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日本の正史・ニコ生資料
建国前
詔(天皇が臣民に対し下されるお言葉)の第一詔「修理固成の神勅(しんちょ
く)」に、天津神(あまつかみ)は、伊邪那岐尊・伊邪那美尊の二柱の神に「こ
の漂へる國を修理固成せ」と詔されて大八洲国(日本列島)を創らせられたとあ
る。
そして第二詔で「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主(き
み)たる者(かみ)を生まざらむや」と伊弉諾尊・伊弉冉尊に相談し、日の神
「大日孁貴(おおひるめのむち)」を生む。即ち、ここに天照大神が生まれる。
古事記では伊弉冉尊が火の神「火之迦具土(ひのかぐつち)」を生んで死んだ
とき、伊弉諾尊がこれを追って黄泉の国へ行かれるが、その変わり果てた姿を見
て逃げ帰えられた。その時「なんと汚い国へ行ったものだ、禊(みそぎ)をしな
ければ」と筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原(あわぎはら)で禊をさ
れ、そのときに天照大神が生まれたとある。清く赤き心を曇らせる行為を「ツ
ミ」、「ケガレ」と表現し、それを清めるときに「禊ぎ」と「祓い」を行うとい
う大和民族の精神がここに生まれた。
伊弉諾尊・伊弉冉尊は皇祚(皇位)の元始であり、年の初め一月三日に天皇は
元始祭を自ら執り行われる。これは天皇が皇位の元始「諾冉二神」を宮中参殿で
お祝いされる天皇親蔡で、重要な宮中祭祀の一つである。
従って、我が大和民族は人も自然も全て同じ神、伊弉諾・伊弉冉二神から生ま
れた兄弟であるという自然観を共有する。自然は人間が征服すべき対象ではな
く、兄弟として共生する存在である。食事を始めるとき「頂きます」というが、
それは兄弟の命を頂くという意味で感謝の気持ちを表している。
天照大神は「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是(これ)吾が子孫(うみの
こ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜(よろ)しく爾皇孫(いましすめ
みま),就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひ
つぎ)の隆(さか)えまさんこと、まさに天壌(あめつち)とともに窮(きわ
ま)り無かるべし」という天壌無窮の神勅を孫の邇邇芸命と)に授け、大八洲に
天下(あまくだ)らせる。これが天孫降臨の神話である。天照大神が孫の邇邇芸
命を天降らせたので天孫降臨という。
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ここで、我が大八洲国は天照大神の子孫が王(キングやエンペラーではない)
となる国であることが定まった。この神勅が我が国の肇国の言葉であり、これに
よって我が国が始まる。また、天照大神は「この宝鏡(たからのかがみ)を視ま
さむこと、当(まさに)に吾を視るが如くすべし」といって宝鏡を授け、そして
また「我が高天原に所御(きこしめ)す齊庭(ゆには)の稲穂を以て、また吾が
児(みこ)に蒔かせまつる」(稲穂の神勅)といって稲穂を授ける。
この天照大神の子孫が天皇である。後に神大和磐余彦尊(かむやまといわれひ
このみこと)・神武天皇の日本建国に繋がっていく。ここに始まる万世一系の皇
統が、初代神武天皇ご即位から二六七五年(平成二十七年現在)、、同じ神武天
皇の血統で、今日の百二十五代今上天皇まで続き、一系の皇統として繋がってい
る。これが日本国である。
なお我が国の稲作について考古学の立場からは、例えば岡山県彦崎貝塚の約六
〇〇〇年前(縄文時代前期)の地層から稲のプラントオパール(穀物に含まれる
珪酸が細胞の形のまま化石となったもの)が見つかり、縄文中期には既に稲作を
していたことが判明している。
大八洲国の日向高千穂に天下った邇邇芸命は大山祇尊(おおやまつみのみこ
と)の娘・木花咲耶媛(このはなさくやひめ)を娶って彦火火出見尊(山幸彦)
