明治一一十年前半における王治本の足跡と詩文交流

1九州北部、小豆島
明治二十年前半における王治本の足跡と詩文交流
はじめに
(1)
ヒ、、
田
、^
明治十五年五月ごろから十七年末にかけて東海道・北陸道、さらには北海道の一器にまで足を延ぱす大旅行を終えた後、し
ぱらく東京に戻っていた王治本(号漆只色園。一八三五S一九0△は、翌十八年の七月に至るや、今度は山陽道・南海道・西海道
(2)
を巡る旅に出た。本稿では、その旅の終盤の時期、すなわち二十年に入ってから約半年問の彼の足跡とその間の詩文一荒につ
一、筑前
いて述ベたいと思う。
①博多
(3)
王治本は二十年元日に長門下関から、それま需在していた周防山口の日野宗春らと、半年前まで竺か月冏滞在した高知
の文人たちとに、それぞれ郵便で年賀の詩を送ったが、その後、一月下旬までに筑前博多に来て靴していた。そのことは同
-29-
継
(4)
年一月二十九日の﹃福岡日日新聞﹄に﹁王治本転寓頃日滞博中の清客王治本氏ハ都合にょり昨日より博多上新川端町ヘ転寓
せり﹂とあるのにょり、分かる。上新川端町は今の博多区上川端町である。
当時の﹃福岡日日新聞﹄を検してみると、博多滞在中、彼とかかわった人物として、吉嗣拝山(一八四六S一九一五)、益田道乙、
原三信およびその娘如雪女史の名を見出すことができる。このうち、太宰府在住の書画家吉嗣拝山は、王治本と四荒のため
こE
王治本が益田道乙と﹁舟を荒津山
博多に来ていたのであろうと考えられる。拝山については、後の太宰府の条で再度言及することにする。益田道乙については、
今のところ、何ら人物情報が得られていないが、二十年三月一日の﹃福岡日日新聞﹄
(5)
の近海に棹したる時﹂王治本が﹁益田に寄せたる﹂詩が載っている。荒津山荒戸山)は、現在の西公園(福岡市中央区であり、
同年二月二十八日の﹃福岡日日新聞﹄にも王治本の﹁荒戸山眺望即景﹂栗掲載されている。
次に、原三信というのは、福岡藩の藩医として襲われてきた名である。二十年の当時は十二代目で、診療所を営んでいた。
その娘如雪女史について、同年三月三日の﹃福岡日日新聞﹄に﹁福岡婦人協会員の壱人なる博多大浜町原三信氏の阿孃如雪女
史十七八年位は吉嗣拝山氏の門人にて書画を能くし且っ裁縫等も出来る由なるが頃日滞博中の清客王治本氏が同女子の手跡を
一見し其運筆精妙なるを感賞し﹂、詩を賦したとい、フ記事が載っている。その詩とは、次のようなものである。
書漉軽円画意新
才華は比ぶるに堪えたり管夫人︹元の趙孟頬の妻甘道昇︺
書漉︹書箪書物を入れる?つら︺軽円にして画意新たに
ママ
才華堪比管夫人
偶たま硯匝を批うちて金線を穿ち
U亘て百^にU1たり
(6)
偶把硯匝穿<森
烹号是昏を繍fり出だして
ぬいと
繍出鴛鴛運似真
王治本が日本の歴史や故事を巧みに詩に詠み込む技量を身に付けていたことについては、すでに前稿で紹介したところであ
-30-
(7︺
るが、博多滞在中その片鱗を示したものとして、松原公園、すなわち現在の東公園裕岡市博多区を詠んだ七律﹁遊松原公園二律﹂
(﹁福岡口日新聞﹄二十年二月八旦の第三、四句﹁匡一房探勝命勗晶太閤一繋漫作歌<匡房勝を探りて曾て記を留め、太閤茶を前一じて漫に
歌を作るとがある。第三句は平安時代後期の公卿、儒学者、歌人大江匡房(一0四一S工.一この﹁筥埼宮記﹂を、第四句は天正
十五(一五八七)年の豊臣秀吉の九州出兵の際、博多の商人も招かれ、千利休の茶会が催された故事をそれぞれ詠み込んでいる。
ところで、以上に引いた﹃福岡日日新聞﹄の博多関連記事には二十年三月に入ってから掲載されたものもあったが、王治本
の博多滞在は遅くとも同年二月中旬いっぱいぐらいまでであったろうと考えられる。というのは、同年二月十八日の同紙に﹁去
月来滞博中の清客王治本氏は来る廿一日当地出立太宰府の吉嗣拝山氏と筑後久留米に同遊する由﹂という記事が載っているか
らである。つまり、予定通りだったなら、二月二十一日には拝山と久留米ヘ向かったことになる。ただ、次に述ベるように、
王治本は拝山宅のある太宰府にも立ち寄っており、久留米が先か、それとも太宰府か、にわかには判断しがたい面もあるのだ
が、博多と同じ筑前ということで、とりあえず太宰府での事を先に取り上げることにする。
②太宰府
長尾直茂氏はその﹁吉嗣拝山年譜稿﹂に、二十年の﹁仲春、清人王治本が太宰府に至り、拝山は菅原道真像を描き、治本は
これに賛を成﹂したと記し、これに対する注に﹁士口嗣家には、この﹁一官相公像﹂が所蔵されている。王治本は﹁光緒丁亥仲春
,'、S︺
月漸東の王治本、太宰府に敬書す﹂と題署﹂したと記しておられる。この年の仲春をそのまま陰暦一月と取れば、それは陽暦
の二月二十三日から三月二十四日までに当たる。ただ、後述する通り、三月十六日には熊本に着いているから、太宰府到着は
それよりは前ということになる。
さて、太宰府で拝山は王治本に﹁骨筆﹂を見せ、これに詩を題することを求めた。﹁骨筆﹂とは、明治二年七月、当時東京
にいた拝山が太政官国史編輯局に﹁出仕の途次、神田橋(東京都千代田区近辺にて大風雨のため倒壊した家屋の下敷きとな﹂り、
-31-
(9)
﹁幸いにも一命は取り留めたものの右腕を切断﹂し、その後、切断されたその骨を以て製した筆のことである。このとき拝山
︹扣︺
の求めに応じて王治本姦した、全五十句から成る長編の古体票、﹁光緒丁亥春件遊次太宰府往訪拝山詞兄談次出示骨筆
井索題句為賦長古以応雅属並請政之﹂と題する次のような作品であり、拝山を主として書家として取り上げている。なお、後
n多在書骨非人骨
Ⅱ従来紛紛言骨者
W張芝之書骨勁密
9東披之字没骨肥
8初学之際骨先立
7法書要録垂讐口
6多骨之妙在筆力
5筆陣図論最精通
4肥皮脆骨染墜一
3又聞柳州伝毛頴
2蔵骨抱筋又包質
1営聞右軍賦不律
人骨を筆と作すは古聞くこと竿にして
多く書骨に在り人骨に非ざりき
従来紛紛として骨を吾える者
張芋
東披の字は没骨肥え
初学の際は骨先ず立てょと
法書要録は一管を垂れ
多骨の妙は筆力に在りと
筆陣図の論最も精通にして
肥皮脆骨濃墨に染むと
又聞きぬ
骨を蔵し筋を抱き又質を包むと
営て聞きぬ右軍︹王義之のこと︺は不律︹笵︺を賦し
での言及の都合上、各句 に 番 号 を 冠 す る こ と に す る 。
玲人骨作筆古軍聞
相伝う唯如来仏有りしのみと
︹後漢の沓家︺の書は骨勁密なり
も0二つ
j十 ︹柳宗元のこと︺の毛頴を伝する
H相伝唯有如来仏
-32-
26今身雛活右臂折
部此時自問身已死
説風狂屋傾遭大厄
23往昔遊学寓東都
22峡好我道往昔
れ拝山聞言日否否
2。君豈亦学如来訣
