「傾かせるが強いない」は意味を持ち得るか はじめに1

「傾かせるが強いない」は意味を持ち得るか
―ライプニッツ自由論再考に向けた存在論的考察―
ね
む かず のぶ
根無一信(名古屋外国語大学)
イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった
―出エジプト記
はじめに1
本稿の目的は、ライプニッツの「傾かせるが強いない(incliner sans nécessiter)
」とい
うテーゼを根無(2013)2が提示した「介入(interposition)」の概念によって分析し、そ
の内実を明らかにすることにある。
周知の如く、哲学史はライプニッツ哲学に決定論の嫌疑をかけ繰り返し問題にしてきた
が、その問題の本質は「傾かせるが強いない」の理解にある。ライプニッツはこれを彼の
自由論の核心に据えるからである。彼は『弁神論』の中でこの言辞を幾度も強調し、スピ
ノザ主義を指弾する。彼はスピノザ主義を「強いるだけ」の「盲目的必然性」の支配下で
自由が否定される非道徳的な決定論と見做すからである。
しかしながら、たとえ自由の根拠として「傾かせるが強いない」が提出されたのだとし
ても、解釈者たちはライプニッツの意図に反して度々彼の哲学を決定論へ帰してきた3。そ
れは、「傾かせるが強いない」が「盲目的必然性」と同一の結果を導くからである。勿論、
結果の如何に拠らず中間過程に十分な意味が存するならライプニッツ哲学は救われるはず
である。ところが、恐らく彼にとっては「傾かせる」の意義は余りに自明であったのだろ
う、このテーゼの詳しい説明が為されることはなかった4。しかし、この「傾ける」という
1
ライプニッツの著作からの引用はゲルハルト版哲学著作集(GP、巻号、頁数)に拠る。
引用文中の傍点は原典の強調を表す。また、
〔 〕内は引用者の付加である。
2 「根無(2013)
」は拙論「介入せずに介入する神―ライプニッツにおける連続的創造と神の協働
―」
、
『哲学』第六四号、日本哲学会編、二〇一三年を指す。
3 ライプニッツの論敵アルノーやクラークは彼を決定論者として非難するし、
解釈史に於い
ても、古くはシュタイン(Stein, L., Leibniz und Spinoza, Berlin 1890)、ラッセル(Russell,
B., A Critical Exposition of the Philosophy of Leibniz, London (1900), 2ed., 1937)
、ラブ
ジョイ(Lovejoy, A. O., “Plenitude and Sufficient Raison in Leibniz and Spinoza”, in
Leibniz : A Collection of Critical Essays, ed. by Frankfurt, H. G., New York 1972)、最近
ではブーブレス(Bouveresse, R., Spinoza et Leibniz, Paris 1992)、アダムス(Adams, R.
M., Leibniz : Determinisit, Theist, Idealist, Oxford 1994)、スチュアート(Stewart, M.,
The Courtier and The Heretic, New York 2006)など、ライプニッツ哲学を決定論として
捉える論者も多い。
4 ライプニッツの説明不足は、
この考え方が伝統的なものとして当時一般的によく知られて
い た こ と に 起 因 す る の か も し れ な い 。 マ リ ( Murray, M. J., “Leibniz on Divine
1
、、、、、、
言明それ自体は謂わば事柄の形式面を述べただけであるから、「傾ける」と「強いる」の区
別は本質的ではなく、内容的には同一であると断ぜられる可能性が残る。彼の哲学が自由
の否定を招くとする理解が行われてきた事実には、然るべき理由があるといわざるを得な
いのかもしれない5。
そこでもし、ライプニッツが明示しなかった「傾かせるが強いない」という形式の内実
を明らかにするなら、このテーゼは意味あるものとして機能するだろうか。そして、彼の
哲学は彼の意図した通りに自由の哲学であり得るだろうか。
