忠魂碑・紀念碑に残る面影 遠州報国隊と近代の日本

はじめに
忠魂碑・紀念碑に残る面影
歴史ドラマのような「遠州報国隊と日本の近代」に触れる展示会に刺激さ
れ、遠州報国隊に参加した神官たちが暮らしていた地、現在の浜松市、磐田
市を中心にその面影を訪ねてみました。
東征大総督の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)に
従い、討幕のため江戸に向った遠州報国隊の中心となって活動したのは、浜
松諏訪神社の杉浦大学や井伊谷宮の山本金木、津毛利神社の桑原真清、淡海
國玉神社の大久保忠尚・春野、八雲神社の長谷川貞雄などの神官たち。明治
維新への大きな流れを後押ししただけではなく、維新後の混乱を押さえ、日
本の近代化と地方産業の礎をも築きました。
森町の小國神社は木を売って資金を提供し、北遠の秋葉山神官たちも参集
したのが遠州報国隊。
また、大久保春野は、後に靖国神社と名を変える東京招魂社の初代祭主を
務め、日清戦争、日露戦争に従軍し、陸軍大将にまで昇りつめた磐田出身の
大久保春野が書いた慰霊の碑文が、地元にはたくさん残っているはずです。
報国隊の名が刻まれた碑、大久保春野が書いた字が刻まれた碑などを中心
に、気づいたものを掲載してみました。探せば、もっとたくさん見つかると
思いますので、皆さんも、ぜひ探してみてください。
身近な所で、日本の近代史に関わるドラマの一場面を垣間見ることができま
す。
大久保春野
★戊辰之役報國紀念碑★ (浜松市中区利町)
兼て御依頼申上げ候
報國隊建碑之義
浜松市中区利町の五社公園にある「戊辰之
來十四日正午浜松五社
役報國紀念碑」は、
「明治四十年十一月建之」。
之内神官会議所尓て相談
元は、すぐそばの五社神社の境内あったもの
会致候間御入來被下
です。
度、もし同日御さし支ナレバ
五社神社は、太玉命(ふとだまのみこと)、
十五日長谷川宅迄御入來ヲ乞
武雷命(たけみかづちのみこと)、斎主命(い
わいぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこ
消印は「遠江濱松 丗六年十一月十二日」
。だとすれば、明治 36 年(1903)
やねのみこと)、姫大神(ひめがみ)が主祭
11 月 14 日に相談会が催され、4 年後の同 40 年(1907)11 月に建立されたこ
神。相殿には、諏訪神社同
とになります。
様に徳川家康公を祀り、諏
訪神社に隣接して鎮座していました。
★「赤心報國」「忠誠奉國 報國」の碑★(浜松市東区天王町)
2 社が合併し、現在の五社神社諏訪神社となったのは、
旧長上郡の浜松市東区天王町にも、3
昭和 35 年(1960)。「遠州報国隊」が発足したのは、浜
基の報国隊の記念碑があります。
松諏訪神社の杉浦大学の屋敷。「戊辰之役報國紀念碑」が
手前に建てられた石碑には、山縣有
五社神社境内に建てられたのは、そんな関係からと思われ
朋によって書かれた「赤心報國」の文
ます。
「戊辰之役報國紀念碑」裏面には、淡海國玉神社神官だ
字が刻まれ、駿州赤心隊と遠州報国隊
った「大久保初太郎」「大久保縫之助」の名が刻まれてい
の「赤心」と「報國」とを合わせた言
葉。「赤心」は「赤子の心=まごころ」
ます。「初太郎」は「春野」、「縫之助」は春野の父「忠尚」のことです。
であり、「報國」は「国に報いる」の
