ウエルタと日本 マデロ大統領の家族を公使館に匿っていることに対し

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ウエルタと日本
ウエルタと日本
マデロ大統領
マデロ大統領の
大統領の家族を
家族を公使館に
公使館に匿っていることに対
っていることに対し、ウエルタの
ウエルタの使者が
使者が堀口九萬一公
使に礼を述べに来た。それに対
それに対し公使は
公使は、もし大統領家族
もし大統領家族の
大統領家族の誰かが銃弾で
銃弾で傷つくようなこ
とがあれば不名誉
とがあれば不名誉である
不名誉である故
である故、気をつけてもらいたいと言
をつけてもらいたいと言い、さらに我
さらに我々がマデロ氏家族
がマデロ氏家族を
氏家族を
庇護するのは
庇護するのは何
するのは何ら党派的感情からではなく
党派的感情からではなく、
からではなく、すなわち大統領
すなわち大統領の
大統領の家族としてではなく
家族としてではなく、
としてではなく、単に
我が親愛なるメキシコ
親愛なるメキシコ人
なるメキシコ人の友として同情
として同情したまでのことである
同情したまでのことである、
したまでのことである、と公使は
公使は応えた。
えた。さらに、
さらに、
もし貴下
もし貴下が
貴下が今日のマデロ
今日のマデロ氏
のマデロ氏のような状況
のような状況になるようなことがあれば
状況になるようなことがあれば、
になるようなことがあれば、我々は進んで貴下
んで貴下の
貴下の
家族を
家族を保護すると
保護すると付
すると付け加えた。
えた。それに応
それに応えてウエルタや
えてウエルタや新政府要人
ウエルタや新政府要人が
新政府要人が丁重な
丁重な礼を言ってき
た。公使は
公使は八方手を
八方手を尽くして食料
くして食料を
食料を集め、滞在中マデロ
滞在中マデロ家族一同
マデロ家族一同には
家族一同には充分
には充分に
充分に満足してもら
満足してもら
えた。
えた。公使は
公使は家族が
家族が国外へ
国外へ出発するにあたり
出発するにあたり、
するにあたり、列車で
列車でベラクルースまで同行
ラクルースまで同行し
同行し、家族が
家族が乗
船するまで見届
するまで見届けた
見届けた。
けた。
ウエルタが政権
ウエルタが政権を
政権を握るなり、
るなり、英独仏西は
英独仏西は直ちに政府
ちに政府を
政府を承認した
承認した。
した。ウエルタの
ウエルタの良
ルタの良き助言者
である米国大使
である米国大使ヘンリー・レーン・ウイルソンの
米国大使ヘンリー・レーン・ウイルソンの影響
ヘンリー・レーン・ウイルソンの影響が
影響が各国公使へ
各国公使へ及んでいたのと、
んでいたのと、何よ
りもマデロ革命政府
りもマデロ革命政府に
革命政府に対する経済界
する経済界の
経済界の不信感が
不信感が払拭されたことが
払拭されたことが大
されたことが大きく作用
きく作用し
作用し、ヨーロッ
パ諸国がすんなりとウエルタを
諸国がすんなりとウエルタを承認
がすんなりとウエルタを承認した
承認した。
した。日本政府がそれに
日本政府がそれに追随
がそれに追随したのも
追随したのも当然
したのも当然の
当然の成り行き
であった。
であった。ウエルタにとって不幸
ウエルタにとって不幸であったのは
不幸であったのは、
であったのは、マデロ殺害
マデロ殺害から
殺害から僅
から僅か二週間後に
二週間後に就任した
就任した
ウイルソン大統領
ウイルソン大統領が
大統領がウエルタを簒奪者
ウエルタを簒奪者と
簒奪者と決めつけ、
めつけ、承認を
承認を拒んだのみならず、
んだのみならず、あらゆる手
あらゆる手
段を講じて妨害
じて妨害をし
妨害をし続
をし続けたことである。
けたことである。数年後、
数年後、第一次大戦終了時のパリ
第一次大戦終了時のパリ講和会議
のパリ講和会議に
講和会議に於い
て、この理想主義
この理想主義的外交政策
理想主義的外交政策を
的外交政策を振りかざすウイルソン大統領
りかざすウイルソン大統領は
大統領は、日本の
日本の全権大使の
全権大使の前に立
ち塞がることになる。
がることになる。ウエルタもウイルソンに徹頭徹尾反抗
ウエルタもウイルソンに徹頭徹尾反抗した
徹頭徹尾反抗した。
した。
11
悲劇の
悲劇の十日間のあと
十日間のあと、
のあと、カリフォルニア日系人
カリフォルニア日系人の
日系人の間でメキシコに
でメキシコに対する関心
する関心が
関心が高まるのを
受けて、
けて、日米新聞
日米新聞は1913年
1913年3月3日から二十九
から二十九回
二十九回にわたり「
にわたり「墨国革命」
国革命」と題したメキ
シコ革命
シコ革命の
革命の歴史を
