仏母山 吉祥寺

仏母山 吉祥寺
(仏母山?利宮院御摩耶坊金剛吉祥寺)
所 在
本佐倉字根古谷696
宗 派
真言宗智山派京都智積院に属す
創 建
大同2年(807年)弘法大師巡業のおり、鎮護国家のため、摩耶夫人の霊像を当
地に納め、修法の由にて御摩耶坊と号したと寺伝にあり、開基年代は不詳。・・酒々
井町町史より
本堂他
天保11年(1840年)の火災により伽藍残らず消失、嘉永5年(1852年)本堂再
建成り、15年10月(2003年)新本堂落慶。
本 尊
摩耶夫人の霊像 1 躯 由来は聖徳太子が生育の恩を報ぜんがために、御摩耶
夫人(おんまやぶにん・・・お釈迦様の御母)の聖像を一刀三禮で敬刻した秘仏で、
どういう云われか「厨子を開けて見ると眼がつぶれる」と昔からの言い伝えがあり、
これを守って尊像の公開は行っていなかったが、新本堂落慶法要の折に檀信徒、
関係者筋に拝観させたという。
立像背丈は約15センチメートルで、1躯厨子に安置されていると聞く。尚、檀家
の篤志家が摩耶夫人像が描かれている和紙の版木印刷物をもとに実物大のカラ
ー画を描き、納められたものを我々拝観させていただいた。(写真右側)両方とも特
筆すべきは、右袖から生まれたばかりのお釈迦様が顔を出しているユニークな像
であり、子育てのご利益もあるという。我々も和紙の版木印刷物をいただいた。
摩耶夫人霊像の版木印刷物
文化財
摩耶夫人霊像の絵画
鬼子母神像掛軸(町指定有形文化財) 一龍斎歌川豊春(1735年~1814年)
画で勝蔵院所蔵であったが勝蔵院は現在無住で、盗難その他、 災害が心配され
るため、当寺にて保管しているとのこと。
絵を拝見すると頭には角があり、右手に石榴の実(吉祥果・・魔除け)を持ち、左
手で子を抱いている。 口は大きく裂け、恐ろしい形相である。他の子をさらってこ
れから食うのか・・?よく見ると恐ろしさのなかにも 優しそうな表情をみせていて、
子の抱き方もその様にも見える。又、子も怯えておらず、むしろ甘えているふうに
見えるが・・それらの表現はいささか気になるところでもある。 以下次の項参照
鬼子母神
子育ての神といわれ、もとは500人も100
0人もの子を持ちながら、 他人の子を奪っ
て食う悪女鬼で あったが、自分の1番下の
子を仏に隠されて半狂乱になり、 仏に諭さ
れて悔い改め、子を返してもらい、誓願をた
て、帰依し、その後は子供を守り、子育ての
神となったという。
本掛軸は子が戻った頃以降の尊神を描いた
ものと思われる。なぜなら、手に吉祥果を持
っていること事体が神になって からのもの
であるといえるのである。像容は一般的には
やさしい天女 鬼子母神の掛軸 あ形である
が、 日蓮宗の修法には忿怒形の鬼子母神
像も用いられるようである。
十一面観音立像(町指定有形文化財)
室町時代初期に造られたと推定される。本
佐倉字五良にあった名刹、 文殊寺の本尊
仏であったが廃寺となった際、本寺に引き継
がれたものだという。
一木造りの秀作で特に顔容は観音らしい
温顔がよく表現されている見事な作であ
る。・・酒々井町町史より
木 木造十一面観音立像の頭部
その他
魔三郎石の伝説
佐倉藩稲葉候の儒者、磯部昌言が著した『佐倉風土記』にこの伝説があって、そ
の石は本堂前に今でもあり、その昔、蒙古の魔三郎が土を練ってつくったもので、
土中深く埋まっており、いくら掘っても掘りきれない珍しい石であると伝えられてい
る。これは桜井住職のお話として、「もしも掘ってみて、その深さが判ったとしたら折
角の伝説が覆されることになり、やみくもに掘るなという警鐘ではないか?」という。
絵馬
約160枚が保管されている。本尊が摩耶夫人であることから育児の関係絵馬が
多い。桜井住職はいずれ特別コーナーをつくり、まとめて展示できればと言ってお
り、我々も早期の実現を要望した。
六地蔵
本寺に入る手前、道路脇にお地蔵さんが六体並んでいる。他所のお地蔵さんも
六体揃いが多いので、どうして六体なのか?これも桜井住職に聞き、次の内容を
教えていただいた。
地蔵菩薩は、六道の一切衆生を導いて仏道に帰依させる御仏様として一般的に
信仰されている。六道とは天上界、人間界、阿修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界を
さすとのこと。そういわれて見ると表情、姿勢、それぞれ手の向きや持物が異なっ
ている。
所 感
天保の火災で建物が全て消失したのにも拘わらず、本尊、美術品等が残存して
いて、今に伝えられている。本寺に関わった昔からの人々の努力に敬服を覚える。
桜井住職は、本尊の摩耶夫人像は落慶法要の折に公開されたのでこれから先、
なにかの機会をとらえ、公開出来るよう考慮してもよいと言われた。本物を観てみ
たいもの、その日がいつ来るか楽しみである。