W今日見此筆一枝
18化身説法沙難測
Π仏家大意本空空
W剥皮為紙骨為筆
巧如来自昔住摩休
今身活きたりと難も右臂折れたり
此の時自ら問う身已に死せりやと
風狂しく屋傾きて大厄に摂ぬ
往昔遊学して東都に寓せるとき
笈一として我に対し往昔を道う
拝山言を聞きて日く否否と
君豈亦如来の訣を学びたりや
今日此の筆一枝を見るに
化身の説法は妙にして測り難し
仏家の大意は本空空
皮を剥ぎて紙と為し骨を筆と為しぬ
如来自昔︹昔︺摩休に住み
羽製為筆管美途竜
依然手に在り相失わずと
製して筆管と為して厭の毫を添え
ま、r
27嵯此臂骨親遺骸
安くんぞ一捌漫りに批脱するに忍びんや
ああ此の臂骨は親の遺骸
3。依然在手不相失
拝山の長言猶お未だ尽きざるも
き1二もかけす
器安刃ど排漫批脱
飢拝山長言猶未尽
吾巳に一たび聞きて登を発せり
すで
能吾巳一聞発歎息
無端︹思いがけない︺の災害は既に悲しむ可きも
ママ
器捗 火 害 既 可 悲
-33-
ブ亡奇1
特1
M二くの女Ⅱき音員事:嵐雅な事︺はブ亡も窃:
35拝山生来多才能拝山は生来才能多く
1寺なり
豁去右用左計亦得右を去るも左を用いて計亦得たり
(Ⅱ)
37饗肋柳骨誇神妙聾肋抑骨神妙を誇り
認高叟魯生可匹敵高叟魯生にも匹敵す可し
39狸骨帖中頻摩臨狸骨帖呈義之の書いた法帖の色中頻りに摩臨し
卯藤骨紙上字秀抜藤骨紙︹藤紙のことか︺上字秀抜なり
4餘事作詩更擅長餘事詩を作るは更に擅長
42杜骨知己為君窃杜骨は知己君に窃まる
また
心興来作画殊精工興来れば画を作る殊に精工
U陸骨亦復為君奪陸骨も亦復君に奪わる
45拝山拝山技何神拝山拝山技何ぞ神なる
46伏此断骨作生活此の断骨に伏して生活を作す
4稜稜仙骨在君身稜稜たる仙骨君が身に在り
48固非常人所能及固より常人の能く及ぶ所に非ず
四旺嵯乎洗爾髄今伐爾毛あぁ爾の髄を洗い爾の毛を伐らん
S十句まで、書道において﹁骨﹂にまつわる様々な事柄を取り上げた上で、第十丁十二句で﹁従来篇として骨を言
(13︺
印三寸骨筆煙雲黒三寸の骨筆煙雲に黒し(誓人録璽題霪所収)
第一
-34-
S三十句において、拝山が上述のような東京で
える者、多く書骨に在り人骨に非ざりき﹂と概括し、次に第十三S二十句で人骨を筆とした如来仏の唯一の事例を取り上げ
て、拝山に﹁如来の訣をぎたりや﹂との問いを向ける。これに対し第三十一
の遭難から月昆礎作までのいきさつを語る。第三十一句以下は、これを聞いた王治本が籍嵳竺る部分で、平山の、書のみ
ならず詩や画における才能も含め、これに対する絶大なる賛辞を呈している。
三筑後久留米
太宰府の次に訪れたと考えられる久留米における王治本の足跡については、久留米萃香園ホテルのホームページ記咸の次の
ような内容を手掛かりとして述ベることにする。すなわち、同ホテルは、もともと﹁鶴盟館﹂という屋号であったが、王治本
が来て、眺望に感ずるところあり、﹁萃香園﹂と命名、同席の星野武平のすすめもあって改号し、現在に至っているという0
B、
Cの己
筆者は同ホテルに王治本関係の資料が今も保存されている可能性があると思い、問い合わせてみたところ、現在の四弌目当主
川村安正氏が王治本の書の掛け軸三本の写真をお送りくださった。そこで、写き写っている文字に、便宜上A、
煙外の好山水墨に供し
号を冠し、且っ詩句には製肌も付して示すことにする。
A煙外好山供水墨
勝処(景色の優れた所︺の名園築きて乍ち成る
高原空濶︹広々としている︺にして遠山平らかに
勝処名園築乍成
画慌佑して臨む紅"赤い延の沼
B高原九通趣山平
画糧術臨紅糊沼
余斗改>に1卷く
i方ミー公力
珠簾斜捲赤松城
-35-
絶好清華行楽地
器業 声 万 古 情
稲香花馥四時景
造洛して期せん鶴と同盟せんことを
絶好なる清華︹清新の気︺行楽の地
雲影泉声万古の情
稲香花馥︹花の香︺四時の景
風前の老樹笙簀を奏す
造暹期与鶴同盟
C風前老樹奏笙簀
言うまでもないことながら、 Bの七言律詩をAとCの対聯衰んでいる形である。
Bの識誓、
Aの識誓﹁光緒丁亥仲春適萃香園経営
新成游観一過率題此聯﹂となっている。すなわち、光緒丁亥仲春に萃香園か新築成ったときにたまたま行き合いざっと見せ
てもらい、倉卒にこの對聯を書いたという意味である。一方、
光緒丁亥春二月游次久留米辱承田中田村士屋星野諸君招飲鶴盟館山光入坐樹影横庭醇餘即於小詩卿以誌勝井希同飲君子
粲政之削東雲海漫遊客黍園王治本初稿
となっており、﹁光緒丁亥春二月、久留米を訪れた際、田中・田村・士屋・白生野の諸氏に鶴盟館での宴に招かれた山からの
陽光が座席に射し込み、その陽光で木々の影が庭に延びている。酔餘、景色を描いた小詩を賦し、少しでもこの素晴らしい剛
とどめるとともに、同非舌の皆キ兼には手戈力ゞ詩句をご゛参正いただきたいL一というような^忌味である。
星野武平(一八三七S一八九一忌は﹁早く父を失い生活苦しい中に育ち、油行商より身を起し、つぃに屈指の財産を積﹂み、﹁十
介)
七年四月、通町・通外町・蛍川町・寺町の戸長に任ぜられた﹂人物という。田中・田村・士屋は、初代川村安次郎が鶴盟館を
開業した時の後援者という。
-36-
ニ、肥後熊本
さて、前述のとおり、王治本は二十年三月十六日長本までやって来たのであるが、その事について三月十八日の罷本新
清国公使館遊学員王治本といへる人と画家石川県加洲江沼郡大聖寺町百十五番地士族埜田玉繊と云ヘる婦人
聞﹄は次のように報じている。
清客来熊
同伴にて 一昨十六日の夕来熊洗馬町研屋に止宿されたり
﹁清国公使館遊学員﹂とい、つ一屑書が﹁スパイ嫌疑﹂等、余計なトラブルを避けるためのものだったことは、前稿で述ベた。
、
埜田玉繊は、王治本が十五年八月に金沢で知り合った女流画家で、二十年の時点で年齢は三十一、二歳。十六年八月、新潟で
王治本と落ち合って以来、各地の書画会で画を分担する等、ずっと行動を共にしていたようである。
三月十九日の﹃熊本新聞﹄は、
王治本氏前号に、器せし通り同氏は目下洗馬町研屋ヘ止宿中なるが滞留中ハ諸人の需に応し得意の揮毫を諾せらる
由なれば文人墨客ハ勿論其の他の人々も揮毫を乞ふべきとにこそ
と報じるとともに、﹁同氏か今度当地ヘ来らる、途中の作を得た﹂として、掲載している。
自筑後赴肥後途中即景渕東王治本
-37ー
晩風駅路夕嘉馬
需濶 処 野 橋 横
崖山揺前村舎聚
細草黄沙二逕平
軽車暁発赤松城
暖日山林早鞍師﹂ゆ
晩風駅路帰馬多く
豁流濶き処野橋横たわる
崖岸︹山のがけ︺湾前村舎聚まり
細草黄沙工逕平らかなり
軽車暁に発す赤松城
こころ
つこ
︹あわただしく落ち着かない︺たるも呈予叫菊ガ曼たり
︹2)
暖日山林聞早鷲
互白三E
(22)
