セガンが批判をしたコミュニズムとは?

1
セガンが批判をしたコミュニズムとは?
学習院大学 川口幸宏
2003 年 11 月頃、我が国のセガン研究の開拓者で権威者のお一人である清水寛先生が「ど
うも納得がいかない。どういうことなのか、一緒に考えてくれないか」と言われたことが
あった。それはセガン最晩年の著書『教育に関する報告』
(1875 年初版)において、セガン
が激しい口調で communist ならびに communism 批判をしている变述箇所であった。彼は
次のように言う。
「もっとも危険な階層」である「communist」が彼らの「奉仕」でやって
きていることは、彼らの規律、道徳を国中に広げることである、と。
セガンはコミュニズムが何たるかは知っているはずである。というのも、1830 年代にコ
ミュニズムの概念を生みだした「家族協会」に、まさにその時に、彼自身が所属していた
からである。しかし、アメリカに渡ってすでに 30 年、アメリカ社会は反コミュニズム運動
で大いに沸き立っていたし(1871 年のパリ・コミューンに対する反対キャンペーンがニュ
ーヨーク・タイムズ紙など有力紙で盛んに繰り広げられていた。パリ・コミューンをコミ
ュニズム運動と断定してのことである)
、セガンが当然その洗礼を受けていてもおかしくは
ない。ましてや彼が命を懸けて進めていた「白痴」教育を、コミュニストたちが妨害・批
判するというような事態がもしあったとしたら、それに対する抗議の意味を込めて厳しく
批判するのも必然であろう。しかし、世に言うコミュニストたちが「白痴」教育の延び広
がりを妨害したという事実などはないから、この可能性は消えていく。
執筆されている内容はきわめて明瞭で、
「宗教」や「宗教団体」が何かにつけて口出しを
する、彼らは人々の間で必要だとされた徒弟学校や作業学校を開いたが、それは人々を教
育することを主目的とするのではなく、安上がりの「労働能力」の獲得や従属関係として
の親子関係を守旧することを狙いとするものに過ぎない、そしてそれを助長したのが「教
育の自由」の名のもとの制度である、という批判である。明らかに修道士会の諸活動に批
判を向けている。それをなぜ communism と言い communist と言うのか。清水先生はそれ
が理解できない、と言われる。修道士会の活動の具体について知っているならば、理解で
きるだろう、というのが私に向けられた問いであった。
セガンが挙げている修道士会が設立した徒弟学校や作業学校の具体について、私はまっ
たく知識はない。しかし、セガンが「幼児期から修道院形式を取る」と述べていることに
大きなヒントを得たように思われた。セガンは修道院を一つのコミューン(共同体)とみ
2
なしたわけである。修道士会設立の諸学校は、その多くを修道院内に、あるいは修道院に
付属して、設置されている。pension(パンシオン)、collège(コレージュ)など中等学校
には初等科が附設され、幼い時から宗教的生活のもとでの寄宿生活が行われていた。この
間の事情を尐し、歴史的に素描しておく。
セガンの認識内には communist は 1840 年代に「策略」を強めはじめ、国家はそれに依
拠した(
「自由な設立」
)が、1879 年に「ようやく目を覚ました」
、とある。
「策略」はアメ
リカ・ヨーロッパに共通にあり、ベルギーとフランスは「ようやく目を覚ました」、と。
ここでまず、考える必要があるのは「自由な設立という覆い」とは何を意味しているのか、
どのような歴史的な事実があるのか、ということである。
「ようやく目を覚ました」と言い、
セガン自身が communitic traps と同時代に生きた、フランスを事例にとって考えてみる。
1833 年にギゾー法が成立し、フランスの最小の行政単位である commune(コミューン)
あるいはその複合体であるコミューン・グループはそれぞれ小学校を必ず設置ずること、
およびそれぞれの小学校に教師を任命し、報酬を支払うことを定めた。フランスの義務教
育が制度して実質的に成立したと評価されている。貧窮者は無償とされたから、部分的に
せよ、義務・無償の初等教育がセットになってフランス社会に誕生したわけである。しか
し、このギゾー法には「教育の自由の原則は保持する」という条件が付いている。ここで
言う「教育の自由」というのは私立学校(エコール・プリベ、エコール・リブル)の設置は自
由である、という意味である。さらに、公教育教師の選任権者に司祭など宗教者が入って
