滞米はや 年 、 皆 さ ん こ ん に ち は した。 ております(と言っても国際不倫じゃありま の親戚もおり、いわば国際家族として過ごし 家 族 親 戚 も 日 米 に 別 々 に 出 来 て し ま い、 ニューヨークではクロアシア系のアメリカ人 カげたお先真っ暗な人生選択を行いました。 タントとして過ごしてきました。 本語の力を付けてニューヨークで私のアシス ればの話ですが。娘は日本の大学を経て、日 ち ゃ っ た の で す ね。 お 医 者 様 の や る 気 が あ 例を瞬間的に集め分析ができる世の中になっ センタリングを空振り、 年前の古傷 私が小 平でサッカーをしていた 1 9 6 0 年 代後半といえば、 年の東京オリンピックでベ 林さんも怖かったなあ。いつ終わるともなく続 選での韓 国 戦の方が記 憶に強く残っています。 的でしたが私にはむしろ、 その前のアジア予 でした。 メキシコでの釜 本 選 手の活 躍は印 象 得 するなどサッカーの人 気が上がり始 めた 頃 スト 8、 次のメキシコ大 会では銅メダルを 獲 てしまいました。我々同期の連中に聞いてみて 商業とは縁もゆかりもない我々も校歌を覚え 生に尾道商業の校歌斉唱を強要。 お陰で尾道 期 間 中、 広 島 出 身の三 年 生の天 野さんが一年 道商業が準優勝したことがありました。 大会 一年 生 最 後の春 合 宿の頃、 選 抜 高 校 野 球で尾 くダッシュの笛。今はあんなにやさしいのに。 日本では点滴治療 私はその病院に2週間も入院して何するの かって? 私は毎日朝から晩まで点滴をして います。アメリカやヨーロッパでは点滴は危 3で迎えた終 了 間 際、 韓 国の放ったミド せん。子供たちの選択結果) 。 で過ごし、残り一週間は新宿京王プラザにて 険だからと言って病院でも大怪我でもしない 3 過ごしております。 日本へは、毎年一回のペースで往復してお り、2週間は埼玉県久喜市にある長男の病院 年近くもアメリカに住 限りやってくれません。私の目的は血管循環 んでいると、中々簡単に日本へ引き上げるこ 障害後遺症の為の治療です。これで私は発症 へ。悲鳴とともに下宿の万年床の布団に突っ伏 ルシュートがキーパーの手を掠めゴールマウス 下さい。今でも、全員歌えますよ。 したその耳にバーをたたくカーンという音が響 年生の時の明治学院戦でのシュートミスの話で 後9年間も何とか生き延びられました。 きました。 今でもあの乾いた音が耳に残ってい す。土井さんからの当てれば入るというセンタ とができ難いのです。いずれどの国で終末を ます。 もし、 あのシュートが入っていれば、メ 忘れえぬ松本大先輩 此処で忘れられないのは、一橋サッカーの 創始者、松本正雄大先輩です。松本先生は若 私が一橋ア式蹴球部に在籍していたのは昭 和 〜 年でした。 戦後やっと食料不足の 時代も過ぎ、戦後復興の時期も落ち着きを取 迎えるか難しい問題ですネ。 さて日本の私どもの拠点の話ですが、長男 はアメリカ医大を卒業後日本に戻り埼玉県の 現在の医療技術の発達は恐るべきスピード ですが最近の分子生物学によれば突き詰めて り戻し、小平の体育館で夏の合宿を行ってい なり、ながらく第二弁護士会(民事関連)の ド田舎で先輩と共に綜合診療を掲げ先端技術 二年生にはよく遊んで貰ったり、 奢って貰い ました。でも 会 う 度にいわれるのが、 私 が三 会長を勤められ法曹界の要職を兼ねられまし 年卒) キャプテンは高峯さん。我々一年坊主から見 来る対象ではありませんでした。グラマネの小 同期は 人です。サッカー部だけにイレブン ということでしたが、卒業後、丸山君が亡くなっ 40 て 人となってしまいました。サッカーも学業 成績もイマイチの学年でしたが仲は良かったで すね。だからこそ 人も残ったのでしょう。 私にとって、 先 輩・ 後 輩 含 めたサッカー 部 仲 間と過ごした4年間は人生の大切な宝物です。 皆さんもそうでしょう?そう思える何かがわが 一橋サッカー部にはあるのだと思います。 小島 収(昭和 年卒) 東京都3部リーグ戦 平成 年度の東京都大学 部リーグ戦、一橋は7勝2 1点の重みに泣く 年以上経っているんですけど。 リングを空振りしちゃったんですよね。もう 異なった患者ゆえ、100通りの異なった治 キシコの銅もなかったわけです。 詳細は私のホームページ ね。 最近の文春をお読みいただければがん については現在何も基本的に見通しがないこ 祐三(昭和 今後の医学の進歩に期すること大です。 とが深読み出来ますね。 帰に向けてスタートした所でした。 一方、わが一橋サッカー部は私が入学する前 年に関 東 2 部リーグから降 格したばかりで復 療 方 法 が 可 能 に な る と い う こ と。 患 者 一 人一人に異なった薬や治療法を行うとなる と、スーパーコンピューターが必要になりま 参照乞う。 www.nokosoku.com 息子はニューヨークで高校のときから私の アシスタントとして日本のある中小企業の最 す。ニューヨークでは既に 言うと同じ病名の100人でも100通りの くして古河電工を辞められ独立して弁護士と 40 を売りに将来志向の地域医療を始めました。 が、サッカー部の財政的にも、卒業生の就職 に際しても大変お世話になりました。先生よ りはたとえ勤め人になっても自己を忘れず常 時研修し、悔いのない人生を送るよう教えて いただきました。 先端医療器のニューヨークの有名病院相手に もの。 目指すは日本の患者が志向する一流 大学病院、大規模病院を反面教師として患者 Mount Sinai Med るとほとん ど「オッサン」 で、 気 楽に話 が出 臨床テストの走り使いをやっておりました センターで治験が始まりました。 現在残さ れている大きな分野が脳疾患と癌の治療です が、日米両方の医師免許を取得し、希少価値 駐在員と言 う身分を捨て、然し 弁護士とか、 サービスに徹した医療を開始した。例えば埼 があるので日本で縁あって先輩と開業できた 会計士など、生きていくための専門資格を取 林 心から願っていると思います。 この2年は会場が関西であったにもかかわらず ざまなサポートにはあらためて心より御 礼 申 年卒) 容 赦 ください。 また、 会 員の皆 様からのさま リー グ戦で、 試 合に出ている選 手 も 出てい ない選 手 も一体になって、一所 懸 命 戦っている 代表幹事 46 帰国は年に 回 私の人生略 年をアメリカで過ごしており ます。 入社した東芝に 年勤め退職し、爾 後アメリカに移住し、結果的には日本本社の 得することもせず、家族4人を抱え、如水会 玉のド田舎の小さな 病院のデスクでITの 発達により全世界から瞬時に数百、数千の症 員の常識から言えば全く向こう見ず、全くバ OB戦の参加者は一橋が最多であり、 OB戦、 3 年 間 ありがとうござ い ま し た そ ういった 思いを一つに結 びつけているのが 酉 松 会ではないかと思います。 会 員の皆 様が くことはとても大切なことだと思います。 三 商 大 戦 が 幅 広い年 齢 層の交 流の場 として、 会員の皆様の距離を縮めるのに役立っていると ることができました。 過 去の財 産を取り崩し 代 表 幹 事 は 退 任 しま す が、一会 員 として、 会の発 展のお 役に立てること があれば、これ 酉 松 会に期 待されていることは、 それぞれ少 2008年、 引き受け手が誰もないという 状況の中、「2年間なら」ということで代表幹 いう手 ごたえを感じました。これに現 役 諸 君 ながら活 動して行くという流れにようやく歯 からも取り組みたいと考えています。 3年間、 定着しつつある感があります。 事を引 き受 けさせていた だきました。 当 初の もツイッターでの速報、 試合のハイライトシー 止めをかけることができそうです。これも会員 イしてきました。 試 合 結 果のメールでの速 報 予定よりも1年長くなりましたが、 酉松会の ンの動画掲載といった形で呼応してくれ、良い の皆様のご理解と、 現役諸君の熱心な寄付回 しずつ異なる部 分 もあるかと思いますが、 誰 運営には、できるだけ多くの方に関与していた 流れを作ることができたのではないかと思いま は、 多くの方 々から返 信をいただき、 現 役と だくのが良いのではないか、との考えの下、 今 す。 感 想や励 ましの言 葉をいた だいた 会 員の 至 らない点 も 多 々 あったかと 思いま すが、 ご もが共 有できる思いのもとに一つに結 びついて 年の総 会で皆 様からご了 解をいた だくことが りの賜物と、大変ありがたく思っています。 昨 年の酉 松 会 新 聞でご支 援をお願いしまし た会 費の集まり具 合も、 私の就 任 当 初と比べ 条 件となりますが、 代 表 幹 事を卒 業させてい 皆様、 新たな試みをしてくれた現役諸君、 そ いるこの組織を、会員それぞれが守り育ててい ただきたいと思っております。 れぞれに本当に感謝しています。 %近く増加し 年度は340万円強を集め この3年の間、酉松会はどうあるべきかとい う課題に私なりに向き合ってきました。「愛着 また、 OB戦、 三商大戦への参 加者も年々 増えており、今年のOB戦には約 名が参加、 のがあります。 酉 松 会の会 員であれば、 誰 も し上げます。ありがとうございます。 の持てる会にしたい」「気軽に参加できる活動 終了後は久しぶりに現役も交えた懇親会も実 姿を見ると、いつも熱く胸にこみ上げてくるも にしたい」「現役諸君にはできる限りの支援を 樋口 哲司 (昭和 敗の勝点 と3位に終わった。今季も2部復帰はならず、 来シーズンに昇格を期することになる。 滑 り 出 し は 好 調 だ っ た。 も た つ く 場 面 も あ っ た も の の 自由学園、東工大、国際基督教大を突き放し3連勝。こ のまま勢いに乗ればと期待が高まったが、第4戦の創価 にはパス回しのミスもあり、1 3と思わぬ敗戦。 し か し、 心 機 一 転、 戦 以 降 は 明 治 薬 科 大、 農 工 大、 東京外語大を撃破して、 月 日に優勝、昇格をかけた 日大商との戦いに臨んだ。前半に一瞬の隙を衝かれて1 点を失うも、後半には徐々にペースを掴み、反撃に転じた。 しかし、ツキにも見放され、ゴールを奪えず0 1の敗戦。 中心に新しいチームづくりが始まっている。期待したい。 一歩の壁の厚さを思い知らされたが、すでに新4年生を 3年連続、3位、3部残留の悔しい結果となった。あと 引き分けなら可能性があった2位確保は絶望となった。 : なくても、小平寮のまかないで三食が可能で 64 た。私は部のマネジャーをやっておりました ました。 日間の合宿でしたがお米を持参し http://jfn.josuikai.net/ circle/soccer/ が一橋大学サッカー部が良い結果を出すことを : 40 施し、 大いに盛り上がりました。 三 商 大 戦も 11 3 24 10 11 5 国際家族に囲まれて : 酉松会 15 10 30 したい」 といった思いでいろいろなことにトラ 59 10 50 22 33 10 40 一橋大学 ア式蹴球部 60 21 33 40 1 第4号 The Yushokai Shimbun 2011 年(平成 23 年)3 月 1 日 (1) 特に、 秋 季リーグ戦におけるO Bの皆 様 OBの皆様、 現役部員に対する平素か らの御支援、 誠にありがとうございます。 いです。このよ うな 目 標 設 定では、 各 選 る」というミクロな世界で測った目標が多 ングメンバーになる」「ベンチメンバーに入 2部昇格」、個人の目標として「スターティ として「秋 季リーグにおける3 部 優 勝や ここ数 年のア式 蹴 球 部では、 チーム目 標 長は見込めるでしょう。 