新しいシーズンに思う 2部復帰を果たす

みませんでした。でも何らかの形で先輩諸氏
ル」にしたものです。黙って使わせて頂きす
のことが頭にあり、OBチーム名は「パスケ
は我々が学生の時にも存在していました。そ
着のようなものが感じられましたが、今回そ
に、先輩方の「パスケル」に対する特別な愛
に 参 加 す る よ う に な り ま し た。 会 話 の 端 々
試合(東大OB・東大教職員チームとの巴戦)
5、6年前か ら先輩に誘われ「 パスケル」の
になるもので、遠くアメリカの地から吉報を
まずは、東京都2部リーグ復帰おめでとう
ございます。卒業しても現役の活動状況は気
ボール、秋はサッカー、
冬はバスケットをやっ
多くの子供たちは、春は野球ないしはソフト
ていました。野球、バスケットと並ぶくらい
親たちの 運営で、幼稚園児から中学生まで、
す。私のいたカリフォルニアの町では、町と
トに並ぶほどポピュラーになっていることで
子供のやるスポーツとしては野球、バスケッ
とつながったということはいいことですね。
のルーツを初めて知った次第です。
期待していました。私が現役の2年生の時や
サッカーも盛んなのです。特に、女子につい
太平洋の向こうから
ということで引き続き使わせて頂きます。宜
年卒)
はり東京都3部から2部昇格が決まり、小平
10 自由学園
7
9
しくお願い致します。
倉崎 嘉幸(昭和
9
(3)
「パスケル」は、我々のときには、作っ
ては日本では比較的マイナーなサッカー、ソ
7
「ぱすける」の繋いだもの
の学食での祝勝会がビールかけに発展し、女
フトボールが最もメジャーなスポーツです。
東京海洋
ていなかったと思います。部室で古いものを
子マネージャーも含めみんなで噴水に落とし
9
ただ、 月 日のリーグ最終戦、日大生物
資源には1:4と完敗、
優勝は逃した。来シー
リ雲を吹き飛ばしてくれた。
位以内が確定した。4年間漂っていたドンヨ
がこの日引き分けたため、一橋と首都大の2
けに終わった。しかし、3位の日大生物資源
れた。後半はお互い譲らず、1:1の引き分
が先制ゴールを挙げたもののPKで追いつか
16
橋となる。
日大商、それに3部から昇格した首都大、一
留 組 の 成 城、 創 価、 上 智、 武 蔵、 日 大 文 理、
その来シ ーズン、東京都2部の顔ぶれは、
1部から落ちてきた帝京、東京経済大と、残
ズンに向けた課題も突きつけた。
23
見つけて 読んだ記憶はあり ます。時は流れ、
2
年倉崎です。
おそらく女子サッカーの選手層の厚さは、日
3
9
年山根先輩、
(3)が
合った思い出がついこの間のようによみが
9
7
(1)我々 が4年の時、マネー ジャーの佐藤
本を格段に凌いでいるでしょう。
10
国際基督
小平通信を始めて、1年近くになります。
会員の皆さま方より、折にふれ貴重なアドバ
えって懐かしく思います。
都留文科
8
君が関東2部復帰に必死の練習をしている中
-17
7
にも部内のコニュニケーションを密に、潤い
28
3
イスや叱咤激励などを頂きありがとうござい
今後アメリカのサッカーはますます強く
なっていくと思いますが、やはり日本人の私
11
2
ます。今回、色々なやり取り中で、特に皆様
昭和 年に卒業してもう 年が経とうとし
ていていますが、日本、タイでの勤務を経て、
1
9
も と … 部 誌 と は 別 に 自 由 に 文 章 を と …「 文
は日本代表を応援してしまいます。こんな層
6
10
にご紹介したいものを厳選しました。
今 は ア メ リ カ で の 滞 在 が 9 年 目 と な り ま す。
の厚いアメリカ女子の代表に勝った“なでし
2
桜美林大
集」を編集しようと企画してくれました。名
日本にいたときももちろん、タイでもバンコ
-13
6
前は?4年生中心に考えましたが、当時パス
こジャパン”の活躍は日本人として誇りに思
28
1
サッカー部新聞の為の「スペシャル・エディ
ション」のようなもの。タイトルは
クの日本人チームで、そしてアメリカでも近
15
1
4
カルの「パンセ」なんかを講義で耳にしてお
1
3
4
風。
Number
います。海外にいると日本のことを強く意識
6
5
9
半世紀ほど前のイラストも味わい深く、当時
所の人達とサッカーをやっていました。実は、
2
9
13
りました ので、
「人間は考える葦である」を
します。海の向こうからでも現役部員を応援
-11
16
東京外語
の部室に一気に引きこまれそうな迫力です。
最近カリフォルニアからシアトルに引越した
していますので、この気持と寄付金は忘れな
-6
25
東工大
5
もじって「 我々は蹴る足である 」
、パスカル
ため、サッカーが中断していますが、息子の
朝原 丈雄
年卒、米系投資ファンド勤務)
いように届けたいと思います。
(昭和
一 人 は 地 元 の 高 校 で サ ッ カ ー を や っ て お り、
サッカーとのつながりは保っています。
こちらに来て意外に思ったのは、サッカー
が マ イ ナ ー な ス ポ ー ツ で あ る ア メ リ カ で も、
今シーズンは初戦に東京外語に想わぬ敗
戦、前途多難のスタートとなったが、2戦目
2部復帰を果たす
東京都3部リーグ戦
以降は気持ちを切り替え、自由学園、都留文
科、東京海洋大海洋科学、国際基督教、桜美
19
14
4
日の首都大学東京戦では、前半、松村
平成 年度の東京都 部リーグ、一橋は6
勝1分け2敗の2位となり、来シーズンの2
13
1
3
月
林、東工大を降し6連勝。首位決戦となった
1
6
1
1
10
年度に3部に陥落後、
5
部復帰を果たした。
-5
2
5
で は な く、
「 パ ス し て 蹴 る 」 す な わ ち「 パ ス
の世界に長く身を置き、大きな試合を観戦す
12
6
9
5年ぶり。
7
9
18
ショートパスでつなぐ形式でお届けします
が、(1)は昭和 年高峯先輩、
(2)は、
私 た ち の 同 期 は、 一 昨 年 辺 り か ら 還 暦 と
なっているが、六十の齢を過ぎて思うように
るだけとなっていた後に、
短期間だったが
「天
4
19
日大生資
ケル」で行こう。文集なので題名は平仮名で
なったことがある。「出会わなければ良かっ
皇杯」にテレビ局の側から係る立場になろう
5
一橋大
3
と…「ぱすける」にしたことも思い出しまし
たという人はいないし、経験しないほうが良
とは夢にも思わなかった。
9
13
2
た。今、東大OB、東大職員、と巴戦をやっ
かった出来事はない」ということだ。
「出会っ
TVの画面でしか見ることの無かった往年
の名選手とも話すことが出来た。また最近ス
7
18
19
ている一橋OBチーム名が「パスケル」と名
た人や経験する出来事は、いろいろな形で自
ば「そもそもスポーツは遊びの性格を持って
しているということか。
16
2
付けているのを知って、私は何とも嬉しい想
分を成長させてくれる」と言い換えても良い。
いて、人または自然の障害に挑戦する活発な
てなど課題も多い。酉松会でも幹事の皆さん
17
1
いがしております。
去年の大震災や自然災害などでは非常に多
くの犠牲者が出たうえに、現在も放射線対策
身 体 活 動 で あ り、 最 も 大 事 な こ と は 競 技 ス
私は昨年のリーグ戦やその他の試合を観戦
して一橋のサッカーはフェアプレー精神を大
が、何が出来るのか検討を進めている。他の
10
13
6
( 2) 先 輩 諸 氏 が 作 っ た「 文 集: ぱ す け る 」
など被害の回復や、次の災害への備えが十分
ポーツの土台はフェアプレーであり、それが
事にしていると感じた。
8
30
9
新しいシーズンに思う
ではないことが大きな課題だ。それでも人間
ないところに真のスポーツは成立しないとい
大事にしながら、大いにチャレンジしてリー
25
18
20
部に所属した。それがNHKに就職して報道
は次の道を見出してゆこうとするのだという
うのが国際標準」だそうだ。目から鱗が落ち
今年からの新しいステージ、
勝負の場では、
少々苦しい戦いになるかもしれない。部員数
グ戦を戦い抜いてほしい!!
62
10
ポーツ社会学の泰斗と出会ったが、彼によれ
思いを強くしている。
たような 解説だ。一方で“フェ アプレー賞”
はどうやったら増やせるか、グラウンドの改
大学から一目置かれるようにフェアプレーを
一方サッカーを経験したということはどう
だろう。高校時代にメキシコオリンピックを
を設けているのは、本来は可笑しいのだけれ
3
11
首都大
http://jfn.josuikai.net/
circle/soccer/
見て、こんなに面白いスポーツなのかと目覚
57
年卒、NHK出版)
得点
一橋大学
ア式蹴球部
緒方 徹(昭和
引
酉松会
修、より効果のある練習方法、資金面の手当
負
57
ども、現在のスポーツ界の皮肉な状況を反映
平成23年度 東京都大学リーグ3部順位表
52
62
23
勝
19
8
1
得失点
試合数
失点
勝点
チーム
順
位
43
め、部活にも参加し、大学に入ってサッカー
49
第5号
The Yushokai Shimbun
2012 年(平成 24 年)3 月 1 日
(1)
「感謝」という宝物
最悪なのは新たな問題を気にして、端からどちらへ
も舵を切らないことだが、今年はそうなってしまっ
た時期が長かったかもしれない。
秋季リーグ終盤3戦のピッチ上で自分たちがなに
かを示せたかと言われれば、答えに窮してしまう。
個人としても同様で、自分の伸ばしたい能力をひと
しくお願い致します。
松村 雅司(4年 副主将)
苛立ちをおぼえたことも多々ありました。
山ありました。
せなかったらどうしよう」という不安な気持ちも沢
サッカー部漬けになる特別な時間だった。4年目に
に備える。秋の2カ月は自分の大学生活において
何事もなかったかのように火曜日から次の真剣勝負
毎日曜日にガチンコの真剣勝負をする相手がい
る。戦いが終われば国分寺や立川でオマツリをし、
ていたのは、秋季の魅力にとりつかれたからだ。
そういう長い期間、自分が一橋サッカー部に所属し
無しに自分達が相手よりも優れていることが証明さ
1年をたった1つのリーグ戦に全て注ぎ、言い訳
は絶対に許されない。だからこそ、勝った時は文句
のでした。
の環境は僕にとって特に記憶を植え付けてくれるも
で全て鮮明に記憶しています。一橋大学サッカー部
れらの瞬間の記憶は、試合時のメンバーやベンチメ
だけでなく、先輩がいなくなった4年目にむしろ強
思えませんが。そういった思いはこれまでの3年間
こそは、と意気込んできました。完済したとは到底
つもの期待を裏切ってきてしまい、今年こそは今年
意味での罪滅ぼしです。これまで先輩方からのいく
ると共に、この機会に恵まれた事に感謝の気持ちで
終わりに近づいているのだ、と一抹の寂しさを感じ
ついに一橋サッカー部に対して自分の出来る貢献が
回こうして酉松会新聞に記事を載せる事になって、
ただきました。出身は神奈川県の栄光学園です。今
はこれから先もずっと私の人生を支えてくれること
しみで仕方ありません。このサッカー部で得たもの
北を味わうことが繰り返されること自体がとても楽
これからも毎年、OB戦があり、OB総会があり、
幹事会があり、後輩達が秋季リーグに挑み勝利や敗
松本 雄士(4年)
池田 圭吾(4年)
常に上をめざして
1、
2年の頃の私は、失敗と後悔の連続でした。
仕事でミスをしてはチームに迷惑をかけ、先輩方が
必死で昇格のために頑張っている中、自分はどうし
私が入部した2008年という年は、前年に東京
都リーグ2部から3部へ降格した年でもありまし
ます。
した。毎日大量の氷柱を持っていったり、
プレイヤー
に考え、ひとつひとつの仕事を改善するよう努めま
ら今年は、自分達にできることは何なのかを徹底的
に昇格しなければならない。そのためには、自分達
てこんなにチームに貢献できないのだろうと、無力
た。先輩達が前年の雪辱を晴らそう、と奮起するな
を交えて仕事について話し合ったり、集合時間を早
感でいっぱいでした。
か、右も左もわからず高校生気分の抜けきらないま
めて準備したり…。これらの作業は決して楽ではあ
カーというスポーツに関わることが出来ました。こ
OBの皆様こんにちは。いつも温かいご声援あり
がとうございます。
ま入部した私はきっと生意気で不真面目に映ったと
りませんでしたが、昇格のために自分にできること
の経験が私の人生の中でとても大切で何事にも代え
僕は1年の3月にアメフト部を辞めて、サッカー
部に入るという少しみんなとは違った経歴を持って
思います。多くの先輩達に迷惑をかけたと思います。
は何なのか、それをどうやって実行するか、という
しかし、3年生になった瞬間、そんな弱音を吐い
ている暇はないことに気づきました。今まで一番近
います。そんな僕が4年生になって、一番上の学年
秋季リーグの公式戦にも1年生の時から何度か出場
ことを自分の頭で考えて実践することは、とてもや
がたい物であることは想像に容易いと思います。そ
放されて泣いた瞬間は、色々な感情が入り乱れて、
として、チームにかかわるようになった時に感じた
していましたが、特にこれといった活躍も出来ては
んな、青春と言える時間の中でも、この一橋サッ
今までで最も鮮明に残った瞬間だと間違いなく言え
のは、焦りでした。
いなかったと記憶しております。
くでお世話になった4年生のためにも、今年は絶対
ます(お酒で記憶が無くなった瞬間は流石におぼえ
というのも、僕たちの代はサッカーが上手くて、
プレーで引っ張れるやつがたくさんいて、その中で
ただそれでも私は私なりに、中学・高校でのサッ
カー経験を生かせるように頭を悩ませ、中々思い通
これらの改善をしたことが「昇格」という結果に
反映されたとは全く思っていません。ですが、この
カー部で過ごした時間は特に思い出深いものがあり
ていませんが)。
自分はプレーでチームを引っ張れないという焦りで
りにいかないことに苦しんでいました。どうすれば
