都城と都城島津家

都城島津伝承館収蔵史料展
都城と都城島津家
鹿児島城下図
展示期間 平成27年2月11日(水)~6月28日(日)
都城島津邸
凡
1
例
この書は、平成 26 年度都城島津伝承館収蔵史料展「都城と都城島津家」(会期:平成 27
年 2 月 11 日~)展示パンフレットである。
2 本書にて用いた法量は原則的に cm である。
3
本展の企画は、当館学芸員山下真一・米澤英昭・有満さゆりで行った。
4 史料の解説は、米澤・学芸員補坂元里彩・当館職員馬場晶子で執筆した。
5 本書の編集は、米澤が行った。
6 本展の開催にあたり、下記の方々の御協力を賜った。(順不同・敬称略)
島津 久友
日高 章
川島 絹子
大館 真晴
-1-
松山 良子
A
総論展示
していました。幕末の大館家当主であった晴勝も
まさにその血を受け継ぎ、連歌に長じ、また和歌
都城島津家史料は、鹿児島藩最大の私領の領主
や学問を京で学び、その才能を遺憾なく発揮した
であった都城島津家に伝来したもので、鎌倉時代
とされます。それは 24 代領主久本とその子久静
後期から近代にいたる史料が伝存しています。
から絶大な信頼を得、明道館の学頭をつとめたこ
都城島津家は、15 世紀中ごろの南北朝時代か
とからもわかります。文久2年(1862)、久静
ら明治 2 年(1869)の版籍奉還まで、現在の宮
が京へ出兵した際は、薩摩藩本隊に随行して京・
崎県都城市を中心とする地域を領主として治め、
大坂の不穏な情勢を収集・報告するなど、政治的
現在でも続いている家です。
にもその才を示した、優れた人物でした。
島津家の分家として誕生した都城島津家は、戦
国時代である 16 世紀中頃には都城盆地のほぼ全
ほんごうひ さ ま さ し ょ
2 北郷久政書(大館家資料)
域の支配権を獲得し、本家とは対等の立場で都城
北郷久政
を治めました。江戸時代には鹿児島藩の中で最大
の石高をもつ私領の領主として、そして明治期か
ら昭和戦前期には男爵家として都城市の象徴的
は 24 代久
発 不
十 時 動
四 如 如
歳 雷 泰
久
山
政
書
本の 6 男で、
25 代久 静
な家として存在してきたのです。
その都城島津家に伝来する史料群も南北朝時
代からほとんど散逸することなく現在に伝えら
れ、南九州の歴史研究において欠くことのできな
1幅
江戸末期(文久元年)
の弟にあた
ります。都
城 島 津 家
27 代当主久家の実父です。
い大変貴重なものとなっています。
この書は文久元年(1861)久政が 14 歳のと
おお だて はる かつ ぞ う
1 大館晴勝像(大館家資料)
1幅
きに書いたものです。
江戸後期
江戸初期、大館賢順は畿
内にて華道や源氏物語、連
くろうるしぬり ま る
江戸時代
歌を習得し、文化人として
の名声を高めていました。
これが藩主島津光久の目に
とまり、薩摩藩へ仕えるき
っかけとなりました。その
子元晴は、その上に医術ま
文箱とは、手紙等を
保管する際に用いられ
るもので、他へ手紙を
出すときにこれに入れ
て渡す場合もありまし
た。
で習得し、ますます重用さ
れていました。寛永期、光久の子久直が都城島津
家を継いだ際に都城島津家に入り、以来同家に騎
じゅう じ も ん き り もんちらし ま き え ふ ば こ
3 黒漆塗丸に十 字紋桐紋散 蒔絵文箱
(日高家資料)
1台
この文箱は島津家の正紋である丸に十字紋と
副紋である桐紋を蒔絵で散らした、重厚なつくり
になっています。
馬格として仕えました。
大館家は代々古今和歌集を修め、連歌を得意と
-2-
くろうるしぬり ま る
じゅう じ もんちらし ま き え きょうだい
B
4 黒漆塗丸に十 字紋散蒔絵鏡台
(川島家資料)
通史展示
1台
江戸後期
黒漆地に島津家の正紋である丸
に十字紋を散らした鏡台です。こ
のスタイルからして、婚礼調度と
して製作されたものと考えられま
す。
Ⅰ
