Z Z 議長 山 崇権 告 ? 急 手ィ支 を 負 の勝 日々 支面 配大 義禁 持品 天下統一を成し遂げた豊臣政権は、強力な権力を握って日本囲内を統 が終嵩し、統一政権が誕生した。各地の戦国大名との競争に勝ち抜き、 も大規模かつ短期間に変革が生じた時期である。圏内では、戦国時代 畿内経済圏に包摂されていき、京都は貢租換金市場、金融市場として 構造を成立させた。これによって、戦国時代の各地の地域経済圏は、 都市場圏﹂と各地の城下町を結合させ、日本全国規模の求心的な流通 都の改造、大坂城下町の整備を行い、この二つの都市を中心とする﹁首 一六世紀第四四半期は中央 治した。豊臣政権下の大名は、領国を離れて京都・伏見や大坂での生 以上のように、政治的にも経済的にも、 の性格を強めていは。 豊臣政権は太閤検地を実施して中世の荘園制を消滅させ、国人(大名 否定し、毛利氏主体の地域秩序再編が行われた、とされてい却。しか 例えば毛利氏は豊臣政権服属後、各﹁戦国領主﹂ た大名もいれば、豊臣政権の指導によって解決した大名もあった。と れるなど新たな課題に直面することになる。これを独自の力で克服し 京生活、中央市場への貢納物の廻送・売却、資金獲得の必要性に迫ら ﹁費沢な﹂在 し、島津氏は太閤検地の結果、蔵入地の増加には成功したが、家臣囲 ころが、現在の豊臣政権期の流通構造論は、豊臣政権の蔵入地及び子 への求心化が急速に進んだ時代であった。地方大名は、 内対立や領内矛盾が激化していお。また豊臣政権には、現地の在地支 飼大名の拠点など豊臣政権との関係が強い地域聞のネットワークでの 以外の園内有力武家)の影響力を削ぎ、大名への権力集中をはかった。 配とは相対的に区別された子飼大名向け支配マニュアルが存在してい (国人)の独自支配を 担 桐 豊 産臣 し て 大 い名 ふ,は 与豊 菅 島津氏の財政構造と豊臣政権 はじめに 独元 この時期、日本の経済構造にも変化が生じた。豊臣政権は、首都京 たー め方 にで 活を強いられ、朝鮮出兵をはじめ過重な軍役を課された。 一六世紀後半とりわけ第四四半期は、前近代の日本社会において最 す た。 Z る F同 n vυ 研究論文 プとして機能していた、と主張してい向。 このように先行研究では、在京賄料の機能について解明されてきた 議論が中心である。旧戦国大名がどのように中央市場と関係を構築し、 どのようにして近世大名へと変貌させられてゆくのか、の分析が不十 が、島津氏に与えられた領地の実態については、議論されていない。 氏が与えられた在京賄料である播磨領、摂津領についての情報を伝え 次の史料は、石田三成が島津義久に対して出した書状である。島津 ここではまず、この在京賄料自体の特徴を確認していきたい。 ﹁天下統ことは何かを、権力の上部構造の中で 分である。本稿は、 解く試みとしたい。 本稿では、戦国大名から豊臣大名となり、豊富な資料群、先行研究 がある、薩摩島津氏を対象とし、上記の課題の克服を目指す。 ている。 ︻史料一︼石田三成書純 猶以先々①播州之儀、所々散在候て在之事候条、外手間可入候、 豊臣政権服属後の島津氏の在京と諸問題 天正一五年(一五八七)五月三日、島津義久は豊臣秀吉に降伏し、豊 ②樹州剥倒川阿割引制剤剥倒倒聞可制剛削刑制倒 1剥矧剖樹差 掛﹁刈桐剛劇糾創剥働劇問可制劃劃剥骨川倒剣劃樹剥同劇側、 謹言、 ﹁天正十六年﹂八月十日 ﹁朱カキ﹂ 謹上龍伯公 (上書) 三成 三成(花押) が記されている。 一方、摂津国(とりわけ能勢郡)の所領は、 ﹁手間不 傍線部①で、播磨の領地は所々散在しているので、手聞がかかる旨 貴報 石田治部少輔 衆々人迄も被遣度候者、余仁を申付可遣候、御分別次第候、恐憧 少遅遣候ても、くるしからす候所にて候問、如此候、但左右方一 之通申候問、③能勢郡ハ所務等も最前右手間不入所ニて候、奉行等 候キ、未相達候哉、先々播州之分相改、其上能勢郡へも被遣可仕 御状遂拝見候、何御知行方之儀ニ付而、昨日安三郎兵衛様子申含 以上、 臣政権の九州平定が完了する。そして、六月一五日には、義久は上京 のため鹿児島を出発していお。翌一六年四月二六日に、島津義弘が上 京のため鹿児島を出発し、入れ替わりに義久は鹿児島へ下向、義弘は 伏見に在住していお。こうして島津氏の在京生活は豊臣政権への服属 後すぐに開始された。本章では、戦国時代には存在しなかった在京活 動が島津氏に与えた影響を考察していきたい。 (1) 在京賄料の設置 島津氏は、天正一六年七月に摂津・播磨に一万石の所領を宛てがわ れた。この在京賄料に関して、脇田修氏は、豊臣政権期は領固と上方 との聞の流通構造が未発達であったため、遠隔地大名が在京活動を行 うための保障として豊臣政権によって設置された、と述べていお。ま た、北島万次氏は、在京賄料は島津領国と上方を結ぶ循環体系のパイ 6 0 島樟氏の財政構造と豊臣政権〔桐山〕 されている(傍線部②③)。島津氏の在京賄料については表一でまとめ 手間取るような支配実態を示していた。島津氏は、在京賄料でも固元 島津氏は、比較的支配が容易な在京賄料でさえ、御図帳の作成にも が非常に厳しい状況に置かれていることが分かる。 