をお生みになる。この彦火火出見尊の孫が五瀬尊(いつせのみこと)、稲飯尊
(いなひのみこと)、三毛入野尊(みけいりののみこと)、神日本磐余彦尊(か
むやまといわれひこのみこと)である。
神日本磐余彦尊は四五歳の時、兄の五瀬尊と船軍を率い東征にお出になる。神
武東征である。日本書紀によると、これは邇邇芸命が天下られてから一七九万二
四七〇余年後のこととある。この年数については日本書紀に書かれているだけで
根拠については今のところ全く分かっていない。全く出鱈目な数字を記したたと
も思えないし、口伝として伝わっているものであり、これから何らかの手がかり
が得られるかも知れない。
大和の地で長随彦と戦い勝利し、大物主神の娘・媛蹈鞴五十鈴媛尊(ひめたた
らいすずひめのみこと)〔「古事記」では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメ
タタライスケヨリヒメ)と記す〕を娶った後、「橿原建都の令」(詔二十八詔)
を発せられ、橿原の地で初代天皇としてご即位になった。
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初代 神武天皇 世系六 在位七六年
初代天皇・神武天皇は天照大神の勅命を受け高千穂に天降(あまくだ)られた
皇孫(天照大神の孫)瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の曾孫であり、神日本磐余彦
命(かむやまといわれひこのみこと)といわれ、父は彦波瀲武鸕
草葺不合尊
(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は豊玉姫尊の妹・玉依姫尊
(たまよりひめのみこと)である。
塩土の翁(しおつちのおじ)から「東によい土地があり、そこに物部氏の祖先
に当たる饒速日命(にぎはやひのみこと)が天の磐船に乗って天下っている、そ
こに行って都を創ると良い」といわれ、兄の五瀬命(いつせのみこと)の承諾を
得て、ともに東征を開始する。
皇紀前七年甲寅一〇月五日、皇子は船軍を率いて出発される。
豊予海峡で漁師の珍彦(うずひこ)が水先案内を申し出る。名を賜って椎根津
彦〈しいねづひこ〉とされた。倭直の先祖である。天皇から名を賜ることは最高
の名誉である。
宇佐に着くと宇佐の国造〈くにのみやっこ〉の先祖である宇佐津彦・宇佐津媛
がもてなした。この時、宇佐津媛を侍臣(じしん)の天種子尊(あめのたねこの
みこと)に娶(めあわ)す。天種子命は中臣氏の祖である。天種子尊は瓊瓊杵尊
の天孫降臨にさいして太玉尊(ふとたまのみこと)や天鈿女尊(あめのうずめの
みこと)などと共に瓊瓊杵尊に随行した天児屋尊(あめのこやねのみこと)の孫
である。
十一月九日、筑紫国の岡水門(おかみなと・遠賀川の河口)に着かれる。
十二月二十七日、安芸国の埃宮(えのみや、広島県安芸郡府中町)に入られ
る。現在の多家(たけ)神社である。
前六年乙卯春三月六日、吉備国に遷られ行宮(かりみや)高島宮を造ってお入り
になる。
ここに三年ご滞在になり、船舶を揃え兵器や糧食を蓄えられた。
皇紀前三年戊午春二月十一日、皇子軍は東に向かって出発される。潮流に恵まれ
非常に速く着かれ、ここを浪速国と名付けられた。
三月十日、川を遡って河内国草香邑(日下)の青曇の白肩津に着かれる。白肩
津は河内国北部・現在の大阪府東部にあった湖で、現在は河内平野になってい
る。
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夏四月九日、皇子軍は兵を整え、生駒山を越え内国に入ろうとしたところ、孔
舎衛坂(くきえのさか)で饒速日命(にぎはやひのみこと)に仕える長髓彦(な
がすねひこ)の軍と戦うことになる。この戦いで皇子軍・東征軍は長髓彦軍に敗
れる。そして五瀬命〈いつせのみこと〉が手に矢傷を負われた。「日御子(ひの
みこ)が太陽に向かって戦ったのが間違いだった」と悟られ、東征軍は紀伊半島
を熊野に廻る。
五月八日、東征軍は茅淳(ちぬ・和泉の海)の山城水門にお着きになる。船中
