第4回 柴田 雅章 クライヴ・ボウエン 二人展 2015 クライヴ・ボウエンの工房(英国・デボン) Clive Bowen & Masaaki Shibata Gallery St. Ives クライヴ・ボウエンの窯 Tokyo | Japan 2004 年、晩年のエドワーズ・ヒューズ氏と奥様の静子さんが、東京の日本民藝館からの訪問客の一行と一緒にやって 来ました。それが柴田雅章さんとクライヴ・ボウエンの最初の出会いとなりました。そして、世界の反対側に住む 2 人 の男がついに遭遇した出来事は、起こるべくして起きたことと思われました。つまるところ、彼らの生活や仕事は似 たような軌跡をたどってきました。それは土やスリップウェア、優れた器に対する同じような価値感や愛情によって もたらされたのもので、それによって両人の毎日の生活や慣習により充実した楽しみがもたらされました。篠山周辺 の神社や杉の木に覆われた山や田畑は、シェビアの乳牛用の牧草地や森林、メソジスト派の教会とは大きく異なりま すが、その一方で、それぞれの陶芸家の工房での生活にはたくさんの共通点があります。美味しい食べ物やすばらし い仲間への愛情を共有していることや、来客を家へ招き入れるという長い歴史があります。2009 年から続いている柴 田さんとボウエンの二人展は、最初の出会いから育まれてきた友情を祝う場でもあります。 1966 年、バーナード・リーチの次男であるマイケルの弟子として陶芸を始めたボウエンは、彼の師匠が作っていた日 本スタイルの陶芸ではなく、RJ ロイド・コレクションの中で見つけた、長いこと忘れ去られていた北デボン土着のス リップウェアに惹きつけられました。そのコレクションは、現在はビディフォードのバートン美術館に展示されてい ます。しかし同時に、彼は柳宗悦の著書も探り当てました。矛盾しているように思われるかもしれませんが、日本の 刷毛や装飾の技法に気持ちを惹かれないにもかかわらず、彼は柳の考えに哲学的な拠り所を見出しました。 「無名の 工人」は直ちに琴線に触れました。そして、彼は自分が進むべき道を見つけました。彼が 1971 年にシェビアに自身の 工房を築いた時、それは当時、英国では非常に時代遅れだったスリップウェアを作るためでした。リーチの最初の、 そして最も偉大な弟子であり、ボウエンのよき相談相手だったマイケル・カーデューでさえ、アーゼンウェア(低火 度焼成の陶器)は諦めて、 「ストーンウェア(高火度焼成の陶器)への転向」を奨めました。しかしボウエンは、彼が刺 激を受けた中世英国のジャグや皿を作った無名の陶工達の足跡を辿りたいという自分に気付いていました。 40 年後の 2009 年、柴田さんとの初めての二人展を終えた後、ボウエンは大阪日本民芸館に柴田さんと一緒にいまし た。壮大な英国のスリップウェアのコレクション、そして柳宗悦が人生と総力を捧げて蒐集した作品の展示を前にし て、何かが一周して元に戻ったような感覚がありました。二人はそれぞれ、地球の遠く離れたところにあるものから 着想しましたが、自分の進む道を見つけるために、それぞれは自分自身の、そして相手の伝統からアイデアを得まし た。二人がそれぞれの天職を見つけ出したのは、相手の文化の洞察を通してでした。自分の生まれ故郷へ戻ってくる には、しばしば長い旅をしなければならないのです。 ロジー・ボウエン(クライヴ・ボウエン夫人) 柴田雅章、40 歳の頃 2001 年、英国で開催された『国展工芸イギリス展(国画会工芸部)』にて エドワード・ヒューズ夫妻と、52 歳の頃 1969 年、デボン・バーンスタプルのブラナム・ポタリーで働いていた頃(左端) 1970 年代前半、シェビア・ポタリーで 独立して間もない頃 1980 年代、シェビア・ポタリーにて 1976 年、2室から成る窯を築く。 現在の柴田雅章邸の風景 第4回 柴田 雅章 クライヴ・ボウエン 二人展 会期 2015 年 4 月 11 日∼ 19 日 発行 ギャラリー・セントアイヴス 東京都世田谷区深沢 3-5-13 http://www.gallery-st-ives.co.jp 編集 井坂浩一郎 小池 瑠美 1987 年、英国へスリップウェア探訪の旅 1998 年 5 月、自宅の裏山にて
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