ているが、摂津領が六九二六石九斗六升、播磨領が二九九七石五斗と でも、豊臣政権が求める在地支配体制を容易に構築できていないこと ﹁くるしからす候所﹂と なっており、摂津領の方が石高は大きい。島津氏は比較的支配が容易 が分かる。 入所﹂であり、奉行の派遣が少々遅れても、 な領地を多く与えられたことが分かる。 豊臣政権は天正一九年に御前帳作成のため、諸大名に御図帳の提出 ( 2 ) 在京活動と諸問題の発生 天正一六年人月一一一一一日付で島津義久が木下道正宗固に宛てた書状に、 を求めている。在京賄料も島津氏の領地であったため、島津氏が御図 義弘は、 ﹁就不慮之在京、去歳以来入魂之儀、謹難謝候、然者至摂津・播磨両 島津氏の在京生活は、 一からのスタートではなかった。 度々仕直候て、ゃう/、、の事にて進上申体ニ候﹂と記している。つま 国、今度被下候壱万石之内米四拾石、年々進候﹂とあ的。義久は木下 帳を作成しなければならなかった。この在京賄料の御図帳について、 り、増田長盛の指導のもと御図帳を作成したが、非常に苦労している 宗国が、島津氏の﹁在京﹂ へ対応してくれたことに感謝し、毎年四O 【表一】島津氏在京賄領知行方目録 揖束郡 神束郡 事も、 共に上京していた比志島固貞、本田正親宛に書状を出している。 しかし、その前途は多難であった。島津義弘は上京する際、義久と とあるよ、つに、 在京辛労の段、不及申候(中略)今日迄ハ反銭間別未相調候(中略)従 にハ事患Fヶ 長 ﹂ 一ヶ村も作成出 此元者京都之借銀を相頼可罷登候﹂とあり、義弘一行の上京費用を領 ﹁長々 来ておらず、京 国の反銭で賄おうとしていたが集まらず、 ﹁京都之借銀﹂を頼みに上 都での本帳作成 揖西郡 合計 6 1 ﹁愛元壱万石水帳さへも、増田右衛門尉殿以指南調候へ共、 様子がうかがえる。 石を与えることを約束している。岩川拓夫氏によると、宗固が所属し ている道正庵と島津氏は、元亀年聞から関係があり、宗固は京都の出 ﹁筆者弁其名其名の肝煎案内者相 付、可被差上候由候キ、然処一ケ村之分とても、 いまに無上着候、如 先機関として活動することを島津氏から求められていた、と述べてい 国元の状況はより困難であった。 此候てハ、京都 1 1 9 1 7 6 5 4 8 播磨国 ∞ ∞ 豊嶋郡 を開始したのである。 ね。このように、島津氏は戦国期以来のつながりを利用して在京活動 摂津国 能勢郡 右晶(石) 村名 木代村 5 4 2 . 7 切畑村 5 4 2 . 7 与野村 4 2 1 . 7 4 河尻村 1 4 0 吉川村 1 7 0 野間村 5 6 8 . 3 5 地黄村 8 7 3 育野村 1 7 0 山内(回)村 1 5 0 田尻村 8 0 1 . 2 5 宿野村 5 8 . 6 2 倉垣村 6 8 8 . 6 萱野村 1 8 坂上村 2 福地村 5 9 0 れんしゃうし 5 0 7 . 5 且上村 3 3 0 いちのほう村 3 2 0 かたしま 1 0 5 0 9 9 2 4 必 郡名 N . o 国名 一月なと にて本帳可被作 ( r 鹿 児 島 県 史 料 旧 記 雑 録 後 編 j2 4 8 2 ) 研究論文 京する旨が記載されている。また、天正一七年の義弘書状には、 形作之儀、井先年己来借物返弁、就中又一郎夫婦在京之始末、於今分 者、可相調様無之候﹂とある。屋形の作事の費用調達、先年以来の借 物返済、島津久保夫婦の在京経費など、現状、調達できないとしてい る。このように、島津氏は在京活動開始早々に、資金調達で苦慮して いる様子がうかがえる。 島津氏の在京活動について、三成家臣の安宅秀安は﹁京儀之調とに ﹁京儀之調﹂ もかくニも不罷成候、屋形作之事もはたしてハ可難成候(中略)御取次 之治少可被失面目事ニ候﹂と述べていお。秀安は、 での活動のための費用)が調達できていない、屋形の作事も無事にできる か分からない。島津氏の豊臣政権への取次である石田一一一成は面目を失 う事態になっている、と義弘を批判している。 島津氏は、豊臣政権から在京活動を支えるために在京賄料を宛てが われていたが、そこからの収入では到底足りなかった。 一O万 ﹁諸給人・寺社領・竜伯・兵庫頭内儀方まて相渡分﹂ 太閤検地後の所領の配分を記した﹁知行割付之事﹂には、六一万九 四O O石の内、 を引いた一六万人五O石の使途が記載されてい焼。このうち、 石が﹁是にて京儀おもてむき軍役方、義久兄弟かまいなく被相済分﹂、 三万石が﹁京都ニ相詰諸侍五千人兵糧之心あてコ一ツ成りニしでも凡壱 万石か、運賃はらし候ても八千石あり、然者五千人十ヶ月之兵糧﹂と あり、 一三万石分の年貢が畿内関係の費用に充てられている。 つまり、京都駐留の諸侍の兵糧として、国元から京都に大量の米を あげる必要があったのである。豊臣大名として島津氏が生き残ってい くためには、円滑な物資の廻送は必須であったのである。 ( 3 )小 島津氏は戦国期以来の人間関係を利用し、在京活動を開始した。し かし、領国での段銭徴収では資金が調達できず、京都での借銀を頼り ﹁屋形作之 にする有り様であった。このような財政状況であったため、豊巨大名 として活動するための﹁京儀之調﹂も十分に用意できず、 事﹂も遅々として進展しなかった。 こうした事態の背景に、島津氏の支配体制構築の﹁遅れ﹂があった。 