具体的に言えば、 だ。 伝える側も受け取る側も未熟ならば るのであればプレーで示すことが一番明確 すべては「オン・ザ・ピッチ」で語られ るべき。 同じ学 生としてチームを牽 引 す ムだったのではないかと思う。 さや甘さとして現 出したのが今 季のチー 響が出るのも必然。それがピッチ上での脆 のよ うな矛 盾を抱 えていればチームに影 な姿か。 チームをまとめる立 場の者がこ カーをやろ うと叫んでいるのは何と滑 稽 自身であろう。サッカーをしない者が、 サッ そしてその象 徴が我 々の学 年であり、 私 と。 てはチームのた めに、 2 部 昇 格のた めに ムのためにG Kをやることも選んだ。 全 将来の進路よりも部活を優先したし、チー そんなこともあって、 4 年 目は、 チー ムのために自分を犠牲にしようと誓った。 分の甘さにも気付かされた。 とに気 付いた。いろんなことに対 する自 てもらったことを果たしていないというこ の悪さを打 ち明けられ、 自 分が先 輩にし ところが4 年 目 入ってす ぐに、 3 年 生 からチームについての悩みや部活の雰囲気 プレーヤーとしては有り余る伸 びしろ を伸びしろのまま残してしまったのが残念 くない。 した。 だからできれば誰にも辞 めてほし 本当に部活を続けていて良かったと思いま にやり甲斐を感じ、 引退する今になって、 切さを学 び、 たくさんの後 輩がいること 降は、 会 計という 仕 事で縦の繋がりの大 で他の部 員 が辞 めていったから。 3 年 以 りま すが、 辞 めよ う と 思ったタイミング 一つは部活が好きだったからというのもあ 1、2 年の時に実 際に辞 めなかったのは、 を 生み出 す 何 らかのきっかけは、 O Bと はそれなりの覚 悟や動 機が必 要で、 それ サッカーに対して精一杯の力を注ぐために りのせいに して 欲 し く は あ り ま せ ん が、 成 長できない人 間を擁 護 するつもりは ありませんし、 現 役 部 員 達にはそれを周 とも多いのではないかと思います。 サッカー部にいる意味を見失ってしまうこ きだけれどと、 私がそうであったように、 が満ち溢れています。確かにサッカーは好 可能なものにするべきだ、と考えている方 目 標とは、 現 実 的なビジョンを組み達 成 個 々 人の目 指 す とこ ろで す。 た し かに、 私の述べる目標とは、部の目指すところ・ 「大きな目標を立てること」です。ここで 4年間のア式蹴球部活動を通じ、 私が 最もこの部に欠けていると感じたことは、 部員を代表し、深くお詫び申し上げます。 を果た すことができませんでした。 現 役 グでは、 目 標とする2 部 昇 格ということ 御声援を賜ったにもかかわらず、秋季リー した。しかし、そのような格別な御支援・ 「秋季リーグ昇格・優勝」ではなく、「総 を、伝えることです。是非、OBの皆様も を出して高い目 標を設 定 する事の大 切さ 的」 な部員に対し、 恥ずかしくても勇気 考えるアタマができてしまっている「常識 標の大 切さ」 を述べる事です。 現 実 的に 現 役を退いてしまった私にできるのは、 OBとして、 現役部員に対し「大きな目 て、満足のいく成績は残せていません。 リーグ昇格・優勝」というビジョンを立て と私は考えます。現にここ数年間、「秋季 ず、勝てるチームも勝てなくなってしまう 手の成 長が遅くなり、 伸 びる選 手も伸 び しかし、 余 計な説 明も勧 誘も必 要 無いの 大学のカリキュラムも変わり、これから は新 入 部 員の確 保 も 難 し くなるだろ う。 と簡単な言葉で良いのである。 か。自ら問題を難しくしているのだ。もっ しかし「オフ・ ザ・ ピッチ」 の言 葉 は 響 かない。 肝 心 なのは出 来るかできない 葉、型や方法論に頼ってしまう。 我 々は、 すぐにどこからか借りてきた言 だ ま だコミュニケ ーション能 力の未 熟 な が」、「主体性が」 どうたらこうたら。 ま を伝えようとする。「戦術が」、「システム はあれこれ工 夫 する。 試 合で感じたこと 尚 更である。 監 督がいないからこそ 選 手 る。これからはO Bの立 場として、 後 輩 やマネジャーであったり、 OBの方々であ そ 成り立つものだと。 それは例 えばG M カーをするにはやはり犠牲になっている人 れ だ け の 人 数 が あ れ だ け の 環 境 で サッ K をやれて良 かったと 思 う 面 もある。 あ だった。しかしこうして引退してみて、G 年が一番 悩み考 えさせられ、 苦しんだ 年 続 けた。 恐 らく今 までの人 生の中では今 引 退 する瞬 間まで自 分の存 在 意 義で悩み は出 来なかったし、 そ ういったことから、 局 G Kとして秋 季で勝 利に貢 献 すること 試合に出たくないと思った時もあった。結 うございました。 えてくれたマネジャー達、本当にありがと にしてくれた 後 輩のみんな、 陰ながら支 まで一緒に戦ってくれた同期、楽しい部活 最 後に、 たくさん迷 惑をかけてきたO Bの皆 様、 優しく接してくれた先 輩、 今 はこれを継続していってください。 あるチーム だと 思いま す。 現 役のみんな まりという 意 味でもとても頑 張り甲 斐の しいことです。強いという意味でも、まと いって、 すごいチームが残ったことは喜ば 月5日、 新人戦2回戦を観に は、 中 学、 高 校とサッカー 未 経 験でこの 私が、 4 年 間の現 役 生 活を振り返って 思 うこと、 そ れがこのタイ トルです。 私 ています。 持 ち続 ける準 現 役 部 員でありたいと思っ れからも部 活に対して常に当 事 者 意 識を にも 後 悔 だ らけの4 年 間でしたので、こ うのです。 私は秋 季に出 られず、 個 人 的 なった私にも与えられるのではないかと思 ですが、 は大 勢でしょう。 しかし、 あまりに小 さ 理 大 臣 杯 全 国 大 会 出 場」「東 京 都 選 抜に ではないか。聞くべきは一つ、「サッカーが た ちが少 しでも 良い環 境でサッカーに打 守本 先輩、後輩にただ感謝 部に入 部 させて頂 きました。 頑 張ってき た 「つもり」ではありましたが、 4年間、 一度もリーグ戦に出場することも出来ず、 チームとしても2 部からの降 格、 3 年 連 続3部残留と何も結果を残すことが出来 ませんでした。むしろ、実力不足からピッ がうまくなることしか考えていなかった。 ない状 況をとにかく打 破したくて、 自 分 りて述べたいと思います。 に呑まれ、話せなかったので、この場を借 みんながあまりに簡単にあっという間に酒 月中旬、 4年生を送り出す追いコン で部 活 生 活の総 括 を 話 す 予 定でした が、 4年間を通じて私が最も感じたことは、 これはサッカーに限 ら ずですが、 上 手 く らずで、非常に申し訳なく思っています。 練習して参りましたが、 力及ばず努力足 んで、これまで以 上にチームの事 を 考 え なってしまいました。今季こそはと意気込 昨シーズンも東京都3部で3位となり、 これで3 年 続けて2 部 昇 格を逃 す結 果と てとても貴重なものでありました。 に立 ち返り、 自 身を見つめ直 す機 会とし 私 達にとってO Bの皆 様の存 在は、 基 本 OBの皆様、日頃より多くのご支援を 賜りありがとう ございます。 学 生 主 体の して昇 格 してくれることを 祈るばかりで 能な後輩たちがその実力を遺憾なく発揮 もはや後 輩た ちに言い残せることも私 にはありませんが、 ただた だ、 現 在の有 くれた後輩たちには誠に感謝しています。 愛がって下さった先輩方、やさしく接して す。一方でそんな 私でも 暖 かく迎 え、 可 ては今でも本 当に申し訳なく感じていま ばあります。いつもご支援いただいたOB であったのではないかと思うこともしばし で見た時に、 私はチームにとってマイナス を引っ張ることも多 く、 4 年 間 トータル それなりの 覚悟と動機を 植村 康太( 年) な目 標を立てたとした ら、 目 標の達 成へ 選 ばれる選 手を出せ」のような大きな御 好きか?」。古い少年漫画のようだが、忘 ち込 めるよ うにサポートしていこうと思 朋弘(会計、4年) の容 易さから、 そのチーム内の選 手は練 声援を出してみてはいただけないでしょう れてはいけないことだと思う。 もいるし、サポートしてくれる人がいてこ 習 努 力を怠り、 成 長は格 段に遅 くなって か。 しまいます。逆に、大きな目標を立てると、 3年目になり、「上級生として後輩のこ とも考 えたりせななぁ」 と思っていた ら、 なる、 成 長 するというのは案 外とても難 す。 今 年 もピッチには足 を 運 んで、 そん チの上で不甲斐ないプレーをして周りの足 試合に出て活躍していないから。サッカー 先 輩に「3 年 目は一番 伸 び伸 びやれて頑 4 年 生になるときの4 年 生としての僕 の目標は、「誰もやめない部活にする」と しく、 生半可な努力や気持ちでは成し得 な後 輩た ちの姿を見 届けられたらと思い う。 とは、サッカーをすることによってのみ充 張れる年やから自 分のことだけ考 えとけ いうことでした。 1 年 生の時には、いの ないということです。ともすれば言い訳を ます。 西尾 隆太(副将、4年) 足 されるものだと 私 は 考 えている。 サッ ばいい」 と言われ、 そんな偉 大な先 輩た 一番に部 活をやめそ うな部 員というやや 作って妥協してしまいがちで、特に大学生 私はこの1年間の部活動において、何一 つとして楽しいことはなかった。なぜなら すべては 「オン・ザ・ピッチ」で 星 達也(主将、4年) 悩み続けた 自分の存在意義 今年は頑張り甲斐の あるチームに として、何卒よろしく御願い致します。 カーを するた めにこのチームに入 り、 試 ちのおかげでプレーに集 中でき、 そんな 不 名 誉なレッテルを貼 られ、 僕 自 身、 何 現在の一橋サッカー部はそのようなサッ 英大(4年) 横溝 の皆様、頑張ってきたチームメイトに対し 合に出れば勝利を望む。そのためにピッチ にチームに対して考えたり、自らアプロー 活には、 サッカー 以 外にも 魅 力 的 なもの 1年目、2年目とただがむしゃらにサッ カーと向き合ってきた。ベンチにさえ入れ の上で何が出来るか。それがすべて。 度もやめようと思ったことがありました。 村井 佑治郎(GM) 長々と偉そうな個人的意見を述べてし まい、 失礼致しました。これからは OB 標を立てた場 合よりもチームや選 手の成 4 12 チしたりすることはなかった。 12 標に届くように努 力 するため、 小さな目 仮にその目標に届かなかったとしても、目 カ ー 本 来の姿 とはほ ど 遠いよ うに思 う。 の御 声 援には、 勇 気と自 信をいただきま そうしてG Kをやることで何 度も葛 藤 し た。 正 直 F W に 戻 り たいと も 思った。 大きな目標を立てる 大切さ (2) The Yushokai Shimbun 2011 年(平成 23 年)3 月 1 日 るのが気になっていた。 最終ラインで展開 て苦しみながらもアジアカップを制した 入りを果たした岡田ジャパン、そし 前評判を覆してワールドカップでベス う。 味を伝える役回りは、まさに適任だったと思 解できるだけに、その言葉を、言葉の持つ意 ルツェゴビナ生まれのオシムの生きざまを理 て、勝ってしまえば、そういうこ 「 勝 つ こ と に は、 さ ま ざ ま な 要 素が含まれている。ただ結果とし に贈る言葉としてふさわしい。 る。