今も残る、70年前の記憶。

未来への伝言
メッセージ
特集
今も残る人吉海軍航空隊基地の施設跡
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高原に残っている人吉海軍航空隊基地の施設跡。これだけの地下施設が残っているのは県内でもめずらしい
(人吉球磨海軍航空隊を顕彰する有志の会提供)
1. 当時の隊門。左側番小屋の前には小銃を持つ番兵がいた 2. 高く深く掘られた由留木賀茂神社横の魚雷調整場
3. 人吉農芸学園の入口に残る隊門跡 4. 壁がコンクリートで作られている地下施設
5. 滑走路横にまっすぐ作られた道路。左側の農地に滑走路があった
高原の大地にあった人吉海軍航空隊基地。70 年前
にはたくさんの軍事施設が作られました。皆さんは
知っていますか?今も戦争遺跡は残っているのです。
金山 充さん(64 =下村)
Profile
かなやま みつる
昨年 10 月から人吉農芸学園に
勤める福田晃市さんとともに人
吉球磨の戦争の歴史を調査。漫
画やDVDをボランティアで作り、
平和を伝える活動をしている。
日本各地に大きな被害を与
えたアメリカ軍の爆 撃。戦 争
末期になると日本軍は爆撃さ
1・5 ㍍ 角 の コ ン ク リ ー ト 製
に建てられ、高さ2・2㍍、幅
います。隊門は玄関口の両側
飛行場の入り口に今も残って
す。航空隊の隊門は居住区と
庫隧道(トンネル)区がありま
基地には兵舎や作戦室があ
る居住区、飛行場区、工場や倉
をショートカットするトンネ
計で約
した。作られた地下施設は合
月から地下施設を作り始めま
まる「設 営 隊」が、昭 和
は専門教育を受けた軍人が集
作りました。人吉海軍基地で
きるよう、
地下に基地や工場を
れても戦闘や兵器の生産がで
で、球 磨 川 の 玉 石 が 使 わ れ て
ルも多く掘られました。由留
万平方㍍。谷から谷
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今 は 農 地 に な っ て い ま す が、
リ ー ト で 作 ら れ て い ま し た。
設が残っています。中には手
など、今でもたくさんの地下施
北 に あ る 地 下 無 線 室、作 戦 室
ら人吉球磨の戦争遺跡を調べ
町では職員が中心になってプ
へ 依 頼 を し ま し た。 現 在、錦
た 」。 航 空 隊 跡 地 が あ る 錦 町
は 民 間 が 主 体 に な っ て、探 索
ています。農芸学院の敷地内
とがきっかけです。
加者は人吉球磨にたくさんの
ロ ジ ェ ク ト チ ー ム を 作 り、活
金山さんは農芸学院に勤め
る福田晃市さんと一緒に調査
戦争遺跡があることに驚いて
にある地下発電所や民家にあ
を 始 め ま し た。「 防 空 壕 の 位
いました。貴重な戦争遺跡は
動しています。ことし6月に
置が描かれた古い地図を見つ
歴 史 教 育 だ け で な く、地 域 の
ツ ア ー が 開 か れ ま し た。「 参
け ま し た が、ど こ を 示 し て い
活性化にもつながります」。
伝えたい思い
に書き込んでいきました。二
けた戦争遺跡は一つ一つ資料
足場の悪い場所も調査。見つ
汗だくで水たまりやぬかるむ
リ、虫 が い ま す。 金 山 さ ん は
防空壕は普段人が入らない
場所。中にはマムシやコウモ
を考えてほしいと思います」
。
を知ってもらい、平和の大切さ
球磨で起きていた戦争の歴史
戦争を知らない世代にも人吉
闘しながら作業していました。
めに幼い子どもたちが悪戦苦
す。かつて地下施設を作るた
「残っている遺跡はこの地で
起きていた歴史を語っていま
人は調査した人吉球磨の戦争
地道に調べていきました。
林 の 中 を 歩 き 回 っ た り し て、
い 住 民 に 聞 き 取 り を し た り、
し た 」。 二 人 は 近 所 の く わ し
るのかまでは分かりませんで
る機体格納庫を見て当時の技
として活かそうと考えまし
す。市町村を巻き込んで資源
「 こ の 地 域 に は こ れ だ け た
くさんの戦争遺跡がありま
ます。
漫画や映像にしてまとめてい
滑走路に沿ってまっすぐな道
二人の行動が歴史を
明かす
作業だけでなく、機械を使って
木賀茂神社(錦町木上)の駐車
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ずいどう
います。
場にある魚雷調整場跡や、
その
年3
滑 走 路 は 長 さ 1 3 5 0 ㍍、
幅 ㍍、厚 さ ㌢ ㍍ の コ ン ク
多くの地下軍事
施設が残る
戦争の悲惨さを語る遺跡を
地域の資源として活かす
人吉球磨海軍航空隊を
顕彰する有志の会
術や規模の大きさに驚いたこ
以前人吉農芸学院に勤めて
いた金山充さん。昨年 月か
10
が作られています。
20
の歴史や施設を分かりやすく
50
工事をした跡もあります。
今も残る、
70 年前 の記憶。
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広報ゆのまえ 8 月号
2015.8
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