文芸時評における中間小説の認識

文芸時評における中間小説の認識
丸 山
倫 世
はじめに
昭和 20 年代から 30 年代の日本文壇において中間小説が一時代を築いた
ことは、戦後最大の文学論争である純文学変質論争 1 の背景に、隆盛する
中間小説に対する純文学の危機感があったことからも明らかである。しか
し、当の中間小説の概念はきわめてあいまいだ。
「純文学の芸術性と大衆
文学のおもしろさを兼ね備えた小説」という一般的な定義はあるものの、
瀬沼茂樹が指摘するように中間小説という語は文壇用語にすぎず、
「意味
の輪郭が明確でないという点で、きわめて浮動的 2」と言える。じっさい
批評家の中間小説に対する認識はじつにあいまいで、定義らしい定義が示
されたことはほとんどない。たとえば中村光夫は「中間小説は、原理的に
云へば私小説の崩壊して行く過程の副産物であり、いはゆる純文学と大衆
文学との区別のあいまいになつたところから生れ、その出現によつてこれ
をさらにあいまいにしてゐる 3」と論じている。また福田宏年は「純文学
作家が余技的に水準を下げて、大衆小説と純文学との中間に位することを
目安に書いた半高級小説が、本来の中間小説であり、源流である 4」と分
析している。このように中間小説の起源こそ考察されるものの、中間小説
の明確な定義はいっこうに提示されない。こうした定義のあいまいさをめ
ぐっては、十返肇が「この区別[引用者注:純文学と中間小説の区別]を
決定するのは、実のところ発表舞台の相違、つまり雑誌の種類の相違だけ
かも知れない 5」と述べている。ここで言う「雑誌の種類」とは、
『文学界』
や『群像』のように純文学の発表の場とみなされている文芸誌と、
『オー
ル読物』や『小説新潮』のような大衆に広く愛好される小説を発表する読
物雑誌との区別のことで、つまり十返は中間小説の概念規定をジャーナリ
ズムに求めているのである。
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文芸時評における中間小説の認識
しかし一方で中間小説隆盛当時、少なくとも批評家のあいだには、暗黙
のうちに中間小説の特徴に対する最低限の共通理解が行き渡っていたよう
にも思われる。たとえば河上徹太郎は昭和 30 年の文学の総括として次の
ように述べている。
「所でベストスリーというような眼で見るとすぐ戦後
派中堅作家のものが挙げられるということは、考えて見ると意味があるこ
とかも知れない。それより上の年輩の作家は、大ざっぱにいえば、中間小
説的領域へはいって行くので、純文壇的な視野から外れる結果になるので
ある 6」
。また、小説を個別に論じるにしても、十返肇は次のように述べ
ている。
「私小説の堕落または中間小説化が、しばしば批判されているが、
尾崎一雄の『ボヤキの大岡』
(
『新潮』八月号)などというシロモノにいた
ると、もはや中間小説化どころか文壇ゴシップ化であり、よくもこれで私
小説こそ文学の通俗化を救うバック・ボーンだとか、私小説は一作一作が
遺書みたいな絶対的な気持で書かれるものだとかいえたものだ 7」。引用部
以外にも当時の批評には「中間小説的」
「中間小説化」という語が頻繁に
現れるが、こうした語は当然中間小説の概念規定に対して最低限の共有し
うる認識をもっていることを前提としている。
「中間小説的」
「中間小説化」
といった語がとくに注釈もなく用いられ、しかもそれが無批判に流通して
いる様子からは、少なくとも批評家のあいだにあいまいながらも中間小説
の概念、
一種の
「中間小説らしさ」
について共通認識があったことがわかる。
このような同時代的な共通理解がかいま見えるとはいえ、やはり中間小
説全体の概念が明確な輪郭を欠くことに変わりはない。たとえば丹羽文雄
や石坂洋次郎は代表的な中間小説作家と言えるだろうが、二人の作風に共
通するところはほとんどない。発表時期の近い石坂の『青い山脈』
(昭和
22 年)と丹羽の『厭がらせの年齢』
(昭和 23 年)を比べても明らかである。
これは必ずしも題材の問題ではなく、また方法的な問題でもあるまい。私
小説的とされる丹羽とそうでない石坂の小説がともに中間小説としてひと
くくりにされている。こうした中間小説の枠内における差異の激しさは年
代を下ってもたいして変わらない。ともに中間小説とみなされる原田康子
の『挽歌』
(昭和 31 年)と井上靖の『氷壁』
(昭和 32 年)にとりたてて共
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丸山 倫世
通点が見いだせず、かといって石坂や丹羽の小説と原田や井上の小説にも
類似した点が認められないことから、中間小説という枠組みがきわめて多
様で包括的なものであることがわかる。
以上のように、中間小説の概念規定がきわめてあいまいで多様性をはら
む一方で、少なくとも批評家のあいだには中間小説の特性にかんする何ら
かの共通認識があったと言える。とするならば、当時の批評家は中間小説
とみなした小説をどのように論じたのだろうか。中間小説に対する批評家
の認識には、時期や題材によってどのような類似と差異が認められるのだ
ろうか。また、中間小説と文壇はどのような関係にあったのだろうか。本
稿では中間小説の同時代評、とりわけ文芸時評に注目し、時期や題材、文
壇との関係にかんして批評の傾向を俯瞰したい。これによって中間小説が
文壇においてどのように扱われていたかを明らかにし、さらには中間小説
に対する評価から読み取れる、当時の日本文学が置かれた状況を考察する
手がかりをつかむのが本稿の目的である。
なお、当時の文芸時評の流れを当事者の言説に沿ってひとまずたどるこ
とがこの研究ノートの意図するところであるため、中間小説についての厳
密な概念規定は本稿では行わない。
「純文学」
「文壇」といった語について
も同様である。
中間小説の黎明期と風俗小説
中間小説という語が流通するようになったのは、昭和 22 年に久米正雄
と林房雄が用いてからだと言われている 8。昭和 23 年 10 月の時点で浅見
淵が「
[引用者注:藤原審爾は]こゝいらで引締めないと、中間小説の作家
に顛落してしまふ危険がある 9」ととくに前置きもなく述べていることから、
中間小説という語が批評家のあいだですでに浸透している様子がわかる。
では、この時期の中間小説は批評家にどのように位置づけられていたの
だろうか。昭和 24 年 7 月、平田次三郎は次のように述べている。
