名県令・楫取素彦(17)「至誠」規範に県民と協力 楫取県令と県民は一致協力し、難治県といわれた群馬県を模範県へと造り上げ、近代群 馬基礎を築いた。その両者の結びつけるキーワードは「至誠」であった。 楫取にとって「至誠」とは吉田松陰から受けついだ精神であった。安政六年( 一八五九) 江戸送りとなった松陰は「至誠にして動かざる者未だ之あらざるなり」という孟子の言葉 で始まる書を楫取に贈った。松陰は至誠を以て幕府の役人を説得しようと決意した。そし て、その試みが成功したならば、世に伝えるため書を保存し、失敗したならば焼却処分す るよう頼んだ。 松陰は処刑されたのであるから、至誠の説得は失敗したわけであるが、楫取はそ の書を 処分することなく「至誠」を行動規範として、その実現につとめた。至誠の行動をした者 が歴史の勝者とならないところに世の不条理がある。薩長藩閥の会津藩への仕打ちなど至 誠のかけらもない。松陰が理想とした道義国家は明治維新でも達せられなかったという厳 しい意見がある。 明治十七年(一八八五)八月十日、前橋町民による楫取素彦の送別会が開かれた。町民 を代表して送られた送辞に次の一節がある。 「一に至誠を推して人心に 及ぼし、寛裕以て下 ここ また よ た く こ うね い に臨む。民その徳に化せらるるもの、茲 に年あり。某等亦 その余沢 に浴し、以て今日の康 寧 を得るに至りしは、深く感激する所なり」。 この一節から楫取が県令として「至誠」を以て県政にあたったことがわかる。上州人は 気性が荒く粗野で反骨的であるが、腹芸が出来ずにばか正直である。こうした上州人気質 も徳化すれば「至誠」となる。楫取素彦(小田村伊之助)も吉田松陰に「小田村、人とな り正直すぎるに困る」と評されたことがあった。 内村鑑三がつくった有名な漢詩「上州人」がある。「上州無智亦無才/剛毅木訥易被欺/ 唯以正直接万人/至誠依神期勝利」。これを直訳すると、上州人は無知・無才で、 気性が荒 く飾り気がなく欺かれやすい。ひたすら正直に人に接し、真心(誠)を尽くし神に依る勝 利を待とう。 これで意味は通ずるが、長い間、何か味気ないと思ってきた。とくに最後の一節にあた る「至誠依神期勝利」は、うまい直訳も意訳も見当たらない。しかし、この一節は、新渡 戸稲造のように武士道を誇りとした内村が、孟子の「至誠にして動かざる 者未だ之れあら ざるなり」を、内村流に表現したと解釈すると納得がいくことに気づいた。 群馬県の地域づくりの原点は「至誠」であった。
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