プロイセン王フリードリヒ2世と「君主は国家第一の下僕」

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プロイセン王フリードリヒ2世と「君主は国家第一の下僕」
静岡県立静岡高等学校
松丸徹治
エピソードが豊富なフリードリヒ2世 プロイ
ロッパの強国としての地位を確かにし,フリード
セン王フリードリヒ2世(在位1740〜86)は啓蒙
リヒ2世の戦略家としての名声も不動のものと
専制君主として名高く,18世紀を代表する国王の
なった。しかし,これらの侵略や軍備増強は,目
一人である。彼にまつわるエピソードは多く,フ
的のために手段を選ばない “マキァヴェリズム”
ルートの名手であったこと,父王フリードリヒ=
そのものだと非難を受けた。
ヴィルヘルム1世(在位1713~40)と対立して18
私たちはフリードリヒ2世に何を思うか 実は
歳のときに逃亡をはかったこと,ヴォルテールと
『反マキァヴェリ論』では,
「人民の幸福のため」
文通し,サンスーシ宮殿に招いたこと,じゃがい
ならば,防衛戦争だけでなく,予防の戦争や先制
も栽培を奨励して「じゃがいも大王」のあだ名も
攻撃も君主には必要と述べている。だから,これ
あること,チョコレートの売り子の声に閉口して
らの軍事行動は,自著と矛盾しているとは一概に
チョコレートの行商を禁止したことなど枚挙にい
いえない。私たちが彼の行為に感じる矛盾は,主
とまがない。エピソードのなかには,後世につく
義と行動の乖離というより,啓蒙専制君主の限界
られた “伝説” もあるが,政治・経済・軍事・学問・
を示すものといえよう。彼は,社会契約説にもと
芸術など多方面にわたる活躍と歴史上の存在感が,
づいて王権の絶対性を説いたが,この点ではホッ
多くのエピソードを生んだといえよう。
ブズの著書『リヴァイアサン』と似た面があり,
「人
『反マキァヴェリ論』 フリードリヒ2世は詩作
民の幸福のため」という伝家の宝刀があれば,君
や著作活動も積極的に行った。その代表作が『反
主は侵略さえも許されるとしたのである。王は農
マキァヴェリ論』
である。彼はこのなかで,
マキァ
民を保護したが,農民は担税民かつ兵士の供給源
ヴェリが唱えた “獅子の勇猛と狐の狡知” を兼ね
である。ユンカーはいっそう手厚く保護されたが,
そなえた君主像を批判し,
「人民の幸福は,君主
彼らは軍の将校や高級官僚の供給源にあたる。ま
の利益よりも大事である。君主は決して彼の支配
た,商工業も育成したが,市民階層は資金を提供
する人民の絶対的な主人ではなく,その第一の下
した。ユンカー・市民・農民は,王権を支えるた
僕にすぎない」
と述べている。この部分などが
「君
め,国家への奉仕を義務づけられた3階層であり,
主は国家第一の下僕」という言葉に相当する。実
そのまま身分的に固定され保護されたのである。
際に,彼は王位につくと,拷問や検閲を廃止した
このような啓蒙専制君主フリードリヒ2世に,
り,宗教寛容令を出したり,備蓄穀物を安価で放
私たちは二面性を感じざるをえないのであるが,
出させたりもした。
彼自身も自己矛盾を自覚していたようにも思える。
オーストリア継承戦争と七年戦争 その一方,
七年戦争を境に,王は人が変わったといわれた。
即位した1740年にマリア=テレジアが家督をつぐ
政務には励んだが生活は質素になり,着古した軍
と,オーストリア継承戦争を開始してシュレジエ
服に身を包んだ。多くの友人を死別や離別で失い,
ンを獲得した。その奪回のために,オーストリア
人間ぎらいの傾向も出てきて,孤独感がただよっ
が “外交革命” でプロイセン包囲網をつくると,
ていた。このような晩年の姿に,君主たちからは
先制攻撃をしかけて七年戦争も始めている。七年
敬意を集めながら,身近な人の愛情や友情への憧
戦争は,首都が敵の侵入を受けるほど苦戦したが
れと,それがままならない寂しさという,普通の
ねばり強く戦い,ロシアの戦線離脱を機に逆転に
人間としての悩みが垣間見られる気がする。
成功した。この戦勝によって,プロイセンはヨー
世界史のしおり 2015①
【参考文献】飯塚信雄『フリードリヒ大王』
(中央公論社,1993年)など
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