いたことは注目されなければならない。そのことによって、とくに知的教養を持っていな
くても修道士が公教育教師に選任されるという事例は尐なくなかったという。
この時代は、カトリック教は国教ではなかったが「フランス人にもっとも一般的な宗教」
と国法に定めていたように、カトリック教が人々の生活の全面にわたって影響力を持って
いた。それがもっとも強かったのは教育に関してである。教区の司祭をリーダーとして実
質的に担っていたのは修道士会(男女とも)であり、修道士会は共同生活を営んでいた。
非常に厳しい戒律と修養とが求められており、彼らの統制ぶりは、やがて、
「黒服の軍隊」
と言われるようになる。学校教育においてそれがなされていたわけで、詰めこみと体罰と
強制とが日常であった。
公教育が出発したとは言ってもカトリックの影響力はますます増大し、教育界へのカト
リック教の進出はますます露骨になる。そのことが、公教育大臣と同等の権力を持ってい
たウニヴェルシテ(université)の長 - ナポレオン I 世によって設置された、初等教育・中
3
等教育・高等教育を統括する職 - との衝突を生み出すようになる。
カトリック教陣営は 1843 年に「教育の自由防衛委員会」を作り、政府に圧力をかけ、政
権中枢にある保守派(王党派)に支持を受けて、その活動を活発に進めていく-セガンは、
これを、communistic traps と呼んだ-。それらの行為(思潮・運動)は、実質的に近代公
教育を否定し、フランス革命期以前の、すなわちアンシャン・レジーム期の、教会のあら
ゆる権益を、突き進みつつある「近代社会」に適用させようとするものであった。大衆の
覚醒をもっとも怖れたのも彼らである。宗教教育による大衆の徳化こそが当時のフランス
社会における最も重要な政治的テーマとして採りあげ、議論され、その実働部隊として修
道院形式で共同生活をしていた修道士会が大きく力を発揮し始めるのも、この時期である。
1845 年にサルヴァンディが公教育大臣に就任する。彼は、極めて教会に近い立場にあり
宗教教育の絶対必要性を強調した。宗教結社すなわち修道士会など、復古王朝派その他保
守ジャーナリズムが彼を支持し、一方で、ウニヴェルシテ等の大学人、左派及び共和派議
員、共和派ジャーナリズムたちが反対の論陣を張る。初等教育に<連続する>中等教育す
なわち中等普通教育がようやく認識され、実践され始めたのが作業学校等である。中等普
通教育をどのようにしていくかは、
「近代化」にばく進するフランス社会のあり方、人材養
成の根幹に関わることであるから、両者は激しく衝突をした。サルヴァンディら保守派陣
営は、中等普通教育をも視座に入れた公教育の整備を目論み、教育改革に関する委員会を
設置して議論を始める。
サルヴァンディを公教育大臣にいただく教育改革委員会は「教育の自由」をさらに推進
して行くべく、カリキュラムについての議論を開始した。しかし、1848 年の 2 月革命で共
和政が出発することになり、委員会も振り出しに戻る。しかしながら、第 2 共和政の政治
勢力は立憲王制下と大した差異はなく、保守回帰勢力と、それを塞き止め共和政を強めて
いこうとする勢力とがぶつかり合いはするが、結局「共和主義者のいない共和政」をめざ
すティエールらの勢力がヘゲモニーを担う。この政治体制のもとで教育改革委員会が発足
するが、それは、前の委員会をまっすぐに継承するだけであった。委員会の「結論」は 1850
年 3 月に得る。ファロゥ法と呼ばれるものであるが、通称「教育の自由」法である。かの
ヴィクトル・ユゴーの反対演説-「教育は子どもの権利」
「初等教育から社会教育まで無
償」「すべての行政単位に、それぞれの行政段階に応じた学校を国費設置」「教育の完全な
る世俗化」など-は感動的でさえある。法案で言う「教育の自由」とは教会の手で自由
自在に行われる愚昧化教育を意味していた。ファロゥ法の生みの親ティエールの言葉がそ
4
れを象徴している。
「私は数学教師よりも、教会の鐘突男の方が、教師としてふさわしいと
思う」
、と。近代知が民衆を啓蒙することに対する危険視がありありと表れている。何より
も重要なのは、カトリック教による宗教・道徳による「教化」をこそ求めていたし、
「教育
の自由」法はそれを合法的に強化するものとして、その後のフランス社会に機能する。教
師の許認可権を教会、司祭に留まらず、修道士会も担うようになっていったことは明記し
