幻 の 一 橋 サ ッ カ ー 部応援歌

幻の一橋サッカー部応援歌
http://old2.josuikai.net/
circle/soccer/
3.夏は合宿の汗
朝から晩まで真っ黒け
れなかった。しかし、この時、柳沢は右
の ア ウ ト サ イ ド で キ ッ ク し て い た の だ。
1 組 同 ク ラ ス で、 勤 務 先 も 三 菱 商 事 と
と は 予 科 同 期 の 土 屋 五 郎 さ ん、 予 科 は
正月の五日に、昨年暮に亡くなった青
木育郎さんの葬儀に参列した。青木さん
思議なもので、球を相手の頭上を飛び越
を振るった。その足技は当時としては不
センター・フォワードとして、得意の技
先垂範の猛練習をやった。ごろちゃんは
主将が可愛い顔に似ず阿修羅のごとく率
ウトサイドでキックした。
したい、一瞬でも早くと。そのためにア
か。ともかく一瞬でも早くボールタッチ
れども、瞬間的にこう考えたのではない
はこう思った。柳沢は何も弁解しないけ
いた。そうだったのか。それを知って私
東京商大サッカー部美男子銘々伝
同 じ 前 川 一 郎 さ ん( ボ ー ト 部 )、 そ れ に
さして抜くとか、ボールをキープして相
私はインサイドで蹴ったとばかり思って
年卒)らと葬儀の
夜空の星にあの娘が笑う
4.秋は心が騒ぐ
後輩の中路君(昭和
明日はグラマネふとんむし
今日から地獄のリーグ戦
ティエリア内でのボールタッチの遅さ
れないシーンがいくつもある。それは貴
たくなる。
私が昭和 年に予科に入った時のセン
ター・フォワードは広島一中出身の片山
重な財産とも言えるものではないだろう
おかげで私のような走りしか能のない男
光夫さんであった。この人は男性的美男
か。
もフォワードに起用された。
子で「チャング」と呼ばれていた。チャ
サッカーとはかくも、一瞬一瞬が面白
さに満ちている。何年経っても、忘れら
バー、マネージャーの現役全員、それに
ている。中島主将は「悔しく、情けない
今年度に向けての課題も浮き彫りになっ
だった。
彼を見に来る女学生がいるということ
も前の、青春のあの時代に帰ったような
雰囲気は変わっていない。
ひとつのシーンがページをめくるように、
くと怒られたなあ、と、それこそひとつ
O・I(サッカーOBインターハイ)の
年卒)
メンバーとしても活躍した。
一郎(昭和
つくって欲しいものだと、切に願う。
現れて来る。 現役諸君には、何十年先
にも残る貴重な財産を、ここでいくつも
ドイツ・ニュールンベルク。この地で
初めて念願のワールドカップの日本戦を
年卒)
土井 徳秋(会長、昭和
何故、あんなところにボールが飛ぶの
か、目の前で見ていてもまったく信じら
はるか右に戻るように飛んでいた。
ルは信じられない角度でゴールポストの
と立ち上がった瞬間、柳沢が蹴ったボー
パスが入って来て、あ、絶好のチャンス
が目の前で見える席。右からゴール前に
座った席は、ちょうどこの柳沢のプレイ
と し て 非 難 の 嵐 を 浴 び た 試 合 だ。 私 が
け。柳沢が決定的なチャンスをはずした
結果は、ご存知のように0対0で引き分
見 る こ と が で き た。 日 本 対 ク ロ ア チ ア。
サッカーは、財産
奥村
ああ、ここで「十七秒四十三秒」の特
訓をやったなあ、グラウンドにツバを吐
気になる。グラウンドの角度は九十度変
が、全ての部員が多くのことを学んだと
わったが、あの土の色や、まわりの林の
年サッカー部が2部に落ちて、瀬藤新
O B に と っ て も 残 念 な 結 果 に な っ た が、
ングとはライオンのことだといわれたが、
日本・小平。このグラウンドを、現役
の応援のために訪れると、すぐに四十年
「 土 屋 ご ろ ち ゃ ん 」 は、 浦 和 中 学 出 身
のアポロのような美青年であった。昭和
た。
し合った。
手に渡さないなどの高級技術を自分で編
浩(昭和
サッカー通じて集まって
5.生まれは違うけれど
後、火葬が終わるまで、控え室で青木さ
は、何度も指摘される欠点だ。そのため
ああ、一橋、一橋、サッカー部
勝った負けたに泣き笑い
昭和 年の大学リーグ戦は、戦争のた
め春に行われて、相手のチーム数も減り
にシュートチャンスを失うケースが多い。
レェー、スティービー・ワンダー、綾戸
も う 年 も 前 に な る。 大 学 の 四 年 に
なっても将来何の仕事をしたいのか、わ
ビデオや音楽番組も作ることができたか
3戦全勝で優勝して一部に昇格した。学
そう考えると、中学からずっとフォワー
それが結果的に激しい批判を浴びるこ
とになる。しかし、日本の選手のペナル
からなかった。サッカーとマージャンに
ら、留学も無駄ではなかったかな。
青木さんは好男子であり、楽しい話術
で食堂の女の子をからかって、笑わして
部の三年、二年と予科三年、二年の混成
ドだった私は、今でも少し柳沢を弁護し
み出していた。
明け暮れていたからね。仲間が次々と銀
いたのをよく見た。戒名に「諧温」の二
チ ー ム。 青 木 さ ん が 体 調 を 崩 し た の で、
んを偲び、予科時代の楽しい思い出を話
行、商社、メーカーに就職を決めていく
字があったが、よく人となりを表してい
福本
年卒)
四年の苦しさ切なさよ
中、 迷 い 続 け た。 毎 日 ネ ク タ イ を し め、
久しぶりに応援歌を書いた時のメモを
引っ張り出し、ながめていたら、自分の
酒と女とマージャンと
公表するのは勇気がいったが、まあいい
部復帰を目指し、中島聡太
16
後輩で思い浮かぶのは、橋本昭一君(昭
和 年卒)だけだが、中々の美男子で、
S・
をばねにした全部員一丸となった巻き返
思う」と語る。つらい今シーズンの経験
月に開幕、一橋は1勝5敗3分の勝点6
しに期待したい。
降格が決まり、来年度は東京都3部リー
グでプレーすることになる。
今年度は最上級生が 人と戦力も充実、
仕上がりも順調で、前年度あと一歩で及
ばなかった
主将のもとリーグ戦に臨んだ。
しかし初戦の対明治学院戦で開始直後
にGKが退場、 人で戦うことになり1
対4と敗退した。スタートのつまずきが
後を引くことはなかったものの、決定力
不足もあって波に乗れず、2戦、3戦は
無得点で引き分けと敗戦に終わった。
第4戦にようやく攻撃陣の頑張りで5
対1と快勝したが、5戦、6戦はつきに
も見放された。7戦、8戦も最後のダメ
押しができず、結果は痛い引き分け。
月 日、最終戦の対東大は力尽きて敗れ
試合メンバーはもちろんベンチメン
た。
18
智恵、桑田佳祐、井上陽水などのライブ
毎日決められた時間に会社へ行かなきゃ
進むべき道を探そうともがいていた当時
わが一生の良き仲間
がしたいと思った。ジャズ評論家、
レコー
や。どうぞ笑ってください。
3部に降格、
来期の巻き返しに期待
─ 東京2部リーグ戦 ─
年度の東京都2部リーグは昨年9
で 校中9位となった。この結果、2部
平成
17
なった。おそらく外岡さん以外には誰も
当時の私はジャズが好きで、何となく、
歌ったことがないであろうこの応援歌を
本当に何となく漠然と、音楽関係の仕事
ド・ディレクター、ラジオの音楽番組の
ディレクターなど。とにかくジャズを本
われらが学園西町は
ュートの花が咲く
今日もシ
いっきょう
ああ、一橋、一橋、サッカー部
粋な男の集まる所
場で学びたい。ただそれだけの気持ちで、 1.東京は西のはずれ
年ぐらい独学で弾いていたギターを片
手にアメリカへ渡った。
初めての海外への旅だった。日本語に
も翻訳されているジャズの教本を書いた
2.春はまぶた重く
ていることを知り、ロサンゼルスで英語
先生が、テネシー州の大学で講座を持っ
を半年間勉強した後、昭和 年の1月に
ああ、一橋、一橋、サッカー部
やっぱりボールが恋人さ
好きなあの娘のひざまくら
ずっとこのまま寝てたいけれど
入学した。
それから間もなくサッカー部の監督を
していた外岡さんから手紙が来た。応援
歌 を 作 っ て く れ と い う 依 頼 だ っ た。 な
ぜ???その唐突さに驚きもしたが、素
直だったから何とか作った。初めての外
国生活、まだ友だちもいない、英語もよ
く 話 せ な い。 多 分 さ び し か っ た ん だ ろ
う。応援歌というより、センチな青春歌
になってしまった。その後、後輩たちが
歌ったかどうかについて外岡さんは口を
濁している。推して知るべし。
現在の私はフリーランスのディレク
タ ー と し て テ レ ビ の 番 組 を 作 っ て い る。
音楽関係の仕事につくことはできなかっ
12
31
52
ああ、一橋、一橋、サッカー部
いけないような人生はイヤだった。でき
を思い出し、なんだか甘酸っぱい気分に
カー・ピーターソン、カーメン・マック
一橋大学
ア式蹴球部
れば自分が好きなことを仕事にしたい。
32
酉松会
ああ、一橋、一橋、サッカー部
30
たが、ネクタイもしめず、自分の好きな
10
21
19
10
時 間 に 仕 事 が で き る 人 生 を 得 た。 オ ス
10
45
1
53
10
28
創刊号
The Yushokai Shimbun
2008 年(平成 20 年)2 月 15 日
(1)
戦いを
終えて
の面においても、いいところまでいくが、す
んでのところで、ころっと状況が変わり、結
果が伴わないなんてことはしょっちゅうで
土 壇 場でみえた課 題
ペ ー ス で し た。 そ の な か で、 中 島 が 得 点 し、
多くのものをもらったし、彼らのおかげで人
間的に成長できたと思う。本当に感謝してい
る。自分の人生の中でこの秋季リーグは絶対
に忘れられない。
雄介(4年)
浅沼
逆転に向けての期待が生まれました。高田の
年であったが、そ
第7節を終えて、一橋の順位は 位で勝ち
点は5、9 位の創価は勝ち点 が4、その差は
ミドルシュートがバーを叩くなど、惜しい場
あった。なんとも苦しい
んな中でも同期は嫌な顔ひとつせず、お互い
1しかありませんでした。そのため、降格を
よみがえるレッドカード
を支え合い、よく助けあえた。秋季で1勝3
面も何度かあったのですが、結局、追加点は
た時には、涙が溢れて止まらなかった。自分
避けるためには、次の試合で勝つことが求め
が退場したことで交代せざるをえなかったメ
分5敗という屈辱的な結果が出たために、今
る レ ッ ド カ ー ド。 サ ッ カ ー 人 生 で 一 度 も も
ンバーと残り 人で戦わなければならなかっ
ピッチを出た後も、しばらくは何も考えら
れなかった。しかし、GMの木村と赤星監督
らったことのないこのカードを前にどうして
「 ピ ィ ィ ー!!」 と い う 甲 高 い ホ イ ッ ス ル
の音と駆け足で走り寄ってくるレフェリーを
いいかわからず、ただ呆然とピッチを去った
