台湾 —「匂いのある街」

奨励賞
台湾 —「匂いのある街」
ふる
の
りゅう た
ろう
古野 龍太郎 関西学院大学 4年
私にとっての台湾は、
「匂いのある街」だ。去年の夏に台湾へ短期留学し、台北を含め様々
な街を歩いた。その中で私は台湾の街に流れる2つの匂いに気付いた。一つは屋台などから
特別賞
漂ってくる料理の香菜や香り米、生ゴミなどの「匂い」。日本の淡泊な味付けになれた口に、
こちらの香りのきつい料理は少々口にするのにためらわせるものがあるし、ゴミが炎天下で
腐敗した臭いは、綺麗に整備され「脱臭」された日本の街に住み慣れた自分にはきついもの
だ。だが、もう一つの「匂い」は、日本人である私の心に自然に染み入ってきた。それは、街の
中に残る昔ながらのコミュニティ内での、人々の「ふれあい」だった。
「匂いのある街」とは1960年代の日本の街を解説した社会学者である宮台真司・首都大
学東京教授の表現である。硬く言えば『日本人全てが「同じ時代」
「同じ社会」を生きている
という感覚』、つまり「みんな仲良し」であることに確信を持てた時代のことだ。例えば1960
年代に写真家の大竹静市郎が撮った東京の街を見ると、映画「三丁目の夕日」に出てくるよう
な街で、夕方仕事から帰ってきた父親が子供と一緒に遊ぶ姿、地域の子供達が遊ぶ姿を見
守る老人たち、世間話に興じる大人たちが映されている。しかし、同じ場所を2000年に大竹
が撮った写真を見ると、街は綺麗に整備されているが、外で遊ぶ子供も、それを見守る大人の
姿も全く映っていない。60年代隣近所であれば、どの家にどんな住人が住み、どう暮らして
いるのかをお互いに知っているような地域共同体というべきものが確かに存在したが、いま
や日本の多くの街、私が住む街でも同じ町内どころか、同じマンションでも住人がお互いの顔
を知らず、近所で子供たちが集団で遊ぶ姿も、大人が立ち話をしている姿もない。こうした
綺麗に整備されているが、人間のふれあいが「脱臭」された、
「透明な街」というべきものが
今の日本だ。
対して、台湾には60年代の日本にあった「匂い」がまだ街に残っていた。私が台湾に来て
最初に目を奪われたのは、台北の小さな商店の軒先でホースを持ちながら店頭で水掃除して
いる女の子を見つけた時だった。まったく変哲のない風景であるが、見た瞬間写真やテレビ
で見た高度成長期の日本の街が走馬灯のように私の頭を駆け巡ったのだった。それからとい
うもの、私は台北の綺麗に整備された中心部ではなく、屋台や小さな商店、家が立ち並ぶエ
リアを夢中で歩き回っていた。有名な台北101や故宮博物館よりも、暑い中茶を飲みながら
話に興じる老人たちや、家族総出で商店を掃除したり、物を売ったりする人々が私には印象
的だった。台湾に来たのは初めてであるのに、たまらなく懐かしい風景が台湾の街にはあっ
たのである。まるで台湾行きの飛行機がタイムマシンで、日本の高度経済成長時代にタイムス
リップしたようだった。
私は日本より台湾に生きるほうが良いと考えているわけではない。
「脱臭」された日本の街
に慣れた自分には、コンビニやファーストフード店を苦労して探さなくてはならない不便さも
あったし、台湾の近所づきあいも四六時中しなければならなくなると、わずらわしい面もある
だろう。しかしながら、台湾の街には日本が近代化の中で破壊してきたものが確かに残って
いる。日本人である私たちは、台湾を見ることで自らを省みることができるものが必ずあると
思う。
もはや私たちは過去の日本をそのまま復活させることはできない。だが、再帰的に作り直
していくことはできる。例えば、私が参考になると思うのは京都の街並みである。京都は未だ
に古来の景観を残した、日本随一の観光地である。当然京都もアスファルト舗装の道路など
があり、近代的に整備されてきたのは他の都市と同じだ。しかし、アスファルト道路で整備さ
れた路地には、昔ながらの長屋や木造の家が残っている。京都は街全体にその歴史が共有
されており、無秩序な開発には寺社仏閣が率先して反対し。一般住民の支持も得ている。そ
のため、開発と同時に京都のランドマークとなる街並みを「再帰的に」残したり、一度は壊し
てしまった建物を再建したりすることで、京都古来の伝統を保存することに成功している。自
らの街の歴史的背景を理解し、街のアイデンティティを現在に合う形で残し、あるいは復活
させていくことで、結果的にその地域のコミュニティをある程度壊さずに温存できているので
ある。現在日本の都市にはシェアハウスなどで、失われてしまった地域共同体を再構築しよう
という動きが盛んだ。
「脱臭」された街に、いかに心地よい形で「匂い」を再び漂わせること
ができるか。その取り組みにとって、台湾の街を訪れ、実際に「匂い」をかいでみることで得
ることは多いはずである。台湾の街を歩きながら、そのようなことを考えた。