で薨去された兄の五瀬尊を竃山(かまやま)に葬られた。現在の竃山神社(和歌
山市)である。
その後、東征軍は暴風に遭い船が進まなくなって、兄の稲飯尊(いなひのみこ
と)が剣を抜いて海に入り鋤持神(さびもちのかみ)となられた。そしてまた兄
の三毛入野尊( みけいりののみこと)も波頭を踏んで常世国に行かれた。
残された神日本磐余彦尊は皇子(長男)の手研耳命(たぎしみみのみこと)と
軍を率いて進み、熊野の荒坂津〈新宮市の熊野荒坂津神社〉に着かれた。そこで
丹敷戸畔(たしきとべ)という女賊を誅された。
六月二十三日、東征軍は名草邑に着かれる。和歌山市冬野宮垣内の名草神社で
ある。ここで名草戸畔(なくさとべ)という女賊を誅された。この時、神が毒気
を吐いて兵を萎えさせた。天照大神は天上からこれをご覧になって、高倉下(た
かくらじ)に剣を授け、これを皇子にお渡しする。これで皇子も兵士も皆目醒め
る。
また進んでいくうちに山は険しく路(みち)もなかった、そこでまた天照大神
は八咫烏(やたがらす)を遣わし、これについて行きなさいと指示される。大伴
氏の祖・日臣尊が大来目(おおくめ)を率いて東征軍の先頭に立ち、山を越え踏
み分けて、遂に宇陀の下県(しもあがた)に着かれた。日臣尊はここで「道臣
(みちのおみ)」の名を賜る。
八月二日、宇陀県〈うだあがた〉の頭目の兄猾(えうかし)と弟猾(おとうか
し)を呼ばれた。弟猾はやって来たが兄猾は来ず、悪計を仕掛けていたので弟猾
がこれを皇子に知らせる。兄猾は道臣に追い詰められ、自分がこれに掛かって死
んでしまう。
冬一〇月一日、八十梟師(やそたける)を国見丘(桜井市)に襲って斬られ
た。
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十一月七日、皇子は磯城の県主・磯城彦を攻めようとし、兄磯城と弟磯城を呼
ばれた。弟磯城は馳せ参じたが兄磯城は来なかったので、攻め滅ぼした。
十二月四日、再度、長髄彦と戦うこととなった。闘いを重ねる内、金色の不思
議な鳶(とび)が皇子の弓の先に止まった。長髄彦の軍勢はこれに眩惑されて力
戦できなくなった。
長髄彦は使いを送って皇子に奏上する。「昔天神の御子が天磐船(あめのいわ
ふね)に乗って天降られた。櫛玉饒速日(くしたまにぎはやひ)尊といい、この
人が我が妹・三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って子・可美真手命(うましまで
のみこと)が誕生しました。吾は櫛玉饒速日尊を君として仕えています。天神の
子は二人居られるのですか。どうして天神の子を名乗って人の土地を奪いに来る
のですか。思うに偽物でしょう」と。
皇子は「天神の子は沢山いる。もし櫛玉饒速日尊が本当の御子なら表(しる
し)のものがあるはずだ。其れを見せなさい」といわれる。長随彦が「天の羽羽
矢(あめのはばや)」と「歩靫(かちゆき)」を見せたところ、磐余彦も同じも
のを見せる。これを見た長随彦は畏れ入って戦いを止めた。饒速日尊は皇子のも
のの方が天孫の嫡流に近いことを知る。 そこで饒速日は長髄彦を斬って磐余彦
に帰服する。饒速日は長髄彦の妹・三炊屋媛を娶って物部氏の祖である息子・可
美真手尊(宇摩志麻遅尊)を儲けていた。饒速日尊の後裔が物部氏である。古事
記には、可美真手尊は始め長髄彦に従っていたが、神武天皇の東征に際して長髄
彦を殺し天皇に帰服、以後自らの部族である物部(もののべ)を率いて天皇守護
の任に当たったとある。
翌年己未春二月二〇日、添県(そえあがた)の新城戸畔(にいきとべ)、和珥
(わに・天理市)の居勢祝(こせのほふり)、長柄の猪祝(いのほふり)の三箇
所の土俗が帰順しなかったので滅ぼされた。
三月七日、橿原で建都の令、詔(みことのり)第二八詔「六合開都、八紘為
宇」を発せられた。
「我東に征〈ゆ〉きしより茲〈ここ〉に六年になりぬ。皇天(あまつかみ)の威
(みいきおい)を頼(かかふ)りて、凶徒就戮(あだどもころ)されぬ。邊土
(ほとりのくに)未だ清(しず)まらず、餘妖尚梗(のこりのわざわひなほこ