入社式、入学式の季節、新人 えは、企業などの組織論にも通じ 指示待ち人間、監督(上司)依 存症から脱却しろ、というこの教 大きな不安と無力感を覚えました。 に精一杯でした。思い描いていた事と実行する事との隔たりに 生になってみると、先輩マネの築いてきたことを維持すること 2年生頃から、マネの仕事の効率性や役割などについて自分 なりに「これをした方がいいのでは」「あれはもっと違うやり方 につけるべきだ」とも。 グパスを出すかの選択しかなく、相手デイ ザックジャパン。嬉しいニュースが続い 著書ではオシム語録をふんだんに紹介して いるが、サッカー理論だけでなく、それを貫 とが見えない。敗北は最良の教師 そして私は、3年マネを取り巻く状況を下の学年の頃からしっ かり分析出来ていたら、この隔たりを小さくでき、もっと上手 必要な最上級生の視点 フェンスの思 う 壷にはまってしまう。これ たから、サッカーファンにとって、この く思想を千田さんなりの解説を加えている。 である」 。これは惜しくも2部昇 く3年マネの役割を果たせたのではないか、と後悔しています。 自分で決定を下す能力を〜オシムの痕跡 でも、 相 手より技 術 的に上であれば得 点 人の名前はもはや記憶の彼方かもしれな だからサッカー本というより、オシムの風ぼ 格を逃した現役チームに噛みしめ する結果、 最終ラインに近い所でのパス回 質をいま一つ上げることを大方針として1 きが少ないため、足元へ出すか大きくロン その間前方のプレーヤーのパスを受ける動 もでき、勝つこともできるが、相手が我が い。 うも手伝ってか、ある種「哲学書」の香りも てほしい。 を図るためのパス回しが行われる。しかし、 チームと 同 様 か少 しでも 上であればなか イビチャ・オシム。この指揮官が日本 に残した言葉は、サッカーという枠を超 漂っているのだ。 OBのつぶやき なか勝てない。これが正にここ3年間の結 えて、私の心を打った。代表チームでオ 現在、一橋大学ア式蹴球部は3年連続で3部3位です。マネ ジャーの私が言うのもおこがましいですが、やはり先輩方のおっ しが多い。加えて前線の動きが十分でない 少なくとも「自分が最上級生だったら 自分がこの人の立場だっ たら」という視点を片隅に持つことが必要ではないかと思いま があるはずだ」と様々なことを感じ、考えました。しかし3年 今回は敢えて、3年マネジャーとして後悔したことを書かせ ていただきたいと思います。 サッカーの技術理論も持たないサッカー の一ファンとしてここ数 年 感 じていること 果に繋がっているのではと思われる。 シムの通訳を務めた国際ジャーナリスト 「日本は 学校も社会も、教師 や上司のいう ことを守 り、秩序を乱さないも のが『優秀』 紹介はこのぐらいにとどめてお こう。たかがサッカーと言うなか しゃるように、「何か」が必要なのではないでしょうか。 た。 ト を述べさせて貰う。 「2 部へ昇 格 するのだ」 という強い意 志 は絶 対に必 要 だが、 それだけでは十 分で 千 田 善 さ ん の「 オ シ ム の 伝 言 」 (みすず という価値観で動いているが、それではサッ れ。されどサッカーである、実に 年 間 努 力 することが必 要ではないだろ う あと一歩の ブレークスルーとは 日 本 代 表の昨 年 半 ばまでの試 合を見る と 安 全 第一でボール支 配 率 を 高 めよ う と ない。この目標を達成するには、 プレーの 書房) は、 一気に読まずにはいられなかっ カーは強くならない」とオシム。別の場では ため得点するのに必要な前への鋭いパスが こうすればいいと言ってくれるのを待ってい 「日本人の特性なのかもしれないが、誰かが、 るように見える。自分で決定を下す能力を身 橋詰 邦弘 年卒、共同通信社勤務) そして、その「何か」についてですが、私の3年間を振り返ると、 年卒) ぶさに目撃した千田さん。ボスニア・ヘ では 2 0 1 0 年 度 は ど う だったのだ ろ う。 石 川 が 故 障で出 遅 れた ということ も ある が、 略) 以前は上手というよりも、 泥 んだん大きくなってしまった。(中 りがとうございました。 けられませんでした。感謝の気持ちでいっぱいです。本当にあ 大学生活の大半を過ごした一橋大学ア式蹴球部は、私の誇り です。部員のみんなや支えてくれた方々がいなければ3年間続 す。 前半の 試合は平山が2得点、 重松が3得点 臭 くやることを 大 切にしている選 偉そうなことを書きましたが、 にあったのだと 思 う。 その隙 が だ (昭和 奥深い。ご一読を勧める。 征四郎(昭和 か? 清水 なかなか出ない。フォワードまで渡り得点 のチャンスと思っても思い切りの良いシュー トを打たず、もう一度持つかあるいは他の プレーヤーへのパスで終わってしまうこと が多い。リスクを取ってまで得点を入れる しか取れなかった。この間 今 野が4 得 点、 森 手がこのチームには多かった」。こ 「FC東京J2降格」は他山の石 とは考えにくい。 実 際、 引き分け数がほ 重が2 得 点、 長 友が1 得 点とバックス陣が7 分 けの多さが直 接 J 2 降 格に結 びついた FC東京は2010年シーズンで 位に終 わり、 2000年以来キープしてきたJ1か ぼ同数の鹿島が勝ち点 で4位、 新潟が ていただけたらと思います。とにかく、2011年こそは絶対 の試合にも同様な点が見受けられた。 1年程前、高校時代の後輩でプロのコー チをやっている人間と一杯飲みながら「日 J2降格となってしまった。 手を排出しながら、 今回の ど 1 0 人 も の日 本 代 表 選 失点で見ると湘南が 失点、 京都が 失点となっており、この2チームは失点が を分析してみよう。 やはり、 負けの多さがJ 2 降 格の大き な原 因と考 えられる。では、 負 けの原 因 なぜ、得点が少なかったのだろうか? 米 本が 節 まで怪 我で出 場できなかったた めに、 高い位 置でボールを 奪 えなかった。 石 たが、時すでに遅しという感である。 降格の原因となったことがわかる。一方F となっており、 下から6 歳の稚拙な反省だと読み流し ら初めてJ2に降格することになった。 のように技術や戦術以上に精神面 本代表がこのような迫力の無いサッカーを なぜだろう? C 東 京は失 点 合、 5 試 合、 との意 識に差があると、 全 体の目 い。 厳 し く、 深 く追 求 していくこ 求 めて減 らしてかなければならな 「たとえば細かいことですが、 ミス 立つ団体ではないし、東京都の中でも上位に位置している訳で サッカー部など様々な団体を見てきました。大学では決して目 私は主務と学連の仕事を通して、学内の他の団体や、他大学の サッカー部のマネジャーを3年間やって思ったことは、本当 に家族のように仲の良い団体だということです。 チーム運営に積極的なかかわりを 標も絵に描いただけの餅になってし はないけれど、皆チームのことが好きで、サッカーに一生懸命で、 試 合と体 調が万 全ではなかっ いる。「大丈夫だろうという小さな隙がどこか (昭和 山根 言一 年卒、東京ガス勤務) の数にしても選 手 個 人が深 く追い 試 まう。 1勝の重み、 勝点1や得失 他団体の人からは常に羨ましがられるくらいプライベートでも 川直、 羽生、 梶山もフル出場がそれぞれ 点 差 1の重みを ど う 捉 えているの 仲が良く、私はそんなチームメイトが大好きでした。 最後に大熊監督の発言を掲載す る。 朋美(マネジャー、3年) 得点している。 うなことをしているのでは」 と言ったとこ やるから底辺までこれを勘違いして同じよ 今 回 は「 F C 東 京 J 2 降格」の原因を分析するこ 番 目に失 点が少なかった。 失 点 数が降 格 たということもあった。 で9位となっている。 ろ、 彼のコメントは「底辺の意識、レベル とで、一橋大学ア式蹴球部 の直接的な原因とはなっていないと考えら 得 点、 カボレが に 昇格してほしいです。 が低い連中が上がって来ても代表のレベル のチーム運 営をするうえで れる。 伸びていたのである。 内山 での課 題 が 大 き かったことを 示 唆 はなかなか上がらない」 だった。いずれに の参考になればと考え、 自 今野、長友、石川、平山、徳永、権田、羽 生、 大 黒、 米 本、 森 重 な せよ、我が国全体に似たような問題があっ 分なりの分析を投稿するこ しかし、それだけだろうか? F C 東 京 と 東 京 ガス サッカ ー 部 の熱 烈 サ ポーターである女 性に言 わせると「たるい試 か。一瞬の局 面の大 切 さや 厳 しさ 人数も比較的少ないし、他団体に比べてメンバー間の絆が本 当に強いチームだと思うので、皆が様々な形でもっと積極的に では2 0 0 9 年 度はどう だったのだろ う 39 た。 2 0 1 0 年 度と決 定 的に違っていた 13 している。 後半の 試合は 節に大黒が加入したこと もあり、 大黒5得点、 平山5得点と盛り返し たのであろう。 F C 東 京 降 格の原 因のひとつは得 点 力 不足で勝てないということにありそうだ。 合をしていたことが降格の原因」ということで をどう感じるか・・・。 目 標のた チーム運営にかかわっていけたら、もっと上にいけるはずだと ある。「確かに昔のFC東京と比べると技術的 まず、 2010年シーズ ンの上位3チームと下位3 手 個 人 が自 分 を 見つめ直 し、レベ めに私 自 身 を 含 めてスタッフや 選 か。 て守り倒 す」 戦 法から「相 手を恐れない ゼションサッカーができるようになった。でも には格 段にう まくなり、 速 攻一本 槍でなくポ 思います。 2009年度は得点 、失点 、 勝 5 分 敗のリー グ5 位という 成 績であっ チームのチーム成 績を見て ルアップしていかなければいけない のは、 石 川が絶 好 調で 14 となっており、 引 き 47 15 た だ 回 しているだ けなん だよね!昔のよ うな るという 点 が徹 底 された 結 果 が、 今 回の F C 東 京は8 勝 分 敗となっており、 引 き分 け 5得点、赤峰5得点、平山4得点とFW みる(上図) 。 と痛感しています」。 アジアカップの優 勝に繋がったのではない の多さが目につく。しかし、 3人が続いていたことである。この結果引 ボールを奪ったら素早くカウンターで攻め 迫力がない」という感想だった。 マネジャー、プレイヤーに拘らず、チームメイト全員が日々 の練習以外でも積極的に部活に関わっていけたら、より上のリー かと 感 じるし、 テレビ観 戦 を 楽 しめた 理 引き分け数では1位が新潟 京の 夏実(主務・学連、マネジャー、3年) 山下 部昇格を達成してほしいと思います! グで戦っていけるのではないかと感じました。今年こそ絶対2 サッカーでも心・ 技・ 体が揃 う ことが勝利の条件と言えそうだ。 由でもある。 で攻撃していく」という方向性に変わった。 17 27 これに対して選手はどう見ているのか? 石 川 直 は「F C 東 京 青 赤 通 信 Vol.2 Jan.2011」のなかで次のように言って 14 82 き分 けが5と少なかった 分、 勝 ちが 41 で 、2位が鹿島とFC東 17 60 16 16 12 21 17 とにした。 14 たように見え、 観戦している人間にとって 10 ところが昨年秋、ザッケローニが日本代 表の監督になり、それまでの「相手を恐れ 60 のだという迫力に欠ける試合運びが多かっ 旧 ユ ー ゴ ス ラ ビ ア で 延 べ 年 生 活 し、 民族主義が戦争に突入していく過程をつ 16 49 はフラストレーションの溜まるものだった。 