名県令・楫取素彦(15)日本で初めての廃娼県に

名県令・楫取素彦(15)日本で初めての廃娼県に
明治十二年(一八七九)に県会が開設されると、湯浅治郎(安中教会)
・宮口二郎(同)・
斎藤寿雄(甘楽教会)
・山口六平(吾妻教会)・野村藤太(伊勢崎教会)・竹内鼎三(新川地
方教会)・星野耕作(水沼教会)ら多くのクリスチャン議員が誕生した。
議長に湯浅治郎(第二代)
・宮口二郎(第四代)
・野村藤太(第五代)、副議長に星野耕作
(第二代)・宮口二郎(第三、五代)・竹内鼎三(第六代)が、それぞれ就任したように、
初期県会はクリスチャン議員が主導した。すると、群馬県の初期県政 は楫取県令とクリス
チャン議員が主役という言い方も許される。
明治十三年クリスチャン議員を中心とした三十五名の県会議員が、「娼妓廃絶の請願書」
を楫取県令に提出した。同年の議員数は四十五名であったから八割近くの議員が賛同者で
あった。楫取県令は対策を練らせるとともに、県会の常置委員に諮問 した。同委員から「断
然廃娼すべきである」との回答を得た。
そして、明治十五年三月県会で「娼妓廃絶ノ建議」が可決されると、楫取県令は四月十
四日県内貸座敷業および娼妓稼ぎを明治二十一年(一八 八八)六月限りで廃止する布達を
だした。その後、公娼存続派が佐藤與三知事を抱き込み巻き返しを図るなどの曲折 があっ
たが、群馬県は同二十六年(一八九三)に日本で最初の廃娼県となった。
男尊女卑の根強い日本の思想風土にあって、キリスト教人間観に基づく女性の人格の尊
重思想とその実践が、一夫一婦の清潔な家庭観の普及などとともに、廃娼運動の推進力と
なったが、運動を担った人々の原体験や女性観がその原点にあった。
江戸時代の上州は中山道などの街道が通り宿場には多くの遊郭があった。 クリスチャン
議員で廃娼運動の中心となった湯浅治郎の父は名士であったが、そうした場所へ出入りし
母を泣かせた。治郎が新島襄から洗礼を受け廃娼運動を行った原体験は母の姿であ った。
治郎は入信の動機を「一は進歩思想、一は厳格なる品行に感激し又共鳴された」と述べて
いる。
新島襄は「信者は酒を飲むべからず、男女混合の湯に入るべからず …常に聖書を携帯す
べし」と申し渡し、信者は清教徒的な性の純潔、神の前に立つ人間としての良心的で規律
ある生活という倫理を厳しく守った。
湯浅治郎は家庭浄化、女性解放のためまず廃娼運動を始めた。母・もよも明治三十一年
(一八九八)に上毛基督教婦人矯風会が発足すると会頭に就任し、運動の先頭に立った。