本稿は以下の手順で進められる。まず、ライプニッツが「傾かせるが強いない」と主張
する文脈を検討し、問題の所在を突き止める(第一節)
。次に、根無(2013)が示した「介
入」の理論を取り上げ、神は実体の妨げを除去するという仕方で世界に「介入」し、世界
創造以後も創造以前と全く同様に働き続けるという点を確認する(第二節)
。そして最後に、
この「介入」理論に基づいて「傾かせるが強いない」の内実に一定の解釈を与えることに
よって、
「傾かせる」と「強いる」の存在論的な違いを明らかにし、「傾かせる」の意義を
示す(第三節)
。
第一節 「傾かせる」
序でも述べたように、
「傾けるが強いない」6というこの主張はライプニッツ自由論の大要
であるから、議論の出発点をライプニッツの「自由」概念に置くことにしよう。彼による
と自由は、「判明な認識である叡智(intelligence)」、「それによって自らを決定するところ
の自発性(spontanéité)」
、
「盲目的必然性の除外としての偶然性(contingence)」
、即ち「叡
智」
、
「自発性」
、
「偶然性」の三つに条件付けられる(Cf. GP VI, 288)7。これらの内、ラ
イプニッツは「叡智」を最も重視する。
「叡智は自由の魂の如きものであり、残りのもの〔=
自発性と偶然性〕はその身体や基礎の如きものである」
(GP VI, 288)
。自由の成立可能性の試
金石は「叡智」に存するといえる。そこで、
「叡智」が重んじられる理由をまず確認するこ
とにしよう。
Foreknowledge of Future Contingents and Human Freedom” in Philosophy and
Phenomenological Research LV, 1995)参照。
5 ラッセルはライプニッツ哲学全体をライプニッツの論理学に基づかせしめ、
例えばライプ
ニッツの形而上学著作である『モナドロジー』
(1714)は、主語‐述語の論理が語られる『形
而上学叙説』
(1686)や『アルノー宛書簡』
(1686-90)を通して理解されないなら、ただの
「御伽噺」になると言う(Cf. Russell, ibid., pp. xviif)
。斯様な見地からすれば、
「傾かせる
が強いない」に関してもその論理的・形式的側面が重要であって、内実は問題ではなかろ
う。一般にこの立場は「汎論理主義」といわれ、その影響は今日でも尚強い。本稿の立場
はこの「汎論理主義」に抗するものとして、
「汎形而上学主義」とでもいい得よう。
、、、、、、、、、、、
6 ライプニッツによると、
「傾かせるが強いない」という表現は「星々は傾かせるが強いな
、
いという有名な俗諺を真似たもの」である(GP VI, 126)
。
7 「盲目的必然性」は「絶対的必然性」や「形而上学的必然性」
、
「論理的必然性」、
「獣的必
然性」とも言われる(Cf. GP VI, 284, 288, 319, 321)
。
2
今見たように、ライプニッツは「偶然性」を「盲目的必然性の除外」と定義する。この
「盲目的必然性」とは、要するに「それ以外の選択肢を不可能にする必然性」である(Cf. GP
VI, 336, 413-414)
。当然、自由の成立にとってこの種の必然性の除外は不可欠であろう。
「そ
れ以外が不可能」な場所では選択はあり得ず、ただ「強制」あるのみだからである。この
必然性が「盲目的」とされる所以である。また、為される選択が「強制」によるのではな
く「自ら」によるものであるためには、当然ながら「自らを決定する自発性」が行為者に
なければなるまい。
但し、この「盲目的必然性」の除外によって「偶然性」が確保され、そこに「自発性」
が加わるだけではまだ自由は成立しない。というのも、
「偶然性」と「自発性」だけに基づ
く自由に於いては「気まぐれ」や「運任せ」が行為の根拠になり得るからである。ライプ
ニッツはこの種の自由を「無差別の自由」とし、それをやはり「盲目的」であるとして難
ずる(Cf. GP VI, 420-421)
。要するに、
「それ以外が不可能」な「盲目的必然性」と、
「気
まぐれ」に基づく「盲目的自由」は排除されねばならないのである。ライプニッツの意図
は明快である。倫理性の確保である8。善行が褒め称えられ、悪行が罰せられるためには、