56 52 これを参考にしているためかJリーグの 試 合 も似 通った 展 開が多 く、 後 輩の学 生 41 16 小 生はここ数 年、 現 役の公 式 戦の大 部 分を見ているが、 同じ傾 向が見 受 けられ 13 12 The Yushokai Shimbun 2011 年(平成 23 年)3 月 1 日 (3) チームの力をどう創り上げるか 様への不具合流出を絶対に許さない改善 改善を継続するフェーズ3、そしてお客 か考えるようになってきた。 自分は何に意味づけをして仕事すべきなの 就職し、 働き始めてから 年になるが、 現役の時間が残り少なくなるにつれ、 今の を感じ、強く信じて、こう変えたい、変わ 人 間は他 人から何か言われた だけで変 われるものではない。 自分がそこから何か リーグの試合を堪能している。 駅と, 地 理 的 環 境に恵まれているので、 J とリードしていたものの、 久 御 山が逆 転 す ていた。 前半は宮市の活躍で中京が2対1 暮れと正月は高校サッカー観戦三昧 ゲートのプラス1活動を愚直に推進中で りたいと思い、努力し続けない限り、そう 日産スタジアムは、 陸上競技場を兼ねた 巨 大なスタジアムでサッカー観 戦に適して バイバル&リバイバルに日々精進してい 卒業後トヨタに入社し、国内・カナダ・ トルコそして現在英国で生産現場の経営 ます。 サッカーへの想いを投稿させていただき せていただいております。近況報告及び ここ英国でも皆さまの熱い想いを共有さ んの生々しい戦況報告をメールで拝読し 誰にも負けない技能を磨いて下さい。 友・ ヘ ッ ド の 闘 莉 王・ ス ピ ー ド の 岡 崎、 ま ず は 個 人 の 技 量 を 磨 く フ ェ ー ズ 1。 無回転FKの本田・ 対 は負けない長 メッセージをお伝えします。 と業務から乱暴に想いを総括し現役に す。これら直近目に入ったサッカー事情 ら自ずとテンションが上がっておりま た息子が高校でサッカーしていることか ワールドカップ、グランパスの優勝、ま 一方本場英国に在籍し、サッカー熱も 上 が っ て お り ま す。 昨 年 の 現 役 の 活 躍、 2.今の自分の価値はどのようにして作ら 今 後( 将 来 )の価 値 = あなたはど うい う自分になっていたいか?(→役割・責任・ 認識) 価されて(認められて)いるか?(→現状 今の価 値 = 自 分はど ういう 点でお 客 さ まやチームの役に立っているか、 存在を評 1.自分の価値とはなにか? をすることにしている。 面談する機会があると、最近ではこんな話 現 在の勤 務 店の経 営 職 階のひとりとし て、 職 位の節 目を迎 える若 手 社 員と個 人 祈っている。 今 年、 卒 業 後 初 めてO B 戦に参 加した 不肖のOBではあるが、後輩諸君の健闘を を変えていくのは難しいのかもしれない。 する強い意志・推進力がないと、今の状況 い軸と、それを何としてもやり遂げようと て主 体 的に進 めていく、 といった一本の太 統一・共有した上で、 各人が目標に向かっ グし、 そのプログラムをチームとして意思 のか、シーズン当初に具体的にプランニン ぞれどのようにして、 どこまで持っていく チームの中の個、 個の集積としてのチー ムの力を、リーグ戦を迎えるまでに、それ るのだろう。 それだけに、いい方向に変わることがで きた人間のパワーには目を見張るものがあ レーは今まで見たことのないものだった。即 前評判通り速く鋭い宮市のプレーは見て いて楽しいものであった。一方久御山高のプ 観戦することにした。 があり、 アーセナルに行く宮 市が出るので 略一方的な試合内容で座間高校が1対0 で勝った。 続いて中 京 高と久 御 山 高の試 合 た。 暮れの 月 日に高校選手権神奈川代表 ( 座 間 高 校 )の試 合 が三 沢であり 見に行っ 最適なグランドである。 晴 らしい芝 生と相 俟って、 サッカー観 戦に プレーヤーの体の使い方もよくわかり、 素 ㍍ 弱と 目の前でプレーを 見ること が出 来、 専用でフエンスとタッチライン間の距離も5 いるとは言えないが、三沢球技場はサッカー カー競 技が向 上しているのは喜 ばしいこと ではないだろ うか。 何 れにせよ日 本のサッ 高校生と言う比較的純粋な年代の試合だ けに物 事の本 質が鮮 明に浮かび上がったの と指導者の重要性である。 くしたのは、 サッカーという 競 技の多 様 性 これ等の試合観戦を通じ、 改めて認識を強 校サッカーのレベルアップを実感した。 決勝戦は久御山と滝川第二で争い滝川第 二が優勝したが、スリリングな好試合で高 合(1月5日)を見ることができた。 と、 力強いプレーが持ち味の滝川第二の試 運の良いことに1月3日(3回戦)1月 5日(準々決勝)と魅力的な久御山の試合 2と逆転していた。 ターネットで見たら案の定、 久御山が4対 が、 寒さが募り前 半 だけで帰った。 夜イン る可 能 性もあり面 白い試 合になると思った に携わっております。景気低迷と昨今の 現役優勝と同時に、一橋大学ア式蹴球部 「女子ドラ」を 年 末 に 一 時 帰 国 し て、 斜め読みしました。樋口さんには、今年 グランパスが勝つのです。 習・ 試 合 に 取 り 組 む、 そ ん な ス ペ イ ン、 し、チーム全員で情熱を持って日々の練 一人一人が必死に向上心を持って努力 ス タ ー の い る チ ー ム が 勝 つ の で は な い。 して愚直にチームに貢献する。スーパー をしよう! 5.やりがい・生きがいを感じられる仕事 資) していくべきか?(→具体的行動・先行投 いま 目の前にある 仕 事 だ けにと らわれ ず、 目 標 達 成に向 けて何 が必 要 か、 何 を をしていきたいか? 4.いま具体的に何かしているか?今後何 方向感・ビジョン) が点をもぎ取ってPK戦まで持ち込まれま るものの、 後半の本当の最後の最後で韓国 た。それから、日本は時間かせぎで努力す まず、 日 韓 戦では同 点で延 長 戦に入り、 その前 半 P Kで日 本 がリード を 取 り まし 日豪戦です。 スト ラリア出 身の僕にとってはあの悔しい 特に思い浮かぶのは、日韓戦、そしてオー 今 回のアジアカップでは、 相 変 わ ら ず、 大 事な試 合で惜しいところがありました。 状況でクロシングを受け、 ゴールを決めま 確かにディフェンスミスで李選手がフリーな と言えば、それはフィニッシュだと思います。 合でオーストラリアの何が不 足 だったのか 結局、 点を決められませんでした。この試 いいチャンスを作っていたと思います。でも、 間しっかりと守備をしながら、 攻撃の面で ちょっと贔 屓 目で見ているのかもしれま せんが、 決勝戦ではオーストラリアが 分 改めて思いました。 差でも勝 負が決まってしまうスポーツだと サッカーは 人で戦うスポーツであって、 チームで練習し、スキルを磨きながらもち ていたわけです。 よって、 勝 ち点を確 保し、 昇 格につながっ のう ちの相 手からたった1点を奪うことに う 結 果になっていたわけです。つまり、 そ 対戦でさらに1点を決めていたら、 全然違 いくつかのチームと引 き分 けて、いずれの も、 それこそ 今 回のアジアカップのよ うに 残念な結果に終わりました。しかし、その く3位という結果で昇格達成できずという 3位というのは優勝の回数の差と言うより 版の「酉松ドラ」を出版されることを切 した。 次代を担う人たちがより良く働くため、 より良く生きていくための機会になればと りサッカーは他のスポーツと違って、 1 点 しれませんが、これらの試合を観て、やは いシュートで決まりました。 当たり前かも そして、日豪戦では0対0のまま、同じ く延長戦に入り、勝負が李選手の素晴らし えであって、大事だと思います。 をゴールにつなげることの方が積 極 的な考 るより、 すでに出 来ているゴールチャンス から、いつまでもミスを減らそうと努力す はこの世には存 在しないと思います。です したが、 ミスを0%におさえられるチーム というように考えたらいかがでしょうか。 が、一番 大 事なのはチャンスをつかむこと、 ろんミスを減らすのも大切なポイントです ロバート・レッドセル(平成 年卒 思っているが、どこまで伝わっているかはわ クィーンズランド州駐日事務所勤務) 22 にお願い申し上げます。 山木 達生 年卒 トヨタ勤務) 11 90 品質問題からのお客様信頼回復のためサ 使命) 簡単には変われないものだと思う。 るところであります。 フェーズ2。個人の技量を生かすチー ム戦術、攻撃・中盤・守備の標準パター れてきたのだろうか? である。 何回もあり、またデイフェンスもしっかりし スで攻 め上がりシュートまで持 ち込む事が 遠隔地で勤務していることから小平に 参上できず、督促頂いた会費の納入で首 す。環境意識の高い欧州のお客様の近く 私の勤務先のようにモノ作りをしていな い企 業にとってより大 切なことは、 そこで からない。 の皮一枚酉松会にぶら下がっており恐縮 でハイブリッド車の生産も開始しまし 働くひとりひとりが自分を磨き育て、その 「女子ドラ」ならぬ「酉松ドラ」を 愚直に地道に一生懸命 しております。 た。 製 造 現 場 で は、「 3 フ ェ ー ズ + 1」 を 掲げ地道に基本の徹底を実践中です。メ ンを3つ掲げひたすら日々の練習で標準 ち自 陣 深い位 置でボールを奪っても、ロン 価値を高めていくことだと思う。 ンバーの基本技能・習熟度を上げ工程に 化する。アイコンタクトでできるまで徹 30 何にそれを感じるかは人それぞれ。 その上で、まずは目の前の仕事に、より 積 極 的・ 主 体 的に取 り 組み、 ベストを 尽 す。 (昭和 59 動画で現役の雄姿を拝見し、また樋口さ 適正な人員配置をするフェーズ1、決め グキックをせずにドリブル或いはショートパ 年卒) 久木田 正樹 (昭和 年卒、三菱東京UFJ銀行勤務) 勝巳(昭和 具体的にどんなことが価値形成に役立っ たのだろうか?(→人財育成・指導) 12 末筆ながら、現役の活躍と酉松会の皆様 1 くそう。 1 の益々のご健康とご活躍を祈念いたしま 3. 今 後( 将 来 )に向 けてどんな価 値を 底的に繰り返す。 加えていきたいか? 59 チャンスをものにすることこそ大事 30 現役をやらせていただいていた2008 年の秋季リーグを思い出すと、今回と同じ 高田 ら れ た 標 準 作 業 を 徹 底 す る フ ェ ー ズ 2、 フェーズ3。試合での実践トライを通 じて標準パターンを進化させる。 夢や目 標を持っているか?( → 情 報 収 集、 身の回りや社内外にロールモデルになる ような人はいるか?自分を強く駆り立てる 10 プラス1は、やり遂げる拘り・情熱と チームワーク。試合に出る出ないは関係 自 宅 か ら 日 産 ス タ ジア ム ま で はス ク ー ターで 分、 三沢球技場までは地下鉄で2 今回寄稿の機会を与えていただき感謝 いたします。最近では、ホームページの 27 ない、一人一人が自分の役割をコミット BBCラジオでカメルーン戦の勝利を的中 (4) The Yushokai Shimbun 2011 年(平成 23 年)3 月 1 日 協会改革の日々を振り返って 長は静かに感慨深げにうなずいていた。 [アジアカップ] ―― アムにたった 1 5 0 0 人!しかし、 当 日 万 6 4 9 6 人( 1 試 合 代 表が決 勝に進んだことも大きく、 延べ の入場者数は1万5千人を超えた。日本 入 場 者 数 は、 平均1万9781人)で終わった。 大会 経 費を賄って余りある2 億 円の収 入であ 子 部は部を設 立してから初 代の部 長であ おっしゃっておりましたが、 ます。 