サッカー部で、昇格という一つの目標に向かって努
気持ちをもってサポートしてくれたマネージャーへ
の感謝。そして、現役を暖かいまなざしで見守りな
がらも、ときに熱い叱咤激励の言葉でもって応援し
てくださったOBの皆様への感謝です。
小学生から続けてきた長いサッカー人生の中で学
んだことは数え切れないほどありますが、この共に
四度目の正直
人はベンチ入り
か、それすらできないかの状況で、それぞれがいろ
りがいがありました。
プレイヤー、マネージャー共に、さらに上を目指す
力してきたこと、そして、尊敬できるチームの皆と
の痕跡が残っているのを見て、懐かしさを感じると
躍できるのか。この部に足りない要素は何なのか。
共に気恥ずかしさも感じております。
決めつけず、常に高い目標に向かって地道に努力し
過ごした3年間は、私の一生の誇りです。
ただそれは私だけが、という事では当然無く、チー
ムとしましても毎試合後にミーティングを開き、今
ていくことが、チーム全体の向上につながるのでは
かった…。など、当時のウエブブログにもその苦悩
日の試合はこうだった、来週の練習で取り扱うべき
ないでしょうか。
そ も そ も F W( フ ォ ワ ー ド ) 志 望 に し て お け ば よ
今年のチームに貢献していこうと思いました。特に
テーマは何だ、と相手を分析したり自分達のやるべ
んな思いを持って秋季の朝を迎えます。
マネージャーが足を引っ張る訳にはいかない。だか
サッカーで感じた感情の起伏に比すれば、他の出
来事の感情の起伏がかすむのも無理はありません。
した。体育会に入ったのだから、誰もが試合に出て
クロス精度くらいしか取り柄のない自分が試合で活
チームが一体となった瞬間
だきます。4年間もの間、お世話になりました。本
でしょう。以上を持ちまして私の随想とさせていた
球部だったりします。運動することがとても好き
鮮明な記憶
だったので運動部には所属しようとは思っていまし
いっぱいです。せっかくなので身の上話を少し。
サッカー部はサッカーをする集団です。ですが、
ただ毎年メンバーや目指すサッカーが変わっていく
たが、サッカー部はあくまで選択の一つでしかあり
くなっていて、最上級生として我ながら非常に情け
僕は忘れっぽいです。遠足や授業をはじめとして、
受験に合格した瞬間や、卒業の先生の言葉など、す
だけでなく、人の像や思いは伝わっていく、そんな
なく思います。
ぐに忘れてしまいます。しかし、鮮明に記憶されて
集団の方が少なくとも個人的には魅力的です。それ
ま せ ん で し た 。 そ ん な 時 に 出 会 っ た の が 中 学・ 高 校
つ定めたら、それに伴う新たな問題は気にせずに、
目指した方向に走り続けることは大切なことだと思
いる記憶がいくつかあります。それらは感情の起伏
と主将を務めた同輩の中田という奴なのですが、一
当にありがとうございました。
う。
が大きかった瞬間で、全てがサッカーに関する記憶
を、人を伝統と呼べるならこんな素敵なことはない
橋とは何も関わりがないのでここでは割愛します。
私がサッカーを始めたのは中学生の時なのですが、
中学校で最初に入部しようと思っていたのは実は野
4年間を振り返ると、やはりそれなりに長かった
と感じている。サッカーが楽しくてしょうがない期
です。
と思います。現役のみんな、かっこいい先輩になっ
チームの主将を務めることが決まったとき、私の
胸には「必ずチームを昇格させよう、そのために自
ました。その一方で「自分にこのチームの主将が務
間もあれば、サッカー部での遊びが楽しくてしょう
てください。
しかし、シーズン前に抱えていた不安やプレッ
シャー、そしてシーズン中に感じていた焦りや苛立
なってもリーグ戦の緊張感には興奮したし、国分寺
分に出来ることは何でもやろう」という決意があり
まるのだろうか」というプレッシャーや「結果を出
がない時期もあるし、練習がつらいと思う時もある。
優勝した時や、試合に出られなくて悔しかった
時、試合中の自分の好プレーや後悔するプレー。そ
ともかくそういった出会いがきっかけとなって、
私は中学・高校・大学と足かけ 年もの長い間サッ
ちは今となってはすべて「感謝」という気持ちに変
という街には心ときめいた。後輩たちは、今年2部
残尿感だけが心残りです。
あとは、確実に楽しいことより辛いことの方が多
かった4年間を美談チックにしめくくってしまった
わりました。それは、
頼りない主将を支え一緒にチー
れ、ものすごく爽快だったし、負けた時は自分達の
自分の成長を余り感じられなくて、イラついたりし
人
活躍して、チームを勝利に導きたいという想いを
シーズン中も思うようにプレーができず、チーム
にプレーで貢献できない自分が歯がゆくて、焦りや
ムをまとめてくれた4年生のみんなへの感謝。サッ
という舞台でその非日常感を味わい尽くしてくださ
全てを否定され、本当に悔しかった。昇格が決まっ
今年は2部昇格を果たしましたが、私自身にとっ
ては喜びというよりも安堵の気持ちのほうが大き
たこともありましたが、そういった類の感情も含め
持って、練習に打ち込んでいます。
張ってくれた後輩への感謝。プレーヤーよりも熱い
戦う仲間とそれを支えてくれるサポーターへの感謝
い、不思議な感覚を味わいました。私の代は技術の
て感じさせてくれた一橋大学サッカー部、ひいては
て、みんなでバカ騒ぎをして、プレッシャーから解
の気持ちはなにものにも代えがたい宝物だと思って
ある選手が多く、周りの方からの期待が大きかった
サッカーに感謝したいと思っています。
高松 俊(4年 グラマネ)
おります。
こと、またその期待に応えるだけの結果がついてい
があるかと思います。
おかげさまで、忘れっぽいのは一生治らないで
しょうが、あきらめて頑張ります。
何かできたかと言われれば自信はないのですが、桜
きタスクを確認したりして、手さぐりながらも成長・
このプレッシャーの中で戦えた経験、またその中
で追い求めていた結果が得られたというのは、非常
美林戦で中村がゴールした時に応援席に走ってき
私自身、引退した今になって、「もっとこうして
おけばよかった」と反省する部分がたくさんありま
「昇格」はスタートにすぎません。これから一段
上の相手に勝っていくためには、現状に満足せず、
て、一緒になってゴールを喜んだシーンは僕の3年
進歩してきたという自負があります。
をどんどん取り入れて、チームにどんどん貢献して
山浦 一平(4年)
私は、自分のために努力することができません。
そんな私がまがりなりにも4年間この体育会サッ
のサッカー部人生の中でも特に忘れられないゴール
もらえたら嬉しいです。
大学ア式蹴球部という環境に身を置けたことを、非
う考えはいくつかある。
が、それでもやはり、もっとああしておけば…とい
3年間伴わなかった「結果」が付いてきたことで
今シーズンはひとまず成功と言えるかもしれない
ドに足を運んでいただき、叱咤激励して頂けると幸
チームになると信じております。是非小平グラウン
ました。自分もそういう人物になれたらという思い
プレーはもちろん、その姿勢であったり、人間性
であったり、あの人のようになりたいとかあの人と
常に感謝しています。
例えば、新たな問題が生じることをみんなの了解
事項として、チームの方向性を定めるべきだった。
いです。
で頑張ってこられた部分は非常に大きかったです。
そんなふうに秋季に出られない部員が、チームの
ゴール、勝利に心の底から喜べるチームになってほ
来年からは2部での戦いになり、今までとはレベ
ルが違う中で戦っていくことになると思います。し
カー部を辞めることなく引退できたのは、そして、
になっていて、チームが一体になれたのではないか
今から振り返って見てみると、辛かったことも確
かに多かったですが、きっと多くの先輩達もそうで
らの財産になるのではないかと思います。この一橋
かし、今の3年生以下というのは、サッカーに対す
もし少しでも人として、サッカープレーヤーとして
あったように、それ以上に楽しい思い出をこのサッ
新しいことを始める時に、他方で短所が生まれるこ
最後になりますが、OBの皆様には、サッカー部
の活動だけでなく、多方面においてご支援して頂き、
そして、それと同じくらい大きいのは、前向きな
4年間主に右 SH(サイドハーフ)をやらせてい
今という間に今ぞ過ぎ行く
連綿と受け継がれてきた一橋ア式蹴球部という〝体
にも恵まれ、何度も助け助けられた4年間。そこに
方々に、改めて感謝したいと思います。本当にあり
名和 千紘(3年 マネージャー)
がとうございました。
です。
育会〟を肌に感じ取ることが出来て大変嬉しい思い
す。なので、後輩マネのみんなには、新しいやり方
姿勢が必要だと思います。これが限界だ、と自分で
る想い、向上心が非常に強い部員が多く、また技術
成長できたとするならば、それは周りの人、特に先
なと、思っています。
とはしょうがないことだからだ。チームとしてある
大変お世話になりました。4年間誠にありがとうご
しい、という自己満足でしかない目標を僕は持って、
のある選手も多いので、十分に上を狙えるだけの
輩方のおかげだと思っています。
カー部からいただきました。先輩にも同輩にも後輩
に貴重なことであり、今後の人生においても何かし
人いて、
なかったこと(3年連続3部3位)など様々な要因
支えることでこの感謝の気持ちをお返ししたいと思
います。
本当に4年間ありがとうございました。
戸谷 雄貴(主将)
が試合に出るということは残りの
これからは、2部という一段高いレベルで新しい
目標に向かって挑戦する後輩をOBという立場から
ンバー、誰が応援にいて、どこでプレーしたのかま
カーに対するひたむきで誠実な姿勢でチームを引っ
い。
10
村上 康一(4年)
問題を解決しようとひとつの方向に向かった時、必
灯りを消す前に
11
最後に、「昇格」という最高のプレゼントをして
くれたサッカー部のみんな、OBの皆様、ご父兄の
ずそれによって別の問題が生じた。そちらを気にし
ざいました。今後とも酉松会の一員として、何卒宜
一緒に頑張りたいと心から思える先輩に常に恵まれ
始めると、ひとつの方向に向かう推進力が失われる。
『 ようやく…!』
31
20
(2)
The Yushokai Shimbun
2012 年(平成 24 年)3 月 1 日
OBのつぶやき
2部で勝ち抜くために
方 の な い こ と 」 と 言 わ れ る こ と も あ る が、 や は
残ろうとする結果コミュニケーション不足は仕
士は競争相手、それぞれが必死にチーム内で生き
な い け れ ど、 そ の と き に 一 人 で 抱 え
も あ る し、 悪 い こ と も あ る か も し れ
た 1 年。 だ か ら、 J 1 で も よ い と き
できることがあるというのがわかっ
入部して1年目、2年目と、あと一歩のところで2部昇格を逃
してしまったこと、そして、お世話になった先輩方に恩返しがで
チームへの主体的な関わり
りチームとして機能するためにはコミュニケー
FC東京躍進の秘密
酉 松 会 新 聞 第 4 号 で「 F C 東 京 J 2 降 格
は他山の石」という記事を書かせていただ
きなかったことは、私にとって大変悔しく、自分の無力さを痛感
チームの目標は高く設定して下さい。目標が低
いとその目標以上は達成出来ません。
今年で言えば2部残留という目標ではなく、個
人的には1部の優勝を最終目標にその通過点とし
込 む の で は な く、 み ん な で 乗 り 越 え
する経験でした。だからこそ、3年目のシーズンは、何としても
ションはなくてはならない大切なもの。
て い く 努 力 を す る。 そ れ は 続 け て い
2部に昇格したいという強い思いを持って取り組みました。
い た。 今 回 は 続 編 と し て「 F C 東 京 躍 進 の
き た い で す ね 」 と 言 っ て い る。 阿 久
て今年2部優勝することを目標に戦って欲しいと
根社長の言う「自立」と「コーチング」
私達マネージャーの仕事は、直接勝利には結びつかないかもし
れませんが、プレイヤーにとって少しでもプレーしやすい環境を
秘密」というテーマで情報提供させていた
運 営 会 社 は「 チ ー ム 運 営 の こ と に ス タ ッ フ は 口
はメンバーにはかなり戸惑いを与え
提 供 す る こ と が、 チ ー ム を 強 く す る た め の 私 達 の 使 命 だ と 考 え て
思っています。
だく。
を出すな!」という暗黙のルールがあるなか、「自
た よ う だ が、 結 果 と し て 選 手 の 心 に
います。その役割を果たすため、今シーズンは、マネージャー全
こ こ で「 コ ー チ ン グ の 専 門 家 」 で あ る 阿 久 根
社長が禁じ手を打ったのだ。これまでのサッカー
最後に、何より重要なのはチームとしての纏ま
りです。
試合に出ている人も出ていない人もマネー
結果から言うと、J2では 勝8分7敗、
勝ち点 で優勝。天皇杯ではJ1勢(ヴィッ
立 」 と い う 旗 印 を 掲 げ、 社 長 自 ら 一 人 ひ と り の
染みこんだようである。
徹底的に話し合いを繰り返しました。特に、
夏合宿の夜や秋季リー
になってからのサッカー人生を振り返り、思いつ
し て い る こ と と 思 い ま す。 私 の 学 生 時 代 や 社 会 人
す。 今 年 は 2 部 で の 戦 い に な り 既 に 新 チ ー ム 始 動
現 役 の 皆 様、 昨 年 は 2 部 昇 格 お め で と う ご ざ い
ま す。 O B の 1 人 と し て 大 変 嬉 し く 思 っ て お り ま
なってくれることを願っています。
ために出来ることを自然に行う、そんなチームに
が決まったら、残りの人は、全員でチームが勝つ
に出るまでは競争ですが、
一旦試合に出るメンバー
組むことで何倍にもチーム力は上がります。試合
に、
「青赤通信 Vol.
