『天神町および周辺地域の旧海軍施設探訪』 講話の要約(少年時代の話

『天神町および周辺地域の旧海軍施設探訪』 講話の要約 (少年時代の話もあり)
講師:中松さん ※平成 27(2015)年 2 月 26 日(木) 武士道研究会定例学習会
※①~⑩の施設の位置は下の地図参照のこと(位置はあくまでも目安)
1.天神町 ①天神山砲台
山頂(旧教育センター辺り)に海軍の高角砲(高射砲)2 門が設置され、その兵
舎は今の天神小学校の校地にあった。港小学校の上の山にも砲台があった。
[右写真(参考画像):当時の日本海軍の代表的な高角砲の一つ]
高角砲は射程高度約 8 千 m なので、偵察時などは 1 万 m 以上を飛行する B29
に 1 発も届いていなかった(銀色の機体を輝かせて悠々と飛んでいた)。
佐世保大空襲では、福石小、佐世保女学校、木風小などはレーダーでピンポ
イント爆撃されたと思う(雨天、夜間だったことや 1945 年という時期から)。
[右写真:佐世保防備隊]
戦後、庁舎は昭和 23(1948)年 5 月県立第二高等学校の校
舎、昭和 24 年 4 月~26 年 3 月北高等学校福石校舎として使
用された。昭和 28(1953)年、海上警備隊の佐世保総監部庁舎
として使用。その後、総監部は平瀬町に移転し、現在は海上
自衛隊が使用。
⑧潜水艦の本部庁舎
戦後、米軍の専用野球場となり、その後は福石中学校校
地、競輪場(当初中央広場は陸上競技場として使用)、清掃センターになった。
7.崎辺町 ⑨海軍航空隊
大正 9(1920)年に開設し、水上機の訓練が行われていた。
[右写真(参考画像):当時の代表的な水上練習機(通称「下駄履き」)]
2.白岳町(現沖新町) ②第 21 海軍航空廠航空機部 (現在の車検場、自動車学校、高専寄宿舎、石油タン
ク、沖新工業団地、造船所など)
昭和 12(1937)年 9 月、白岳新田(当時はハス田、干潟)を埋め立てて工場建設を始め、昭和 13 年 9 月
に用地が完成し稼働に入ったが、地盤沈下し稼働できなかった(昭和 14 年 3 月大村市に全面移転決
定)。
昭和 16 年 10 月第 21 海軍航空廠として開庁した。一部は自動車部として存続した(現在の高専)。
3.東山町 ③海軍墓地 (現在の東公園)
※明治 22(1889)年の佐世保鎮守府開庁の際に殉職者が増え、用地買収し、明治 25(1892)年に埋葬開始。昭
和 34(1959)年、国より市に無償譲与。17 万 6 千余柱が祀られる
4.稲荷町 ④海軍刑務所 (現在の南地区公民館、大黒保育所、
労働福祉センター)
※大正 4(1915)年設置/軍法会議で刑が確定した海軍軍人を服
役させる刑務所
終戦で法務省所管となり昭和 20 年 12 月佐世保刑務所とし
て開設。戦後混乱期で犯罪者が増加し拡張を重ねたが、付近が
住宅街となったため辻市長が国に移転を要請し、昭和 46 年浦
川内町に移転した(市からの働きかけで敷地造成工事は陸上
自衛隊がおこなった)。
※ハローワーク、下水処理場などの建設用地も含め、等価交換に
より市有地となった
⑤海軍射的場
現在の下水処理場から 300m 先に造られた土手(現在の競輪
場横の土手/福石中学校のところ)に置いた標的に向けて、海
兵団の新兵の実射訓練(10 人程が横一列で)が行われていた。
※昭和 16 年もみじが丘へ移転
5.大黒町 ⑥女子挺身隊宿舎 (木造 2 階建て 6 棟(8 畳 1 間)/現在の大黒町公営住宅(5 階建)の所)