その行為が盲目的であってはならない。
「運任せ」の行為が傍目には善い結果を生んだとし
ても、それが当人の真の幸福に関ることはないからである(Cf. GP VI, 421)。
そこで「偶然性」と「自発性」に加え、
「叡智」という契機が必要になる。本節冒頭で見
たように、これは判明な認識を特徴とする。即ち、知性が有する判明な認識が「叡智」で
ある。
「叡智」を持つ存在者は、善を善として判明に認識し、そして複数の選択肢の中から
「最善」を選ぶ。彼が或るものを選択するのは「それ以外の選択肢が不可能」だからでは
なく、
「それ以外の選択肢も等しく可能」であるが、しかし「それ以外の選択肢は最善でな
い」からである9。ライプニッツはここに真の自由を見る。即ち、
「叡智」によって「最善」
、、、、
を知り、その「最善」に導かれて行為することこそ、真の自由なのである10。これが「叡智」
が重視される理由である。
しかしながら、
「最善に導かれる」とは如何なることなのであろうか。周知の如く、ライ
プニッツは彼の「充足理由律(principe de la raison suffisante)
」を掲げ、
「如何なるもの
も、決定する原因もしくは少なくとも決定する理由がなければ、生じることはない」
(GP VI,
127)と述べる。つまり、
「最善」という「理由」が「意志」を「決定」し「導く」のであ
る11。しかし、如何に「決定」し「導く」のかという点を明確にする必要があろう。換言す
8
これがライプニッツの全活動を支える一つの動機であった。酒井(酒井潔、
『ライプニッ
ツ』
、清水書院、二〇〇八年)参照。
9 「最善による導き」
のことをライプニッツは「道徳的必然性」と呼ぶ(Cf. GP VI, 184, 390)
。
また本稿では扱うことができなかったが、
「道徳的必然性」は「義務」の観点からも理解さ
れる必要がある。詳細はルシュバリエ(Le Chvallier, L., La Morale de Leibniz, Paris 1933,
pp. 125ff)に譲る。
10 斯様なライプニッツの立場は典型的な神学的主知主義である。彼はデカルトの「永遠真
理創造説」を拒絶し、永遠真理への神の従属を認める。
11 但し、必ずしも「理由」が全て認識されるわけではない。
「大抵の場合、我々は自分を動
3
れば、
「盲目的必然性」の「強制」とこの「決定」の差異が示されねばならない。
斯様な文脈に於けるライプニッツの議論の骨子こそ、「傾かせるが強いない」という主張
である。
「自由な実体は自分自身で自分を決定する。これは知性によって見出される善とい
う動機に従って行われるが、その動機は傾かせるが強いない」
(GP VI, 288)、
「最善につい
、、、、
ての極めて明晰な認識は意志を決定する。しかし厳密に言えば、それは意志を強いない」
(GP
、、
VI, 300)
、
「原因は意志を傾かせるが強いない。故に、問題となっている決定は強制では全
くない」
(GP VI, 381)。つまり、彼の「決定」は「強制」ではない。
「決定」とは「最善」
という「理由」が「意志」を「強いる」ことではなく「傾かせる」ことなのである。
「意志」
は「知性」の明晰な認識(=叡智)によって、「最善」を選ぶように「傾けられる」だけな
のである。彼は次のように強調する。即ち、「自由の全ての条件は、
〔傾かせるが強いない、と
いう〕この僅かな言葉の内に含まれている」
(GP VI, 288)
。
このように、
「意志」は「最善」という「理由」によって「傾けられる」のであるが、し
、、
かし「意志」はあくまで「傾けられる」だけであるから、行為の現実化のためには「傾け
られる」行為者の側の「自発性」が不可欠であろう。
「傾かせる」と「自発性」は相補的な
関係にあるといえる。ここまではこれでよい。
問題はここからである。というのも、これではまだ「傾かせる」と「自発性」の相関関
係の存在が単に指摘されたに過ぎないからである。確かに、
「傾かせる」という契機が「自
発性」を要請することは容易に理解できる。しかし、それらは如何に関わり合うのだろう
、、、
か。恐らくライプニッツはこの相関関係の正しさを自明視しており、全ての実体が「自発
性」を本来的に備えていることを指摘すれば十分であると考えていたように思われる(Cf.
