小松帯刀なくして 明治維新なし 小松帯刀なくして 明治維新なし

小松帯刀なくして
明治維新なし
時に利あらず、
ともに忠に殉じた大垣と会津の魂
やは
大人
状の
植民
あっ
欧
幕末前夜
きていたが 、強 硬 派 の ペリーが 東 洋 艦 隊 の 提 督に
で、
なってからは、
日本の武 力制 圧も辞さないという方 針
し、
に変わった。
ると
ペリー来 航( 1 8 5 3 )により欧 米 諸 国との 軍 事 力の
う通
( 注1)
を唱えたと思っている方
差をまざまざと見 せつけられた幕 府は、
このまま鎖 国
その
があるが、実はまったく逆である。開 国 派 が 幕 府 。薩
を維 持しつづければ 、アメリカをはじめとする欧 米 列
利な
長がこれに反 対 する攘 夷 派であった。薩 摩 藩も長 州
強は、清 国の場 合と同 様に武 力でもって自らの要 求
あろ
藩も欧 米 列 強と戦ったからこそ、攘 夷は困 難と悟っ
を押し通し、
日本を植 民 地とすることがわかっていた。
への
て、百 八 十 度 藩 論を開 国に転 換させ 、欧 米 の 兵 器 、
いわば日本 版「アヘン戦 争 」である。清 =中国は自国
国に
艦 船 、弾 薬 、軍 事 体 制などのす べてにおいて、西 洋
の 国 力を過 信し、勝てるものとして戦 争に及んだが
わっ
化を急 速に推し進めたのであって、幕 府が鎖 国 維 持、
結 果 、イギリス艦 隊をはじめフランス、アメリカ艦 隊
武力
薩 長が開 国 派と診るのは大 変な勘 違いである。
等々に完 膚なく叩きのめされた。結 果、中国 国 土は欧
突っ
米 各 国に分 断され、人 民はひどい扱いを受けた。
まさ
の状
分れて幕 府 内 部は対 立 構 造になっていた。そこに登
に奴 隷 扱いで中国 側の権 利などまったく無 視された。
瞑る
場したのが 南 紀 派 の 大 老 井 伊 直 弼である。井 伊 家
このような 世 界 情 勢を正 確 に 把 握していたのは 、
よく誤 解されて、幕 府は江 戸 初 期より守られた鎖 国
を維 持 せんがため攘 夷
そこに将 軍 継 嗣 問 題 が 絡 み 、南 紀 派と一 橋 派に
かん
ぷ
が 絡んでいた。フランスは幕 府を支 援し、イギリスは
薩 摩 藩を支 援していた 。このような国 内 外 情 勢をま
ず十 分 理 解していただかなければ、
この後、私が書く
和親外交
外交方針
強硬外交
慶福支持
将軍継嗣問題
慶喜支持
(紀伊藩主)
幕政強権主義
井伊大老の独断専行 14代将軍に慶福
(家茂)
を決定
勅許なしに日米修好条約を調印
一橋慶喜
︵薩摩︶︵長州︶
水戸斉昭
島津斉彬
バックにはフランスとイギリスの東 洋での覇 権 争い
※攘夷派
対立構造
︵一橋派︶
尊王攘夷派
「 安 政の大 獄 」である。
幕府独裁派
︵南紀派︶
橋 派 に 徹 底した 弾 圧を加えた 。これ が あの 有 名な
※開国派
井伊大老
大奥
幕臣
やり方は手 ぬるいとして、彼は対 立 する攘 夷 派と一
1
老小
は譜 代 大 名 筆 頭という地 位にあり、歴 代で6 名も大 老
を輩出している家 柄である。阿 部 正 弘 前 老中首 座の
つむ
たも
い知
する
公式合体体制
(土佐)
無勅許条約の調印
尊攘派の反発
非難・攻撃をした
ことも理解が難しいかもしれない。
このような状 況のところに、アメリカという国 が 登 場
してきたのである。アメリカは 1 8 6 1 年 から1 8 6 5 年ま
で 南 北 戦 争をしていたため 、国 家 の 近 代 化 がヨー
げい
ゆ
ロッパに比 べ 遅れていた。アメリカは鯨 油をとるため
47
尊攘派への弾圧
・・・・
強権発動
一橋派の皇族・公郷・諸有司
200人程度
の弾圧
(吉田松陰ら処刑)
安政の大獄 1858∼59
桜田門外の変
直弼暗殺[安政7年3月3日(1860)]
の 長 期 航 海に必 要な食 糧 や 油 等々を補 給してくれ
幕府
(フランスが支援)
る国を求めていた。当初はアメリカも紳 士 的に接して
▲桜田門外の変以前の政局
西南諸藩
(イギリスが支援)
▲薩
魂
やはり幕 府であったはずである。彼 我の武 力の差は
文 化 す べて吸 収しなければ 我 が 国の独 立 性は保て
大 人と幼 稚 園 児 の 程 度 の 違 いがあり、我 が 国 の 現
ないと感じた。
状 の 戦 力で戦えば 必 ず 負け、我 が 国も欧 米 各 国 の
こうして小松帯刀は、全てにおいて世界最強と言わ
植 民 地とされ 清 国 の 二 の 舞 になるの は 明らか で
れたイギリスから兵 器・産 業・航 海 術・新 型 機 械・殖 産
あった。
興 業 等々について英 国の技 術 者を鹿 児 島に招 聘し、
欧 米 列 強 が我 が国の主 権を認めている今の段 階
しょう へい
藩士に西洋の技術を学ばせた。そして藩士を積極的
督に
で、その要 求 交 渉に応じて戦 争を回 避し時 間 稼ぎを
に留 学させた。
これらの土 俵 作りすべてに加え、西 郷、
方針
し、その間に我が国の軍 事 力を高めるのが得 策であ
大久保等を育てたその功績はもっと評価されるべきで
ると老中首 座の阿 部 正 弘は考えた。
もし攘 夷 派の言
ある。彼らも小松帯刀の引立てがなければ、下級士族
力の
う通り、戦 力 差も知らず 無 謀 にも戦っていたならば 、
の彼らが歴史舞台に登場することはなかったであろう。
鎖国
その敗 戦 後は条 約など有り得 ず、自らを主 張 する権
米列
利など 与えられ ず、
日本 人は下 人 扱いされていたで
要求
あろう。日本は中 国と違って国 土 資 源も少なく、他 国
一 方 、長 州 藩も下 関 戦 争で四 国 連 合 艦 隊に完 膚
いた。
へ の 依 存 度 が 高 い 国 柄 である。
もし欧 米 各 国 の 属
なく打ちのめされて、攘 夷 の 不 可 能を思 い 知らされ
自国
国 に 成り下 がったとしたら、日本 の 歴 史 は 大きく変