」で今野が話して
順 調 な シ ー ズ ン で は な か っ た の で あ る。 特
結果だけ見ると順風満帆のシーズンだっ
た よ う に 見 え る が、 実 際 に は 全 て に お い て
ガを4−2で破り初優勝。
テンやったらいいと思う?」などとちょっかいを
プテン今野」についても、
「みんなは誰がキャプ
と問いかけたり、すでに監督が決めていた「キャ
だ!生え抜きの先輩には意見が言えないのか?」
たのである。
トル獲得へ驀進していくこととなっ
ル ー カ ス の 加 入 も あ り、 2 つ の タ イ
し で 順 位 を 上 げ て い け た。 そ し て
もちろん私たちの仕事には、まだまだ改善の余地があったと思
い ま す が、 自 分 が プ レ ー し な い か ら と い っ て 消 極 的 に な る の で は
覚えています。
グ期間中、時間を惜しまずに皆で話し合ったことは、今でもよく
た。
か か わ ら ず、 ス タ ー ト の 7 試 合 終 了 時 点 で
全勝優勝して当たり前と言われていたにも
タ ー ト だ っ た の で あ る。 実 際、 周 囲 か ら は
ざ る を え な く な っ た。 こ の チ ー ム 戦 術 の 変 更 に
たのに、2試合目から平山が離脱し、戦術を変え
み立てていくという方針でチーム作りをしてき
もう一つ大きな要素は平山の離脱である。シー
ズン前は平山に当てて、こぼれ球を拾い攻撃を組
の大切さと手法を浸透させていったそうである。
チ ン グ 研 修 」 を 自 ら や り、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン
て く る と い う こ と を 頭 に 入 れ、 関 東
をすることで結果はこんなにも違っ
的にコミュニケートしてチーム運営
で は な く、 自 ら 考 え、 ま わ り と 積 極
与えられるままに指示命令で動くの
も 当 て は ま る 基 本 原 則 な の で あ る。
る こ と だ し、 会 社 の 組 織 運 営 な ど に
式蹴球部のチーム運営にも当てはま
皆様には心から感謝しています。本当にありがとうございました。
レイヤー、マネージャー、そして私達を支えてくださったOBの
1つの目標に向かって努力できる素敵な仲間とともにこのサッ
カー部で過ごした3年間は、私の誇りです。共に頑張ってきたプ
じています。
梅村 薫(3年 マネージャー)
員 に 求 め ら れ る も の で あ り、 勝 つ た め の 重 要 な 要 素 で あ る と も 感
チームに主体的に関わる姿勢は、マネージャーに限らず、部員全
こ の度 の2 部昇 格へ つな がっ たの では ない かと 思いま す。また、
でその意識を共有できたことが、ほんのわずかかもしれませんが、
なく、主体的に自分たちのできることを考え、マネージャー全員
員で一つひとつの仕事を改善しようと、些細な部分でも妥協せず、
くままに2部で勝ち抜くために必要と思われるこ
これだけサッカーに没頭できるのは大学時代だ
けなので、後悔しないよう全力でサッカーに取り
いるように、
「シーズンの序盤は、自分たち
出 し た り し た そ う で あ る。 加 え て、 監 督 を 含 め
ジャーも監督も1つのチームとなって目標に取り
セル神戸、
浦和レッズ、
セレッソ大阪)を次々
選 手 に 声 を か け、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 起 爆 剤
こ れ ら が 功 を 奏 し た の か、 8 試 合
目からの 試合は8勝2分と負けな
と を コ メ ン ト さ せ て 頂 き ま す。 少 し で も 現 役 の 皆
組んで下さい。社会人になってサッカーがしたく
が 悪 す ぎ て、 勝 っ た 試 合 で も 負 け て も お か
現 在 は 東 レ に 勤 務 し、 炭 素 繊 維 関 連 の 営 業 を し
ております。
と 破 り、 元 旦 の 決 勝 戦 で も J 2 の 京 都 サ ン
に な ろ う と し た の だ。 若 い ゴ ー ル キ ー パ ー に は
様のお役になればと願っております。
なったら、いつでも東レサッカー部でお待ちして
FC東京の例はプロサッカーチー
ム の 特 殊 な 例 で は な い。 一 橋 大 学 ア
原 因 は 何 か? 阿 久 根 社 長 曰 く「 負 け て も
選 手 同 士 で 全 く 話 を し な い ん で す よ ね。 驚
もコーチングをベースにしたチーム内コミュニ
リーグ復帰を目指して挑戦してみな
「何で梶山にしっかり守備をしろと意見しないん
1.チームの方針、戦い方を明確に。
たスタッフやFC東京バレーチームにまで「コー
年卒、東レ)
き で す。 こ ん な 状 態 な ら い い か ら 負 け ち ゃ
ケ ー シ ョ ン が 有 効 だ っ た よ う で あ る。 短 期 間 に
い!
位と大きく出遅れてい
え!っ て 言 っ ち ゃ い ま し た よ 」 と い う よ う
戦術の意思統一を図るにはチームメンバーが積
は2勝3分2敗の
に 選 手 同 士、 選 手 と ス タ ッ フ 間 の コ ミ ュ ニ
極的にコミュニケートするしかなかったのであ
過去3年間、1点差の3位が続き悔しい思いをし
昨年の3部リーグで、現役サッカー部は接戦を
抜け出し準優勝を勝ち取り、2部に自動昇格した。
偏差値が上がった一次元上の対応について私
そこで2部昇格時に毎回目標となる2部定
住の課題について、ここ数年の観戦経験から、
パターンに重点
が必要になっていると思われる。
本私見のような岡目八目の知恵や意見
されてきたが、2部定住には荷が重く、
して参りました。
貢献するマネージャー」として必要不可欠な存在になろうと努力
今年は練習・試合のサポートの質を常に磨くことを前提に、プ
レ ーヤ ーの モチ ベー ショ ンを 向上 させ る役 割も 担って、「勝ち に
パス
以上は足らざるを補う応急対策であるが、本論
は創部九十周年を迎えた一橋サッカー部の原典と
目標の完成度をチェック
各自は目標をもってポジションの役割を、又全
員はゲームプランを試合の中でテストし、試合後
階と思料する。
前記マニアル編集と併せ考慮する段
えば酉松会幹事会技術部会など)を、
ン前からの適切なアドバイス体制(例
にプロコーチとはいかないがシーズ
ン ネ リ 体 制 を 刷 新 し、 ど こ か の よ う
これからは私も、OB・OGの一員として一橋大学ア式蹴球部
を応援していきたいと思います。
います。
このような部員全員の思いが結実し、2部昇格を達成すること
ができました。このような最高の形で引退できてとても幸せに思
常に勝ちにこだわってきたと自負しております。
重要な試合の前にマネージャー同士で昇格に向けた意気込みを
「決意表明」として発表しあうなど、マネージャー8人全員が非
も言ふべき体系的な練習マニアル及び戦術マニア
までざわざわ足を運んでくださって応援していただきありがとう
[ 練習試合]
ルを纏め、一貫した部活動の指針とすることにあ
こ れ か ら も、 主 役 で あ る 現 役 諸 君
の 運 動 部 活 動 が 充 実 し、 サ ッ カ ー の
鈴木 絵美( 年 マネージャー)
あらためて、この場をお借りし心より御礼申し上げます。
今までサッカーに取り組む環境を与えてくださり、また試合会場
る。
ございました。
年卒)
醍醐味を實感できるよう切に願って
これまでの3部リーグでは現役の自主運営に任
志摩 憲一(昭和
いる。
これについては 年前に私案を纏めたが、当時
は関心が薄く没となった経緯がある。
O B 組 織 と し て、 従 来 の U タ ー ン
を繰り返さないためにも 年来のマ
裏 へ の パ ス を 多 用、 サ イ ド 攻 撃 の パ タ ー ン 化、
積極的なシュート、自陣内から速攻狙いのロング
昇格の感謝をこめて
ケーションが全く不足していると感じたそ
チームに増)このような経緯もあっ
2.練習試合は強い相手と。
てきただけに、祝勝会では現役はもとよりOBも
見を列記してみよう。
守備圏からの排除、シンプルで精度の高い
山根 言一(昭和 年卒、
東京ガスサッカー部OB)
る。 今 野 も「 今 季 は、 み ん な で 話 し 合 っ て 解 決
10
うだ。
「サッカーはラグビーと違って選手同
から
てか、耳が痛いが学連内や他校から一橋は3
練習試合は各上のチームと行うことをお薦めし
ま す。 な か な か 勝 て な い と 思 い ま す が、 課 題 や、
胸の支えが取れたように喜びを分かち合った。
昇格の喜びと課題
吉野 徹之(平成
しくない内容の時もありました」というス
人集めても勝てるスポー
で、個々人のスキルでは及ばないでしょう。
しかし、
サッカーは上手い人を
ツ で は あ り ま せ ん。 チ ー ム と し て の 戦 い 方 を 明 確
に し、 全 員 で 共 有 す る こ と で 十 分 勝 て る と 思 い ま
す。
具体的には、蹴るのか繋ぐのか、守りのライン
はどこに引くのか、攻め方、守り方をどうするのか、
と い う 点 を 4 年 生 中 心 に 決 め、 徹 底 す る こ と が 重
要 と 思 い ま す。 遅 く と も 春 先 ま で に は 方 向 性 を 決
め、後は決め事を徹底して繰り返し、うまく行か
ない時には最初に決めた決め事を全員で再共有す
るようにしたらどうかと思います。そして一旦決
めたことは安易に変えないことも重要です。
(方向
やるべき事が見えてくるという点と、強い相手と
そしてお祝いムードが一巡してから、
次のステッ
プである昇格後の課題がそれとなく話題になって
部に安住しているとの風聞もあったようだ。
試 合 を し て い る と い う 自 信 が、 リ ー グ 戦 に 役 立 ち
いた。因みに私がリタイア後小平に通い始めてか
ア ウ エ ー で 広 く な る ピ ッ チ、 球 際 の 強 さ、
得点圏への侵入、
[ ゲームプラン]
基礎的個人技のコツを4年間反復練習
実戦シュミレーションで攻守の実戦対応力
アップ セットプレー、クロスパス、ピンチ
クリアー
ます。格下の相手と試合をするのは、チームの士
年数)は、平成
[練習メニュー]
気を高めるためのリーグ戦直前だけで良いと個人
年余になるが、その間の2部昇格年度(残留
ら
性がブレるので)
4
的 に は 思 い ま す。 せ っ か く 一 橋 サ ッ カ ー 部 に は 多
く の 先 輩 方 が い ら っ し ゃ る の で、 是 非 活 用 頂 き、
2部定住は叶わなかった。
年(1年)で
Jリーグや社会人のチームとの試合を組んで下さ
年(0年)
、平成
い。遠慮は不要です、皆さんからの依頼であれば、
10
52
12
セレクションで人を集めている大学もありますの
います。秋の吉報を願っております。
23
私の現役時代も計3年間、2部で戦いましたが、
3 部 と は 一 段 も 二 段 も レ ベ ル が 高 い と 思 い ま す。
77
12
12
17
ムが2部に自動昇格した。
(関東リーグ1・2部も
18
10
31
10
11
平成 年には都学連のリーグ編成が8から
チーム制に増え、前年度の3部A・Bの上位5チー
OBは喜んで動きます。
3.目標は高く。
3
10
10
10
The Yushokai Shimbun
2012 年(平成 24 年)3 月 1 日
(3)
笠 間( 4 年 ) を 中 心 と し た 守 備 陣 の 奮 闘 も あ り 何
シーンもあったが、GK 木内(3年)や DF 宮、
るなど、6:2の完勝であった。
FW 安部(3年)が3点(ハットトリック)をと
一 橋 が リ ズ ム を 掴 む 中、 攻 撃 陣 も 好 調 で FW
高橋(4年)1点、FW 池田(克)(4年)2点、
ち直るきっかけを掴めず、完全にペースを握られ
に失点を重ねていった。後半だけで4失点し、立
そ し て、 後 半 に 入 り 専 修 の 猛 反 撃 が 始 ま る と、
一橋のミスもあり、1点を失うと堰を切ったよう
たく抑圧された雰囲気があった。
ワーをボディブローの様に受けたのか、何とも重
低い弾道でそのニアを狙ったものでしたがやや
お り ニ ア に 走 り こ み ま し た。 蹴 ら れ た ボ ー ル は
問 題 の 場 面 は 前 半 半 ば に 起 こ り ま し た。 コ ー
ナーキックのチャンスでDFだった私は練習ど
できるというところまで来ていました。
試合で勝てば東京都1部との入れ替え戦に出場
ルをコントロールしなければならない。
る為、主として足、場合によっては頭や胸でボー
サッカーと言う競技は、ペナルテイエリア内に
おけるゴールキーパー以外、手(人間の体で一番
シ ュ ー ト も 数 多 く 浴 び る 中、 ポ ス ト や バ ー を 叩 く
とか失点を0に抑えていた。
リーグ戦での不完全燃焼であった試合の鬱憤を
晴らすかのような大勝利でもあった。
てきた関東2部の座から落ちることとなった。
たまま、2:4で終了。この時、ついに3年間守っ
ところがなぜかボールを相手DFの頭上をす
り抜けてきたため、あわててヘッドで合わせにい
アすると思い、一瞬足が止まってしまいました。
低くニアサイドをケアしていた相手DFがクリ
之に匹敵する要素として次のようなものがある。
で、ボールコントロールは必要な技術の一つで、
を目的と錯覚されかねない。サッカーは相手ゴー
に は 行 き ま し た が、 フ ァ ー ポ ス ト に い た D F に
1.広いグランドで 分走ることができる体力
2.気力・闘争心
3.判断力
ルにより多くボールを入れたチームが勝つ競技
この敗北による挫折感は強烈で、その後暫く消
え去ることなく、4年生にとっては痛恨のシーズ
き ま し た が、 一 瞬 足 を 止 め て い た た め に 当 た り
ンとなった。
とがあるが、恐らく死ぬまで消えぬつらい体験で
あった。
が 浅 く、 シ ュ ー ト は フ ァ ー サ イ ド へ と 流 れ、 枠
年経った今でも時々、思い出すこ
器用な部分)でボールを扱うことが禁止されてい
し か し、 後 半、 ゴ ー ル 前 の 混 戦 か ら 木 内 が ゴ ー
ル を 離 れ た 隙 に、 シ ュ ー ト を 打 た れ、 や ら れ た と
従ってボールコントロールの習熟に多大な努