歴史を掲載した
掲載した。
した。その中
その中で同紙は「日米問題
日米問題の
問題の研究には
研究には必
には必ず日墨関係が付帯し、
日墨関係の研究には
研究には必
には必ず日米問題
日米問題が
問題が対照されね
されねばならぬ
ばならぬ」と述べている。
べている。そして、
そして、「而して、
して、
仮大統領ウイルタは
大統領ウイルタは墨
ウイルタは墨国憲法上ど
憲法上どうしても引
うしても引き続き大統領たる
大統領たる事
たる事を得ぬのであるから、
のであるから、任
期満了と
満了と共に退職するより
退職するより外
するより外はない。
はない。去れば目
れば目下の処、好個の
好個の取り組みはディ
みはディアスとバ
アスとバス
ケス・ゴメスである
・ゴメスである。
メスである。中原の鹿、果たして誰
たして誰が手にか帰
にか帰す?」と
?」と締めくくった。
めくくった。
日米新聞
日米新聞に表れた論調
れた論調を
論調を見ると、
ると、加州在住邦人
住邦人はウエルタ大統領
はウエルタ大統領をウエルタ
大統領をウエルタ君
をウエルタ君と呼んで、
んで、
熱烈な
熱烈な声援を
声援を送った。
った。彼等は
彼等はウイルソン大統領
ウイルソン大統領がウエルタを
大統領がウエルタを窮
がウエルタを窮状に追い詰めた張
めた張本人であ
本人であ
るとして
るとして、加州排斥土地法により
州排斥土地法により苦
により苦しめられている自
しめられている自分たちをウエルタと重
たちをウエルタと重ね合わせてい
た。日米新聞
日米新聞はウイルソンがウエルタ支持
ウイルソンがウエルタ支持へ
支持へ政策転換
政策転換をすれば
転換をすれば、
をすれば、メキシコは平
メキシコは平和を取り戻
せると考
ると考えていた
えていた。
いた。7月17日
17日、日米新聞
日米新聞はウイルソン大統領
はウイルソン大統領が
大統領が親ウエルタのヘンリー・
ウエルタのヘンリー・レ
ーン・
ーン・ウイルソン駐墨
ウイルソン駐墨大使
駐墨大使を
大使を召還したことに関
したことに関し、反ウエルタ政策
ウエルタ政策を
政策を鮮明にしたとして
鮮明にしたとして警戒
にしたとして警戒
感を強めた。日本がウエルタ
日本がウエルタ政府
がウエルタ政府並
政府並びにメキシコ国
にメキシコ国民との緊密
との緊密な
緊密な関係を保つことを、
つことを、ウイ
12
87
ルソンが妨害
ルソンが妨害するのではないかと
妨害するのではないかと日米
するのではないかと日米新
日米新聞は恐れた。
れた。メキシコや加
メキシコや加州在住邦人
住邦人は、日本が
日本が
もっとウエルタ政府
もっとウエルタ政府を
政府を援助し、メキシコ人
メキシコ人が歓迎している
歓迎している日本
している日本からの
日本からの移民
からの移民をもっと
移民をもっと送
をもっと送り込
むべきだと熱望
べきだと熱望していた
熱望していた。
していた。独立国同士
立国同士が緊密な
緊密な関係を結ぶことに、
ことに、米国政府が
米国政府が干渉すべき
干渉すべき
ではないと
ではないと論じた。
じた。これに対
これに対し日本政府は
日本政府は、墨国が対米政策上
対米政策上、一時日本を
一時日本を利用している
に過ぎない、
ない、という冷
という冷ややかな立
ややかな立場を表明していた
表明していた。
していた。
13
ウエルタが仮
ウエルタが仮大統領に
大統領に就任して
就任して間
して間もなく、
もなく、三井物産はウエルタへの
三井物産はウエルタへの武器売込
はウエルタへの武器売込みに
武器売込みに成
みに成功し
ていた。
ていた。日本製小
日本製小銃
製小銃五万挺、
五万挺、騎兵銃二
騎兵銃二万五千挺
銃二万五千挺、
万五千挺、弾薬一千万発
千万発であった。
であった。 この武器
この武器の
武器の
受け取りにあたり、
りにあたり、独立百
独立百年祭に日本から
日本から祝賀特
から祝賀特使
祝賀特使としてメキシコ市
としてメキシコ市を訪問した
訪問した内田康哉
した内田康哉
男爵一行
男爵一行への
一行への答
への答礼もかね
もかねて、メキシコから日本
メキシコから日本への
日本への答
への答礼大使が
礼大使が派遣されることになった。
されることになった。
選ばれたのはフェ
ばれたのはフェリス・
リス・ディアスである。
アスである。ウエルタはディ
ウエルタはディアスが次
アスが次期大統領に
大統領に就任すること
就任すること
を約束しながら
約束しながら、
しながら、それを妨害
それを妨害するための
妨害するための人
するための人選であった。
であった。恐らくディ
らくディアス自身
アス自身もこれを
自身もこれを受
もこれを受け
なければ命
なければ命が危ないと感