わ)しと雖も、中洲之地復風塵(なかつくにまたさわぎ)無し。誠に宜しく皇都
(みやこ)を恢廓(ひらきひろ)め、大荘(みあらか)を規摸(はかりつく)る
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べし。而して今、運(とき)此の屯蒙(わかくくらき)に屬(あ)ひ、民心(お
ほみたからのこころ)朴素(すなほ)なり。巣に棲み穴に住む習俗(しわざ)、
惟(こ)れ常となれり。夫(そ)れ大人(ひじり)の制(のり)を立つ。義(こ
とわり)必ず時に随ふ。苟も民(おほみたから)に利(くぼさ)有らば、何ぞ聖
造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且當(またまさ)に山林(やま)を抜
(ひら)き拂(はら)ひ、宮室(おほみや)を経営(おさめつく)りて、恭(つ
つし)みて寳位(たからくらひ)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮(し
ず)むべし。上は則ち乾霊(あまつかみ)の國を授けたまふ徳(うつくしび)に
答え、下は則ち皇孫正(すめみまただしき)を養ひたまふ心を弘(ひろ)めむ。
然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩
(おほ)ひて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦可(またよ)からずや。夫(か)
の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を観れば、蓋し國の墺区(もなか)
か。治(みやこつく)るべし」と。この月、都造りをお命じになる。
皇紀前一年庚申(かのえさる)九月二十四日、日向を後にした神日本磐余彦命は
こうして大和の地で長随彦と戦って勝利した後、大物主神(事代主神)の娘・媛
蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと、伊須気余理比売)を娶って正
妃とされる。
【日本の建国】
皇紀元年辛酉(かのととり)春一月一日、橿原の地で即位される。初代天皇・神
武天皇の誕生であり、日本の建国でもあり、この年を皇紀元年と定める。
正妃・姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)を尊んで皇后とされる。五十
鈴姫は大神大物主神(三輪明神)、素戔嗚尊、大国主神の子孫であるから、ここ
で天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた一つに統合されることになった。
五十鈴姫との間に、神八井耳命(かむやいみみのみこと)、彦八井耳命(ひこ
やいみみのみこと)、神渟名川耳命(かむぬなかわみみのみこと)の三皇子が誕
生される。
神武二年二月二日、東征での論功行賞が行われる。
道臣尊は土地を賜り築坂邑(つきさかのむら)に住まわせる。大来目(おおく
め)は畝傍山(うねびやま)の西、河辺に住まわせる。来目邑(くめむら)であ
る。椎根津彦(しいねずひこ)を倭国造とし、弟猾(おとうかし)には猛田邑
(たけだむら・宇陀邑)を与えられた。それで猛田の県主(あがたぬし)とい
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う。宇陀の主水部(もひとりら)の先祖である。弟磯城は名を黒速(くろはや)
といい、磯城の県主とされる。剣根(つるぎね)を葛城国造とし、八咫烏(やた
がらす)も賞として葛野主殿県(かどののとのもりのあがた)を賜り、その子孫
は葛野主殿県主(かどののとのもりのあがたぬし)である。
皇紀四年神武四年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山(桜井市)に皇祖
天神を祀られる。
皇紀三十一年神武三十一年、巡幸され、腋上(わきがみ・御所市掖上)の
間
(ほほま)の丘に登られ、一望すると蜻蛉(あきつ)が尾(となめ・交尾)して