島津氏は、在京賄料や国元での御図帳作成に苦労しており、豊臣政権 から期待されている在地支配の方法、技量を十分身につけていないこ とが明らかとなった。 文禄期島津氏の財政状況と太閤検地 第一章で確認したように、島津氏の在京活動は非常に厳しい財政状 況のもとで開始された。さらなる打撃を与えたのが朝鮮出兵であった。 朝鮮出兵時に島津氏は﹁日本一の大遅陣﹂を犯し、出兵に反対する梅 北一撲を発生させてしまった。島津氏の出兵体制が不調であった根本 的原因は、権力編成の﹁一撲﹂的構造にあったとされてい討。これを (却) 解消するために、細川幽斎による仕置、石田三成による太閤検地が実 施され、島津氏の蔵入地増加、浮地の確保が図られた。 6 2 括 屋 京 都 島樟氏の財政構造と豊臣政権〔桐山〕 このように島津氏は、太閤検地を実施することで﹁一撲﹂的構造を 解体し、蔵入地を増加することで権力を強化し、朝鮮出兵の思賞地と して浮地を確保しようとした。それでは太閤検地によって、実際に島 津氏の財政状況は改善したのであろうか。本章では太閤検地が実施さ れた文禄期島津氏の財政状況を考察していきたい。 (1) 文禄期在京賄料の管理と経営 島津氏に限らず、豊巨大名として生き残るためには、多くの大名は 領国の年貢を畿内に廻送する必要に迫られていた。島津氏は福崎新兵 衛尉能安という人物を取り立て、その能力に大きく負うかたちで、 儀之調﹂や﹁屋形作之事﹂を遂行させ、年貢の確保やその畿内への廻 送を進めようとしていた。 次の史料は、能安が自らの職務に不正がないことを、島津氏家臣白 浜・吉田両氏に対して誓った起請文である。 ︻史料二︼福崎能安起請文 敬白起請文 ω 一、右意趣者、今度大広間弁御台所門作ニ付、材木等被仰付候、 然者礼儀として、金銀米銭をとり、御ためあしき様ニ仕まし く候事、付先年御台所作之時、物之主へ被成御付候、其時も 諸細工人より礼儀として、金銀米銭少も取不申候事、 ω 一、今度御国のもとにて請取可申八木井其うりね、少も私曲仕 ましき事、 ω 一、天正拾九年なこやへ替米之御使仕候、其八木のうりね、井 天正拾九年薩隅諸県よりまかりのほり候八木、拙子も請取申 候、其八木之内、少も私曲不仕候事、 ニ、出合とも在之様ニ承付候、天正拾六年以来、御取次衆へ ω 一、摂州能勢郡之内拙者代官所へ、御朱印余慶候て相紛申様 得御意、御朱印之高之ことく所務仕来候、惣別代官仕候内、 或者御朱印之高之外、或者そんめんの上にもりましをかけ 候て、八木少も私曲不仕候事、井毎年百性請状と渡シ方之請 取引合、遂算用申候之条、其紛無之候事、付天正拾六年、先 代官納候由承、鳥目七貫文致納所、御算用状ニ払申候事、 ω 一、京都蔵入、天正拾九年井文禄弐年納所分、文禄弐年卯月、 於名護屋算用之時、幽斎様御内仁麻植吉左衛門尉殿御札明ニ 付、麻植殿御陳所へ罷越、算用所へ不罷出前ニ、算用状麻植 殿へ得内談、仕替候て、遂算用申候由、取沙汰在之様ニ承付 能安(花押) 福崎新兵衛尉 候、曾以不仕替候事、付議人御札明候者、恭奉存へき事、 右之趣若於偽申上者、 (中略) 文禄参年 七月廿八日 白浜次郎左衛門尉殿 吉田美作守殿 福崎能安は、第一条で伏見城作事に関係する商・職人からの賄賂を 受け取っていないこと、第二条で島津領固からの廻送米を不正に売却 していないこと、第三条で天正一九年(一五九一)の名護屋での替米、 島津領固からの廻送米について不正を行っていないこと、第四条で摂 6 3 京 研究論文 このような状況に対して、三成家臣の安宅氏は慶長元年(一五九六) 一一一月、島津義弘に宛てた書状で、 津国能勢郡代官としての担当分について不正を行っていないこと、第 五条で天正一九年、文禄二年(一五九三)分の算用について、細川幽斎 上着之員数引合請取、払方を改可申候問、幸侃・肱枕・福崎ニ右之通 ﹁惣別御国元占毎々送状之員数 家臣の麻植氏の札明を受けているが、承諾を得て無事算用を遂げたこ 可被仰付事﹂と、伊集院忠棟・川上忠智・福崎能安に﹁払方﹂の改変 をさせるように指示してい活。 とを書っている。 第四条からわかるように、能安は天正一六年から摂津固能勢郡の代 ( 2 ) 島津氏の借用先 官を担当している。また第二、三条からは、薩摩からの廻送米の請取・ 換金、替米の対応をするなど能安は、経理に長けていたことがわかる。 島津氏は太閤検地によって、多くの蔵入地・浮地を獲得した。これ によって、島津氏の財政状況は好転したのだろうか。 史料一で三成が﹁能勢郡ハ所務等も最前ヨリ手間不入所﹂と評してい るが、福崎氏はそれを可能にしている人物であったといえよう。 ﹁去年分漸米大豆共ニ四万石計相納 候由申候(中略)大坂堺へ弐万石計上着之由候、但此弐万石之内も京都 文禄四年の安宅秀安の書状は、 臣式の在地支配に不慣れであった島津氏にとって、在地支配や経理に にて借銀之衆御国へ罷下、国にて米請取候分を、弐万石上着ニ相寵而 先にみたように、算用帳の作成や貢納物と帳簿の照合作業など、豊 長け、豊臣政権中枢である幽斎、三成との関係をもっ能安は重要な人 御作事彼是ニ不引足候﹂と述べていお)。