[内容の要旨及び審査の結果の要旨] 中世日本における言語認識と神仏

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Title
【内容の要旨及び審査の結果の要旨】中世日本における言語認識と
神仏
Author(s)
石黒, 志保
Citation
奈良女子大学博士論文, 博士(文学), 博課 甲第571号, 平成27年3月
24日学位授与
Issue Date
2015-03-24
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石黒志保
博士論文の内容の要旨
本論文は、院政期から鎌倉期の貴族層が、自らを取り巻く現象的・観念的世界の構造を
どのように認識し、表現していたのかについて、鎌倉初期の歴史書や歌論書を主な素材と
して考察したものである。
本論文は、全体が三章で構成され、「はじめに」と「おわりに」が付く。
全体の「はじめに」では、院政期から鎌倉期における和歌論と仏教の論理との関係を指
摘して、古代インドのヴェーダ聖典、空海の言語思想、日本の梵字悉曇学、法相唯識学な
どを概観しつつ、本論文の目的が、当該期の言葉に対する認識の変化と、言葉の真理性の
ありようの考察にあることを示す。
第一章「歴史書と中世歌論」は、三節で構成され、「はじめに」と「おわりに」が付く。
「はじめに」では、『愚管抄』における「倭辞ノ本体」の記事と、『古事記』序文での文
字観に触れながら、歴史を記述するときの言葉の意味を問う。
第一節「慈円の言語観について」では、慈円の歴史書『愚管抄』と歌集『拾玉集』を分
析して、慈円の言語観を考察している。著者は、『古今和歌集』序文にみられた言葉をめぐ
る和漢の構図が、『拾玉集』では想定されず、音声文字数の近似から梵語と和語の近さが意
識されているとする。また『愚管抄』と『拾玉集』の言語認識は、いずれも漢語の重要性
を説きながらも、「意」(こころ)を理解するときの和語の役割を重視する点で共通してお
り、著者はこの点から、和語で「意」を詠んできた和歌を重要視する慈円の言語観を導き
出す。
第二節「天台の和歌論」では、藤原俊成の『古来風躰抄』が「浮言綺語の戯ぶれ」に似
る和歌に「ことの深き旨」が顕れ、これを縁として「仏の道」へ通じる、としている点は、
天台宗の根本教典である『法華経』での悟りの追究方法と同じであるとし、まず『法華経』
の方便説話を考察する。そのうえで著者は、『古来風躰抄』と『法華経』方便説話の両者の
根底に、言葉をそのまま信じることの困難さ、言葉で語ることの難しさについての認識が
存在することを示し、和歌(言葉)は万の事を言いあらわすことができるとする『古今和
歌集』仮名序の理念との違いを指摘する。さらに、天台本覚思想との関係が深い『大乗起
信論』からも言葉の真理性への疑いが読み取れるとする著者は、言葉では直接真理を説き
がたいとするこのような言語認識が、和歌の深き道をその歴史によって説明しようとする
俊成の歌論を基礎付けており、これは俊成の子である藤原定家が提唱した、古い詞に信を
置きその詞を用いて新しい心を生み出す「本歌取り」の思想と共通する点を指摘する。
第三節「真言の和歌論」ではまず、前節の言語認識がある一方で、鎌倉後期に和歌を仏
の真実の言葉とみる「和歌(即)陀羅尼」とする歌論が生まれる理由を考察する。著者は
『沙石集』の説話から和歌即陀羅尼の言説を読み解き、そこに慈円の言語観の多大な影響
がみられること、自らの使う言葉に絶大な信頼をおく空海の『声字実相義』が和歌即陀羅
尼の説明の根拠に用いられていることを示し、空海の言語認識が慈円の言葉への言及を生
み、和歌が陀羅尼となりうることが論ぜられたことを指摘する。また著者は、『拾玉集』に