たチームに迷惑をかけてしまったことへの後
奪えず、
引き分けでした。「あと少し頑張れば」
しからシュートまでいった攻撃と、この秋季
ことだけ憶えている。
られていたのです。私たちが、この事実を受
第8節の学習院戦でした。
のなかでは、かなり良かったと思っています。
悔しさでいっぱいだった。もし、あの時・・・
はゆっくりと自分の時間を過ごしてはいるも
うに違いない。
実際に試合が始まってみると、その気迫は
スターティングメンバーをはじめ、チーム全
しかし、良いゲームができても勝てなければ
時は9月2日、秋季リーグ開幕戦。相手は
明治学院大学。チームは夏合宿を始めとした
していなければ、もし、あの時・・といった
に「おまえは悪くないぞ」と言葉をかけられ
勝負事に勝ち負けはつきもの、昨年のよう
に降格する年も、 年前のように昇格する年
体にみなぎっていました。序盤は押し込まれ、
意味がなく、その点が今年のチームでは課題
苦しい夏を乗り越え、フィジカル的にもメン
空しい想いが頭の中を回っていたように思う。
見て我に返った。そして自分に突きつけられ
もある。終わった身であるので、このように
何度かの危ないシーンもディフェンスを中心
でした。
タル的にも最高潮で、スタメンもベンチの応
という思いが多くの部員にありました。
無責任な態度をとらざるを得ないが、正直な
に集中して凌ぎ切りました。その後、中盤あ
援もマネージャーも全員が一丸となり戦う準
試合は結局1対4で敗れ、秋季のスタート
ダッシュに失敗してしまった。それでも、必
け止めながら、
「絶対に降格したくない」
、
「絶
して消え、気づけばもうあんなにも遠くへと
ところ悔しい。何がいけなかったのか、どこ
たりから流れを取り戻していきました。ただ、
私たちの学年は最後までこの課題を克服で
き ま せ ん で し た が、 こ の 経 験 を 来 年 以 降 も
備はできていたように思う。もちろん自分も
死に戦ってくれたスタメンの選手と試合が終
のの、僕たち同期は間違いなく、昨年味わっ
離れていた。
で間違えたのか。何度も思い返す。そのたび
流れの良いときに点を決めることができない
残 る 部 員 た ち が し っ か り と 記 憶 し て、 次 の
調子は最高でやれる自信はあった。
今シーズンを
ばねにして
最後の年にして、 勝することの難しさを、
実感をもって知った。僕が 年の時にも、秋
に、情けなく思う。しかし、このつらいシー
のが今期の悪い点であり、逆に前半の終盤に
ステップに進むために活かしてもらいたいと
対に勝つんだ」という意気込みで臨んだのが、
季なかなかうまくいかず、先輩たちが苦渋の
ズンを潜り抜けたすべての部員は、多くを学
は、相手にコーナーキックからの得点を許し
手が届きそうで手を伸ばして、いざつかん
だと思えば、砂がすり抜けていくかのように
表情を浮かべていたのを覚えている。
しかし、
んだのではないかと思う。だからこそ期待し
悔と、チームのためにプレーできなくなった
しかし不思議なことに、調子のいいときほ
ど思ってもいない出来事が起こるものだ。試
イト全員で取った意地の1点はサッカー部を
くれた応援団のみんなの姿、そしてチームメ
わる最後の最後まで声を出して応援し続けて
合開始早々、バックパスのミスが相手FWに
引退した今になっても大切な思い出であり宝
昇(4年)
思っています。
拾われて1対1の状況。正直自分はこのとき
物であって、それはこれから先もずっと変わ
影山
う自信と、
「絶対に勝とう」という気迫があ
のことを憶えていない。ただ、ここで点を取
失点はしたものの、ハーフタイムのベンチ
には、
「試合のペースをつかめている」とい
りました。後半、選手の動きは良く、一橋の
の後は最初に書いた通りである。
桜井 基貴(4年)
らないだろう。
あの一瞬から学んだこと
月 日 対東大戦 前半を折り返して0
対1の状況。ハーフタイムには、悲壮感がた
む必要性があるのではないかと思います。
を考えたときに、上記の課題に真摯に取り組
得点源であったFWの中島が抜けます。これ
中、常に声を出し、チームを鼓舞した佐藤に
分を信頼し、使ってくれたGMの木村。試合
それもいい思い出の一部になっているような
いことや辛いこともたくさんありましたが、
今季の部活を振り返ってみると、楽しかっ
た思い出しか浮かんできません。確かに苦し
に笑って一緒に悩んで、お互い信頼できる仲
人には感謝の気持ちを伝え切れません。一緒
がします。特に同じ学年のマネージャーの
仲間がいて自分がいる
だよっていました。「シュートまでいくこと
かと考えていた。そのために初戦に勝って勢
は勇気をもらった。一番支えられたのは桜井
間たちとプレーヤーの雰囲気だったような気
ができない」。後半は、まずこの状況を打開
最後に、秋季大会とは別に土曜日に行われ
ていた、Bチーム中心の練習試合の結果につ
い を つ け る こ と が 大 事 で あ り、 相 手 は 格 上
周りは自分を支えてくれた。桜井が退場し
た 直 後「 一 人 ひ と り が 倍 走 れ ば い い 」 と
することが至上命題でした。しかし、後半も
得
ことができました。今まで、大量失点で負け
K桜井が退場となった。
だったが、普段通りの力を出せば絶対に勝て
欠場し、秋季を終えてしまった。
組んでいた。
失った桜井はその後の練習でも誰よりも声を
の 練 習 姿 勢。 初 戦 の 退 場 を 境 に 出 場 機 会 を
3年間マネージャーという立場で部活をや
り遂げることができたのは、マネージャーの
話題などが私の心の中に残っています。
楽しかったこと、その当時にみんなで笑った
しい仲間を迎えて、三商大戦、夏合宿、秋季
気がします。天皇杯や春季リーグ、そして新
す。そして、マネージャー自身ももっと部活
力を感じてくれていたらいいなと思っていま
たちも部活を良くしようと必死で努めてきま
テーピングの練習やシフトの組み方など、私
間ができたことは一生の宝物になりました。
フォローしてくれた鄭と中島。初戦以降も自
中盤に差し迫ったころ、さらに1点を叩きこ
いて報告します。昨年は、計8試合で、
続きのBチームが、4対2で勝利を収めたの
その瞬間、頭が真っ白になり、何が起こっ
たのかよくわからなかった。試合中、退場し
仲間がいたからといっても過言ではありませ
を楽しんでほしいと思っています。
た。失点が 点と、リーグでも6番目の失点
15
失点と全体としては満足行く結果とはい
です。得点者は、1~3年のメンバー。そし
が決まった時は本当に申し訳ない思いでいっ
ん。マネージャーのOGの皆様も何度もなぜ
しかし、自分はチームに何も貢献すること
ができなかった。怪我で第 節以降の試合を
部に降格
年で得たものはたくさんあると思います。
今 季 の 成 績 は 悔 し い も の で し た が、 こ の
であったことを考えると、「決定力」の無さ
て、何度もピンチを防いだのは、まだ秋季と
た桜井と控えGKと交代したFW斉藤が泣い
ぱいだった。
自分がこの部活に所属しているのか、自分の
酉松会の皆様も、ご支援やご声援ありがと
うございました。
秋季直前からチームはいい方向に向かい始
め、この調子なら 部昇格できるのではない
まれ、そのまま試合は終了した。
るとも思っていた。
がうかがえるのではないかと思います。
いう舞台にたっていないDFの小林悠二(2
ている姿を見ながらプレーするのはつらかっ
なすべきことは何か、迷ったことがあるので
カー部を繋ぎとめるものはマネージャーの仲
大竹
惟(3年・マネージャー)
した。プレーヤーのみんなもマネージャーの
1
「決定力」という課題に対しては、個人練
習でも取り組んでいました。しかし結果的に、
年)でした。来年の秋季大会では、このとき
た。このまま試合に出続けていいのかと思っ
秋季が終わって ヶ月以上が経過し、冷静
になって 振り返ってみても、と ても「悔い」
大学でのサッカー生活を共にした同学年から
3
リーグ。どれをとってもマネージャーの中で
年通して成果というものは思うように出せ
のメンバーが主力になるでしょう。格上の日
た。しかし、自分にできることは目の前の試
5
出し、自分の出番を信じて懸命に練習に取り
なかった。特に、チャンスが少ない中で決定
大文理を破ることのできた、下級生には今後
とは許されなかった。
的なシュートを外していた試合が、他のチー
辰徳(4年)
はないでしょうか。そんなときに、
自分とサッ
木村
が残る大学最後の秋季リーグだった。しかし、
2
合を精一杯戦うことしかなかった。逃げるこ
1
大いに期待を持つことができるでしょう。
17
ムよりも多かったのではないかと思います。
「決定力」を培えなかった理由は、練習試
1
16
点
えませんでした。しかしながら、対東大戦前
秋季開幕戦は一生忘れられない試合となっ
た。
間ペナルティーエリアを飛び出していた。そ
られるのだけは避けなければと思った次の瞬
当時自分の力の無さのみを感じ、ことの本質
聡太(主将、4年)
てしまいました。
を。
中島
10
思えば、秋季リーグは「決定力」の無さを
浮き彫りにするものでした。9試合通じて、
分に行え なか ったかもしれま せん。来期は、
中に「得点」を確実に決めるという練習が十
ムとの試合が多く、成功体験、つまりは試合
います。
練習試合でも、
2部リーグ以上のチー
合での成功体験の無さだと個人的には思って
たい、僕たち反面教師を見た後輩たちの活躍
た苦しい経験を懐かしく思いながら、話し合
8
この学習院戦を振り返ってみると、中盤で
の競り合い、最終ラインでの守備、ボール回
1
が見えていなかったのだと、 年後の今、気
づかされてしまった。
振り返ってみても、この 年は試合以外
「決定力」を
どうつける
3
日の日大文理では、今後の「希望」を見出す
1.1
1
3
1
1
得点とリーグで9番目の結果に終わりまし
28
しかし、その大事な試合、開始 秒で自分
がバックパスをミスしたことをきっかけにG
10
10
1
35
(2)
The Yushokai Shimbun
2008 年(平成 20 年)2 月 15 日
OB観戦記
置き去りにされているもの
ダ イ レ ク ト で な け れ ば、 敵 に 詰 め ら れ て し
試 合 1 得 点 す る 練 習 ② D F・ M F が 前 線
へロングフィードするキック練習③基本技
全員参加の意識
住まいの荻窪から小平グランドまで車で小
1時間という近距離にも恵まれ、現役の試合
た。その後の2戦も勝点3を挙げるべく善戦
ネットを揺らし0対1と運命の一戦を失っ
シュートがイレギュラーしGKの手を掠め、
ニューに取り入れることを希望する。
な能力向上を狙いとしてGM・監督が練習メ
術構成の素となる個人技の速く、強く、正確