『中間小説の勝利』とは、駄洒落のうまい匿名批評家の文壇用語だが、
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文芸時評における中間小説の認識
見渡したところ、ここ二三ヶ月の小説のほとくどが、この中間小説で
ある。
そもそも中間小説とはいかなるものか、中村光夫の評(文藝往来・
創刊号)に詳しく、僕の附加する何ものもない。「中間小説を資本主
義と商業主義の産物だと怒つている批評家もいるが、そんなに眼に角
をたてることもあるまい。
」とは、
かの匿名批評家・白井明の言葉だが、
勿論眼に角を立ててみたとろで、そこから文学に益する何ものも生ま
れぬことは、自明だ。ただ中間小説は、不況に喘ぐジャーナリズムの、
背に腹はかへられぬ商法の産物であることだけは、誰しも、就中作家
は、とくと了承してをく必要がある。さもないと、その専門作家が自
分の作品の芸術的威力によつて、今日文学界の代表者となりえたかに
錯覚するといふ、はなはだ珍妙な不都合事が起るといふもんだ。10
平田の評はとりもなおさず中間小説が芸術性に欠け、支持基盤をジャーナ
リズムに依存した非文学的なものにすぎないと認識されていることを意味
する。この時期中間小説への言及は昭和 30 年ごろに比べると多くはない
が、柴田錬三郎のような中間小説歓迎論 11 を除けば、平田とおなじ傾向
の論、すなわち中間小説批判が大半を占めている。
また、昭和 25 年 1 月には伊藤整が次のように述べている。「しかし小説
が悪しきものとしてでなく学校や家庭に入り得る戦後の日本では、文壇小
説を読みまたは書くことは必ずしも破倫でも逃亡でもないとする通念がや
や一般化し、作家は、以前の通俗作家たちの意識した還俗者のような妥協
によらずして、世間と読者に結びつけられる。この通念の上に依存するも
のが所謂風俗小説または中間小説と言われている一群の作風であつて、洋
次郎、達三、聖一、文雄、友一郎、泰次郎のある型の作品が代表してい
る 12」
。伊藤の評において注目すべきは、風俗小説と中間小説をおなじか、
少なくとも類似したものとみなしている点であろう。こうした風俗小説と
中間小説の同一視、あるいは同類視は伊藤に限らずこの時期散見される。
また昭和 30 年代に入ってからも同様の認識が示されており、福田宏年は
昭和 37 年 4 月、次のように述べている。
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丸山 倫世
中間小説とともに風俗小説という言葉がある。その名前のとおりに解
釈すれば、
中間小説は純文学と大衆文学との中間的存在の小説であり、
風俗小説とは当世風な風俗を描写することを念じた小説ということで
あろう。だが正直なところを言つて、私にはこの両者の相違がはつき
りとわからない。おそらくはこの両者は同じものであって、ただ視角
の相違によって、あるときは中間小説となり、あるときは風俗小説と
なるといって、大きな誤りはないように思われる。つまり、書かれる
素材を問題にした場合それは風俗小説となり、読者層を考えていつた
場合それは中間小説となるのではないだろうか。13
すでに述べたとおり、昭和 20 年代中ごろまでに中間小説という概念・
語は流行し、定着したが、それでも昭和 30 年ごろに比べれば必ずしも言
及が多いとは言えない。しかしその中で、中間小説が風俗小説と同類視さ
れているのは興味深い。ではこの時期風俗小説はどのように扱われていた
のだろうか。文芸時評で散見されるのは、風俗小説における批評性の欠如
である。たとえば昭和 23 年 7 月、瀬沼茂樹は次のように風俗小説を批判
している。長くなるが引用しておきたい。
しかるに今日の風俗小説は、敗戦にともなう闇とインフレで、何らか
そこに人間的真実をむき出しに撒き散らしているかにみえる世態風俗
に誑かされて、この世態風俗にこそ歴史的・人間的真実があると安易
にもたれかかつているのである。敗戦が硬い日常の現実性を破つて頽
廃となり虚無となつて不安に波立つている現象にこそ真実があるとし
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て、その河床を黙々と流れている歴史の底流を関知せず、安易に受動
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的に自己の文学の核心としている。その結果、風俗描写が歴史的人間
の身体表現としてではなく、ただ所与の事実として異常な男女関係を
中心とする世態風俗において追求し、そこに高い倫理的意識の片鱗も
認められないばかりか、ゴンクウルの印象描写にみられるような批判
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文芸時評における中間小説の認識
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的精神の欠如した些末主義に走つたり、破倫な肉体主義に陥つたりす
るのである。ここに今日の風俗小説が直ちに頽廃文学になつていく所
以がある。14[引用者注:傍点ママ]
このとき瀬沼が念頭に置いている風俗小説家は主に丹羽文雄や舟橋聖一だ
が、当時彼らの小説は多くの批評家から「情痴小説」としてしばしば批評
精神とモラルの欠如を非難された。
しかし当の風俗小説作家たちは批評家からの非難を受け入れなかった。
丹羽文雄や林芙美子は「デッサン」を当面の課題としてあげ、彼らの出発
点であった文壇的な私小説に対しては意欲を失っている。たとえば林芙美
子は小説家同士の座談会の席上で、次のように話している。
「私はね、私
小説はもう「放浪記」で勘弁して貰ひ度いといふ気がしてゐるのです。今
のところはまだまだフィクションでやつて行き度いのです。もう暫くの間、
何でも書いてみて、これからデッサンを勉強して行き度いのです 15」
。林
が従来の私小説からの脱却をはかり、中間小説にも通じる虚構性を志向し
ているのは興味深い。
こうした小説家と批評家の軋轢は、いわゆる風俗小説論争として表面化
した。中村光夫は丹羽文雄をはじめとする風俗小説作家を批判し、その結
果、昭和 24 年 12 月には井上友一郎や福田恆存らも加えて直接討論が行わ
れることとなった。以下の丹羽、井上、中村、福田の議論からは、小説化
と批評家の明確な対立が読み取れる。
丹羽 僕ら不勉強で君のをあんまり読んでないけれども、それぢや風
俗小説といふものをどう考へてる?