游跡栖皇春烱慢
依々たる楊柳最も情を関かす
ママ
依々楊柳最関情
①本妙寺での観桜の会
さて、﹁日々揮毫を依頼するもの絶ヘざる﹂合間を雙て、三河二十四日には﹁当地害家の案内にて東郊水前寺ヘ遊﹂んだ
(3︺
りしていた王治本(罷一本新開﹄二十年三月二十五旦だったが、桜が盛りを迎えた某日、発星山本妙寺で、行徳拙軒ら熊本地元の詩
人たちとの出会いがあった。﹃拙軒詩紗﹄に載っている次の二首は、その時の作品である。
消除 畑 喩 、 北 源 浄
導砂相対座為団
脚惨 花 映 法 壇
塵気瓦︺を解脱して眼界寛し
煩悩を消除して、心源︹こころ︺浄く
涼献して相対し座団と為る
桝伐たる桜花法壇に映じ
春日与中津海 田久保・兼坂・八木田諸需発星山観桜、偶会清朝文客王黍劉、有詩見示、即次其釣贈之、併呈日轟上人
解脱塵気眼界寛
-38-
更焼芋魁供晩餐
遠交既許淵明酔
同心吟友共一徐
異域佳、易避遁
更に芋魁︹粗来な食ベ物の意之を焼きて晩餐に供せん
遠交既に許せり淵明の酔うを
同心の吟友共に交歓す
異域の佳賓初めて邇遁し
敘君詩句玉団団
鵬飛ぶこと九万乾坤狭く
欽う君が詩句の玉団団︹円満である︺なるを
(2)
鵬飛九万乾坤狭
鯨飲むこと十千膓譽 し
ワやま
酔後走筆贈炎向 又胆器
文姉誰か争わん李杜瑜
鯨飲十千膓鰹見
蓋を傾け心を論ずるも言尽きず
文硫誰争李杜壇
傾蓋論心言不尽
荊を班き︹故珀の怯三っ︺手を握りて意殊に歓ぶ
余)
班荊握手意殊歓
道わざりき山中食らわんに魚無しとは
し
不道山中食無魚
香味孰れか如かん新筍の餐
おも
香味孰如新筍餐
第一首の題の意味は﹁春のある日、中津海・田久保・兼坂・八木田ら諸子と発星山ヘ出かけて、花見をしていたところ、偶
然、清朝の文客王黍園がお見えになり、詩を作ってお見せになった。私も直ちにそのお作に次額して、お贈りするとともに、
併せて日轟上人に献呈する﹂ということになる。したがって、王治本が先にこの韻を踏む詩を作ったのであるが、その詩は未
詳である。
-39-
(2)
ここで、武藤厳男の﹃肥後先哲偉蹟後篇﹄にょり、この日の参加者について、維新後の経歴を中心に簡単に記しておこう。
ママ
行徳拙軒(一△委了一九0上は﹁名は直温、文卿と称す、拙軒は且台ずなり、平橋氏、出で二打徳氏を嗣ぐ、眼科医を以て名あり、
傍詩文を能くし、詩社閏餘会を與し、其牛耳を執れり﹂。所引の孫行徳勝人の文章屈昶一年十二旦にょれば、﹁富岡敬明熊本県
に令たるの時、県治を見るの餘暇、在野の文人墨客を会し、詩文を賦し雅懐を叙す、之を閏餘会と称し、兼坂止水、生駒業里
村井琴浦、田代雲胴等は社中の耆宿にして'牛耳を執り、熊本の詩壇大に振興す、当時熊本に杖を曳く騒客韻士は、皆な翁
ママ
の家を訪はさるものなし﹂という。中津海主静(一八一九S一八九己は﹁名は知崇、字は士衡、通称平之進称平と改む、主静
と号す、中小姓たり、時習館訓導より、助教補となる﹂。タタ久保東崎(一八二OS一八八九)は﹁名は安之一之允と称し、晩に
東崎と号せり、諸役に歴仕し、廃藩後は文墨を以て娯とせり﹂。兼坂止水(一八三了一九0こは﹁名は諄、通称諄次郎、初梧
庭と号す、後止水と改む、価禄五百五十石、時習館句読師、叫、助勤たり、維新後帰農して、聆、諏を以て自ら楽しむ﹂。八木
田梅雄(一八三OS一九三こは﹁名は政徳、字は栗崖、小右衛門と称す、後小と修む、坦路と号す、禄二百石、鉄砲頭たり、詩
歌俳誥共に通ぜざるなし、俳諧は難門の宗匠たり、梅雄と号す﹂。所引の八木田家系図にょれば、﹁維新後戸長となる、同十一
牙)
年六月隠居、革堕同十四年九月私立共立学舎に漢学教授、十八年三月閉校の時に及ぶ、漢詩を白木柏軒に、和歌を中島広定
に学び、俳謹園部楳公の跡を承け、明治十五年雛門第八世の宗匠となる﹂。
呈上人(一△天S一九0四については、宇野カネ編集兼発行﹃肥後名家碑文選﹄に次のようにある。﹁諄は目轟革略)小
(28)
(2)
岱卜号ス、岩村氏、甲堕少壮豊後二赴キ儒学ヲ帆足万里毛利空桑ノ門二修メ、台学ヲ東叡山忌子ビ宗乗ヲ尭山師二習ヒ造
詣甚ダ深シ、(中瞳明治十一年本妙寺川一世ノ法燈ヲ嗣ギ丁丑戦後兵焚ノ後ヲウケ、桔据経営太ダ勤厶〒堕﹂。
(3)
ところで、この日の本妙寺での詩会の事は、四月九日の﹃熊本新聞﹄にも載り、﹁左の一篇は当呼冊熊の清人王治本氏の発
(3)
星山にて賦せられしものにて其の稿寄せられたれハ左に掲く﹂として、﹁発星山探桜三首、次兼坂止水竜田山吟韻﹂が掲載さ
れている。第弌二首のみ掲げることにする。
-40-
微香暗逗帯風声
細葉辰団如雪聚
一笑枯花亦有情
老僧心地両幽清
白白紅紅駐各争
西林此驫東林雪
如逢新友面猶生
絶好微施胎乍破
鳥亦尋芳作笑声
雲来遮樹添嬌色
幽人対賞恢幽情
古寺桜開香更清
豆頁芳、^︹花のおとずれ︺鷲児︹うぐいt
微香暗に逗りて風声を帯ぶ
禦"濃く団まりて雪の聚まるが如く
一笑して花を枯るにも亦情有り
老僧は心地両つながら幽清
白白紅紅監各おの争う
西林は此驫東林は雪
新友に逢いて面猶お生兌慣れなどなるが如し
絶好なる微施︹小さな花びら︺胎乍ち破る︹開花した︺
鳥も亦芳を尋ねて笑声を作す
雲来り樹を遮りて嬌色を添え
幽人︹人里離れて静かに暮らしている人︺対賞して幽情︹風雅な思どを恢す
古寺桜開きて香り更に清く
さ
樹頭芳信鷲児語
林外新陰︹新しい木陰︺楳子︹梅の実︺生ず
かお
^ノ之
林外新陰楳子生
独り此の桜の開くは皆仏果
あつ
独此桜開皆仏果
嵐山墨水も能く争う莫し
^叩り
嵐山墨水莫能争
-41-
②高知の三浦一竿との﹁吐置交流
ところで、筆者は今、二十年四月初めごろ、能烝布在中の王治本について述ベているところであるが、それより一年前の十
は、王治本が高知を去った後も、十年近くにわたり、郵便にょる詩文交流を続けた。両者の交流の跡は
九年四月中旬から六月中旬にかけて王治本は高知に滞在し、その問に高知の文人たちと深い情誼を結んでいた。中でも三浦一
竿(一八西S一九09
一竿の﹃江漁晩唱急にょって窺うことができるのであるが、その王治本熊本滞在時に関するものをここで取り上げておきたい。
まず、同,巻に一竿の﹁次黍園﹃游本妙寺観桜﹄談。時黍園琵柴城﹂と題する、竺首が載っている。これは題こそ完
全には一致せぬものの、前掲の王治本の﹁発星山探桜三首次兼坂止水竜田山ψ邑に次韻したもので、次のような作品であ
る。
藥辰春雷竜塾起
引水珠跳竹筧声
炎一趣裳湘簾影
勝游随処恢幽情
呈風和午気清
社雨︹春雨︺罪微(細やかに降るさ三たりて一溌生ぜん
春雷驚震して竜贄起こり︹陽春になる︺
水を引けば珠跳ぬらん竹筧の声
茶を煮れば煙袋かなるらん湘簾子だれ︺影
勝游︹心にかなった誓︺随処幽情を嘱すらん