ヘディング・カット他)の基礎練習、など戦
の ピ ッ チ に 立 っ て い た と 思 う と、 時 の 流 れ
合 観 戦 に 行 き ま し た が、 一 年 前 に 自 分 が こ
ま だ 残 暑 の 厳 し い 9 月、 秋 季 リ ー グ が 開
幕 し ま し た。 私 は 開 幕 戦 を 含 め、 合 計 3 試
(シュート・キック・ドリブル・フェイント・
や練習にはしばしば顔を出している。そうし
したが、上智戦は3対3、学習院戦1対1の
得点力のアップを
た経緯もあってか、リーグ観戦記を依頼され
気 持 ち に な り ま し た。 そ し て、 広 い ピ ッ チ
上 を 最 後 ま で 決 し て 諦 め る こ と な く、 全 力
で 走 っ て い る 現 役 の プ レ ー す る 姿 を 見 て、
前 で 合 わ せ ら れ な い、 の は 当 然 よ く あ る 事
連続無得点で勝星を逃した。漸く4戦の日大
た。成城戦は0対0、日大生資戦は0対2と
人で戦うハンデもあって1対4と大きく躓い
、得失点差プ
因みに念願の1部昇格も夢ではなかった前
年の戦績は次の通りであった。5勝2敗2分
無失点試合1という結果であった。
るために下がったのだと割り切って捲土重来
今年は四年生が大量 人も部を去るので戦
力レベルの維持・向上が厳しくなるが、上が
習や実戦なのである。
るメンバーだけが戦っているわけではあり
い と い う こ と で す。 決 し て、 試 合 に 出 て い
観 戦 し て い て 感 じ た こ と は、「 チ ー ム と
は?」 を、 も う 一 度 現 役 の 皆 に 考 え て 欲 し
ました。
気 付 く と 勝 手 に 現 役 の 応 援 団 に 混 じ り、 一
一貫して掲げてきた合言葉は 勝
「 利への努
力 」であった。これなくしては成功の喜び・
の 早 さ を 感 じ る と と も に、 と て も 懐 か し い
歯痒い引き分けに終わり勝ち切れなかった。
最終戦は前年の雪辱を期す東大に0対2と気
た。昨年は降格のシーズンで気の重いテーマ
だが、観ていないOBも多いので、迷文を省
合負けした。
大正 年創部、今年 周年を迎える本学ア
式蹴球部 も昇格・降格を繰り 返してきたが、
みずお引き受けした。
以上の結果1勝5敗3分勝点6 9位で3
部に降格した。戦績を分析すると得点 、失
である。
商戦で持ち前の前線中央ポイントからの展開
勝点
2部復帰を期待している。
緒に大声で応援してしまっている自分がい
昇格5回、旧制度でのプレーオフ進出2回、
声 を 出 さ な い の は 論 外 と し て、 こ の ツ ー ル
や左右のサイド攻撃が実って、5対1と快勝
ラス5、無得点試合2、無失点試合1。
を含めて、全員で戦っているのです。
達成感、失敗の心の支えが得られないからで
降 格 6 回 を 経 験 し て い ま す。 一 度 の 4 部 降
を い か に 効 果 的 に 使 う か。 同 じ「 タ ー ン 」
して溜飲を下げた。
私もこれまで同様差し入れを持って小平に
足を運び、 歳前後の男女部員の若返りオー
ある。これは漫然とではなく目標を持った練
格 を 除 い て 2 ~ 3 部 間 の 動 き で あ り、 こ の
と い う 言 葉 で あ っ て も、 意 味 を 取 り 違 え る
こ の 後 勝 運 に 乗 り た い と こ ろ で あ っ た が、
両年度を比較すると昨年度はテクニカル・
フィジカル能力共に前年度より下振れし、メ
ラを貰いながら応援しようと思っている。O
かにチームの中でピッチ上に立てるのは
今年のチームはそのような全員の意識統
一 が 少 し 弱 か っ た の か な と 感 じ ま し た。 確
で4位、得点
Bの皆さんも大変貌を遂げた小平国際交流
、失点
、 得 失 点 差 マ イ ナ ス 6、 無 得 点 試 合 5、
往復を長きにわたって繰り返しているのが
ようであれば欠陥品だし、単に“どフリー”
トップの立教とは0対2と雨中守備が踏ん張
ンタル面の強さや作戦面の内容も及ばなかっ
キャンパスの見物かたがた現役の応援に行か
点
実情です。
を指すなら不要な飾りものに過ぎない。
り切れず、いよいよ崖っ淵天王山ともいうべ
れたら如何ですか。
ません。ベンチ外のメンバー、マネージャー
学 生 数 が さ ほ ど 多 く な い 大 学 の、 総 じ て
平凡な高校出身選手の集まりである我々が
以 前、 耳 の 不 自 由 な 方 の バ レ ー ボ ー ル を
見て、手はもちろん全身さらに表情まで使っ
たようだ。
特に目立つのは得点力の低下である。これ
を立て直さないと3部の今シーズンも苦戦を
位 が 確 定 だ が、 2 チ ー
ム降格となる9位争いを脱するには当面の
人しかい
ません。しかし、各人が試合まではメンバー
人 で あ り、 ベ ン チ に 入 れ る の は
きないゼスチャーの威力と声のありがたさ
免れないだろう。したがってリーグ開幕前ま
である」ことを意味するのではないようだ。
ま ず「 タ ー ン!」 と い う 声 は 頻 繁 に 聞 こ
える。しかし、彼らにとってそれは「フリー
来ることで置き去りにされているポイント
で し ょ う。 こ の“ 声 ” 以 外 に も、 や れ ば 出
チームをレベルが高いと感じることはない
る立場でもないので、観戦を通じて感じたこ
いる訳でもなく、また技術的なことを云々す
昨年度は春のシーズンに数試合とリーグ戦
7試合を応援に行きましたが、記録を取って
よりもグラウンドの大きさの影響ではな
た こ と か ら 感 じ る こ と は、 人 工 芝 と い う
勝 2 分 け、 ア ウ ェ ー で は 1 分 け 5 敗 だ っ
小 平 で の 試 合 が 少 な か っ た。 小 平 で は 1
優 先 す る だ っ た と か で、 例 年 に 比 べ れ ば
レクトなプレーが多いのは結構なことだ
く る の は、 ス ピ ー ド を 上 げ る た め、 ダ イ
4. 試 合 後 に 他 の 人 た ち と の 話 の 中 で 出 て
明のためだろうか。
の か、 と 感 じ る こ と が あ る の は 小 生 の 不
故あるプレーヤーを途中で替えてしまう
の だ ろ う が、 全 体 の 流 れ、 局 面 の 中 で 何
め交代を有効に使う必要もでてきている
身、 3 年 間 苦 楽 を 共 に し た 思 い 入 れ 深 い 学
労 さ ん の 言 葉 を 捧 げ た い と 思 い ま す。 私 自
と に も か く に も、 秋 季 リ ー グ、 ま た 4 年
間 を 戦 い 抜 い た 現 役 4 年 生 に 対 し て、 ご 苦
なってくれればと思います。
い ま す。 来 期 は 是 非 と も、 そ ん な チ ー ム に
ムが勝利を手にすることができるのだと思
の た め に 果 た す こ と が で き る、 そ ん な チ ー
年卒)
ライバルを叩かなければならなかったから
に 選 ば れ る た め に 最 大 限 の 努 力 を し、 試 合
1 ~ 2 m の 距 離 で D F が 構 え て い て も、 少
は い く つ も あ る と 思 い ま す。 2 ~ 3 部 レ ベ
とを以下記させて貰います。
憲一(昭和
( 重 要 性 ) が そ こ に あ っ た。 使 え る の に 使
でに
し離れたところから全力で寄せてくる敵が
ル な の は 技 術・ 戦 術 だ け で は な い の か も し
では自分に与えられた役割をチームの勝利
いても、
「ターン!」という声がかかる。そ
かったかと思う。
ベルは間違いなく上がっている。
ずく失点したケースが多かった。
備の面では外に振られた場合の対応がま
な か 決 定 的 チ ャ ン ス が 作 れ な い。 一 方 守
で き な い た め、 攻 撃 が 単 調 に な り、 な か
に急ぎ過ぎ外のオープンスペースが活用
小平は縦が短く、横が狭いので攻撃では縦
く 感 じ る の は、 こ こ 数 年 に 卒 業 し た 若 い
5.ところで、最近の試合を見に行って嬉し
が、現役に検討して欲しい点である。
あ る。 こ れ も 外 野 席 的 感 想 か も 知 れ な い
プレーがあっても良いのではとの感想で
落ち着かせるという意識をもっと持った
が、 中 盤 で 試 合 を 組 み 立 て、 試 合 運 び を
ま た 来 年 も 必 ず 観 に 行 き、 声 を 枯 ら し て 応
持ってもらいたいと思います。
しながら4年間を戦い抜いたことに自信を
悲 し み、 悔 し さ、 楽 し さ、 多 く の 経 験 を
て こ な か っ た か も し れ な い で す が、 喜 び、
し く 思 え ま し た。 確 か に 昨 年 は 結 果 が つ い
責 任 感 の あ る 顔 に な っ て お り、 と て も 頼 も
年 で も あ り、 こ の 1 年 間 で 最 上 学 年 と し て
意味合いで使われている。
「ワンタッチで振
ベルと同じで過去と比べれば現役の技術レ
ると思いますが、サッカーの日本全体のレ
り 向 け 」 そ う す れ ば「 飛 び 込 ん で く る 相 手
しかし周りも上がっているため苦戦を強
い ら れ た 訳 で す が、 絶 対 的 に 勝 て な い 相
OBが多数試合の応援に来てくれている
援 し た い と 思 っ て い ま す。 こ れ を 読 ん で 頂
真一(監督、平成4年卒)
をかわせる」といっても良いだろう。
手がいるのでもなければ、結果として勝っ
グランドを変える訳にはいかないので、常
事 で、 現 役 と O B の 絆 を 強 め る た め に も
い て い る O B の 皆 様、 是 非 ピ ッ チ に 足 を 運
赤星
逆 に「 マ ノ ン!」 の 声 は 意 外 に 少 な い。
察 す る に、 常 に 敵 が い る こ と を 意 識 付 け ら
た相手より力が上かと言えばそうでもない。
日頃からオープンスペースの活用と対応
望 ま し い こ と で あ り、 酉 松 会 の 今 後 の 発
ン ス が 広 が る( 可 能 性 が あ る ) ぞ 」 と い う
れているのだろう。
「フリー!」という声も
要はチーム全体の調子、決められる時に決
を意識して練習する必要があると感じる。
ほ と ん ど 聞 こ え な か っ た が、 こ れ は 言 わ れ
め ら れ た か、 無 駄 な ミ ス を 防 げ な か っ た
19
なくても当然わかるということか。
年卒)
んで頂き、一緒に応援しましょう!
