『存在と時間』 第7節 探求の現象学的方法: 要約 存在の問いを展開する

『存在と時間』
第7節
探求の現象学的方法:
要約
存在の問いを展開する方法は現象学である。現象学という名称は、哲学的研究の対象を指ているのではなく、哲学的探求がどのよ
うにあるのかを指している。すなわち、現象学という名称は、「事象そのものへ!」(Zu den Sachen selbst!)向かへ、という指示を
指している。それは、あらゆる宙に浮いた構成、偶然的な取得物、証明可能に見える概念を受け入れずに対抗し、しばしば世代を
超えてのさばる見かけの問いに対抗しつつ、事象そのものへ向かう姿勢なのである。しかし、この指示は、非常に自明なものであ
り、あらゆる学術的認識の原理中の原理ではないのか。確かに、この指示は、自明なのだが、事象そのものへ向かうという自明性
がやっかいな問題を孕んでいるのである。
ここではさしあたって現象学の予備概念が提示される。現象学という言葉は、二つの要素からなっている。すなわち、現象と学と
いう二つの語である。この二つの語は、ギリシャ語のファイノメノンとロゴスに遡る。この二つの要素をそれぞれ説明し、その二
つを結び付けることによって、現象学の予備概念を確認しておこう。
A.現象の概念
ファイノメノン(現象)は、現れるもの、自らを示すもの、明らかなるものを意味する。したがって現象とは、それ自身において
自らを示すもの、明らかなるものである。ギリシャ人たちは、これを時々単純にタ・オンタ(存在者)と同一視した。存在者は、
さまざまな仕方で、その都度それへの近づき方に即して、それ自体から現れてくることができるからである。このように現象の基
本となる意味を確認した上で、ハイデッガーは、現象(Phänomen)と類似の概念、仮象(Schein)、現れ(Erscheinung)との錯綜した関係
の比較検討に移っていく。
現象(Phänomen):存在者が、様々な仕方で、その都度のそれへの近づき方に即して、それ自体から現われてくること。
仮象(Schein):存在者がそれ自身においてそれでないものとして現われてくること。この自らを示すことにおいては存在者は「そ
のように見える」。例えば、ファイノメノン・アガトンは、善(アガトン)のように見えるが、実際には善ではないものを意味す
る。
現象の概念のより広範な理解のためには、ファイノメノンの二つの語義(現れるものという「現象」と仮象という「現象」)が、
その構造に即して互いにいかに関係しているかをみてとることが決定的に重要である。何かが一般にその意味に即して現れるよう
に要求する限り、すなわち、現象であるように要求するかぎりでのみ、それは、それがそれでない何かとして現れることがあり、
それが「ただそのように見える」ことがありうる。ファイノメノン(「仮象」)のこの意味の内にすでに根源的な意味(現象:明
らかなもの)が、第二の意味を基礎づけるものとして共に開示されている。我々は、「現象」という語をここで用いる用語として
はファイノメノンの肯定的で根源的な意味で用い、この意味での現象を現象の欠如的変様態である仮象から区別する。
現れ(Erscheinung):以上の二つの用語と並んで第三の語として、人が「現れ」(Erscheinung)あるいは「単なる現れ」(bloße
Erscheinung)と呼んでいるものが論じられる。例えば、「病の症候」(Krankheitserscheinungen)といった言い方がなされる。
これによって考えられているのは、体に現れてくる事象であるが、現れは、それ自身を示さない障害が現に存在することと同行し
ている。この事象は、その現れにおいて自らを示すものとして、それ自身を示さない何かを「指し示し」ている。現れ
(Erscheinung)が意味するのは、自ら自身を示すものではなく、自らを示さない何かを、自らを示す何かによって告げ知らせるこ
とである。したがって、現れ(Erscheinung)とは、自らを示さないことであるといえる。しかし、この「ない」は、仮象の構造を
規定している欠如的な「否」と決して混同されてはならない。指標、表示、兆候、シンボルなどはすべて、相互に意味のずれがあ
るとはいえ、現れ(Erscheinung)の「その現れにおいて自らを示すものとして、それ自身を示さない何かを指し示す」という形式
的基本構造を持っている。したがって、第一の意味での現象は、決して現れではないが、現れの方はすべて、第一の意味での現象
へと差し向けられているのである。
現象、仮象、現れ、単なる現れなどの言葉で呼ばれる「現象的なもの」の混乱した多様性は、初めから、現象の概念が、第一の意