ていた。敵の砲弾はほぼこちらに命中したが、長州の
だが
わっていたに相違ない。外国の武力を知らず、
日本の
砲 弾は相 手 の 艦 船にさえ届 かなかった。話にもなら
艦隊
武 力があまりに稚 拙であることも知らず、
「 志 」だけで
ぬほど笑 止 千 万であった。
は欧
突っ走っていたと考えると背 筋 が 寒くなる。今の日本
そこで長 州 藩は攘 夷を捨て、百 八 十 度 、藩 論を転
。
まさ
の状況を当たり前のように思い、歴史の転換 点に目を
換。開国により殖産興業を興し、軍事改革のため欧米
れた。
瞑るのは日本人として恥ずかしいことである。
各 国 から武 器を買い、西 洋の戦 略まで学ぼうとした。
のは 、
つむ
1 8 6 3 年イギリスと薩 英 戦 争をした薩 摩 藩 筆 頭 家
老 小 松 帯 刀は、
イギリスの一 部の東 洋 艦 隊には勝て
派
たものの、我 が 国 の 軍 事 力とは大 差 があることを思
これが『 小 松 帯 刀なくして明 治 維 新なし』
とタイトル
に謳った由縁である。
こうして後の政 府の幹 部となる「 長 州ファイブ( 注 2 )」を
イギリスに留学させたのである。
薩 摩 藩と長 州 藩は、幕 藩 体 制( 注 3 )を早く崩 壊させ 、
︵薩摩︶︵長州︶
い知らされた。帯 刀はこの戦いにより、
イギリスと敵 対
統 一 国 家「日本 国 」を建 国しなければ 、外 国の恰 好
するより一 層 の 友 好 関 係を結 び 、産 業 、近 代 兵 器 、
の餌 食となることが自らの経 験を通じて理 解できたの
▲薩摩藩筆頭家老小松帯刀像
▲小松の一番弟子西郷隆盛像
佐)
司
)
援)
48
小松帯刀なくして明治維新なし
時に利あらず、
ともに忠に殉じた大垣と会津の魂
である。攘夷派はまさに「井の中の蛙、大海を知らず」
とする統 一 国 家を創ろうとした。この動きに対して旧
ない
の諺のごとくであった。
幕 府 側が抵 抗して戦ったのが戊 辰 戦 争のはじまりで
えて
ことわざ
問 題は日本の近 代 化の立ち遅れを幕 府自身が 一
ある。
し
番 知りながら、
どうして、自ら主 導 的に殖 産 興 業 、軍
制 改 革 、産 業 の 近 代 化をスピーディに 実 行しえな
かったのかである。
を確
大政奉還と王政復古
15歳
めと
その答えは、幕 府の2 5 0 年に亘る政 治と統 治 体 制
このまま行 けば 幕 府 は 西 国 大 名に武 力 討 伐され
体制
にある。幕 藩 体 制において各 大 名は自分の領 国を独
かねない 程 の 危 機 的 状 況にあった。土 佐 藩 主 山 内
ま
占的に支 配しており、
日本 国という統 一した概 念がな
容 堂は、幕 府の指 導 力の無さには僻 僻していたもの
手を
い。各 藩は独 立 国であり幕 府はそれを統 括していた
の、徳 川 家に対してその 恩 義に報 いることは考えて
川家
だけで、自分たちは徳 川の直 参の家 臣ではないとい
おり、討 幕はするが 徳 川 家は一 大 名として存 続させ
した
う思いが、特に外 様 大 名にとって一 般 的であった。そ
ようと考えていた。
しかし、薩 摩 藩・長 州 藩は徳 川 家
に下
れゆえ幕 府の権 力が 強いうちは従っていたが、それ
の存 在自体が統 一 国 家の妨げになるとして猛 反 対し
保も
が 緩む幕 末ともなると、幕 府 の 命 令などには従わ ず
た。
よって一 旦は公 武 合 体によって政 務を行おうとし
の藩
無 視 するようになった。単なる連 合 国 家だったからで
たが、
これは武 家と公 家との権 力闘 争とも重なって成
の弟
ある。従って、一 致 団 結して欧 米 各 国に相 対すること
功しなかった。
めら
よりも、自らの藩の保身の方を優 先し、大 半の藩 が日
和 見 政 策をとり勝ち側に付こうと考えていた。
へき へき
そこで山内 容 堂は武 力討 伐を考えている薩 摩、長
州を出し抜く形で、将 軍 徳 川 慶 喜に対して「 大 政 奉
ましてや幕末には江戸初期と違い幕府権力も弱体
還 建白書 」を提出した。
この土 佐の建白により慶 喜は
化しており、各大名の同意なしには事が始まらない事
朝 廷 に 対し「 大 政 奉 還 上 表 」を提 出した 。そして
「
態になっていた。従って、幕 命に従わず日和 見をした
1 8 6 7 年 1 0月1 5日、朝 議で受 理 が 決 定され 、その 勅
とを
としても、かつてのように国 換え、お家 取りつぶしなど
許の沙 汰 書が慶 喜に授けられた。自ら解 体し朝 廷に
た今
の強権を発動する力は、
もはや幕府にはなかった。
政務を任せることとしたのである。
譜代
そこで、薩 摩・長 州・土 佐・肥 後の西 国 雄 藩 が中心
これに対して討 幕 派の薩 摩 藩・長 州 藩 両 藩は、そ
よい
に立ち上 がり、煮え切らない幕 府を倒し天 皇を国 主
のようなことをして自らが 消 滅されては革 命にならな
小
いと考え、徳 川 政 権を血 祭りにあげ 武 力 討 伐をしな
ぶ徳
ければ日本の体 制は根 本から変 革できないと考えて
た。
いた。彼らにとって討 幕は必 須 のアイテムであり、徳
であ
川 家の絶 大な影 響 力が 残る事に大 変 危 惧していた。
扱い
徳川家 康が豊 臣 家の滅 亡を目論んだのも、単に武 力
のは
討 伐 することは容 易だが、豊 臣に恩 顧のある武 将の
水
精 神 的 支 柱を消 滅させねば 本当の意 味での天 下 統
とし
一はないと考えたのと同じ発 想である。
喜も
将 軍 慶 喜 は 今 の 幕 府 の 力では、薩 摩 藩 、長 州 藩 、
▲
会津松平藩九代目藩主
松平容保
49
きさ
安 芸 藩 等の西 国 雄 藩に武 力においても勝てないこと
の菩
は分っていた。彼らに倒される前に幕 府を自ら解 体
ある
すれば、自分の面 子も保てる。政 権を担当したことの
し
て旧
ない朝 廷はその後 、
また自分を頼ってくるだろうと考
新政府の幕府に対する対応や禄を失ったこと、賊軍と