博聖(平成
展のためにも彼ら若い世代の活躍を祈り
全
3.昔と異なりチーム数が増えリーグ戦の試
たいと思う。
年卒)
か?の結果だと考えると今期の課題もはっ
合 数 が 増 え た た め、 メ ン バ ー の 層 が 厚 く
な い と 勝 ち 抜 け な く な っ て い る。 そ の た
征四郎(昭和
きりして来るのではないかと思う。
2. 昨 年 度 は 連 盟 と し て 人 工 芝 で の 試 合 を
清水
もうひとつに「ダイレクト(ダイレ)!」
は 多 い。 パ ス 回 し、 ポ ス ト プ レ ー、 セ ン タ
リ ン グ な ど あ ら ゆ る 場 面 で 使 わ れ て い た。
1.結果を見ていろいろ言われる方も居られ
志摩
以下は5年ほど前にコラム風に書いた文
章です。
で あ る。 し か し 勝 負 は 相 手 の 放 っ た ミ ド ル
11
れません。
わ な い と し た ら、 も っ た い な い を 通 り こ し
①セットプレイ(コーナー含む)で1
て不遜としか言いようがないのかもしれな
18
10
試合運びに工夫を
『川崎フロンターレユースの試合。中央最
前部で観客も少ないが、トラックのある等々
い。
』
12
力スタジアムでは聞こえにくい部分もある。
11
それでも色んな声が聞こえる。
20
16
16
17
「 カ ズ! カ ズ! カ ズ!」 と い っ た 具 合 に
ボール保持者の名前を連呼するばかりの
持つ平均的な実力を表していると言えばそ
れ ま で で す が、 1 部 に 昇 格 し 定 着 で き る 程
き 6 戦 の 創 価 戦 を 迎 え た。 と い う の も 全 敗
ま う、 オ フ サ イ ド に な っ て し ま う、 ゴ ー ル
87
てコミュニケーションをとるプレーぶりに
私 が 大 学 に 入 学 し た 年 か ら 数 え て、 昨 年
が ち ょ う ど シ ー ズ ン 目 で し た。 こ の 間、
緒戦の明学戦は、キックオフ直後GKが痛
恨のレッドカード一発退場となり、 分を
10
度のチーム力をつけることは極めて難しい
10
の日大商は最下位
10
感 銘 を 受 け た 記 憶 が あ る。 と て も 真 似 の で
90
ことなのでしょうか。
20
う、彼らの間でこの言葉は「前を向けばチャ
31
41
The Yushokai Shimbun
2008 年(平成 20 年)2 月 15 日
(3)
がるだろうねと南ア人に話すと、南アは
性的。個性的である半面、組織力には劣
レーヤーもおり、まさにそのプレーは個
リセー(ナイジェリア代表)のようなプ
ていることがせめてもの救いだ。
引き継ぎ、4人の子供達も立派に成長し
極み。憲子夫人(通称キノリ)が事業を
駐在員チームで
役チームの試合にはほとんど行けなかっ
たが、昨年は大阪市大での三商大戦に加
えて、御殿下グランドで行われたリーグ
には元気に全員揃い踏みといきたいもの
もチーム力がはるかに向上している印象
トロ勤務)を言い渡された時にはさぞか
2010年にサッカーW杯の開催され
る(予定の)南アフリカ共和国。
駐在
(ジェ
飛ぶことで有名なヨハネスブルクでは日
と言えるかもしれない
(意味があるかどうかは分からないが)。
ができた。人工芝となった立派なグラン
ドでの最終戦は、夏の三商大戦の時より
れが本当のアメリカだと痛感させられ
都市とは全く違って、のんびり豊かなこ
シと大豆畑が続く。東海岸や西海岸の大
ラットで、行けども行けどもトウモロコ
治安が良くインフラも整った小奇麗で
典型的な米国中西部の街だ。中西部はフ
あります。冬の間じっと寒さに耐えてい
初夏の新緑の綺麗さは目を見張るものが
経 験 し ま す。 鼻 毛 が 凍 り ま す。 そ の 分、
で有名で、一冬に一度はマイナス 度を
と同じくらいで、冬が寒く風が強いこと
は4時間半の位置関係です。緯度は函館
れができるチームであったと自負してい
への復帰を大いに期待されていたし、そ
出場権を逃した。東京 部から関東2部
東大との順位が入れ替わり関東大会への
定 に よ り 引 き 分 け に 持 ち 込 ま れ、 結 果、
戦った。試合終了間際の不可解なPK判
私自身の現役最後のリーグ最終戦(東
京1部)も、この御殿下で東大を相手に
い思いであった。
る。この国の豊かさの源泉は、間違いな
た木々や芝生が、ひと雨ごとに緑になっ
たので、その悔しさは未だに忘れられな
と、ニューヨークには2時間半、ロスに
くこの広大で豊饒な土地だ。食糧自給率
ていくのを見る楽しさは、冬の寒さの厳
%はすごい。
翻って日本の食糧自給率は %を切っ
たという。日本は江戸時代から教育レベ
シカゴにも如水会の支部があり、総勢
〜 名ほどの小さな支部ですが、なん
しさを補って余りあります。
二年前から大阪で卒業年次の近いメン
バーによる一橋・東大・京大OBの合同
い。我が同期も同じ気持ちだと思う。
る し か な い こ と は 明 ら か。 バ カ ン ス を
水準を維持するためには、働き蜂を続け
的に恵まれていないわけで、現在の生活
率は良い。だが如何せん天然資源に決定
割以上は山林原野)経済・エネルギー効
そのうち一つに在籍しています。とはい
ム が 2 チ ー ム 所 属 し、 宇 津 野 君 と 私 も
チュアリーグがあり、日本人駐在員チー
成 9 年 ) で す。 当 地 に も 社 会 人 の ア マ
正 俊 さ ん( 同
い ま す。 鈴 木 茂 さ ん( 昭 和
とそこには酉松会員が私を含めて4人も
終戦の話題で盛り上がり、あの時誰がど
しまう。そして結局は、あの東大との最
を共有しているため、すぐに打ち解けて
メンバーであるが、真剣に勝負した経験
した。それぞれに各企業で活躍している
周年には外
周年は石川県片山津温泉に、卒業
年は諏訪湖畔に集結した(
岡大先輩にも参加いただいた)
。次は
ンコク)と⑤大西(トリポリ、ジャカル
③小生(米国中西部)の3名。④野村(バ
現 在 海 外 在 住 者 は ① 高 野( プ ラ ハ )
、
イ モ ケ ン こ と ② 佐 藤 博 子( ロ ン ド ン )
、
すべきだろう。
周年で確か幹事はイモケン。
タ)はそれぞれ海外駐在を終えて東京勤
食糧・エネルギー安保に関する意識の
低さも心配せずにいられない今日この
年の
務。
⑥高槌と⑦加藤は国内どさ回りの後、
頃。これはロシア(モスクワ)、南ア(ヨ
57
年近くも前の出来事につい
が集まった。一橋は同期の船倉君も参加
いる。昨年は一人の奥さんを含めて8人
55
カーから遠ざかっています。
て、敵味方の両面から時間を忘れて話し
い。
慶太(昭和 年卒)
日置
現役諸君も、そのことに注目している
OBが結構いることを知っておいてほし
からすぐに伝わった。
けなかったが、そのニュースは東大OB
グ戦では東大に勝っている。応援には行
やはり東大とは互角以上の立場でいて
欲しい。昨年は負けたが、一昨年のリー
るだろう。
込 み お 酒 を 過 ご し て し ま う こ と に な る。
これからもこの話題で繰り返し盛り上が
紀章(平成7年卒)
大阪に単身赴任(新日鉄住金ステンレ
ス㈱勤務)して6年になる。この間、現
現役最終戦
話題はやはり
重満
現役の皆さん、若いことは素晴らしい
ことです。がんばってください。
年 )、 宇 津 野 智 哉 君( 平
忘年会(昭和 ~ 年卒中心)を行って
昭和 年卒業メンバーの名簿を引っ張
り出して眺めてみる。マネージャーのイ
欧米人並に取ろうとか、ワークライフバ
え、私はプレー中に、宇津野君に至って
それぞれ関東圏に落ち着いている。⑧石
ハネスブルグ)
、米国と3カ国通算
年卒)
卒 )、 松 村
名の同期の面々だ。卒業
ランスなんて議論は止めて、働くことが
モケンを含め
周
生活の糧だけでなく自己実現の場でもあ
ルが高く勤勉、国土が狭い分(しかも7
1
うした、どう動いた、だからPKになっ
川も在京なので、この在京、関東組の5
強の海外生活の経験からの実感。
日に早世したことは痛恨の
54
ヨハネスブルクで
サッカーは弱いからすぐ負けちゃうん
るので、日本人チームとはいつも互角の
だ。
平成7法卒の重満紀章と申します。三
井物産に勤務しており、米国シカゴに駐
を持った。東大には是非とも勝って欲し
周年
じゃないかとのこと。さらに治安や停電
が心配。盛り上がりはどうもいまいちの
試合になりなかなか楽しい。
さて、小生は現在インディー で知ら
れているインディアナポリスの南のコロ
在 し て、 二 年 半 に な り ま す。 普 通 の 人
いと念じながら試合を見ていた。残念な
しサッカー三昧の生活が待っているかと
車部品関係を主体に日系企業が大小
広島、兵庫、そして近年では愛知、富山が加わり形成された
戦の東大戦(最終戦)の応援に行くこと
様子。
また、南アフリカはサーフィンのメッ
カであり、
世界中のサーファー憧れの地。
ン バ ス と い う 小 さ な 街( 人 口 約 4 万 人 )
に と っ て、 ニ ュ ー ヨ ー ク や ロ ス と 違 っ
球蹴り
さて、こんな南アフリカで黄色人種で
ある日本人は何をやっているのかという
ヨハネスブルクから車で片道6時間をか
で 暮 ら し て い る( 三 菱 商 事 勤 務 )。 自 動
がら完敗、降格の確定という現実に、当
としばしば。腕前はいまいちだが世界最
一橋のサッカーは5割強を占める首都圏出身者をベースに
20
はウォーミングアップのランニング中に
人とは一時帰国時にたまに会える。キャ
年9月
54
年
プテン⑨小池は長野県諏訪で引き籠もり
鈴木 茂(昭和
月の東大戦では活躍したそ
うな)
、⑩寺西は地元石川県の高校で英
(でも昨年
語教師、
⑪五座は長年名古屋地区暮らし、
名だが、山
年卒)は仙台あたりでごろ
⑫五味(勉強好きで5年在学していたの
で正確には
を巻いている様だ。これで
12
口で家業を継いでいたグラマネ ⑬山原
が
56
30
57
13
11
55
11
30
25
09
25
20
05
10
待っています
と、高地(標高1700m)で球が良く
けてインド洋のダーバンまででかけるこ
て、シカゴは馴染みの薄い街かもしれま
本人はとにかくゴルフ。そして、次に多
次が富山中部高。この高校も昭和 50 年以降の新興勢力だ。
時間ちょっ
社
思いきや、いざ来てみればサッカーは黒
立高だからだろう。
そして、
またもや広島の広大附属高となる。
置しており、東京からだと
事者の現役諸君と同様に、私自身も悔し
進出しており、家族を含め約
だ。続いて東京の西高、立川高が肩を並べる。大学に近い都
名の邦人
高の波を堪能しています。〈写真〉
がある。それもそのはず、浦和の大部分は昭和 50 年以降なの
が住んでいる。
いのがテニス。ゴルフもテニスも苦手な
世界一の晴天率を誇る南アフリカはス
ポーツ天国。皆様も是非遊びに来てくだ
数えるほどにしかいなかったはずなのにと首をひねったこと
12
せん。シカゴはミシガン湖の南西端に位
30
人、 ラ グ ビ ー と ク リ ケ ッ ト は 白 人 の ス
私は、僅かながらいる日本人サッカー経
卒業 周年には
年卒)
験者を集め、イギリスやドイツなどの外
で、中堅 O Bがいずれも浦和高と聞いて、昭和 40 年前後は
佐藤 丈治(平成
ポーツとのこと。当地の白人はほとんど
高校別に見ると浦和高がトップ。先日、酉松会のある会合
18
500
る、という日本人のスタイルこそ大事に
全員集合を
13
たなどと
13
サッカーなど観ませんし、あまりやりま
ゼロの地域は沖縄、宮崎、愛媛、徳島、秋田と西日本が多い。
人たちを相手に毎週サッカーをやってい
す。以下愛知、静岡、千葉、何ゆえか富山となる。逆に会員
400
40
30
54
肉離れをして以来、1シーズン以上サッ
12
130
さい。
4位は埼玉、5位に兵庫とサッカーの盛んな地域が顔をだ
交団チームや、はたまた野原で裸足の黒
8%強の広島である。広島弁が幅を利かせていたわけである。
せん。
が1割弱と続く。東京の大学だから当然だが、3位はなんと
ます。黒人たちの中には、エトー(カメ
府県出身地を調べてみると東京が3分の1強を占め、神奈川
先日開催されたラグビーW杯で南アは
優勝しましたが、決勝戦の日だけは黒人
現在酉松会の会員は 450 人に達するが、高校をもとに都道
ルーン代表)のようなスピードのあるも
身者が多かった。
も白人も一緒になって盛り上がりまし
としたことがある。当時から部員にはサッカー王国・広島出
のもいれば、視野が広く展開の上手なオ
練習中に「おどりゃー」などとどやしつけられ、一瞬ギクッ
た。サッカーW杯の時はさぞかし盛り上
際立つ広島勢の存在感
(4)
The Yushokai Shimbun
2008 年(平成 20 年)2 月 15 日
プ戦に発展。最初の三年間は一橋が圧勝
なければ・・・。
りもサッカーが面白いと強く思いまし
かです。それと同時にやはりどの競技よ
さ、面白さを感じることができたのも確
味違う世界がある。
選 択 肢 が 広 く、「 体 育 会 サ ッ カ ー」 と 一
ま た 時 間 的、 経 済 的 な 余 裕 度 に 応 じ て、
フットサルの勧め
5 年 ほ ど 前、 大 学 の 先 輩 か ら 誘 わ れ
て、初めてフットサルに参加致しました。
年 月 日参加者は福本、安部、古
荘、山根、佐藤、栗原、栗原息子、浅井、
フットサルとは、5人制のミニサッカー
していたが、ここ数年は東大と東大職員
で昨年は日本にプロリーグも誕生しまし
に競り負けて二年連続最下位。
宿敵との対決今も!