中世の都城と島津氏
源頼朝が全国を統一するころになると、都城を
げ す し き
これむねただひさ
中心に広がった島津荘の下司職 に惟宗忠久 が任
命されました。ここから、島津氏と都城の関係が
始まります。
南北朝時代になると、島津氏の分家として北郷
氏(のちの都城島津氏)が誕生しました。北郷氏
は薩摩迫(都城市山田町)に入って以後、徐々に
くろうるしぬり ま る
勢力を拡大していき、やがて都城を拠城に都城盆
じゅう じ もんちらし ま き え く し だい
5 黒漆塗丸に十 字紋散蒔絵櫛台
(川島家資料)
1台
地の支配を確立していくのです。
江戸後期
し ま づ ほん そ う け けい ず
黒漆地に島津家の
7 島津本宗家系図
1巻
正紋である丸に十字
江戸後期
紋を散らした櫛台で
島津本宗家初代忠久から江戸後期の斉宣に至
す。これも鏡台と同様、
るまで、歴
婚礼調度として製作
代の氏名を
されたものと考えら
書き上げた
れます。
系図です。
きんなしじまるにじゅうじもんちらしまきえたちこしらえ
6 金梨地丸に十字紋散蒔絵太刀拵 1口
江戸中後期
ほんごうけけいず
8 北郷家系図
1巻
江戸後期
さや
拵とは刀身を外部から守る外装のことで、鞘・
つか
都城島津家史料と
つば
柄・鍔の各部にわけられます。この拵は、金梨色
して残さ れている数
の漆を塗り、島津本家の家紋をまんべんなく散ら
種類の系 図のうちの
し、柄は金襴仕上げで、金具にも丸に十字の家紋
1 つで、江戸後期に作
をあしらった、華やかな仕様となっています。
成し掛軸 にしたもの
です。初 代資忠から
24 代久本までが記さ
れています。
江戸時代には、藩に
よる系譜作成が行われ、それに伴って都城島津家
でも系譜の再検討を行い、氏名等、系図の内容が
変更されています。この系図にはその再検討が反
-3-
映されているようです。
田董親のとき、島津貴久に攻められて没落し、姻
戚関係にあった北郷家(董親の娘は北郷時久室)
けんむ
ねん
がつづけ ほ ん だ ひ さ か ね ぐ ん ちゅうじょう
9 建武5年(1338)7月付本田久兼軍 忠 状
1通
南北朝時代
を頼って庄内(都城)に逃れました。董親自身は
その後ゆるされ、嫡流は鹿児島城下士となります
が、董親の子どもである親豊は、北郷家の家臣と
「軍忠状」とは、合戦における自分の功績(軍
なりました。
忠)を将軍から認めてもらうために提出した申請
書のことです。
江戸時代、この本田氏の子孫と思われる「本田
市兵衛」によって、相伝した文書が一括して都城
これは、
島津家に献上され、現在に至ったものです。
本田久兼
が島津軍
お う えい
10 応永4年(1397)4月 23 日付
に属して
し ま づ きゅう てつ しょじょう
島津 久 哲書状
八幡城等
1通
南北朝時代
攻城戦に
島津久哲とは島津伊久のことで、父は師久です。
て軍功を
島津宗家 5 代貞久の 3 男師久は、弟氏久と宗
挙げたこ
家当主の座を争い、結果、師久の総州家と、氏久
とを書き上げたものです。
の奥州家に分立してしまいます。しかし師久死去
後、伊久は氏久とその子元久に従っていきます。
建 件 判 然 合 条 郭 御
早 戦 、 、 敵
武 、 、
為 且 之 小 自 構
五
備
預 間 笠 南 城
年
向
原 手 郭
七
御 令
後
「
見 孫 致 楯
承 月
亀 注 之 六 合 籠
了
鏡 進 、 ・ 戦 之
日
(
愛
花
、 、
且 於 甲 、 間
恐
押
頸
令 、
々 下 者 九 分 押
)
」
言 賜 捨 郎 取 寄
上 御 畢 同 壱頸 彼
如 証 、 所 之 城
八
幡
城
、
今
月
九
日
洞
塔
下
後
攻
、
属
于
当
御
手
、
自
六
月
廿
七
日
馳
向
ほんだけもんじょ
【本田家文書】
本田家文書は鎌倉時代以来の島
津家譜代の家臣である本田氏の相
伝した文書です。南北朝時代を中
