2014/6/18
目標
当時の東アジアの国家間の情勢を元が「文永の役」
の際に日本から撤退した背景や,「弘安の役」の後,
さらに三回目の侵略計画を企てていたという視点か
ら,元は東アジア全域を支配し,勢力圏を拡大させ
東 ジ 全域を支
勢力 を拡大さ
ようと考えていたことを説明できる。
稲垣 和
聴講生
導入
Q:教科書の絵を見て小学校で学習した鎌倉時代にモンゴル軍が
日本に襲来し,日本の武士たちが戦った出来事を思い出せます
か?モンゴル襲来とはどのようなものだったのでしょうか?
A:二度にわたって日本に攻めてきて,集団戦法や火薬などの武
A:二度にわたって日本に攻めてきて
集団戦法や火薬などの武
器を使い,日本の武士と戦った。
MQ:なぜ元は何度もしつこく日本に攻めてきたのか?
展開② 弘安の役とはどのようなものだったのだろうか?
SQ:なぜ再び元は日本に襲来したのか?
SA:南宋の支配が終わり,さらに東アジア全域にまで勢力圏を拡
大しようと計画したため。
SQ:では,実際に弘安の役では日本を支配することはできたのか?
実際 弘安 役
本を支 する と
きた か
SA:出来なかった。
展開① 文永の役とはどのようなものだったのか?
SQ:文永の役の際に,元軍は二万の兵力を誇っており,集団戦法や火器
を用いて有利な状況にあったにもかかわらず,その時なぜ日本
が降伏する前に元軍は撤退したのだろうか?
SA:日本の実力をはかり,威嚇・牽制するため。
本 実力をはかり 威嚇 牽制するため
SQ:なぜ日本を威嚇・牽制したのか?
SA:文永の役は南宋を侵略する作戦の一環として行われ,一回の侵略で
支配しようと考えていなかったから。
モンゴル軍の兵力
160000
140000
120000
100000
80000
60000
40000
20000
0
文永の役
弘安の役
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2014/6/18
モンゴル軍の兵力
展開② 弘安の役とはどのようなものだったのか?
SQ:なぜ南宋の軍隊も含む,文永の役の7倍もの兵力で侵略を試
160000
みたにもかかわらず,日本を侵略することができなかったの
140000
か?
120000
100000
SA1:日本は,博多湾の海岸に上陸を阻止するための防塁(石築地)を築き,
本は 博多湾 海岸 上陸を阻止するため 防塁 築地 を築き
80000
事前に対策を立てていたから。
60000
SA2:当時は帆船のため,自然の風を動力としているため,艦隊編成を組む
40000
ことは難しいうえに,特定の日に,特定の時間に南宋,高麗,元の軍が
20000
0
文永の役
弘安の役
集結することは難しいから。
構造図
終結
MQ:なぜ元は何度もしつこく日本に襲来したのか?
文永の役(1274年)
MA1:文永の役では,南宋侵略の一環として日本の実力をはかり,
威嚇・牽制するため。
弘安の役(1281年)
元
元
高
麗
MA2:弘安の役では,日本を支配することで,東アジア全域を網羅するほど
日
本
の勢力圏を得ようとしていたため。
MA3:以上のことから,二度にわたるモンゴル襲来と,その後のさらなる侵略
(14万の兵力,
3500艘の船)
(2万7千の兵力)
(南宋)
高
麗
日
本
南宋
計画は,東アジア全域を支配するための計画の一つであった。
元軍の南宋侵略作戦の一環であったた
め,戦法や武器によって元軍優勢であっ
たにもかかわらず,日本から撤退した。
前回の7倍もの兵力を有していたが,当時の船
の性能によって全軍の統率はとれなかった点
や,日本の防御策によって元軍は退却した。
参考文献
<概説書>
◦『週刊新発見!日本の歴史 20号鎌倉時代3』 朝日新聞出版社,2013年。
<理論>
◦近藤成一
近藤成
『日本の時代史9モンゴルの襲来』
川弘文館 2003年。
川弘文館,2003年。
<教科書・資料集>
◦五味文彦 他『新しい社会 歴史』 東京書籍,2012年。
◦川上稔,桃木至郎 監修『最新世界史図説タペストリー』 帝国書院,2008年。
<構造図・板書>
◦松本幸夫 『中学歴史の授業 課題プリント・板書・留意事項』 民衆社,1986年。
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