く「新サッカー王国」と称される存在と
た。手軽さが受けて女性を含む若い世代
た。陸上もボクシングもそれぞれの良さ
なっている。Jリーグに2チーム(柏レ
に人気があります。やってみると、これ
小林、小林息子、深谷、小池、日置、倉
イソル&ジェフ千葉)を擁し、高校サッ
が結構楽しく、体力的にもついていける
ところで千葉県は最近サッカーのレベ
ル ア ッ プ が 目 覚 し く、 埼 玉、 静 岡 に 続
人と人との繋がりが美しいプレーを生む
カーでも強豪「市船」を始めとして台頭
事 が 分 か り ま し た。 こ れ を き っ か け に、
はありますが、やはりサッカーのような
チ ー ム ス ポ ー ツ の 方 が 面 白 い。 そ し て
著しい(今年は流経大柏が全国制覇を果
近所のフットサルコートでの“個人フッ
崎、橋詰、
(以上一橋OB)
、吉田、花房
サッカーほど人々を、世界を熱狂させる
たした)
。「千葉四十雀」にも、元日本代
トサル”
( 集まった人をその場でチーム
ま!いいか!!勝負は時の運、現役の
時にもいろいろあったし・・・。
ことができるスポーツはない、そう感じ
表選手を始め、日本リーグで活躍した元
東大といえば、同じリーグで戦ってき
た宿敵。
(以上慶応からの助っ人)
〈写真〉
る今日この頃です。
プロ、関東大学リーグ1部で鳴らした選
分けし、休みを入れながらゲームを続け
「 あ の 時 東 大 に 勝 っ て い れ ば・・・!」
年卒)
色々ありましたが、私自身体調を崩す
こともなく心身健康な日々を送っていま
手など、名選手が名を連ねている。彼ら
るスタイル)に通い始めました。昨年か
試合が終わると、3チームのメンバー
に家族が加わり、懇親会場に集って和気
山根 言一(昭和
す。小平のグラウンドを訪れる機会には
歳になった今でも往時のプレーは健
と何回思ったことか。
の時。現役当時はかろうじて名前を知っ
恵まれませんが、陰ながら一橋大学ア式
は
藹々と酒を酌み交わす。なんという至福
は毎年全国から集まってきて、東大職員
ているだけだったのに、いまはすっかり
サッカーならぬ
ボクシング担当
蹴球部の活躍と酉松会会員の皆様のご健
その東大の 年(昭和 年)
卒業メンバー
と定期戦をやっていた。東大の幹事役池
仲間になり、サッカー談義に花開く。
いからといって
この定期戦のために体調を整え、フッ
トサルで体力をつけ、メンバーが足りな
森さんから声がかかり、3チーム対応戦
を始めたのが 年。
を争うカッ
7年前からは「FC東京杯」
後輩に声をかけ、
らは、会社の同僚、大学の先輩方とチー
平 成 年 組( 一 年 留 年 で 卒 業 は 年 )
の溝端清悟と申します。私は 年の春か
フットサルの魅力は、まず何と言って
も手軽なこと。
やりたい時に、
電話かメー
在で、目の覚めるような豪快なシュート
ら T B S の ス ポ ー ツ 局 で 働 い て い ま す。
い る が、 過 日、 我 な が ら 会 心 の ミ ド ル
ルで予約ができます。自宅、会社の近く
勝をお祈りいたします。
い、そして息子・
もちろんサッカーを担当したかったので
シュートを決めたことがあった。チーム
のコートに通えば、時間も有効に使えま
仕事の仲間を誘
娘に助っ人を頼
すが、今まで担当したのは世界陸上とボ
メ イ ト も 喝 采。 思 わ ず ガ ッ ツ ポ ー ズ を
す。 ま た、 ス ラ イ デ ィ ン グ 禁 止 な の で、
ム を つ く り 月 に 2、3 回 の ペ ー ス で、 会
み 試 合 に 臨 む。
クシング中継です。
とった。驚いたのは相手チームの選手も
安全です。料金も手頃で、レベルも自分
や巧みなボール捌きなど、素人にはとて
サッカーって不
昨年8月に大阪で開催された世界陸上
は、一つのテレビ局が単独で主催するス
駆け寄ってきて握手を求めてきたこと
で選べます。
年卒)
思議なもの。
ポーツイベントとしては過去最大級の規
年 の 暮 れ、 胸 ポ ケ ッ ト の F M ラ ジ オ
で「第九」を聞きながら街中をランニン
だ。「敵ながら天晴れ」というわけだが、
忙しいサラリーマンや、サッカーをま
た始めたい中高年に、フットサルはお勧
社の帰りに大井町駅前で楽しんでいま
なんでこんな
に人を引きつけ
模で、国内の放送はもちろん全世界にT
グする。今年も怪我、トラブルなく無事
考えてみれば、日ごろからお互いに良い
め で す。 サ ッ カ ー よ り 手 軽 に 始 め ら れ、
もマネのできないプレーを目の前で見せ
る の か? サ ッ
BSが制作した映像が配信されるという
サッカーができたことに安堵し、新しい
プレーをたたえあう土壌があった。こよ
安心して続けられます。
首都圏であれば、
生涯現役を目指して
溝端 清悟 (平成
カーをとおした
超大型イベントです。実際の仕事という
年の初蹴りに思いを馳せる。私は中学か
な く サ ッ カ ー を 愛 し、
「 生 涯 サ ッ カ ー」
自宅から車で
す。平均年齢は 歳弱で常時部員募集中
コミュニケー
と、大会前は出場選手の資料作りやVT
年、今郷里のシ
を目指す同じ仲間として、年を取っても
実はこのすば
らしさを支えて
た。
をしていました。
ビ局の華やかなイメージとは程遠い生活
らない日々、一般的に言われているテレ
ジ禁止、等が基本ルールである(各年代
イディングタックル・ショルダーチャー
バーは約百名、内訳は
歳。
歳
の学生サッカーにおいて、国立大学の立
現役の皆さん、昔とは比較にならない
ほどレベルアップし、力の拮抗した現在
たいと思う次第である。
レーをし、生涯サッカーを目指していき
れからも元気でお互いの励みになるプ
がシニアーサッカーの良いところだ。こ
び、自分への励みにしているのだ。これ
す。手軽なフットサルを通して、サッカー
5年前のお誘いがなければ、今頃、ゴ
ルフぐらいしかやっていないと思いま
ます。
物足りなくなれば、チームに参加、自分
す。 ま ず は、 個 人 フ ッ ト サ ル か ら 始 め、
ント、各種スクールなどを案内していま
ト上で、個人フットサル、主催トーナメ
を見つけられると思います。どこもサイ
名で、最高齢は
うに裏方で努力
合を楽しめるよ
みんながこの試
認・・・ な ど、
入社して陸上にボクシングとあまり馴
染みのないスポーツを担当してきまし
した。
ル」
としてリスペクトされ、若い女性チー
シ ニ ア ー サ ッ カ ー は、 試 合 時 間 分
( 分ハーフ)
、試合中の交代自由、スラ
をしていてくれ
た。しかし、世界一のスプリンターの走
分圏にフットサルコート
いるのが池森さ
そして今現在はボクシングを担当して
います。TBSのボクシングというと皆
共通)
。 年 間 の ゲ ー ム ス ケ ジ ュ ー ル は、
場で上位リーグへの復帰を目指すのは並
です。
ションってなん
R作りのお手伝い、大会中はハンマー投
らサッカーに親しんで
良いプレーをしたら我がことのように喜
ん な の だ。 各
さんご存知だと思いますが、一大騒動を
公 式 戦 た る 全 国 大 会( 厚 生 省 ね ん り ん
大抵の努力ではできないと思います。し
とはいっても、こちらにも見せ場はあ
る。普段は地道な「汗かき役」を務めて
て素晴らしいの
げなどの投擲競技の記録付けという、ほ
ニアチーム「千葉四十雀クラブ」に属し
チームとの連絡、
巻き起こした亀田兄弟の試合中継を担当
ぴっく他)を始め、地域大会や地区毎の
歳代および
日 程 の 調 整、 場
している部署です。私自身も異動早々騒
リーグ戦も組まれている。
のある生活に戻り、時々 人制も楽しん
名、 歳代
所 取 り、 懇 親 会
動に巻き込まれ、毎日のように苦情電話
かしそれでもベストを尽くし、悔いのな
で い ま す。 ス ト レ ス 解 消、 健 康 の 維 持、
代各
の 準 備、 出 欠 確
を受け続ける日々が続いたこともありま
い サ ッ カ ー 生 活 を 送 っ て い た だ き た い。
る。ありがとう!