Π媛かく風和かにして午気清く
のど
罪敷社専跳生
吾人は意気都て消え尽くし
みた
吾人意気都消尽
独り詩家と勝負を争うのみ
たおや
独与詩家勝負争
古寺春光分外清古寺の春光分外に涼らん
-42-
誇道芳桜新国色
春草池中錦浪生
夕陽塔外香雲合
高低芳樹皀条戸
揺曳軽風花弄影
一楊琴書物外情
薫姫継纓纂煙清
不問塵間幅一学
老僧一睡天過午
瓢梨百座中生
片片花従風欝土
水静池魚聴発声
林深山鳥和人語
況*芯、翁幽情
姚黄魏紫
誇りて道わん
春草池中
夕陽塔外
﹂局く低き芳樹
揺曳せる軽風
一楊の"霽
薫鱸︹香桓
錦浪生ずらん
系去︹芙しい雲︺△口し
問わざらん塵問無お争い︹無意眛な言い争どを
老僧一睡して天午を過ぎ
懇懇として雲座の中より生ぜん
片片として花風の裏を堕ち
水静かにして池魚発声︹念仏誘経塁巴を聴くらん
林深くして山鳥人語に和し
況や鯛計︹酒を飲み詩を賦す機会︺に逢い幽情を陽ぶるをや
0)上
影を弄し
漫りに相争、つと
(3J)
芳桜こそ新国色(牡丹に代わる美しい茜なれ
鳥声を分かつらん
一巳
↓イ
4クタ
纓纓として纂鄭紺からん
永力
姚黄魏紫漫相争
第一首は第一句から第六句まで、第二首と第三首は全体にわたって、本妙き尋会裟子を相当に仔細に想像しつっ詠み
上げている。それだけ深く王治本を祭しむ彼の心傍表れと見ることができるだろう。それとは裏返しに、第一首の末尾三
-43-
句には、王治本と別れた後の自身の薫気消沈ぶりを訴えるような響きが感じられる。
次に、一竿の﹁丁亥四月十二日読黍園録示﹃八元星山唱和詩﹄、即夜次韻却史可、兼似日轟上人﹂は、前掲の行徳拙軒の﹁春日
与中津海・田久保・兼坂・八木田諸子游発星山観桜、偶会清朝文客王黍園到、有詩見示、即次其的贈之、併呈日轟上人﹂とい
一葉届舟傍釣壇
松魚風味又供餐
但願客舟重繋績
千里朋情膨漆歓
半生愁鬢煙霞癖
好山当面愛窓寛
芳草連空知野曠
寄到新詩似錦団
羨君筆力老吟壇
落花灼灼として月団団︹真ん丸︺たり
一葉の肩舟釣壇に傍い
松魚︹カツォ︺の風味又餐に供せん
但願わくは客舟重ねて績を繋がんことを
千里の朋情惨漆の歓び
半生黒鬢︹愁いのため白くなった鬢髪︺煙霞の癖
好山面に当たりて窓の寛きを愛す
芳草空に連なりて野の曠きを知り
新詩を{奇り到く錦団に似たり
羨む君が筆力吟壇に老︹老練︺なるを
う詩題の中で一言及されている、王治本の詩に次韻したものということになる。次のような詩である。
落花灼灼月団団
{鳥客燕韶華︹春ののどかな景色改まり
ーニと
{為客"糖華改
剰水残山風月寛し
お<
剰水残山風月寛
薄暮雲を看れば旧恨を牽き
(3︺
薄暮看雲牽旧恨
-44-
遠伝吟句来南国
黎明結夢接餘歓
捧げ読みて欣然 秀餐ず可し
遠く吟句を伝えて
黎明夢を結ベぱ
南国に来らしむ
餘歓に接す
め
捧読欣然秀可餐
以上二首は、第一首の第三、四句と第三首の全体を中心として、主に自身の状況を詠んでいるが、併せて王治本と交流して
いる熊本の文人たちへの羨望王治本との再会の願い、航別の悲しみをもにじませている。その他、﹃江漁晩唱集﹄上巻には、
十年為客君如杜
桃花波媛刺篇痕
楊柳煙迷聞笛処
曲径疎籬小小村
一湾碧水繞衡門
尽日園に溌ぐ我は温︹司馬光︺に学ベリ
十年客たり君は杜︹杜甫︺の如く
桃花の波媛かなり篇を刺しし痕
楊柳の煙は迷う笛を聞く処
曲径疎籬︹疎らな垣︺小小なる村
一湾の碧水衡門︹隠者の家の巴を繞る
一竿の﹁条園﹃用東城韻寄懐﹄。時黍園琵柴城﹂と題する次のような詩も載っている。
尽日涜園我学温
杜宇声中春己に老いぬ
おお
杜宇声中春己老
最も消遣︹やり過ごt
4て
最難消遣別離魂
垂柳湾頭水門を抱き
ママ
垂柳湾頭水抱門
数家の籬落自ら村を成す
し難し別離の魂
おもい
数家籬落自成村
-45-
人帰釣石有餘旧血
客散酒樽無謄滴
夢醒幽窓月一痕
春深古駅花千樹
熊城の風景知ること多少
人帰るも釣石餘温有り
客散じ酒樽
夢醒めて幽窓月一痕
春深くして古駅花千樹
贊商 ︹残った滴︺無く
張風景知多少
定めし吟峨をして客魂を慰めしむるならん
(訟)
定使吟峨慰客魂
この二首においても、一竿は主として王治本と別れた後の自身の状況を詠んでいるが、その中心となるのは第一首末尾の﹁別
雛魂﹂ということになるだろう。ここでの﹁東披韻﹂とは、珠東披の﹁正月二十日往岐亭郡人潘・古・郭三人送余於女王城
東禅荘院﹂詩の嶺を指すが、本妙寺の詩会においてこの韻にょる作詩の行われたことが分かる。﹃江漁晩唱集﹄上巻には他に、﹁次
拙軒用東城韻﹂、﹁次田久保東崎用東披韻﹂、﹁次岡田竜渓用東披談﹂、﹁次兼坂止水用東披韻﹂の各詩も載っており、一竿はその
後もしぱらく熊本の詩人たちとの﹁詩筒﹂交流を続けている。
ところで、今から約四十年前に王治本の足跡について調査をされたさねとうけいしゅう氏交八九六S一九八五が当時明治大
学教授の圭室諦成氏(夫人の祖父が兼坂止水。一九9丁一九六室から見せてもらつた資料の中に、﹁止水の詩を王治本系削し﹂た﹃止
(3)
水吟稿﹄とともに、﹁兼坂止水・中津海主静・田久保東崎・八木梅雄・行徳拙軒が王治本をむかえて、発星山(加藤沽正の靭のあ
る本妙寺)で詩会を催したときの詩﹂である﹃発星山唱和稿﹄があったという。一笋冒うところの﹁発星山唱和詩﹂とは、その
稿本のことと思われる。なお、岡田童誓ついては、一竿と交流関係のあった人物の作品を収録した﹃江漁晩唱集﹄附邑そ
の作品﹁寄懐一竿用東城女王城的﹂が載っており、注に﹁岡田弘号童誰後人﹂とある。
-46-
二十年四月二十一日の宅煕本新聞﹄には﹁王治本氏過日来一、熊されたる同氏にハ今明日乃中より出発さる、由﹂とあり、
王治本は四月二十日かその翌日に熊本を去った模挙あるが、翌二十一年末の﹃九州日日新聞﹄紙上に掲載された行徳拙軒の
次の諸作品にも、王治本 の 評 が 付 さ れ て い る 。
(開)
﹁閏餘△姦早序﹂(二十一年十一月十四日)、﹁笑疑堂集瓦﹂﹁漫成﹂(二十一年十二月八日)、︹歩東城正月二十日岐亭尋
春的﹂三首(二十一年十二河八日)、﹁百梅園集﹂﹁四時器﹂二首全十一年十二月十三日)、﹁大楠公﹂﹁小楠公﹂全十
一年十二月二十六旦
これらについては、新聞掲性何らかの事竿この時期になったものの、王治本の評そのものは"熊中に付されていたと考
えていいだろ、つ。
一二、豊前耶馬渓
さて、いよいよ王治本は足かけ三年の西国大旅行の最終的な目的地である耶馬渓を訪れることになる。その時期は、後述の
,(卸)たけの二いわやざまいわ
通り、五月下旬から六月初めにかけての頃だったと考えられる。耶馬一碧もいくつか詩を詠んで残したようで、鴛海正治の﹃耶