★報國隊建碑之義★(磐田市文化財課所蔵)
意味。
その上に刻まれた文字は、「鷹森仙
五社公園にある「戊辰之役報國紀念碑」は、「明治四十年十一月建之」で
次郎」の名で従軍した竹山仙次郎に宛
すが、大久保家には、長谷川貞雄と大石六助から大久保忠利に宛て、
「報国
て、「軍務官」から出された報国隊解
隊の碑を建てるに当り相談をしたい」としたためられた葉書が残されていま
散と帰国の命令書のようです。
した。
「報國隊 鷹森仙次郎 春來大総督
仁随従致不一方勉勵之段神妙之至仁候
今般東北平定仁附歸國申附候得共緩急奉公可致
し「遠州報国隊」に大きな影響を与えた賀茂真淵(まぶち)の末裔で大久保
旨御沙汰候事 十一月 軍務官」。
春野の跡を受けて靖国神社の 2 代目宮司となった賀茂水穂(みずほ)の養子
その下には、土方久元、榎本武揚、田中光顕、
海江田信義らの名に混じり、大久保春野の名も
刻まれています。
となったとのこと。その後を継ぎ、百樹が 3 代目宮司を務めることになりま
した。
石碑の裏面には・・・
向かって右側の石碑には「忠誠奉國 報國」
の上には、「静岡縣平民 鷹森専二 皇居御造
報國隊 大橋治郎
營ニ付明治十四年ヨリ同廿一年迄毎年米貳俵代
春來大總督ニ随従致シ不一方勉勵之段神妙之
時價ニ持テ獻納候段竒持之至候依テ為其賞木盃
至ニ候今般東北平定ニ付歸國申付候得共緩急
壹個下賜候事 明治廿二年四月四日 宮内省」と刻まれているようです。
奉公可致旨御沙汰候事
後は、土佐勤皇党に参加した土方久
十一月
元の詠んだ和歌でしょうか?
軍務官
大正十三年三月 大橋 巖建之
向かって左側の石碑には「祥和」の
文字が読み取れます。後は「寄山祝
・・・とあり、五社公園にある「戊辰之役報國紀念碑」や天王町でみた「赤
熾仁詠書 君可(か)世乃・・・」と有
心報國」の碑とまったく同じ帰国命令書の文面。この記念碑が大橋次郎の業
栖川宮熾仁親王が詠んだ歌が刻まれ
績を顕彰し、大正 13 年(1924)3 月、大橋巌によって建立されたことが分か
ているようです。
ります。
★忠魂碑★(浜松市西区呉松町・曽許乃御立神社)
★戊辰之役 報國隊記念碑★(浜松市東区
北島町)
浜松市西区呉松町に鎮座する曽許乃
御立(そこのみたち)神社の通称は「お
「遠州報国隊」の記念碑は、浜松市東区北
島町、松隠庵前でも見ることができます。
この記念碑は「戊辰之役 報國隊記念碑」
と刻まれ、「靖国神社宮司賀茂百樹書」とあ
りますので、文字は靖国神社宮司だった賀茂
百樹(ももき)が書いたものです。
山口県出身の賀茂百樹は、遠州国学を大成
鹿島さま」
。舘山寺街道添いにある鳥居
から根本山の南へと向かい、3 つ目の
鳥居を抜けると西向きに建てられた社
殿の前に出ます。
忠魂碑群があるのは、境内の西。中
央に位置する「忠魂碑」には「陸軍大将正三位勲一等功三級男爵大久保春野
題額」の文字が刻まれ、この文字を書いたのは、遠州報国隊の隊員であり、
後に陸軍大将まで上り詰めた大久保春野だった
(1908)年 8 月 7 日。同じ不動寺の扁額に「赤心
ことが分かります。
報國」と書いた山縣有朋の明治 23 年(1890)に
ただ、1 つ気になることがあります。碑の建
少し遅れての昇進でした。
立は「大正紀元歳次壬子八月」とありますので、
大正元年(1912)であるのは間違いないのです