福田 風俗小説の定義ですか。
丹羽 風俗小説といふものを否定するか、肯定するか。
福田 僕は否定するわけですよ、風俗小説一般を。
丹羽 こちらは動いてゐる人間を描くのだ。風俗は度外視出来ない。
それにさういふものを増長させる社会的条件がある。[…]
7
丸山 倫世
福田 例へば現代の風俗とか一般世態、人情さういふものを小説家が
書く場合に、完全な肯定の上に立つてるとしか思へないんですよ、作
品を読んだところでは。
井上 懐疑がないといふ意味ですか。
福田 懐疑もないし、人間の理想、理想的な人間像、人間関係の夢、
社会状態がかうあつたらいいかといふ夢、人間である以上はいろいろ
理想があるでせう、それを……。
[…]
中村 それは理想といふものと批評精神と置き換へても同じものにな
るんだと思ふ。つまり批評精神が現代の人間に対して今の風俗作家は
あんまり無さ過ぎることね。批評精神といふのは、社会的批評とか、
さういふことぢやないんですよ。もつと本質的なものだな。さういふ
ものがなくて書いてるといふ印象を受ける。批評精神があつて、それ
を一々小説の中で生かしてゐれば、ああいふやうには書けないんぢや
ないか、と僕は思ふんだがな。
丹羽 観念小説だ、それぢや……。どうせそこへいくよ。僕はあくま
で現実主義だ。自然主義から取材の大胆さと冷静な観察を継続してゐ
る。しかし自然主義と違うところはモラリストである点だ。作家の批
評精神は一切そこから出てくる。君のいふやうな批評精神はぴんと来
ない。実作者はあくまで生産者だからね。16
中村や福田の批判は、引用部では風俗小説に向けられたものだが、これは
そのまま中間小説にもあてはまる。批評性の欠如は後に中間小説を非難す
るための常套句となっている。ともあれ、当時風俗小説をめぐって小説家
と批評家のあいだに方向性の対立があり、しかもこれが解決されなかった
ことは留意すべきであろう。
中間小説脅威論の退潮
昭和 20 年代の後半になってもなお、中間小説は批判されつづけている。
一方で中間小説の存在感は増しつづけ、中間小説のみを扱う文芸時評も現
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文芸時評における中間小説の認識
れるようになった。たとえば昭和 26 年 9 月 3 日の『図書新聞』には、
「中
間小説を見る―十月号の各誌から―」と題された記事が掲載された。ただ
し、この記事は冒頭で中間小説を次のように批判している。
今月号の所謂「中間雑誌」の中に目立って真面目な作品が多くみうけ
られるのは喜ばしい現象である。しかしその反面、例によって愚作駄
作の数もまた多く、要するに中間小説とはそれ自身のカテゴリーをも
たず、或る意味では日本の現代小説全般に通ずる総称であるのかとも
考えられる。この道のいわば常連作家、井上友一郎、今日出海、尾崎
士郎、北原武夫、船橋聖一、林房雄らの作品には概してみるべきもの
がない。マンネリズム化した筆の慣れと義理にも意慾というものゝ片
鱗さえ見出しかねる彼等の作品に、若し「中間小説」の本領があるの
だとしたら、その読者こそ憐れというべきだろう 17。
こうした中間小説の多作に対する「マンネリズム」や「意慾」の欠如はほ
とんど定型文と化しており、中間小説に評価される作品がいくつかみられ
ても、中間小説全体としては批判されることが多い。
昭和 26 年から 27 年にかけて、中間小説についての言説はひとつのピー
クを迎えたと言ってよい。このころから瀬沼茂樹が積極的に中間小説批評
を試みはじめ、中間小説を論ずることは批評家のあいだで定着したように
みえる。とはいえその内容は紋切り型で、たとえば瀬沼は「あまりに表面
的な日常性に足をとらわれている 18」
「中間小説には、作者が技巧にもた
れて「小説的」な事件を、軽くまとめ、作者の情熱をともなわないものが
目立つ 19」などと酷評している。
中間小説への言及が増える一方で、昭和 27 年の後半にさしかかると、
文壇、ことに批評家におけるいわゆる中間小説脅威論は徐々に廃れていっ
たようである。十返肇は次のように論じている。
さて、この「中間といふ名の小説」は、批評家たちには最初から純文
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丸山 倫世
学作家の金儲仕事といふ反感を持たれてき、そして去年あたりからは
盛に没落近しと予言されてゐる小説だ。これに対し、「純文学の芸術
性と大衆文学の娯楽性を兼備する真の小説」といふ主張が、林房雄氏
あやりの持論である。
[…]中間小説が、主張として、さういふ甚だ
結構な理想から生れながら、いまだにその注文通りの傑作が出現しな
いのは、作家が本当はさういふ理想の小説について絶望してゐるから
である。そんなものが書ける筈はないと知つてゐるからである。そこ
にはジヤーナリズムの制限もあれば、それ以上に作家の反俗精神とい
ふものが、そんな小説を作り得ぬことを確信してゐるからだ。20
同様の主張は杉森久英からも出ている。杉森によれば、かつて純文学の大
衆文学の兼備をめざすと銘打って発表された中間小説は、今日振り返って
みれば、結局のところただの通俗小説にすぎなかったという。そのため杉
森は、そもそも文学において中間という概念が成立しうるのか、その有効
性に疑義を呈している 21。
十返や杉森の論が中間小説の実態を正確に表しているかはともかくとし
て、批評家のあいだで当初脅威に感じられた中間小説が、じっさいには純
文学の芸術性と大衆文学の娯楽性の兼備という理想を達成しえず、中間小
説脅威論が杞憂にすぎなかったという認識がある程度共有されていること
は注目に値する。極論するならば、実態はどうであれ、文壇の危機感が中