力を要する結果,手段であるボールコントロール
4年連続の入替戦物語
その中で今回は激戦の入替戦(4年連続)に焦点
誰 も が 思 っ た 瞬 間、 何 と カ バ ー リ ン グ に 入 っ て い
昭 和 年 4 月 に 一 橋 大 学 サ ッ カ ー 部 に 入 部 し、
4 年 間 サ ッ カ ー 漬 け の 生 活 と な っ た の で あ る が、
を絞って振返ってみたい。
た DF 加 藤( 2 年 ) が、 ス ー パ ー セ ー ビ ン グ で
を受け、危機感を持って猛練習に取組んだ。
昭 和 年 の 春 季 関 東 1・2 部 オ ー プ ン リ ー グ 戦
で は、 日 体 大、 慶 応、 青 学 に や は り 力 負 け し た の
[大学4年時]
しかし、専修はこの完敗を忘れず、次年度にリ
ベンジの機会を狙ってくるのである。
[大学1年時]
ボ ー ル を パ ン チ し、 ゴ ー ル の 外 へ は じ き 出 し た。
であった。
今 で は 一 発 退 場 の プ レ ー だ が、 執 念 の 見 事 な 守 り
ろうじて4位となり、何とか関東大会へと駒を進
そして、PKをこれまた木内が見事ストップし、
駒沢に決して点を許すことがなかった。
昭和 年、秋季東京都1部リーグ戦の最終戦・
専修に4:1と逆転勝ちし、3勝3敗1分で、か
めた。1回戦・群馬大1:1でPK戦勝利、準決
勝・明学1:1でPK戦勝利、決勝・青学0:1
ク リ ア さ れ て し ま い ま し た。 結 局 試 合 は 0: 0
か ら 特 に 何 か 言 わ れ た わ け で も あ り ま せ ん。 そ
サ ッ カ ー は 広 い グ ラ ン ド 上 で、 間 断 な く 攻 守
が 入 れ 替 わ る 競 技 で あ る 為、 プ レ ー ヤ ー は 夫 々
6 月 の 国 公 立 大 会 の 準 決 で は 教 育 大( 現 筑 波 )
に1:1(PK戦勝利)、そして決勝の学芸大に3:
ういう意味では覚えているのは私だけだと思う
の状況に応じ自ら最善と判断したプレーをせざ
立て続けに、MF 遠藤(4年)がドリブルから2
ゴ ー ル に 吸 い 込 ま れ、 先 制 点 を あ げ た。 そ し て、
ダイレクトで叩くと、美しい放物線を描きながら、
ル を FW 山 崎( 4 年 ) が 胸 ト ラ ッ プ し 落 ち 際 を
月、舞台は秋晴れの浦和駒場競技場。前半な
か ば、MF 内 田( 守 )
(3年)からのクロスボー
切符をしぶとく手に入れた。
ように逆サイドのゴールネットに吸い込まれた。
シ ュ ー ト し た。 そ の 放 た れ た ボ ー ル は 糸 を 引 い た
エ リ ア に 侵 入 し、 右 サ イ ド の 角 度 の な い 所 か ら
ス が 渡 り、 内 田 は そ の ま ま ド リ ブ ル で ペ ナ ル テ ィ
てきた、後半投入の MF 内田(泰)(2年)にパ
上がりを待った。そして、センターから駆け上がっ
つ か れ、 さ ら に 終 了 間 際 に は C K か ら 逆 転 を 許 し
が、 そ の 後、 不 可 解 な PK を 取 ら れ 同 点 に 追 い
安部がダイビングヘッドで合わせ先制点をあげた
秋季関東2部リーグ戦では、初戦の順天堂戦の
後 半、MF 加 藤( 4 年 ) か ら の セ ン タ リ ン グ に
であったかもしれない。
場を逃してしまいました。
もちろん試合中にはほかにも得点チャンスは
あ り ま し た し、 こ の 場 面 に つ い て チ ー ム メ イ ト
5.チームプレー
此の内3.4.に就いて詳述したい。
判断力に就いて
4.ボールの争奪に勝つ技術
よ う な よ く あ る シ ー ン の ひ と つ な の で す が、 今
るを得ない。
でも「なぜあの時一瞬足を止めてしまったのか」
点目をあげ突き放すと共に、後半も上智の反撃を
安部 裕二(昭和 年卒
日本カーソリューションズ勤務)
上手く抑え、そのまま2:0で勝利した。念願の
何とか体制を持直し、宿敵・東大戦を迎えた。春
てしまった。この躓きが尾を引いたのか、国士舘、
関東2部への昇格を勝ちとった瞬間である。
青学、明治と残念ながら連敗した。拓大には必勝
関 東 大 会 で は P K 戦 も 念 頭 に 周 到 な 準 備 を し、
そ の P K 戦 で は GK 大 江( 4 年 ) の 的 確 な 読 み
もあり、接戦をものにするなど、運も味方につけ、
の 引 き 分 け に 終 わ り、 結 果 と し て 入 れ 替 え 戦 出
と 悔 し く て な り ま せ ん。 き っ と 四 中 工 の 選 手 た
適切な判断をするには、普段から状況に応じた
最善のプレー選択の基本を身に付けると共に、相
尚、一橋の壁を失った東大は翌年やはり7位で
入替戦に臨み、立正大に敗れ、関東2部から初め
1 で 勝 利 し た。 国 公 立 戦 で は
て陥落し、その後今日に至るまで
ち の 中 に も そ う い っ た「 思 い 出 の 場 面 」 が た く
手に負けない強い意志を持った責任あるプレー
絵に描いたようなカウンター攻撃が実った瞬間
であった。そして、間もなく終了のホイッスルが
で臨んだが、0:0と引分けに終わり、それでも
年ぶりの優勝を果
試 合 も ロ ス タ イ ム に 入 り、 駒 沢 の C K か ら 笠
間 が ク リ ア し た ボ ー ル が 右 サ イ ド に い た FW 安
た す な ど、 今 年 こ そ は、 何 と か 入 替 戦 を 回 避 で き
部復帰を果たしていない。
さ ん で き た の で は な い か と 思 い な が ら、 試 合 終
を心掛けるべきである。
鳴り響き、
劇的な勝利により、
2部残留を果たした。
先には東大に完勝していたのだが、リーグ戦の悪
シュート無しにゴールは無い。
ボールの争奪に勝つ技術に就いて
え て い け れ ば、 そ し て サ ッ カ ー を 大 好 き に な っ
サッカーはボールの争奪に勝たない限りゴー
ル を 得 る こ と が 出 来 な い。 ま た ボ ー ル を 保 持 す
悔 し い 思 い 出 も 含 め て、 サ ッ カ ー の 楽 し さ を 伝
てくれればと願っている今日このごろです。
は2:2の引分、そして2部上位校の順天堂には
昭 和 年 の 春 季 関 東 1・2 部 オ ー プ ン リ ー グ 戦
で法政(当時最強)に力負けしたものの、慶応に
たかった下位との入替戦に2年連続で臨むことと
下 位 の 8 位 に 終 わ っ た( 東 大 6 位 )。 何 と か 避 け
け が 続 き、 リ ズ ム に 乗 れ な い ま ま、 2 分 5 敗 で 最
秋 季 関 東 2 部 リ ー グ 戦 で は、 東 大 1: 1、 国 士
舘 0: 0 と 引 分 け た も の の、 他 の 大 学 に 1 点 差 負
したが、その後必死の練習を経て、秋を迎えた。
昭 和 年 の 春 季 関 東 1・2 部 オ ー プ ン リ ー グ 戦
で は、 早 稲 田、 慶 応、 明 治 と 対 戦 し 各 々 力 負 け を
一橋も出来る限りの準備をし、入替戦に臨んだ。
前半は専修のミスにつけ込み、FW 小池(2年)、
対戦相手を一橋に選んできたのだった。
専修で、関東大会の優勝より、敢えて2位となり、
あげ、得点ランキングの上位を占めた。
尚、このリーグ戦の総得点7点の内、安部は青
学、明治、立教戦にも各々1点をとり、計4点を
替戦に回ることとなった(東大5位)。
1 分 5 敗 で 7 位 に 甘 ん じ、 3 年 連 続 の 下 位 と の 入
んなことを考えているんだろうな、本当に悔しい
「あそこであと一歩足が出ていれば」おそらくそ
とても印象的でした。
「あと1分耐えていれば…」
了後の敗れた四中工の選手の悔しそうな表情が
に 市 船 が 奇 跡 的 に 追 い つ く わ け で す が、 試 合 終
せていただきます。
り 生 で 見 る と 感 動 も ひ と し お で、 雑 駁 な 話 で 恐
こ の 年 末 年 始、 久 し ぶ り に ス タ ジ ア ム に 足 を
運 ん で 試 合 を 観 戦 す る 機 会 が あ り ま し た。 や は
片道2時間を要するが)サッカー観戦に恵まれ、
日産スタジアム、三沢競技場に近い為(小平には
ところで私はプレーするサッカーから観る
サッカーになって久しくなりますが、幸い自宅が
は本当にご苦労様でした。
念 願 の 2 部 復 帰 御 目 出 度 う。 チ ー ム が 一 丸 と
な っ て 纏 ま っ た 結 果 と 思 い ま す。 4 年 生 の 諸 君
れる由縁であろう。
戦するものに感動を与え最高のスポーツと言わ
自 分 の 能 力 の 総 て を 発 揮 す る 競 技 で、 こ れ が 観
以 上 思 い 付 く ま ま に 縷 々 述 べ た が、 サ ッ カ ー
は単にボールコントロールの優劣を競う競技で
なぜあの時足を止めたのか
部( 2 年 ) に 渡 っ た。 安 部 は マ ー ク に つ い て い た
るのではと期待を持たせた。この決勝では、FW
私立の新興大学が続々と関東大学リーグ参入を
目標に、サッカー部を強化し始めるという、その
了後のベンチを見つめていました。
安 易 な 盲 目 パ ス や、 自 陣 深 い 位 置 に 於 け る 外
から中への弱い横パスなどは論外。
こ の 時 の 駒 沢 は 本 当 に 強 か っ た の だ が、 た っ た
一年での陥落は何としてでも避けたいという一橋
い流れを断ち切れず、今回は0:3と痛恨の完敗
をあげることができなかった。最終戦の立教には
2:1で勝利するなど、やれるという自信を持っ
なった。尚、総得点は4点に終わった。
安部の得点により、2:0とリードし、DF 山根
だろうな、などと思いながら自分がかつて味わっ
堪能しております。
戦が結果として響き、3勝4敗で7位となり、入
替 戦 に 臨 む こ と と な っ た( 東 大 6 位 )。 尚、 総 得
その試合は1月の高校選手権決勝、市立船橋
四 日 市 中 央 工。 ご 存 知 の と お り 後 半 ロ ス タ イ ム
それは大学4年の秋季リーグ最終戦のことで
し た。 相 手 は 亜 細 亜 大。 そ の 時 点 で 一 橋 は そ の
63
いと思います。
そこでサッカー観戦を通じて考えさせられた
サッカーに必要な要素に就いての私見を述べた
サッカーに必要な要素
vs
人のプレーヤーが広いグランドで自由に
ス・ブレインのことである。
高田 勝巳(昭和
年卒)
サッカーでは「3B」が大切だとよく言われる。
「3B」とはボールコントロール・ボデーバラン
なく
1の練習が不可欠である。
の技術を身に付ける必要がある。此の為には1:
ボ ー ル 争 奪 に 勝 つ に は 鋭 い 出 足、 身 体 で の ブ
ロック、フェイント、切り替えし、タックル等々
はボールを奪はれない技術は極めて重要である。
る 限 り 負 け は な い。 従 っ て ボ ー ル を 奪 う、 或 い
て秋に向け準備を行った。
月、 舞 台 は 再 び 駒 沢 競 技 場 で、 相 手 は 初 の 関
東昇格を目指し強化中の専修であった。
(4年)、負傷欠場の DF 永田(4年)に代わり、
た 人 生 最 大(?) の 悔 し い 思 い 出 を 思 い 出 し て
神原 直秀
年卒、トヨタ自動車勤務)
この年には、関東2部でプレーしたいという思
い で 留 年 し た、DF 宮、MF 遠 藤 の 存 在 が 選 手
一 橋 も 入 替 戦 を 前 に、 三 菱 重 工 や 早 稲 田 と い っ
た 強 豪 チ ー ム と の 調 整 試 合 を 経 て、 万 全 の 状 態 で
DF ラ イ ン に 入 っ た MF 福 本( 4 年 ) を 中 心 に
いました。
(昭和
層を厚くしていた。
試 合 に 臨 ん だ。 こ の 試 合 で は、DF 寺 尾( 4 年 )
相手に得点を許さず、優位に立ったかと思われた。
有利に展開していった。
11
縮 で す が、 そ の と き に 思 っ た と こ ろ を 少 し 書 か
点6点の内、
3点を FW 高橋(3年)があげ、エー
が 持 前 の 馬 力 で 相 手 エ ー ス を 早 々 に つ ぶ し、 相 手
試 合 開 始 と 共 に、 駒 沢 に ボ ー ル を 支 配 さ れ、
22
月、駒沢競技場での相手は、一橋に雪辱を期す
ス FW としての存在感をみせた。
の 攻 撃 を ダ ウ ン さ せ た こ と に よ り、 徐 々 に 局 面 は
30
秋季関東2部リーグ戦では成城1:0、拓大2:
1、青学1:0と勝利したが、東大1:2での敗
月、舞台は駒沢競技場になり、相手は前年の
都リーグで1:4と敗れた駒沢であった。
3:0と完勝し最後の意地を見せたのだが、1勝
年間、関東2
DF をかわし、何とかボールをキープし、味方の
安部(4年)はハットトリックをあげた。
大きな渦に一橋、東大も飲み込まれていった時期
今、3歳の長男にサッカーを教え込むべく、毎
週末いっしょにボールを蹴っていますがそんな
確かな勢いがあった。
の 残 留 へ の 執 念 が 上 回 り、 一 発 の カ ウ ン タ ー で 駒
に 終 わ り、 ま た し て も、 リ ー グ 戦 で 東 大 か ら 勝 利
で敗戦したが、関東2部7位・上智との入替戦の
35
沢を沈めたのである。
[大学3年時]
52
34
13
その延長線上に入替戦の歴史的な勝利があった
もので、8年ぶりに関東2部に復帰した。
[大学2年時]
90
51
48
48
49
し か し、 ハ ー フ タ イ ム の ロ ッ カ ー ル ー ム に は、
チ ー ム に リ ー ド し て い る 余 裕 は な く、 専 修 の パ
50
11
11
11
(4)
The Yushokai Shimbun
2012 年(平成 24 年)3 月 1 日
協会改革の日々
化を達成した。以前から審判員の先輩として指導して
くれていた安田東京都協会理事長は、ニヤニヤしなが
して「女子部」を
年9月に設置した。
渡した。お茶・お花・舞踊・楽器などのお稽古事にそ
年春の
年からスタートした「審判員総
のヒントがあった。それで立ち上げたのが、
理事会で承認され翌
長、しばらくは、私も何をして良いのか何もわからな
回から国立開
して、女子サッカーにおいて、最高位の大会である全