心に多くの文書・系図が残されて
います。
本田氏は、南北朝時代後期に大
きよみず
隅国守護代となり、同国清水城(国
分市清水)を本拠としていました。
しかし、天文 17 年(1548)本
永
井
殿
卯
月
廿
三
日
久
哲
(
花
押
)
本
田
次
郎
左
衛
門
尉
久
兼
軍
忠
事
、
よって島津氏は元久を当主として日向進出を果
たしていきます。伊久は応永 14 年に死去。
この書状が出された応永 4 年頃、島津氏は日向
国山東地域への本格的な進出を開始していまし
謹 他 候 候
言 事 、 哉
、 候 定 、
、 可 次
委 聞 此
細 召 方
此 候 様
仁 哉 計
略
可 、
雖
申 重 之
候 言 次
之 候 第
間 、 、
委
令 弥 薩
略 憑 州
候 存 御
、 候 方
恐 外 へ
々 無 申
-4-
成
候
て
入
見
参
、
か
様
御
悦
申
持
度
候
、
定
御
同
心
候
間
、
千
万
難
申
盡
候
、
先
々
好
々
世
上
思
様
罷
無
是
非
候
、
殊
以
御
方
様
取
分
被
懸
御
意
候
由
承
事
者
堅
可
預
御
扶
持
候
由
承
候
間
、
御
芳
志
之
至
州
御
煩
ニ
罷
成
候
条
、
無
勿
体
次
第
候
、
但
弥
此
仁
有
幾
程
候
哉
、
目
出
候
、
叉
三
郎
参
候
、
就
諸
事
薩
差
寄
候
、
所
々
被
取
陣
候
由
承
候
、
御
退
治
不
可
就
其
薩
州
御
大
綱
併
察
存
候
、
雖
然
、
彼
在
所
ニ
被
其
堺
御
事
、
飫
肥
方
敵
方
同
心
由
事
無
念
存
候
、
先
日
進
状
之
処
、
委
細
御
返
事
于
今
喜
存
候
、
抑
た。伊久は永井氏に対して、敵方に同心しないよ
う、また、島津方へつくように説いています。
Ⅱ 鹿児島藩と都城
江戸時代の都城は島津本家が治める鹿児島藩
に い ろ い ん たかじょう こ せ ん じ ょ う ず
11 新納院高城古戦場図
1舗
に属していました。この時代は、戦国の世がおさ
江戸後代
まって 300 年近くも平和が続く「太平の世」と
いわれた平和な時代で、武士が中心となって世の
中を治めていました。
豊臣秀吉から祁答院へ移されていた北郷氏は、
島津氏と主従関係を結び、庄内の乱における活躍
によって都城への復帰を果たしたのです。その
後、北郷氏は明治維新まで鹿児島藩の「私領」都
城の領主として存続しました。
せ き が は ら せんじょうず
この絵図は、天正 6 年(1578)新納院高城(宮
13 関ヶ原戦場図
1舗
江戸時代
崎県木城町)において島津氏と大友氏が戦った様
子を描いたものです。高城に島津方がこもり、そ
の北側に大友軍が大きく軍を展開し、島津方が高
城川を隔てた南側の台地上に陣取っていた様子
が詳細に描かれており、いかに大きな戦だったか
を知ることができます。北郷家もこの戦に参加し
ています。
なお本図中央に見える北郷八幡に、北郷蔵人の
み の
慶長 5 年(1600)9 月 15 日、美濃国(岐阜
墓があることが記されています。
県)関ヶ原における、関ヶ原合戦の布陣絵図です。
た け の し た みやこじょう お し ろ ず
12 竹之下 都 城 御城図
これは一般に刊本として頒布された絵図面で、
1舗
江戸初期
いつだれが描いたものかは不明です。
北郷氏の居城であった都城は、永和元年
島津家は、関ヶ原合戦において西軍(石田三成
(1375)
、北郷家 2 代義久によって整備された
軍)に加担しました。勝敗が決し戦場を離れる際、
といわれています。江戸時代になり、元和元年
大将である島津義弘を守るため、「捨て奸」とい
(1615)に一国一城令
う戦法を用いて正面突破を図ります。この時に、
が出されたことを受け
多くの重臣・家臣を失うことになります。
すてがまり
て、北郷家はこの城を破
却し、大淀川を越え、今