りで
えていた。
なったことに憤った。会 津 藩( 京 都 守 護 職 )
も桑 名 藩
しかし、朝 廷は総 裁、議 定、参 与を設け、太 政 官 制
(京都所司代)
もこのままでは納まらなかった。いまま
を確 立して、幕 府などまったく当てにしていなかった。
で官 軍として京 都の治 安と天 皇のために働き、犠 牲
1 5 歳で即 位した明 治 天 皇を中 心に岩 倉 具 視をはじ
も払ってきたにもかかわらず 賊 軍にされてしまったの
めとする新 政 府 側は、政 権を幕 府より取り返した後の
である。
され
体 制など、
しっかり考えていた。慶 喜の思 惑は外れた。
山内
また、薩 長をはじめ討 幕 派の岩 倉 具 視らは次の一
に結 集した。総 勢 一 万 五 千 程の兵 力に膨らんだ。前
もの
手を打ってきたのである。明 治 天 皇 の 密 勅として徳
将 軍 慶 喜は急 速に抗 戦 へと傾いて行ったこの事 態
えて
川 家 討 伐の宣旨を薩 摩 、長 州の西 国 雄 藩 宛てに出
を診て大 坂 城に入り、
この兵 力なら勝てるかもしれな
させ
したのである。ここに、
「 王 政 復 古 」の大 号 令 が 1 2月
いと考えていたようである。
川家
に下された。
これにより、徳川家も京 都 守 護 職 松 平 容
会 津と新 撰 組の兵 八 千 が 伏 見 街 道より京に進 軍
対し
保も一 瞬にして官 軍から賊 軍となったのである。大 半
し、桑 名 藩と京 都 見 回り組( 注 4 )は伏 見 街 道を五 千の
とし
の藩は朝 廷 側に寝 返った。慶 喜も容 保も定 敬( 容 保
兵を率いて鳥 羽 街 道より進 撃した。
これに対し、西 郷
て成
の弟で桑 名 藩 主、当時 京 都 所司代 )
も謹 慎に追い詰
隆 盛は作 戦 主 任 伊 地 知 正 治を総 監として薩 摩 兵 二
められたのである。
千をもって鳥 羽 街 道を護らせ た 。また、伏 見 街 道 は
、長
政奉
喜は
この徳川家 への処 遇を不 服とし、旧幕 府 軍は大 坂
長 州 兵 一 千 八 百 が 山 田 市 之 進を総 監として、土 佐
鳥羽、伏見の戦い
兵三百を加えて護らせた。
旧幕 府 軍は大 坂 城を本 営とし、新 政 府 軍は東 寺を
して
「 王 政 復 古 」の大 号 令により、各 藩は賊 軍になるこ
本 営とした。新 政 府 軍は兵 四 千 、これに対して旧 幕
の勅
とを恐 れて形 勢は大 逆 転した。幕 府自体 が 無くなっ
府 軍は大 坂 城の兵を合わせると一 万 五 千 。
どうみて
廷に
た 今 、もは や 徳 川 家 に 奉 公 する義 務 はない 。親 藩 、
も旧幕 府 軍が有 利である。
、そ
譜 代 、外 様の別もない。各 藩は独自の考えで動けば
よいのである。
時は慶 応 4 年 1月3日( 1 8 6 8 年 )、旧 幕 府 軍を率 い
ていたのは元 大目付 滝川具 挙であった。開 戦は旧幕
らな
小 御 所 会 議 で、徳 川 の 官 位 剥 奪と8 0 0 万 石に及
府 側より薩 摩 軍に向かって銃 撃したことからはじまっ
しな
ぶ徳川家の領 地を朝 廷に返 納させることが決 定され
た。これに対し、薩 摩 長 州 軍 が 応 戦した。薩 摩 藩 の
えて
た。この決 定を明 治 天 皇の宣旨として、旧 親 藩 大 名
近 代 兵 器に対して旧幕 府 軍は白兵 戦で臨んだ。事も
、徳
であった尾 張 藩 主 徳川義 勝、それと同じ旧親 藩 大 名
あろうに薩 摩の大 砲の音を聞いて、真っ先に逃げ 出
いた。
扱 いの 福 井 藩 主 松 平 春 嶽を使 者として伝えさせた
したのは指 揮 官の滝川具 挙であった。
もう、空いた口
武力
のは滑稽である。
がふさがらない状 況である。指 揮 官のいない旧 幕 府
軍は狭い鳥 羽 街 道を縦 列に淀 方 面に逃げ出した。
将の
水 戸 徳 川 家は、水 戸 光 圀 公の時 代 から国 学を柱
下統
として天 皇 が 国 主であるという思 想をもっていた。慶
新 政 府 軍は、
この狭い鳥 羽 街 道を挟む陣 形で、後
喜も水 戸 徳 川 家に生まれ 一 橋 家に養 子に入ったい
込 めの 七 連 発ライフル、スペンサー銃( 当 時 では 一
州藩、
きさつもあり、朝 廷と戦う気 持はなく、寛 永 寺( 徳 川 家
番の最 新 兵 器 )やミニエー銃で待ち構えていた。逃
こと
の菩 提 寺 )に謹 慎して恭 順の意 向を伝えていたので
走中の指 揮 官の滝 川 具 挙もこの銃 撃 戦で被 弾し死
ある。
んだ。烏 合の衆と化した旧幕 府 軍は縦 列に逃 走した
解体
との
しかし納まらないのは旧幕臣と攘夷派である。彼らは、
う
ごう
ので、側面より両面から撃たれ恰好の餌食となった。
50
小松帯刀なくして明治維新なし
時に利あらず、
ともに忠に殉じた大垣と会津の魂
東福寺
東九条
伏見稲荷
上鳥羽
川
鴨
上久我
薩摩藩
竹田
深津
城南宮
長州藩
土佐藩
高瀬川
幕府軍主力
100名
長州藩
125名
2000名
伏見
薩摩藩
800名
松 平 容 保( 京 都 守 護 職 )、松 平 定 敬( 京 都 所 司 代 )
等と幕 閣の中心 人 物のみを連れて、夜 陰に紛れて自
分の味 方の兵を見 捨てて大 坂 城を密 かに抜け出し、
舟で江 戸に逃げ 帰ったのである。総 指 揮 官が、勝 敗
こ
が 決まらぬ 内にこのようなかたちで戦 線 離 脱 するの
談を
は前 代 未 聞であり世 界でも前 例 がない。この行 為で
西郷
慶 喜 の 信 用は 地に落ち、旧 幕 府 軍 は自然 崩 壊して
者で
いったのであった。
ると
会津藩
会津藩
新撰組
幕府軍
幕府軍
鳥
羽
街
道
桂
川
結 果 、奥 羽 以 外は大 垣 藩をはじめ 大 半 の 藩は新
験と
政 府に恭 順 の 姿 勢を示した。このとき、大 垣 藩 藩 主
こと
戸 田 氏 共は謝 罪と新 政 府 軍 への恭 順を奏 聞 するた
いる
