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●特集=『論語』をもっと活用しよう
教室のお悩み解決!
『論語』の指導Q&A
つか だ かつろう
塚田勝郎 (筑波大学附属高等学校)
「と」が不可欠だったのです。
『 論 語 』 の 訓 読 で 会 話 文 末 の「 と 」 が 省
略される理由は、質問にあるように、孔子
の発言が短い章が少なくないことのほかに、
「と」が素読や朗唱の妨げになることも指
摘されています。しかし、高等学校の漢文
教 育 で、『 論 語 』 だ け を 例 外 扱 い す る こ と
には根拠がありません。孔子の発言が短い
場 合 で も、 必 ず「 曰 は く、 …… と。
」と訓
読することを定着させたいものです。
Q 教科書の漢文を音読する時に、会話文
末の「と」の前に間を置くべきかどうか、
迷います。
A 難しい問題ですね。先生方は、どうさ
れているでしょうか。会話文末の「と」の
読み方のいくつかのパターンを示しましょ
う。『 論 語 』 巻 頭 の 一 章 を 教 室 で 範 読 す る
と い う 設 定 で す。 紙 幅 の 都 合 で、
「 不 二亦
その2
■
「曰はく…と」にまつわる疑問
Q 教
科書の『論語』の文章は短いものが
多 い の で す が、 文 末 の「 と 」 は 必 要 で
しょうか。
A 高等学校の教科書では、「曰はく」「云
お も
ふ」
「以為へらく」「疑ふらくは」などと訓
読した時には、その結びに必ず「と」を置
いています。一方、漢籍の注釈書や、一般
書での漢詩・漢文の引用では、会話文末に
「 と 」 を 置 か な い こ と が 多 い よ う で す。 特
に『論語』に関するものでは、その傾向が
顕著です。
会 話 文 末 の「 と 」 は、「 曰 は く、 …… と
い ふ。
」と訓読していた名残と説明されて
います。
( 詳細は、本誌第一八四号所載の拙稿
「訓読の習慣とその扱い」をご参照ください。
)
会話文や引用部分にカギ括弧を付さなかっ
た 時 代 に は、 そ の 範 囲 を 明 示 す る た め に
君子 一乎。
」の部分のみを取りあげます。
A またくんしならずや□と。
□ 。
B またくんしならずや と
C またくんしならずやと。
Aは、□の箇所で一音分の間を置く読み
方です。やや間延びした印象が残るでしょ
う。 B は、 □の 箇 所 で 適 宜 間 を 置 く 読 み 方
で す が、
「適宜」を数値化できないのが苦
しいところです。筆者は割り切って、Cの
よ う に 読 ん で い ま す。
「と」の前の間の置
き方については、経験を重ねて、自然で自
分らしい読み方を作り上げるほかはないで
しょう。
蛇足ですが、ある研究授業で次のような
読み方に遭遇しました。
先生 またくんしならずや。
生徒 またくんしならずや。
先生 と。
生徒 と。
このように「と」だけを独立させて読む
ことは不自然でしょう。
Q 「 子 曰 は く 」 は、 ど う 現 代 語 訳 す れ ば
よいでしょうか。
A 二つのケースに分けて考えてみます。
1 孔子の発言が短い章
「……。
」と。
A 先生が言った、
─ 24 ─
むか
きょう
「『 論 語 』が 断 然 お も し ろ く な
➡ ペー ジ
る! 女子のための人物紹介」
●孔子と弟子の人物像については
の「共」を、
「共ふ」と読むか、
「共す」と
ところで、「子曰」は古くは「あなつ の
た ま わ く 」(「 あ な つ 」 は 孔 子 の 意 )と 読 ま
読 む か は、 Ⅱ と 関 わ り ま す。
「 共 」 は、
れ た そ う で す。「 し の た ま わ く 」 を 経 て、 「向」の意味で解釈すれば「むかう」意で
きょう しゅ
あ り、
「 拱 」 の 意 味 で 解 釈 す れ ば「 拱 手 の
現 在 の 教 科 書 で は「 し い わ く 」 に 統 一 さ
れています。近年の出版物でも「しののた
礼をする (敬意を表す)
」意となります。
せん じょう たん
し かん
まわく」(小倉紀蔵『新しい論語』)と読むも
Ⅲの例としては、
「川上の嘆」(子罕編)
のがあるのは、興味深い現象です。
があります。短い記述だけでは、その言葉
の背景がわかりません。人間を過去へと押
し流すマイナスのイメージと、反対に力強
く未来へと時間が継続するプラスのイメー
ジが生まれるのは、そのためです。
記憶に頼らずに、教科書を熟読し、訓読
を確認した上で音読の練習もしっかり行い
ましょう。その上で、自信を持って授業に
臨みたいものです。
■訓読はなぜ変わる?
Q 教科書が変わると、訓読のちがいにと
まどうことがあります。どう対処すれば
よいでしょうか。
A 『 論 語 』 の 有 名 な 章 に つ い て、 訓 読 の
差異と解釈の関連を整理してみます。
Ⅰ 訓読は異なるが、解釈は同じ。
Ⅱ 訓読が異なり、解釈も異なる。
Ⅲ 訓読は同じでも、解釈は異なる。
」(学而
「吾日三省吾身。」の「三省吾身。
編)に二とおりの訓読があるのは、Ⅰの例
です。「三たび吾が身を省みる。」も「吾が
身を三省す。」も、「自分の行ったことをな
ん ど も 反 省 す る。」 の 意 で、 解 釈 に 差 は あ
りません。(「三省」を「三つのことを反省す
る」と解釈する説もあります。
)
「『論語』の指導Q&A その1」
➡ ページ
「 目 的 別『 論 語 』を 知 る た め の
➡ ペー ジ
ブックガイド」
上レ
一而衆星共 之。
譬如 下北辰居 二其所 、
(為政編)
●『論語』をもっと読むには
26
●もういちど疑問をおさらい!
29
11
せいせき
B 先生が言われた、「……。」と。
C 先生の言葉、「……。」(と)。
2 問答を記録した章
生が言われた、「……。」と。子路
D 先
がお答えした、「……。」と。
E 先生、「……。」子路、「……。」
以 上 が 一 般 的 な パ タ ー ン で し ょ う か。
「 子 曰 は く 」 は 訳 さ ず、 枕 詞 の よ う に 現 代
語 訳 の 上 に 置 い た り、 会 話 の 末 尾 に
「 ……。
」
(孔子)と発言者名を記すという
形もありますが、高校現場では現実的では
ないでしょう。
筆者は、授業ではBとDのパターンを用
います。Bは「おっしゃった」とも訳せま
すが、孔子の神聖化へのささやかな抵抗と
して、
「言われた」にこだわっています。
杏 壇礼楽図(『聖蹟之図』、部分)
きょうだん
─ 25 ─