年卒)
年代やチームによっては随時、海外遠
征 も 行 っ て い て 活 躍 の 場 は 広 い。 ま た、
40 76 50
ムとの試合も組まれる。このようにシニ
泰敏(昭和
交友関係の広がり、深まりなど、その恩
40
りを見たり、壮絶なKOシーンを目の当
斎藤
これによって培われた不屈の精神は、将
40
でチーム作りへと進んでいくこともでき
30
年卒)
いと思い、今回ご紹介させて頂きました。
倉崎 嘉幸(昭和
57
60
ア ー サ ッ カ ー に は、 各 人 の 意 欲、 体 力、
11
30
たりしたり、それぞれの競技の素晴らし
歳以上の元気なプレーヤーは「ロイヤ
50
恵をフルに享受しています。もったいな
か! 卒 業 し て
年が経って改め
てサッカーを続けている。チームのメン
てくれる。
60
んの些細な仕事に従事したに過ぎませ
19
ん。さらに休日返上、寝ることも間々な
19
52
24
て認識させられ
19
51
11
18
76
96
07
来の人生に必ず生きると確信します。
50
30
少しでも池森
さんにあやから
41
20
65
The Yushokai Shimbun
2008 年(平成 20 年)2 月 15 日
(5)
年卒)の面々
から育まれた精神的伝統が、応召中の大
た( 前 出「 蹴 球 」 創 刊 号 参 照 )
。その頃
がします。おそらく、現役の皆さんは来
さて、この話は、一橋大学サッカー部
とはなんなのだという問題にも通ずる気
てJを目指すことになりました。
ます。
が終始一貫したテーマだったように思い
カーは努力をした者が勝つ」ということ
そのほかにもいろいろな面白い話があ
り ま し た が、 突 き 詰 め て い く と、
「サッ
め(昔は三菱ダイヤモンドサッカーしか
ろが、毎日のように放映される海外を含
らし、屈辱的なことはないと思う。とこ
こと」と答える。これほど滑稽な姿をさ
「サッカーの試合で一番悔しいのは?」
と問われれば、開口一番「股を抜かれる
とんとんと話はまとまり、平成 年
月に関西文化サロン・梅田で「第 回酉
む機会も少ない。
か出られないし、サッカーをさかなに飲
た。関西在住者は東京の総会にはなかな
る会をもったらどうか」という話になっ
年 卒 )、 中 岡 敬 雄 さ ん(
掛隆久氏の「独特の性格を持つチームの
期優勝と昇格を目標にし、異を唱える人
な か っ た の に …) 試 合 の 得 点 シ ー ン を
松会関西有志懇談会」が開かれた。卒業
とれてしまった。
結成を… 無我の境地でボールを蹴ら
れよ」
(一橋新聞昭和 年3月 日号)
もいないでしょう。でも、俺たちはプロ
翻って、我々、一橋大学のサッカー部
の 状 況 は ど う で し ょ う か? 昨 シ ー ズ ン、
リ プ レ イ で 見 る と、 D F の 股 を 抜 け た
年次も昭和
んと成長していくという話でした。
と題した寄稿文に具現されている様に思
だ!と主張する部員はあまりいないと思
数試合、リーグ戦の応援に行き、技術は
シュートが何と多いことか。ブロックで
ライアティに富んだ会員が
選手を解雇。来期は完全プロチームとし
歌の文句ではないが、年の所為か「過
去達は優しく睫に憩う、未来達は人待ち
え る の で あ る。
「入部者の経験なきを嘆
います。それではみんなで危機感をあお
昔に比べかなり向上していると感じまし
き そ う で で き な い、 こ の 悔 し さ が サ ッ
遥遥と山口県からは神代祥男さん( 年
ドで我がサッカー部が誕生したのであっ
顔 し て 微 笑 む 」。 そ の 微 笑 に 誘 わ れ、 こ
ずるなかれ、…人の好技を学び自らのプ
ることにどんな意味があるのでしょう
た。ただし、
一つひとつのキックの精度、
カーの醍醐味でもある。
である。一方、サッカー関係では、東京
にまみれ、若さ溢れた時代の想念に接し
既にボールを蹴ることも触ることもな
くなった私であるが、四十有余年前、汗
私は、数年前から如水会練馬支部と関
係することになったことから「東京商科
を訪ねたが、四十年という時間はやはり
這いずり回った、想い出多かった湯桧曽
で「関西でも酉松会員が気楽に参加でき
こ 2、3 年 気 が 向 く ま ま に 当 て も 目 的 も
レイを練る」とか「選手のサブに対する
か。 私 自 身 振 り 返 る と「 意 味 は あ っ た 」
動きの質、判断のスピードなど、相手の
部誕生の地
なく彷徨っていると、義父(故松本正雄
感謝がサブの心に通じ、…全部員の心が
と思う(と信じている)のですが、不真
商科大学蹴球部誌「蹴球」
(創刊号)や「部
させて貰い感慨に堪えないのである。
大学予科の精神と風土」の著者大沢俊夫
年卒)
短い様で長かったのであった。
石綿 浩之(昭和
氏 の 講 演 を 聴 く 機 会 に 恵 ま れ、
「嘗ての
旧 制 高 校 の 教 育 や 精 神 は、 学 制 改 革 に
よって途切れてしまったが、唯一つ東京
商科大学予科は、新制一橋大学に受け継
が れ て い る 」( 綱 淵 謙 錠「 空 白 の 歴 史 」
)
プロ意識について
人 も 出 席、
年代から 年代卒までヴァ
3
石神井を訪れて
元会長)の遺した多くの大学関係の資料
一つに凝り固まって十一人の肉体を借り
誌」とか先の戦争時、戦地に赴いたサッ
「一橋五十年史」、「一橋籠城事件)
」
「辛
酉籠城事件史」、「一橋新聞
(縮刷版)
」
等々
カー部の人々からの書簡などである。
今年の夏、当時の同級生9人と大学一
年の時の夏合宿の地、水も飲まず地面に
て働く」とか。
に辿り着いたのであった。
31
面目部員だったし、理由には触れないで
いくには、やはり努力(=練習)の継続
ていたように思います。この差を埋めて
チームよりもほんの少しずつですが劣っ
退してからはユース日本代表やJリーグ
西村さんは、後にヤンマー、日本代表
の中心として活躍した名選手。現役を引
の秋には第
プや母校の話題で盛りあがった。その年
回目。東京から宮田幸三さ
年 卒 )、 名 古 屋 か ら 檜 山 博 隆 さ ん
年卒)、それに平成でもとびきり若い
昨年は、4月と 月の2回で、母校の
戦績や各自の健康問題、ゴールポスト・
世代が2人も参加した。
(
ん(
卒)にも駆けつけて頂いた。ワールドカッ
おきます。
務めた。冒頭の股抜きに、わがチームが
のセレッソ大阪の監督を歴任し、セ大阪
しかないのではないか、と思います。
残念ながら昨年は降格という厳しい結
果となりました。「疾風に勁草(けいそう)
勢いづいたのは言うまでもない。後半
のチーム統括部ゼネラルマネージャーを
やったと語る人は珍しくありません。触
を知る」という言葉がありますが、強い
分でガソリン切
に お け る 左 利 き の 効 用 」 を 語 り ま し た。
やはり少し触れますが。私は「スポーツ
ふって自分の話をしないのはずるいので
願っています。
山の努力を積み重ね頑張って欲しいと
ぐくむチャンスと捉え、他大学よりも沢
格という試練のときこそ本当の強さをは
ものだという意味だったと思います。降
と試合を組んだ。三試合とも判で押した
この時の関西遠征は、無謀にも大体大
のほか、大商大、大経大と、三強すべて
せた。
れたものの、紛れもなく強豪を本気にさ
れを起こし、立て続けに3点を失って敗
いままに終わっている。
うして変ったのか今ひとつはっきりしな
詳細な説明を受け疑問は解けたが、断面
題になった。神代さんから競技規則上の
クロスバーの形状の昔と今との違いが話
分まで2対2。残りの
今 思 え ば、 だ か ら な ん だ と い う 話 で す
ように同じ展開だった。後半
これまでの出席者は上記の方以外に嶋
田 英 司( 年 卒 )
、 村 林 昌 二( 年 卒 )
、
風の吹くときこそ、真に強い草が分かる
が、それなりに聞いて頂いた覚えがあり
ちなみに、努力の大切さは仕事や子育
てにも通じるものがあり、最近、部下に
では互角、最後は5対2で負けた。もち
天 野 四 郎(
年卒)
、 柴 田 暁(
年卒)
、吉岡基夫(
年卒)
、
年卒)、
年卒)
、 小 林 康 彦( 平
年卒)、
切畑年生( 年)卒、
朝 倉 俊 明( 平 成
年卒)の諸氏。
今年(第5回)は、前回の疑問の解決
も含めて4月 日(火)午後6時から関
成
懸命に走っていた。一橋相手にぶざまな
西文化サロン梅田で、と決定済み。初め
も確信している。
橋詰 邦弘(昭和
いれば、地元高校の先生もいます。監督
と。要は、前者のように才能を褒めた途
た な ぁ」 と い う 褒 め 方 を す べ き で あ る、
既に日本代表に選ばれていた西村昭宏選
ディフェンスに入ったのは大学生ながら
の S 君 が 右 サ イ ド で ド リ ブ ル を 始 め る。
席 上。 松 本 由 之 さ ん( 昭 和
関西で酉松会会員の集まりがある。発
端は2年前の正月の関西如水会新年会の
今年も関西酉松会
と し て は「 俺 た ち は プ ロ じ ゃ な い か!」
端に、その選手は努力をしなくなってし
手。
S君は見事に股抜きで突破したのだ。
年卒)
試合をしたことへの罰走だった、と今で
着替えを終えると、小平の三倍ぐらい
の広いグランドの外周を大体大の選手が
の形が正方形から円形に、いつごろ、ど
ます。
は「良くここまで考えた」と言い、我が
ろん西村さんはじめ相手の選手は覚えて
松沼英昭(
分ごろま
子 に は「 勉 強 し た 成 果 が 出 て よ か っ た
い な い だ ろ う が、 私 た ち あ の 時 の メ ン
志村 亮(平成9年卒)
なぁ」と言うように心がけています。そ
永田耕一(
年卒)
バーにとって、思い出というよりも一つ
先日、山本昌邦氏(アテネオリンピッ
ク・サッカー日本代表元監督)の話をう
あ の 股 抜 き は 生 涯 忘 れ な い だ ろ う。
一九八〇年夏、酷暑の大阪体育大グラン
世紀の股抜きで突破
