国際的な子の奪取に関するハーグ条約

国際的な子の奪取に関するハーグ条約
外国人と国際結婚をし,海外で居住していた日本人が,夫婦関係の破綻により
日本に子を連れて帰国し,それが子の連れ去りにあたるとして訴訟にまで発展し
たケースは新聞等でも報道され,社会的注目を集めていた。そのような中,わが
国もついにハーグ国際私法会議による「国際的な子の奪取の民事上の側面に関す
る 条 約 」( 以 下 ,「 本 条 約 」 と い う 。) の 締 結 に踏み 切 り , 平 成 2 6 年 4 月 1 日 か ら , 条
約 の 的 確 な 実 施 を 確 保 す る た め に ,「 国 際 的 な 子 の 奪 取 の 民 事 上 の 側 面 に 関 す る 条
約 の 実 施 に 関 す る 法 律」( 平 成 2 5 年 法 律 第 4 8 号 。 以 下 「 実 施 法 」 と い う 。) が 施 行 さ れ
て い る 。 す で に , こ の法 律 が 適 用 さ れ た 事 例も 報 道 さ れ て い る と ころ で あ る 。
以 下 で は , 条 約 や 実 施法 の 成 立 の 背 景 や 概 要を 中 心 に 若 干 の 解 説 を行 う 。
1.ハーグ国際私法会議
当事者の一 方が外国 人 である婚姻 やそのよ う な婚姻 から 生まれた 子 の親権の
問題などに ついては , 一つの事案 について 複 数の国が関 係する。 諸 国の私法が
統一されて いないこ と から ,どの 国の法を 適 用す べきか が問題と な る。このよ
うな国際的 私法関係 に 関する問題 を解決す る のが国際私 法である 。 しかし,国
際 私 法 も ま た ,「 国 際 」 と は 名 が つ く も の の , 国 際 的 な の は そ の 適 用 対 象 で あ
り,主たる 法源は 国 内 法 であって ,世界で 統 一された国 際私法は 存 在しない 。
たとえば,わ が国の国 際私法の主た る法源 は ,「法の適用に関 する 通則法」(以
下 「 通 則法 」 とい う 。) で あ る。 民 法や 商 法と い っ た実 質 法 ( 実 質 法 と は , 事 案 に
適用される法を選択指定する国際私法に対して ,法律関係に直接適用される法律,すなわち具
体 的 に 権 利 義 務 関 係 を 定 め る 法 律 を い う ) の みで なく , 国際 私 法 も また 各国 で 異な る
ため,どの国で事案が問題となるかで,適用されるべき法(準拠法)が異なる
ことになる 。 このよ う な状況にお いて は, 一 つの法律関 係がある 国 では有効と
みなされ, 他の国で は 無効とみな されるよ う な望ましく ない状態 を 引き起こし
かねない。
そこで, 国際私 法統 一の必要 性がマ ンチ ーニ (Mancini) やアッ セル ( Asser )
といった学者らによって唱えられ ,1893 年 に, オ ラ ン ダ 政 府 の 主催 で オ ラ ン ダ
の ハ ー グ で , 国 際 私 法 ( 国 際 民 事 訴 訟 法 を 含 む 。) に 関 す る 規 則 の 統 一 の た め の 第 一
回 の 国 際 会 議 が 開 か れ る こ と に な る 。 こ の 政府 間 国 際機 関 が ハ ー グ 国 際 私 法 会 議
で あ る 。 オラ ン ダ ・ ハー グ に 事 務 局 が あ り,77 の 国 ( 7 6 か 国 と 1 地 域 経 済 統 合 組
織 ( E U )) が 加 盟 し て お り , 日 本 は , ヨ ー ロ ッ パ 諸 国 以 外 の 国 と し て は 初 め て の 国
と し て 1 9 0 4 年 に 加 盟 し , そ れ 以 降 同 会 議 に参 加 し て い る 。
同 会 議 で は , 4 年 に 1 回 開 催 さ れ る 通 常 会期 に お い て 条 約 の 採 択お よ び 将 来 の
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作業についての審議が行われ,日本は,これまでのところ,同会議作成の条約の
う ち 7 つ の 条 約 を 締 結し て い る 。 そ の 7 番 目が 子 の 奪 取 に 関 す る 本条 約 で あ る 。
2.本条約の概要
本条約は,家族関係の国際化に伴い,その破綻から生ずる国際的な子の奪取の
深 刻 化 , 増 加 傾 向 を 背景 と し て , 1 9 8 0 年 のハ ー グ 国 際 私 法 会 議 第 1 4 回 会 期 に お