太閤検地後も島津氏は多額の 之事ニ候、京都借銀方只今算用之究、本利共百貫目余在之由候、京都 北島万次氏は、能安を石田三成と親密な関係にある商人代官である 借銀に苦しめられており、薩摩から大坂・堺へ廻送した米も京都の﹁借 物であった。 とみなし、島津氏の財政は究極的に豊臣政権に把握されていた、とし 銀之衆﹂への返済分にあてられていたのである。 (沼) ている。また、岩川拓夫氏は、島津氏の借銀を道正庵宗固が取り次い 太閤検地によって、島津領国には、太閤蔵入地、石田コ一成領、細川 (釘) でいることや、島津氏が宗固に名護屋への替米・替銭の手配を一任し 幽斎領が設置され、これらの年貢納入は、島津氏の責任とされた。文 (咽品) ていることを指摘していお)。宗国は、福崎能安と同様に島津氏の財政 禄四年分の年貢は、太閤蔵入地では完納された。 一方で、石田三成領 文禄四年分 ︻史料一二︼文禄四年石田三成蔵入目録 の納入状況は史料三から確認され泌。 に関わっていたといえよう。 山本博文氏が指摘するように、この頃の島津氏財政は、能安などの 個人の能力に依存したため、チェック機構が未整備であった。史料二 はそうした深刻な実情も示してい起。 6 4 島樟氏の財政構造と豊臣政権〔桐山〕 石田治部少輔殿蔵入目録之事 米 合三千六百拾六石七斗七升 此代 合銀三拾壱貫百四匁壱分二り 右利平、去四月より閏七月迄五ヶ月之利平銀四貫六百六拾五匁六 人相中ニ、菊屋宗可老右京ニて小袖買申候代物未進分にて候、然 者慶長七寅之年、菊屋次郎三郎殿帖佐江下向ニ而候問、右之銀子 返弁仕度候、去なから両人上方ニ而被相終候条、同前ニ返弁申儀 難成候、我等手前之分御算用被召分、書物給候ハ¥返弁可仕之 由申候得者、彼書物給候而追付返弁仕、請取状確ニ請取置候、如 慶長七年寅 此相済申たる儀候条、後日少も入組あるましく候、為其墨付如件、 七月十七日 本田勝吉殿 まいる 花 押 慶長四年己亥 状如件、 弁、縦此三人之内壱人難有之、返弁之儀堅可相済者也、何後日 返弁候、至此銀子者、天下一統之徳政有之共、不混他ニ可令返 右者利平壱貫目ニ付一ヶ月四拾匁ツ¥本利共ニ当年中ニ可致 合弐貫日者 就惟新所用之儀借用申銀子之事 ︹轟弘) ︻史料五︼銀子借用状 (辺) おり、島津氏と密接な関係にあったことが確認される。 銀九匁九分﹂を送っている。また宗可も﹁かたひら二ツ﹂を贈答して の上洛に伴い、島津氏は宗可に対して、礼物として﹁鳥目三貫文 ので、取立てを行っていることが分かる。慶長三年の島津忠恒(家久) が代金未納であった。一族と思われるの菊屋次郎三郎が薩摩に下向した 傍線部から、助丞ら島津氏家臣三名が菊屋宗可から小袖を購入した ⑮ 塁 分五り、 閏七月廿八日 但壱ヶ月ニ壱貫目ニ付利平舟目ッ、、 以上 文禄五 (秀貴) 安宅三川守殿 史料コ一では、三成領の年貢三六一六石七斗七升が未納であったため、 未納の石高が銀に換算され、五ヶ月の未納期間の利息が計算されてい る。島津氏は三成領の年貢を皆済することができなかったのである。 以上のように、太閤検地によって蔵入地が増加したが、島津氏の財 政状況は好転しなかったことがわかる。では、文禄四年の安宅秀安の 書状に見える、京都の﹁借銀之衆﹂とは、どのような集団であったの だろうか。島津氏が京都の商人から借用している事実は、次のような 史料から確認される。 (却) ︻史料四︼借銀証文 誼文 6 5 ji 此銀子六拾八匁之事者、財部伝内殿・中馬甚右衛門尉殿・我等三 代 存 旅 松琶庵邑 研究論文 材木屋 八月十日 与兵衛殿 まいる 新河本 納上田 旅亘四源 庵主郎右 兵衛 衛門 尉 史料五の銀は義弘が所用があって借用したものであるが、史料四の 済慶 返に 状長 官里 ; 史 民逗 Eて r Z 実 る3a 菊屋の件と同様、材木屋与兵衛から島津氏家臣三名で借用している。 書利 か息 れと たも 4 i d 華字 聾 2ぎ が の 括 が実施されることとなった。豊臣政権は島津氏が財政窮乏している要 うけて決定的なダメージを負い、細川幽斎、石田三成による太閤検地 天正期において窮乏していた島津氏財政は、朝鮮出兵・梅北一撲を ( 3 )小 てよいだろ、っ。 菊屋との密接な関係から考えると島津氏の公用に使用されたとみなし 必ずしも島津氏に直接貸し付けられたものとは言えないが、島津氏と 用しており、近世の﹁藩﹂に対する貸付とは異なっていた。史料四は ようになった、と述べている。史料五では義弘の所用に対して銀を借 (斜) 期になると藩の構成体としての藩主・家臣団を対象に貸し付けられる 朝尾直弘氏は、上方借銀は個人を対象としたものであったが、寛永 裏元 書本 因として、代官支配、畿内への貢納物の廻送、売却、管理のシステム が未整備である点をあげていた。島津氏は、在京賄料代官である福崎 能安などの個人的能力に依存する体制から脱却する必要に迫られ、石 田三成方からは﹁改方﹂の改変を指示されている。 慶長初期における島津氏財政機構の再編 第二章でみたように、太閤検地実施後も、島津氏は厳しい財政状況 に置かれていた。その要因の一つに、島津氏の財政機構の未整備があ ったと推定されることはすでに見たとおりである。 本章では、そうした状況を克服するための財政機構の改変がどのよ うに行われたのかを検討していく。 ( 1 ) ﹁上方算用聞﹂の設置 慶長三年(一五九八)五月、蔵入地の代官たちを統括する﹁算用聞﹂ が設けられた。