が、大久保春野は明治 39 年(1906)4 月に功二
級金鵄勲章を受章しています。
★「赤心報國」の扁額★(浜松市浜北区平口)
浜松市浜北区平口の「万葉の森公園」
★忠魂碑★(浜松市浜北区寺島)
浜北区寺島の神明宮の鳥居をくぐった左
隣りに位置する不動寺本堂には、「陸
手の石段の上、玉垣に囲まれた中に「忠魂碑」
軍大将山縣有朋」の書いた「赤心報國」
と砲弾型の「日清日露戦捷記念碑」とが並んで
の扁額も掲げられています。
山縣の陸軍大将昇進は、明治 23 年
建てられていま
す。そして、その
(1890)6 月 7 日。「赤心報國」の文
「忠魂碑」には、
字は、以前、東区天王町に建てられた
「陸軍大将正三
石碑に刻まれていた言葉と同じ、駿州
位勲一等功二級
赤心隊と遠州報国隊とに通じる心を表したものです。
★忠魂碑★(浜松市浜北区平口)
不動寺境内北側に建てられた「忠魂碑」。裏
面に刻まれた文字によれば、「明治四十五年四
月三日建之」です。
「忠魂碑」の文字は「陸軍大将正三位勲一等
功二級男爵大久保春野書」。
大久保春野の陸軍大将への昇進は明治 41
男爵大久保春野
書」と刻まれてい
ました。
★忠魂碑★(浜松市南区河輪町)
工を記念して大正 2 年(1913)に建てられたもの。そして、右の 1 基には「戰
役紀念碑」と刻まれています。
浜松市南区河輪町の忠魂碑が建立されたの
刻まれた「戰役紀念碑」を書いたのは、「陸軍大将正三位勲一等功二級男
は、明治 39 年(1906)4 月 1 日。日露戦争勝
爵大久保春野書」とありますので、遠州報国隊に参加し、後に陸軍大将まで
利の翌年のこと。「忠魂碑」の文字を書いたの
登りつめた大久保春野です。
は当時の陸軍大将だった奥保鞏(おく・やすた
紀念碑の建立は、碑の向かって右横に「大正元年十一月建之」と刻まれて
か)。碑文を書い
いますので、明治から大正へと元号が変わった 1912 年 11 月。裏面には、日
たのは、陸軍中将
清戰役、日露戰役だけではなく西南戰役で亡くなった人 2 名の名も刻まれて
だった大久保春野
います。
です。
当時の春野の肩
★日清日露戰役紀念碑★(浜松市西区大久保町)
書は「陸軍中将従三位勲一等功二級」。明治 39
年(1906)4 月 1 日、勲一等旭日大綬章及び功二
昭和 30 年(1955)、浜松市に編入されるまで
級金鵄勲章を受章した当時の春野が、戦死者の魂
「浜名郡神久呂村」を名乗っていた地域の村役
を慰めるためにしたためた文章が刻まれていま
場跡、現在の浜松市消防局浜松市消防団西区支
す。
団浜松第 32 分団詰所横には、「陸軍中将従三位
勲一等功二級大久保春野書」の「日清日露戰役
★戰役紀念碑★(浜松市西区入野町・若宮八幡神社)
紀念碑」が残っています。
現地には 2 基の石碑が建てられていますが、
浜松市西区入野町の若宮八幡神社は、雄踏街
「日清日露戰役紀念碑」は向かって右の小さな
道沿いに鎮座。
方。建立年は刻まれていませんが、大久保春野
鳥居脇には 2 基
が「陸軍中将従三位」に昇進したのは明治 33
の石碑が建てら
年(1900)4 月 25 日で、大将昇進は明
れています。
治 41 年(1908)8 月 7 日でしたから、
向って左の 1
その間。
基は「佐鳴湖埋
さらに言えば、明治 40 年(1907)9
立開墾竣功紀念
月 21 日には男爵を授けられていました
碑」。この碑は、