日本女子サッカー選手権の決勝戦を第
催とした。
県協会の立場に立った采配を労ってくれた。天皇杯決
かった。とりあえず、女子サッカー先進国を調べてみ
人を引っ張りこんでおいて何も指示しない事務局
―女子が抱える課題―
勝はそれまで日本協会直轄事業であったが、これを年
たら、日本との相違点が浮き彫りになってきた。先進
いるハンディキャップは何としても解決したかった。
ら「久保田の銅像を建てなきゃいかん!」と、都道府
ンサドーレ札幌と、私立船橋高は総理大臣杯覇者の駒
末の準決勝戦同様に東京都協会に事業を移管した。日
各国では、日本で言う小学生以下の年少者では、男子・
しかし、読売で行われている全日本少年サッカー大会
県協会にした。2、審判員は所定の登録費を所轄の都
国際的にみて年少期に男女別々にサッカーをさせて
1、審判員の登録の窓口を1〜4級すべてを都道府
―審判員総合登録制度の概要―
らうよ」
。
えた。事 務局 長が言 った。
「久保田 さん、 使わしても
合登録制度」である。審判部の収入は一挙に2億を超
沢大と対戦するなど、若い選手たちにとってはやりが
本協会若手の中には儲かる事業の身売りには不満そう
女子の区分けがなく一緒にプレーしていた。日本では、
は、女子の管轄を超えて4種委員会の理解と協力が必
―難関 :
いのある、見る側にとっても興味深い対戦であった。
な顔も見られたが、日本協会はあくまで主催者、試合
幼稚園サッカーでは男女分けがないが、小学校からは、
道府県協会に納入する。都道府県協会、地域協会、日
全日本少年サッカー大会への出場―
第4号に続き久保田秀一さん(昭和 年卒)
による「日 本 サッカー協 会の改 革に取 り組 ん
東京代表は、青山学院大学が横川電機を2:0で下し
を運営し主管するのは都道府県協会という筋論を展開
要 で あ っ た の は 言 う ま で も な か っ た。 歴 史 と 伝 統 が あ
だ日々を振り返る」シリーズの後編です。
代表権を獲得した年であった。
読売で行われていた少年サッカー大会では女子を排除
本協会は、それぞれ適正な登録費を登録審判員から徴
年卒)
した事業部長の判断に、文句は出番を失っていった。
る読売少年の大会は、当然各地域で少女の参加を拒否
久保田 秀一(昭和
―共催にマスメディアや一般企業の協賛―
している通り、男子だけの世界であった。従って、幼
都 道 府 県選 手 権
天皇杯改訂を機会に、都道府県協会の主管が確立した。
[天皇杯改革]
一方で、天皇杯の更なる活性化、
収し、円滑な審判活動を行う原資とする。3、日本・
[女子部]
社とを「共催」に取り込んだ。これは、マスメディア
の発展を目的に、日本放送協会(NHK)と共同通信
地域・都道府県協会の各審判委員会の組織と業務分担
年の
学に入ると又受け入れる女子サッカー部は殆ど無かっ
例外的にクラブで女子小学生がプレーしていても、中
された。参加資格チームは、第4種及び女子加盟登録
会で「第4種大会への参加資格変更」が審議され改定
協会はそれらと名簿・テキスト等を併せて、全1~4
を都道府県サッカー協会に販売し、都道府県サッカー
カー競技規則・審判手帳・ワッペン(1―4級)など
について明確にした。4、日本サッカー協会は、サッ
「久保田さん、今度は女子やってよ」と豊島事務局
とし、男子選手のみとした条文は削除された。この結
級審判員に販売又は配布する。
しかし、努力の甲斐があって2000年2月の理事
る事業を広く伝達し、サッカーに関与する人たちも含
長が叫んだ。豊島さんは、自分が協会入りした時は、
た。これでは、普及はおろか強化どころではなかった。
果、同年夏開催された大会で初めて3名の選手が登録
―その結果―
―誕生の背景―
シードチームに9地域の代表チームを加えてトーナメ
めてより多くの人たちの関心を集めることにより、よ
四国代表理事(愛媛県協会理事長愛媛新聞社勤務)と
日 本 の ス ポ ー ツ の 大 会 は、 学 校 チ ー ム が 核 に な り 長 い
され、読売のグランドで身体の大きな女の子が男子に
を通して天皇杯および、各都道府県選手権大会に関す
ント方式で大会が一貫して行われてきた。サッカー発
り充実した、やりがいのある環境(大会)を創出する
して日本協会理事会では最も若く、常に真正面から取
間行われてきた。これも再構築しなければならなかっ
チーム)までは、Jリーグなどの
祥の地で行われているFAカップは、登録全チームが
ことを意図して実施した。昨今でも天皇杯都道府県予
り組み正論を展開して論客であり、現場の問題点は熟
混じってプレーするのが見られた。心の底から“頑張
回 大 会( 出 場
1921年に第一回が開催された天皇杯は、
―出場資格の見直しー
参加して競い合いNO1を決定するモデルであった。
選の結果等をNHKが広く報道したり、大会1回戦を
た。取り組んだ施策は、次の通りであった。
日本のサッカー競技の普及と発展を全国規模で図り各
知していた。キリンカップ国際試合愛媛大会で、下打
れ!”と叫んだのを覚えている。
万人)
地元NHK局がテレビ放映したりしているのはこの
―登録制度の変更と
1000円、3級(1・8万人)1500円、2級(0・
日 本 協 会 登 録 費 と し て 4 級 審 判 員(
地域での活動をより活性化させるために、日本協会は
ち合わせで事業部長として松山に飛んだ時、彼は空港
「共催」効果の一つである。競技場内に広告設置の道
年上納される仕組みが出来上がった。幼稚園・少年な
25万人)2000円、1級(100人)1万円が毎
的第一歩であり、今日のなでしこJAPAN誕生の出
これが日本の女子が力強くなれる環境が整った歴史
各都道府県協会と連帯して天皇杯全日本サッカー選手
登録制度においては、それまでの男子同様4つのカ
どすべての競技会に出場するチームには登録審判員数
で県協会幹部を従え出迎えてくれた。ところが、早速、
各大会出場資格の改訂―
空港前の喫茶店で5か条の要求事項を突きつけ興奮気
年、あのワールドカップ優
会は自主開催自主運営により本大会を事業として取り
OKを出した。愛媛大会は成功した。彼は間もなく日
担当者が「NO」という事項であった。私はすべてに
預からせてくれ等、それまではすべて以前の日本協会
味にしゃべり続けた。販売するチケットは、数万枚を
「チーム単位」での参加から、選手個人を重視したも
が「○歳以下の選手」というものに改革され、従来の
を規程することにした。これに伴い、大会の参加資格
子」一本にして登録し、各大会規定の参加資格で年齢
テゴリーに分けていたが、 年度から種別を廃止し「女
行したあの頃の夢がやっとかなえられた思いである。
杯の本年の元日決戦では、やっと両輪が整い、企画実
であった。そして又、午前に全日本女子、午後に天皇
勝は、初代女子部長にとっても正に「想定外」の快挙
ン・ビデオを制作し販売した。都道府県協会も地域協
協会は、全国の講習会で使用させる競技規則・ワッペ
講による審判員資格取得の骨組みを作り上げた。日本
名をチーム登録の必須要件として義務づけ、講習会受
発点でもある。それから
組みが始められた。売り上げが収入になり、登録チー
本協会職員として招聘され、私の上司、事務局長とな
ムに割り当て販売をして収益を確実なものにした。都
った。現場を知り、あるべき姿を見据え、理事会では
大きく違う点は、予選には選手が登録さえしていれば
年 9 月 の 理 事 会 で、 翌
年第
回天皇杯
参加権を与え天皇杯都道府県予選大会を実施して、
この提案は
―改革のきっかけー
の原資として全登録審判員から相応の登録費を徴収し
り200円~500円安く料金を設定した。加盟登録
速に普及し、その競技人口も増やしてきた。その後、
年代以降急
日本における女子サッカーは、1980年に第1回
登録選手であれば、これらの大会に参加の道が開かれ
これにより、女子選手たちは日本サッカー協会の加盟
補強選手の参加、地域選抜チームの参加も認められた。
は、単独チームのみならず、単独チームを中心とした
た。
協会仕事に自信消失して重いウツ病で入院してしまっ
した。ところが、教職の世界からいきなりの慣れない
き 審 判 部 に 招 聘 さ れ、 部 長 は 豊 島 事 務 局 長 が 当 面 兼 務
た。 浅 見 委 員 長 が 推 薦 す る 若 手 国 際 審 判 員 が 教 職 を 退
は浅見審判委員会委員長と相談して審判部を立ち上げ
ようである。この審判員総合登録制度が発足してまも
れているようにリッチになり、協会全体も多少潤った
とになり、どこでも審判部は円滑な審判活動が展開さ
度実施に伴い、日本協会お墨付きの金儲けが出来るこ
して細々と運営されていたが、この審判員総合登録制
通常の都道府県協会では、選手登録費を主な財源と
た。
そ の 結 果、 こ れ ま で 選 手 権 大 会 を 実 施 し て き た 都 道
選手は、チケットピアで「登録選手証」を提示すれば
Lリーグの発足や各種大会の開催が始まり、それに連
たことになり、点在する女子プレーヤーに参加の機会
府 県 は 6、
回に2と全国
の足並みが完全に揃うのに
会を構築し実施した都道府県は
の が 6、
、
認された。まさしく大改正であった。
回大会に向けて新たに都道府県選手権大
割安料金で購入できたし、大会当日窓口で購入も出来
年の世界選手権ベ
回)に上った。特に話題と
は2―3年が経過したが、その結果、参加チーム数は
全 国 6, 1 0 7 チ ー ム(
なったのが、2種の登用であった。立案当時、若手協
判員でもあり審判委員会委員でもあり審判の世界のこ
「 久 保 田 さ ん、 審 判 部 や っ て よ!」 私 は、 元 1 級 審
片手に帰宅して開口一番「お父さん!8千円も取られ
講習会を受講しに行った。競技規則・4級ワッペンを
た長男が、東京都サッカー協会審判部主催の1日審判
なくの頃、東京都社会人サッカーリーグに所属してい
全日本女子サッカー選手権が開催され、
と は 知 り 尽 く し て い た。「 何 す ん の よ?」、
「あいつの
第一回全日本ジュニアユースサッカー選手権において
困惑しきっていた。審判部長席に座ってまもなく、予
浅見先生も教職を退かせて協会に誘い込んだ張本人、
スクール講師7~8人も常駐していた。小倉会長に
「審
時審判部は3~4人であったが何と
その結果、
ッカー選手権大会]の開催方法を大幅に改革すること
や競技人口の拡大など、解決を急がねばならぬ問題が
は、9地域代表チームの内訳は、九州・東北・北海道
算折衝で例年通り6500万円要求したら、すっぽり
判部にたくさんいるけど、実績上がってんの?」と尋
初年度
表 に、
回 で は、 高 校 チ ー ム 3 チ ー ム が 都 道 府 県 代
回 大 会 の 1 回 戦 で は、 鹿 児 島 実 業 が J F L コ
市立船橋高や鹿児島実業高ら
し た。
10
昨年久しぶりに日本協会の御殿を訪ねたところ、当
名に膨れ、審判
20
たよ。超信じられねー!何これ!?」
により、同選手権は歴史と伝統、権威、競技レベル、
多かった。女子は長い間日本協会の蚊帳の外にあった。
が地域選抜、北信越・東海・関西・中国・四国が県選抜、
4000万円に削られた。事務局長曰く、「自分で稼
ねたら、「ワールドカップで日本の審判員が笛を吹い
が拡大した。
年 3 月 に開 催さ れ た
ュニアサッカー選手権では、単独チームのほかに複数
年オリンピック代表権を確保し、競技全体
が大きな進歩を遂げてきた。しかしながら、男子のサ
の「選抜チーム」が参加した。
大会規模などすべての面において、日本サッカー界最
やっと女子委員会が発足して女子登録も男子に倣って
関東のみが単独チームとなった。これらの新しいシス
いでくれ、とにかく金がないんだ」と下を向いた。ク
スト8で
ッカーに比べると、歴史は浅く、その規模はまだ小さ
た。
かくして、日本サッカー協会はJFAニュースNO
かった。活動環境の未整備、指導者不足、女子チーム
部 長 ) が 口 を 尖 ら し て「 部 長、 天 皇 杯 に 高 校 も 入 れ ま
高の大会という位置付けがより明確になった」と高ら
1種から4種まで区分されていた。豊島事務局長は、
テムについては、導入当初なかなか理解されない面も
年7月開催された第一回全日本女子ジ
周年を契機に[天皇杯全日本サ
し ょ う よ!」「 あ っ そ う ね!」 で 決 定 し た の が 懐 か し
かに自画自賛し、そのシステムは今日に引き継がれて
変革に避けて通れない選手登録を扱う登録部長を兼務
161で「協会創立
回では6チームが代表決定戦で敗れたものの
いる。国立での天皇杯決勝運営を日本協会から東京都
てますよ!」と胸を張った。
く思い出される。
チームが代表権を獲得
ールに考えた。金集めについて、他の業種や組織を見
会職員の中で頭の柔かい小野沢洋君(現ミュージアム
病気を治して欲しい。治るまで部長やっててよ」。
80
回に実施できた
た。協会から前売りを購入したチームのコーチが、部
れて日本女子代表の強化が進み、
事業部・女子部と3年ずつやった時、豊島事務局長
11
員をゾロゾロ連れて開催会場に向う姿を見て嬉しかっ
天皇杯開催規程の大幅な見直しにより、都道府県協
エントリー制の大会を建前とすることであった。具体
道府県協会は潤った。その一部を日本協会に上納させ
敵なしの社会人事務局長と社会人出身の私とは意見の
チームを編成して参加でき、全国大会である「全日本
改 革 の 基 本 理 念 は、 天 皇 杯 は 全 登 録 チ ー ム で の フ ル
的 に は、 ① 都 道 府 県 協 会 は、 1 種・ 2 種 の 全 チ ー ム に
た。日本協会が一番儲かったのは言うまでも無いこと
相違は無かった。協会を占拠するマンネリ事務局の中
女子ジュニアサッカー選手権」と中学生年代を対象と
47
あったが徐々に各地域やチームに浸透していった。そ
96
95
77
すると同時に、自ら女子委員会委員長を兼務した。そ
96
47
77
サッカー協会に移譲した結果、東京都協会は潤い法人
75
33
会もそれぞれのレベルでの審判活動を円滑にするため
都 道 府 県 代 表 チ ー ム を 決 定 す る。 ② シ ー ド 出 場 枠 を J
であった。又、チケット部長と言われた実績の一つに、
に、改革を行える環境が整っていった。彼は女子の実
76
全日本サッカー全主権大会実施要領として審議され承
96
のに改められた。具体的には、従来の大会と比較して
[審判部]
リーグ・JFLリーグに大学チームを加えて拡充した。