め 京に赴き、天 皇に対して謹 慎 の 意 向を伝え、か つ
城」
誓 約 書を提 出している。これにより大 垣は焼 野 原に
と呼
ならず済んだのである。
から
うじ たか
新 政 府 軍は東 海 道、東山道、北 陸 道と三 道に分か
入れ
れて京 から東 へ 進 軍した。大 垣 藩は東 山 道 鎮 撫 隊
違っ
に配 属となった 。大 垣 藩 は 佐 幕 派 から勤 王 派に変
た新
わったことにより、東 山 道 鎮 撫 隊では、常に先 鋒とい
で新
う一 番 危 険で敵の銃 弾の盾となる役 回りを強いられ
盛以
た。それでも大 垣の兵は勇 敢に戦い、江 戸 城 総 攻 撃
らえ
前 頃には新 政 府 軍よりやっと味 方として認められるよ
西
逃 走 中の旧 幕 府 軍は、現 老 中である淀 藩 の 城に
うになった。
とはいえ禁 門の変で大 垣 藩が佐 幕 派とし
をえ
逃 げ 込もうとした。
しかし、藩 主で現 老 中でもある淀
て薩 長 軍を痛めつけたことは事 実 。友、兄 弟、同 志を
どう
城からの返答はあまりにも意外なものであった。
大 垣 兵に殺された薩 長 兵 士の悲しみを思えば、薩 長
府軍
「 藩 主 稲 葉 正 邦 不 在のため入 城はお断りする」
兵の個 人 的 感 情としては大 垣 藩 兵 士 への恨みはそ
おい
と言って城 門はかたく閉ざしてしまった。背 後 から新
う簡 単には拭いきれるものではなかった。裏 切り者と
切り
政 府 軍 が 迫っていた。旧 幕 兵は新 政 府 軍に追い詰
しての風 当りは厳しかった。このような屈 辱に耐えな
盛の
められ 、淀 城 の 門 前で一 斉 射 撃により壊 滅した。旧
がら勇 敢に戦った大 垣の無 名の戦 士たちのおかげ
西
幕 府 軍に指 揮 官 が 存 在 せ ず、現 老中の藩に入 城を
で今の大 垣が存 在していることを、我々現 代に生きる
てい
断られたこと自体 、当 時の政 局の様 子 が 窺い知れる
者として決して忘れてはならない。
とな
富森
納所
宇治川
せん ぽう
巨椋池
淀城
▲鳥羽、伏見の戦い
東 山 道 鎮 撫 隊は、総 督に岩 倉 具 定
というものである。
、参 謀に板
(注5)
そこへ 1月4日、征 夷 大 将 軍「 仁 和 寺 宮 」が 到 着し、
ひるがえ
垣 退 助 、伊 地 知 正 治
であった 。大 垣 藩 は 薩 摩 、
(注6)
戦 場に『 錦の御 旗 』が 翻ったのである。新 政 府 軍の
長 州 、土 佐の指 揮 下に置かれ、先 鋒として敵の銃 弾
士 気は一 段とあがった。これをみた旧幕 府 軍の各 藩
の盾となった。新 政 府 軍は大 垣 藩 士の屍の上を踏み
は「 錦 の 御 旗 」により賊 軍に味 方 することになること
つけて進軍したのである。
を恐れ、戦線を離脱する藩が続出した。
徳 川 慶 喜もまた 卑 怯にも勝 敗 が 決まる前に老 中 、
51
とも さだ
本を
あり
しかばね
白
力な
代)
て自
出し、
話は少々逸れるが、江 戸 時 代には三 大 改 革と言わ
勝海舟と西郷隆盛の会談
れている享 保の改 革、寛 政の改 革、天 保の改 革があ
る。この「 寛 政の改 革 」を成し遂 げたのが、この白河
勝敗
この二人は、勝が幕府の軍艦奉行の時に西郷に面
藩 主 松 平 定 信である。その彼が白河に赴 任したころ
るの
談を申し出て旧知であった。その勝との面談の印象を
( 1 7 8 2 )は天 明の大 飢 饉で国が荒れ果てていた。彼
為で
西郷が大久保利通に送った手紙に、
「勝はとても知恵
は自ら倹 約に努め、領 民のため食 料 救 済 措 置を施し
して
者である。おいどんの尊 敬する佐 久 間 象山先 生に勝
たおかげで、東 北 地 方で一 人も餓 死 者が出なかった
るとも劣らぬ程、国を憂いておる。
これほどの見識と経
のは白 河 藩 のみであったと言 い 伝えられている。当
は新
験と現状把握力を持ち合わせた幕臣に今まで会った
時としては異 例のことであった。彼は「 民は藩 主のた
藩主
ことがなか。おいどんは勝を見直し申した」と賞賛して
めにあるのでなく、民のために藩 主 がある」という信
るた
いる。この 西 郷 の 思 い が 無 ければ「 江 戸 城 無 血 開
念を持っていた。それを実 践したのである。また、教
かつ
城 」はありえなかったであろう。
また西 郷が「 勝 先 生 」
育にも力を入れており、藩 校 立 教 館や庶 民のための
原に
と呼ぶほど勝という人物を尊敬していた背景があった
郷 校 敷 教 舎などを設 立し、文 化 、教 育に積 極 的に取
からこそ、
この会 談で西 郷が勝の条 件をす べて受け
り組んだ。その後、幕 府の老中首 座として「 寛 政の改
分か
入れたのである。西郷、勝のどちらかでも交渉相手が
革」を成し遂げた名君である。
撫隊
違っていたらまず 決 裂していたであろう。明日に控え
話を戻すと、新 政 府 側の仙 台 藩、米 沢 藩は会 津 藩
に変
た新 政 府 軍の江 戸 総 攻 撃を止められるのは、
これま
を救おうと、松 平 容 保は謹 慎しているからと赦 免を新
とい
で新政府軍本営の総参謀として貢献してきた西郷隆
政 府 軍( 東山道 先 鋒 総 督 府が担当)に申し出ていた。
られ
盛以外には有り得なかった。長州、土佐も西郷には逆
新 政 府 軍は、薩 摩 藩 兵 、大 垣 藩 兵 、長 州 藩 兵 、忍 藩
攻撃
らえない情況であったからである。
兵を主 力として形 成されていた。
この申し出に対し東
るよ
西 郷と勝の共 通の思いは、
「この内 戦で漁 夫の利
山 道 白 河 口 総 督 府 の 参 謀 である世 良 修 蔵 は、
「仙
とし
をえるのは欧 米 列 強であり、
日本 人同士が殺しあって
台 藩と米 沢 藩に会 津 藩 への総 攻 撃を命じたのはもう
志を
どうするのか」ということであった。西 郷は至 急、新 政
新 政 府 軍 内で決 定された事である」と拒 否したので
薩長
府軍の幹部を集め「明日の江戸総攻撃は中止にした。