味での現象として、「自らを自ら自身において示すもの」として理解されている時にのみ、混乱を取り除かれることができるので
ある。
カントによれば、現れ(Erscheinung)はまず第一に「経験的直観の対象」、すなわち、経験的直観の内で現れるものである。この
自らを示すものは、同時に現れ(Erscheinung)のうちで自らを覆い隠す何か(物自体)が、告げ知らせる放射としての「現れ」で
ある。しかし、自らを示すものということでカントの意味での経験的直観によって近づきうる存在者が理解されるのであれば、そ
れは形式的な現象概念であり、また通俗的な現象概念である。
カント的な問題構成の内部で、他の差異を留保した上で言ってみれば、現れ(Erscheinung)の内で、つまり、通俗的に理解された
現象の内で、その都度先行的、同行的に、しかも非主題的に、自らをすでに示しているもの、すなわち「直観の形式」(純粋直感
としての空間と時間)が、現象学のいう現象であると言ってみることができる。カント的な問題構成の内部では、純粋直感として
の空間と時間が、いかなる背後の存在ももたず、直接にそれ自ら現象してくるからである。
B.ロゴスの概念
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ロゴスは、通常「語り」と理解されるが、ロゴスは一方でまた、理性、判断、概念、定義、根拠、関係などとして「翻訳」され、
常にそう解釈されてきた。しかし、語りとしてのロゴスが例えば判断と解釈されると、このような解釈によって「語りの」本来の
意味が隠蔽されてしまう。ロゴスは、語りとしてむしろデールーン、明らかにすることを意味し、語りの内で語られているものを
明らかにすることを意味する。
アリストテレスは、語りのこの機能をアポファイネスタイ、明らかにすることとして説明した。アポファイネスタイという語は、
アポという部分とファイネスタイという部分に環分かれる。ファイネスタイとは、語りが語っているものについて、しかも語って
いる者に対して、また互いに語っているもの達に対して何かを見させることである。アポは、それ自らの方からということを意味
する。つまり、語り(アポファネシス)の内では、それが正当な語りである限り、語られているものが、それについて語られてい
るものから汲み取られ、語りながら伝える者が、その語られていることにおいて、語りが語っているものを明らかにし、他の者が
それに近付きうるようになるのである。これが、アポファネシスとしてのロゴスの構造である。ハイデッガーは、ロゴスの第一の
意味をこのように解する。
しかし、ロゴスの語りとしての働きは「挙示」だけに留まるものではない。例えば、祈りや願いに際しての語りは、「挙示」では
ない。また、ロゴスは、ホネー、声であり、しかも、ホネー・メタ・ファンタシアス(像を伴う声)でもある。
それでは、この「挙示しつつ語ること」というロゴスの第一の意味から、理性、判断、概念、定義、根拠、関係などロゴスの様々
な意味が生じてきたのであろうか。
アポファネシス(見させること)としてのロゴスの機能が、何かを挙示しつつ見させることであるが故にのみ、ロゴスは、シュン
テーシス(総合)の構造形式を持つ。シュンテーシスのシュンはここでは、挙示としての意味を持ち、何かを何かと寄せ集めるこ
とにおいて、この何かを何かとして見させることである。そして、さらに、ロゴスが、見させることであるが故に、ロゴスは、真
であることもあれば、偽であることもありうる。アポファイネスタイとしてのロゴスが「真理であること」とは、それについて語
られている存在者をアポファイネスタイとしてのロゴスの内でその匿いの中から取り出し見させること、発見することである。同
様に、「誤っていること」プセウデスタイは、覆い隠すという意味での誤りというほどのことを意味しており、すなわち、(見さ
せるという仕方で)何かを何かの前に立てるのだが、これによってそれをそれではない何かとして言い渡すというようなことを意
味している。ただし、この場合の真理は、ア・レテイア(非隠蔽性)としての真理であり、語られている事柄とそれについての言
表との一致としての真理ではない。語りとしてのロゴスの意味を捉えるためには、一致としての真理概念を遠ざけておくことが肝
心である。
そして、ロゴスの機能が、何かを端的に見させること、存在者を認取させることに存するが故に、ロゴスは、理性を意味すること
ができる。そして、ロゴスがまたレゲインという意味のみならず、同時にレゴメノン、すなわち、挙示されたものそのものをも意
味するが故に、また、挙示されたものが、ヒュポケイメノン、すなわち、進行していく会話や協議でその都度すでに目の前にある