馬一澄覧詳説.﹄に、筍巌、箭間巌、批立巖にそれぞれちなんだ七言絶句、計三首が引用されている。ただ、最も力の込もつた
ああ
余曾て扶桑の大半に禦こと偏くして
作品はご局知の三浦一竿のもとヘ送られてきた﹁耶馬一隨游﹂詩(需晩唱染﹂附録に掲載)である。それを掲げることにする。
鳴呼余曾游偏扶桑大半耳
-47ー
三戸蝶破通行軌
両山抱処路欲窮
零落一染成村市
空洞崖穴供仏寵
尖頂痩骨多奇誰
左岫右堅若競争
嵒嵒峅峅皆立起
川頭兀石山頭峰
耶長侠道従此始
英彦山外山重畳
度過小河内嶺五六里
吾自発亀山経豆川
岬峰蛸抜相角抵
耶馬之渓独不同奇在崖石
名山異態争峻齢
ヌ川立隹1券^西浩溺
愈知山川形勢無定美
峯転じ岸回りて別に天有り
二戸雙ち破れて行軌通ず
両山抱く処路窮まらんと欲し
零落せ長家村市を成す
空洞崖穴仏寵厨子︺に供し
尖頂痩骨多く奇誰なり
左岫爰のみね︺右堅暑のたE
嵒嵒嶬嶬︹起伏している︺として皆立起てり
川頭は兀石︹高くそびえた岩︺山頭は峰
耶馬渓の道此より始まる
英彦山外山重畳し
小河内嶺を度過ぎて五六里
吾亀山を発してょり豆川を経
岬蝶︹高く険しい︺として蛸抜︹高くそびえたつ︺し相角抵︹競っ︺す
耶馬裟のみ独り同じからず奇は崖石に在り
名山は器忠にして崚蝋︹高三を争う
川は雄1券にして浩溺i
戻よ知る山川の形勢に定まれる美無しと
めや
競争するが若く
t
︹広く大きいこと︺を誇り
峯転岸回別有天
馬馳せ車奔りて行きて復た止まる
す
馬馳車奔行復止
-48-
第一佳景青生前
夾岸層峰又炭嶬
行過宮園到柿坂
僻崇崖雲讐
白石浅泌水浅清
羅漢寺は蔵る煙雲呈
第一の佳景青前に生じ
岸を夾む層峰︹重なり連なる峠︺又炭嶬(高く険しどたり
宮園を行過ぎて柿坂に到るや
緑樹の崇崖︹高い巻雲器︹賠どたり
白石の浅淋水浅く清く
あいき
羅漢寺蔵煙雲裏
十丈長橋樋需
万朶尖笏挿巖吐
危峯争矗長又矮
行来れぱ燧道は此れが第三
危峯︹高い峰︺矗︹高くそびえる様︺を争いて長く又矮し
急満︹散しい水述瀉ぎ落ちて清く且届ち
万朶の尖笏巖吐に挿す
十丈の長橋需を隔て
、女みt
行来隱道此第三
吋取も深く目取も北乍く国取も泡轡述なり続く様︺たり
急満瀉落清且漣
最深最窄最泡避
阪道歴尽くして牛首︹地名︺に抵り
j之
阪道歴尽抵牛首
雲嶺も此に至りてずに一隨
、イL
雲嶺至此巳渓尾
ああ吾歎ず一1
往来す万千人
鳴呼吾歎1往来万千人
能く此の景を賞する人幾ぱくも無し
ママ
能賞此景人無幾
多く奇峯を以て笋に比す
ま陌及.訓(有りて古、今、にイ立1わり
多以奇峯当笋比
五品卵えらく耶馬渓の景は洵に無窮
問有題詠伝古今
吾謂耶馬一禁洵無窮
-49-
合観憾然得其体
分而論之不一容
痩腰臨島舞妓
円項露坐如老仏
岫削的隣猶壁塁
孤塒兀突若浮屠
語得三夏形似
昂き者は馬首平らかなるは馬腹
合して観ば憾然として其の体を得たり
分かちて之を論ぜば一容ならざるも
痩腰風に臨みて辧妓氣す
円項︹まるい悪露坐して老仏︹老僧︺の如く
岫削的嶢︹険しくそそり立ち起伏している︺として猶お壁塁のごとし
孤岼兀突として浮屠︹寺の塔︺の若く
詣ぞ一言もて漫りに形似せしめるを得ん
え人ちょう
昂者馬首平馬腹
横たわれるは馬鞍たり直きは馬筆︹馬を打っ鞭︺
(。)
横為馬鞍直馬筵
曲折せる謬乢は飲馬槽︹飼い柴おけ︺
(U)
曲折渓流飲馬槽
勿勿如入山陰路
要知古者命名良有以
此言休笑吾独創
二日の游程興未だ窮まらず
妙境左右に視るを容れず
勿勿として山陰の路に入るが如く
知るを要す古者︹古△の命名には良に以有るを
此の言笑う休かれ吾が独創と
一一市の山容津て是くの如し
妙境不容左右視
蕃市山容浦如是
二日游程興未窮
夢魂猶お繞る谿頭の水
(北︺
夢魂猶繞谿頭水
あぁ扶桑の山水美縦い多からんも
ゆえ
鳴呼扶桑山水美縦多
吾は此四渓に於いて観止せりと嘆ずと為す
(4︺
吾於北秀嘆観止矣
-50-
﹃春秋左氏伝﹄を出典とする末尾の﹁観止﹂の穫、﹁みることはこれで止み、他はみるを要しない。善美の限を尽してこれ
以上のものはないこと﹂という意味6、 まさしく耶馬一釜覧を最終の目標とした彼の西国大旅行の最後を飾るにふさわしい一言
葉である。
この詩を送られたためであろう、三浦一竿は王治本と玉繊女史とにそれぞれ思いを寄せる、次のような詩を作っている0
寄懐黍園在耶長侠
駿墨 残 香 凡 案 問 駿 黒 告 残 っ た 里 残 香 兀 案 の 問
離愁脈眛涙鷲絢雛愁眛脈冒ごが波打っ様︺として涙鷲絢たり
天涯 荒 駅 人 千 里 天 涯 荒 駅 人 千 里
渡口 肩 舟 水 一 湾 渡 口 肩 舟 水 一 湾
柳色濃囲容膝屋柳色濃く囲む膝を容るるの屋
松濤狂婆乢書山松濤狂おしく撚がす書を読むの山
ι
ι
料知耶馬語欝料り知る耶馬渓腎路
留住吟鞭尚未還吟鞭を留住めて尚お末だ還らざるを
聞玉繊女史游耶馬渓、因寄此詩
白従折柳唱陽関柳を折りて陽関を唱いしより
迹逐紅橋紫陌間迹は逐う紅橋紫陌の問
-51-
借君筆底着青山
耶馬 謡 派 未 得
君が筆底を借りて青山を看ん
耶馬器、游ぶこと未だ得ず
四讃岐小豆島{益渓
さて、前述のとおり、王治本のこの西国大旅行の最終目的地は耶馬渓であったのだが、東京に戻る前に、彼は小豆島の{諺
渓も訪れた0 小豆島がちょうど帰途に位置することもあっただろうし、また、当時、穿.畏が耶馬渓と並び称されることがタタ
かったため、そのような話を何度も耳にするうちに、一度訪れてみょうという気持ちが芽生えたということもあっただろう。
ところで、耶馬渓から{燕璽侠までどのようなルートをたどって行ったのかか気になるところであるが、当時大阪商船会社か
開設した航路に、﹁大阪1神戸ータタ度津1金伯1Ξ津浜1長浜1別府1大分!佐賀関1臼杵1佐伯1細島航路の第八本線全十
王治本は別府か大分まで出て、この航路で夕夕度津まで行ったのではないだろうか。次に、タタ度津から小豆島
年より月六四と、大阪1神戸1多度津1今治1三津浜1別府1大分1佐賀関1八幡浜1宇和島航路の第九本線全十年より月八回)﹂
があったという0
へのルートについては、大正十年刊の﹃小豆郡社四に﹁十九年商船会社第五兵庫丸来リ多度津土庄岡山闇ヲ航行シ岡山ニテ畢
換ヘ阪神地方ヘ往復スルヲ得ルニ至レリ﹂とあるのが、参考になる。
王治本の小豆島訪問に関するもので、現在までに筆者が入手した主な資料は、中桐星岳(一八四九S一九0五が二十二年に編
纂した再侠集︺に収められた詩文である。中桐星岳は、﹃讃岐人名辞書﹄に、﹁小豆郡草壁村の人(中略)啓絢、字は素卿
号は星岳又柳東、碌々山人と称す、甲四明治初年郷に帰りて医業を開き、同五年高松に出で柏原謙益の病院を開くや其の卿