ので、可能性のある期間はもっと限定
明治時代に行われた佐鳴湖の埋立工事の竣
★「功勲乃秋」の碑★(磐田市西貝塚)
されます。
★日露戰役紀念碑★(磐田市鎌田)
磐田市西貝塚の市営緑ヶ丘霊園に、数基の忠魂碑や慰霊碑が立ち並ぶ一角
があります。
磐田市鎌田にある鎌田神明宮の「日露戰役紀
念碑」。この字を揮毫したのも大久保春野。
この大きな紀念碑の建立は、明治 40 年(1907)
10 月。春野の肩書は「陸軍中将従三位勲一等功
二級」。同年 9 月 21 日にはすでに男爵を授け
られていたはずですが、この紀念碑には刻まれ
ていません。
裏面には従軍者の名前がずらりと刻まれ、戦
古い絵葉書にも「東海道中泉磐田郡招魂碑」
没者で
として名所の 1 つとして紹介されているのです
はなく
が、碑の並びや数が少し違いますので、移座さ
御厨村出身の凱旋軍人名と思われま
れたのかも知れません。
す。第 6 師団長として従軍した磐田出
その中の 1 基、
身の大久保春野の存在に、同郷の従軍
奥の列の向かって
者はさぞや心強い思いを抱いたこと
右側に建てられた
でしょう。
石碑は、地元中泉
出身の学者でもあ
った軍人、市川紀
元二を慰霊したもの。日露戦争に従軍し、33 歳
の若さで
敵弾に倒
れた市川
を悼み、銅像を建てて顕彰しました。
現在、銅像はありませんが、「明治
四十年十月盡日」に建てられた顕彰碑
だけが残っています。その顕彰碑の題
額の篆字を書いたのは「第三師團長從
★忠魂碑★(磐田市駒場)
三位勲一等功二級男爵大久保春野」。
磐田市駒場の慈慶庵は、臨済宗のお寺。石碑
肝心の篆字ですが、難しくて自信は
ありません。それらしい字を 4 字並べ
に刻まれている「忠魂碑」の字を書いたのは「陸
ると「功勲乃秋」と書かれているよう
軍大将正三位勲一等功二級男爵大久保春野書」。
な気がします。
裏面に「昭和三十四年春彼岸改修之」と刻まれ
ていましたが、建立年は不明です。
石碑の裏面には、建立に当たっての
発起人や寄付者の名がズラリと刻まれています。前島密、渋沢榮一、奥保鞏、
石碑の
寺内正毅、赤松則良などの名に雑じり、大久保春野、大久保初太郎、大久保
前には赤
忠利の名が見られます。
く錆びか
けた砲弾
★「戦役紀念」の碑★(磐田市平間)
が奉納されていて、
「大正二秊(年)十
二月吉日」と刻まれていますので、
「忠
磐田市平間には、旧竜洋町のいわゆる忠魂碑
が集められた場所があります。その中の 1 基に
魂碑」も同時期に建立されたと考える
ことができると思います。
は「戦役紀念」と篆書体で書かれた文字が刻ま
れていますが、この字を書いたのが「陸軍大将
★忠魂碑★(磐田市岡)
従三位勲一等功二級男爵大久保春野」。
裏面には
「大正元年十月二一日建之」とあり、
磐田市岡の蔵王神社境内に小さな石碑があり
その通りだとすれ
ます。小さな石碑に大きな字で「忠魂碑」。向か
ば明治から大正へ
って左には「陸軍大将正三位勲一等功二級男爵
と改元された 1912
大久保春野書」と刻
年に建てられたもの。
まれていますので、
日露戦争から帰った大久保春野が男爵になっ
この「忠魂碑」も地
たのは明治 40 年(1907)9 月 21 日、陸軍大将に
元出身の大将が書
昇進したのは同 41 年(1908)8 月 7 日、そして、
いた字を彫ったも
同じ年(1908)の 9 月 30 日には、すでに従三位