天皇杯を登録選手に気軽に観戦してもらえるように、
―事業化―
10
した「全日本女子ジュニアユースサッカー選手権」で
96
情を常に憂えていた。
決めた。
を開き、広告費収入も組み込んだ。地域の企業が競技
第
47
場に広告を掲出して協賛してくれた。
れた以外の大多数の女子は、他の種目に流れていった。
し続けてきた歴史があるだけに、携わってきた指導者
98
の立場上、簡単には行かないのは想像できた。
99
稚園でプレーしいた女子は受け入れるチームは小学校
18
95
には無かったので、例外的にサッカークラブで続けら
37
37
95
権 大 会 を 思 い 切 っ て 改 革 し、 各 自 治 体 や 地 域 の 産 業 界
32
の協力が得られるように枠組み作りに着手することに
75
天皇杯1・2回戦の前売り券については、通常の券よ
95
76
78
76
77
77
97
The Yushokai Shimbun
2012 年(平成 24 年)3 月 1 日
(5)
国 立 住 人 の 外 岡 さ ん か ら「 三 味 線 を 入 れ た
そ の 後 の 歓 談 で は、 現 役 陣 の 2 部( 東 京
菊さんが述懐していました。
り面白くまた懐かしいものです」と高田
人 の 一 年 ぶ り の 挨 拶 は、 そ の 生 活 が わ か
してのサッカーとの係わりについて述べます。
る こ と に な り ま し た。 こ こ で は 私 の 社 会 人 と
社 に 就 職 し ま し た の で、 本 社 所 在 地 で 勤 務 す
私は昭和 年(1954年)の卒業生です。
宇部興産という山口県宇部市を本社とする会
員 と し て 駆 り 出 さ れ ま し た。 そ こ で 担 当 の 労
秋 ご ろ だ っ た で し ょ う か。 社 内 で ラ グ ビ ー
大 会 が 開 催 さ れ ま し た。 私 も 本 社 チ ー ム の 一
になっていました。
習がてら出掛けることが自分のトレーニング
な も の が 一 応 揃 っ て い ま し た か ら、 休 日 に 練
最初は同好の士といっても練習場所もボー
ル も あ り ま せ ん。 高 校 の サ ッ カ ー 部 に は 必 要
れたということです。
秋の大会は宇部市が会場だったので呼び出さ
流 れ た か 知 る 由 も あ り ま せ ん が、 高 等 学 校 の
受講しました。
県 サ ッ カ ー 協 会 が 主 催 す る「 審 判 講 習 会 」 も
と い う 立 場 で 多 く の 試 合 を 経 験 し ま し た し、
昭和 年から 年まで再び宇部本社の勤務。
この時は宇部サッカー協会の理事長を担当す
思います。
昭 和 年 か ら 昭 和 年 ま で が 東 京 勤 務。 こ
の時は小平のグラウンドに足しげく通ったと
す。
処かのチームに入れてもらったように思いま
昭 和 年 か ら 年 ま で が 大 阪 勤 務。 こ こ で
は 会 社 に は チ ー ム は あ り ま せ ん で し た が、 何
桐の間」にシニア有志の
名が集まり、
)
、高
)
、 石 井・ 高 田 勝
)
、 外 岡(
昼食を兼ねて歓談する会を開きました。
)、 神 代(
出 席 者 … 奥 村( 昭
田 菊(
( )、志摩・中岡・橋本・松丸( )浅井・
佐竹・中路( )、岩坂( )
会 か ら「 部 」 へ と 展 開 し て い き ま す。 2 つ 目
た。 試 合 の 相 手 は コ ー チ を し て い る 宇 部 高 校
の親善試合を入れてもらうことが実現しまし
この宇部本社勤務は同一ポスト(人事課長)
で あ っ た た め に、 転 出 を 希 望 し て い ま し た。
る と と も に、 宇 部 興 産 チ ー ム の コ ー チ 兼 選 手
一人でも多くの有志が参加されることを
で す。 私 に 関 す る 情 報 が ど う し て 県 の 協 会 に
リュックを背負って中央線に乗れるうちに、
都 リ ー グ ) 昇 格、 F C 東 京 の J 1 復 帰、
会社に入って驚いたことに各工場や炭鉱な
どに「ラグビー部」はあるのですが、サッカー
務部と交渉して決勝戦の前座としてサッカー
平均年齢は傘寿にも ―関東酉松会有志の会
皆さんに端唄を」との有難い申し出がありま
なでしこジャパンのW杯活躍の期待など
部の「サ」の字も無かったのです。
サッカーと係わった
社会人生活
した。
が話題にのぼりました。
た が、 多 少 の 造 作 が
ことになりました。
そ の 結 果、 新 潟 営 業 所 に 所 長 と し て 赴 任 す る
し た。 経 験 者 が 半 分 い ま し た か ら、 結 果 的 に
で す。 当 方 も 同 好 の 士 を 募 っ て 試 合 に 臨 み ま
を し た こ と。 た ま た ま 同 校 の 教 頭 に 旧 制 中 学
ま り、 訪 ね て い く と
就職後大阪勤務が決
ま で 寝 て い た こ と、
高級焼酎を飲み翌朝
ている。
会 食 会 で の 一 番 若 手 の 宮 脇 は、 ま だ 東
大+一橋OB対京大OB対抗戦で活躍し
くから、参加頂いた。
団 の 団 長 で 方 々 を 回 ら れ ご 多 忙 の 中、 遠
神 代 さ ん は、 山 口 県 東 部 の 如 水 会 支 部
長 は 漸 く 退 か れ た も の の、 山 口 県 交 響 楽
平成8年5月、永年酉松会の発展に尽力され
た瀬藤先輩が亡くなり、7月「偲ぶ会」が開催
1958年(昭和
ヤーである。
=ボルトシステムを披露した。
大会で、ハンガリーが初めて4・2・4システム
にも、まだW・Mシステムが主流だった。この
3:2でハンガリーを下して優勝した。世界的
リーに3:8と大敗した西ドイツが決勝戦では
場、決勝戦に臨んだ。しかし、予選ではハンガ
で無敗のハンガリーが4バックシステムで登
年配の人が工藤監督だった。その頃の日本では
の う ち 若 い 娘 さ ん が 迎 え に 来 て 退 場 し た。 そ の
しているように見えたが、誰も逆らわない。そ
ラウンドに入ってきた。早大の選手に何か指示
東伏見での早大との練習試合の途中、野球の
ユニホームを着た小太りの年配の酔っ払いがグ
した。
年卒)
勝利しました。
サントリーのダルマ
私 個 人 の 話 で 恐 縮 で す が、 こ の 2 日 後
に は、 パ ナ ソ ニ ッ ク 如 水 会 に 参 加、 後 輩
された。その席で、年に1回くらい、仲間で集
松丸 鉱市(昭和
時代の担任の先生が赴任してきたこともあっ
(新潟以降のことは次回ということにしま
す)
は地元の県立宇部高校のサッカー部のコーチ
的な原形はとどめて
いるようです。
)
て 実 現 し ま し た。 3 つ 目 は 多 少 の ず れ は あ り
を出していただいて
の 樫 原( 平 成 元 年 卒 ) と 初 対 面 し た。 彼
まろうということになり、9月9日に昭和
年卒)
感 激 し、 残 っ た 分 を
の 奥 様 も 前 述 の 宮 脇 同 様、 サ ッ カ ー 部 マ
当時のメンバーで集まることになった。
神代 祥男(昭和
頂くなど大変お世話
ネージャーだったと言うことで、サッカー
ま す が、 県 サ ッ カ ー 協 会 の 審 判 を や っ た こ と
になった。
の縁の素晴らしさを感じた次第です。
)
、 柴 田(
)
、宮脇
)
、宮脇
柴
田 暁
年卒、パナソニック勤務)
し3部で優勝し入れ替え戦で学芸大を破った防
日体大・武蔵大、それに前年関東リーグに加盟
この年の関東リーグ2部は、前年成績順に並
べると、日大・東大・上智大・青学大・一橋大・
システムと評していた。
フォーメーションで臨んだ。世間ではボルト・
を 採 用 し て い た が、 工 藤 監 督 の 早 大 は 新 し い
B・C・Dの4グループに分かれていた。
回しに対して、早大の戦法はゴール前にロビン
ド 小 石 川 蹴 球 場 が、 後 楽 園 の 隣 に 建 設 さ れ た。
0:1で惜敗した。試合内容は「六十年史」に
な っ た。 試 合 は 前 半 コ ー ナ ー キ ッ ク か ら 失 点、
大・ 東 大 戦 が 小 石 川 蹴 球 場 で 行 わ れ る こ と に
リ ー グ 戦 で の 東 大 と の 対 戦 記 録 を 調 べ る と、
戦前は、関東1部で昭和 年に勝っただけだっ
は違い4・3・3のように見えた。
る、ハンガリーの4・2・4=ボルトシステムと
関 西 学 院 大 の CF 李 を 中 心 と し た 華 麗 な パ ス
リーグ戦の会場は、1部が国立競技場、小石
川蹴球場を主に使用、2部は東大御殿下か東大
グを上げてなだれ込むパワープレーで、いわゆ
ほ と ん ど の チ ー ム が W・ M フ ォ ー メ ー シ ョ ン
衛大が昇格してきた。当時3部は チームがA・
年
年
会の名称は石原良三さんの発案で「救球会」、
会長には時のキャプテンの鈴木久也さんを選ん
回となる。
日の一橋
カ国が参加したサッカー競技では、日本はC
譲る。
月
月
0:2と連敗し、予選で敗退した。
そ の 年 の 早 大 は 八 重 樫 が 卒 業 し て 抜 け た が、
川渕・宮本(征)が入り、名将工藤監督に率い
農学部を使用した。たまたま、
6月、第6回ワールドカップ大会がスウェー
デンで開催され、 歳のペレが活躍したブラジ
昭和 年5月、第3回アジア大会が東京で開
かれた。そして本邦初のサッカー専用グラウン
まで回を重ね
だ。以後、毎年9月9日に集まり、昨平成
関東を制した早大が、関西リーグで優勝した
関 西 学 院 大 を 小 石 川 蹴 球 場 で 4: 2 で 下 し た。
年)は、メモリアル・イ
1958年
高橋朝次郎さんに
は鎌倉の自宅に伺っ
)
、 佐 竹(
)
、嶋
た 時、 奥 様 が 出 て こ
田(
松本(昭
ら れ「 ア ダ ム ス ミ ス 」
の話など質問攻めに
春の部(4月 日) 参加者
)
、篠宮( )
、神代(
宅 に 招 か れ、 そ こ で
こうして翌年からは「部」として認められ、
県内の大会には出場が可能になりました。
期待しています。
● 一 人 ひ と り の 近 況 報 告 を 耳 に し て「 各
卒業以来久しぶりという岩坂氏が今回出席
者の最若手です。前年と同じように、関西方
● 今 年 も 夏 前 に こ の 会 を 開 く 予 定 で す。
● 出 席 の 返 信 連 絡 の 中 で、 卆 寿 組 で 本
36
変わってもあの個性
は 生 き て い る 」 の 川 柳 が 寄 せ ら れ、 同 じ く
面から神代・中岡・佐竹の3氏が遠路はるば
仕事の傍ら取り組んだことが3つあります。
1 つ は 同 好 の 士 を 集 め る た こ と。 こ れ が 同 好
日、 一 橋 ク ラ ブ「 梧
る参加しました。
皆さんとの歓談を楽しみにしています。
年6月
会初参加となる奥村さん
(上述の出席者の平均年齢は傘寿を超えまし
42
33
36
42
●平成
か ら「 予 定 表 こ な せ る 中
会い参ってしまった。
)
秋の部(
(
神戸一中から来た松浦 厳さんは、中学4
年の時の全国制覇のメンバーで当時の関東
松本、篠宮、神代、中岡( )
、嶋田、佐竹、
)
、柴田、松沼(
(昭和
います。
日)参加者
秋 の 部 で は、 小 生 は 前 日 に 東 京 如 水 会
リーグ1部でも出色の選手だった。ちなみに
村林(
月
年サッカー部同期会(出席8名)
当時の神戸一中、現神戸高校は、全国制覇を
出席に続いての酉松会連荘となった。
館で
数回もする超強豪であった。
家でタイヤと米を交換して、ようやく食事に
さらに篠宮さんからは、当時の合宿は米が
なく、先輩の会社のコネでタイヤをもらい農
な お、 次 回 は 4 月 日( 水 ) に 開 催 し
ま す の で、 若 い 皆 様 の 参 加 を お 待 ち し て
名 が 参 集 し た 秋 の 部 で は、 松 本 由
之さん(昭和 年卒)より、
一橋サッカー
部の初期の大先輩の話があったのでご
紹介したい。
ありつけたという話が紹介された。
29
組に入り、フィリピン、香港と対戦したが0:1、
た。 2 勝 目 は 瀬 藤 先 輩 が 亡 く な っ た 平 成 8 年
日、小平グラウンドで1:0で勝った。3
CF 志 賀 を 擁 し て い た。 志 賀 は リ ー グ 戦 に は
られていた。慶大は二宮・耳野の両ウイングと
ナイターで、2:1で逆転勝ちした。
勝目は、その
日巻 久匂男(昭和
年卒)
年、東大御殿下の
ルが、4・2・4システムを採用して優勝した。
登場しなかった。リーグ戦前の練習試合で早大
年後、平成
4バック・システムを最初に採用したのはハ
ンガリーである。1954年、第5回ワールド
には1:2で破れたが、慶大には2:1で勝利
37
卒 業 式 の 時 に、 松 本 正 雄 大 先 輩 の 自
10
15
18
22
23
31
大先輩の話に花が咲く ―関西酉松会
27
11
33
51
10
20
49 31
33
23
年から国際試合
カップがスイスで開催され、
50
23
28
29
16
13
14
22
29 21
昨 年 も 春、 秋 の 2 回、
会食懇談会を行った。
31
29
46
27
11
33
32
26
10
40
62
33
17
26
26
46
14
32
関東酉松会有志の面々(一橋クラブにて)
32
30
東西酉松会有志の会
46
10
(6)
The Yushokai Shimbun
2012 年(平成 24 年)3 月 1 日
今でもにやけて来るシーン。
家族・友人・知人の名前。安否。
都1部との入れ替え戦を余儀なくされていま
リーグ戦が始まった3年生からは、毎年東京
我々が2年生時に、関東リーグ2部との入
れ替え戦に勝利し昇格しましたが、2部での
頂きました。社会人になっても、たまに広島
家を訪問したときは、私の実家にも泊まって
宿に寝泊りし、夏休みに倉田君が奥さんの実
させて頂きました。学生時代は、お互いの下
ている関係で、学生・社会人を通じて親しく
行に勤めていた倉田君と同じ広島県に勤務し
さんと実家が同郷であること、さらに広島銀
い ま で も 夢 で 見 る、 や り 直 し た い、 あ の プ
る・・・。
逆サイドに流れていくボールを呆然と見送
・・・
はゴールに流し込むだけ。
竹内さんからのグラウンダーのクロス。あと
ンド。同点で迎えた後半。
降格のかかった入れ替え戦。東大本郷グラウ
2年生のときかな?