ある「五大五行」や「真言の梵語」に関する言説から、日本の言葉によっても真理を記す
ことができるとする当時の歌論がなければ、『愚管抄』がカナ文字で書かれた理由は説明で
きないことを主張する。
著者はさらに、『沙石集』に先だって、和歌が真言であると明確に語った歌人西行に注目
する。著者は、『栂尾明恵上人伝記』に残された西行の言説が、天台の空観(空・仮・中の
三諦)とは明確に異なる龍樹の説く空観に基づいていることを示す。西行の歌論が『大日
経』や華厳における「法界縁起」の思想と関連するという先行研究の成果を踏まえ、龍樹
の空観と華厳思想と空海の真言思想との近似性を指摘し、自分の読む歌句はすべて真言で
あるとする西行の歌論が、天台の歌論とは全く異なる言葉の認識上に形成されていたこと
を主張する。
「おわりに」では、俊成や定家の天台の和歌論が歴史を求めるものであったのに対して、
西行の真言の和歌論は、
「自己」に真理を探究する方法をとった、と結論する。
第二章「『新古今和歌集』の成立‐人による神と仏の認識について」も、三節で構成され、
「はじめに」と「おわりに」が付く。
「はじめに」では、『古今和歌集』において和歌は人が「鬼神」に働きかけるものとして
あったのに対して、『新古今和歌集』では人と同様に神や仏も和歌を詠む主体となっている
点に注目し、この認識の差異こそが中世における人と神・仏との関係を示すのではないか、
という問いを提示する。
第一節「『新古今和歌集』における神と仏」では、まず『新古今和歌集』の神祇歌と釈教
歌の作者を整理し、それが記紀神話にでてくるような神の名ではなく、仏の名も日本の国
土にある地名を負った仏、もしくは「聖人」として過去の日本の国土に生きた先人の名で
あることを確認する。著者はこの神仏を、佐藤弘夫氏の定義する「日本の神仏」に該当す
ると判断する。また、人が霊神や明王と肩を並べることができるのが和歌であるという『源
平盛衰記』の記事に着目し、鎌倉初期の神仏と人との関係の模索は、鎌倉幕府創設前後の
時代状勢からくるものとしている。
第二節「和歌と道理の歴史」では、前節で指摘した鎌倉初期の時代状勢から生じる思惟
の変化を、和歌の歴史と『愚管抄』の道理の歴史から考察している。著者はまず、藤原俊
成の『古来風躰抄』に記された和歌の歴史を検討し、『古今和歌集』で歌の善し悪しが判断
されたことに着目する。その善し悪しが判断される歌合を、著者は歌人にとっての言葉の
討議ととらえ、当該期をそれが必要とされた時代とみる。一方、『愚管抄』の道理の歴史で
は、武士の時代を審議の必要な時代としており、互いに討論の必要性が求められるという
点で共通するのではないかと想定している。また、審議が必要となったのは、人も神・仏
も同じ俎上で語らねばならない時代が到来したからであり、著者は、これが『新古今和歌
集』で神や仏が和歌を詠んだ理由であると推測する。
第三節「神話の再生」では、治承・寿永の内乱で東大寺が焼き打ちされた「法滅」から
の再建において、伊勢の地から生じた神と仏を再編する動きを、重源と西行を中心に考察
している。
「おわりに」では、中世という時代の特徴を、善悪が神や仏ではなく、人によって判断
されなければならない時代が到来した点にあると結論する。だから和歌においても道理に
おいても人同士の審議が必要になったが、やはり人だけでは解決しえないことがあり、そ
の際の真理の所在として、新たに神話が再構築された可能性に言及している。
第三章「中世初期の仏教的世界観‐法然と明恵・貞慶の差異について」は、二節から成
り、「はじめに」と「おわりに」が付く。本章は、第一章と第二章の仏教的理解を底部で支
える補論的役割を担う。
「はじめに」では、本章の目的が、いわゆる「新仏教」に属する法然の世界観と「旧仏
