古代の水利施設 『裂田溝 ( サクタのウナデ )』との出会い

07 ARIC'S LETTER
07―■ ARIC'S LETTER
古 代 の 水 利 施 設
『 裂 田 溝 ( サ ク タ の ウ ナ デ ) 』と の 出 会 い
疎開をすることになりました。この時、私
は小学校 4 年生でした。
一の井手
こ の 疎 開 先 が、 旧・ 安 徳 村 の 仲 村(( 図
裂
が村中の数戸の農家に分散してお世話にな
黒田 正治
りました。
神
社
丁度、田植えが済んだ時期で、田の草取
溝
裂
ナデ)」の用水路だったのです。まだ、小学
一つは西進し、安徳、東隈、仲村を灌漑する。も
の山田村まで行くことも時々ありました。
う一つの水路は北西に進み、仲村、五郎丸、松木、
この堰が「裂田溝(サクタのウナデ)」の取
溝(ウナデ)の起源と由来などについて想いを綴っ
今光を灌漑する。水路延長は全部で 5 ∼ 6km ほ
水堰「一の井手」だったのです。当時は、
てみることとする。
どである。
斜め堰でした。この堰の上流で水遊びをし
1.裂田溝の概要
のことです。福岡市は、この終戦の二月前、昭和
た。これが「裂田神社」だったのです。も
あり、受益地は山田、安徳、東隈、仲村、五郎丸、
20 年 6 月 19 日に米軍爆撃機(B-29)の空襲を受
ちろんその裏側に「大磐」があることなど
松木、今光の七ヶ村落、その面積は百二十九町歩
けました。
知りませんでした。
一の井手で取り入れられた用水は、裂田溝を北
が住んでいる街角は火災を免れることができまし
の歴史など、全く意識にありませんでした。
戦争中、町内には隣組が組織されていて、その
の水田を灌漑する。それから、裂田溝はやや北向
隣組長さんの尽力で私ども町内の小学生は、学童
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那
この頃、私はまだ子供でしたから、日本書紀な
ど読んだこともなく、
「裂田溝(サクタのウナデ)
」
東方向に流れる。先ず、ここでは旧・山田村山田
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(図 -1)裂田溝と受益の村々(拙著 1)から加筆・引用)
(図の方位は流れに沿って、南を上に、北を下に描い
ている)
辺の町並みはこの空襲で焼失しましたが、私ども
た。
1000m
仲村から山田村へと水路伝いの道を進む
は、裂田溝は神功皇后によって創建されたもので
当時、私どもは福岡市内に住んでいました。周
川
光
2.裂田溝との初めての出会い
と、寂しいところに小さなお宮がありまし
川水利組合によって管理されている。
川
を憶えています。
太平洋戦争が終わったのは今から丁度 70 年前
現在、一の井手とその水路である裂田溝は裂田
原
たこと、秋には柿の実を採って食べたこと
来」と記銘した石碑が建立されている。この碑に
余と記されている。
梶
今
裂田溝の取水口「一の井手」に「一の堰手由
松木
⇒
裂田溝の展開と受益の村々を(図 -1)に示す。
N
仲村
⇒
この裂田溝の概要、溝(ウナデ)との出会い、
五郎丸
(荷車)を引きながら、水路伝いに堰の近く
珂
る。
農家の小父さんと荷物を載せたリヤカー
那
いる。旧・安徳村に入ると水路は二手に分かれる。
溝
り、現在も有効に活用されている貴重な施設であ
裂田
窄部には、「裂田神社」があり、大磐が祀られて
)
那珂川町に現存する古代からの農業水利施設であ
東隈
川
河川
た。
谷
⇒
間の狭窄部を通り旧・安徳村に抜ける。ここの狭
⇒
ノ
(古
「裂田溝(サクタのウナデ)」は、福岡県筑紫郡
城
⇒
生でしたから、このことは知りませんでし
安徳
⇒
田
珂
川
裂
家の仕事を手伝いながら毎日を過ごしまし
きに曲がり、
「迹驚岡(安徳台)
」と「大磐」との
迹驚岡(安徳台)
田
りや水路から風呂に水を汲み上げるなど農