GP VI, 289)12。この点に関しては彼は素通りしてしまい、関係性の具体的な仕組みが説明
されることはない。しかし序で述べたように、このことはライプニッツを「決定論者」に
仕立て上げる絶好の機会を提供するだろう。
「傾ける」と「強いる」から生じるものは結果
的には同一だからである。一体、
「傾かせる」とは如何なる事態なのであろうか。この点が
明らかにされない限り、
「傾かせる」は「強いる」と形式的に異なるだけであって、内容的
には異ならないと解され兼ねない。
「傾かせる」という論理が成功するためには、その内実
が究明されねばなるまい。
本稿ではこの作業のために、根無(2013)が提示した「介入」の概念を用いて考察する
ことにしたい。ライプニッツ哲学に於ける神と実体の存在論的な関係を明らかにした根無
(2013)に依拠すれば、
「傾かせる」の具体的な内実の解明が可能であると思われるからで
ある。そこで次の第二節でこの概念を簡単に確認することにし、第三節で問題解決を目指
かしたものについて意識していない」
(GP VI, 123)。つまり、認識の有無に拘らず「理由」
は常に働いており、実体は常に「理由」に動かされているわけである。従って、
「叡智」を
欠く不自由な実体の場合でもこの構造は変わらないが、今は論旨の明快さを優先し、議論
の対象を自由な実体に限定する。
12 「自発性」に関してはブラウン(Brown, S., Leibniz, Brighton 1984, pp. 155-173)とジ
ョリー(Jolley, N., Leibniz, London 2005, pp. 36-65)参照。
4
すことにしよう。
第二節 「介入せずに介入する神」
ライプニッツが提示する神概念は一見不可解である。彼によると、神は世界を完璧に構
成して創造したので、創造後に自分の創造した世界に働きかけることはあり得ない。もし
そうなら、神は自分の作品を「修正」することになり、最初に完璧な作品を創れなかった
神の知性の不完全が帰結するからである。しかし他方で、ライプニッツの神は連続的に実
体に働きかけていることも間違いない。彼はしばしば「連続的創造」や「保存」などの言
葉を用いて、神の実体に対する連続的作用を強調するからである。
神と実体の関係性を巡るこの矛盾的なライプニッツの言明は、ライプニッツ最晩年のク
ラークとの論争(1715-16)に於ける争点の一つになる。クラークは神は創造後の世界にも
常に「介入」し作用し続け、世界に手を加え続けると考えるが、ライプニッツの神はその
ような「介入」は絶対に行わない。従ってクラークはライプニッツの神を「働かない名目
的な神」と見做し、ライプニッツが世界から神を追放したと非難する。しかし、上述の如
く、ライプニッツはクラークのような神の「介入」からは神の知性の不完全性が帰結する
と考える。ライプニッツは、神はクラークの意味では「介入」しないがそれでも別の仕方
で作用し続けると主張するわけである。このようにしてライプニッツの提示する独自の神
概念が際立つことになる。即ち、ライプニッツの神は「介入せずに介入する神」なのであ
る。
この神概念の理解のためには、神の世界創造に関するライプニッツ的な考え方に注意す
る必要がある。神の視点からすると、創造の経緯は以下のように要約される。即ち、神は
創造に先立って無数の可能的存在者から成る可能世界を「知性」の中に無数に構成し、次
にそれらの内の「最善」のものを「知恵(sagesse)
」によって認識し、そしてそれを選択し
ようと「意志」し、最後にそれを「力能(puissance)」によって現実へと至らしめる。こ
の経緯は被造物の視点では次のようなものになる。即ち、可能世界の中の無数の可能的存
在者は、各々に現実存在へ向かう力(=完全性)を備えており、それ故それ自身で現実存
在へ向かうが、他の可能的存在者たちの「妨げ」に遭い、「争い」が生じるために必ずしも
現実存在へ至るわけではなく、
「妨げられない」限りで現実存在へと至る。
神が「力能」を働かせる創造の最終的な局面を、可能的存在者が「妨げられない限り」
現実化するという事情に照合させるなら、神のこの「力能」は「妨げの除去」であると理
解されよう。現実存在へ向かう「最善」の可能的存在者に対して、「最善」でない可能的存
在者が為す「妨げ」を神は取り除くのである。
また、ライプニッツは神の「力能」が創造以後も創造以前と全く同じ仕方・同じレベル
で作用し続けることを力説する。従って、「妨げの除去」という「力能」の作用は、創造以
後も続くことになる。神のこの作用は、特に存在者の「存在」に対して作用する時には「連
続的創造」