い て 採 択 さ れ , 1 9 8 3 年 に 発 効 し た 条 約 で ある ( 2 0 1 4 年 4 月 現 在 の 締 約 国 は 9 3 か 国 。
締 約 国 一 覧 )。 子 の 奪 取 が 生 じ る こ と 自 体 が 子 の 利 益 に 対 す る 重 大 な 侵 害 で あ る と
考え,奪取の抑止を国際社会の目指すべき目標とし,不法に奪取または留置され
ている子を常居所地国に迅速に戻すとともに,奪取された親と子の面会交流を確
保することを目的としている(本条約1条。なお,常居所とは,一般に,人が居所よりは
長 期 の 相 当 期 間 に わ た り 常 時 居 住 す る 場 所 を い う 。)。
ハーグ国際私法会議で作成された条約は,どの国の法(準拠法)が適用されるか
を定める法選択規則の形式をとるものや,民事手続の統一に関するものが多い。
これに対して,本条約は,加盟国の中央当局間の国際的な協力体制の構築に主眼
をおいている点に特徴がある。子の迅速な返還と面会交流の実現を図るために必
要 と さ れ る 中 央 当 局 の任 務 や 手 続 が 定 め ら れて い る 。
子の返還のために,まず,任意での常居所地国への子の返還を実現できるよう,
各締約国に設置された中央当局による援助手続が予定されている(本条約 7 条~10
条 )。 し た が っ て , 子 が 不 法 に 奪 取 さ れ た 場 合 に は , 奪 取 さ れ た 親 は , 子 の 常 居 所
地国または奪取された先の中央当局に対して,本条約に基づく援助の申請をし,
この申請を受けて,奪取された子が居る国の中央当局は,任意に子を返還するよ
う当事者を援助する。どのような官公署が中央当局を担っているかは各国で様々
で あ り , 日 本 で は 外 務大 臣 が こ れ を 担 っ て いる ( 実 施 法 3 条 )。
それでも子が返還されない場合には,次に司法当局等による返還手続に移るこ
と に な る ( 本 条 約 11 条 )。 本 条 約 は, 常 居 所 地国 へ の 子 の 迅 速 な 返 還を 最 優 先 に 考
え,場合によっては長期化を招く監護権に関する本案判断を奪取先の国で行うこ
と は し な い ( 本 条 約 1 9 条 )。 監 護 権 に 関 す る本案 判 断 は 子 の 常 居 所 地国 の 裁 判 所 で
なされるべきであると考えられており,そういった意味で監護権に関する国際裁
判 管 轄 を 子 の 常 居 所 地国 に 専 属 さ せ る 効 果 もあ る と 言 わ れ る 。
このように奪取された子が居る条約加盟国は,子を常居所地国へ返還する義務
を原則として負う。例外的に返還を拒絶できる場合も定められているが,それに
関しては後述4参照。
3 .条 約締結 の背 景
日本が本条約に未加入であった当時,奪取された子を取り戻すために用いられ
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た方法としては,まず,日本法上家事事件手続(子の監護者または親権者指定・変更
や子の引渡しの申立て)がある。そのさい,子の親権ないしは監護権や居所指定権
が誰に帰属するかも問題となるが,これは通則法 32 条の親子間の法律関係の準
拠法によって判断される。しかし,家事事件手続では,どちらの親による監護が
子の福祉に適うかについて,調査官による調査を通じて判断され,比較的時間を
要する。また,現在の監護状況が安定し,特に問題がなければ,同意なく連れ帰
ったという事実はあまり重視されず,現在監護を行っている親が監護者に指定さ
れる傾向があると指摘されていた。しかも,国際的な事案となると,子が新たな
居住地ですでに適応していれば,たとえ以前住んでいた地であるとしても,国境
を越えて異なる言語や文化をもつ地へ移動させることは子の福祉にそわないと判
断されやすくなる。そうすると,連れ帰った者勝ちという結果を招くことになる。
そのため,より迅速な対応を求め,刑事罰に裏づけられた強力な手段を伴う人
身保護手続も利用されていた(最判昭和 60・2・26 家月 37 巻 6 号 25 頁,最判平成
2 2 ・ 8 ・ 4 家 月 6 3 巻 1 号 9 7 頁 )。 し か し ,連れ 帰 っ た 者 も 親 権 を 有す る よ う な 場 合
に は ( 別 居 中 の 場 合 や 外 国 法 に よ り 離 婚 後 も 共 同 親 権 が 継 続 し て い る 場 合 ),拘 束 者 に よ る
子の監護が明白に子の幸福に反するときのみ人身保護手続による返還が認められ,