の市役所一帯に館をか
まえました。この絵図は、
江戸初期に描かれたも
のと考えられています。
-5-
しょうないのらんしょじょうず
14 庄内之乱諸城図
てではなく、島津家の家臣として歩むことを決断
1 舗 (写真パネル)
江戸時代
し、島津宗家へはばかったから削除したのかもし
庄内の乱
れません。
は、慶長4年
この書状によれば、北郷家は豊臣政権へ贈り物
(1599)3
として味噌 100 桶を進上したようです。その返
月、京都伏見
事がこの書状です。豊臣政権期の貴重な史料です。
において島
津忠恒(後の
申 猶 来 噌
卯 者 石 、 百
月 也 田 悦 桶
本 朔 、 木 思 到
郷 〔
工 召
一
頭 候
〕
雲
可 、
斎
藩主家久、
1576
~
1638)が家
老伊集院忠
為
見
舞
味
棟を斬殺し
たことをき
っかけにお
まる
じゅう じ も ん く ら
16 丸に十 字紋鞍
1背
こりました。
江戸初期
うみ あり
忠棟の子忠真は父斬殺の報せを受けると、治め
すいかん ぐら
海有の水干鞍(日常の略装で用いる鞍のこと)
ていた庄内 12 の城に兵を入れ、抗戦体制に入り
で、前後輪に丸
ました。島津家は兵をだして鎮圧しようとします
に 十字紋を 金
が、事態を重くみた徳川家康(1542~1616)
蒔 絵であら わ
が九州諸大名を動員したことで、島津家の御家騒
しています。
鞍
動の枠を超えてしまいます。
の 内側に墨 書
本図には、各城の様子や戦いの状況が詳細に書
で 「貞享一 年
九月吉日」
と記
き込まれています。
されています。
と よ と み ひで よ し しゅいんじょう
15 豊臣秀吉朱印状
1巻
安土桃山時代
まん えんがんねん し が つ か じ や ま て ら は し ら や す ひ さ へ ん ろ そ え
ず
17 万延元年四月梶山寺柱安久辺路麁絵図
1舗
江戸後期(1860)
万延元年(1860)4 月、番所・辺路の配置に
は
豊臣秀吉が 10 代北郷時久(一雲)へ宛てた朱
じ き ち べ え
かかる見分の際に、薩摩藩裁許係の土師吉兵衛が
作成して提出した絵図のようです。
印状です。秀吉の朱印が押されていた部分は削ら
薩摩藩の東端にあたる都城と飫肥藩との堺近
れています。直接秀吉から朱印を受ける大名とし
-6-
辺にどのように番所が配置されていたかが詳細
の後、出島のオランダ人から西洋砲術を学び、高
にわかる貴重な史料です。
島流砲術を確立しました。天保 12 年には幕府の
命により江戸近郊の徳丸ヶ原にて西洋砲術の演
ほん こ ざ ね も え ぎ い と おどし に ま い ど う ぐ そ く
18 本小札萌黄糸 威 二枚胴具足
1領
習を行い、名声が挙がったのです。
江戸前期
この図は、天保 10 年 5 月、高島によって作成
17 代 領 主 北 郷 忠 長
された 10 匁目(約 38g)の重さの玉を発射す
(1645~70)の所用の
る銃の見取図で、長崎にて書写したと記載されて
ものです。忠長は藩主島
います。
津光久(1616~94)の
第 3 子で、彼の就任時に
さ つ ま つつ
21 薩摩筒
1挺
名字を北郷から島津に戻
江戸時代
しました。
兜は正面に丸に十字紋
を描いた金箔押の三つ鍬
形を挿しています。胴は
鉄砲は天文 12 年(1543)にポルトガル人に
前後 2 枚で、黒漆本小札
よって種子島に伝えられ、その後、種子島銃が日
を萌黄糸で毛引威にし、草摺も胴と同じ黒漆本小
本の主要な兵器のひとつとなりました。
しころ
札です。大袖や兜の 𩊱 も胴と同じ手法で、萌黄糸
やがて、島津氏領国一円にも普及していき、薩
一色の威毛で作られた具足は数少なく貴重なも
摩で生産される鉄砲は「薩摩筒」と呼ばれました。
のといえます。
その作りは、実戦での使用が重視され、極力華美
さ つ ま づつ
を排しているのが特徴です。
くろうるしぬり ぐんぱい
1握
