写真データあり チ ラ シ あ り (A4カラ―両面) 平成 29 年 2 月 20 日 市政記者クラブ 様 名古屋市美術館 担当:学芸課長 山田 担当学芸員 竹葉 電話:212-0003 美術館特別展「異郷のモダニズム-満洲写真全史-」を開催します! 名古屋市美術館では、下記のとおり特別展「異郷のモダニズム-満洲写真全史-」 を開催いたしますので、お知らせいたします。 記 1 会期 平成 29 年 4 月 29 日(土・祝)‐6 月 25 日(日) (50 日間) [前期]4 月 29 日(土・祝)‐5 月 28 日(日) [後期]5 月 30 日(火)- 6 月 25 日(日) 2 料金 一般 1,200 円、高大生 800 円、中学生以下無料 *展覧会入場券で常設展も鑑賞できます。 3 会場 名古屋市美術館 企画展示室 1・2 常設展示室 3 名古屋市中区栄二丁目 17 番 25 号(芸術と科学の杜・白川公園内) 4 主催 名古屋市美術館、毎日新聞社、日本経済新聞社、テレビ愛知 5 内容 1905(明治 38)年のポーツマス条約の翌年、日本は〈南満洲鉄道株式 会社(満鉄)〉を設立し、本格的な植民地経営に乗り出しました。日露 戦争終結の時点から、満州の存在と意義を内地の国民に知らしめるべ く、大陸の風景や生活風俗を記録することから始まった写真表現は、 1932 年の「満洲国」建国前後から絵画的な表現が多用されるようにな りました。やがて国策としての宣伝活動に変容していきましたが、日 本の敗戦とともに「大陸」に寄せられた視線とその写真表現も途絶え、 消滅します。写真とは、正しく「近代」を記録し続けたメディアの発 展をたどる表現でもありました。 今回の展覧会では、作家自身による貴重なプリント作品や当時のグ ラフ雑誌など多数の資料によって、日本のモダニズムが到達し得た豊 饒な写真表現を紹介します。 6 見所 (1)本展覧会は 1994 年に当館で開催された特別展「異郷のモダニズ ム-淵上白陽と満洲写真作家協会」の第二弾として、これまでそ の存在すら全く知られていない写真表現の変遷をはじめて紹介 します。 (2)出品作品は、当時作家自らがプリントした写真作品(ヴィンテー ジ・プリント)を中心に展示。また、失われたイメージについて は、今回新たに復元し、大陸に寄せた近代日本人の視線とその表 象を紹介します。 (3)1940 年代に入って制作され、日本のデザイン史上の傑作とされ る“幻のグラフ雑誌”『FRONT』等の貴重な資料も多数展示、紹 介します。歴史的事実を踏まえ、改めて日本の写真表現が到達 しえた一面を紹介する本展覧会は、戦前の植民地主義を肯定し、 また彼らの表現を植民地活動に加担したものとして糾弾するこ とを意図するものではありません。 4 月 28 日(金)午後 2 時~記者内覧会を開催します。 担当学芸員が展示室内で本展の見所についてご説明します。 是非ともご参加いただきますようお願いいたします。 7 展示構成及び出品作品 Ⅰ.大陸の風貌-櫻井一郎と〈亞東印画協会〉 Ⅱ.移植された絵画主義-淵上白陽と〈満洲写真作家協会〉 Ⅲ.「宣伝」と「統制」-満洲國國務院弘報處と『登録写真制度』 Ⅳ.“偉大なる建設” -プロパガンダとグラフィズムの諸相 Ⅴ.廃墟への「査察」-ポーレー・ミッション・レポート Ⅰ.大陸の風貌-櫻井一郎と〈亞東印画協会〉 「満洲」で展開された写真表現は、大陸の風景や異民族の生活や風俗、さらには歴史を対 象とし、 「視覚化」することに始まりました。1924(大正 13)年 8 月、大連において創刊・発 行された『満蒙印画輯』は、その“起点”に位置し、撮影すべき対象を“定義”し、その後 のイメージの原型を提示するものでもありました。毎月 10 点の写真を台紙に貼付し、解説 とともに購読者に届ける“写真の頒布会”なる制度を確立させた〈満蒙印画協会〉(のちに 〈亞東印画協会〉と改称)を創設し、写真の撮影から頒布までを一手に担っていた写真家櫻 井一郎(1893-1928)の活動と表現を通じて、満蒙の視覚化と初期の宣伝について紹介します。 櫻井一郎《蒙古の砂丘》 1924(大正 13)年 『満蒙印画輯』第一回頒布 Ⅱ.移植された絵画主義-淵上白陽と〈満洲写真作家協会〉 “印画(写真)の頒布会”を立ち上げ、 「内地」にも数多くの会員を擁していた〈亞東印画協 会〉の櫻井一郎は、1928(昭和 3)年大連で急死します。写真による満洲宣伝の実践者を失っ た大連の関係機関は、満蒙宣伝の充実と更なる進展を図り、神戸の写真家・淵上白陽 (1889-1960)を招聘しました。 