院長に挙げらる、同七年高松医学校の開設に際し其の教頭に任ぜらる、革喧十二年家に帰り業を開く、(中略)本務の餘暇を
以て詩を賦し画を好み特に神懸山を世に紹介するに努り自ら誤苗主人と称し錦渓集の編纂あり﹂と岬されている。﹁神
-52-
懸山﹂とは、吉田東伍﹃大日本地名章同中国・四国﹄の星城山の条に﹁卜豆島四砕なり、市雌山中に建卦と号する奇寛
0)、その卜子豫吉、三野市堂(一八五四?S一九一六)、椿
あり、岩石峻々、鉤を用ひ石に懸け、辛ふじて縦称すべし、今神駆、又突永畏の字に仮る﹂とあるように、見主言うところの
笑璽決のことである。この中桐星岳も含め、山田晋耒日(一八四二1一九一
堂夢吉、山中石水、岡田一壽、玉繊女史とともに築墜き登った時の王治本の文章が、﹁琵璽綣﹂である0
山田晋香は、﹃捗頑岐人名酵どにょれば、﹁名尚倆、字人甫、通称初輔四郎、次価之次、号籾梅庭後晋耒臼、毎村の次男、家学
を承け又豊後広瀬青村に学び詩文害を能くし、稀に芝石を画く、(中雌功績旧高公藩儒員にして月治の年より師沌教育に従
事し﹂たという。三野柿堂については、一魯市出身の漢学者牧鞭次郎交八六三S一九三七)撰の墓誌陥に、
三野氏、我通家也。予既銘盤谿先生、又銘柿堂君、豈不愉然哉。君諒知周、字子車、号柿堂、盤谿先生長子、為人温厚、
夙承箭、又師事郷先輩山田栃邨・片山沖堂、後学大阪師蓮子校、業成以教{目渉歴于否川・名東・大阪・愛暖.兵庫、復
旋而教于香川、性又風璽、舌長于鑾識、大凡璽凹画宝玩一見帆判+芯、晩年為大阪主友氏所延男一官井文庫0
と記されている。他の人物については未詳である。。
さて、﹁兆璽伏記﹂であるが、一千字近い文・單で、上述の八人と築慢に登、つた時の事を記したものであることゞ言うま
でもない。一部省略しつっ、製肌文を掲げることにする。
讃より伴と
小豆島は讃岐の東北に在り、海に臨み山を環らす。中美硬侠有り、古観苫名づく。応坤帝の遺貰た小0曲号UのB馬
渓と、並ベて麻と称す。余是の打の初めに於いて、曾て一たび耶馬謬遊び、遂に海を渡り嘉に来る0
]マ小寸に{^す。塑^卓井ヲく旦牙会︹辻何、ノケちイ皆に同ーテをイーιい、'足に^伯い曲お〒す。(中堕山愈:いよ﹂二れぱ、貝Uち愈
-53-
いよ険しく、挟よ険しけれぱ則ち挟よ奇なり。歩を移せぱ形を換え、雲を借り態を作す之を膽るに前に在り、忽爲
Lに到りて一
﹁
として後ろに在り、変幻言状す可からず。余老脚屡弱にして、歩々停憩す。時に或いは樹に倚りて凉を牙り、泉を汲
みて渇きを解く0 幾たび足を駐むることを径たるかを知らず、斯に絶頂に上躋︹上る︺することを乍何たり
望すれぱ、南は讃海、北は薇︹備前︺海、二洋風帆往来し、煙波明滅して、瞭然として指顧の中に在り、覚えず掌を泊
ちて奇を叫び、日く﹁大観々々﹂と。余皆一々命名し、阪て十二景と為し、玉繊に属し、景を按じて図を努しむ
此れ第余が見る所・愛する所経き、約略之を言うのみにして、固より未だ此の灣妙を悉くすに足ら、ざるなり時に同
伴皆己に先に登り、地に席して環坐す。迺ち游嚢を解き、飲具を出だし、火を嘘き茶を煎じ、瓢を傾け醋を四む好風懇
払し、吟袖に吹き落っ。仰ぎ観れぱ、則ち雲日摘む可く、挽して来路を視れば則ち群璽同低、津て児孫の膝下に繞り
袰昔古帝の遺綜を問うに、年荒代遠にして、曾て人の能く之を道う者有る無し亦慨くに足るのみ酔坐
-54-
列なるが如し0
余日く、﹁馬誓奇石岫峰、透避すること数十里長きを以て勝れりと為す。夫の蛙屶畳の中、又
すること良久しくして、復た旧径を尋ねて山を下る。(中略)同伴<永を詰って田く、﹁此四淡馬渓と相較ベぱ、果たし
て孰れか優る﹂と0
すて
遠く煙海空濶にして涯無きを望むことを得るが若きは、則ち此の努勝れりと為し、而して馬灣及ばざる所なり﹂と。
市雌是の日同じく游ぶ黄山田晋香・小子豫士口・三野柿堂・椿堂夢士口.中桐星岳.山中石)ー.岡田著
同伴皆以て然りと為す。随いて賞し随いて憩い、流連して邊かに下るに忍びず。山を下る時、己に耕昆珂め樵帰れり、
めて薄暮に近し0
斎・余と玉繊と共に九人と為すなり。余十二景皆題句有り、同伴も亦各おの詩有り
まず、王治本が寒鴛侠に登ったのはいつごろであったか、推定しておきたい。その際、手掛かりになるのは、この文亭のア永
是の月の初めに於いて、曾て一たび耶馬渓に遊び、遂に海を渡りて讃に来る﹂の一文と、王治本揮毫の再決集﹄の足耐﹁模
水範山一の日付﹁光緒丁亥端陽前二日﹂である。この日付は明治二十年の陽暦六月二十三日に当たる一方、﹁是の月﹂は陰暦、
力厶
陽暦のいずれか、断言しがたいものがある。王治本の文章の通例から考えれぱ、陰暦であろうか。そうすると、陽暦の六月二
十三日、すなわち陰暦の五月三日に小豆島に滞在していたはずだから、耶馬渓に遊んだのは陰暦の閏四月初め(陽暦の五月二十三
兪)
口から六月一Ξごろまでに当たる)で、笑余異琴山は陰暦の閏四月末と考えるのが、自然かと思われる。陰暦の閏四月下旬は、陽暦
の六月十二日から二十日までになる。
再侠集﹄では、この﹁遊寒鴛伏記﹂の次に、王治本が﹁皆一々命名し市略)玉繊に属し、景を按じて図を絵かし﹂めた﹁十
絶頂巡膽潭不隔
巖洞中通可見天
渓崖重複疑無路
似屏似塔断還連
成嶺成峰横又側
畳峰千年錦ポ煙
古白覇畿号怨一
一祭讃海当前に落つ
絶頂も搖かに膽れば津て隔たらず
巖洞中通じて天を見る可し
一離重複して路無からんかと疑うや
上ι土致口にイ以て凶子えて一迷た連なる
嶺と成り峰と成る横又側
畳悼千年紫煙に鎖さる
古皇の遺蹟怨苫号す
二景﹂を題した栗載り、その次に璽壁添途口占一律﹂と題する次のような詩轟っている。
一陛讃海落当前
人口に恰美した殊城の﹁題西林肆土﹂詩、陸游の﹁遊山西村﹂詩の語を取り込んだ、まさしく﹁口占﹂という題そのものの作
品であるが、これに次韻した山田晋香の次のような作品が、﹃山田晋香希﹄に載っている。
-55-
盆璽決山、次黍園先生韻
ヘだ
つきい
紫葛青蕪繞談一紫葛璽のかずら︺青幕曾いつ左壁を繞りて懸かり
沿崖鹿砦界人烟沿崖鹿砦人烟を界つ
石相倚互纓癌凸石相石得りて瘻瘤︹こぶ︺凸で
崟又生崟腹背連峯又崟を生じて腹背連なる
左右風帆山外海左右の風帆山外の海
高低雲樹洞中天高低の雲樹洞中の天
巖鎭一望尤奇絶一儲より一望すれば尤も奇絶
万畳嵐光落酒前万畳の嵐光酒前に落つ
なお、高知の三浦一竿も、王治本の詩に次韻した、次のような作品を残している。
次哥ゞ園一口、^.曝、侠﹂一即眼
柳外斜陽酒旅懸柳外斜陽酒姉懸カリ
橋西一路入雲煙橋西一路鴛に入る
錦怨t
︹績の美化詔︺は、一允、に魚、凹仲i!E
︹諸国を遊雁した戦国時代の排弁家。王治木のたとえ︺と同じかるハミし
柴門認是王専和柴門︹隠者の家︺は認む是れ王摩詰︹需。宗身のたとえ︺と