都城島津家に伝来する鉄砲は 25 丁中 20 丁が
江戸後期~明治時代
火縄式の銃で、すべてが薩摩筒です。薩摩筒の存
19 黒漆塗軍配
木製黒漆塗に、表には島津
在は広く知られていますが、伝存品が少なく、こ
ぼんじ
本家の丸十字紋、裏には梵字
れまでその実態はほとんどわかっていませんで
たかまきえ
を、それぞれ高蒔絵で施して
した。今回、都城島津家にまとまって残っている
います。
ことから、その実態の解明が期待されます。
うちわ
軍配は、本来は軍配団扇と
いい、歩兵集団を指揮統率す
て っ ぽ うし ょう か いず
22 鉄砲詳解図
るために使用されました。
1枚
江戸中後期
火縄銃の各部位について記された絵図です。部
たかしましょじおぎのりゅうじゅうもんめつつのず
20 高島所持荻野流拾匁筒之図
1枚
江戸後期
位の名称が細か
く記されており、
江戸中後期にお
ける砲術に対す
る関心度の高さ
高島秋帆は長崎出身の砲術家です。長崎港の防
がうかがえます。
備を担当した関係で荻野流砲術を学びました。そ
-7-
かんぶん
23 寛文13 年(1673)8 月 29 日付
はん か ろ う し ま づ ひ さ たけほか よんめい れ ん し ょ お か き つ け
藩家老島津久竹外四名連署御書付 1通
江戸前期
藩から藩内各所への指示は
このような形で行われていま
した。
これは、酒造りと煙草栽培
について規制する旨を指示し
たものです。
出
雲
(
印
)
からくさ
市
正
(
印
)
新
八
郎
(
印
)
又
左
衛
門
(
印
)
弾
正
(
印
)
寛
文
十
三
年
丑
八
月
廿
九
日
へ
早
速
可
申
渡
者
也
、
ぼ た ん あぶみ
24 唐草に牡丹 鐙
意
、
賄
緩
疎
有
間
し
き
旨
、
所
中
一
被右
年た
之
以内は来付
丑上よこ迄、
仰通
り本可当
出今八
急田為座
候度月
度畑停造
条江日
可ニ止之
、戸
被弥事新
総従
申不、酒
而
付可
者
可御
事造
、
奉老
、之
得中
弥
以
其様
、
1双
時代不詳
売
へ
ら
さ
る
事
、
酒
商
売
可
仕
、
其
以
前
ニ
ハ
一
切
処
罪
科
、
但
来
年
二
月
よ
り
右
之
勿
論
、
其
名
主
・
五
人
組
迄
可
被
御
褒
美
可
被
下
之
、
違
犯
之
輩
者
曲
事
之
条
訴
人
ニ
出
へ
し
、
急
度
ニ
露
顕
た
り
と
い
ふ
と
も
、
可
断
多
作
之
族
あ
ら
は
、
た
と
ひ
後
日
数
去
年
之
通
可
造
之
、
若
令
違
背
可
為
無
用
、
寒
作
之
酒
ハ
米
之
員
一
諸
国覚
所
々
に
て
当
年
茂
冬
造
之
酒
みやこのじょう し ま づ け か ご し ま お や し き ず
26 都 城 島津家鹿児島御屋敷図
1舗
(写真パネル)
江戸後期
鉄製で、錆
江戸時代の初め、藩は
色に牡丹の花
地頭や領主に対して、鹿
をあしらい、
児島に屋敷を設けて居
周囲に唐草文
住するように命じまし
様を象嵌であ
た。
らわしていま
これにともなって都
す。
城島津家は、鶴丸城の南
東あたり、滑川の地に屋
ね り かわ さ び いろ ぬ り りょうひきあい
敷を構えました。
25 練革錆色塗両引合
なんばん ど う ぐ そ く
南蛮胴具足
この図はその都城島
1領
江戸中後期
津家鹿児島屋敷の詳細
23 代領主島津久統(1781~
な平面図です。屋敷地は現在の鹿児島市長田中学
1834)着用と伝えられています。
校南側一帯(現在の滑川交差点あたり)にあった
記録によると、この鎧は、家臣有
とされています。他の領主や地頭の屋敷図は今の
馬純治に命じて、8 代北郷忠相が
ところ確認されていませんので、領主の城下にお
着用した鉄錆地南蛮胴具足に似
ける生活を知ることができるたいへん貴重な史
せて作成させたとされています。
料だといえます。
-8-
かんえい