ある。両藩とも面子を潰されたと思ったのであろう。
はそ
おいどんの判 断に異 議ある者は意 見を言わんせ 」と
しかし、世 良は会 津の真 意を見 抜いていた。世 良
者と
切り出した。
しかし、新政府軍の指揮官である西郷隆
の 読 み 通り会 津 藩 は 着々と戦 闘 の 準 備をしていた 。
えな
盛の意向に異議を唱えられる者はいなかった。
後 世でも言われているが、会 津の本 心は恭 順の意 向
かげ
西郷、勝の二人とも、
「日本国」
という大きな視野をもっ
はなく、家 老 梶 原 平 馬( 注7)が中 心となり徹 底 抗 戦を
きる
ていた。
ここで二人がもし決裂していたら、江戸は焦土
唱え、藩 論も西 郷 頼 母 以 外 戦いの意 向で固まってい
となりそのあとに欧米列強が乗り込んで、
いとも簡単に日
た。家 老の西 郷 頼 母は、藩 主が京 都 守 護 職を受ける
に板
本を植民地にしてしまったことであろう。
これは大英断で
ころから参 戦に猛 反 対していた。よって頼 母は容 保
薩摩、
あり、西郷隆盛と勝海舟にしかできない離れ技であった。
により家 老 職を罷 免され 蟄 居 謹 慎を命 ぜられてしま
銃弾
踏み
白河口の戦い
白河は奥 州 街 道を守る重 要な拠 点として、代々有
力な親 藩、譜 代 大 名が治めていた。
い、戊 辰 戦 争では一 度も抗 戦していない。容 保はそ
の頼母に白河口の戦いの総督を命じたのである。
このとき、容 保は精 神が異 常と思われる程、冷 静な
判 断 が出 来ていない。本 来なら鳥 羽 、伏 見の戦いよ
り官 軍の戦いを熟 知している佐川官 兵 衛などの歴 戦
52
小松帯刀なくして明治維新なし
時に利あらず、
ともに忠に殉じた大垣と会津の魂
の 家 臣 がいたのである。この白 河 口の 戦 いは、関ヶ
を仙 台、奥 羽 各 藩と結 成したのである。
この同盟 軍と
こ
原 合 戦のごとく大 事な戦いのはずであり歴 戦の武 将
の 最 初 の 戦 闘 があったの が 、この白 河 口の 戦 いで
の指
を当てるべきであった。
あった。兵 力は新 政 府 軍 約 7 0 0 名、会 津、仙 台、米 沢
戦い
藩を中心に兵 2 , 5 0 0 名で、奥 羽 側が圧 倒 的に有 利で
すべ
あった。
藩の
ところが容 保は会 津で蟄 居 謹 慎していた頼 母を呼
び 出し、総 大 将である総 督に任 命したのである。誠
に異 常な判 断である。2 5 0 年 間の平 和のお蔭で西 郷
新 政 府 軍 側は、兵を三 隊に分け、中央 隊 参 謀 伊 地
藩が
頼 母も実 戦 経 験はまったくないのである。そこへ 、不
知 正 治 率 いる薩 摩 、長 州 、大 垣 の 兵を主 力として 、
政府
幸にも時を同じくして総 督 府の参 謀 世良修 蔵が仙 台
西 郷 頼 母の陣 取る稲 荷 山に進 軍した。右 翼 隊は棚
ず、
藩 士に宿で闇 討ちされたとの報 が 入った。この事 件
倉 街 道 方 面 から薩 摩 兵 二 隊を、左 翼 隊は原 方 街 道
では
により、新 政 府 軍を本 当に怒らせてしまったのである。
沿いに薩 摩、長 州、大 垣を主 力兵として進 軍した。新
そ
仙台藩は、江戸の大総督府にも容保が謹慎して恭
政 府 軍は午 前 5 時、三 方より一 斉に砲 撃を開 始した。
た。
自
順しているので、攻撃はやめてほしいとの交渉中の出
来事であったが、
こうした工作も水の泡と帰してしまっ
た。
こうなっては仙台藩も米沢藩も新政府軍の討伐の
対象となることは明らかになったと判断した。
よって、両
藩が中心となり会 津 藩を援ける名目で奥 州 列 藩同盟
る。
【戦果】
兵力
同盟軍
新政府軍
大砲
戦死者
2,500名
8門
682名
700名
8門
12名
街道
会津
阿
武
隈
川
羽
島
街
道
白河城
稲荷山
黒川
小丸山
江戸街道
白坂
▲白河口の戦い
53
棚倉街道
けぬ
軍と
この戦いで、会津藩副総督横山主税をはじめ同盟側
いで
の指揮官のほとんどが命を落とした。
このことは、
この後の
米沢
戦いに大きな影響を与えた。同盟軍側の参謀、家老格が
この白河 古 戦 場に大 垣 藩 士の墓が建っている。は
利で
すべて戦死してしまった。同盟軍に加わっていた奥羽各
るばる白河まで来て敵の銃 弾に斃れた大 垣 藩 士 4 人
藩の主戦派の重臣が戦死したため新政府軍側に寝返る
の死に様はどうだっただろうか。死の直 前 彼らは何を
伊地
藩が続出した。結果は同盟軍の戦死者682名に対し、新
想ったであろうか。
さぞ無念であったろう。
して 、
政府軍の戦死者は12名であった。
この惨敗にもかかわら
大 垣 藩の戦 死 者の名 前 が 今わかっているだけ志
は棚
ず、総督の西郷頼母が帰還してきた。容保の怒りは尋常
士をあげ たい 。筆 者も会 津 若 松と白 河 の 合 戦 跡を
街道
ではなかった。西郷頼母は再び罷免蟄居させられた。
。新
た。
それにも増して頼母自身には大変な悲劇が待ってい
た。
自宅に戻ったら家族親戚21人が自決していたのであ
はずかし
る。頼母の足手まといとならぬように、
また敵の辱めを受
けぬようにと妻が自決をさせたようである。一番下の娘は
2名
2名
▲
白河合戦戦死墓
長州大垣藩戦死六名墓
(内四名大垣藩)
まだ2歳であったという。母のこの2歳児を短刀で刺す時
の哀しみは想像を絶するものであったろうと推察する。
たお
【戊辰戦争での殉難者】
閏4月25日
戦死場所
小丸山
小丸山
小丸山
小丸山
氏名
鳥居勘右衛門
河合 徳太郎
松井 於兎蔵
稲井 工
銃隊長
銃隊
銃隊
砲隊
5月1日
戦死場所
立石山
白河
白河
氏名
山田 七蔵
坂 唯蔵
稲葉 永蔵
戒名
年齢
軍事奉行補佐 智鑑院仁厳忠勇居士 37歳
銃隊
智山忠慧居士
40歳
嚮導
鉄心忠透居士
34歳
5月25日
戦死場所
病死
小田川
氏名
渡部 兵之助 銃隊
東郷 助之丞 二番隊
戒名
大慶忠勇居士
不明
年齢
23歳
5月26日
戦死場所