ないと感じたに違
じたに違いない。
いない。8月3日、フェリス・
リス・ディアス一行
アス一行が
一行がサンフラン
シスコに到着
シスコに到着した
到着した。
した。アメリカの新
アメリカの新聞は、老ディアスが亡
アスが亡命先から東京
から東京で
東京で甥と落ち合い、共
にメキシコへ帰
にメキシコへ帰国するであ
するであろうと書
うと書きたてた。
きたてた。ディアスを受
アスを受けるにあたり、
けるにあたり、日本政府は
日本政府は逡
巡し、そして遂
そして遂に受け入れを拒
れを拒んだ。
んだ。次期大統領と
大統領と目されるフェ
されるフェリス・ディ
リス・ディアスを答
アスを答礼使
節として迎
として迎えることにより、
えることにより、メキシコ政府
メキシコ政府に
政府に利用されるようになることを日本政府
されるようになることを日本政府は
日本政府は恐れ
た。フェリス・デ
リス・ディ
・ディアスは
アスはポルフィ
ルフィリオ・ディアスの仇
アスの仇を討つためにマデロを殺害
つためにマデロを殺害した
殺害した、
した、な
どという誤
という誤った解釈
った解釈を
解釈を日本政府がし
日本政府がしていたという
がしていたという。
ていたという。
日本政府がデ
日本政府がディ
がディアス受
アス受け入れを断
れを断ったため急遽
ったため急遽、
急遽、フランス駐
フランス駐在大使レ
在大使レオン・デ・ラ・バ
ン・デ・ラ・バ
ッラが起
ッラが起用されることになった。
されることになった。ポルフィ
ルフィリオ・デ
オ・ディアスの国外
アスの国外逃避
国外逃避後
逃避後、臨時大統領となっ
時大統領となっ
た経歴を持つレオ
つレオン・デ・
ン・デ・ラ・バッラ
・バッラ一行
ッラ一行は
一行は、三名の書記官及
書記官及び陸軍大
陸軍大将マヌエル・ベラス
ケス以下六名の武官であった
武官であった。
であった。使節は1913年
1913年12月
12月25日
25日、両陛下
両陛下に拝謁した
拝謁した。
した。最初
の武器の
武器の出荷は、本船ロ
本船ロサンゼルス入港
ルス入港時
入港時、情報を握っていたアメリカ政府
ていたアメリカ政府により
政府により没収
により没収さ
没収さ
れた。
れた。アメリカ
アメリカ政府
リカ政府がカラン
政府がカランサ
がカランサ政権を
政権を承認し
承認した後、貨物は
貨物はメキシコ政府
メキシコ政府に
政府に渡された。
された。
14
15
16
この頃
この頃、ハースト
ースト系新聞
系新聞、大企業、
企業、メキシコに利
メキシコに利害関係
害関係のある議
のある議員などがメキシコ侵略
メキシコ侵略
を叫んでいた。
んでいた。憲政軍が占める北部
める北部とウエルタ
北部とウエルタ政府
とウエルタ政府軍
政府軍の南部を
南部を分断し、アメリカの垂涎
アメリカの垂涎の
垂涎の
的である、
である、国境に隣接する
隣接する諸
する諸州を奪おうとする、
する、多くのマニフ
くのマニフェ
マニフェスト・デスティ
・デスティニー
ティニー信
ニー信奉
者がいた。
がいた。ウイルソン大統領
ウイルソン大統領はこれらの
大統領はこれらの圧力
はこれらの圧力を
圧力を抑える一方
える一方、
一方、ウエルタ政権
ウエルタ政権を
政権を転覆するため
転覆するため
全力を尽くした。
くした。反ウエルタ憲
ウエルタ憲政軍への武器輸
への武器輸出
武器輸出を解禁し
解禁し、メキシコ沿岸
メキシコ沿岸をアメリカの
沿岸をアメリカの艦
をアメリカの艦
船で警戒し
警戒した。この頃
この頃、日本とメキシコが
日本とメキシコが親
とメキシコが親密な関係にあることにかこつけ、
にあることにかこつけ、日本を
日本を敵視
したセ
したセンセーショナ
ーショナルな
ョナルな新
ルな新聞記事が
聞記事が後を絶たなかったことから、
たなかったことから、加州在住邦人
住邦人はウエルタ
に熱烈な
熱烈な声援を
声援を送った。
った。
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11. 日米新聞、
日米新聞、Sept. 26 and 27, 1913
12. Ibid. March 5 & April 5, 1913
13. Ibid. July through August, 1913
14. 日墨協会・
日墨協会・日墨交流史編纂委員会「
日墨交流史編纂委員会「日墨交流史」
日墨交流史」現代企画室、
現代企画室、1990, P370
15. 日米新聞、
日米新聞、Aug. 13, 1913
16. 日本人メキシコ
日本人メキシコ移
メキシコ移住史編纂委員会「
住史編纂委員会「日本人メキシコ
日本人メキシコ移住史
メキシコ移住史」
移住史」、1971,P119