任者ではあったが、これは若手の協会職員 技 場で開 催されるこの国 際 大 会の運 営 責 大 会 運 営の打 ち合わせが始 まった。 8 カ国が来日し広島市と尾道市2都市4競 されていない。 1 0 0 万 円 ボーナスの話はいま だに果た の観客が入る国との評判になったそうな。 学校をしらみつぶしに歩く り、 審 判 部は、 初 代 部 長が半 年で病 欠で 当 時の村 田 忠 男 専 務 理 事が何でも屋の 協 会 事 務 局の中に、 金 儲けだけを専 門に に従って運 営 体 制は決 定した。 問 題は勝 った。 外 人 同 士の試 合にも日 本では大 勢 J リーグが開 幕 する1 年 前から 2002年ワールドカップの1年前までの 退いたので2代目ということになります。 事 業 部を初 め、 各 部で行った 改 革 改 善 の内容と考え方を振り返ってみたいと思い 年卒) 9 年 間を日 本サッカー協 会に在 籍し、 そ 行 う 「事 業 部」 を設 立したのには、 岡 野 当時の協会は、 国立競技場などの代表 戦の大会は、 直轄事業で都道府県協会に ら1 時 間 もかかりしかもバスが日に何 本 ノレールも予 定されていたが、 広 島 駅か 広 島の山 奥に建 設 中の5 万 人スタジア ム、 ビッグアーチを見に行って驚いた。モ せず高校チームにも門戸を開放して参加 大会要綱を変更した。全都道府県代表 チームを参 加させ、 社 会 人チームに限 定 が財政だったことを裏付けていると思われ の間、 事業部長3年・女子部長3年・審 ます。 判部長3年を勤めましたが、 事業部と女 1月から無給の専務理事付のお試し出勤 は当日の会 場の運 営を委 託していた。 チ の一本 道であった。 2 年 後のアジア大 会 させた。都道府県代表チーム対抗戦を1、 つことと1 億 8 千 万 円の大 会 運 営 費をい [天皇杯] ―― かにチャラにするかであった。 全試合を有料化 が始 まった。 岸 記 念 体 育 館の中の小さな ケットは、 当日 売りが基 本で、 前 売りは のメーン会 場 用に建 設 され、 サッカー ア 2回戦で行った。 すべて有料試合として、 職 員は、 普 通の職 員 ばかりでなく、 普 通でない職員が混ざっている混声合唱団み たということかと思います。 いかにぬるま湯の中に浸っていた生活だっ かも 知 れませんが、 サ ラリーマン生 活が たり前 だよ」 と云われたら当たり前なの るんなら、さあー、やってもらいましょう! でした。つまり、職員から見れば、「出来 再 就 職の時には、 大 企 業 病を捨てなけ ればダメといわれま すが、 全 くその通 り プに欠けたいやらしい世界です。 いられないようにする、スポーツマンシッ 財政は、 選手登録費・大会利益・スポン ーナス1 0 0 万 円やるよ!」 と。 協 会の ンカップとアジアカップを成功させたらボ 4月には正式に初代事業部長に就任し た。 専務理事は笑いながら言った。「キリ 指していた。 ラインでの販売に特化することにした。チ たった現在では当たり前になったが、オン くなるという 発 想である。 あれから 直 営で仕 切った 背 景には、 他 人に販 売 を委 託しても売れない上に手 取りが少な ものであった。 は、 広島市内に2-3ケ所しかなく、日 場 所 が場 所 だ けにチケット ピアの売 り 場 数ヶ月 前から広 島に入った。 協 会の若 手 が 部 長 がいね ー と 文 句 を 言って き た。 い建設中の競技場にあった。 の期待とは全く裏腹の現実が、 山中奥深 売 上 が 膨 ら ん だ。 J リ ー グが 出 場 料 を 開 催され、 Jチーム同 士の試 合になると もちろん日 本 協 会はその売り上 げの大 半 を 戴 くのである。 年 末にかけて各 地で せた。各協会は目覚めた。 全 国の協 会に売ることと売り方を研 究さ 年 名がひしめいていた。 中 野 協 会の職 員が最 寄のスポーツ店に実 券を ジアカップの開幕戦がこけら落としであっ 大 会 規 定を改 定して主 管 協 会がチケット たいなものです。 普 通の企 業に就 職でき 高い給料持っていくのでしょうから」 とい サー収 入などであったが国 際 大 会でもチ ケットピア・チケットセゾンなどに飛び込 部 屋に職 員 事務局長追い出しに成功した若手が事務 販 売 委 託 し 試 合 後 に 精 算 に 回っていた。 た。 A F Cからピーターベラパン会 長 以 研 修 会 を日 本の中 央の岐 阜 県で開 催 し、 で儲かる規 程に変 更した。 チケット 販 売 ない大 学サッカー部 員を監 督の顔で協 会 うことでした。よく言えばプロの世界で、 ケット 収 入はま だ ま だ 少 なかった。 チケ 要 求してきた。 それまで国 立の決 勝は日 職 員より高 齢で外から専 務 理 事が引っ張 り込んだ場合ではなおさらです。「オシク 局 長に昇 格 し新 体 制に移 行 した 矢 先に、 従って、 試 合 当日の天 候に大 き く売 上は 下 全 役 員が来日 するこの大 会で、ワール さながら混声合唱団 その前に、一つお話したいことがありま す。 そ れは、 日 本 協 会 という とこ ろは、 協会は事業部を設立して財政的な課題に 左 右され、 雨にたたられた国 際 大 会の収 ドカップ招致への足がかりを狙う日本協会 に押し込んだり、 前 会 長の企 業から送り 大企業はアマの世界ということです(因み 本 代 表 戦がポツポツ売れるだけで絶 望 的 誰もがわかっていたが結果としてガラガラ ケット取り扱いイベントのポスターは無料 西日 本・ 四 国・ 九 州も回った。 J Rはチ トは皆無に近かった。 であった。外国チーム同士の試合のチケッ 管した。 東 京 都 協 会はチケット手 数 料や 本 協 会 直 営であったが、 東 京 都 協 会に移 年 込まれて来たり、 身体を壊した元日本代 みで折衝に回った。JRの東日本・東海・ で冠スポンサーに依存する体質であった。 を保 持したまま永 年 勤め上 げてきていま で駅 構 内と車 内に掲 載してくれた。 主 要 キリン社・ キリンシーグラム社 在 職 年は営業一筋の人生であり、売ることには %で委託した。 全く収 めた。 就 任 3 年 目のキリンカップ( 国 立 般から予約も受け付けて競技場渡しも始 開 幕 前 日、 広 島 入 り し た A F C 役 員 に同行してきた小倉(現会長)さんが聞 くった。 登 録チームを動 員 すべく招 待 券を配りま 主 管 料 な ど で 2 千 万 円 ほ どの 収 益 を 上 げ、 法人化基金とした。 各地の決算に伴 キリンカップについては、 キリン社在職中 チケット販売してくれるところはどこに でも頼んだ。 女子高校の構内売店にも行 い順 次日 本 協 会に収 益 金が振り込まれて 先ずは、 協会の事業部設立から天皇杯 規程等の諸改革を思い出しながらお伝え った。 日 本が勝 ち進んでくれれば何とか きた。 重松専務理事が専務理事室から眼 す。 代 表 監 督の例を見るように、 実 績が 競技場の電光掲示板に「サッカーのチケッ なる見 通しではあった。 決 断した。 開 幕 鏡片手に飛び出してきたのを覚えている。 駅のみどりの窓口で販売が始まった。国立 賛を取り付け赤字体質は脱却していたが、 戦の招待券を2万枚持って山中の小学校・ 「 天 皇 杯 が 偉いことに なった、 4 億( 予 に松 本 正 雄 大 先 輩のお力でキリン社の協 歳でどの トはチケットピア、チケットセゾンでお求 中学校・高等学校の校長先生や教頭に生 算1億5千万)を超えている!」 アジアカップは魔物であった。 め下さい」を掲示した。 徒や父兄の動員観戦をお願いした。 臨時 してみたいと思います。 す。 その風 土は、 私のよ うに 「事業部時代」 試 合を主 管 する東 京 都サッカー協 会で の販 売 もオンライン業 者の手 数 料( ~ 絶 対の自 信があった。 自 分の給 与の3 ~ %)を上回る のシャトルバスも広島駅など3駅から延べ 4 倍の利 益を稼がないと協 会には居 づら 競技場)で初めて完売を達成した。 1試 いてきた。「明日のチケットは何 枚 売れて 入のない主 管 協 会は目の色を変えた。 登 合 2 億 円の収 入であった。 満 員の国 立 競 ま す か?」。「1 5 0 0 枚です」。 小 倉 さ 録チームにチケットの斡旋を開始した。一 技 場で目を細め笑みを浮かべる長 沼 会 長 んは顔 面 蒼 白になった。 5 万 人のスタジ 部長=チケット部長の認識に立っての日々 が始まった。 に一言いった。「これが満 員です」 と。 会 くなるというプレッシャーもあった。 事業 ためと、 翌 1億8千万円の大事業)の収支が協会最 [キリンカップ] ―― チケット売り込みに奔走 台 を 運 行 させた。 外 国 同 士の試 合は、 事業部3年で、 今度は女子部長を命じ られたのである。 出せなければすぐ首が当たり前の世 界で 20 10 年 秋に開 催が決 定していた 15 鋭?が自 分の竪 穴 住 居に閉じこもり権 限 ットを売ることが一番手っ取り早いことは 大変恐ろしい職場だということです。「当 ラマンジュウー 押されて泣くな」という 言葉通り、 隙があれば押し出され職場に 専門に取り組む独立採算事業部体制を目 支は悲惨であった。ビアガーデンみたいな ピールさせたい強い願 望 があった。 さんばかりでなく当時の幹部の最大の悩み 久保田 秀一(昭和 31 岡野俊一郎さん曰く、「協会の柱は、 1 に財 政、 2に普 及、 3に強 化 だ」 と良く 37 に給料は、部長職の960万円でした) 。 92 表 選 手を匿ったりで、しかも その少 数 精 10 件 費 枠が出 来て1 人 採 用が可 能になった キリンカップ・アジアカップ・天皇杯 1991年3月にキリンビール社を早 期退職(6千万円の株式投資借り入れ金 退 職 金 2 倍 4 千 8 百 万 円 を 穴 埋 めに使 大の課題でもあった。 回アジアカップ広 島 開 催(開 催 経 費 用)して第二の人生を模索していた時に、 第 村田専務理事から声をかけられた。これ ワールド カップ招 致を目 指 す日 本 協 会 は、 招 致 活 動の目 玉としてこの大 会を何 歳 は、 たまたま時を同じくして当 時の中 野 を返済するために早期退職優遇制度 92 が何でも成 功させA F Cに存 在 感をアッ 12 50 12 52 事 務 局 長が退 職してポストが空いて、 人 52 30 The Yushokai Shimbun 2011 年(平成 23 年)3 月 1 日 (5) 関東酉松会 有志の会 平 成 年は、 7 月 日一橋 クラブ 「一葉の間」 にて、ロイヤルエージ 名の参加を得て有志の会(昼食懇談 会、写真)が開かれました。 、高田菊( ) 、 出席者…外岡(昭 ) 神代・宮田( ) 、高田勝( ) 、志摩・ 中岡・橋本・松丸( )浅井・佐竹・ 中路・日方( ) 毎 年のことながら、 最 長 老に入る 外岡氏の出席および神代・中岡・佐 竹3氏のそれぞれ山口・兵庫・大阪 関西では、 引続き、 春と秋に懇親 会を開催しております。 毎回世話役 労さまでした。 からの遠 距 離 参 加がみられました。 ご苦 たリーグ戦も何 試 合か応 援 することがで じて、 学生諸君と話をする機会も得、 ま 減りませんが。 その前の副 会 長 時 代を通 の割に体 重は努 力の甲 斐 もなく、一向に 昨年から、 酉松会会長という大任を仰 せつかり身の細る思いをしております。そ ちんとパスを繋ぐことができるようになっ を 目 指 すのがせいぜいでしたが、 今はき 余裕があれば、センターラインのタッチ際 ルを 遠 くに蹴ることのみに集 中、 多 少の う。