間小説脅威論という幻想を批評家のあいだに作り出したと言えるかもしれ
ない。この中間小説脅威論とその退潮は、昭和 20 年代前半に批評家が文
壇が風俗小説で席巻されているとみなしたことと無関係ではあるまい。つ
まり、文壇小説の不振――むろんこれは批評家の認識にすぎないが――が
中間小説の流行に対する懸念をいっそう煽ったと考えることもできるので
はないだろうか。
ともあれ、昭和 27 年後半を境にひとまず中間小説脅威論は去った感が
強い。昭和 28 年には中間小説はもはやたんなる娯楽小説に近い存在とみ
なされており、中間小説評という場でこそ論じられるが、文壇に対する影
10
文芸時評における中間小説の認識
響を論ずることはひところに比べると格段に減ったように思われる。むろ
ん中間小説は多数の読者の支持という点において相変わらず強力で、文
学全体を見渡せばいわゆる純文学は片隅に追いやられており、また中間小
説に対するお定まりの批判も根強く存在する。しかし瀬沼茂樹が昭和 28
年 10 月に「娯楽読物への傾斜の濃いこのごろの低調な中間小説 22」と表
現しているように、中間小説脅威論の退潮した批評家のあいだで、いよい
よ中間小説、少なくともその一部が娯楽小説とイコールで結ばれるように
なったことは確かであろう。瀬沼は昭和 29 年 1 月に次のように述べて、
中間小説の一部を通俗な読物と切って捨てている。
「筋を複雑にして、そ
の変化に興味をつなぐような小説はことに中間小説に多い。話の面白さと
いうより、筋の変化で読者の意表をつこうという趣向である。しかしこの
ような小説は、ただ読者の好奇心をひくだけだから通俗な読物になるので
ある 23」
。こうした状況から、中間小説は昭和 20 年代後半には文壇小説と
ほとんど分離されてしまい、住み分けが進行したと考えられる。
文壇の危機感と純文学の中間小説化
昭和 30 年から 31 年にかけて、文壇では純文学に対する危機感があらわ
になったように思われる。その契機はおそらく石原慎太郎の『太陽の季節』
であろう。『太陽の季節』は昭和 30 年『文学界』7 月号に掲載され、文学
界新人賞を受賞した。このとき
『太陽の季節』
は賛否両論で、加藤周一が「と
にかくこういう風俗があつて、風俗小説であつて、そしてそれが新しい人
間だというが、ばかばかしくてやり切れない 24」と酷評する一方で、平野
謙が「「太陽の季節」はやはり新人らしい今年度のケッサクですよ。あれ
をけなすのは無いものねだりの批評家根性のしからしめるところだね 25」
と絶賛している。
とはいえ、問題は『太陽の季節』それ自体よりも、小説家とジャーナリ
ズムのかかわり方にあったようだ。
『太陽の季節』が芥川賞を受賞したあ
との昭和 31 年 4 月、十返肇は次のように述べている。
「
「太陽の季節」を
契機とする石原慎太郎のジャーナリズムへの進出の仕方や、それにつづく
11
丸山 倫世
藤島泰輔とかいう学習院卒の皇太子をえがいた「孤独の人」の売り出し方
をみると、文学作品も作家も全くショウ的機構のなかで踊らされていると
いう感じを受ける 26」
。十返によればこうした現象は昔からあったが、唯
一異なるのはこうした作品に文学賞が与えられ、文壇的にも非常に強い関
心がもたれていることであるという。そのため十返は文学の現状について
次のように考察している。
「すなわち、純文学が一般社会人の興味を満た
すに至らないところから、実話読物にやや芸術的と見まごうようなヴェー
ルをかぶせて出したのが、これらの作品であり、これらの作品が人気をも
ちえたことは、現代文学に社会的な魅力がないことを証明しているわけで
ある 27」
。十返が表明しているのは、
『太陽の季節』という小説自体に対す
る不満ではなく、純文学と文壇に対する危機感にほかならない。じっさい
この時期文芸雑誌に登場した新人に対する評価は低い。たとえば松本一郎
は有吉佐和子について次のように述べている。
「それにしても、新年早々、
押し売りが多すぎる。
『文学界』新人賞第四回候補作、
有吉佐和子の「地唄」
も、それである。
[…]今までの四ツの候補作のうち、一番、出来が悪く、
盲目の大検校の人間ばなれした芸術家ダマシイみたいなものは描かれてい
たとしても、作家ひとりだけの感動が押しつけがましく、クドすぎるため
に、かえってソラゾラしくなってしまう 28」
。松本が直接指摘しているわけ
ではないが、彼の有吉に対する不満の背景に、
『地唄』が文学界新人賞の
候補作であったという文壇事情が含まれていたことは容易に察せられる。
こうした純文学に対する危機感は批評家の共通認識であったようだ。本
多秋五は昭和 31 年 6 月の文芸時評において、
『世界』の座談会を紹介し
ている。
「
『世界』の座談会では、小説が急速に中間小説化の傾向をたどっ
ている、作家は芸術社会のサラリーマン化しつつある。大正の私小説作家
は、技術的には現代作家より素朴だったとしても、独立の人間としての自
信のうえに仕事をしていたということからいま必要なのは作家も批評家も
予言者的情熱をもつことだ、というひとつの結論が出されている 29」
。む
ろん今日から振り返ればこの時期の文学が徹頭徹尾不作であったわけでは
なく、たとえば三島由紀夫が『金閣寺』を完結させ、深沢七郎が『楢山節
12
文芸時評における中間小説の認識
考』で登場したのも昭和 31 年である。
しかし昭和 32 年に入ると、新人、中堅、大家の別を問わず文壇の失望
感はいよいよ強くなっている。中間小説や風俗小説を手厳しく批判する一
方で、純文学についても臼井吉見が川崎長太郎の『火遊び』について「私
小説の堕落もついに底をついた感がある 30」と述べ、北原武夫も深沢七郎