そのことを示すのが次の史料六であ話。 ︻史料六︼石田三成・島津義久連署書状 ω 一、算用所へ用所無之仁、出入令停止候、縦難為代官、手前算用 無之仁者、出入無用之事、 ω 一、従算用聞用所有之呼ニ遣候、路次遠近日時をかんかへ、成作 ニ付而、鳥目百疋可出之、千石より内代官も可順之、自然依人 病、或号他行遅参、又者日限於相違者、為過怠千石之代官之高 於令用捨者、四人之算用聞より、弐百疋可取之事、 ω 一、算用出入穿盤之刻、不寄誰々、物からかい仕、悪口在之候、 n o p o 島樟氏の財政構造と豊臣政権〔桐山〕 縦為理いふとも、代官可行曲事、然間算用聞申度僅ニ、存分ニ て不相届儀在之者、任理之旨、此方へ可訴之事、 同一、万物奉行相定上者、諸事奉行可随下知、若違背之輩急度可及 ω 一、於算用場、食一汁一菜井中酒一反之事、 曲事之事、 右条々於違犯輩者、四人之為算用聞可申上、若於見隠者、誓 紙之上ニ候条、四人可行曲事者也、何如件、 慶長三年 ω 一、従薩摩上候米、大坂にて請取奉行可被相定之事、 ω 一、右之奉行手前より八木相払時ハ、算用聞之切手を取可払候、 付、俵ハ二重たハらニ仕候て、可上候問、たハら一えのふん 切手も不取払候者、算用ニ立間敷事、 ハたくわへ可置候、ゆいなわ同前之事、 之たちね可相定之事、 ω 一、大坂にて八木金銀に相払刻者、算用聞より奉行を遣し、八木 ω 一、八木相払候金銀、義久かたへ直ニ可上候、如定符を可付、封 切候時間前之事、 久へ可申理之事、付作事方同前之事、 ω 一、呉服方万買物之儀、算用ヨリ能せんさくいたし、銀子之儀義 同一、摂津・播磨知行方、免目録之帳、毎年十一月中ニ可請取事、 相尋事、 的一、摂播之免目録之帳上候者、村々物成無相違候哉、百姓前を可 {伊集院且棟) 同一、口米ハ壱石ニ付弐斗、あけおろしの出目も弐升可在之事、 台所方入用之覚 例一、扶持方升相定、幸侃判形可在之事、 小払帳目録ニ仕立相添、縦拙者隙入不見届候共、直目之上者如 (置) ω 一、飯米方日々入用書付之帳、次之月頭ニ遂算用、切手を可出事、 ω 一、塩噌炭薪油、旧冬如相改たるへく候事、 ω 一、小遣方之儀も、右同前之事、 ω 一、上方算用聞四人間定趣、十二ヶ月を四度ニ、三ヶ月限ニ可聞、 石田三成と島津義久が、四人の算用聞に対し、畿内での収支に関する 右、如此相定候を、何かと候て、帳目録不作立置候者、誓紙之上 立、次二月迄之算用結そへ可上、閏月も其可為算用事、 ハ、あとの算用き、きかれ間敷候問、極月之算用ハ明正月に聞 り三月迄之算用にて、四ケ度ニ候へ共、一ヶ月おいくり候ハね 此仕立、何時も見可申との時、無相違可上候、たとへ者正月よ ぞれについての指示を与えている。 ﹁上方之覚﹂、島津氏の生活の収支に閲する﹁台所方入用之覚﹂それ この算用聞の具体的な職務内容が分かるのが、次の史料七であ泌。 たのである。 チェックする算用所という機闘が設置され、四人の算用聞が配置され 算用聞は、四人であることが分かる。蔵入地の代官たちの職務内容を 規定、第五条で奉行の下知の道守が命じられている。また、末文から で公正な取り調べが遂行されないときの対応、第四条で算用場の食事 への出頭要請の道守と違犯の際の罰則、第三条で算用にかかわる相論 第一条で算用所への無用の出入りの禁止、第二条で算用聞から代官 五月廿二日 花押 押 ) (花 ︻史料七︼石田三成・島津義久連署覚書 於上方之覚 6 7 少( 治会竜韮 部屋伯五 研究論文 言無沙汰為過怠、各知行之物成五分一を可召上者也、何如件、 慶長三年 五月廿二日 (花 花押 油は昨冬に改めたようにすること(具体的内容は不明)、第三条で小遣 方も同様に昨冬に改めたようにすること、第四条で上方算用聞を四人 設置し、それぞれが三ヶ月を担当し、小払帳・目録は作成すること、 となっている 。宛名の本田公親・新納教久・河上忠智・河上久国が﹁上 方算用聞﹂の四人であると考えられ話。 ﹁算用聞﹂という役職が設置されたことが分かった。この算 以上にみてきた史料六・七から、慶長三年に﹁算用所﹂という機関 ができ、 用聞の職務は、 ①代官の監視、 ②市場の把握、 ③島浄家の経理全般の 把握の三点にまとめることができるだろう。 ①代官の監視としては、蔵入地や在京賄料からの年貢収奪の徹底、 呉服購入は相場等をチェックし島津義久へ説明すること、作事も同様、 を付け、これらの金銀を使用する際も﹁符﹂を付けること、第五条で 島津義久へ直接上納すること。その際、 (金銀の額を記した文書) から奉行を派遣して交換相場を定めること、第四条で換金した収益は する際は、入念な市場調査を求められている。豊巨大名として生き抜 また、銀によって絹織物である呉服を購入したり、作事に支出したり し、管理をする 。その際に、切手を発行し、不正の撤廃を図っている 。 主要な職務は、②市場の把握であった。領固から輸送された米を換金 り重要な職務であったと考えられる。 一方で、上方算用聞にとっての 不正の撤廃を図るものといえよう。これは、領国の算用聞にとってよ 第六条は摂津・搭磨の知行地の免目録帳を毎年一一月中に請け取るこ くために、贈答儀礼や豊臣政権内での交流で使用する呉服を調達し、 ﹁ 符 ﹂ と、第七条は摂津・播磨の免目録帳に不備がないか百姓に尋問し確認 豊臣政権から課せられる天下普請を遂行していく必要があったことが A e 上候﹂とある。