〈南満洲鉄道株式会社(満鉄)〉の弘報課嘱託として大連に移住 した淵上は、満洲国建国の 1932(昭和 7)年には〈満洲写真作家協会〉を創設、満洲にはじめ て「写壇」が生まれました。翌 1933(昭和 8)年にはグラフ雑誌『満洲グラフ』を創刊し、本 格的な満蒙宣伝に取り組むことになります。淵上が主導した絵画主義的な表現によって、異 郷の情景には郷愁を誘うかのような情趣が込められました。 淵上白陽《列車驀進》 1930(昭和 5)年 『アサヒカメラ』第 10 巻第 4 号掲載 一色辰夫《墓標》 1939(昭和 14)年 コロタイプ印刷 36.6x28.0cm 『北満のエミグラント』掲載 馬場八潮《麦秋》 1939(昭和 14)年 19.8x25.0cm(台紙サイズ) g.s.p.(ゼラチン・シルバー・プリント) Ⅲ. 「宣伝」と「統制」-満洲國國務院弘報處と『登録写真制度』 淵上と彼が所属した〈満鉄総裁室弘報課〉の活動と表現は、満鉄という巨大資本の下で、 国策ともいうべき、満洲国のプロパガンダの遂行として展開されたものでしたが、そこでは 「内地」では到達しえないモダニズムの実験の成果もうかがうことができます。だが、そう した満鉄によるプロパガンダに代わり、抬頭してきたのが満洲国政府による統制でした。満 洲国国務院弘報処は、1940 年 11 月, 〈登録写真制度〉を制定、やがて来るべき材料不足とい う事態に対する「優先配給制」を写真家に突き付け、写真家の翼賛制度を敷いていきます。 そして、淵上が大陸に移植した絵画主義的表現や、交錯する光と影による画面構成は否定さ れ、消滅していきました。 [資料] 『第一回登録満洲国写真集』 『第二回登録満洲国写真集』 1941(昭和 16)年/1942(昭和 17)年 Ⅳ.“偉大なる建設” -プロパガンダとグラフィズムの諸相 満洲を巡る写真には、その発生時よりプロパガンダ(宣伝)という役割が課せられてきまし た。満洲国内での写真統制が始まる 1940 年、満鉄の招聘により、「内地」の写真家が来満、 満洲国のプロパガンダとグラフィズムは活況を呈することになります。名取洋之助 (1910-1962)は前年 1939 年 5 月、 〈日本工房〉を〈国際報道工芸株式会社〉に改組、7月には 新京支社〈マンチュウコウ・フォト・サービス〉を開設、10 月には『NIPPON』19 号を「満洲 国特別号」として編集・刊行します。翌 1940 年4月には英文グラフ雑誌『MANCHOUKUO』、 『EASTERN ASIA』が、それぞれ関東軍報道部、満鉄からの出資を受けて創刊されました。ま た6月には満鉄招聘により、 「内地」の写真雑誌推薦写真家 8 名による撮影隊が組織・派遣さ れ、その成果は各誌で数か月に亘って掲載・紹介されました。質量ともに全盛を極めた満洲 および満洲国の宣伝について、出版されたグラフ雑誌により紹介、検証します。 満洲国国務院資政局弘報処発行 対外宣伝用ポスター 『MANCHOUKUO THE SUN OF A NEW NATION』 (写真撮影;淵上白陽) 1932(昭和 7)年 [資料] 対外宣伝グラフ雑誌『FRONT』 「偉大的建設 満洲國」(中国語) 1943(昭和 18)年 Ⅴ.廃墟への「査察」-ポーレー・ミッション・レポート 1945 年 8 月 15 日、日本がポツダム宣言を受諾、終戦とともに満洲国は消滅しました。戦 後満鉄の資料は、大連、旅順に進駐したソ連軍によって接収され、また主要各都市の終戦時 の状況が明らかにされることはありませんでした。1946 年 6 月、アメリカ合衆国大統領特使 エドウィン.W.ポーレーは、戦後賠償について中国東北地方(旧満洲国)査察のため、鞍山、吉 林を訪問します。現地で彼らが目にしたものは、ソ連軍によって破壊され、掠奪され尽した 廃墟の光景でした。これまで全く知られていなかった戦後の満洲国都市の情況について、合 衆国議会図書館が所蔵するアルバム『ポーレー・ミッション・レポート』から紹介します。 ・ ・ ・ 出品点数 約 450 点 展示作品は、発表当時の写真家自身によるヴィンテージ・プリント 現存と所蔵機関が確認できていないイメージに関しては、デジタルネガから新たに四つ 切サイズのニュー・プリントを制作、展示 ・ オートスライドならびにマルチタッチ液晶パネルによるスライドショーを上映、展示 ・ 資料展示 約 200 点
© Copyright 2024 ExpyDoc