竹島産の岩海苔製造の発見について 1.竹島資料室では、2010 年度から、隠岐の島町久見地区を中心に、隠岐の島町内で聞き取り調査及 び資料調査を実施している。久見地区では近年急速に高齢化が進み、竹島の記憶が相次いで消滅し ていることから、2013 年度からは、久見地区で、悉皆的に竹島に関する記憶の記録保存を行ってい る。2015 年 10 月、12 月の調査において、3 人の住民から、竹島産の岩海苔製造をしていたとの証 言を初めて得ることができた。 2.竹島の海苔に関する資料(表 1)は、①1906(明治 39)年 3 月の島根県による竹島視察の復命書 (隠岐島司東文輔)及び②その視察内容を詳細にまとめた、1907(明治 40)年 5 月発行の奥原碧雲 『竹島及鬱陵島』において、竹島での岩海苔の生育状況と岩海苔漁業の可能性について記されてい ること、③1906(明治 39)年 4 月 30 日の専用漁業免許願(竹島漁猟合資会社代表社員中井養三郎 →農商務大臣松岡康毅)及び④1907(明治 40)5 月 20 日の専用漁業免許願(久見漁業組合理事池 田吉太郎→農商務大臣松岡康毅)において漁獲物の種類の一つに海苔が記されていること(いずれ の申請も却下される)、⑤1911(明治 44)年竹島漁猟合資会社の「生産品勘定帳」のうち 5 月 4 日 には、第 2 回復航便千島丸が竹島から西郷港へ入港し、副産物として海苔 1 俵が入荷したことが記 されており(表 2)、岩海苔が竹島の一面の岩に黒毛布を敷いたように群生しており、1911 年には 副産物として挙がっているものの、竹島産の岩海苔製造の具体像についてはこれまでほとんど明ら かではなかった。 3.聞き取り調査の結果、隠岐の島町久見地区の女性(83 歳)、女性の息子 2 人(59 歳、55 歳)か ら、女性の夫の母(2009 年、102 歳没)より聞いた話として、①女性の夫の祖父作田芳吉氏(1878 (明治 11)年生)は竹島に行ったことがあり、竹島で岩海苔を摘んだことがある。②竹島の岩海苔 は大きくかつ長いので、ばりっとはぐって採った。③竹島の岩海苔は大きくかつ長いので、久見で は縄のひもに引っかけて干した。④製造した岩海苔は売った。⑤岩海苔を扱った時の領収書があっ たが今はない。 4.竹島の岩海苔の生育状況は資料と照合しても齟齬はない。また現地調査の結果、久見地区では、 岩海苔製造の最終工程で、岩海苔を短く切り、真水に入れて塩気を取り、木の枠(地元では「すじ」 と呼ぶ)に引き延ばして(1 日 200~300 枚程度)、簀の子に貼り、その後、岩海苔の貼った簀の子 を竹竿に掛け、屋根裏で乾燥するという工程が判明した。久見地区での製造工程と比較すると、竹 島の岩海苔は大きくかつ長いこと、竹島では真水が少ないこと、竹島には岩海苔を引き延ばす「す じ」などの道具を大量に持ち込みことができないこと、竹島では最終乾燥させる場所が限られてい ることから、最終工程ができない。そこで、竹島では一度岩の上で干して、仮干しを行った(海水 のまま干すと、空気中の湿気を含み、半生状態となり、変色してしまう)後、久見に持って帰り、 岩海苔が大きくかつ長いので、縄のひもにひっかけて乾燥させて、湿気を取った後、岩海苔を切る 以下の最終工程を行ったと考えられる。すなわち、民俗学的に岩海苔の製造工程を検討した結果、 聞き取りで得た話は齟齬がないことが分かった。なお、作田芳吉氏の年齢からすると、竹島へ渡航 したのは 20~40 代の明治後期~大正期と考えられる。 5.このように、隠岐での調査の結果、戦前の竹島産の岩海苔製造の実態が初めて明らかとなった。 竹島産の海苔製造は、隠岐での高度な岩海苔の生産方法を竹島へ持ち込み、改良したものであった ことが分かった。戦前の竹島の漁業、すなわち、アシカ猟、アワビ漁、サザエ漁、ワカメ採りはい ずれも久見地区をはじめ隠岐で行われていた漁業であった。今回の調査の成果によって、竹島が隠 岐の漁民の生活の拠点の一つであったことが改めて裏付けられたこととなる。
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