原 則 と し て 家 事 事 件 手続 で の 実 質 判 断 に よ って い た 。
ほかにも子を連れ戻す方法として,まず子の元の居住地である甲国で単独監護
権者としての指定および子の引渡し命令を受け,それを日本で承認執行を求める
ことも可能であった。しかし,執行判決を得るのに場合によっては時間を要し,
子が日本にすでになじんでいるケースでは,公序に 反するとして承認されなかっ
た ケ ー ス も あ る ( 東 京 高 判 平 成 5 ・ 11 ・ 1 5 高 民 集 4 6 巻 3 号 9 8 頁 )。
夫婦関係が悪くなると,子を連れて実家に帰ることについて,子をその親の一
方から引き離すという問題をあまり認識していない日本の法意識の影響もあるの
か,外国人配偶者と婚姻した日本人が子を連れて日本に帰国する 数はかなりある
ようであった。しかも,前述のような法状況のもとでは,いったん日本に帰国す
ると,もはや子を返してもらえないような印象を諸外国に与え,本条約を早期締
結し問題を解決すべきであるとの外国からの日本政府への要請も強くなっていっ
た。また,本条約に未加入であったことから,たとえば米国に居住する子が離婚
した日本人親と日本へ里帰りするための出国の許可を得ようとしても,連れ去り
が 警 戒 さ れ , 裁 判 所 が許 可 を だ さ な い と い った 弊 害 も 生 じ て い た 。
他方,国内においては,DVなどから子どもを連れて帰国する日本女性の状況
や,必ずしも常居所地国へ子どもを戻すことが子どもの利益にかなわないのでは
な い か と い っ た 観 点 から , 反 対 の 声 も 聞 か れた 。
そ の よ う な な か , 政 府 は , 2 0 11 年 1 月 か ら , 本 条 約 の 締 結 の 是 非 を 検 討 す る
た め の 検 討 を 開 始 し ,同 年 5 月 に 条 約 締 結 に 向 け た 準 備 を 進 め る旨 の 閣 議 了 解 を
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し,法務省および外務省において当事者や専門家等の様々な方面からの声を踏ま
え つ つ , 実 施 法 案 が 作成 さ れ た 。 2 0 1 3 年 5 月 2 2 日 に第 1 8 3 回 通常 国 会 に お い
て 本 条 約 の 締 結 が 承 認さ れ , 同 年 6 月 1 2 日に は 実 施 法 が 成 立 し てい る 。
条 約 お よ び 実 施 法 の 承認 ・ 成 立 を 受 け , 1 月 2 4 日 , 条 約 の 署 名 , 締結 , 公 布 に
かかる閣議決定を行うとともに,条約に署名を行った上で,オランダ外務省に受
諾 書 を 寄 託 し た 。 こ の結 果 , 日 本 に お い て は, 本 条 約 は , 4 月 1 日 に 発 効 す る こ
と に な っ た ( 締 結 に 至 る ま で の 経 緯 の 詳 細 に つ い て は 外 務 省 の ホ ー ム ペ ー ジ を 参 照 )。
4.実施法の概要
本条約に基づき締約国の中央当局に子の返還援助申請ができるのは,締約国に
常居所を有していた子(16 歳未満) が別の締約国へ不法に連れ去られ,または留
置 さ れ て い る 場 合 で ある ( 実 施 法 4 条 )。「 不法 な 連 れ 去 り 」 ま た は「 不 法 な 留 置 」
とは,常居所地国法(常居所地国の国際私法を含む)により監護権を有する者の監護
権 を 侵 害 す る よ う な 連れ 去 り ま た は 留 置 を いう ( 実 施 法 2 条 6 号 ・ 7 号 )。
子を取り戻す手続に関しては,2でも述べたが,子が日本に奪取された親は,
常居所地国法によりその監護権を侵害されているとみなされるときには,日本の
中 央 当 局 を 担 う 外 務 大 臣 に 対 し , 子 の 返 還 に 関 す る 援 助 に 加 え ( 実 施 法 4 条 ), さ
らに常居所地国法上認められる子との面会交流に関する援助を申請することもで
き る ( 実 施 法 1 6 条 )。こ れ ら の 申 請 を 受 け ,外 務 大 臣 は , 外 国 返 還援 助 の 決 定 を し
( 実 施 法 6 条 ), 子 の 所 在 を 特 定 し た う え で , 返 還 に 向 け , 問 題 の 有 効 的 な 解 決 を
も た ら す た め の 協 議 の 斡 旋 等 の 支 援 を 行 う ( 実 施 法 9 条 )。 し か し , こ う し た 支 援