いるのに似ていることから、その地を秋津洲(あきつしま)と命名された。
昔、伊弉諾尊がこの国を「日本(やまと)は心安らぐ国、良い武器が沢山ある
国、勝れていて良く整った国」といわれた。また大己貴大神は「玉牆(たまか
き)の内つ国」(美しい垣のような山に囲まれた国)といわれた。饒速日命は天
の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見て天降(あまくだ)りになられたの
で、名付けて「空見つ日本(やまと)の国(大空から眺めてよい国だと選ばれた
日本の国)」といわれた。
皇紀四十二年神武四十二年(前六一九年)、第三皇子の神渟名川耳命を皇太子と
定められた。日向からともにされた長男の手研耳命を差し置いての立太子で、こ
れが後に悲劇を生むことになる。
皇紀七十六年(前五八五年)春三月十一日、在位七六年、一二七歳で崩御され
た。
陵は、奈良県橿原市大久保町の「畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのす
みのみささぎ)〈山本ミサンザイ古墳〉」である。
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第二代 綏靖天皇 世系七 在位三三年
皇紀二十九年神武二十九年(前六三二年)、神武天皇の第三皇子として誕生され
た神渟名川耳命(「古事記」では神沼河耳命)で、母は皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命
である。
皇紀四十二年神武四二年(前六一九年)、一三歳で立太子される。
皇紀七十六年神武七十六年(前五八五年)三月、先帝の神武天皇が崩御される。
天皇崩御の後、手研耳命の反逆事件が発生する。
神武東征で日向から父の磐余彦命(神武天皇)と一緒に来られた異母兄の手研
耳命は、媛蹈鞴五十鈴媛(神武天皇の皇后)を正妃としておられたが、異母弟の
神渟名川耳命たち兄弟を亡き者にしようとする。このことを媛蹈鞴五十鈴媛が歌
に託して事前に神渟名川耳命たちに知らせ、逆に神渟名川耳命たちが手研耳命を
殺害する。初代から第二代への皇位継承に当たっての、悲劇の大事件であった。
神八井耳命は手足が震えて弓を射ることが出来ず、弟の神渟名川耳命がその弓
を取って射殺した。神八井耳命はこれを恥じて弟の神渟名川耳命に即位を願い、
自らは神々の祀りを受け持たれる。神八井耳命に始まる日本最古の皇別氏族・多
臣の始祖である。皇別氏族とは皇族の中で臣籍降下された分流・庶流の氏族であ
る。
皇紀八〇年綏靖元年(前五八一)一月八日、神渟名川耳命が五一歳で即位され
る。
神武天皇崩御から四年後のことで、その間、手研耳命の反逆事件で混乱の時期
を経た。
綏靖二年春一月、実母・媛蹈鞴五十鈴媛の妹(叔母)の五十鈴依媛(事代主命の
娘、古事記では河俣毘売(かわまたひめ))を皇后に立てられた。
古事記は「この天皇が磯城県主の祖である川俣姫を妻としてお産みになった唯
一の皇子は磯城津彦玉手看命(安寧天皇)一柱である」と記す。初代に続いて第
二代天皇も事代主(大神神社系)の娘を皇后に立てられたことの意味は大きい。
これについては初代神武天皇の遺詔があったとも考えられる。また「兄の彦八井
命は河内国茨田郡の臣の祖先であり、神八井耳命は大和国十一郡の臣の祖であ
る」と記す。多くの地方を治めた長の祖であると伝える。
葛城高丘(かつらぎたかおかのみや・御所市)に都を置かれた。
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皇紀一〇四年綏靖二十五年一月七日、皇子の磯城津彦玉手看命を立てて皇太子と
される。
皇紀一一〇年綏靖三十一年(前五五〇)、大陸の魯(ろ)で孔子が誕生する。
皇紀一一三年綏靖三十三年(前五四八年)五月、在位は三三年、八四歳で崩御さ
た。
陵は桃花鳥田丘上陵(つきたのおかのうえのみささぎ)で、現在の奈良県橿原
市四条町字田ノ坪にある塚山古墳(円墳)である。
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