例えば、昔のバックスは、ただただボー ル 扱いに関 しては 雲 泥の差 といえましょ 小 学 校からボールに親しんでおり、 ボー り組んだものですが、 最 近では、 多 くは 数近くが大学に入って初めてサッカーに取 サッカーにおいては、技術面では格段の 進 歩を遂 げています。 我 々の時 代は、 半 を味わっているこの頃です。 ているのだと思います。 若者は個性が…」ということに繋がってき の基 準での選 考となり、 入 社 後 「最 近の るそ うです。 そのため、 どの企 業 も同 様 なり試験までに行けないケースが増えてい 求人数の減少が拍車をかけてきて、 面接 いう か 横 並 び 意 識による ものと 思 わ れ、 一つは、 人 事 採 用 担 当 者の事 勿れ主 義と が重 視されなくなってきているようです。 (スポ ーツ活 動 も 含 まれてしまっている) 中できたのかと思いますが、 今は、 企 業 名、 ウ 勝予想をしてもらったところ、ドイツ 名、スペイン 名に分かれました。(結果は 名、 オランダ ルグァイ ) 、 佐 竹( ) 、 石 川( ) 、 ) 、 「S・O・I」と 鉄人 「外岡諒三郎君」 のお 陰で、〝 就 職 貴 族 〟といわれるほど、 学 生 生 活というか就 職 面でも「隔 世の 感」 は拭えません。 昔は、 先輩方の活躍 期待しています。 思いま すので、 今 年のリー グでの優 勝 を ことです。球際の強さでは負けていないと ますます厳しくなってきているのは当然の と進んでいるわけで、競争ということでは、 な変化は一橋だけでなく、他大学ではもっ 我 々 年 寄りから見ると、 時 折 危なっか し く見 えることもありますが。このよ う のです。 とのパイプを作ることに入力して欲しいも 学 生 諸 君 も、「寄 付 回り」の機 会を活 用して、 会 社の雰 囲 気を知ること、 先 輩 す。 も ご協 力いただきたくお願いする次 第で トにもなろ うかと思いますので、 是 非と すし、 それがサッカー部の強 力なサポー 皆 様の強 力な支 援に期 待したいところで 言 われていま す。 そこで、 酉 松 会 会 員の の引き」というところに戻りつつあるとも 会長 竿代 興志 (昭和 年卒) れ、S・O・Iも参加したが、陸上競技 昔、松本高校と名古屋の第七高等学校 の試合が松本の北のグラウンドで行わ やっているそうだ。 よほどの高 望みをしない限りは、 それほ ど焦らないでも何とかなったものです。そ 年8月カナダ(カルガリー の裏付けもあって、サッカーの練習にも集 が最初で、 とヴィクトリアで試合と観光) 年ドイ 年 は グ ア ム 島 で 練 習 と 観 光、 ツ(石井徹君、橋本昭一君ともに夫妻で 同 行 )、 者の対抗戦であった。100㍍では私は も行われて松本、七高、S・O・Iの三 ムと試合) 兄さんの折下章氏は弟を変人の数学家だ 年はシンガポール、ペナン(華僑チー S・O・Iも 歳以上のオープンなチー ムになったので、今村秋夫君や田中高峰 といっていた。 1.S・O・I た。 慶応や早稲田も入っていたので、我々 君や高峯文世君も参加している。今村君 名古屋の折下氏についで ・5秒だった。 のキャプテンの瀬藤俊雄の兄さん進一氏 大会も行われた。私は駒沢公園の北のグ 当 時 練 習 は「 駒 沢 第 2」 と か、「 第 一 生命用賀」などでやっていた。春秋には は私の家の近く(目黒不動へ行く道)に 彼は松本高校から学部に入学した。父 上が一橋だった縁故によると聞いた。彼 2.外岡諒三郎君 している。正に「鉄人」で、松本弁では S・O・Iでもバックから、ドリブル してシュートまで持って行く走力を維持 走って一位だった。 の活躍は目覚ましい。 ランドで松本高校と対戦して開始後すぐ 住んでいたので交渉があったが、奥さん その時、外岡君は400㍍に挑戦した が、だれも参加者がなくて黙々と一人で 両膝を捻挫して其処にあった竹棒2本を の死後息子さんのいる国立に移った。大 一郎(昭和 年卒) 奥村 「ズクのある人」である。 突き家内に付き添われて、通りまでやっ い る の で、 グ ラ ウ ン ド で ラ ン ニ ン グ を 学のグラウンドの西側(中町)に住んで 年の豪州 との思いで出てタクシーで帰った。 として入れてもらった。 ( 東 京 高 校 ) に 頼 ん で「 東 京 商 大 予 科 」 サ ッ カ ー O・ B イ ン タ ー ハ イ の 略 で、 旧制高等学校のサッカークラブであっ 側の求 人 活 動の変 化もあり、 個 人の活 動 橋本氏一人のみスペイン優勝を的中させ きました。 てきています。 懇談を継続して夕刻散会。 年の一橋 主 催の三 商 大は、できれ ば芝 生のグラウンドを確 保してあげて ) 、 嶋 田( ) 、 柴 田( た。 松本、篠宮、神代、嶋田、佐竹、村 林、宮脇 (昭和 隔世の感 た形となり、サッカーの勝敗はまことに 卒 業して早いもので 年が経とうとし ていますから、 変 化が多いのは当たり前 時 恰もサッカーW 杯の準 決 勝が始ま る時 期にあたり、 どこが勝 ち進むかで 水物だと痛感した次第) 。 のことですが、いろいろな面で「隔世の感」 話の花が咲 きました。 そこで各 人に優 なお、 昼 食 時 間の後はバーラウンジ に移り、 各 自の近 況 報 告などを含めた 企業側も反省の意味もあり、 改善を求 めているところであり、いわゆる、「先 輩 本年も6~ 月頃に本会の開催を予 定しています。一人でも多くの有志が参 加されることを期待します。 頂きたいと思います。 年卒) 悲観的な結論に達した。秋の懇親会では、 松丸 鉱市(昭和 生 憎 小 生はロシア出 張で参 加できません 出 場できるだけでも喜 ぶべき だ」 という でしたが、 春にした 予 想の反 省 もあった そして、「関西の敵は関東で」ではあ りませんが、 現 役、OB 揃っての優 勝 と聞いています。 なお、次回の懇親会は4月 に予定しています。 を願っております。 援に行 き ました が、 そ れを 上 回る 東 京、 若い皆さんの参 加により活 発な意 見 交 日(水) 名古屋方面からの応援も含め、 人数では 換を期待しています。 年も、 三商大戦が 年の神戸大学に 引続き、 大阪市立大学であり、 有志が応 神戸、大阪市大を完全に圧倒しました。 中 岡( 現 役 は 日 ご ろの実 力 が 発 揮 で き ず 惨 ( 年4月懇親会参加者) 、篠宮( ) 、神代( ) 、 敗、OB 戦 も 人 数では 圧 倒 した ものの、 松本(昭 ) 平均年齢は、 相手のほうが数段若く、 残 村 林( 宮脇( ) 惨敗でした。 前日の豪 雨の影 響で大 阪 市 大のグラン (8月三商大応援、懇親会) 、 ド は か な り 傷 んで お り、 現 役 にとって、 嶋田、佐竹、村林、柴田、大倉( ) 念ながら走力負けの部分もありこれまた には 頭 が 下 が り ま す。 懇 親 会では、 ボールコントロールが難しかったように思 楽しみです。 試合後は場所を大阪駅近くの北新地の 料 理 店に変 え、 大 倉さんからのおいしい 口から毎 回 参 加 頂いている神 代さん 陸軍士官学校出身の松本先輩と海軍 います。 東 京、 名 古 屋からの参 加の方は除い ています 切畑( ) 、水谷(平4) 兵学校(江田島)出身の篠宮先輩よ グランド 状 態は良 好とは言 えませんでし 本年はワールドカップの年であり、 春の懇 親 会では、 直 近のセルビア戦 月桂冠の提供もあり、 現役代表との懇親 柴田 暁 年卒、パナソニック勤務) ( 月懇親会参加者) を 観 戦 し た 石 川、 宮 脇 両 氏 よ り 戦 会で大いに盛り上がりました。 年の神 戸 大 学 も当日 朝の雨で り、 貴 重な陸 海 軍の話を伺えるのも を 引 受 けて頂いている佐 竹さん、 山 8 況 報 告があり、 全 員 「W 杯は絶 望、 18 関東酉松会有志の面々(一橋クラブにて) 三商大 OB 戦は完敗 ―関西酉松会 93 91 3 46 60 13 13 28 1 31 54 32 29 56 46 32 27 30 有志の会 7 6 23 31 29 32 1 26 62 40 31 57 94 11 10 10 46 21 09 95 09 22 東西酉松会 40 海外遠征に参加したのは、 89 10 (6) The Yushokai Shimbun 2011 年(平成 23 年)3 月 1 日 通意識 が あ れ ば こ そ の も の だ っ た ろ う 。 カーのボールを蹴ってきた仲間という共 してしまったのもサッカーに対 するその情 う 姿を見ると、 やはり先に関 東 2 部 降 格 含 めてよ く声 をかけて勝 利 を 目 指 して戦 東大OBのサッカーに関する情熱はうら やましいくらいです、試合中も叱咤の声も ションは卒業以来最高(?)です。 どの不運に苦しむこともあります。いずれ ありますし、また、思わぬアクシデントな 決定していかなくてはならないことも多々 源が不十分な中、勘やおもいっきりで意思 は、 実 際には無 く、 必 要な情 報や経 営 資 ません。 経営の指南書にあるような、ヒッ わりに結果の責任からも逃れることはでき 役立ててほしいと期待しています。 皆さんの力を、閉塞感漂うに日本の社会に 時は関東大学リーグの一部で活躍された と、この酉松会新聞の第2号に寄稿され ている。 年ぶりの帰国、 年ぶりの球蹴り 昨 年 7 月に6 年 間の米 国 滞 在 を 終 え、 久しぶりに帰国しました。 長いようであっ という間の6年でしたが、その間に我が家 歳にな り、 妻 と 由をはきちがえていいないでしょうか。 む でる前の最後の遊ぶ時間というように、自 もすると何もしなくてもよいとか、社会に さて改 めて自 分の反 省 も 含 めて、 学 生 時代の自由というものを考えてみると、と ます。 力でも、結果責任を引き受けることになり ます。まぁ年ですし。 蹴るのも何年振りかという状態となってい 士とフットサルをやりましたが、 ボールを 昨 年 秋に事 務 所の同 僚と他 事 務 所の弁 護 でパートナーとして執務しています。 偶々 宅 坂 総 合 法 律 事 務 所」 という法 律 事 務 所 ご無 沙 汰 しておりま す。 私は、 平 成 年に弁護士となり、現在、霞ヶ関にある「三 例えばコロンビア。爆弾テロやワールドカッ るとそれぞれ国民性や文化が異なります。 じような国に思えますが、 実際に行ってみ いうと日本から遠いこともあり、 どこも同 を 体 験 することもできました。 中 南 米と 仕事上は中南米への出張が多く、スペイ ン語 を 身に付 けたり、 現 地の文 化 や 料 理 事がありました。 リーマンショックなどなどいろいろな出 来 弁護士業務に勤しむ日々 では 4 歳 だった 息 子 は 借りての連覇となっています。 しろ卒業して完全にレールが無くなったと 会 社 法 務はコアにありながらも、 法 的 サー ビスは社 会に雑 多に存 在 し、 弁 護 士 プ敗退後に選手が殺されるなどの物騒なイ 私はアラフォーなる年齢になり、 世の中も 同 年 代の酉 松 会 会 員の皆さん、 少しト レーニングをすればこのレベルであればす きにこそ本当の自由と自己責任が問われる と言っても取り扱う分野は様々ですが、現 メージが日本ではありますが、実際は治安 キロまで体重を落としてコンディ 森 重 さ ん は、 過 去 を 振 り 返 っ て 懐 か し む の で は な く、 い つ も 明 日 こ と、 未 来 の 熱の差なのかなと思います。 定期戦もここ にしても、 自 由 な 分、 無 過 失でも 不 可 抗 ぐに参戦可能です。