樋口 哲司(昭和
の成果は?これもその努力の継続の積み
か が ひ と つ の 勝 負 の よ う な 気 が し ま す。
れるならどれだけ説得力を持って語れる
もりではないでしょうか。でも一生懸命
大半の方が、いずれ就職面接で「一生
懸命やりました」とサッカーに触れるつ
50
の「勲章」でもある。
疾風に勁草を知る
谷幸一監督が就任しました。かつて日産
かがう機会があり、そのときに心に残っ
「才能を褒めてはいけない。
」
自動車や日本代表のFWとして活躍。監
た言葉です。
囲は「お前の左足、最高だなぁ」と言う
ド。相手は当時関西の三強と言われた大
57 49 46 40
の言葉に興味をそそられ「東京商科大学
予科校舎旧跡」を訪ねてみたりもした。
まさに、その頃この石神井のグラウン
29
重ね、と思います。
10
13
私 が い ま 働 く( 朝 日 新 聞 宇 都 宮 総 局 )
栃木県には、栃木SCというJリーグを
狙うチームがあります。昨シーズンJF
L4位以内に入れば、J2加盟が認めら
1 18
29
13
20
2
32
52 49 44
年 卒 )、 田 原 洋 二 さ ん(
します。
連絡先:
電話・
佐竹 明和(昭和
年卒)
[email protected]
:072(854)1590
ての方も奮って参加頂きます様お願い致
15
れましたが、残念ながら8位に終わりま
督としても京都をJ2からJ1に上げた
シーズン終盤、柱谷監督がよく漏らし
たのは、プロアマ混成チームの限界につ
の で は な く、
「今週一週間左足でシュー
体 大 だ っ た。 先 発 に 抜 て き し た
試合中にある選手が左足で凄いシュー
トを突き刺したとします。そのときに周
いてでした。栃木SCの前身は栃木県教
トの練習をやってきた成果が出て良かっ
年生
員チーム。元日本代表FWのプロ選手も
と危機感をあおりたいのですが、違うの
まい、後者のように努力を褒めれば、そ
年 卒 )、 篠
で言えません。結局、フロントはシーズ
宮 清 さ ん(
「幻か」
。出場していた私ですら思わず見
28
26
32
した。昨シーズン中、てこ入れのため柱
30
33
17
30
の選手はさらに努力を積み重ね、どんど
27
FAX
実績のある方です。
15
15
ン終了後、監督の希望に応える形でアマ
2
56
59
10
39
(6)
The Yushokai Shimbun
2008 年(平成 20 年)2 月 15 日
飲み会の席もばっちり
結果は残念なものでしたが、プレイヤー、マネー
ジャー全員が一橋の勝利のために一つにまとま
ゴルフ会にどうぞ
年 〜 年 卒 業 と し て い る の は、
たまたまその年代が中心となってい
るだけにつき、参加のご希望あれば
や風、砂と戦いながら、たまに冗談を入れつつ、 ゴルフコースで開催することになっ
いました。今振り返ると、小平のグラウンドで雨
のような姿を見ることができ、よかったなぁと思
かり、今年は4月
年~ 年(昭和 ~ 年)卒業
の春季ゴルフ会の幹事を私が仰せつ
下記にメール若しくは電話でご連絡
平成 年卒OGの越後屋麻澄です。現在社会人
一年目でプラント業界(三井造船勤務)という男
ペで優勝したからだ。幹事である優
貴重でかけがえのないものだったと痛感します。 私が幹事となったのは、前回のコン
しかし秋季に向けて真剣に取り組んでいた日々は
勝者は次の会のゴルフ場選定の優先
た。 こ の 会 も 今 回 で 4 回 目 に な る。
松島 源吉 (昭和
年卒)
我が仲間と共にしたイベントを挙
げると・・・
年アメリカ大会(ブラジル
(1)ワールドカップ 観戦
①
戦。高場はその後、ブラジル
対アメリカ戦を観戦。
確認してフランクフルトから
帰国。
( 日間の旅)
年(サンパウロ優勝)=準
馬場、松崎、高峯)
(2)トヨタカップ観戦(高場、小林、
①
年(インテルナショナル優
勝)=準決勝、バルセロナ対
ウジーニョ、デコの個人技に
クラブアメリカ戦観戦(ロナ
驚愕)
年フランス大会(フランス
優勝)=小林が日本対ジャマ
②
イカ戦観戦
年(ACミラン優勝)=A
Cミラン対浦和戦を観戦(格
年日本・韓国大会(ブラジ
ル優勝)=仲間それぞれが手
③
の違いを再確認)
①
崎、小林、馬場、高場、高峯)
年6月:白神山地巡り
年 月末:屋久島(縄文杉・
③ 今 年 も 高 場 を 中 心 に 検 討
中・・・知床か?・・
島内巡り)
( 4) 飲 み・ 語 り 合 い( 3 か 月 に 1
②
(3)日本の世界遺産(自然)巡り(松
にしたチケットで共に数試合
を観戦
勝)=高場、小林、高峯の3
年ドイツ大会(イタリア優
名が、ベスト
同期でW杯めぐり
③
②
優勝)=小林、高峯がサンフ
社会の中で奮闘しています。海外営業部に属しプ
そこで出会った仲間とは、お互い囲まれる環境は
権を持つルールに則り、私が我家に
を願います。
ラント事業全体について勉強中ですが、将来的に
今後益々変わっていくと思いますが、その関係は
近い大宮ゴルフコースを選んだの
決勝、3位決定戦、優勝戦の
は営業のサポートとして海外の契約や税務を担当
変わらず大切にしていきたいと思っています。そ
ランシスコ勤務の高場を訪ね
することになると思います。
ういう意味でも、その繋がりを大切にする酉松会
日(金)に大宮
ようやく社会人生活にも慣れ始め、少しずつで
すが仕事もわかりはじめてきました。一発芸はし
だ。
サンパウロ対リバプールと3
ませんが、飲み会の席もバッチリこなしています。
は本当に有難いものだと感じます。
年代の中頃
年入学・サッカー
人で
て、 コ ロ ン ビ ア 対 ス イ ス 戦、
これもサッカー部で培った経験の賜物だと思いま
最後に、現役の方々にはくれぐれも怪我に気を 私たち同期の
つけ、
サッカーとサッカー部を楽しんでいただき、 部入部メンバー
我 々( 小 林、 松 崎、 馬 場、 高 場、
佐藤、高峯)は、3年生の時に関東
メールアドレス: [email protected]
電話:048(726)4643
す。最近は、話を聞いていないときにかぎって会
から、ゴルフをする会を定期的に催
リーグ2部から3部への降格、4年
試合を観戦
議で話を振られ、慌てふためくということもあり
そして来年度の秋季リーグでご活躍をされること
年から
生の時必死に2部昇格を試みたが叶
ドイツに飛び、ベルリンでド
年に
カメルーン対ロシア戦を観
ましたが、周りに助けられながら面白おかしく元
してきたが、これを
年 卒 業 に ひ ろ げ、 発 展 的 拡 大 を
わず、悔しい思いをした仲間だ。そ
イツ対アルゼンチン戦(PK
④
日の次回
れだけに卒業後も同体験意識が強く
戦 で ド イ ツ 勝 利 )、 ベ ル リ ン
り、飲み、語り合って来た。
の街でドイツの連中とビール
が決まった後、
コンペでは最低3組、できうれば4
年代
連絡を取り合い、事あるごとに集ま
か ら は 皆、 勤 務 も 東 京 近 辺 と な り、
を が ぶ 飲 み。 そ の 後、 ミ ュ
年卒) 図ったものである。4月
組で開催できることを期待してい
る。
最近は私を始めリタイアー組が増
これからもますますサッカー部を盛り上げていっ
新しい一年生が入部して頑張っている姿を見て、
き、思わず夢中になって応援していました。また
ている生活の中でも大学生活を思い返すことがで
なって頑張っている姿を見ると、仕事で忙殺され
秋季リーグも最終戦しか見に行くことができま
せ ん で し た。 そ れ で も 現 役 が サ ッ カ ー に 夢 中 に
す。
合や練習をなかなか見に行くことができずにいま
人となってから毎日慌しく、現役サッカー部の試
またサッカー部のみんなとも会ってお互いの近
況報告をして、励ましあいながら頑張っていきた
ます。
ペースで要領をつかんで成長していきたいと思い
な っ て い く と 思 い ま す の で、 慌 て ず 自 分 な り の
できません。しかしこれから段々仕事もハードに
なところでお金を使うことがあり、なかなか貯金
して銀座という場所柄もあってか、飲み会等様々
5 時 半 に は 起 き て 7 時 半 に は 支 店 に い ま す。 そ
何より朝が早いです。夜どんなに遅くなっても朝
だった。
ないとジャイアンツの長嶋さんみた
引き起こすそうな。適切な対応をし
やすく、それが脳にとぶと脳梗塞を
整脈があると心臓に血液の塊ができ
から薬の処方を受けている身だ。不
年前から不整脈ありと云われ、医者
自覚症状があるわけではないが、数
なかろうか。私も自分でとりたてて
加齢も加わり、多かれ少なかれ身体
銀行は入行前とはイメージが違うというところ
がありました。割とアナログなところがあるし、 のどこかに問題を抱えているのでは
るしかない。その意味でゴルフのプ
レイができるかどうかが、私の健康
年卒) を 占 う バ ロ メ ー タ ー と 自 戒 し て い
ハ 城、 市 内 観 光、
へ、プラハでプラ
を 越 え、 チ ェ コ
入院、プレー再開は昨年夏から。
引 き、 昨 年 初 に は 体 調 を 崩 し て
太腿前面の筋肉断絶、治療が長
況 は、 二 年 半 程 前 に プ レ ー 中 に
( 5) 私 自 身 の サ ッ カ ー プ レ ー の 状
新年会、花見、暑気払い、忘年
会、 他 に ス ポ ー ツ カ フ ェ で 日 本
ピルゼンでビー
老年サッカーは身体を騙し騙し
ホール巡りはも
ル工場見学。ドイ
やっておりますが、とても「生
代 表の 試 合を 観戦 し なが ら・・
ツに戻り、バーデ
涯現役プレーヤー」なんて・・・
とより、ドイツ最
ンバーデンでは
外岡先輩、奥村先輩、今村先輩
と、何かと集まって飲み・語り
温泉に浸り、レン
が グ ラ ン ド に い ら っ し ゃ る 姿、
高峰ツークシュ
タカーで黒い森
合っております。佐藤は大阪で
ドライブ。3位決
プレーには感嘆しております!