のです。
から正三位に昇叙されているはずです。
裏面には「大正三
年一月建之」と刻まれ、西暦 1914 年の建立。春
野の没年の前年、67 歳の時に書いたもののようです。
★日清日露戰役祈念之碑★(島田市大井)
また、陸軍歩兵と海軍水兵の戦死者各 1 名と陸軍歩兵の病死者 1 名の名。
日露戦争では、負けたロシアより、勝った日本の方が戦死者は多く、栄養不
足や伝染病による戦病死者もかなりの割合になっていたのです。
また、裏面右側には、
「大東亜戦争陣歿者」として 10 数名の名も。これは
後年追加されたものと思われます。
島田市大井の大井神社の境内社、戦没者を祀
っている静霊神社に建てられた「日清日露戰役
祈念之碑」。石柱の裏に回ってみると「陸軍大
将正三位勲一等功
二級男爵大久保春
★報国隊之碑★(袋井市上山梨)
野書」と刻まれて、
遠州報国隊に参加
かつての遠江国山名郡(現・袋井市上山梨)
の山名神社の外側に、西尾貞俊、幡鎌幸雄、小
野田齊伯の名を刻んだ「報国隊之碑」がありま
す。
3 人の中の 1 人、幡鎌幸雄は磐田郡匂坂上村
(現・磐田市匂坂上)のに匂坂政広の三男とし
て生まれ、山名神社神官幡鎌家に養子入り。国
学を学ぶうち、他の神官たちと遠州報国隊に参
加し、国元留守居役として軍資金調達などに尽
力。
討幕維新後には招魂社の神官を務め、後に社司ともなった人物。晩年は、
山名神社に戻り宮司を務め、大正 7 年(1918)12 月 24 日に死去しました。
遠州報国隊に参加した隊員は 306 人。その広がりは遠州地区の広い範囲に
及んでいたことが分かります。
した磐田見付の淡
海國玉神社の神官、
大久保春野の書いた字を刻んだものでした。
建立は「明治四十四年秋之日」。大井神社の
鎮座地は、遠州報国隊とともに討幕に参加した
駿州赤心隊が組織された駿河国です。
戊辰之役報國紀念
浜松市中区利町・五社公園
明治 40 年 10 月
碑
「赤心報國」「忠誠奉
浜松市東区天王町
明治 22 年 4 月 4 日
浜松市東区北島町
大正 13 年 3 月
浜松市西区呉松町・曽許乃
大正元年 8 月
國 報國」の碑
戊辰之役 報國隊記
念碑
忠魂碑
御立神社
「赤心報國」の扁額
浜松市浜北区平口・不動寺
忠魂碑
浜松市浜北区平口・不動寺
忠魂碑
浜松市浜北区寺島・神明宮
戰役紀念碑
浜松市西区入野・若宮八幡
明治 45 年 4 月 3 日
大正元年 11 月
神社
日清日露戰役紀念
浜松市西区大久保町・旧神
碑
久呂役場跡
忠魂碑
浜松市南区河輪町
戰捷紀念碑・戰役忠
浜松市天竜区上野
明治 39 年 4 月 1 日
魂碑
西南 日清 日露
浜松市天竜区熊
明治 44 年 3 月
忠魂碑
磐田市見付・つつじ公園
明治 40 年 3 月
菅公一千年祭紀念
磐田市見付・矢奈比賣神社
明治 35 年 4 月
日露戰役紀念碑
磐田市鎌田・鎌田神明宮
明治 40 年 10 月
「功勲乃秋」の碑
磐田市西貝塚
明治 40 年 10 月 31 日
忠魂碑
磐田市駒場
忠魂碑
磐田市岡・蔵王神社
大正 3 年 1 月
「戦役紀念」の碑
磐田市平間
大正元年 10 月 21 日
戦役紀念碑
碑
報国隊之碑
袋井市上山梨
日清日露戰役祈念
島田市大井町・静霊神社(大
之碑
井神社境内社)
明治 44 年秋
陸軍大将正三位勲一等功二級男爵大久保春野