た。この時の水路が「裂田溝(サクタのウ
はじめに
山田
大磐
九州大学 名誉教授
溝
田
-1)参照のこと)でした。子供たち数人ずつ
⇒
ARIC'S
LETTER
しかし、このとき経験した田の草取りや稲刈り
などの農作業、身近に見た水路の役割など、将来、
3.史実としての裂田溝
ここで、裂田溝の由来について考察を試みるこ
ととします。
裂田溝の起源は、日本書紀・巻第九・気長足姫
農業土木とくに農業水利の研究を手掛けることに
尊(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)の
なる端緒となったような気がしています。
項 2)に記載されています。
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(写真 -1)大磐とそれを巡る裂田溝
これによれば、
『神功皇后は、既に神の教験(教
(写真 -2)大磐 を祀る裂田神社
実際の溝の開削は、皇后と武内宿禰のみなら
(写真 -3)水田の眺望
4.おわりに
引用・参考文献
え)があることを示し、更に神祇を祈り祭って、
ず、地域の豪族とその配下の人々の協力によって
4 世紀以来、1600 年以上の永い年月に亘り、幾
皇后みずから、西の方(筆者注;新羅のこと)を
為されたのであろう 3)。大磐を穿ち、ここに溝を
多の保全管理を続けながら営々と農業水利施設と
古の河川取水による農業水利システム−」(一社)
討とうと欲した。そこで、神田(神に貢ぐための
通すのは、難儀なことであったと思われる。開削
しての機能を維持してきた裂田溝に尊敬の念を表
農業土木事業協会刊 JAGREE 82 pp.14-18,(2011),
水田)の造成を行った。その時、儺の河
(ナのカワ、
の時期は AD4 世紀中葉 1)のことと考えられる。
する次第です。これぞ将にストック・マネージメ
http://www.jagree.or.jp/ 「情報誌 JAGREE 82 号
ントの成果、先人の努力の賜物、頭が下がる思い
特別寄稿」をご覧ください。
です。
2)日 本 書 紀( 二 ): 岩 波 文 庫( 黄 4-2) 第 15 刷
現・那珂川)の水を引き、溝(ウナデ)を掘った。
その溝を穿たれた大磐(
(写真 -1)参照)が、
迹驚岡(トドロキのオカ、現・安徳台)に至る
現在も、当地に存在していることが驚きであり、
が、大磐が塞がって、溝を穿つことができなかっ
裂田溝の由来であると納得できる。
た。皇后は、武内宿禰(タケウチのスクネ)を呼
び、剣鏡を捧げて神祇に祈らせて、溝を通すこと
を祈願した。そうすると即刻、雷、稲妻が鳴り響
き、その磐を踏み裂いて、水が通るようになった。
大磐の傍らにこの大磐と神功皇后を祀った裂田
神社(
(写真 -2)参照)がある。
裂田溝の受益水田の一部を(写真 -3)に示す。
現在も広大な受益地が展開されている。
裂田溝について、小学生の頃から親しんできた
筆者の立場から随想を記してみました。興味を
持って戴ければと願っています。
なお、裂田溝について、もっと詳細に知りたい
1)
方は、拙著 『裂田溝(サクタのウナデ)−日本
それ故、人々はこの溝を裂田溝(サクタのウナデ)
最古の河川取水による農業水利システム−』をお
と呼ぶようになった』と記されている。
読みいただければ幸甚に存じます。
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1)黒田正治:「裂田溝(サクタのウナデ)−日本最
pp.142-143,(1994)
3)裂田溝:那珂川町文化財調査報告書(那珂川町教
育委員会刊)第 65 集 pp.2-3, pp.45-47,(2005)
4)水の路めぐり裂田溝(疏水百選パンフレット)福
岡県農林水産部刊
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