ものとして根底に存しているものであるが故に、レゴメノンとしてのロゴスは、根拠、ラティオを意味する。そして、最後にロゴ
スは、レゴメノンとして、何かとして語りかけられるもの、何かとの関係において見えるようになっていて、「その関係の内に」
あるもの、ロゴスは関係とか関連といった意味をもつことなることになる。
以上ような点から、ロゴスの第一の意味とは「挙示しつつ語ること」ということができるだろう。
C.現象学の予備概念
現象学という名称は、ギリシャ的には、レゲイン・タ・ファイノメナと定式化される、レゲインは、アポファイネスタイ(明らか
にすること)を意味する。そうであれば、現象学とは、アポファイネスタイ・タ・ファイノメナ、現れるものを、それがそれ自身
から現れるがままに、それ自身から見させることを意味する。これが、現象学の形式的意味であり、「事柄自身へ」という指示に
ほかならない。現象学は、その対象を直接的な挙示と証示において把握することである。
それでは、現象学が「見させる」べきもの、「現象」と呼ばれなければならないものとは何か。それは、さしあたってたいていの
場合現れないもの、つまり、さしあたってたいてい現れるものに対して隠されているが、同時に現れているものに本質的に属して
いて、しかも現れているものの意味と根拠を形成しているものである。この隠されたままになっているもの、偽装されて現れてい
るものは、あれこれの存在者ではなく、存在者の存在である。現象学は、存在を証示しつつ規定する仕方である。そして、存在論
は、現象学としてのみ可能なのである。
現象学的現象は、現れてくるものとして存在者の存在、その意味、その変容態、そして派生態を意味している。そして、現れてく
るものは、決して任意の現れてくるものではなく、またもちろん何か別のものの現れといったものでもない。存在者の存在、すな
わち、現象学的現象の背後には本質的に別のものはない。しかしこの現象学的現象自体が隠されていることがありうるどころか、
さしあたってたいていは隠蔽されているので、まさに現象学が必要なのである。
隠蔽性は、「現象」の反対概念である。根源的に汲み取られた現象学的概念や命題はすべて、伝達された言表として堕落の可能性
を持っている。それらの概念や命題は、空虚な了解のうちで伝達され、その存立基盤を失い、浮動するテーゼとなってしまう。従
って、現象学的分析の出発点は、現象へ接近する通路の確保や支配的隠蔽の通り抜け、および独自の方法的確保を要求する。この
方法的確保という課題を遂行する上で存在論的-存在的に抜きん出た存在者、すなわち現存在(人間)を主題とする基礎的存在論
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という課題が現れてきた。しかも、この基礎的存在論が、中枢問題、すなわち、存在一般の意味への問いの前に自らをもたらすの
である。
基礎的存在論の探求自身から明らかになってくるのは、現象学的記述を可能にするのが、解釈であるということである。現存在の
現象学の記述は解釈の性格を持っていて、現存在自身に属している存在了解を解釈することによって存在の本来の意味と現存在自
身の存在根本構造が示されるのである。解釈学(ヘルメノイティーク)という語は、解釈の営みを名指す言葉であるが、現存在の
現象学は、言葉の根源的意味で解釈学なのである。しかし、存在の意味と現存在の根本構造の露呈によって現存在ではない存在者
のさらに進んだ存在論的探求のための地平が、取り出される限り、この解釈学は、同時にあらゆる存在論的研究の可能性の条件の
練り上げという意味での解釈学となる。この意味での解釈学が、現存在の歴史性を存在論的に歴史学の可能性の存在的条件として
取り出す限り、この解釈学の内に、派生的な仕方でのみ「解釈学」と呼ばれうるもの、すなわち、歴史学的精神科学が根ざしてい
るのである。
存在論と現象学は、哲学に属する他の分野と並ぶ異なる二つの学の分野なのではない。この二つの語は、哲学そのもの対象と方法
を性格づけている。哲学は、現存在の解釈学から出発する普遍的な現象学的存在論であり、現存在の解釈学は、実存の分析論とし
てあらゆる哲学的問いの導きの糸の端を、問いがそこから発現し、そこへと立ち戻るところに、すなわち現存在の存在了解結びつ
けておいた。
以下の研究は、エドムント・フッサールが、据えた基盤の上でのみ可能となった、現象学はフッサールの『論理学研究』をもって
出現するに至ったのである。
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