国タヤ漣1
断続山禽啼古樹断続して山禽古樹に啼き
蒼范海水接長天蒼范たる海水長天に接す
- 6-
詩人収拾g風景
詩人好風景を収拾せぱ
とと
寄り到けよ明牌浄兀の前
お<
{身明牌浄凡前
おわりに
令江漁晩唱趣上巻)
工年間に及ぶ大旅行を終えた王治本は、七河中旬までに東京に邑てきた。先に引用した﹃小豆郡志﹄一鞭の当時の交通手
段に照らせぱ、岡山に渡り、阪神地方経由で海路をたどったのではないかと考えられる。
耶馬渓、寒鴛侠を己が眼底長き付けて東京に戻った王治本は、次は同じ雫も、慈渓すなわち清国漸江省の古里ヘ十二
年ぶりに帰ることになった。その詳しい峡織は今のところ不明であるが、﹃朝野新聞﹄編集長で旧知の末広鉄腸分八四九S一八
,研﹁ヤイι古十i司
(諏)
九六)に、思いの丈を詩で表現した次のよう奈凹簡を送っている。詩倫分には烈乢文を付して示し、その他の部分は現代語
訳を綣することにする。
琴剣もて懇然として帰去来
かえりなメ
寓東乱築地入舟町倒丁目三番地王冶本頓首
末広先生閣下、 許久未晤、歉甚々々、一詩拙詩一首留別東友、望為刊入即
七月十四日
琴剣裂一帰去来
吟句編ぢて蔡芝留め
︹般郷を思う気持ち︺には殊に喜ぱしきも別恬は哀し
将、吟句留冱美里一
久しく雄心︹壮志︺をぱ冷灰に付せん
県f盆三阿
久把雄心付冷灰
暁月邨鶏︹農ξ貝われている鶏︺客を催して起たしめ
郷情殊喜別情哀
暁月邨鶏催客起
-57ー
力え
秋風謡帯雛回秋風甑雛を帯びて回る
十年覇泊浦如許十年の鷄泊︹譜︺潭て許くの如くなりき
泣対雛亭酒一盃泣くなく対す離亭呈別の逃の酒一盃
(5)
余九州游罷、繞従西回、便将東渡、擬本月十九日発行回国。行装勿促、不獲偏叩友門用慰離恨、率賦小詩留別。凡我知
友乞共諒之、得賜和作、栄幸更タタ、臨岐依々、感激不尽、敬告天涯知己。
ところで、右の詩は﹃江漁晩唱集﹄にも﹁留別一竿﹂と題して掲載されている。王治本のΞ浦一竿やその実兄田中璞堂交
△三 S一九?△との詩文交流は、この後もしぱらく続く。次稿では、二十四年初めまでの王治本の清国帰省期問中の田中璞堂
三浦一竿兄弟との、海をまたいだ﹁詩筒﹂交匹ついて述ベようと思う。
注
(1)これより後、本稿の本文では、一部の箇所を除き、﹁明治﹂の年号は省略することにする。
三年)、ニ、﹁王治本の藝
(2)筆者は十八年七月に始まる王治本の西国大旅行について、三篇の拙稿を発表したので、ご参照いただきたい。一、﹁明治期高知におけ
る日中文人の交流1旅の詩人王治本を中心として1﹂(一將海波氏と共著。﹃日本語日木文学払、墨第七号、二0
一二年)、三、﹁王治本の周防訪問および地元文人との文称露伽﹂
三一年)。
備訪問および地元文人との文遡書乢﹂令武庫川国文﹄第七十七号、二0
(﹃武庫川女子大学研究紀要(人文・社会科学)﹄第六十巻、二0
(3)前掲拙稿﹁王治本の周防訪問および地元文人との文藝交流﹂。
(4)記事の文面からすると、これより前の同紙に王治本の博多来着を報じる眼が掲載されている可佐があるが、筆者はそれを見っけ出
していない。
-58-
(5)隈部紫明・山下博一標の人物﹄第一輯(福岡出版恊会、一九三0年)七頁等。
(6)原Ξ信に関連する記事としては、二十一年一月十八口の﹃福岡日日新聞﹄に、日本の木下逸雲(一八0OS
一八六六)の蝦とともに、
古里中国漸江の出身で長崎にも住んでいたことのある徐里(?S一八六四以後)の蟹も描かれた、原三信愛蔵の支那古瓢を見た王治本
が、原三信に﹁我れ之を携ヘて故郷に返さん﹂と詰うたエピソードが載っている。
(7)防府の倫天満宮にちなんで菅原誓お事を(﹁王治本の周防訪問および地元文人との文塾交流﹂)、越後寺泊にちなんで遊女初君の事、
佐渡の真野にちなんで順徳上皇の事を(﹁王治本越佐の旅およびその問の詩文交流1明治十六、七年を中心として﹂、﹃新潟県文人研究﹄
第十五号、二0 三年)詠んでいるのなどが、それである。
(旦長尾直茂﹁吉界山年譜稿﹂(﹃桐朋学園女子部研究紀要﹄第九号、一九九四年)。
(9)同上。
(W)この題を器すれぱ、﹁光緒丁亥春仲、遊びて太宰府に次り、往きて拝山詞兄を訪い、談ぜるとき、(拝山詞兄は)骨筆を出だし示し、
井びに句を題せんことを索む。為に長古を賦して、以て雅属に応じ、並びに之を政さんことを請う﹂となる。
一七四八)、魯得之全五八五S?・)、いずれも清
(Ⅱ)﹁顔筋柳骨﹂という語句について、一漢語大詞典﹄は﹁謂唐代大屯星永顔真卿、柳公椛之字遒勁有力。(以下略)﹂と釈き、宋の陸游らの
用例を挙げている(第二巻三Ξ九頁)。
(捻)この句にはコ局器、魯得之皆以左手荒、画﹂との原条ある。高鳳翰(一六八三S
代の書画家。
(13)蘇道人とは拝山の号の一っ。﹃骨筆題詠﹂は、彼が明治十一年、清国江南に旅した際に交流した胡遠、孫峰崎、孫士希等十七人及び王
治本が骨誓ついて詠んだ詩を釜したもの。﹃江南游草﹄﹁江南游草後一と併せ、早くとも明治二十年以降に﹁拝山笑嚢﹄と題して刊行
された(長尾直茂﹁吉嗣拝山鴛稿(希) 1界山盤釜譜1﹂、一研究煮﹂(清泉女学院中学・高璽校研究張)十六号、
一九九九年)。なお、筆者は福岡大学江戸・明治一奪文コレクションの一拝山笑嚢﹄を開覧させていただいたが、その際、京都大学大学
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院人問・環境学研究科准教授佐野宏氏のお世話になった。ここに記して専彰表する。
(H)それぞれの出典を示しておく。第二句﹁蔵骨抱筋又包質﹂は王義之の﹁鼎叢﹂の﹁蔵骨抱筋、含文包質﹂から。第四句﹁肥皮脆骨染
7g際骨先立﹂は唐の張y按の﹃釜凹隷﹄所収﹁唐徐浩瑜どの﹁初学之誓先筋骨、筋骨不立、肉
堂﹂は禦元の司段愈所著毛頴伝怠﹂の﹁肥皮厚肉、需脆骨﹂から。第六句﹁多骨之妙在筆力﹂は晋の衛錬の﹁筆陣図﹂の﹁善
第力者多骨﹂から。第八句の
jサ一俳L一力C
(巧)そもそも久留米城は明治七年に廃城となったのであるが、それはともかく、久留米市内の旅館から見える城を﹁赤松城﹂と称した理由
は不明。久留米市立中央図冉館に問い合わせたところ、調査研究室の田代氏から、久留米城を赤松城と呼ぶ事例を硫認したことはないが、
有馬家の祖は播磨の赤松氏とつながっており、有器丘氏の三代前は赤松と称していたから、そのことにちなんで赤松城と呼ぱれた可能性
も推測される旨のご教示をいただいた。
(玲)係正一﹃久留米人物誌﹄(菊竹金文堂、一九八一年)四三0頁。
(Ⅱ)久留米一舌園ホテルのホームページ。
(W)洗馬町の研屋は田中善幸編﹃明治銅版画熊本商璽昌図録﹄(明治十七年)や同﹃熊本県下商丁誌一早見得﹄(明治十九年)に﹁御