や石原慎太郎、有吉佐和子らの新人を「これらのうちのだれかが作家とし
て文壇に加わっても、文壇は少しも得をしたことにはならないだろう 31」
と嘆じている。
こうしたいわゆる文学の中間小説化や文壇崩壊説をめぐって、山室静は
かつて社会から進んで孤立した文壇ギルドと比較しながら次のように述べ
ている。「作家たちは才能に応じてそれぞれ商売繁盛し、完全に市民社会
の中にとけこんで、むしろ世間一般の小市民や農民よりどうやら高い生活
を楽しみ、羨望の眼をもって眺められるようになっている。中間小説の繁
栄はつまり作家がこの状態に安住し、社会への戦いを止めたことに他なら
ず、文壇の崩壊はその当然の結果にすぎないと言ってよい 32」。山室の論
において注目すべきは、
中間小説の繁栄と文壇の崩壊を関連づけている点、
さらには中間小説の繁栄の原因を作家生活の「堕落」に求めている点であ
ろう。
昭和 20 年代に風俗小説が栄え、中間小説が登場したとき、風俗小説と
中間小説は文壇に対するいわば外敵と認識された。中間小説は原則として
『オール読物』や『小説新潮』
『小説公園』といった中間小説誌に発表され
たものを指し、文芸雑誌とのすみわけがなされていた。そのため中間小説
の勢いがすさまじいといったところで、それはジャーナリズム上あるいは
商業上の脅威であって、文壇、ことに批評家は中間小説を低級な読物とし
て扱い、相手にしなければそれでよかった。ところが昭和 30 年以降、批
評家が無視することのできない文壇の内部に中間小説が発生した。小説自
体に向けられる評価は昭和 20 年代からほとんど変わらないが、批判の対
象である中間小説(あるいは中間小説的な傾向をもつ小説)が雑誌の区別
を超えて文芸雑誌に現れたのである。じっさい原田義人は「
[引用者注:
13
丸山 倫世
文芸雑誌が]いずれも中間小説誌に接近することで苦境からの脱出を試み
ようとする傾向がある 33」ことを批判的に述べている。しかも文芸雑誌に
現れた中間小説のうち、少なくとも新人のそれは、必ずしもジャーナリズ
ムの要請に応えて余技的に書かれたものではなかった。本稿の冒頭で引用
したとおり、福田宏年は中間小説はその発生当初、純文学作家が余技的に
水準を下げて書いたものであったとみなしているが、批評家の酷評を見る
に、昭和 30 年以降の新人は下げるべき水準を最初から持ち合わせていな
いとみなされていたのかもしれない。つまり、昭和 30 年代の中間小説は
余技などではなく、
もはや専門領域であると批評家から認識されたようだ。
北原武夫は庄野潤三の中間小説誌と文芸雑誌に掲載されたふたつの小説に
ついて、
次のように述べている。
「純文学と中間物といふ、厳しく言へばジャ
ンルといふよりは質の全く相異なる、二種類の小説を、趣向も持味も同じ
まま、しかも出来栄えでさへ甲乙のないままで、易々と書けるなどといふ
ことは、その作家の才能にさういふ二種類の力量が備はつてゐるといふこ
とではなく、その作家の才能が結局その程度のものだといふことを物語っ
ているからだ 34」
。以上のような批評家の反応を見ると、この時期の文壇は、
中間小説誌の繁栄に商業的に文芸雑誌が圧迫されている状況もあいまって
純文学に危機感を抱き、それゆえ純文学の中間小説化をこぞって批判した
と言えるのではないだろうか。
こうした文壇の危機感を新人作家は歯牙にもかけなかったようである。
昭和 30 年ごろに出現した新人について、小田切秀雄は次のように分析し
ている。
これら新人群についてもう一つ明らかなことがある。それは、有吉佐
和子ら主として女性作家によつて代表された菊村到・中村光至などに
もそれへの傾斜の強いところの一種の技術主義的な「達者なストーリ
イ・テラー」の傾向と、大江健三郎や開高健らによつて代表されると
ころのいわば「状況批判的なニヒリズム」の小説の傾向と、この二つ
の傾向がこんにちの新人軍を分割しているということである。もつと
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文芸時評における中間小説の認識
も、この二つの傾向は、さきにのべたようにくまどりあざやかな点で
は共通してもいるし、状況批判がたんなるストーリイ・テラーふうな
手つきで行われる場合もあつて、それぞれがはげしく対立していると
いうふうなものではない。35
大江や開高に対する評はともかく、
「達者なストーリイ・テラー」という
評は興味深い。小田切は有吉らに対して肯定的だが、中村光夫などはいわ
ゆる物語性、筋の新奇さに依存しているとして批判している 36。しかしス
トーリー・テリングを重視した小説はこのあとますます増えていく。翌昭
和 33 年には文壇の狂騒は若干落ち着いた様子だが、それでも福田宏年は
新人の芸術的「惨状」を次のように悲嘆している。
河上徹太郎氏はこれ[引用者注:新人の小説]をいみじくも「薄皮小説」
と命名し、
またある人は社会部記者的探訪記と呼ぶ。ストーリーテラー
とか物語性というのも結局は同じ根から発したものといってよい。こ
ういう所に私たちはどうして目をみはらせる新鮮さを期待し得よう。
[…]相ついであらわれる新人の文学の日常的現実性にもとづいた「薄
皮小説」は、源をたぐれば、実はそのままルポルタージュに通じるも
のだということができるのみか事態は新人だけにとどまらず、この八
方破れの社会描写の文学は、そのまま中間小説にも道を通じるもので
あり、当節流行の記録芸術とも軌を一にする。37
このように文壇の新人に目を向けると、純文学とされている小説の傾向もま
た大きく変化しており、中間小説に向けられる批判が必ずしも中間小説固
有の問題ではなく、むしろ純文学側の危機感に根ざしていることがわかる。
すでに述べたように昭和 33 年には純文学の危機感はいったんおさまっ