白坂
白坂
白坂
氏名
酒井 源之丞 銃隊長
瀬口 興作
銃隊
松岡 惣兵衛 銃隊
戒名
容光院薫功忠深居士
全功忠淳信士
塁功忠精信士
年齢
25歳
22歳
20歳
6月1日
戦死場所
泉田七曲
泉田七曲
氏名
渋谷 重太郎 銃剣隊
一川 齋吉
銃剣隊
戒名
年齢
見性院永昌忠源居士 22歳
是正院常心忠行居士 20歳
6月21日
戦死場所
会津口
氏名
桑原 重吉
不明
戒名
全道忠髄信士
年齢
不明
7月15日
戦死場所
仙台口
氏名
渡部 定次郎 銃隊
戒名
関山忠鉄居士
年齢
29歳
8月24日
戦死場所
会津若松
氏名
吉田 彦三郎 軍事方
戒名
年齢
開基院忠勇長義居士 36歳
9月18日
戦死場所
氏名
会津にて病死 松岡 利三治 不明
戒名
強義院慧山忠心居士
本光忠然居士
寛山忠量居士
不明
戒名
謙慶忠益居士
年齢
36歳
20歳
19歳
年齢
21歳
※「慶応四年戊辰戦争白河口の戦い18名の殉難者」白河青年会議所発行参照
54
▲
小松帯刀なくして明治維新なし
時に利あらず、
ともに忠に殉じた大垣と会津の魂
見てきた 。残 念ながらショックは 隠 せなかった 。また、
わからなかった。役 所に問い合わせてもわからなかっ
川榎
会 津 若 松での大 垣 藩 二 十 人 墓を探 すのも難 渋した。
た 。一 部 ではあるが 、いろいろ尋 ね 歩 いてわ かった
四百
薩 長 土 肥 の 墓 は 整 然と整 備されていたが 、大 垣 藩
人々をあげたい。
長岡
二 十 人 墓 は 墓 地 の 一 番 端 で 傾きかけていた 。また、
この他、宇都宮戦争での殉難者、高木辰之助(45歳)、
寸前
墓 碑 銘も苔とセメントのようなもの が 塗られ て おり、
岩佐幸之助(41歳)、小寺庄次郎(53歳)、以下57名
グ砲
まったく判 別 がつかなかった。
まさに、遠い異 国で銃
等々の 紹 介は誌 面 の 都 合で省 略させていただくが 、
岡城
弾 に 斃 れ た 志 士 たちの 恨 みごとが 聞こえるようで
多くの大垣人が明治維新の人柱となったことを我々は
占領
あった 。大 垣 の 人 が 他 国に比 べこの 戦 いの 関 心 の
決して忘れてはならないことであろう。
を栃
無さを思うと悲しかった 。前 記 の 墓 碑 名 はなかなか
上 記はごく一 部の墓 碑がある志 士であるが、現 実
一
にはこの1 0 倍 以 上の志 士が無 縁 仏として葬られたこ
挽回
とは確実であろう。
が被
会津戦争
▲稲荷山山頂への道
くな
長
路を
関東にあった新政府軍も江戸の整理を終え、
ようや
れ食
く全 軍で北 伐に動き始めることができるようになった。
府軍
白河城を占領すれば、会津まではすぐである。容保は
を守
国 境の守 備を各 隊に命じていたので、城はもぬけの
の守
殻状態であった。新政府軍も、大総督府(総督有栖川
こ
熾 仁 親 王 )のもと、奥 羽 鎮 撫 総 督 府 、会 津 征 討 越 後
口総督府、奥羽追討白河口総督府、奥羽追討平潟口
総督府のすべてが、会津攻撃可能となった。
奥 羽 列 藩 同 盟の奥 羽 各 藩は次々と寝 返り、
もはや
会津に味方するものは無くなった。大垣藩が所属して
いる奥羽征討白河口総督府には、板垣退助、伊地知
正 治、渡 辺 清、多 久 与 兵 衛という歴 戦の参 謀がつい
玄
青
朱
白
た。
また、会 津 征 討 越 後口総 督 府の参 謀には西 園 寺
▲稲荷山から見える小山が小丸山新政府軍本営
公 望、壬 生 基 修、黒田清 隆、山 県 有 朋が任 命された。
各 参 謀はこれまでの各 地の戦いの歴 戦の指 揮 官で、
この陣 容を見ても万が一にも会 津 藩が勝てる見 込み
はない。
ここで会 津の戦いより先 立 つ話として同 盟 軍の長
岡藩の家 老 河 合 継 之 助についてふれておきたい。
新 政 府 軍は、長 岡で奮 戦 する長 岡 藩 家 老 河 合 継
之 助に対 する、奥 羽 征 討 越 後口総 督に西 園 寺 公 望
を昇 格させ 、その参 謀に山 県 有 朋をつけた。有 朋は
▲稲荷山周辺
55
巧な戦 略を考え、新 政 府 軍の隊を二 手に分け、信 濃
▲復元
かっ
川 榎 峠で軍 監 三 好 軍 太 郎に兵 二 千 五 百を与え、兵
った
四 百の長 岡 軍を城 から引きずり出 すことに成 功した。
二 本 松 街 道、母 成 峠で新 政 府 軍の攻 撃を阻 止 す べ
長 岡 の 兵 は 有 朋 の 率 いる兵に挟 み 撃ちされ 、壊 滅
く配 備されていた。これに対 する新 政 府 軍の会 津 攻
歳)、
寸 前であった。それを知った継 之 助は自慢のガトリン
撃の主 力は、奥 羽 追 討白河口総 督 府であった。総 督
7名
グ砲( 最 新 兵 器の機 関 銃 )を率いて急 行したが 、長
は正 親 町 公 薫 、参 謀に板 垣 退 助 、伊 地 知 正 治など
くが 、
岡 城は平 城なので、その 間に新 政 府 軍は長 岡 城を
鳥 羽 伏 見 の 戦 い からの 歴 戦 の 精 鋭 部 隊 であった 。
々は
占領してしまっていた。河 合 継 之 助は、城を諦め拠 点
大 垣 藩 兵も多く加わっていた。
会 津の精 鋭 部 隊 朱 雀 隊は、笹山の国 境、戸ノ口原、
も
なり
会 津 軍は会 津 国 境である母 成 峠で、新 政 府 軍の
を栃尾に集結させた。
現実
一 時 的には継 之 助 のガトリング砲 の 効 果もあって
会 津 城 下 への侵 入を阻 止しようと考えていた。兵 力
たこ
挽 回の 兆しがみえたが 、指 揮 官 の 河 合 継 之 助自身
は会 津 側 が 大 鳥 圭 介 率いる約 四 百 名 、それに対 す
が被 弾した。かなりの重 傷で前 線での指 揮は取れな
る新 政 府 軍 側は約 三 千 名である。武 器 、弾 薬 、食 糧
くなり、継 之 助の落 命とともに長岡藩は降 伏した。
等 補 給 が 途 絶えた会 津 軍にとっては最 後の抗 戦で
長 岡 藩の陥 落は、山 国である会 津 藩にとって補 給