くちがらがき
27 (寛永20 年)未 9 月 8 日付キリシタン口柄書
1通
江戸初期(1643)
玄界灘に浮かぶ筑前
大島(福岡県宗像市)に
て捕らえられたキリシ
タンが、キリスト教布教
に関して答えたことを
まとめたものです。
も
日
未本
九ノへ
法
月
を
八
ひ
日
ろ
め
し
た
か
へ
ん
と
の
た
く
ミ
の
儀
ニ
候
事
、
えんぽう
国
々
の
伴
天
連
と
も
ニ
遣
し
、
学
文
を
い
た
さ
せ
申
候
、
い
つ
れ
の
道
ニ
ら
ひ
取
、
ば
つ
ば
方
へ
遣
し
、
南
蛮
口
ニ
引
な
を
し
、
は
ん
に
お
こ
し
、
とら
宿
を
諸
寺
諸
山
ニ
遣
し
、
学
文
を
い
た
さ
せ
、
仏
法
・
神
道
の
極
意
を
な
金
銀
を
出
し
、
き
り
し
た
ん
の
宗
門
ニ
い
た
し
、
其
外
日
本
の
入
満
・
同
一
先
年
日
本
ニ
て
き
り
し
た
ん
宗
門
ひ
ろ
ま
り
申
時
分
ニ
、
日
本
の
出
家
ニ
可
申
候
、
此
も
の
と
も
連
々
日
本
へ
渡
し
可
申
由
御
沙
汰
仕
候
事
、
立
、
日
本
へ
渡
し
為
可
申
の
よ
し
承
候
、
伴
天
連
多
方
々
の
国
に
仕
立
置
川
ニ
而
も
日
本
人
之
子
を
十
二
人
学
文
を
さ
せ
、
い
つ
れ
も
伴
天
連
ニ
取
其
外
日
本
人
の
子
五
六
人
、
ろ
そ
ん
へ
只
今
学
文
を
い
た
さ
せ
申
候
、
天
い
と
ん
と
ヽ
申
も
の
も
、
来
年
渡
り
可
申
由
、
是
も
我
等
と
も
ニ
咄
申
候
、
本
へ
渡
し
可
申
由
、
呂
宋
ニ
て
我
等
ニ
物
語
仕
候
、
な
ん
は
ん
伴
天
連
ま
本
へ
渡
し
可
申
と
の
儀
ニ
御
座
候
、
一
人
ハ
黒
川
寿
庵
与
申
候
、
来
年
日
類
ニ
而
候
、
隼
人
も
先
年
火
罪
ニ
あ
ひ
申
候
、
此
親
類
の
は
て
れ
ん
を
日
一
呂
宋
へ
日
本
人
之
伴
天
連
四
人
御
座
候
、
一
人
ハ
豊
前
国
加
賀
山
隼
人
親
ひ
ろ
め
、
日
本
を
取
可
申
覚
悟
ニ
而
候
事
、
1通
江戸前期
この史料は、17 代島津忠長の夫人で 15 代領
主久直の娘である千代松が死去したときに出さ
れたものです。千代松は北郷家の血筋の娘として、
藩主の実子で養子として領主に就任した久定と
人となり
ました。
過
て
も
日
本
ば
つ
ば
に
し
た
か
ひ
申
時
、
右
之
入
目
、
面
々
の
派
之
だ
ん
一
伴
天
連
を
日
本
へ
渡
候
事
、
数
年
此
入
目
門
派
々
ニ
帳
を
付
置
、
数
百
年
ニ
て
専
此
沙
汰
仕
候
事
、
も
に
し
た
か
ひ
候
ハ
ヽ
、
右
之
通
違
乱
有
間
敷
候
由
申
渡
し
候
与
、
異
国
こ
、
坂
よ
り
西
ハ
こ
ん
は
に
や
法
を
ひ
ろ
め
可
申
候
、
日
本
、
ば
つ
ば
と
に
ハ
、
日
本
六
拾
六
ヶ
国
を
二
ッ
ニ
分
、
松
坂
よ
り
東
者
さ
ふ
ら
ん
し
す
つ
ば
前
ニ
て
日
本
国
を
う
は
ひ
候
て
、
公
事
を
仕
候
処
ニ
、
ば
つ
ば
批
判
伴
天
連
、
年
来
日
本
へ
多
渡
候
、
彼
伴
天
連
と
も
門
派
々
へ
申
遣
候
、
ば
一
き
り
し
た
ん
宗
門
ニ
こ
ん
は
に
や
与
申
派
、
さ
ふ
ら
ん
し
す
こ
と
申
派
の
い
ら
け
、
ば
つ
ば
に
し
た
が
へ
む
と
の
た
く
ミ
ニ
而
候
事
、
ひ
ろ
ま
り
た
る
時
分
ニ
、
中
間
有
之
、
軍
い
た
し
、
日
本
の
他
宗
を