宿何屋治右衛門﹂として見える。
(W)拙稿﹁王治木の藝備訪問および地元文人との文藝L荒﹂柱5。
(2。)埜田玉繊、すなわち驫女史については前掲拙稿﹁明治期高知における日小文人の交流1旅の詩人王治本を中心として1﹂、﹁王治本
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越佐の旅およびその問の詩文交流1明治十六、七年を中心として﹂でも言及した。
(幻)ここにも﹁赤松城﹂という栗使われている。注巧を参照されたい
(訟)この詔字は西字の野と老えられる。
露)丹辺羊四郎・長崎茂平編﹃拙軒詩抄﹄(丹辺羊四郎、明治四十年)。
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(24)本句は杜牧の﹁鴛訪趙僻西所居瓢﹂詩の﹁命代風麻井誰羣杜填﹂の句を踏まえる。
露)本句は﹁荘子﹄嘉遊篇所載の故誓踏まえる。
(紛)武藤厳男﹃肥後先哲餓後篇一(肥後先哲偉蹟後篇刊行会、一九二八年)。
(舒)宇野カネ塑兼発行﹃肥後名家碑文選﹄(一九六三年)九0頁。
(28)﹁丁丑戦﹂は西南戦争のこと。
西)この﹁桔﹂字は﹁括﹂字終りと考えられる。
(釦)この﹁当時﹂は﹁現在﹂の意に解さねばならない。後述する通り、王治本が熊本を去るのは四河二十一日以後である元本新聞一四
月二十一日)。
(釘)竜田山は熊本市のほぼ中央に位置する誓一五一・七mの山。立田山とも。
(32)第三首は第三句と第六句に欠字があり、袈に支障があるため、掲げないことにする。
(認)三浦一竿﹃江漁晩唱集﹄(需万里寺、明治四十二年)。
(誕)本句は欧陽脩の﹁洛陽牡打記﹂の希を踏まえた表現。
露)﹁剰水残山﹂は杜甫の﹁陪鄭広文遊何将軍山林﹂詩の第五首の﹁剰水滄江破、残山碣石開﹂の句を踏まえ、本来なら、戦乱のために荒
れ果てた山川を意味する語句であるが、ここでは一竿の心象風条を表すべく使われていると考えられる。
(36)この句は解釈に苦しむ。和習と一百わざるを得まい。ただ、一言わんとするところは﹁あなたはきっと詩を泳むことにょり、旅の愁いを慰
めることができているでしょう﹂ということかと思われる。
(37)さねとうけいしゆう﹃近代日中交渉史話﹄(襄社、一九七三年)所収﹁王治本の日本澄﹂一九九頁。なお、さねとう氏はそれら二
種の稿本を﹁お借りして、早大鼎館のマイクロ・フィルムにおさめてもら﹂つたと述ベておられるが、現在では早倫嘉にその段
を硫雫きない。
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(認)四時園は、州藩士中第一号の帰農者として有名だった兼坂止水か私塾を開いた場所。
(鈴)鴛海正治﹃耶長貰詳説﹄(広津商店、一九一六年)。
(如)こ の ﹁ 項 ﹂ 字 は ﹁ 頂 ﹂ 字 の 野 と 考 え ら れ る 。
(虹)この句には滞侠上之山昂峯平岡似行長﹂との原条ある。
(42)以上八句は耶馬誘景色の中で、馬の姿になぞらえられる所を光手げたもの。もっとも、耶馬誓いう名が馬にちなむものとは必ずしも
一言えない。
9三五頁)にょる。
(嶋)以上二句は﹃世野語﹄嘉篇の王子敬言﹁従山陰道上行、山川白相映発、使人応接不暇﹂を踏まえ、﹁次々と移り変わる風景が秀抜で、
応接 に い と ま が な い ﹂ の 意 。
(")﹃大漢郡典﹄巻十、三四九頁。
(45)大分呉霧部総務課編﹃大分県史﹄近代篇Ⅱ(大分県、一九八六年)第'第六節Ξ﹁航路の開設と舟運の整備﹂
(46)小豆郡著﹃小豆郡誌﹄(小豆郡、一九一三年)第廿六編﹁交通﹂第Ξ章﹁汽船﹂。
(好)中 桐 星 岳 璽 伏 集 ﹄ 璽 尋 〒 、 明 治 二 十 二 年 ) 。
(娼)それらの詩文は長尾折三﹃讃岐名勝地竺別名﹁叢風内需及讃岐人生論﹂)﹄(開益堂、明治Ξ十五年)にも載り、ーも付してある。
長尾折Ξ合万藻城。一八六六S 一九Ξ六)蛙魯の人、﹃畿人物需﹄(浅岡留吉編輯兼発行、明治三十七年)に﹁希堂医院主医学
得業士長尾折三先生(中略)耳鼻咽喉科専門長尾三橘堂医院(中略)襟筆を阿して詩文を草する(下略)﹂とある。
(四)梶原竹軒監修﹃讃岐人名馨﹄(幕製版印剛、一九三三年)。
(四三野裕編輯兼発行一柿堂譜棄﹄(一九二六年)所載。
(乳)椿堂夢吉については、珍しい名字でもあり、﹃増補改訂謹人名辞書﹄に椿堂木靴の見出しで、﹁名子徳通称徳蔵、号木雛、又五徳
斎、高松人なり。骨董の災画を能くす。明治二十五年八月残す年六十三﹂という人物が載っており、何らかの関集あるかもしれない
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(詔)この﹁盤﹂も上述の﹁カンカケ﹂表記の一種であろう。
(給)﹃日本書紀﹄巻第十、応神天皇二十二年秋九月の条に﹁天皇便自淡路転、以幸吉備遊于小豆嶋﹂とあるのにょり、応神天皇高を岩に
懸けて築婆隣に登ったという伝説が生まれた。
(54)﹁是の月﹂が牌なら、六河初め、耶馬誓遊び、六月二十王日に璽漆﹄の器を揮毫し、築長登山もそのころと考えるのが、
自然かと思われる。
(郭)以上十三首、いずれも中桐絢海編零墜浴しるペ﹂(池田武次郎発行兼印刷、明竺千Ξ年)にも載っている。
(騎)﹃山田晋香篇﹄(一九一四年、横井書序)。なお、この詩は司決集一にも﹁上築疑山次同行詩人漸東王黍園以記即景﹂の題で載っ
ている。
(郭)﹃朝野新聞﹄二十年七月十五日に掲載。詩は一古今詩文詳解﹄第二百四十二染(二十年八月十五日)及び﹃江漁晩唱集一附録Ξ十五丁
にも収められているが、ともに若干字句の異同がある。
(認)現代誤﹁末広先生、長らくご無沙汰いたし、まことに申し訳ありません。在京の友人に留別するに当たり、一首ものしましたので、
にご手哥1或いただきたく、よろしくお原頁いいたします^。
(諦)この部分の﹁東渡﹂は﹁張﹂綴りと見ることにする。現待訳﹁私は九州旅行を終えて、西から帰って来て問もないのですが、ま
た西に渡航することにしておりまして、今月十九日に帰国の途薪く予定です。旅の支度であわただしく、お一人おひとり友人の皆様の
お宅に伺って、雜別黒しみを慰めることができませぬため、とりあえず詩を賦しまLて留別させていただきます。友人の皆様にはご賢
察の程賜りたく存じますとともに、唱和の御作を賜りますれば、ますます光栄に存じます。別れに臨みまして名残は尽きませず、皆様ヘ
の感謝の念は申し上げようもございません。右、日本のすべての友人の皆様ヘ﹂。
(しばた・きよつぐ本学教授)
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