両脇からは古木 が 枝 を 伸 ば し て い 高い塀にはオカメヅタがからまり、 が、別 名 を﹁七 囲 坂﹂と も 呼 ぶ。 と屈曲している の で そ の 名 が あ る 坂 を﹁七 曲 坂﹂と い う。う ね う ね 九の間を北に向かって上る古 宿区下落合二丁目八と四丁目 と呼ぶが、その﹁ばっけの坂﹂が﹁オ 側の崖のことを﹁はけ﹂や﹁ばっけ﹂ ﹁オ バ ケ 坂﹂と い う。河 岸 段 丘 の 片 園の東側を湾曲 し て 上 る 坂 を 通 称 ロなどの楽園になっている。この公 ど樹木が生い茂り、ウグイスやメジ 森公園﹂がある。日中でもうす暗いほ 道 を 西 側 に 進 む と、﹁下 落 合 野 鳥 の 新目白通りの北側に沿う雑司ヶ谷 なな まがり る。鎌倉時代には松林で覆われてい 園内に狸が棲息 し て い る と い う か なな めぐり た が、江 戸 時 代 に は 紅 葉 の 名 所 と バケ坂﹂に転じたらしい。今でも公 文化十一︵一八一四︶年刊の﹃遊 ら、﹁オ バ ケ 坂﹂の 名 も 真 実 味 を 帯 れきざっ き 歴雑記﹄によると、源頼朝が近在に びてくる。古趣の漂う名坂といえる。 ゆう なった。 新 Yamano Masaru 坂道研究家 陣を張ったとき、敵の軍勢を探索す るために、急ぎこの坂を開かせたと 大田区にある池上本門寺の ねずみ 伝える。また、坂上に続く台地を鼠 み けんほうとうぼん 偈文︵詩句︶の一節だ。偈文 げ ぶん これは法華経の見宝塔品の なのだろうか。 難持坂﹂という。どんな意味 なん じ ざか 寄進によるが、名前を﹁此 経 し きょう 正面の石段坂は、加藤清正の ず ふ しんばん 山というが、これは、頼朝が不寝番 ね を置いて監視させたことから不寝見 山と呼ばれ、これが転じて鼠山と書 かれるようになったという。 坂下には氷川神社がある。旧下落 みや こ きょう は九十六文字からなり、文頭 にょたい がた れている。 で、石段も九十六段に造築さ を示している。これにちなん るには多くの困難が伴うこと も 合村の鎮守で、女体の宮とも呼ばれ みや の﹁此経難持﹂とは﹁此の経 めおと る。豊島区高田一丁目にある氷川神 入滅後、この経が広くゆき渡 は持ち難し﹂とよみ、釈尊の みや 社の男体の宮と合わせて夫婦の宮と なんたい も称されている。氷川神社の前で、 江戸時代の古道である馬場下道︵高 田馬場へ続く︶と雑司ヶ谷道︵下落 合と雑司ヶ谷を結ぶ︶に分かれてい た。今も細い道が残っている。 ▲ 西武新宿線・下落合駅から新目白通りを横断し、右折して高田馬場方面へ進む。薬王院入口を左に入り、次を右折、1本目を左折する。 七曲坂アクセス 七曲坂 1 9 4 3年、広島県生まれ。早稲田大学政経学部新聞学科卒業。報知新聞 社を経て講談社に入社。 「ヤングマガジン」編集長、第3編集局長、取 締役、常務取締役を務め、現在講談社顧問。この十数年、東京の坂道 を積極的に歩き、エッセイや講演などで坂道ブームの火付け役に。 『タ モリの TOKYO 坂道美学入門』 (講談社)に企画参加。著書に『江戸の 坂――東京・歴史散歩ガイド』 (朝日新聞社)がある。 山野 勝 東 京 歴 史 ウ ォ ー キ ン グ (新宿区) 第4回 古趣の漂うオバケ坂 21
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