昭和 18 年九州各地の女学校の高学年生徒や卒業生約 1,000 人が挺身隊として集められ、こうした宿
舎から海軍工廠や海軍軍需部に通った。
戦後 20 年~22 年まで米国占領軍宿舎となった(周囲は鉄条網で囲まれていた)。
占領軍の転出後は、戦災で焼失の木風小学校の仮校舎、新設の福石中学校の仮校舎として、また、そ
の他の棟は引揚者住宅(290 世帯/千数百人)、母子寮(1 棟/40 世帯)として使われた。
6.干尽町 ⑦防備隊 (倉島)
※倉島という島が明治 44(1911)年に工事で陸続きにされ大正 2(1913)年に海軍防備隊が創設された
昭和 25(1950)年、航空隊庁舎を使用し長崎大学水産学部が開校
したが、昭和 36(1961)年に長崎市へ移転した。現在は海上自衛隊。
⑩第 21 海軍航空廠兵器部
昭和 12(1937)年、海軍工廠の分工場として建設された。白岳町の航空機部の大村移転後も終戦まで
稼働した。昭和 40 年以降、海上自衛隊佐世保教育隊が置かれた。
苦難に満ちた少年時代 (要約) 中松さん(83 歳/天神町)
※中松さんは昭和 7 年 3 月稲荷町生まれ。両親は大分県出身(父は海軍軍人)
○小学校時代
福石小は人口増で 1 学年 6 学級(1 学級 50 人)だったが、教室は 3 つのため、午前・午後の二部授
業(1 月おきに交代)だった。
学校は 4 回変わった(居住地は同じ)。福石小が教室不足となり、2 年生の時に稲荷町の子は潮
見小に行かされ、3 年 2 学期より木風小(校舎はない)となり日宇小移転後の古い旧校舎(現在の日
宇スポーツセンター)を使い、6 年 2 学期より木風小(新校舎/但し翌年空襲で焼失)に通った。
○中学校時代 ※旧制佐世保中学校
佐世保中学 1 年の時、「非常用の道路(現在の国道)を造るから」と 3 ヶ月で立ち退きの命令を受
け(約 70 軒)、一家 8 人(子ども 6 人)は宮崎町の親戚の家の 2 階に移った。しかし、延焼防止の空
き地造りのために、その家も 1 年で疎開となり、須佐町の貸し家に引っ越した。ところが、その 1
ヶ月後、軍の命令で金比羅町から退去させられた大家さんがそこに入ることになり、祇園町の貸
し家に移った。
そこで昭和 20 年 6 月 28 日午後 11 時 58 分、佐世保空襲に遭った(2 年生の時)。警戒警報もな
く寝込みを襲われ、非常用持ち出し物も持たないまま、真っ暗闇の雨の中を下駄履きで逃げた。
近くの要塞司令部(現在の体育文化館の所)も燃えているのが見えた。
その後、戸尾町で 3 軒移り住み、1 年 10 ヶ月後に父が東山町に持ち家を購入した。
2 年生の時(硫黄島玉砕の頃か)、憲兵が学校に来て、英語の先生が日本は負けると生徒たちに
言わなかったか、と生徒達に問い質したことがあった。その先生は陸軍司令部に連行された後、
辞めて四国に帰られたと聞く。また、当時は各中学に将校がいて軍事教練も行われていた。
同じく 2 年生時、学徒動員で崎辺の第 21 海軍航空廠兵器部の横穴防空壕で、航空機部品の旋
盤工として終戦までの 2 ヶ月半働いた。佐世保中学から 2 百人ほど動員されていたと思う。(戦
後、その手当 80~120 円が銀行通帳で支給された)
※その後(戦後)
昭和 25 年、佐世保南高校(第 2 期生)卒業とともに小学校の代用教員として 2 年間勤務した。
南高からは 6 人が採用され、いきなり担任となった。その後、6 人中自分だけは教員免許を取るた
めに長崎大学学芸学部(現教育学部)に入ったが、父親が病気になり家族を養うために中退し市
役所に就職した。
編集責:米村