教」に属する明恵や貞慶のそれを比較することで、人々の世界認識を探り、今後の課題を
検討することにある点を示す。
第一節「法然の思想」では、法然の仏教思想を確認しながら、浄土と現世の二層構造を
とる世界観と、地獄と極楽との対からなる世界観との関係を、「心」をキーワードとして考
察している。
第二節「心と国土の関係について」では、華厳宗の明恵と興福寺の貞慶の思想を、法相
唯識学の世界観に着目しながら考察している。
「おわりに」では、法然と法相唯識の世界観との差異を整理し、今後の課題を示す。
本論文全体の「おわりに」では、各章ごとの著者の主張点を整理している。
石黒志保
博士論文の審査結果の要旨
本論文は、院政期から鎌倉期の貴族層が、自らを取り巻く現象的・観念的世界の構造を
どのように認識し、表現していたのかについて、鎌倉初期の歴史書や歌論書を主な素材と
して考察したものである。
本論文の特徴は、全体の「はじめに」で古代インドのヴェーダ聖典、空海の言語思想、
日本の梵字悉曇学、法相唯識学などを概観している点に端的にあらわれているように、当
該期の言葉に対する認識の変化や、言葉の真理性に関する観念を、仏教的言語哲学に連な
る仏教思想の基本理念に立ち返って考察しようとしたことにある。従来の日本史学では、
このような言葉にまつわる問題は、
『声字実相義』を著した空海の言語思想や『古今和歌集』
序文との関わりで主に考察されてきたが、この論文はそれにとどまらず、平安末・鎌倉期
における仏教思想の展開のなかで必然的にもたらされる、言葉の真理性に対するいわばあ
る種のゆらぎに注目し、その解決に向けたベクトル上に鎌倉初期の神仏の再編(中世神話
の再生)を想定しようとした研究であり、その全体構想の独自性は高く評価できるもので
ある。
第一章「歴史書と中世歌論」は、歴史を記述するときの言葉の意味を考察している。
著者はまず、『愚管抄』を著した慈円の言語観を考察し、「意」を理解するときの和語の
役割の重視と、和語で「意」を詠んできた和歌の重視に、その特徴を見いだしている。こ
の結論は、
『古今和歌集』序文にみられた言葉をめぐる和漢の構図が、慈円の歌集『拾玉集』
では想定されず、音声文字数の近似から梵語と和語の近さが意識されている点への着目を
端緒として導き出されたものだが、従来の日本史学において、『愚管抄』を代表作とする慈
円の言語観を、その歌集『拾玉集』を媒介として『古今和歌集』序文と比較検討した研究
はほとんど存在しておらず、独自性の高い考察になっている。
著者は次に、藤原俊成の歌論『古来風躰抄』が「浮言綺語の戯ぶれ」に似る和歌に「こ
との深き旨」が顕れ、これを縁として「仏の道」へ通じる、としている点が『法華経』の
悟りと通底する点に着目し、そこに言葉で語ることの難しさ、言葉の真理性への疑いを見
いだしている。言葉では直接真理を説きがたいとするこのような言語認識が、和歌の深き
道をその歴史によって説明しようとする俊成の歌論を基礎付けているとみる著者の理解は、
「歴史とは何か」「なぜ歴史が書かれるのか」という歴史学の根本問題とも密接に関係する
ものであり、大変興味深い。またこの問題が、俊成の子である藤原定家が提唱した、古い
詞に信を置きその詞を用いて新しい心を生み出す「本歌取り」の思想と共通するという指
摘も、歴史における「古」の役割と関わるものであり、重要である。しかし本論文におい
て、この点が十分には深められていない点が惜しまれる。
著者はさらに、このような言語認識がある一方で、鎌倉後期に和歌を仏の真実の言葉と
みる「和歌(即)陀羅尼」とする歌論が生まれる理由を考察し、空海の言語認識が慈円の
言葉への言及を生み、和歌が陀羅尼となりうることが論ぜられたという道筋を示している。
また日本の言葉によっても真理を記すことができるとする当時の歌論がなければ、