が功を奏しない場合には,子を奪取された親は,奪取した親に対し常居所地国に
子を返還することを命ずるように,家庭裁判所(東京または大阪に管轄集中。32 条)
に 申 し 立 て る こ と に なる ( 実 施 法 2 6 条 )。 家庭 裁 判 所 は , 親 の い ずれ が 監 護 権 者 と
して望ましいかという実体判断はせずに,原則として子を元の常居所地国に返還
す る 旨 の 決 定 を 下 さ なけ れ ば な ら な い ( 実 施 法 2 7 条 )。
もっとも,申立人による子の返還が認められない返還拒否事由も列挙されてい
る。
① 子 の 返 還 の 申 立 て が 子の 連 れ 去 り ま た は 留 置の 時 か ら 1 年 を 経 過した 後 に さ
れ た も の で あ り , か つ, 子 が 新 た な 環 境 に 適応 し て い る こ と ( 実 施 法 2 8 条 1
号 )。
② 子の連れ去りまたは留置の時に申立人が現実に監護権を行使していなかった
こ と ( 同 2 号 )。
③
申立人が連れ去りまたは留置の前にこれに同意し,またはその後にこれを
承 諾 し た こ と ( 同 3 号 )。
④ 子の返還が子の心身に害悪を及ぼすことその他子を耐え難い状況におくこと
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と な る 重 大 な 危 険 が ある こ と ( 同 4 号 )。
⑤ 子の年齢及び発達の程度に照らして子の意見を考慮することが適当である場
合 に お い て , 子 が 常 居所 地 国 に 返 還 さ れ る こと を 拒 ん で い る こ と ( 同 5 号 )。
⑥ 子の返還が人権および基本的自由の保護の関する基本原則により認められな
い こ と で あ る ( 同 6 号 )。
5.今後の課題
条約によって採用された枠組みは,わが国のこれまでの法運用,法実務とはか
なり異質である。任意の返還の方法として家庭裁判所における調停や私的調停を
いかに活用し,いかに新たにこの条約の枠組みにあうように構築できるかは,重
要 な 課 題 で あ る と 思 われ る 。
そのほか,条約への加入にさいしては,DVが子の連れ帰りの原因であった場
合に子を返還することを問題視し,条約への加入に慎重であるべきであるとの声
が 強 か っ た こ と は 既 述の と お り で あ る 。 実 施法 2 8 条 4 号 は ,条約 1 3 条 1 項 b
をそのまま邦訳したものであるが,これでは,夫婦間で生じた暴力が返還拒否事
由 と は な ら な い 。 そ のた め , 条 約 の 国 内 法 化に あ た り , 条 約 に は ない 2 8 条 2 項
の 規 定 が 追 加 さ れ て いる 。 こ れ に よ る と , 裁判 所 は , 実 施 法 2 8 条 4 号 に 掲 げ る
事由の判断にあたり,①常居所地国で子が申立人から身体に対する暴力その他の
心 身 に 有 害 な 影 響 を 及 ぼ す 言 動 ( 以 下 , 暴 力 等 ) を 受 け る お そ れ の 有 無 ( 1 号 ), ②
相手方および子が常居所地国に入国した場合に相手方が申立人から子に心理的外
傷 を 与 え る こ と と な る 暴 力 等 を 受 け る 恐 れ の 有 無 ( 2 号 ), ③ 申 立 人 ま た は 相 手 方
が 常 居 所 地 国 で 子 を 監 護 す る こ と が 困 難 の 事 情 の 有 無 ( 3 号 ) を 考 慮し な け れ ばな
らない。
このように返還拒絶事由をいかなる場合に認めるか,また,常居所概念が明確
でない現状において,子の常居所をどのように判断するかなど問題は山積である。
他の加盟国における議論の蓄積や実務の運用が今後の日本での実務においても参
考となろう。
なお,本条約に加盟したことから,わが国から他の締約国に奪取された子につ
い て の 返 還 援 助 ( 実 施 法 11 条 以 下 ) や , 奪 取 さ れ た 子 と の 面 会 交 流 の 援 助 ( 実 施 法
21 条以下) の申立ても当然のことながら可能となった。 冒頭で述べた実施法の初
の 適 用 事 例 は , ま さ に英 国 裁 判 所 が 子 の 日 本へ の 返 還 を 命 じ た ケ ース で あ っ た 。
(林
貴美・横溝
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大:2014 年 9 月 19 日)