算用聞は、義久のみならず三成によってチェックされ 入不見届候共、直目之上者如此仕立、何時も見可申との時、無相違可 ﹁離拙者隙 すること、第入条は代官の権益である日米は一石に付き二斗、輸送の ﹁台所方入用之覚﹂は、第一条で飯米方は入用書付帳を次 院幸侃の判形があるものを使用すること、としている。 次いで、 ところで、史料七の﹁台所方入用之覚﹂の第四条には、 読み取れる 。 (米の引渡しの証明書)を取ること、第三条で大坂での換金は算用聞 行の設置、第二条で請取奉行が米を換金・換銀する際は算用聞の﹁切 ﹁上方之覚﹂では、第一条で薩摩から輸送した米を収納する請取奉 押 } 月の頭に算用をして切手を発給すること、第二条で 塩 ・味噌・炭・薪・ 6 8 少( 上上納田 左(三ご孫(与( 近孔河E 右教左企 将国守:衛久衛彊 監)入Z 門)門) と 道ふ尉 尉 のととと へののの へ へ へ 治三竜語 部引自主 i 可河新本 積上げ、下ろしの出目も二升とすること、第九条で扶持方の升は伊集 手 島樟氏の財政構造と豊臣政権〔桐山〕 る立場でもあったのである。 し墾 長 室 書争 Z3 状r.> ・丙 伊 五隻 島棟 津圭 氏 i の ) 静窓 ︻史料八︼伊集院幸侃書状 此御小者参候ニ御状具令披見候、 (中略) 状義 況久 何を申候て茂徒事候、只今成共大閤御蔵米上着候者、少つ冶の 置、存を被付せ候て被召置候条、こなたの御用ニ不罷立候、然間 米ニなづけられ、可被指出之由、②治少様被仰候て、大坂蔵ニ被入 上、いつれの御蔵米ニて候共、さつまよりの上米ニて候者、御蔵 米曽而無之候、三口より少々上り候も、大閤様御蔵米去毛依不罷 一、①今度又八様呉服之儀被仰越候、則雄可申付候、御国元より上 財が 政 之儀、不残罷上候様ニと可被仰越候、左様ニ候者、此中の上御蔵 米ニて御きる物も可相調候、今分ニ候てハ一円不罷成候、乍去只 今茂上米候者、次第二調へく候、又八様御蔵米子今然々不罷登 ︿朱書) 候、咲止迄候、右之趣宜預御取合候、恐憧謹言、 ﹁慶長三年﹂伊右入 幸侃(花押) る覚書を出している。以下ではその内、数ケ条を紹介する。 三成は、以上のような状況に鑑み、島津氏家臣団に二 O ヶ条からな に対してはより厳しい措置を受けていたのである。 年貢が未納であった場合は、借銀扱いにされたが、豊臣蔵入地の未納 の蔵米が差し押さえされている。第一章で確認したように、コ一成領の 臣蔵入地の年貢が未納であったため、代官である三成によって島津氏 ら納めることのできない厳しい状況に置かれていることが分かる。豊 つまり、島津氏の財政状況は好転しておらず、豊臣蔵入地の年貢す 自由に使える財源が確保できない、と述べている。 め、差し押さえを行なっており、幸侃は豊臣蔵米の完納をしないと、 分かる。また、傍線部②で、三成が豊臣蔵入地の年貢が未納であるた 米も、豊臣蔵入地の年貢が未納であったため、没収されていることが られたが、国元からの廻送米が無い。島津氏蔵入地からの少しの廻送 傍線部①によると幸侃は、島津忠恒から呉服を調達するように命じ 頭き月 御 殿九 報 日 史料六、史料七で、島津氏当主の義久と三成が連署している点に、 喜一 国 語 島津氏財政機構やその具体的運用に対する、三成の深い介入がうかが に津 対家 書量七 える。三成の監視下において、島津氏は代官や出納関係の諸業務に対 するチェック機関を整備することができたといえよう。 ( 2 ) 石田三成による干渉 第一節で見たように、算用所・算用聞を設置し、財務にかかわるチ 田は エツク機構を整備した島津氏であったが、その財政状況は好転したの 鎌八 御自用者可罷成候、是非共御国元へ被仰越、大閤様御蔵米去毛 6 9 だろ、っか。 家 相変わらずきびしいものであったことが読み取れる。 老次 での あ史 る料 がの 研究論文 田 成 覚 書8 (中略) 覚石 江本田寿堅田志田田 忠平太雇 六 E嶋越通出正 兵四郎き 右翌紀面前き羽空 衛郎左 衛伊き入入 殿殿衛 門守道道 門 尉殿殿殿 尉 殿 殿 は、このような状況を打破するべく、島津氏の﹁役人﹂たちが代官た 以上から、算用所・算用聞の制度は、領国の家臣たちには容易に受 の財政は、三成によって統制されているかのようである。 付きの許可証がない限り使用してはいけない、と述べている。島津氏 債務の返済と島津氏の必要経費を除いて、蔵に入れ、三成と義久の判 また、島津氏の蔵入地からの収入の使用方法について、第一七条で、 能性を指摘し、対応方法を指示している。 京都商人たちゃ借用を担当した上方の家臣たちが不正を行っている可 りを本年度の年貢から捻出することを許可している、ここで、三成は、 崎能安が京都商人を連れて下回し、代官たちに未納分を返済させ、残 島津氏の多額の負債への対応として、第一一条がある。