対等な条件で戦うべく ことを忘れてはならないと思います。 皆さ 在、私は、会社法務のほか、事業承継(中 も良くなっており、 素朴な現地料理はおい 年 是非皆さんの参加をお待ちしております。 んが、社会にでると、日に日に責任が重く 小 企 業のM & Aや親 族 間 承 継、 上 場 企 業 あと、コーヒーもおいしいですね。 しく、 国民性は南米では珍しく勤勉です。 現在は 歳を超えられて 2年一橋が連覇していますが、 東大はきっ 追悼〜いつも未来を語った森重さん も、 そ う だ っ た 。 新 し い 考 え 方 の 話 、 デ ちりと 遠 方 からの参 加 者 を 含 めて昭 深谷 徹 年卒、三井住友海上火災保険勤務) ういう意味では、今は、責任の伴わない練 なり、 最 初は戸 惑 うかもしれません。 そ 会 社 更 生 等のいわ ゆる企 業 再 建です ) と のM B O 等です) 、 事 業 再 生( 民 事 再 生、 年卒近辺のメンバーをそろえてきま す。一橋はメンバー不 足で若い世 代の力を (昭和 前途洋々たる皆さんへ プライベートでは、やはりいろいろな旅 行が思い出です。 その中でも一番はガラパ いった分野を中心に、不動産、相続、労働、 医療等を手がけています。 化を遂げた動物がうろうろしています。手 の問題が社会的にも取り沙汰されることに み 交 わ しな が らのまことに楽 しいひと 時 した 会 社 を 経 営 しておりま す。 その関 係 ない状 態 を 居 心 地 良 く思 うよ うになる可 やはり、 裁 判 所にもそれなりに行きます。 ようで、しばらくは環境の変化に戸惑うこ そうした中、漸く帰国となったわけです が、 6年という期間はそれなりに長かった ての日本の学校となり、 全てがわからない ようになっていた。 学時代の私からは想像できないかもしれま ことだらけ。初めて教室の掃除をしたとき とばかりでした。 特に息子にとっては初め せんが、「法廷で証人尋問」 というのも結 は担 任の先 生に「なぜ掃 除 機が無いの?」 私は紛争案件も数多く取り扱っており、大 構行っております。また、事業再生という と質問して困らせていたそうです。 能性があるということだと思います。 ような世界に進まれるにしても、楽しくも ことになりますと、地方の旅館やメーカー で、今回の寄稿のご指名をうけたようです 厳しい世の中を自分らしく生き、皆さんの の再生案件も多く、こんなことを言っては サッカーの方は息子が生まれて以来、ま ともにプレーしておりませんでしたが、 帰 を ご家 族の方 々 を 含 めて過 ごしま す。 私 思い出 しな 本領を発揮してほしいと思います。あまり 怒られるかもしれませんが、多少の息抜き 国後に息子が学校のサッカークラブに入っ が、せっかく頂いた機 会なので、 懐かしい ら 寄 稿 させ 目さきのことを心配しすぎないで視野を広 もしております。 は海 外、 関 西に勤 務 していた 関 係 もあり て 頂 くこ と く持 ち、 多 角 的 な価 値 観 を受 け入 れるの ことになり11年ぶりに試合に参加するこ これは現在、テレビのディレクターと し て 活 躍 し て い る 福 本 君 が、 海 外 で 苦 学 にします。 がコツだと思います。 もっとも、 既に日夜 ドメスティックな業 務のため、 皆さんと 違って、 仕 事で海 外に行く機 会は少なく、 とになりました。最大の目標は怪我をしな 皆さんには、 就職率が良いことをもって 「就職予備校」 と思われないように、 どの 現 在の会 社 は、 中 小 厳 しい練 習に励 む 道に身 を 投 じた 皆 さん 若 干の物 足りなさも感じますが、 日 々 業 いことですが、これを機にまたボールを蹴 学生時代を 企 業ですの は、 自らの意思により一歩踏み出している 務に取り組み、また、研究に勤しんでいる 2 0 0 4 年の第 9 回から参 加し、 仕 事の で比 較 的 自 わけですから、杞憂かもれません。 中村 克 (平成8年卒、三井物産勤務) りたいと思います。 た関係で、保護者大会なるものに参加する 由に意 思 決 ところです。 している時に母校を思ってつくった一橋 回を除いて6 よりも上体が前に出る始末で、とても走れ 定 がで き ま 卒 業 すると、 運や偶 然のなど理 不 尽な 要素に左右されることも多いでしょう。そ 都合で参加できなかった第 メ イ ザ ー・ ジ ャ パ ン の 名 誉 会 長 と し て る 状 態ではあり ませんでした。 参 加 を 目 す。 も ち ろ サッカー部応援歌の歌詞の一節に由来し 米 国 駐 在 中 は 年にワールド カップを 5試合観戦しましたが、 ゴルフ三昧でサッ カーはプレーせ ず 体 重 も 自 分 史 上 最 高の オ フ ィ ス に 通 っ て お ら れ た 森 重 さ ん も、 指 して散 歩、 自 転 車 通 勤 から トレーニン キロ(身長178センチ)まで増えて足 サッカーの後輩たちと会うのを楽しみに グを開始、 ジョギング、 ジム通いと毎年こ 鎌倉 一輝 (平成7年卒、三宅坂総合法律事務所) のような中でも投げずに、近い将来、若い 回参加し7得点2アシストを挙げさせても として紹介されている。 ) そんな「ひざまくらの会」は、何か口 実 が あ る た び に 開 か れ て い た が、 歳 を 13 されていた。名誉会長という立場の大先 超えられてもなお、オグルヴィ・アンド・ 94 の定 期 戦にピークをあわせるべく調 整し、 82 輩 に、 自 由 に 話 が で き た の も 同 じ サ ッ ん、 そ の 代 て い る。 (この歌は酉松会新聞の第1号 物を見ることができ、息子も大喜びでした。 ゾウガメ、アザラシ、軍艦鳥などなどの動 を伸 ばせば触れるほどの距 離でイグアナ、 ゴス。 進 化 論で有 名 なと お り、 独 自の進 団塊の世代のリタイヤ問題は、企業オー ナーにもあてはまり、ここ 年は事業承継 習期間といえるかもしれません。 ト商品を生み出せるセオリーみたいなもの ジタル技術の話、日本の将来の話。今も、 から 大石 嘉彦 (平成5年卒、大嘉倉庫社長) 私 と 森 重 さ ん と の 最 初 の 出 会 い は、 確 か 寄 付 回 り の 時 だ っ た と 記 憶 し て い る。 「あのなあ、土井・・・」という森重さんの、 10 大 先 輩 で あ る 森 重 利 直 さ ん が 昨 年、 亡くなられた。昭和 年のご卒業で、当 その頃、森重さんは当時のマッキャンエ くっきりとした言葉が、耳にこだまする。 土井 徳秋(昭和 年卒) こ と を 話 さ れ て い た。 歳位 リ ク ソ ン 博 報 堂 の 副 社 長。 ま だ の若さだったと思う。黒い学生服姿で神 田の小学館ビルのオフィスを訪ねた私に は、外国人相手にさっそうと指示を出す 森重さんは、まぶしかった。こんな世界 良き仲間と があるんだなあ、と鮮烈に記憶している。 ライバルたちとの交流 と も か く 森 重 さ ん は カ ッ コ よ か っ た。 亡 私が今サッカーに関することで楽しみに していることは、 リー ガエスパニョー ラの くなるまで、ずっとカッコよかった。 いつの頃からか、そんな森重さんを囲 んで食べて飲んで、好きなことを言い合 年の卒 業 生を中心 観 戦と 昭 和 とする東大OB、一橋OB、東大職員チー 年 から う小さな会ができた。主にマスコミ・広 告 業 界 で 働 い て い る メ ン バ ー が、 大 先 輩 ムとの年1回の定期戦参加です。1995 社 会 心 理 学 者のエーリッヒ・フロムは、 ファシズムへの傾倒を、 自由を獲得した近 の森重さんにもズケズケとモノが言える 少し前の経済誌に、我が大学は大企業へ の就職率がトップということで紹介されて 年東大卒 代人が、 孤独に耐えかねて、 帰属を求め、 の池森さんが中心となって発足した定期戦 年 卒の山 根さんと昭 いました。皆さんはこの不況下にあっても、 権威に服従した結果と分析しています。そ 卒 )、 あり余るバイタリティと好奇心を持ち、 貴 うした 傾 向は、 現 在で言 えば、 所 謂、 指 なると思います。 卒 )、 田 中 剛 君( 昭 示 待 ち人 間の増 加や、 自 分 探しの長 期 化 さて、弁護士としての日常は、事務所で、 電 話やら打 合せやら判 例 調 査やらド ラフ 卒)、そし という 現 象に結 びついているのではないで トや らをしているというのが大 半ですが、 卒) 、島田喜広君(昭和 決定に戸惑い、立ち止まり、選択の余地の しょうか。 人は、 自 由 過 ぎる結 果、 意 思 五 味 正 秀 君( 昭 和 ラ ー メ ン バ ー は 福 本 浩 君( 昭 和 です。 す。 すが、 その後 退 職 し、 現 在は小 さな 独 立 さて、かく言う私も、バブル冷めやらぬ ころに、 大 手 金 融 機 関に就 職 した わ けで 和 11 らいました。 て い る 佐 藤 博 子 さ ん( 昭 和 6 の 一 面 に「 幻 の 一 橋 サ ッ カ ー 部 応 援 歌 」 重な学生生活を過ごしていることと思いま 両 校は昭 年から昭 年 までともに関 東 大 学 リ ー グ2 部で戦った 良 き ライバル 年に昭 50 て私。時々、イモケンと呼ばれて愛され 51 とした 中、 戦 評、 得 点 者の自 慢 話、 失 点 52 に関 与した 者の反 省 談、 野 次など酒を酌 49 12 71 53 です。 定 期 戦 後の懇 親 会では、 和 気 藹 々 実 に 自 由 な 空 気 が 魅 力 的 だ っ た。 レ ギ ュ 53 津田塾卒) 52 なども加わっていた。会の名前は、いつ 10 50 53 45 40 80 24 55 の間にか「ひざまくらの会」と呼ばれる 59 54 58 52 80 The Yushokai Shimbun 2011 年(平成 23 年)3 月 1 日 (7) 60 人の参加者でにぎわったOB戦 部OBがたくさんいて、東大OBとの交流 チームに入ったが、そこでプレーがうまくなっ ンバーのみならず、 チームのパパさん達 も くなったのだが、その理由を自分なりに分析 部での日 々が私の財 産となっており、 先 輩・ 巻き込み、 昼は一緒にボールを蹴ったり、 夜 大は一橋ではなく京大をライバルと考えて してみると以下の点になる。 ⑴フットサルを 年 6 年 生の卒 業 を 見 送 り、 現 在は1 年 生と 仲間・後輩の皆さんのお陰と感謝しています。 「素晴らしき哉サッカー、ありがたき生涯スポーツ」 いることである。それは一橋と東大がめっ 始めた事。 ⑵ プレーする環 境が適 当(自 分 年長さんの面倒を見ています。 現役時代の私 色気を出している今日この頃です。 武器はボ 卒業を目指し、CBやあろうことかFWにも も、酉松会にサポートされた一橋大学サッカー で非 常に充 実した週 末を送っています。これ サッカーをきっかけとした地域コミュニティー トサルにも時々参加している。しかしなが 年)が幹事をしてくれているフッ 横浜での酉松会OB戦に参加出来た。倉崎 の東大OB(泥蹴会)との試合や、新年の が司令塔で何年も続いている検見川での秋 年) を 崩 し 3 か 月 ほ ど 会 社 を 休 ん で し ま っ た。 学 後 ま も な く 大 学 を 休 学、 自 分 自 身 も 体 調 親 が 相 次 い で 亡 く な り、 娘 が 大 病 を し て 入 告げたまでは順調であったが、その後、両 の戦いとしたいものである。そのためには、 開催はできれば交互にホームとアウェイで 酉 松 会 の 一 体 感 が 増 す こ と は 間 違 い な い。 