たように思われる。その背景には大江健三郎や開高健の活躍があったこと
は容易に察せられるし、また中間小説にも批評家が佳作と認める小説が現
れたことも影響しているだろう。十返肇は「作家たちは、いまや新聞小説
15
丸山 倫世
や週刊誌によって、
その才能を自在に発揮しようとしており、丹羽文雄「顔」
有馬頼義「殺意の構成」阿川弘之「ぽんこつ」水上勉「霧と影」などのよ
うな、すぐれた作品も、そうした中から生まれているので、いちがいに中
間小説化の現象を否定的にのみ評価するわけにはいかないのである 38」と
述べている。
しかし昭和 35 年の後半になると、批評家はまたもや新人の不作に悩み、
たとえば平野謙はその原因を中間小説の浸透に求めている。
「意外にみな
中間小説的作法にその深部を犯されていて、しかも自分ではその毒をよく
意識していないようだ。両者に共通なものは私小説的精神の脱落である。
私は結局のところ私小説は克服さるべきものと思っているが、その歴史的
蓄積を無視して、安易に翻訳小説を下敷きにしたり、中間小説的構成を本
道のように思い込まれては困る、とはいっておきたい 39」
。
昭和 36 年に入るとこうした純文学への危機感はいよいよ再燃し、純文
学と大衆文学の区別が問題になり、
中間小説がまたもや脅威とみなされた。
江藤淳は「
「純文学」と「大衆小説」という分類は、昨今では以前ほどの
流通性を持っていない 40」と述べ、河上徹太郎は質的に向上し、広い読者
層を獲得している「中間小説の衝角攻撃を受けた純文学が、どんなよろめ
きを見せるか、どんな本拠を再構築するかは、わが文学全体の動きにとっ
て大切な指針になる 41」と危機感を隠さない。
このように純文学と大衆文学の問題、中間小説脅威論がもっとも極端な
かたちで現れたのが純文学変質論争と言えよう。この論争のそもそもの契
機は、平野謙が示した純文学変質説である。平野は論争に先立つ昭和 34
年 7 月、横光利一が「純粋小説論」を発表した昭和十年前後に比べ、今日
の文学には芸術概念の変質が認められるとし、その原因が中間小説の発生
にともなう作家生活の変化にあると論じている 42。つまり平野もまた現代
における純文学の変質を指摘し、これを中間小説と関連づけたのである。
平野はしきりに純文学変質説を唱え、これに対して大岡昇平が当時連載し
ていた『常識的文学論』において純文学変質説を批判した 43。
こうして火種がくすぶっていたところに、平野が純文学歴史的概念説を
16
文芸時評における中間小説の認識
提示し、これに伊藤整が衝撃を受けたことで論争がはじまったのである。
当時イギリスから帰国したばかりであった伊藤もまた日本文学の情勢の変
化に驚き、中間小説の隆盛と純文学への危機感について次のように述べ
ている。「松本清張、水上勉といふやうな花形作家が出て、前者が、プロ
レタリア文学が昭和初年以来企てて果さなかった資本主義社会の暗黒の描
出に成功し、後者が私の読んだところでは「雁の寺」の作風によつて、私
小説的なムード小説と推理小説の結びつきに成功すると、純文学は単独で
存在し得るといふ根拠が薄弱に見えて来るのも必然のことなのである 44」
。
このあと純文学変質論争は最終的に純文学歴史的概念説や小説のアクチュ
アリティ説など論点が拡散し、竜頭蛇尾のままに終わったが、この戦後最
大の文学論争の契機が純文学変質説と中間小説の繁栄であったことは、文
学史的に重要な意味をもつにちがいない。
おわりに
ここまでの議論を要約し、中間小説に対する認識を確認することで結論
にかえたい。中間小説はその発生当初の昭和 20 年代前半、風俗小説と同
類視され、非文学的ないわゆる「読物」とみなされていた。ここで留意す
べきは、中間小説が文壇に脅威とみなされながらも、それはあくまでも外
敵としての脅威という認識にすぎなかったという点であろう。中間小説は
多くの読者を獲得し、文壇にとってジャーナリズム的、商業的脅威であっ
たのはまちがいない。しかし文壇の内部に発生しなかったという点におい
て、中間小説は文学上の脅威にはなりえなかったし、既存の文学観を書き
換えるものとして認識されることもなかった。
こうした中間小説脅威論はほとんど一過性のもので、昭和 20 年代の後
半には中間小説批判もやや退潮した。しかし昭和 30 年を境に文壇の内部
にも中間小説、あるいは中間小説的な小説が現れると文壇の危機感は一気
に頂点に達し、純文学の中間小説化が批判された。
以上、昭和 20 年代前半から昭和 36 年までの、批評家の中間小説に対す
る認識を俯瞰した。図式的になることを承知で言えば、文学史における中
17
丸山 倫世
間小説は、最初文壇の外部に発生し、その後内部へ移行したと言えるだろ
う。本稿で見たとおり、この位置づけの変化には、中間小説それ自体の変
質よりもむしろ純文学側の変質が大きく影響しているように思われる。
とはいえ、これはあくまでも批評家の認識からみた文学状況にすぎず、
作家に目を向ければまた新たな側面が見られる可能性もある。また、中間
小説は純文学変質論争で終焉を迎えたわけではなく、その後も盛んに批評
が行われている。これら本稿で論じきれなかった点については、今後の課
題としたい。
※引用にあたり旧字は新字に改め、仮名遣いと傍点は原文のままとした。
ルビはすべて省略した。
注
1
純文学変質論争は昭和 36 年から翌 37 年にかけて、平野謙を中心にかわされた文
学論争である。一般的には平野が「「群像」十五周年によせて」(『朝日新聞』1961
年 9 月 13 日)で純文学は大正期から昭和初期にかけて成立した歴史的な概念にす
ぎないという論を発表し、これに伊藤整が「「純」文学は存在し得るか」(『群像』