ておかなければならない。つまり、宗教勢力(直接的には修道士会)が、公私の別なく、
学校の管理・運営・教育の実際など、全面にわたってその影響下に置くことになったわけ
である。その「後遺症」は半世紀にわたってフランス社会に覆い被さる(「ファロゥ法」)。
ナポレオン III 世の第二帝政下では、彼が、教会との融和政策をとりながら産業の近代化
を進めるという、まったくナポレオン I 世と同じスタンスで治世を進める。対外拡大戦略も
同じである。まさに、
「プチ・ナポレオン」(ユゴーの言葉)であった。
予想されたように、政治権力が無干渉を決め込む必然的結果として、教会ならびに修道
士会は、我が物顔で公教育をも牛耳る。修道士会を指して言う「黒服の軍隊」という言葉
が生まれたのもこの時期のことである。
一方、教会勢力によって公教育の場から追放された初等、中等教師たちを中心に、「新し
い教育協会」が結成され、教育の大衆運動が行われる。近代社会にふさわしい合理性と自
立性とを兼ね備えた人材育成が、産業界では必要とされていた。また、労働者も貧困と抑
圧からのがれるためにも、近代的知性は必然であった。彼らは、
「教育の自由」法を盾にし
て、私立学校を設立する。初等教育カリキュラムの改革、さらには初等中等教育学校の設
置(「作業学校」等)、女子教育の充実などを進めていく。彼らは、非宗教の、すなわち世
俗の教育といわゆる近代教育のカリキュラムを経験的に作り上げていく。1860 年代には
3000 人規模の大教育運動がしばしば行われたという。それがやがてパリ・コミューンにお
ける教育改革へと発展していくわけである。
パリ・コミューンでティエールは圧勝したし、教会、宗教団体は勢いを復活させるが、
時代は「教育の世俗化」への要求を根強く幅広く強めていた。政府内でも教育改革として
世俗化の可能性を求める声も増加し始める。共和派で植民地主義者のジュール・フェリー
が公教育大臣となって、
「教育の世俗化」と「近代的カリキュラム」の創設が課題となる教
育改革のための委員会が進められ、1879 年に、無償・義務・世俗の公教育制度が進められ
ていくことが決定される。それは、数年次に分けて、漸進的に政策化されるわけである(「ジ
ュール・フェリー法」
)。
5
制度システムとして完成型が見えたとはいえ、子どもたちが完全なる世俗の公学校に通
学できるようになるには、まだまだ時間がかかることであった-。
以上のことから考えると、セガンが 1840 年代のフランスの教育界の支配的な現象を厳し
く批判していたのは、
「教会」
(宗教)ならびに「修道士会」(宗教団体)であり、それらを
闊歩させることによって政治体制として王政に復古させようとしていた「国家」であると、
断言することができる。それは、セガン自身が、フランス・パリで生活し、
「白痴」教育に
携わっていたこと、そして共和政の運動に参加していたことで体感し得た、まさに、彼自
身の身体からにじみ出た communist すなわち修道士会批判であった。
ちなみに、パリ・コミューンに対してセガンが「反対だった」という根拠は、ついに探し
出し得なかったことを最後に指摘しておく。
本稿の結びとして・・・
「友人各位、ご存じない方もおられるかと思いますが、ここにみなさまが参列されるこ
とで敬意を示してくださる私の親愛なる父は、大人になってからの人生を、深く、かつ
常に自由な考え方を持って送りました。彼は無神論者ではありませんでしたが、宗教的
な教義やしきたりはすべて拒んできました。
彼は真実と栄誉を賛美し、彼の生涯はかたくなまでに道徳的原則と同輩たちに対する
愛情によって導かれました。人生についての自身の哲学的考え方を固守する反面、他の
人たちが有する信仰には心から敬意を持っており、私の知る限りでは、知人たちの信仰
を汚すようなことは決してしませんでした。
このような人生の終わりに、彼の遺体を前に家族は宗教的な葬儀を行うことに矛盾を
感じました。このため、私どもは父の古くからの親愛なる友人たちが彼の人格と業績に
ついて、ご列席の皆さまに心からの言葉を述べるという、平信徒の葬儀を行うことにし
ました。
」
(セガンの息子、エドワード・コンスタン・セガン博士によるエドワード・オネジウム・
セガン葬儀の際の挨拶)
セガンは「ローマ」をこよなく愛していたと思われる。セガンの「白痴」教育を絶賛し
たローマ法王の手紙を非常に大切にしていたという逸話がある・・・。言うまでもなく、
セガンは、終生、キリスト教プロテスタントのサン=シモン教徒であることを貫いたのだ。