、存在者の「働き」に対して作用する時には「神の協働」と呼ばれる。要するに、
5
、、 、、
実体が存在と働きを続ける限り、神は必ず実体に作用し続けていることになろう。
以上から、ライプニッツ的な意味での「介入」の概念が明らかになるだろう。神は可能
的存在者を直接的に現実存在へと至らしめるのではなく、「妨げの除去」という仕方で、間
接的に現実へ導くのである。神はクラークの意味での「介入」は決して行わないが、
「妨げ
の除去」という「介入」は行う。ライプニッツの神は「介入せずに介入する神」なのであ
る。神の実体への働きかけの真相はここにある。
第三節 「傾けるだけ」の内実とその意義―まとめにかえて
では、この「介入せずに介入する神」の概念に依拠して、
「傾かせる」の具体的な内実を
究明することにしよう。本稿の課題は、
「傾かせる」と「強いる」との存在論的な差異を明
確化することにあった。そこで再び「傾かせる」ということの形式に立ち戻ってみよう。
ライプニッツによると、真に自由な存在者は複数の選択肢の中から「最善」のものを選ぶ。
「最善」でない選択肢を選ぶことも不可能ではないが、それらは「最善でない」故に選ば
れない。真に自由な存在者は「最善」という「理由」に導かれ、
「決定」され、必ず「最善」
を選ぶ。
「傾かせる」とは、即ち、
「最善」という「理由」が「意志」を「傾かせる」こと
なのであった。
我々は「傾ける」という形式によって表されたこの事柄を、「介入」の概念によって分析
、、、、
することができる。神は世界に直接的に「介入」することはなく、実体の存在や働きに対
、、、、
して直接的に手を加えることはない。そうではなく、神は「妨げを取り除く」という仕方
、、、、
で間接的に「介入」する。つまり、実体が存在と働きを続ける際の「妨げを取り除く」の
である。この存在論的な関係性を別の角度から見るなら、実体は「妨げ」が取り除かれた
方向へ存在と働きを続けることになるといえよう。即ち、実体は「妨げ」が取り除かれた
方向へと「傾けられる」と解釈することができるのである。
我々はここで「出エジプト記」の一場面を想起することができる。モーセ率いるユダヤ
の民は海の中に開けた道を歩む。彼らは道の両側にそそり立つ壁となった海の側へ泳ぎ進
むことも可能であろうし、
(神の御言葉に反して)この状況に怯え海の道を進まない選択を
することもできる。しかし恐らくそれは「最善」ではない。かの一行は海の中に出現した
乾いた所を歩んだ。即ち、神は彼らの進行の妨げを取り除き、その道を歩むよう彼らを「傾
かせた」のである13。そして、だからこそ「自発性」は「自発性」として全く損なわれるこ
となくその機能を果たさねばならない。モーセたちはあくまで自らの足で海の道を歩いた
のであって、神によって対岸へと瞬間的に移動せしめられたわけではなかった。
このように考えるなら、
「傾かせる」と「強いる」の間には決定的な差異があるといい得
13
もしこの比喩が不適切であるなら、例えばアメリカンフットボール競技を想起されたい。
選手たちが相手の妨げを取り除いて道を拓き、楕円球を保持する選手が前進する様は、神
の「介入」のイメージを能く喚起させるだろう。
6
るだろう。即ち、
「自発性」の有無である14。実体の存在と働きの意義は、結果にのみ基づ
いて計られるものではあるまい。確かに、事柄の結果だけを取り沙汰する立場も可能であ
ろう。その場合ライプニッツの自由論は不要である。しかし、本稿はそのような立場を取
らない。事柄の途上に意義を認める「人間くさいライプニッツ」
。これが、彼の自由論が彼
の意図通りに成功するための秘訣である15。ユダヤの民はきっと噴き出す汗を拭いながら、
エジプトの追手から逃れようと急いでその歩みを進めたのである16。
14
ライプニッツ自由論に於ける「自発性」の意義を強調する本稿の立場に近い論客として
はラザフォード(Rutherford, D., “Leibniz on Spontaneity” in Leibniz : Nature and
Freedom, ed. by Rutherford, D. and Cover, J. A., Oxford 2005)がいる。但し、彼は「傾
かせる」に関しては一切触れていない。
15 従って、本稿の立場とは正反対のラッセルが「ライプニッツ哲学の最上の部分は最も抽
象的な部分にあり、人間の生(life)に最も密接に関る部分は最低である」
(Russell, ibid., p.
202)と断じるのは寧ろ当然なのである。
16 本稿は平成 25 年度の日本哲学会林基金若手研究者研究助成金に基づく研究成果である。
当局の御配慮に深謝申し上げる。
7