1961 年 11 月)で反応したことで論争がはじまった。本論争の主旨は、磯田光一
のことばを借りるならば次のように要約できる。「(1)大正期から昭和前期になか
ば自明の前提であった「私小説」の理念が、すでに懐疑の対象になっていたこと、
(3)
(2)それをふまえて平野は「純文学」を歴史的な概念にすぎぬと主張したこと、
他方「純文学」概念をハミ出したものとして中間小説が隆盛していたこと、(4)
以上の点から戦前の「私小説」に見られるような、文学の求心的な契機だけに固
執するのは時代への適応性を欠いてしまうこと、(5)しかし「私」を放棄して遠
心的な契機だけに就けば中間小説の隆盛しか得られないこと、(6)それならば以
上の陥穽を免れた文学理念はどのような形で可能であるか」(磯田光一「純文学論
争」日本近代文学館・小田切進編『日本近代文学大事典』4、講談社、1977 年 11 月、
209 頁)。しかし論争は枝葉末節の揚げ足取りに終始し、論点が拡散したため、不
毛なままに終わった。
18
文芸時評における中間小説の認識
2
瀬沼茂樹「中間小説」日本近代文学館・小田切進編『日本近代文学大事典』4、講
談社、1977 年 11 月、282 頁。
3
中村光夫「中間小説論」『文学』1957 年 12 月、2 頁。
4
福田宏年「中間小説の発生」『国文学 解釈と鑑賞』1962 年 4 月、36 頁。
5
十返肇「中間小説と作家」『群像』1957 年 3 月、142 頁。
6
河上徹太郎「一九五五年ベストスリー」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』
10、ゆまに書房、2008 年 10 月、533 頁(初出:『読売新聞』1955 年 12 月 25 日)。
7
十返肇「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』12、ゆまに書房、
2008 年 10 月、281 頁(初出:『図書新聞』1957 年 7 月 20 日)。
8
瀬沼茂樹「中間小説」日本近代文学館・小田切進編『日本近代文学大事典』4 講談社、
1977 年 11 月、282 頁。
9
浅見淵「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』3、ゆまに書房、2008
年 10 月、427 頁(初出:『文芸首都』1948 年 10 月)。
10
平田次三郎「やるせなき忿懣」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』4、ゆまに
書房、2008 年 10 月、196 頁(初出:『近代文学』1949 年 7 月)。
11
柴田錬三郎「文藝時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』4、ゆまに書房、
2008 年 10 月、243 頁(初出:『シナリオ文藝』1949 年 9 月)。
12
伊藤整「現代文学の可能性」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』5、ゆまに書
房、2008 年 10 月、7 頁(初出:『改造』1950 年 1 月)。
13
福田宏年「中間小説の発生」『国文学 解釈と鑑賞』1962 年 4 月、36 頁。
14
瀬沼茂樹「風俗小説について」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』3、ゆまに
書房、2008 年 10 月、291 頁(初出:『新小説』1948 年 7 月)。
15
丹羽文雄・林芙美子・井上友一郎「小説鼎談」臼井吉見監修『戦後文学論争』上、
番町書房、1972 年 10 月、494 頁(初出:『風雪』1949 年 8 月)。
16
丹羽文雄・井上友一郎・中村光夫・福田恆存・河盛好蔵・今日出海「批評家と作家の溝」
『文
臼井吉見監修『戦後文学論争』上、番町書房、1972 年 10 月、524-525 頁(初出:
学界』1949 年 12 月)。
17
SMR「中間小説をみる―十月号の各誌から―」曾根博義編『文藝時評大系 昭和
篇Ⅱ』6、ゆまに書房、2008 年 10 月、196 頁(初出:
『図書新聞』1951 年 9 月 3 日)。
19
丸山 倫世
18
瀬沼茂樹「三月号の中間小説を読んで」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』7、
ゆまに書房、2008 年 10 月、60 頁(初出:『東京タイムズ』1952 年 2 月 5 日)。
19
瀬沼茂樹「四月号の中間小説展望」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』7、ゆ
まに書房、2008 年 10 月、133 頁(初出:『夕刊信毎』1952 年 3 月 31 日)。
20
十返肇「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』7、ゆまに書房、2008
年 10 月、364-365 頁(初出:『文学者』1952 年 9 月)。
21
杉森久英「文芸時評―10 月号―」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』7、ゆ
まに書房、2008 年 10 月、407 頁(初出:『日本読書新聞』1952 年 10 月 6 日)。
22
瀬沼茂樹「『中間小説』展望」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』8、ゆまに書房、