入れてくれる“もとき”
。
たタクシー。
遅刻しそうになって、おばちゃんと飛び乗っ
朝から猪岡と食べたスタ丼。
バイトのやり過ぎで、倒れた炎天下の2部練。
二日酔いで迎えた練習試合。
茶。
藤の木の“ふぶきチキン”の後のあまーい紅
泥だらけの部員。
みなさん、
それは、僕の大切な大切な“たからもの”
。
を作ることが出来ました。
これまで、たくさんの人とたくさんの思い出
思い出。
家族の写真。家族のにおい。
の。
瓦礫と化した自宅の前で見つけたかったも
人とのつながり。
同 期 の 倉 田 徹 君 が、 約 3 年 に お よ ぶ 闘
病 生 活 の 後、 昨 年 月 日 に 亡 く な り ま
した。それでも全部員の総合力で、何とか4
や彼が出張の折に福山で飲んだこともあり、
レー。
「ありがとう。」
雨の日のシャワールーム。全裸でふざけ合う
年の卒
年生時まで2部に残留することができまし
永年の間、楽しい時間を共有させてもらいま
首都高で車外に投げられるサジのパンツ。
そして、
恩返し
業までの4年間、共に小平で練習したサッ
た。
した。
4年だったかな?
追いコンで、寝ゲロしてる阿部と日影
これからも人と人との“つながり”
、“思い出”
う と し た 矢 先 で、 早 過 ぎ た 人 生 で し た。
カー部同期
22
私は個人的にも、一時期武蔵境で下宿が近
かったことや、学生時代から交際していた奥
人。 よ う や く 還 暦 を 迎 え よ
その間倉田君は、3年生の頃から先輩主務
について学連の打ち合わせに頻繁に出席し
1点差で負けている試合終了間際の薫からの
良い思い出。思い出したくない思い出。たく
を大切に生きていきたい。
倉田徹君のこと
心からご冥福をお祈り致します。
て、 リ ー グ 戦 や 春 の 1・2 部 交 流 戦、 練 習 試
上京の折のサッカー部の懇親会に、闘病中
にも拘わらず奥さん共々出席してくれたこと
スルーパス。
さんの思い出たち。
51
12
年の大学入学から
倉田君は広島出身で、入学当初からサッ
カ ー 部 に 入 部 し、 特 に 4 年 生 時 に は ク ラ
合の調整はもちろん、遠征や合宿の事などに
が思い起こされ、自分が苦しくても人に嫌な
チョン。
し た。 昭 和
ブ の マ ネ ー ジ ャ ー( 当 時 は「 主 務 」 と 呼
奔走して頂き、学連の中でも重要なポジショ
顔を見せず、いつも相手のことを考えて言動
ボールの行方を見ずに、コーナーポストで両
それが、
今出来る唯一の恩返しだと思うので。
そんな大事な“たからもの”を与えてくれた、
ん で い た ) を し て 頂 き、 学 連 の 窓 口 と し
ンを築き上げてきました。明るく物おじしな
を取ってきた倉田君の生き方は、皆が認める
日。
須田 尚宏(平成 年卒、
サントリービア&スピリッツ)
こうした年の瀬のある日、高校時代の同級
生であるM君の奥様から一通の欠礼挨拶状を
になっていました。
るうちに、昨年後半は、どうも重たい気持ち
ギングができなくなる。そう、残念なことは
う生きていくか見られなくなる。好きなジョ
いしいものが食べれなくなる。子供たちがど
話ができなくなる。一緒に遊べなくなる。お
や家族のみんなの顔を見れなくなる。楽しい
た。平日は、暗くなるまで練習し、その後は
大学時代の4年間は、まさに自由奔放に過
ごしており、生活の中心もア式蹴球部であっ
く異なっている。
あるが、振り返ってみると、その内容は大き
立・小平で大学生活を過ごした年月と同じで
てしまう危険があることなど、懸念すべき事
公民館の掲示板に探したもの。
2011年3月
「 定 食、 大 盛 り、 た ま ご!」 ス パ イ ク の ま ま
てサッカー部に貢献して頂きました。
い性格で、ひょうきんな一面もあり、誰とで
手を広げて振り返る。
飛び込んでくるみんなの笑顔を待ちながら。
ところであり、今更ながらその有難さに感謝
しています。合掌
佐藤 健太郎(昭和
また、昨今では、復興増税や消費増税の議
論 に お い て、
「 ま ず、 国 有 財 産 を 売 却 し て 財
受取りました。この夏、M君が病で逝去され
いっぱいある。まだまだあるだろうね。本当
夜遅くまで部の友人と如水スポーツプラザに
近で見聞きし、勉強することができた。3年
項も多く、頭を悩ませているところである。
年卒)
も打ち解けあって話し合える雰囲気を持って
いたからこそ、やり遂げられた仕事だと思っ
ています。我々は全く倉田君に頼っていまし
た。
卒業から4年を経て
源を捻出せよ」との声もある。国民の負担を
少しでも軽くすることができるよう、国有財
たという連絡でした。毎年年賀状を遣り取り
は怖いん じゃないんだ。すご く残念なんだ。
入浸っていた。休日は、練習後、自分たちの
目は、政策金融関連の法案作成に携り、法律
産の分野においても、出来る限り国家財政に
しており、特に病気がちとは聞いていなかっ
残念なことがいっぱいあるから怖いと思っ
試合のビデオを見ながら反省会をすること
を作るということを知るとともに、法案審査
合 う 幸 運 も あ り ま し た が、 や は り 昨 年 の
蹴球部の東京2部復帰という慶事に巡り
や や 身 び い き で す が、 わ が 一 橋 大 学 ア 式
い う 途 方 も な い 快 挙 に 興 奮 し、 更 に は、
昨 年 の 日 本 サ ッ カ ー 界 で は、 な で し
こジャパンの女子ワールドカップ優勝と
転院した地元の病院で、五九歳の若さで逝去
そうした矢先、ここ数年、厳しい病で闘病
中のわが部同期の倉田徹君が、専門病院から
ました。
君が書き残してくれた「残念なこと」という
年が変わり、新年を迎えた今でも、重たい
気持は相変わらずですが、亡くなられた倉田
役所に籍を置くこととなった。
田氏(平成5年卒)の勧めで、大学卒業後は
そんな私であったが、就職活動における巡
り合わせもあり、ア式蹴球部の先輩である森
産、株式等)の管理・処分に関する総括的な
現在は国有財産行政を担当する部局に身を
置 き、 一 係 長 で は あ る が、 国 有 財 産( 不 動
だ。
言える肝っ玉は、非常に有難いものであると
もめげない根性や、誰にでもずけずけと物を
間ではあるが、その中で感じたことは、ア式
りつつあると感じている今日この頃です。
や、政権交代後に民主党政権が行った「事業
それを実行すべく予算編成を行っていく過程
1、2年目 は、未曾有の経済危 機に対応す
るため、
政府として累次の経済対策をまとめ、
る国有地の貸付といったような新しい試みも
社会福祉や医療、子育てのための施設に対す
年は「国有財産の有効活用」という観点から、
的な印象を持たれるかもしれないが、ここ数
職務を行っている。国有財産と聞くと、保守
う。
維持出来るよう心掛けていただければと思
が言える風通しの良いチームを、これからも
様におかれては、学年の上下に関係なく意見
いうこと。こうした実体験もあり、現役の皆
蹴球部時代に鍛えられた目上の人に叱られて
とは、貴重な国民共有の財産の価値を毀損し
日 本 は、 東 日 本 大 震 災 と 福 島 第 一 原 発 事
されました。転院前後に病院を訪ね、僅かな
言葉の重みをしっかり受止めながら、自分な
倉田君、同級生のM君、そしてこの大震災
で亡くなられた多数の被害者の方々に合掌
仕分け」を踏まえて歳出削減を行っていくや
木内 秀行(昭和
年卒)
いました。
故 に 象 徴 さ れ る、 言 い よ う の な い 辛 い 年
りに前進しなければいけないとの気持ちにな
月
ない辛い日となりました。
葬儀の日、会場に掲示されていた闘病中の
倉田君の一文に目を惹かれました。
ごさせて貰いました。
日も言いようの
今 年 は 壬 辰 の 年、 昭 和 年 生 ま れ の 私
は、 秋 に 還 暦 を 迎 え ま す が、 来 年 は 定 年
の 年 齢 を 迎 え る と い う 状 況 に 加 え、 自 身
の 健 康 問 題 や、 い ろ い ろ 報 道 さ れ て い る
22
『…ただ、
残念なことはある。長年連れ添っ
てきた女房や子供たち、それぞれの連れ合い
20
突然人生の幕を下ろさせられてしまった、
多くの震災被害者の無念さに思いを寄せ
行っている。
影山 昇(平成 年卒、財務省勤務)
り取りなどを、財政当局の一係員として、間
51
12
であったように思います。
時間でしたが、奇跡を祈りつつ、同じ時を過
市況が悪い状況で国有財産を拙速に売払うこ
幅が狭まる可能性があることや、今のように
においては国が国民に提供できるサービスの
ある国有財産を手放すことにより、ある部分
国が施策を行う上での重要なツールの1つで
貢献していくことが求められている一方で、
た彼が亡くなるとは、突然の訃報に愕然とし
ちゃうんだよ。…』とその文章には記されて
や、部の友人宅に上がり込んで居座ることが
「このごろ思うこと」
14
目まぐるしく変化していく環境の中で、悪
戦苦闘しながら一歩一歩進んできたこの4年
平成 年立春、大学を卒業してから早4年
が過ぎようとしている。4年間といえば、国
11
から国会審議、成立・施行に到る過程を学ん
24
多かった。
51
47
11
追悼
27
The Yushokai Shimbun
2012 年(平成 24 年)3 月 1 日
(7)
みた。問題提起の意味で私見を述べたい。
視 し、 将 来 的 に で き る こ と は な に か を 考 え て
う か。 そ こ で グ ラ ウ ン ド に つ い て、 現 実 を 直
が あ る こ と も 確 か で あ る。 そ こ は 現 実 を 見 つ
レ ー ニ ン グ 方 法 や、 恵 ま れ て い た こ と も 不 足
グ ラ ン ド だ け で は な い、 設 備 や 育 成 方 法 や ト
実は安住していたのかもしれない。もちろん、
ついて述べてみたいと思います。
《将来のために》
め、 謙 虚 に、 競 合 相 手 や 世 の 中 に 学 び、 こ れ
は 覚 え て お ら れ る 方 も い る か と 思 い ま す が、
・人工芝や天然芝への可能性をメーカーや施
グラウンド問題を考える時
か。 す な わ ち、 そ の 数 だ け 多 様 な 民 族 が 生 活
む か し も 今 も、 小 平 の サ ッ カ ー グ ラ ウ ン ド
は、 関 東 ロ ー ム 層 そ の も の の よ う な 黒 土 に 覆
工会社の技術進歩についてヒアリングを行
分け合い、道を切り開く活動が必要だろう。
み な さ ん、 世 界 に お よ そ 5 ~ 6 千 の こ と ば
(言語)が話されていることをご存じでしょう
年、私が大学4年の時、同じ東京1部リー
グの青山学院大学の1年生に上田栄治さんと
し て い る と い う こ と で す。 し か し、 そ の う ち
わ れ て い る。 諸 先 輩 の 時 代 か ら 現 在 ま で 同 じ
な っ た。 サ ッ カ ー グ ラ ウ ン ド 1 面 を 人 工 芝
印象深い「上田栄治さん」についてお話します。
いう人がいました。上田さんは1年からレギュ
毎 年 数 十 の 言 語 が 消 滅 し て い っ て お り、 今 世
環 境 を 維 持 し て い た だ き、 日 々 の ト レ ー ニ ン
岡田監督との交友
東京都リーグ2部昇格の達成、現役の皆さ
ん の ご 健 闘 に、 心 よ り お 祝 い 申 し 上 げ ま す。
ラーと技術力があるだけではなく、そのマナー
紀中に半減すると危惧されています。
に す る に は、 標 準 的 な 品 質 で @ 5 千 万 円 と
が
O B と し て も う れ し い 限 り で す。 今 年 度 の、
の良さに感動、上田さんが青学卒業後日本リー
グ と 公 式 戦 の 舞 台 と な っ て 来 た。 冷 血 漢 に 見
(秋季リーグ戦などで、今の小平の姿、ご覧
に な り ま し た か。 ホ ー ム ペ ー ジ で、 試 合 の 映
か ら の 学 生 の た め、 相 応 の 負 担 を 学 生 と
更なる飛躍を期待しております。
グ で 活 躍 さ れ た 時 代 も、 試 合 翌 日 の 新 聞 で 上
い う 話 も あ れ ば、
億 円 程 度 で、 最
えたGMの吹く笛のまま泥まみれになった部
田 さ ん の 活 躍 ぶ り を 追 っ て い ま し た。 そ の マ
~
大 き な 理 由 は、 そ の こ と ば を 話 す 民 族 が 属
す る 国 家 の 言 語 政 策 に 大 き く 因 し て い ま す。
小生、偶々縁あって、前日本代表監督岡田
氏と知己を得、自宅が近所でもあり、時々飲
ためにはやむを得ないのかもしれません。
とは、充分に、ありがたく恵まれたことであっ