打
た
故
、
後
生
之
為
ニ
宗
門
を
ひ
ろ
む
る
と
て
、
伴
天
連
を
渡
す
、
宗
門
大
形
諸
事
入
念
仕
置
等
緩
疎
無
弥
以
役
人
其
外
家
中
之
面
々
被北
郷
仰家
付跡
置職
候之
上儀
者嶋
、津
別市
条右
無衛
之門
候殿
得江
共
呂
宋
、
其
外
国
多
む
さ
□
□
取
□
□
、
日
本
□
□
而
ハ
猶
々
成
か
た
く
候
か
ひ
候
へ
者
、
漸
々
奉
行
を
遣
し
仕
置
い
た
し
候
、
の
ひ
す
は
ん
・
ご
わ
・
も
の
有
、
国
々
へ
伴
天
連
遣
し
、
宗
門
を
ひ
ろ
め
、
其
国
ば
つ
ば
□
し
た
一
い
た之今
り事度
や、筑
の
前
国
国
ら
大
う
島
ま
ニ
と
而
云
捕
所
候
ニ
南
、
蛮
き
伴
り
天
し
連
た
・
ん
同
宗
入
門
満
之
・
頭
同
ば
宿
つ
、
ば
白
□
状
□
はんたっしがきうつし
28 (延宝2 年)寅8 月 3 日付藩達書写
忠長の夫
な
よ
り
取
為
可
申
之
儀
ニ
候
、
世
界
之
有
内
ハ
伴
天
連
を
渡
し
、
宗
門
を
条
、
寅委
八
細
月
可
三
被
日
得
其
意
候
、
以
上
、
仰
出
候
、
依
之
此
節
以
相
良
主
税
申
渡
候
之
様
ニ
堅
固
ニ
可
相
守
旨
被
死
去
、
笑
止
之
至
被
今
度覚
其
許
後
室
不
慮
ニ
思被
召成
候
、
就
者
忠長の後
継にはす
である久理(市右衛門)が就任していましたが、
でに藩主
今後、都城島津家の家臣が領主を盛りたてていく
島津光久
ように藩主が達したものです。このことから、都
の第 8 子
城領内において、生前千代松の影響力が強かった
ことをうかがわせます。
-9-
せいげついん
しまづひさもちしつ
ぞう
31 清月院(島津久茂室)像
みやこのじょうそう え
ず
29 都 城 惣 絵図
1幅
江戸時代
1 舗 (写真パネル)
清月院は、二階堂舎人行寧の娘として生まれ、
江戸前期
都城島津家が治めた領域を描写した巨大な絵
享保 14 年(1729)に久茂に嫁ぎ、夫人となり
図です。領内各郷や村の配置、赤く引かれた街道、
ました。享和元年(1801)12 月 3 日に死去し、
青く記された河川、緑色の山々や藩境付近一帯等、
龍峯寺に葬られました。
細かく描かれています。絵師の描画レベルの高さ
この図は、清月院の晩年の様子を描いたものと
思われます。濃彩で衣文線に金泥が使用されてい
をうかがわせます。
ることなどは夫である久茂の肖像画と様式的に
共通しているのが特徴です。おそらく、同時期に
同じ絵師によって描かれたものと思われます。
しまづひさもちぞう
30 島津久茂像
1幅
江戸時代
島津久茂は 19 代久龍の 2 男。早世した兄久道
ぎょくそういん
にかわって 20 代の領主となりました。文武を奨
しまづひさもとあね
24 代久
本の姉。名
して製茶
おいわ
を於岩とい
を研究さ
い享和元年
せ、当時
(1801)
では全国
に生を受け、
的にも著
文化 13 年
名な都城
(1816)
茶を確立
16 歳で逝
させまし
去しました。
た。
図は久茂隠居後の晩年の姿で、鷹や鉄砲が描か
れています。この鉄砲と思われるものが現在も伝
来しています。
1幅
江戸時代
励して、家臣を京都に遊学させ、また産業の振興
にも力を注ぎました。特に池田貞記を京都へ派遣
ぞう
32 玉窓院(島津久本姉)像
画面に描か
れた琴や書
物、筆を見つめる仕草から、彼女が文才楽才に長
けた才女であったことがうかがえます。
- 10 -
さ つ ま つつ
か い ぞ うか ん う ち じゅう
33 薩摩筒(改造管打 銃 )
さ つ ひ せい せ ん き
37 薩肥征戦記
1挺
江戸末期(1876)
1枚
明治時代