ここで、福 ニ被頼高利にて借銀候を拙者聞付、左様ニ不可有儀ニ候、且者 (中略) 十一月廿三日 治部少輔在判 も京都ハ大豆のねよく候、其心得尤に候事、 同一、来年ハ京都大豆よく可在之候之問、其許可為其分候、今時分 子両判無之候ハ、、蔵之封を不可切事、 国本台所飯米、来三月迄の分引のけ置、残分ハ京都B義久・拙 官にでも役人にでも、如有来可念入、付福崎方へ相渡分弁コ一殿 入、コ一殿役人衆我等両人として、所々蔵ニ封を付、番之儀者代 制一、三殿当物成七万三千八百拾六石之事、井右汎地物成共ニ蔵ニ (中略) 渡候旨約束申候問、其旨得心候而可被申付儀専一候事、 於給者、利足致失墜、借状可返之手筈ニ付而、国元ニて人木可 ちを説得するように働きかけることを命じている。 制度に対して、領国の代官たちは反発していたと推定されよう。コ一成 に応じていないことがうかがえる。新たに設置した算用所・算用聞の 第一 O条では、三殿(義久・義弘・忠恒)の蔵入地の代官たちが算用 入橋平長証本此山町 商人共曲事由申付候、然者商人共申候者、出銀之八木国元ニて ハ、被借候時ニ使申衆、義久ためニなる用ニいたさす、かし手 時之借状、米渡候時取返し、墨をひかれ候へく候、如此申候故 年難櫨引渡、猶不足分ハ当米渡申へく候、於京都銀子かられ候 制一、京都借銀之儀ニ付而、商人福崎同道下着、然間諸代官前此跡 候、此方より代官中へ折紙遣候事、 之儀候間如此候、然間諸代官衆中へ、従役人中折紙をも可被遣 行を遣彼是申付儀も、争我等之ために可在之候之哉、三殿御頼 る、にハ有ましく候、コ一殿ためを不被存ニあるへく候、其元奉 申越候、我等をかろしめらる、と各被存候か、我等かろしめら 同一、諸代官衆、算用結奔不応配頓不参之旨、入江・橋本かたより 九 慶長三年 7 0 史 料 島樟氏の財政構造と豊臣政権〔桐山〕 け入れられず、豊臣蔵入地の収納もままならない状況であったことが 多額の出費に迫られ、財政が危機的状況にあった。財政逼迫の原因に 文禄期の島津氏の財政構造は、組織的に機能していなかった。伊集 はその他に、財務のチェック機構の未整備、代官たちの年貢の出し渋 対応を指示する一方で、島津氏の蔵米の使用を統制した。ただ、三成 院・新納・町田といった老中・家老クラスが豊臣・島津蔵入地及び石 わかる。 一方で、豊臣蔵入地の未納問題は、石田三成からの干渉を受 は、第一一条で見たように、債務への対応の仕方を助言したり、畿内 田三成領の収納の責任を負っていた。また、それを畿内に廻送して売 りもあった。 での大豆相場を教える(第一八条)など、島津氏にとって有益な情報を 却・管理することは、在京賄料代官である福崎能安が担当していた。 けるきっかけとなった。三成は、年貢の収納を担当する代官たちへの 伝える存在でもあったのである。 基本的に個人の能力に大きく依存している体制であったことが分かる。 からの適正な年貢徴収、畿内の算用聞は国元から畿内への貢納物の適 算用聞は領国内と畿内に設置された。領圏内の算用聞は蔵入地代官 く年貢を収取することが目的であった。これは、文禄期において個人 した。国元の算用聞は代官の監督が主要な職務であり、取りこぼし無 長三年(一五九人)に財務のチェック機構である算用所・算用聞を整備 このような事態を改善するために島津氏は、三成の指導のもと、慶 正な廻送、売却、管理を職務としていた。これによって、島津氏は、 的裁量に依存していた財政構造からの脱皮を図ったものといえよう。 ( 3 )小 領国の代官に対する監査を行い、領国と畿内をつなぐ官僚機構を整備 分、代官の管理が徹底された。 一方で、島津氏は太閤蔵入地の蔵米納 慶長三年の算用開設置は石田三成の指導のもとで実行され、蔵米処 た当初の段階から積極的に行われたのではなく、豊臣政権の要求する 三成など豊臣政権の吏僚層からの干渉は、島津氏が豊臣政権に服属し 蔵入地の年貢も満足に納められず、三成による干渉を受けた。つまり、 ただし、新しい体制が領国内ですぐに受容されることはなく、豊臣 入がままならず、危機的な財政状況を変化させるにはいたらなかった。 軍役等を島津氏が満足に果たすことのできない状況を挺子にして開始 しょ、っとしたといえよ、っ。 三成の﹁内政干渉﹂はさらに進み、島津氏蔵入地の貢納物の使用にも されたのである。 ていくための呉服などの物品調達、作事の差配などを行うためであっ 要な職務であった。これは、島津氏が豊臣政権の一員として生き残つ また、畿内の算用聞は、代官の監督ではなく、畿内市場の把握が主 三成の許可が必要となった。 おわりに 豊臣政権下の島津氏は、朝鮮出兵や在京のための費用の調達など、 7 1 括 研究論文 た。算用聞の設置は、それまで福崎などの個人的能力に依存していた 状況を改善し、島津義久直属の担当機関への移行をはかったものとい h えよ、っ。 島津氏は、三成から一方的に干渉を受けていただけではなかった。畿 内の経済状況に詳しい三成から、﹁算用聞﹂設置のアドバイスを受けた り、大豆など雑穀等の相場情報を得たりしていた。島津氏が豊臣政権下 で生きていくためには、三成からの情報は必要不可欠であった。 島津氏の経済は、戦国時代まではおおむね領囲内で完結していた。 しかし、文禄・慶長初期には、先進的な経済地域であった畿内と密接 な関係を結ばざるをえなくなり、財政窮乏を招いた。そこで三成の指 導のもと、算用所・算用聞を設置して対処をはかった。これが、個々 の担当者の裁量に依存する中世的なあり方ではなく、近世的な官僚機 構の整備へと脱皮する契機となった。 ﹁日本の鳥目他国へ遣候儀、京都御成道之儀候 ただ、島津領国のすべてが畿内経済圏に包摂されたわけではない。 史料九の第一五条に、 問、分領中より銭唐国へ被遣ましく候﹂とある。これは、日本の銭貨 を支払手段とする明との貿易を禁止するもので、島津氏が室町期以来 の国際貿易関係をこの段階でも保持していることがうかがえる。この ように、島津領国の地域経済圏はなお独自の流通ネットワークを維持 し、それは国外まで広がっていたと考えられる。このような中世的な 経済やそのシステムが最終的にどのように近世へと移行していくかの 解明は、今後の課題としたい。 ︻ 註 ︼ O O八年、初出一一九六四年)。 (1) 山口啓二﹁豊臣政権の構造﹂(﹃ 山口啓二著作集﹄第二巻、校倉書房、 山本博文﹁豊臣政権期島津氏の蔵入地と軍役体制﹂(同﹃幕藩制の成 済圏と﹁領﹂│﹂(同 ﹃ 戦国大名権力構造の研究﹄、思文閤出版、二 O 一一一年、初出一二 O O二年)。 一 村井良介﹁一六世紀後半の地域秩序の変容│備後地域における地域経 (2)一 (3) 立と近世の困制﹄、校倉書一房、一九九 O年、初出二九八三年)。同﹁豊 臣政権下の島津領国﹂(同﹁幕藩制の成立と近世の国制﹄、校倉書一房、 一九九 O年、初出一一九八四年)。 ﹃ 鹿児島県史料旧記雑録後編﹄ ( 以 後 、 ﹃ 旧記﹄)二四一 O。 構造と束アジア﹂(﹃史学研究﹄一一七七号、二 O 二一年)等。 本史研究﹄五八五号、二 O 一一年)、本多博之﹁戦国豊臣期の政治経済 日 年、初出一一九六三年)、本多博之﹁中近世移行期西国の物流﹂( ﹃ 元和・寛永期の細川藩﹂(﹁朝尾直弘著作集﹄二、岩波書応、三 O O四 文献出版、一九人O年、初出一一九六三年)、朝尾直弘﹁上方からみた 城島正祥﹁慶長元和期の佐賀藩財政﹂(同 ﹃ 佐賀藩の制度と財政﹄、 二号、二 O 二三年)。 吉川弘文館、三 O 一O年、初出一一九九三年)。 平井上総﹁中近世移行期の地域権力と兵農分離﹂( ﹃ 歴史学研究﹄九 (4) 池享﹁戦国・織豊期の沼津﹂(同﹁戦同期の地域社会と権力﹄、 (5) (6) (7) 旧記﹄一一│四一四。 ﹃ 北島万次﹁朝鮮侵略と大名領国の論理│島津氏の場合│﹂(同 ﹃ 豊臣 御茶の水書房、一九六三年)。 近世封建社会の経済構造﹄、 (9) 脇田修﹁近世的全国市場の形成﹂(同 ﹃ (8) ( m ) ﹃ 旧記﹄一一│五O七 。 ﹃ 旧記﹄二五O 一 旧記﹂一一│七六九。 。 ﹃ 政権の対外認識と朝鮮侵略﹄第四章、校倉書房、一九九O年)。 ( 辺 ) ( 日 ) ( 日 ) 7 2 島樟氏の財政構造と豊臣政権〔桐山〕 (U) 岩川拓夫﹁中近世移行期における島津氏の京都外交│道正庵と南九州 │﹂(新名一仁編 ﹃ 薩摩島津氏﹄、戎光祥出版、二 O 一四年、初出一一一 )0 利平六百人拾入匁 本利合弐貫六百人拾入匁 内本銀壱貫目、但慶長五年コ一月渡申候、 利平五十六匁 慶長五年卯月分 残而本利共合壱貫六百八拾入匁 旧 記 ﹄ 二 五 人O。 ﹃ ﹃ 旧記﹄二四四三。 0 0九年 旧記﹂一一│七五人。 ﹃ (日) (路) 旧記﹄一一ー一四人入。 ﹃ 旧記﹄一二一五人。 ﹃ (お) (但) 然処五十石旧冬受取申候、残而五十五石分、銀〆七百 目之懸り也、 哲男編﹃戦国大名家臣固辞典西国編﹄) 。 ﹃ 旧記﹄三五人四・五八五。 (大阪府) ﹁上方算用聞﹂には上級家臣が就任したと考えられる(山本大・小和田 本田公親は義久の家老、、河上忠智は義弘の家老を務めたと伝わり、 旧記﹄四四二二。 ﹃ ﹃ 旧記﹄三四二一。 朝尾前掲論文注 (6) 。 まいる 与兵衛殿 材木屋 慶長五庚子卯月十九日旅庵 (新納長住) 右之利平之事、壱貫目ニ付一ヶ月ニ一一一十日ッ、の利平也、 残而壱貫五百目又借用慶長五年五月δ 九百四拾三匁九分、但慶長五卯月ニ済也、 合弐貫四百四拾三匁九分 二口 壱貫目者 慶長四年拾月御借用ニて、米百五石可被相渡兼約候、 右之外 本利合一貰七百四拾四匁也、 (げ) )0 中野等﹁豊臣政権の地域支配﹂(同﹃豊臣政権の対外侵略と太閤検 旧記﹄一一ー一五四人。 ﹃ (mm) (国) 地﹂、校倉書房、一九九六年 (却)山本博文﹁細川幽斎島津領﹁仕置﹂の政治史的位置﹂(同﹁幕藩制の 成立と近世の国制﹄、校倉書一房、一九九O年、初出一一九八二年)、山 本前掲論文注 (3) 。 )0 (幻) ﹃ 旧記﹄一一ー一三六一。 (沼)北島前掲論文注 ( m )。 (お)岩川前掲論文注(弘 (お) (担)山本前掲論文注 (3) 。 (お) ﹃ 旧記﹄三九二 ﹃ 旧記﹄一二一 O二一。 (釘) (お) ( 同 ﹃ 豊臣氏九州蔵入地の研 旧記﹄一二一六六一。 ﹃ 究﹄、吉川弘文館、一九人三年)。 (幻)森山恒雄﹁薩摩島津領内設置の蔵入地﹂ 旧記﹄コ下四一九。 ﹃ (mm) (初) (お) (担) 旧記﹄三│八五二。 ﹃ (お) ( お ) ﹃ 旧 記 ﹄ 四 四 三O。 (沼) 旧記﹄コ下八五三。 (お)裏書は ﹃ 慶長四年八月借用 右本銀弐貫目 慶長四年八月8同五年三月まて 7 3
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