上野先生と歩こう 中国語遊歩道 『中国のことばと文化Ⅱ』 [422]同じ「而」が順接にも逆接にも 成語・ことわざ雑記(20) (77)『論語』学而第一 子曰,学而時習之,不亦説乎。有朋自遠方来,不亦楽乎。人不知而不慍,不亦君子乎。 どなたもご存じの『論語』の第一篇第一章,すなわち書き出しの部分です。この第一篇を「学而」 篇と称しているのは,この篇がこの語から始まるからです。もちろん他の多くの篇にも共通して見ら れる「子曰」を除いての話ですが。以下第二篇「為政」,第三篇「八佾」……,すべて同様です。 日本語の漢文訓読式に読むと, 読み方は時代によって,また学派や人によって多少は異なりますが, 今日では,例えば岩波文庫本(金谷治訳注)では,次のとおりです。 し のたま ま よろこ とも 子の 曰 わく,学びて時にこれを習う,亦た 説 ばしからずや。朋あり,遠方より来たる,亦た楽 うら く ん し しからずや。人知らずして慍みず,また君子ならずや。 (78)一見やさしそうだが…… 「学びて」は何を学んで?「時に」は時々?しょっちゅう?それとも適当な時期に?「習う」は復 習する?実習する?「朋」とは?「君子」とは?……一見やさしそうに見えて実はいろいろ難しい問 題を含んでいますが,そのことは暫くおきましょう。 よ 訓み方にしても,“有朋自远方来”を「朋あり遠方より来る」でよいのかどうか,「朋の遠方より と も 来るあり」と訓じる人も,「有朋遠方より来る」だと主張する人もいるようですが……。わたくしは いつか書いたように(『新版 中国語考えるヒント』白帝社,2002 年 10 月),この文は今日の中国語 文法でいうところの兼語式,すなわち「朋」は「有」の目的語であると同時に「自遠方来」の主語を 兼ねていると理解するのがよいと考えていますが,そのことも暫くおくことにしましょう。 (79)知ラズシテ?知ラザレドモ? で,何を言いたいの?と聞かれそうですね,あれも暫くおく,これも暫くおくでは。 実は文中の二つの「而」が気にかかるのです。初めの「学而時習之」の「而」は「学んで,そして ……」,或いは「そのうえで」,「そののちに」くらいに解して,つまり順接関係を示す接続詞と解 してよさそうです。訓読法では「しかして」「しこうして」と訓んだり,ここでのように置き字と称 して直前の語に「…て」や「…して」を送るだけで済ませたりしています。 「人不知而不慍」の方の「而」はどうでしょうか。「人知らずして慍みず」,やはり「…して」と す 訓んでいます。でも「順接」ではなさそうですね。他人が分かってくれなくても,腹を立てたり拗ね たりしないというのですから,むしろ「逆接」ではないでしょうか。 (80)視レドモ見エズ,聴ケドモ聞コエズ 漢文を習い始めた頃,ここは逆接ですから「人知らざれども慍みず」と訓んではいけませんかと質 問したところ,確かにそのとおりだが,昔から「人知らずして……」で済ませているとの答えでした。 その時抱いた「けったいな訓み方やなあ」という違和感は,以来払拭しきれずにいます。 もちろん,「しかるに」「しかれども」或いは「…ども」と「逆接」に訓むこともあります。 心不在焉,視而不見,聴而不聞,食而不知其味。(心ここに在らざれば,視れども見えず,聴け ども聞こえず,食らえどもその味を知らず。) 四書の一つ『大学』の一節です。解説する必要はないでしょう。 2015/10/9 Ⓒ2015 一般財団法人日本中国語検定協会 無断で複製・複写・転載することを禁じます。
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