えて健康にも気を配り、勝負にこだわって い試合が出来る必要があろう。定期戦に備 現役から若手OB、年配OBまで幅広くい と思う。重みのある定期戦にするためには、 にとっても酉松会にとっても有意義なもの 現役とOBが一体となって、東大との定 期戦を開催することに出来れば、現役選手 の定期戦がない。 に継 続できた。 メンバーは 考 慮しつつ、 週 1 回のペースでコンスタント ジョイ。土日の早朝なので、天気、体調等を スで、 集 まったメンバーでフットサルをエン 朝 8 時から2 時 間、コート 4 面 使って 分のゲームを2、3回続けては1回休むペー 日の個人フットサルである。 寄 与 したと 感 じるのが、 5 年 程 度 通った 土 タントにボールを蹴ってきた。 特に、 上達に 体 験。 その後 自分のサッカーもさることながら、 小学生 のコーチングにも深く携わるようになりまし 日です。 カー漬けで、 週末が待ち遠しくてならない毎 るようになりました。気がつけば、毎週末サッ 学校入学と同時に地元サッカーチームと関わ ております。現在大学1年生になる息子の小 縁あって、1997年末から横浜市青葉区 あざみ野( 東 急 田 園 都 市 線 沿 線 )に在 住し に囲まれて、本当に幸せです。 元気に楽しくボールを追いかけています。サッ きも、上手い者も、そうで無い者も、毎週末 高校生、上は 歳台の大先輩まで、老いも若 にそのモットーの通り、幼稚園児から小学生、 す。モットーは「揺り篭から墓場まで」。まさ との繋がりを大切にする素晴らしいチームで さい。お待ちしております。 東 急 田 園 都 市 沿 線の皆さん、 是 非、 日 曜 日の午前はあざみ野第二小学校に来てみて下 世間は狭いですね。 君( 昭 代、 年 間、 週に1 ~ 2 回コンス 歳くらいに誘われて初めてフットサルを ら 家 族 に は、 お 父 さ ん は サ ッ カ ー が 下 手 だ 御殿下の立派な人工芝のグランドに釣り合 くほとんど経験者。テクニックのある彼らと 年目と節目 代 が多 の切り替えの速さ、 ポジショニング、 ボール のプレー、 キック・トラップの正確性、 攻守 た という印象を持たれているのが残念であ うようなグランドが小平にも欲しい。そう た。 因みに、 自 分のサッカーではG Kからの よ う や く 調 子 が 戻 り、 山 根 先 輩( 昭 る。 いうことが出来るように、自分の出来るこ ンバーヘッドです(笑) 。 のコーチングは去 は飲み会でサッカー談義で盛り上がったりと、 たに同じリーグで戦わないということもあ のレベルより上)だったこと。 ⑶楽しみなが 小 平での数 々の思い出が、つい昨日のこと の様に目に焼きついていますが、いつのまにか を知っている会 員 各 位が聞 くと笑っちゃうか 最近では、 3年下のK君も をきっかけに 入会しました。 東大サッカー部の先輩OBも 機会が非常に多い。そこで感じるのは、東 歳を過ぎてからうま るが、東大と京大がOBを含めて定期戦を ら、一定期間のめりこんだこと。 満で 歳になりました。諸先輩の皆様、現役 もしれませんね。「お前がフィールド?お前が 数 名いて( 東 大 泥 蹴 会メンバー) 、 その中に たということはない。 昨 年 は 我 が 家 に と っ て、 大 変 な 年 で あ っ た。4月に子供たちの高校・大学進学とあ 行っていることにあると思う。ボート部は の諸君には大変ご無沙汰してしまい、 恐縮し コーチ?」って・・・ いたという方(Iさん)もいらっしゃいます。 今年は卒業 年を迎える。昭 年の卒業 同 期 は 名 い る が、 皆 そ れ ぞ れ に 要 職 に 就 年目、 日置 慶太 年卒、新日鉄住金ステンレス勤務) まねで習得。 狭いコートなので、ワンタッチ い て 頑 張 っ て い る。 の年には浜名湖や宇部で集まったが、今年 は 京 都 で 集 ま ろ う か と 勝 手 に 考 え て い る。 挙 句の果てには、 あざみ野 キッカーズのメ カーとあざみ野キッカーズ好きの地元の仲間 は都立T高校で我がY先輩とサッカーをして まずは以下URLをクリックしてみてくだ さい。 幸松 栄夫 年卒、日産自動車勤務) http://home.t03.itscom.net/azk/ (昭和 編 集 後 記 私が現 役 時 代には、 O Bの世 代 区 分は 戦前卒と戦後卒でした。昭和 年ごろで、 社会人リーグの実戦から日本サッカーを思う い止めることはできても、 ボールを回され足 年で区 切りもよく、 戦 あった。 前 卒は「大 先 輩」 と別 格 扱い、 戦 後 卒は 年代までと我が世 身近な兄貴分の「先輩」という感じでした。 代以降とでは大分違うなということに気づ しばらく経って、昭和 スを 与 え な け れ ば 何 と か 失 点 を 最 小 限 に 食 2 0 1 0 年シー ズン私の所 属 するチーム は、社会人神奈川県2部リーグを戦った。神 を持たない時の動 きなどが特に重 要。 周り が徐々に見えるようになり、パスが出せるよ 戦前 と若く良く走るチームが多いリーグだ。 対す は素 晴 らしいことであるが、 8 年 前の方 が、 日本代表をはじめ、ボール支配率を高める スタイルが確 実に底 辺まで浸 透していること 高校の部活を辞めて時々一緒にフットサルを 最近、似たような事例を発見。一緒にフッ トサルをやっている高 校 生は1 年ほど前に、 カーがうまくなっていた。まさに継続は力で 凝っていたゴルフもやめて、気が付いたらサッ 加したり、のめりこんでいった感覚。一時期 よ うにとにかく繋いで来る。スペースが空い やってくるよ うになった。 ボールを失わない ムがDFラインからのビルドアップをしっかり 付いた。 まず各チームの戦い方。 全てのチー 我がチームの2 部での戦いは8 年ぶりだっ たが、 その以 前と比 較して幾つかの違いに気 プと今後の方向性についてコメントしたい。 た幾つかの点から、日本サッカーのレベルアッ の結果はさておき、リーグを戦う中で気付い 来ずに3部降格が決まった。ここでは、 試合 を高めていくことは必須ではあろうが、 更に 日 本の目 指 すべき方 向 性としてポゼッション てしまっているのではと思えた。世界において でも打開できる能力を向上させる機会が減っ ポゼッションを高めるスタイルの中では個を 前面に出したプレーは限定され、局面を単独 てしまう緊張感があった。 手等がおり、ちょっと隙があると一発でやられ が強い選 手、一人でドリブル突 破ができる選 物 凄 くスピードのある選 手、 滅 法ヘディング 年 以 降の方があまり見 当たりません。 今 回は世 代 構 成で若 干 バランスを 欠い てしまいました。 西 暦で見ると 2 0 0 0 にできないなと。 れと思いました。もう平成も 年、一括り 「 スを考えます。 単純に若い世代の「平成」 最近の区分は昭和と平成でしょうか。ご 寄稿をお願いするに当たって世代のバラン きましたが。 の日本リーグチームとも試合を行い、一生 立 ) や 浦 和 レ ッ ズ( 三 菱 ) に あ た る 社 会 人 張った。今でいうJリーグの柏レイソル (日 宿 や 遠 征・ 試 合 も 手 を 抜 か ず に 必 死 に 頑 真っ暗になるまで練習に打ち込んだし、合 そのことついては誇りを持っている。連日 動 だ け だ っ た と 言 う べ き 生 活 で あ っ た が、 あ る。 学 生 時 代 は ほ と ん ど サ ッ カ ー 部 の 活 やるようになった。 週に1,2回フットサル 高みを目指す上で必要とされることは何なの 代のおっさん」 という文 言を見てあれ と 考 えていたのです が、 平 成 卒の投 稿に をやっているだけのようだが、この半年でも てくると、 そこからドリブル、ワンツーで仕 年近く、歴史の糸を紡いでいくためにも 年卒、相良 保彦) 世紀先輩のさらなる登場に期待します。 (昭和 20 21 23 40 ある。 私は現 在 歳であるが、 学 生 時 代よりも サッカーがうまくなっている。 私の学生時代 のすごくうまくなった。なんとなく私の3原 57 21 サッカーがうまくなる。 懸命に努力した。唯一心残りは、東京1部 のプレーを知る前後の代の人からもそのよう ため、 正しいポジショニングを取り、スペー 角井 朋之 年卒、味の素勤務) リーグの最終戦で不可解な判定で東大に引 き 分 け、 関 東 リ ー グ 復 帰 の チ ャ ン ス を 逃 し に入ってからサッカーを始めたので学生時代 考にして頂ければ幸いです。 年 程 度、 会 社のサッカー (平成 世紀卒と 世紀卒の区分が必要だったので たことである。痛恨の思い出である。惜し は下 手 だった。 ボールが足に付 かず、 周 り 大 学 卒 業 後、 が見えていないプレーヤーであった。 倉崎 嘉幸 (昭和 年卒、日本GM勤務) いところで昇格を逃しているここ数年の現 会 社 に 入 っ た ら、 社 内 に は 東 大 サ ッ カ ー 41 役選手も、同じ気持ちであろう。 10 プ・パスの技 術はかなりうまくなった。 その か、 次のブラジル大会までに強烈な個の力が 歳のサラリーマン 年、 戦 後 が止まると一気に失 点を重ねるという具 合で のトップチームが主体で平均年齢は 奈川県リーグは3部制で、2部は地元クラブ ボールタッチも少しずつ改善。 チーム、 2 部 残 留 を 目 指 したが、 1 勝 も 出 る我がチームは平均年齢 うになっていった。ボールに触る頻度も多く、 体力も戻ってきて、若手にも走り負けない ようになってくると、 週末が待ち遠しくなっ 歳程度 てき た。 そのう ちに、 平 日 夜にもフット サ 40 掛けてくるが、無理しては仕掛けては来ない。 人 制のチームに参 20 仕事の話はほとんどせずに学生時代の昔に Jr 48 則もあてはまっている感じがする。 特に最近 ルを 加 えたり、 土 日に 20 戻ってワイワイやれるのは、自分のルーツ 70 10 に指 摘されるし、 自 分 自 身そう思 う。 大 学 30 20 感じるような気持ちになって嬉しいもので 30 しょう。反省しています。酉松会も100 30 ある。 年)が東大御 私は現在ステンレス鋼の営業をやってい る が、 こ の 仕 事 を や っ て い る の も 4 年 生 の 時、 新 日 鉄 の 押 本 先 輩( 昭 61 20 10 40 備わってくることを期待したい。 殿下グランドに採用に来てくれたおかげで (昭和 一緒にプレーしながら 色 々 な 技 を 見 よ う 見 1 9 8 6 年 卒、 幸 松です。 現 役 時 代はG Kをやっておりました。 わ せ て、 8 年 ぶ り に 大 阪 単 身 生 活 に 別 れ を 伝統の東商戦があるが、サッカーは東大と 結 婚して、 二 人の子 育てに追われ 代は サッカーから遠ざかった。 子育てが一段落し ております。 ここからは我が地元チーム、「あざみ野キッ カーズ」の宣伝です。1983年創立、地元 東大との 定期戦開催を願う Jr 今回は近況報告を兼ね、生涯スポーツとし てのサッカー礼賛です。 40 とを少しずつやってみたいと考えている。 30 Jr 11 50 11 52 サッカーから遠ざかっている会員各位に、 参 過ぎてから 56 56 25 48 個 々のプレーにおいては、 基 礎 技 術はしっ かりしている選 手 が多 くなっており、 ト ラッ 40 20 30 57 10 (8) The Yushokai Shimbun 2011 年(平成 23 年)3 月 1 日
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