が あ る が、 一 方 で、 芝 の 育 成 に は 夏 の 大 切
追伸
像 が ア ッ プ さ れ て ま す の で、 ぜ ひ ご 覧 を。 例
国 が 国 民 を 統 治 す る た め に、 政 策 の 一 つ と し
たとえば、日本の場合でも、アイヌ語、琉
球 諸 語、 八 丈 島 語 な ど は ほ ぼ な く な っ て し
た。しかし、どうやら、サッカーという球技は、
な 時 間 を 必 要 と す る、 日 常 の メ ン テ ナ ン ス
学 生 の 皆 さ ん、 の 皆 さ ん は、 3・ の あ
と、 東 北 へ 行 か れ ま し た か。 震 災 ボ ラ ン テ ィ
新レベルの人工芝が手に入るという提案も
ナーの良さとは、ある試合で対戦相手のフリー
フリーキック地点に戻したのです。
まっています。しかしながら、
“ことば”とい
贅 沢 な 芝 を 前 提 に 構 築 さ れ、 人 物 が 育 成 さ れ
の 負 担 は 大 き い、 そ し て な に よ り も、 天 然
ア も、 バ ス ツ ア ー な ど で も、 行 く こ と が 可 能
員 の 汗 と 時 に は 涙 を 吸 い 取 っ て き た。 私 を 含
みながらサッカー談義や、諸々の話をしてお
過ぎないとは思いますが)強い意志・信念を
そ の 後、 上 田 さ ん の こ と は 忘 れ て い た の で
す が、 年 ロ ン ド ン で ア テ ネ オ リ ン ピ ッ ク 女
うものは、人と人とがお互いの意思を通じ合
る 時 代 に な っ た、 あ る い は そ こ へ の 理 解 が 必
芝 の 耐 久 性 を 考 え た 利 用 方 法 を 考 え て、 走
で す。 少 し お 金 を 出 し て 出 か け て も、 復 興 の
え ば、 画 面 の 端 に、 何 度 も 練 習 相 手 に な っ て
て、 言 語 の 統 一 化 が 必 須 と い う 考 え が 強 く あ
持って、決めた事を遣り通す、という点にあ
子 サ ッ カ ー を テ レ ビ 観 戦 し て い た 時、 準 々 決
うための重要な道具であると同時に、その人
要 に な っ た の で は な い か。 私 は 最 近 つ く づ く
りこみや体力づくりの場としてはむしろ適
あ っ た。 コ ス ト は、 酉 松 会 諸 氏 か ら、 1 人
キックになった際に他選手が時間稼ぎのため
るように思います。代表監督を2度に亘りリ
勝対アメリカ戦後の監督インタビューで上田
の属する民族のアイデンティティーのひとつ
そう思うようになった。
め、 多 く の 皆 さ ん は、 小 平 か ら 始 ま っ た 大 学
ります。彼の持ち味は、
(小生の勝手な見方に
リーフ登板し、結果を残したことは、こうし
さんを見つけました。
でもあるはずです。それが、国家統一という
くれた、あのシュート板が、朽ちながら、そっ
遠くに蹴ったボールを自ら走って取って来て
た面がなければ中々なしえないのではないで
今 年、 再 度 思 い 出 し た の は な で し こ ジ ャ パ
ン が ワ ー ル ド カ ッ プ で 優 勝 し た 時 で す。 何 と
エゴのために消し去られていいものでしょう
す。 彼 の 出 発 に 際 し て の 言 葉 は、 こ
[ のチー
合計
だ。
ば、大きく発展する可能性があるのではない
点を決めたことを覚えている」とのご返事で
分がリーグ戦の対一橋戦でヘッディングで得
たのですが、上田さんは覚えておられず、
「自
の良かった上田さんの思い出を伝えてもらっ
サッカー協会に勤めているので、彼経由マナー
上 田 さ ん と は 直 接 の 面 識 は あ り ま せ ん が、
偶々知り合いの息子さんが青学を卒業し日本
消滅途上の言語を保護しようという機運が高
日 本 の 近 隣 諸 国( た と え ば、 台 湾 に は 以
上の少数言語話者民族もいます)においても、
ト民族系言語の復興支援活動など)
。
コ ン ウ ォ ー ル 語・ ブ リ タ ー ニ ュ 語 な ど の ケ ル
向に向かっています(たとえば、
ウェールズ語・
復 興 運 動 を 国 際 的 に 認 め、 そ の 助 成 を す る 方
で あ る こ と を 認 識 し、 失 わ れ つ つ あ る 言 語 の
ヨ ー ロ ッ パ( E U 諸 国 ) で は、 政 治・ 経 済
の 統 一 化 政 策 に 並 行 し て、 多 言 語 多 民 族 社 会
こ れ に 対 し て 小 平 は ど う か。 時 代 の 流 れ に
眼 を つ む り、 手 を こ ま ぬ い て い て い い の だ ろ
ウンドが多く見られるようになった。
「芝」は、既にコンセンサスとなっているか
の よ う だ。 大 学 で も 人 工 を 含 め「 芝 」 の グ ラ
基準も盛り込まれている。
そ こ に は 急 速 に 普 及 が 進 む「 人 工 芝 」 の 品 質
)によって制定されるサッカーの競技規
Board
則( Laws of the Game
) 第 1 条 に 定 義 さ れ、
協議やメンバーの負担ももちろん必要であ
も 調 べ た。 各 々 の 工 夫 が あ り、 大 学 側 と の
グラウンドの計画や資金調達活動について
設 営 し て い る ラ グ ビ ー 部 や、 陸 上 競 技 部 の
と も あ り ま し ょ う。 例 え ば、 被 災 地 の 学 生 と
ち ろ ん 大 事 で す が、 い ま 動 く こ と が 必 要 な こ
大 事 な 経 験 に な り ま し ょ う。 小 平 の 話 は、 も
り、 歩 み も 始 め て い る、 そ れ を 感 じ る こ と は
・天然芝は、初期費用は低く抑えられ、現実感
かと、一友人として、期待している所です。
した。又、社交辞令とは思いますが、
「機会が
な ど、 現 実 の グ ラ ン ド の 改 善 や 将 来 に 向 け
吉川 實
(昭和 年卒 協和発酵ケミカル社長)
」
シップの下で思考力と規律の強化が図られれ
サッカー界における、日本人指導者のパイオ
あれば一度飲みましょう」との嬉しい言葉も
まっています。
る。
上田栄治さんのこと
・ さ ら に、 小 平 の グ ラ ウ ン ド 上 の 盟 友、 ク リ
ムゾン ア
/ メリカンフットボール部と、「一
橋 大 学 の 資 産 戦 略 に お い て、 小 平 の 将 来 は
ど う な る の か 」、
「国立のスポーツ施設はあ
たらしくスタジアムすればいいではないか」
た 意 欲 的 な 案 に つ い て、 意 見 を 交 換 し て い
う に、 な に か 重 苦 し い
陣の踏ん張りによる
ました。
年 で し た。 そ ん な 中、 現 役
昨 年、 第 号 の 新 聞 を 発 送 し て、 ほ っ と 一 息 つ い
て い た頃 に 襲っ た大震 災。木 内さん の原 稿にあ るよ
編 集 後 記
西川 一郎
(平成2年卒 あおぞら銀行勤務)
しいです。頑張りや。
も し 大 学 間 で 実 現 可 能 な ら、 ぜ ひ 企 画 し て ほ
震災ボランティアやサッカーで繋がる活動が、
ニアとしての足跡を、いい形で残してほしい
頂きました。
私 の 属 す る N P O“ 地 球 こ と ば 村 ” で は、
その活動の基軸を世界の少数話者言語の研究・
《当面の課題》
はけなどを適正化するなどの現実的な取り
部復帰のニュースに励まされ
(昭和
年卒、相良 保彦)
には人の奢りが感じられてなりません。
し て は弁 解 に追 われた 日々を 思い 出しま す。
「想定」
う と いう 想 定外 の事態 に慌て ふた めき、 ゴール を外
にはうまく行かないスルーパスが足元にぴたっと合
行 き当 た りば ったり のサッ カー 人生、 想定通 りの
ゴ ー ルシ ー ンは 数える ほどし かあ りませ ん。練 習中
シャーの高まる入れ替え戦が4年連続とは。
す。 安 部 さ ん の 入 替 戦 連 続 物 語、 た だ で さ え プ レ ッ
協 会 人生、 サ ッカ ー界の 激変 ぶりが 活写 されて いま
久 保 田 さ ん か ら は 前 号 に 引 き 続 き「 協 会 改 革 の
日々」をいただきました。9年にわたる日本サッカー
2
る。
と思います。
こ の 様 に、 サ ッ カ ー は 楽 し さ だ け で な く、
人間形成にも貢献していると実感しています。
記録および復興運動への支援においています。
大 震 災 時、 そ の 人 々 は ど の よ う に し て 情 報 を
組 み に つ い て、 新 た な 提 案 を 募 っ た ら ど う
の 規 格 に 近 づ け る こ と、 土 壌 を 改 善 し、 水
得たのか、何が不足だったかを調査し、今後、
か。
ル の ト レ ー ニ ン グ の た め、 学 生 独 自 の 調 査
・人工芝での技術トレーニングや実戦スタイ
に 加 え て、 酉 松 会 の 財 産 で あ る
が“ ど う あ る べ き か“ 模 索 し、 提 言 し て い こ
うとしています。
の人脈を頼りに、近くの人工芝グランドを、
我 々 は、 あ た え ら れ た 小 平 グ ラ ウ ン ド に、
の方々
OB
希 少 に な っ た 動 物・ 植 物 の 保 護 へ の 関 心 は
一 般 的 に 強 い も の が あ り ま す が、 消 滅 し つ つ
定期的に優先して使用できる可能性も高め
たらどうか。
あ る 少 数 話 言 語( こ と ば ) に も 関 心 を 強 め て
年卒)
皆さんこんにちは。昭和 年、
“ア式蹴球部”
を 卒 業 以 来、 サ ッ カ ー と は 縁 遠 く な り、 今 は
そ こ で、 最 近 か か わ っ て い る“ こ と ば ” に
堀江 正郎(昭和
いってほしいと思う今日このごろです。
4
20
伝達手段としてのメディアや各自治体の体制
11
観戦ファンに甘んじています。
言語の世界にどっぷり
(昭和
今後もサッカーを楽しみながら過ごして行き
年)卒の酉松会会員に
矢尾板 健二
年卒 住友情報システム)
・小平グラウンドのフィールドの広さを、正規
こ と、 そ れ で も い ろ い ろ な 人 々 の 想 い が 集 ま
た め に、 少 し し か 手 伝 え な い 現 実 を 見 に 行 く
す)。
しょうか。
日本サッカー協会女子委員長は上田さんだっ
サ ッ カ ー の フ ィ ー ル ド は、 国 際 サ ッ カ ー 評
さないなど課題も多い。
議会( The International Football Association ・ 実 例 と し て、 既 に 国 立 に 人 工 芝 グ ラ ン ド を
1.2
30
たいと思います。
力の高い、若手の多いチームに、彼のリーダー
11
04
参照)
/2220?page=2
OB
あらためて考えれば、大学から無償に近い、
低コストでグラウンドの提供を受けてきたこ
ムの指揮を取ることは、白紙に自由な絵を書
た の で す。
( http://president.jp/articles/- か。
彼は、Jリーグのビッグクラブからの誘い
を断り、中国杭州緑城の監督に就任していま
く楽しみがある と
] い う も の で し た。 身 体 能
と 木 々 と 草 む ら の な か に、 今 も、 そ こ に い ま
OB
億円が捻出できるという数字の規模
生のスタートを、懐かしく憶えておられよう。
1.5
万 円 の ご 負 担 を 頂 く と、 総 勢 4 0 0 名 で
り ま す。 教 育 の 平 準 化、 情 報 の 共 有 化 な ど の
1.2
72
今 年 度 の 主 要 テ ー マ は、 在 日 外 国 人 は 日 本
の 中 で は 少 数 話 者 で あ り、 3 月 日 の 東 日 本
私自身、技術力はありませんが、やはりサッ
カ ー は 好 き で、 年 近 い 人 生 に 楽 し み と 感 動
を与えてくれました。
年スペインワールドカップのイン
1 9 7 2 年 に ペ レ を、 年 に ベ ッ ケ ン バ ウ
ワ ー を 国 立 競 技 場 で 観 戦、 1 回 目 の ロ ン ド ン
駐在時の
グ ラ ン ド 戦 の 観 戦、 そ し て 2 回 目 の ロ ン ド ン
駐在時の2002年日韓ワールドカップ期間
中 の 英 国 の 盛 り 上 が り( イ ン グ ラ ン ド の 試 合
年(
1
41
73
が始まると街中やお店に殆ど人が居なくなる
同期や昭和
41
等)を体験しました。
74
41
60
49
48
45
82
(8)
The Yushokai Shimbun
2012 年(平成 24 年)3 月 1 日