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 第301回平成27年7月月例会 ① 蒙古襲来考 池田 勝宣
文永の役・・・文永五年(1268)一月、第一回目の蒙古の使者が太宰府に到着して、国書
を手交した。時の執権北条時宗は、若冠十八歳、これを拒否した。翌年も使者を追い返した。文永七
年、日本降伏せずとみたフビライ(第五代皇帝)は、属国、朝鮮高句麗に兵船の建造を命じ、日本遠
征の準備を進めていた。
文永十一年(1274)十月三日、高麗の合浦(がっぽ・鎮海の馬山)を元軍は出発し、総司令官
征東都元帥忻都、副元帥洪茶丘等、合計四万六百人、艦船大小九百隻が、十月五日午後四時頃、対馬
の佐須浦に殺到した。厳原(いづはら・対馬南東海岸)の守護代宗助国は、急報を受けるや、自ら
八十余騎を率い、翌日の二時頃佐須浦に向った。若武者から八十の老人、流刑者までも加わった。激
戦死闘の末、多勢の前の無勢、ついに佐須浜辺において全員壮烈な玉砕を遂げた。十月十四日午後、
壱岐(いき)の北部海岸に押し寄せた。守護代平右衛門尉景隆は一門百余騎を率いて悪戦苦闘の末、
篭城して奮戦したがおよばず、朗従の宗三郎に太宰府に告げさせ、自らは自決、壮絶な最後を遂げた。
続いて、十七日、敵は我が鷹島に侵攻し、生存者二名と伝えられる程の惨禍(さんか)を齎した。
我が軍勢は少弐景資(しょうにかげすけ)が総指揮官、大友・臼杵・戸次・松浦党等の他、数万に
及んだ、死力をつくした防戦であった。しかし、幸いにも其の夜、にわかに博多湾に吹き荒れた逆風
に煽られ、敵船団は多大な損害を受け、敵は退却し、約半月間の戦いであった。
弘安の役・・・文永の役後七年、弘安四年(1281)再び元軍の大軍が来襲した。二軍に分れ、
挑戦より東路軍、蒙漢軍一万二千、高麗軍一万、その他一万七千、計四万二千、艦船九百隻。江南軍
(南宋)は総兵十万、艦船三千五百隻。今度は長期占領に備え、農業具、生活用品を携行してきた。
我が軍は文永の役の経験から、海岸線に石壘(せきるい)を築き、厳重な防衛策を施していた。我
が鷹島も石壘を築いた。
東路軍は五月二十一日対馬侵攻、二十六日壱岐の瀬戸浦に来襲、二島は前回同様の残虐な憂き目あ
わされた。六月六日博多湾に侵入、志賀島の大激戦が展開されたが、我が軍は善戦健闘し、東路軍は
博多上陸に失敗し、六月十三日転じて鷹島にせまった。ところが江南軍が壱岐に向うことを知って、
平戸終結に変更した。一方江南軍は将の交代や伝染病のため出発がおくれ、途中、漁師から得た情報
によって、平戸が無防備と知り、六月末平戸に到着、七月上旬に東路軍も合流した。
元軍の連絡ミスや将の勝手な行動により、我が軍はその隙を突いて、果敢な襲撃を繰り返した結果、
東路軍は志賀島攻略で戦力が半減し、士気が沈んでいた所へ、七月三十日の夜半から大暴風が吹き起
り、翌日も猛威を極め、艦船の大部分は沈没、将兵の多くは溺死の大打撃を受けた経緯となる。後、
鷹島を中心とする松浦党はその後各地に勢力を広げ、その末裔たちは海賊化し、元寇襲撃の恨みをは
らす行動として、今度は倭寇(わこう)となって、朝鮮半島や中国沿岸を荒らしまわったのである。
『鷹島町史』(長崎県松浦市)より。 以上