ビッツ登山もす
定戦、決勝戦はパ
なかなか一緒になれないのが残
ブリックビュー
同期に限らず、サッカーの仲間と
の 語 ら い は 楽 し い も の で す ね。 海
念。
イングで現地の
外の旅でも大いなる話題なります
る。 ミ ュ ン ヘ ン
人々とビールを
年卒)
し・・・。
イタリア優勝を
高峯 文世(昭和
飲 み な が ら 観 戦。
から汽車で国境
回以上)
サッカー部での厳しい練習を通し
て鍛えられた身体と常人には無い体
たりしています。そうした何気ない会話の中でも
力 を 誇 っ た 屈 強 な 若 者 も、 今 や 齢
麻澄(平成
を期待しています。
越後屋
13
ン ヘ ン で 美 術 館 巡 り、 ビ ア
同じ大学の体育会という共通のつながりを感じる
六 十 歳 の 半 ば。 み ん な そ れ な り に、
05
り、勝てば笑い喜び、負ければ泣き悔しがる、そ
66
気にやっています。二年目は後輩もできますので、
一年目より余裕を持って対応できるよう励みたい
秋季リーグですが、今年度も観に行きました。
39
90
と思っています。
94
63
え、その頻度も増してきている。
ことができ、私自身少し誇りに思え、卒業してか
四 十 年 の 会 社 勤 め の な か で の 飲 酒、
てくれることを期待できました。
いです。そして時間を見つけて、現役の試合や練 かくなるうえは、現役時代の生活
習に足を運び、
パワーをもらえたらなと思います。 習慣を改め、せめてゴルフができる
過食、ストレス、運動不足、それに
さて私事ですが、銀行に入行してからは慣れな
い仕事に日々格闘し、毎日が勉強です。私の支店
今年は降格という残念な結果に終わりましたが、 程度の、健康と体力の維持につとめ
す。
らもサッカー部でよかったなと改めて思っていま
女性新入会員から
慣れぬ仕事に日々格闘
マネージャーだっ
はじめまして。平成 年卒業、
た水澤明希と申します。昨年から社会人一年生と
の支店長が一橋大学出身で水泳部だったというこ
来年は2部昇格を目指して頑張ってほしいと思い
いになると云うのが医者の診たて
ともあり、たまに支店長から「サッカー部のOB
明希(平成
ます。
してみずほ銀行銀座通支店で働いています。社会
25
06
66
会には出てい るの?」と聞かれたり、
「この前久
水澤
16
19
しぶりに小平に行ったよ」というお話をして頂い
10
90
07
07 05
41
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10 60
98
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25
06
02
06
63
66
る。
43
小平グラウンド
19
19
19
The Yushokai Shimbun
2008 年(平成 20 年)2 月 15 日
(7)
走りながら考える
プレーを
年史」を見返してみた。沸々
で、サッカーだけやって何の意味がある
と甦ってきた。わざわざ一橋に入ってま
しご紹介させていただきます。
ます。今回はこの協会の活動について少
の日本人Jリーガーが全員加入しており
みなそれなりに体のどこかに不調を抱
え る 歳 と な っ た が、 血 気 盛 ん な 連 中 は
ア式蹴球部
に 考 え、 試 合 に 勝 つ 為 に は ど の 様 な プ
の断片的な思い出は尽きない。
レー、どの様な練習が必要か研究し実行
なく、サッカーと言う競技の本質を真剣
コントロール練習は相手無しのストッ
のかとも思っていた。しかし、好きだか
競技と言うことも出来る。従ってボール
プ、ドリブル、キックだけで無く、相手
ボールを小さなボールに代えて、年に3
らついついやってしまった。 年生の時
貢献活動の三本柱です。
して貰いたい。
回ほどのコンペで英国の羊飼いの遊びに
は グ ラ ウ ン ド・ マ ネ ー ジ ャ ー に な っ た。
と競合いながらこれ等を行う必要があ
年卒)
興じているらしい。
協会の活動理念はプロサッカー選手の
地位向上、サッカーの普及・振興、社会
る。
高田 勝巳(昭和
前年、関東2部から落ちて、東京1部で
現役諸君の練習で相手と競合いながら
のボールコントロールを行っているだろ
まだまだ日本のプロサッカー選手は同
世代のサラリーマンと比べても全般的に
サ ッ カ ー 教 室 を 放 映 し て い た。 そ れ は、
戦った。そこでも落ちた。泣いた。勝っ
う か? 私 が 見 た 練 習 で は 行 わ れ て い な
新年会は例年池田のご尽力で六本木の
日鉱クラブに集う。今年も楽しみだ。
D F を 背 に し た F W が ゴ ロ パ ス を 受 け、
かった。また試合においてもしっかりし
は報酬その他の面で厳しい環境にあるの
DFの身体を抑えながらトラップして前
たワンサイドカット、タックルを見たこ
た こ と よ り 負 け た こ と の 方 が 多 か っ た。
を向き、DFをかわしてドリブルシュー
とが無い。練習でしていないプレーが試
同 期 の 仲 間 と 夫 婦 揃 っ て の 新 年 会 と、
年に1回の1泊旅行を続けている。
しに、仲間と共に必死でやったことかな
2年連続で落ちて会わせる顔はないの
だが、事実として残ることは、掛け値無
た。
いきたいと考えています。報酬以外の点
考えつつ少しでも選手の待遇を引上げて
を除いて非常に厳しく、このバランスを
環 境 を 向 上 さ せ な け れ ば い け ま せ ん が、
ものであるが、前面に雑草が生えている
た。現在のシュート板は学校で設置した
荘もあるため2回ほど行った。斎藤が花
とき夏合宿をした北軽井沢には石綿の別
有縁の地めぐりが続いている。四年生の
たことはない。幹事は持ち回り、近頃は
盤でヘディング。水を含み普段の2倍位
キーパーのパントキックしたボールを中
半か後半か定かではないが、相手ゴール
の泥んこのピッチコンディションで、前
東大御殿下グラウンドで行われた。雨中
6月、
国公立大会の決勝が東大との間で、
気になってしまう今日この頃である。)
の試合では、どんな試合でもついつい本
な の か な と 思 う。
( い ま だ に、 サ ッ カ ー
思うに、必死で戦うことが人生には必要
サッカーの普及活動や社会貢献の面で
は、年に数回全国各地で現役選手による
の移籍の自由化に取り組んでいます。
上げており、また最近のテーマでは選手
退後のケアを行うシステムを早期に立ち
一方でクラブ経営も一部のビッグクラブ
と思う。余り美化するつもりはないのだ
では、他のプロスポーツに先駆けて、引
( 東 京 文 理 大 卒 。昭 和 年 幻 の 東 京 オ リ
ンピックの代表選手)の御指導を受けて
状態を見ると活用していないのではない
巻市の大学の教授も務め、ひと頃中村も
不覚の失神退場
年、名古屋の地で
いたが、当時CFの橋本君が練習の都度
だろうか。
北上市で会社の社長をしていたため北
重くなったボールに、当り所が悪かった
が、学校を出てから
前述の練習を課せられたのを思い出し非
サッカーは広いグラウンドを休み無く
走り回る競技故、千変万化する状況下に
上・遠野に遊び、地元財界でがんばって
のか、失神してしまい不覚の途中退場と
年卒)
常に懐かしかった。
於いて自分で適格な判断をしてプレーす
いる永山を訪ねて鹿児島・知覧・屋久島
なり、タンカで直ぐ隣の東大病院に運ば
しかし、子供達に大きな夢を与えられる
日 本 の プ ロ サ ッ カ ー 界 は 歴 史 も 浅 く、
選 手 の 立 場 も 強 い も の で は あ り ま せ ん。
ます。
があればチャリティ運動などを行ってい
選手会による地域貢献活動、大きな災害
サッカースクールの開催や、各クラブの
野球と違ってサッカーはボールを保持
しない限り攻撃することが出来ない。こ
る ス ポ ー ツ で あ る。
「走りな
に行ったこともある。
Jリーグの基盤強化
を目指して
小林 治(昭和
のことからサッカーはボールを奪いあう
が ら 考 え る 」 事 が 不 可 欠 で、
果は1対3で負けたということを後で聞
れたという次第である。因みに、試合結
其の為には普遍的なセオリー
昨年は一年生のとき夏の合宿をした湯
檜 曽 に 行 っ た。
( 夫 婦 5 組、 単 独 参 加 4
という老人力がついてきている。結局よ
わり、宿も建替えられた上、お互い忘却
をびっくりして見ていた」と面白可笑し
が「看護婦さんが、泥だらけの小林さん
の宴会の時に、当時一年生だった日置君
何故この話をしたかというと、毎年東
大OBとの定期戦をやっていて、試合後
選手会と同様にプロサッカー選手による
知ないと思います。JPFAもプロ野球
思いますが、サッカーの方はあまりご存
方はプロ野球選手会のことはご存知だと
)と
J.League Pro-Footballers Association
い う 組 織 を ご 存 知 で し ょ う か? 多 く の
公式ホームページ:
げます。
かいご支援のほどよろしくお願い申し上
の下で日々努力していますので、皆様暖
ように、今は第4代の藤田俊哉選手会長
る。念の為ごく簡単なものを
くわからず仕舞いで、大穴スキー場下の
く、毎年、話すからである。
皆さんはJリーグ選手協会(JPFA:
二、
三挙げると
グランドが「どうやらここらしい」と納
いた。
空中のボールは空中で処理
する。バウンドさせてはいけ
得することにした。夜は「水上高原プリ
35
ンスホテル」に泊まり、回顧談に花が咲
年も前のことだから湯檜曽駅は変
年、
ない。
いた。
面影を求めて歩いたが、
何しろ昭和
自陣深い位置で外から内へ
緩いパスをしてはいけない。
清水トンネル手前の山間の駅の長い階
段を下って「もちや旅館」に投宿、2階
平成
リーと言ってもボールコント
シュートレンジで蹴り足の
変更、体勢の修正をすると相
大広間に雑魚寝して程近い学校のグラウ
実に
手DFの防御態勢に余裕を与
ンドに通ったが、そのグランドの片隅に
に 予 科 入 学、
歳 で し た。 東 京 府 立 1 中 か ら 昭 和
ロールから戦術まで数多くあ
える事になる。自分の事だけ
用水が流れていたこと、筋肉痛のあまり
年後の
年に設立され、現在は約九百人
加藤 冨朗(昭和 年卒)
(Jリーグ選手協会 事務局長)
ら、 そ し て 年 代 を 超 え て 到 着 す る 返 信
昨シーズンは残念な結果に終わりまし
を思い知らされました。
に、 サ ッ カ ー を 通 し た つ な が り の 強 さ
とにかくコミュニケーションの輪を広
た。現役の文章にも悔しさがあふれてい
編 集 後 記
げたいという土井会長の思いに急き立
ま す。 た だ、 平 成 世 代 を 中 心 に 小 平 に
訃 報
て ら れ て、 方 針 も な く 突 き 進 ん だ の が
応援に駆けつける会員が増えているそ
年
月 卒 業。 そ の 後 三
年
日に死去されました。
運 の 尽 き。 何 度 も 座 礁、 転 覆 し か け な
う で す。 こ の 新 聞 が 現 役 と 会 員、 会 員
月
がらようやくたどり着いたというのが
年
実感です。
間 の 交 流 を 一 層 広 げ、 密 に し て い く の
青 木 育 郎( あ お き・ い く ろ う ) さ ん が
菱商事に入り取締役。
にいささかでも役に立てばと思います。
年卒)
行き当たりばったりにメールを打ち、手
保彦(昭和
相良
紙 を 出 し、 返 事 を 待 つ 日 々。 そ の う ち
に 海 外 か ら 大 阪 か ら、 女 性 の 新 会 員 か
最近でも酉松会総会にはほとんど毎
回 顔 を 出 さ れ、 絶 え る こ と の な い 微 笑
12
が印象的でした。
86
13
19
47
階段を這って上り下りしたこと、一年生
http://j-leaguers.net/
考えず相手の事も考える。
はボール係で、朝夕ボールの世話をしな
労働組合的な組織としてJリーグ発足三
ところで利害得失を考えず
純粋に自己の目標を追求でき
がら「船頭小唄」を口ずさんだこと、風
当時のことを思い出そうと「一橋大学
るのは一生のうちで学生時代
呂場で就職の話をしていた四年生がえら
に限られる。従って諸君は今
名)
。かつての宿やグラウンドの
年
年卒)
トをする。一方DFは出来ればゴロパス
合で出来る筈はない。
今までに伊香保、那須、安曇野、白神山
わが同期会は花盛り
をカット、カットできない場合は前を向
私の現役時代にシュート板が必要と言
う要望を受け、先輩が通常より寄付金を
地、ボクの生家の信州駒ヶ根などに行っ
その時、目の前が真白になった。その
後の記憶はない。気が付いた時には、東
が実情です。まず、第一には選手の労働
か せ な い、 前 を 向 か れ た ら ワ ン サ イ ド
増額し、其のお金でシュート板を作るこ
た。2日目はゴルフ組と観光組に分れる
大病院の救急病棟の中だった。昭和
はっきり言ってしんどいことばかりだっ
カットでFWの動きを制約し、抜かれな
とが出来た。非常に嬉しかった。先輩に
が「晴れ男」大橋のお蔭でゴルフが流れ
森岡 義久(昭和
いようにする練習であった。
感謝しつつ皆多いに活用したものだっ
4
を身に着けておく事が極めて
1、2 年 で 退 部 し て 行 っ た 仲 間 も 含 め、
私が主将のとき立川高校の松浦先生
過日特にこれと言う宛もなくテレビの
チ ャ ン ネ ル を 回 し て い た ら、 小 学 生 の
60
人計
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重 要 で あ る。 普 遍 的 な セ オ
53
52
30
30
く「おっさん」に見えたこと等々、各自
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その貴重な時を無にすること
96
52
41
9
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リーグ戦 対東大戦(御殿下グラウンド)
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(8)
The Yushokai Shimbun
2008 年(平成 20 年)2 月 15 日