路を断たれて大 変な致 命 傷となった。周りを山に囲ま
ある。閏 8月2 1日早 朝、会 津 軍は隊を勝 岩口、萩 岡口、
母 成 峠の三つに分け防 戦 体 制に入っていた。
うや
れ食 糧、武 器、弾 薬が限 界を迎えていた。
まして新 政
った。
府 軍が会 津 藩の鶴ヶ城を取り囲んだ。会 津 兵は国 境
一気に会津城下に進軍しようと考えていた。薩摩砲兵
保は
を守るため各 地に分 散されていて城に残るのは少 数
隊を率いる大山巌は、射程距離二千六百メートルもあ
けの
の守備兵のみであった。
る四斤山砲で対 峙した。四斤山砲やアームストロング
栖川
ふもと
砲は一番遠い第三母成峠台場までも麓から届いてし
ここで、会津の隊の編成を記しておきたい。
越後
まう近代兵器である。会津兵が数日もかけて築造した
士中隊
潟口
はや
して
地知
つい
新 政 府 軍 参 謀 西 園 寺 公 望 は 母 成 峠を攻 略して、
寄合組隊
足軽隊
台 場は、すべて一 時 間も経ぬ間にこれらの大 砲の砲
玄武隊
50歳以上
1隊
1隊
2隊
弾で壊 滅した。近 代 兵 器の凄さが証 明された戦いで
青竜隊
36∼49歳
3隊
2隊
4隊
あった。会津軍は大打撃を受けた。本来主力になるは
朱雀隊
18∼35歳
4隊
4隊
4隊
白虎隊
16∼17歳
2隊
2隊
2隊
ずの精鋭部隊の朱雀隊が、砲弾に吹き飛ばされ壊滅
状 態になってしまったのである。敗 残 兵は会 津 方 面
に逃 走した。
園寺
れた。
官で、
込み
の長
。
合継
公望
朋は
信濃
▲復元された会津若松城
▲荒れ果てた大垣藩二十人墓
▲邪魔者扱いの大垣藩士の墓
56
小松帯刀なくして明治維新なし
時に利あらず、
ともに忠に殉じた大垣と会津の魂
備 兵しか 残っていなかったのである。容 保は至 急 国
お台 場には会 津の精 鋭 部 隊の屍だけが 残された。
刀でなら師範クラスの人が目に見えない砲弾で一生を
境より帰 還の伝 令を出したが 、すでに鶴ヶ城は新 政
終えるのである。
さぞかし無 念であったことであろうと
府 軍に包 囲されており、逆に会 津 兵 が 城に入 城でき
推察する。
ない状 態になってしまっていた。
しかし会 津 兵は何と
会 津には京 都 守 護 職を引き受けてから、京での戦
か入 城 す べく、守 備が手 薄であった融 通 寺口に兵を
費 が 膨 大にかかり近 代 兵 器を購 入 する軍 資 金 がな
集 め、ここを突 破 口に城 内に入り、戦 略を籠 城 戦に
かった。
この母成峠の台場も人力で強固につくったが、
切り替えた。この 間 、守 備 兵は懸 命 の 防 戦を行って
新 政 府 軍のアームストロング砲が一 気に台 場を吹 飛
いた。また、士 族の女 性も入 城し城 郭 内で薙 刀での
ばした。新 政 府 軍には他にも四 斤 山 砲という大 砲 が
戦いに挑んだが、新 政 府 軍は七 連 発スペンサー銃で
あり、射程距離六百メートルもあるため台場は会津兵
相 対し、会 津 女 性 兵 の 屍 は 累 々と重 なっていった 。
の屍の山と化していった。会 津 軍は敵の見えない大
城内に籠る会津兵は、男女の別なく実に勇敢に戦った。
ぼう だい
砲 攻 撃に大 混 乱となり、大 鳥も総 退 却を命じ会 津 方
新 政 府 軍はこれ 以 上 死 者を増 やさぬよう、大 砲を
面に退却した。会津にとって一番の打撃は、朱雀隊と
小 田 山に移 動させた。小 田 山は城 内 が 一 望に見え
いう精 鋭 部 隊 が 大 砲により壊 滅 状 態になったことで
る小 山であった 。新 政 府 軍 は 戦 いの 早 期 決 着 のた
あった。
め 大 砲を一日2 5 0 0 発ほど 打ち続けた。城 の 外 観は
残っていたが床はすべて崩れ落ちた。
新 政 府 軍は手を緩めることなく、会 津 城 下に進 軍
なり のり
新 政 府 軍に寝 返っていた米 沢 藩 藩 主 上 杉 斉 憲が、
していった。最 後の砦であった十 六 橋も会 津 兵 が 落
松平
上杉
松平
さんとする前に新 政 府 軍 が占 拠していたので、この
新 政 府 軍 参 謀 板 垣 退 助に対して、自分 が 松 平 容 保
容
橋を渡って簡 単に城 下に入 城できた。藩 主 容 保は国
に対して降 伏 の 説 得をしたいと申し出た。板 垣は即
戦争
境 防 備に兵を出陣させていたので、城には少 数の守
刻了承した。
伏状
会津
土佐
土佐
薩摩
馬場口
会津
大垣
大町口
薩摩
甲賀町口
長州
会津
六口町口
三日町口
桂林寺口
大村
薩摩
薩摩
願成寺口
融通寺口
会津
佐土原
三ノ丸
本丸
二ノ丸
西出丸
日新館
薩摩
天寧寺口
北出丸
川原町口
花畑口
南町口
小田垣口
天神町口
▲
会津攻撃前夜
57
上杉
会津
会津
急国
上杉斉憲「おぬしの無念はよくわかる。
しかし、領国の
新政
人 民をもうこれ以 上 殺 すな。彼らに何の罪
でき
があろうか 。重 税に苦しみ田 畑を荒らされ
何と
困 窮の極みにある。容 保 殿はよくがんばっ
兵を
たと思う。このくらいでもう新 政 府に降 伏し
戦に
ても、だれも非難する者などいない。藩主は
って
民 の 事を一 番 に 考えねばならぬ 。よいな、
を相 続 )を護 衛し、二 番 隊は前 藩 主 容 保の護 衛を担
での
容保殿」
当 する役目であった。
しかし会 津 軍は各 地で敗 戦を
銃で
戸ノ口原の戦いと白虎隊
話は前 後するが、白虎 隊の悲 劇を最 後に取り上げ
て締めくくりたい。本来白虎隊は、予備兵であった。
士 中 隊 の 一 番 隊 は 藩 主 松 平 喜 徳( 1 8 6 8 年 家 督
松平容保「わしは一番大切な事を忘れていたかもしれん。
重ね、彼らにも召集 がかかった。一 行は滝 沢 本 陣に
大切なのは領民であり家臣を含め皆々大義
結 集していた。そこへ 戸ノ口原 方 面から援 軍の要 請
った。
とはいえ大 変申し訳なく存 ずる。明日にでも
がきた。
砲を
武装解除し降伏をしようと思う。新政府軍に