2008 年 10 月、469 頁(初出:『東京タイムズ』1953 年 10 月 19 日)。
23
瀬沼茂樹「二月号中間小説展望」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』9、ゆま
に書房、2008 年 10 月、20 頁(初出:『神戸新聞』1954 年 1 月 18 日)。
24
荒正人・福永武彦・加藤周一「創作合評 99 回」曾根博義編『文藝時評大系 昭
和篇Ⅱ』10、ゆまに書房、2008 年 10 月、319 頁(初出:『群像』1955 年 8 月)。
25
平野謙「小説案内」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』10、ゆまに書房、
2008 年 10 月、348 頁(初出:『毎日新聞』1955 年 8 月 31 日)。
26
十返肇「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』11、ゆまに書房、
2008 年 10 月、169 頁(初出:『東京タイムズ』1956 年 4 月 19 日)。
27
十返肇「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』11、ゆまに書房、
2008 年 10 月、169 頁(初出:『東京タイムズ』1956 年 4 月 19 日)。
28
北小路寛・松本一郎「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』11、ゆ
まに書房、2008 年 10 月、53 頁(初出:『作家』1956 年 2 月)。
29
本多秋五「私の「今月の問題作五選」」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』
11、ゆまに書房、2008 年 10 月、262-263 頁(初出:『文学界』1956 年 6 月)。
30
臼井吉見「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』12、ゆまに書房、
2008 年 10 月、42 頁(初出:『朝日新聞』1957 年 1 月 24 日)。
31
北原武夫「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』12、ゆまに書房、
2008 年 10 月、81 頁(初出:『東京新聞』1957 年 2 月 2 日)。
20
文芸時評における中間小説の認識
32
山室静「今月の文壇展望」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』12、ゆまに書房、
2008 年 10 月、100 頁(初出:『図書新聞』1957 年 2 月 23 日)。
33
原田義人「文芸時評 4 月号」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』
12、ゆまに書房、
2008 年 10 月、143 頁(初出:『日本読書新聞』1957 年 3 月 25 日)。
34
北原武夫「新人は恵まれてゐるか」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』12、
ゆまに書房、2008 年 10 月、257 頁(初出:『群像』1957 年 7 月)。
35
小田切秀雄「自我の技術化」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』12、ゆまに書房、
2008 年 10 月、460 頁(初出:『群像』1957 年 11 月)。
36
中村光夫「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』12、ゆまに書房、
2008 年 10 月、233 頁(初出:『読売新聞』夕刊、1957 年 6 月 18 日)。
37
福田宏年「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅱ』13、ゆまに書房、
2008 年 10 月、476 頁(初出:『河北新報』1958 年 11 月 9 日)。
38
十返肇「本年上半期の文壇」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅲ』2、ゆまに書
房、2009 年 10 月、359 頁(初出:『産経新聞』夕刊、1960 年 7 月 5 日)。
39
平野謙「今月の小説 ベスト 3」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅲ』2、ゆま
に書房、2009 年 10 月、483 頁(初出:『毎日新聞』1960 年 9 月 28 日)。
40
江藤淳「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅲ』3、ゆまに書房、2009
年 10 月、169 頁(初出:『朝日新聞』1961 年 3 月 23 日)。
41
河上徹太郎「文芸時評」曾根博義編『文藝時評大系 昭和篇Ⅲ』3、ゆまに書房、
2009 年 10 月、246 頁(初出:『読売新聞』夕刊、1961 年 4 月 28 日)。
42
平野謙「現代小説の問題点」『純文学論争以後』筑摩書房、1972 年 12 月、26-27 頁。
43
大岡昇平『常識的文学論』講談社、1962 年 1 月、136 頁。なお当該部分の初出は
1961 年 8 月。
44
伊藤整「「純」文学は存在し得るか」臼井吉見監修『戦後文学論争』下、番町書房、
1972 年 10 月、477-478 頁。
21