幕末になると、西洋の新式銃が輸入されるよう
になりました。また同時に、武器製作技術が大い
に高まった時期でもありました。
この銃は、もともと火縄式でしたが、西洋の管
打式(引き金式)へ、薩摩藩内にて改造したもの
です。薩摩藩は莫大な資金を使って高価な西洋式
銃を揃え、幕末維新を乗り越えました。しかしそ
れは必ずしも藩内全体に行き渡ったのではなく、
藩士たちは火縄銃を改造して兵備を整え、幕府軍
に対抗していたのです。
ぼ し ん の え き じつろく
34~36 戊辰之役実録一・二・三
西南戦争の様子を錦絵にしたものです。明治新
政府の施策に疑問を抱いていた西郷は、征韓論を
受け入れられなかったことを契機に、政府重職を
辞め、鹿児島に帰ります。鹿児島では、若者たち
が西郷を中心にすえて、新たな国づくりを目指し
て画策し、結果政府に反旗をひるがえしました。
政府はこれを鎮圧すべく軍を派遣します。ここに
西南戦争がおこりました。
3冊
西郷軍はよく戦いましたが圧倒的な数の差に
明治時代
都城島津家の家臣で私領一番隊に従軍した財
部雄右衛門が記したものです。財部は隊の書記を
よって敗北しました。
この資料は、新政府都督・西郷隆盛の字を墨書
している場面です。
務めていた人でした。
この記録は、戊辰戦争での都城隊の様子が具体
的にわかる史料で、これをもとに、籠谷真知子『都
城と戊辰戦争』や『都城市史』が描かれました。
- 11 -
条派の門に入り画業を極めました。明治初頭に長
C
テーマ展示
崎へ移住して以降、鹿児島や京都、大阪、土佐等
各地を歴遊しながら、多くの作品を世に残しまし
た。
■ 艶やかな都城島津家の芸術
近世、都城では文化芸術の興隆が花開きまし
この小襖は、水辺に突き出た木の株に、小鳥が
た。それを証明してくれるのが、都城島津家に伝
1 羽とまり、毛づくろいをしている場面を、軽や
来した肖像画や屏風、衣装などです。肖像画では
かかつ優雅に描ききった逸品です。
女性像が多く伝わり、その風俗や艶やかな筆使い
が製作時期の文化を象徴付けています。また、屏
風は狩野派の色を濃く残す豪華絢爛な大作や、雪
舟の系統にも連なるとされる、水墨様が残されて
います。江戸期、都城地域における絵画技術の高
さをもうかがわせる貴重な芸術史料といえます。
たんとう
めい び ぜ ん おさふね はるみつ
ど う こ く じゅうにん すけ さ だ
38 短刀 銘備前長船春光 同国住人祐定
つけたりぎん そ う たん と う こしらえ
付 銀装短刀 拵
1口
室町時代
しょうげつ ぼ た ん つ る ず び ょ う ぶ
40 松 月牡丹鶴図屏風
1隻
江戸時代
島津久静と国父島津久光の娘於治が婚姻の際、
久光から於治が持たされたと伝えられる短刀で
す。春光と祐定は備前国長船村に住む刀鍛冶で、
中央には餌をついばむかのように歩く鶴 4 羽、
室町時代後期の刀工です。本作は春光と祐定の合
左上には朝日を配し、右側には松と牡丹をバラン
作ですが、表銘に「春光」、裏銘に「祐定」と刻
スよく置いています。またその後ろには流れる川
されています。この短刀には銀造りの拵が付され
を描き、金雲で覆っていて、雄大さを感じさせる
ており、小柄は後藤一乗作の優れたものが添えら
構図になっています。大名道具といってもよい都
れています。
城島津家の調度品です。
みずべ
こ と り ず こ ぶすま
39 水辺に小禽図小襖
たけ う め つ る ず び ょ う ぶ
41 竹梅鶴図屏風
2枚
1隻
明治時代
江戸時代
この襖を描いたとされる小波南洋は、伊予宇和
中央に餌をついばむかのような鶴 3 羽、左に梅
島藩士の家に生まれました。画家を志して京都四
と竹、右側には遠くの山々と手前には滔々と流れ
- 12 -
る川筋を描き、全体を金雲で覆っています。描か
れている題材から、おめでたい席や儀式の際に使
われる屏風であったと考えられます。
メモ欄
- 13 -
- 14 -
- 15 -