見え
降伏の事、取り持ってくれぬか。斉憲殿」
った 。
飯 盛 山で立 派に自刃して果てた十 九 士は、
この二
番 隊の隊 士である。総 勢 4 2 名で編 成されていた。容
のた
上 杉 斉 憲「 相 承 知した 容 保 殿 。後 の 事 はこの 斉 憲
保の命 令で、二 番 隊は白河 街 道の滝 沢 本 陣に待 機
観は
にお 任 せくだされ 。悪 いようにはけっして
していた。容保、喜徳は城に帰還した。隊長日向内記
致さぬ」
の 命 令で隊を二 手に分け、半 数は戸ノ口 原 方 面 へ
り
憲が、
ひ なた ない
松平容保「う……」
き
先に前 進 。すぐ残りの半 数 志 士も出陣し滝 沢 峠に登
容保
容保は涙が込みあげてきていた。そして、松平容保は
りそこで合 流した。その時の戦 闘は上 強 清 水 当たり
は即
戦争首謀者として筆頭家老菅野権兵衛の首を持参し、降
で行われていた。隊が赤 井 谷 地に近づいたころ夜が
伏状と共に参謀の板垣退助に恭しく差し出したのである。
更けた。
うやうや
越
後
街
道
天満
道
白河街
肥前
人吉
長州
薩摩
大垣
土佐
大町口
深川
土佐
薩摩
薩摩
薩摩
融通寺口
大村
幕ノ内
湯川
川原町口
安芸
大田原
花畑口
大
砲
によ
る
攻
撃
飯寺
▲小田山
薩摩・肥前
館林
▲
会津攻撃
58
小松帯刀なくして明治維新なし
時に利あらず、
ともに忠に殉じた大垣と会津の魂
▲戸ノ
▲新政府軍と会津藩の決戦模様
隊長の日向内記は食糧を調達してくるとして下山し
落城と勘違いをさせたのであろう。
ていったが、
日向は二度と戻ることはなかった(実は、彼
唯 一の生き証 人、飯 沼貞吉(自決 後 村 人の懸 命の
は食糧調達後、敵に遭遇し、戻れなかった)。
しかたな
救出で蘇生。彼も飯盛山に遺言により後に埋葬されて
く原田半隊長が指揮をとることになった。彼らは赤井谷
いる)の証言によると篠田儀三郎は
地北端の丘陵に出て敵の出現に備えていた。前線に
「 戸ノ口 原 方 面 の 戦 いを命 ぜられ 出 陣したものの 、
いたはずの味方の奇正隊、敢死隊はすでに戦況不利
敗れて退 却してきた。
この様 子ではもはや身を置く場
と判断して退却していた。
所も無いであろう。生き延びるために見 苦しい行 為を
戦 況 が白虎 隊には知らされてなかった。また経 験
するより、士中隊( 上 級 武 士 )
として誇りを保って自ら
不 足ゆえに戦 況 状 況を常に把 握 する訓 練も受けて
死のう」
いなかった。白虎 隊は取り残された。敵の声が聞こえ
と言い、皆も同 意した。このようにして、途中蘇 生した
る程 近くに新 政 府 軍が駐 屯しており、退 却もできない
飯 沼 貞 吉を除 い た 十 九 士 の 命 が 散った の である。
状 況であった。戸ノ口 原 から退 却した二 番 隊は、途
純 粋 すぎた。当 時 の 会 津 の日新 館は国 内では一 番
中 離 散したりまた合 流したりして、会 津まで道なき道
学 問 が 進んでいた。坂 本 龍 馬も訪れている。明 治 政
をさまよっていた。このままではいつかは敵に見 つか
府の高 官になった者の中には、
日新 館で学んだ人 が
るだろうと判 断し、彼らは飯 盛山の北 斜 面にある戸ノ
多くいる。
もし彼らが生きていたら、明 治 政 府にかなり
口の洞 穴に入った。長さ1 5 0メートルほどであるが、
こ
の貢 献ができた人 材も出たことであろう。
日本 人 同 士
の洞 穴は敵は知らないはずであった。この洞 穴を抜
「 大 義 」とはいえ、日本 国にとって大 変な人 材を失っ
けると、飯 盛 山 の 中 腹 に出るのである。そこからは
た戦いであった。彼らの碑 が 飯 盛 山の中腹に立って
鶴ヶ城がはるかに望まれ、会 津の町 並みもよく見える
いる。
場所であった。
そのとき、彼らの 眼 前に見えたのが すでに火 の 手
が 上 がり炎 上しているようにみえる鶴ヶ城 であった
( 実 際は台 所 が 炎 上していたのであって、城は健 在
であった)。昨夜来の戦闘で過敏になっている神経が、
59
▲日本一の藩校日新館
▲白虎
(注1
(注2
(注3
(注4
(注5
(注6
(注7
▲戸ノ口原洞穴
▲会津城の状況をうかがう白虎隊士
▲白虎隊十九士の墓
▲白虎隊十九士の墓
▲飯盛山からみた会津若松城
命の
れて
のの 、
く場
為を
自ら
した
ある。
(注1)攘夷…日本において幕末に広まった思想で、外国人を日本に入
参考図書
れず排斥しようとする思想。
キリスト教への文化侵略を食い止め
「小松帯刀伝」 宮帯出版社 瀬野冨吉著
ようということも含まれていた。
「戊辰戦争」 吉川弘文館 保谷徹著 一番
(注2)長州ファイブ…長州は四か国連合艦隊に下関で惨敗し、攘夷の
「西郷頼母」 会津武家屋敷文化財資料室
治政
困難に気づき逆に欧州から学ぼうと藩論が変わった。そこで長
「会津の幕末維新」 会津若松市史研究会
人が
州藩は密かに五人に留学をさせた。
その五人とは、伊藤博文、井
なり
同士
失っ
って
上 馨、遠藤謹助、
山尾庸三、野村弥吉である。
※文中の写真は全て筆者撮影
(注3)幕藩体制…幕府を頂点に統治されてはいるが、各大名の領国で
は独立した行政権限をあたえられていた。
よって、統一国家では
なく独立国の連合国家のこと。
(注4)見回り組…江戸の末期に浪士、農民で組織された新撰組に対し、
幕臣のみで結成された京都治安維持組織。主に、御所、二条城
を警護した。新撰組は町屋や祇園や三条当たりを担当した。
(注5)岩倉具定…岩倉具視の二男。東山道先鋒軍総督(参謀板垣退
助)。公爵。貴族院議員、学習院院長。
(注6)伊地知正治…薩摩藩士。軍奉行。戊辰戦争に功績や修史刊館
総裁。伯爵。
(注7)梶原平馬…幕末の会津藩家老。徹底抗戦を主張。根室に移住
その地で死去。
(2015.
6.
12)OKB総研 特命研究員 三矢 昭夫
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