁 岩波書店,1966
40
風巻景次郎『風巻景次郎全集(第 8 巻)中世圏の人間』146 頁 桜楓社,1971
33
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