『愚管抄』
がカナ文字で書かれた理由は説明できない、という著者の指摘もおもしろい。
しかしより興味深いのは、和歌が真言であると明確に語った歌人西行の評価である。著
者は、西行の言説が、天台の空観(空・仮・中の三諦)とは明確に異なる龍樹の説く空観
に基づいていることを示し、龍樹の空観と華厳思想と空海の真言思想との近似性を指摘し
たうえで、自分の読む歌句はすべて真言であるとする西行の歌論が、天台の歌論とは全く
異なる言葉の認識上に形成されていたことを主張している。龍樹の空観と天台の空観との
本質的違いから西行の言説を読み解こうとする手法は斬新であり、学問的にも価値がある。
第二章「『新古今和歌集』の成立‐人による神と仏の認識について」は、『古今和歌集』
において和歌は人が「鬼神」に働きかけるものとしてあったのに対して、『新古今和歌集』
では人と同様に神や仏も和歌を詠む主体となっている点に注目し、この差異に象徴される
中世における人と神・仏との関係を考察している。
著者はまず、『新古今和歌集』で和歌を詠んだ神仏を、佐藤弘夫氏の定義する「日本の神
仏」に比定し、鎌倉初期の神仏と人との関係の模索を、鎌倉幕府創設前後の時代状勢から
説明する。さらに、鎌倉初期の時代状勢から生じる思惟の変化を、和歌の歴史と『愚管抄』
の道理の歴史から考察している。
和歌の善し悪しが判断される歌合を、歌人にとっての言葉の討議ととらえる視点は興味
深い。また『愚管抄』の道理の歴史のなかで、討論が必要とされる武士の時代に着目し、
そこから人も神・仏も同じ俎上で語らねばならない時代の到来を読み取る著者の理解には、
一定の合理性がある。東大寺の焼き打ち後、伊勢の地から生じた神と仏の再編を、人だけ
では解決しえない新たな問題に対する真理の構図、再構築された神話ととらえる着想も、
成り立ちうるだろう。
しかし、第二章で著者が採用した論証の方法については、一言述べておかねばならない。
人の認識が変化する理由を時代状勢から説明する本章の手法は、従来の研究(日本史学に
限らない)にもしばしば見うけられ、必ずしも間違いとまでは言えないが、証明の合理性
に疑問符が付く点で注意を要する。時代状勢を理由にした説明は、説得的に見えていても、
実は何も説明したことにならない場合が多いからである。歴史学の研究においては、やは
り史料に語らせるという手法を堅持すべきであり、本章ではこの点が惜しまれる。
第三章「中世初期の仏教的世界観‐法然と明恵・貞慶の差異について」は、仏教的理解
を底部で支える補論的役割を担うものであるが、ここで考察されている法相唯識学につい
ては、日本中世史において研究の最も手薄な分野であり、世界観だけでなくその言語認識
の解明が今後の重要な研究課題になるだろう。
なお、論文試問において審査委員から、論理が先行して論証の薄いところがある点、歴
史学と国文学との境界領域での研究で立ち位置が定まっていない点、現代(当時)におけ
る正しさの保証の説明が不足している点、空海の梵語観から中世への転換への説明が弱い
点についての指摘があった。いずれも本論文に対する的確な助言であり、これを踏まえて、
著者の研究が今後さらに進展することが期待される。
また本論文は、
「慈円の言語観と院政期の歌論」
(『寧楽史苑』55 号、平成 22 年 2 月)、
「和
歌の言葉と心‐『新古今和歌集』試論」(『史創』2 号、平成 24 年 3 月)、「和歌をめぐる二
つの言語観について(一)」
(
『北方文学』70 号、平成 26 年 7 月)の三本の論文を基に、鎌
倉初期の言語観と神仏について、さらに精力的に追究したものである。
以上により、本学位論文は、奈良女子大学博士(文学)の学位を授与されるに十分な内
容を有していると判断した。