ヒラリズム 7の14 小林秀雄のライフワーク 陽羅 義光 この間『古事記』に就いて書いたので、こんどは『古事記 伝』に就いて書こうと思ったのだが、面倒だし、ということ は数少ない読者にも面倒だろうし、そんなら本居宣長に就い て書こうとしたが、これはよく解らないので、ということは 読者には余計解らないだろうから、結局、小林秀雄の晩年の 大作『本居宣長』に就いて、少々書くことにした。 こ の 著 作 は 、ひ と く ち で 云 う な ら 、森 鴎 外 の 史 伝 の 傑 作『 渋 江抽斎』の評論版である、つまり作者の理想的(もしくは憧 憬する)学者像を描いたものである。 そ の 微 細 、 そ の 深 度 、 そ の 発 見 、『 渋 江 抽 斎 』 に 負 け ず 劣 ら ず 、『 本 居 宣 長 』 も 凄 い も の だ が 、 わ し が 驚 嘆 し た の は 、 こ の 大作にしてとにかく、 「 必 要 」な 事 し か 書 か れ て い な い と こ ろ である。 作 品 と い う も の の 第 一 義 は「 必 要 」で あ る 、と い う 思 想 は 、 もともと坂口安吾のものであるが、人気作家時代の坂口安吾 が批判した、 「 教 祖 の 文 学 」小 林 秀 雄 が( む ろ ん 坂 口 安 吾 以 上 に )坂 口 安 吾 云 う と こ ろ の 、 「 必 要 」の 文 学 を 完 成 さ せ た と い うことは、文学史の奇蹟とも皮肉とも思われる。 たしかに時折「物を書くという経験を、いくら重ねてみて も、決して物を書く仕事は易しくはならない」などという、 小林秀雄一流の訓話は出てはくるが、それすらも総ては、本 居宣長という存在に集結してくるし、何よりもわしが「絶対 文感」 ( 不 必 要 十 箇 条 )で 云 々 し た 不 必 要 文 章 は 、棒 線 罫 意 外 は一切ない。 そのことは、小林秀雄の、文章の意識化というよりも、対 象本位という姿勢の勝利と思われる。 小説の本道は「ものがたり」と「もののあはれ」である、 とわしが公言して久しいが、それは何も本居宣長を意識した 上での言葉ではなく、わしの小説書きの体験上からのもので あった。 小林秀雄が本居宣長を書いたのは、本居宣長の「道」の思 想に共鳴したからのみではなく、長年研究し評論してきた、 「近代文学」の問題やテーマを、長く長く意識し続けてきた からに他ならない。 小 林 秀 雄 が 、 本 居 宣 長 を 通 じ て 、『 源 氏 物 語 』 を 語 る と き 、 あるいは本居宣長の肉声を、随所に、見事に、意識的に引用 して、 『 源 氏 物 語 』を 語 る と き 、そ の 口 調 の 裏 側 に 、つ ま り は 、 日本文学の本質というものは、そこから出発しているのであ り、その本質は美しい本質であるがゆえに、近代文学であろ うが、現代文学であろうが、変わり様がない、変わっていい ものではない、もし変わってしまったのなら取り戻すべきで ある、という温故知新の意味での発見があると思われる。
© Copyright 2024 ExpyDoc