パーシング懲罰軍 - メキシコ革命と日米関係

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パーシング懲罰軍
パーシング懲罰軍
参謀総長ジェネラル・ヒュー・スコットは
参謀総長ジェネラル・ヒュー・スコットは追討軍司令官
ジェネラル・ヒュー・スコットは追討軍司令官にジョン・パーシング
追討軍司令官にジョン・パーシング准将
にジョン・パーシング准将を
准将を任
命し、ジェネラル・フレデリック・フンストンの配下
ジェネラル・フレデリック・フンストンの配下に
配下に置いた。
いた。パーシングはウエスト・
パーシングはウエスト・
ポイント1886
ポイント1886年
1886年の卒業で
卒業で、米西戦争の
米西戦争の後フィリピンでモロ掃討作戦
フィリピンでモロ掃討作戦の
掃討作戦の戦歴を
戦歴を持つ。パ
ーシングが受
ーシングが受けた命令
けた命令は
命令は「懲罰遠征 Punitive Expedition
Expedition」と呼ばれ、
ばれ、ビヤの盗賊集団
ヤの盗賊集団を
盗賊集団を追
い散らすことであった。
らすことであった。この中
この中で強調されたのは
強調されたのは、
されたのは、カランサ政府
カランサ政府の
政府の主権を
主権を守り、メキシコ
軍への攻撃
への攻撃を
攻撃を戒めたことである。
めたことである。
遠征軍は
遠征軍は約五千の
五千の将兵、
将兵、三旅団からなり
三旅団からなり、
からなり、砲兵や
砲兵や八機の飛行機を
飛行機を持つ飛行中隊も
飛行中隊も加わっ
ていた。
ていた。八機の複葉飛行機JN-
複葉飛行機JN-3
JN-3は解体され
解体され、
され、3月15日
15日、サンアントニオからトラッ
クでコロンバスへ到着
クでコロンバスへ到着し
到着し、組み立てが開始
てが開始された
開始された。
された。コロンバスから侵入
コロンバスから侵入する
侵入する主力部隊
する主力部隊は
主力部隊は騎
兵及び
兵及び歩兵旅団からなり
歩兵旅団からなり、
からなり、もう一
もう一つの騎兵旅団
つの騎兵旅団はコロンバスから
騎兵旅団はコロンバスから八十
はコロンバスから八十マイル
八十マイル西
マイル西にあるカル
バーソン牧場
バーソン牧場から
牧場から越境
から越境することになった
越境することになった。
することになった。3月16日午前1
日午前1時、パーシングはカルバーソ
ンからメキシコへ入
ンからメキシコへ入った。
った。二手に
二手に分かれた旅団
かれた旅団はカサ
旅団はカサス・
はカサス・グランデ
ス・グランデス
グランデスで合流する
合流することにな
することにな
った。
った。
三月末、
月末、米軍はチワワの
米軍はチワワの奥深
はチワワの奥深く
奥深く三百五十マイルも
三百五十マイルも入
マイルも入り込んでいた。
んでいた。カランサの
カランサの口調は
口調は激
しかったが、
かったが、一切抵抗はせず
一切抵抗はせず、
はせず、物資の
物資の輸送に
輸送に列車の
列車の使用を
使用を許していた。
していた。カランサもチワワ
州知事エンリケスも
州知事エンリケスも、
エンリケスも、自殺行為になるアメリカ
自殺行為になるアメリカ軍
になるアメリカ軍との衝突
との衝突を
衝突を避けたかったし、
けたかったし、密かにアメ
リカ軍
リカ軍がビヤを捕獲
ヤを捕獲することを
捕獲することを願
することを願っていた。
っていた。
その願
その願いが叶
いが叶ったかに思
ったかに思われた。
われた。ビヤは重傷
ヤは重傷を
重傷を負ったとの噂
ったとの噂が流れ、ビヤ兵は既に四散
していた。
していた。しかし四
しかし四月に入ると状況は
状況は思わぬ方向
わぬ方向へと
方向へと展開
へと展開する
展開する。
する。コロンバス攻撃
コロンバス攻撃を
攻撃を生き延
びた四百人
びた四百人にも
四百人にも満
にも満たないビ
たないビヤと兵士
ヤと兵士はチワワ
兵士はチワワ山中
はチワワ山中に
山中に隠れた。
れた。ビヤは革命
ヤは革命に
革命に身を任せて以来
せて以来
はじめて、
はじめて、とても勝
とても勝ち目のない事
のない事態に直面していた
直面していた。
していた。アメリカ兵
アメリカ兵は既に五千、
五千、メキシコ人
メキシコ人
が決して手
して手にすることの出
にすることの出来ない近代
ない近代兵
近代兵器で装備し
装備し、飛行機が
飛行機が山野の上空を
上空を飛んでいた。
んでいた。
加えて、カランサ軍
カランサ軍がビヤを壊滅
ヤを壊滅させるため
壊滅させるため、
させるため、そして万
そして万一の全面戦争
全面戦争に
戦争に供え、続々とチワ
ワに送
ワに送り込まれていた。
れていた。ビヤは通過
ヤは通過する
通過する町
する町や村でアメリカ軍
でアメリカ軍への抵抗
への抵抗を
抵抗を唱えた。カランサ
兵の中にはビ
にはビヤに共鳴
ヤに共鳴するものが
共鳴するものが多
するものが多く、カランサ軍
カランサ軍の隊長も
隊長もビヤを見逃した
見逃した。
した。3月27日
27日、
ビヤはシウダ
ヤはシウダー・ゲ
ー・ゲレロとミ
レロとミニャカ村を攻撃しカランサ
攻撃しカランサ軍守
しカランサ軍守備
軍守備隊を潰走させた
潰走させた。
させた。カランサ
軍ジェネラルがゲ
ジェネラルがゲレロ奪回
レロ奪回を
奪回を企てたのをビ
てたのをビヤ軍は簡単に
簡単に押し返した。
した。この戦
この戦いで大量
いで大量の
大量の武
器を得たのと、
たのと、捕虜八十人
八十人を説き伏せ自分の
自分の隊列に
隊列に加えることに成功
ることに成功した
成功した。
した。しかし、
しかし、支払
った代償
った代償は
代償は大きかった。
きかった。ビヤは膝
ヤは膝に傷を受け、動けなくなった。
けなくなった。ビヤは部隊
ヤは部隊を
部隊を細かく分
かく分断
し、チワワとドゥ
チワワとドゥラン
ドゥランゴ
ランゴに分散させた
分散させた。
させた。
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22
23
ビヤ自身はニコラス・フェル
自身はニコラス・フェルナ
はニコラス・フェルナンデスの護衛
ンデスの護衛で
護衛で、誰にも行
にも行き先を知られないよ
られないように細心
うに細心
の注意を
注意を払って出発
って出発した
出発した。
した。ゆっくりと馬
っくりと馬車や担架を
担架を使っての逃
っての逃避行であった
避行であった。
であった。苦痛を
苦痛を和ら
げる医者も
医者も薬もなかった。
もなかった。ビヤの分遣隊は部下のジェネラル・
部下のジェネラル・ホセ
のジェネラル・ホセ・ロ
ホセ・ロド
・ロドリゲスの父親
スの父親の
父親の
224
牧場に
牧場に着いた。
いた。ロドリゲスはあらゆ
スはあらゆる手を尽くして介護
くして介護にあたった
介護にあたった。
にあたった。ホセ・ロ
ホセ・ロド
・ロドリゲスは
三ヶ月前に
月前に既に戦死していたが
していたが、その事
その事実は伝えなかった。
なかった。ビヤは間
ヤは間もなく回復
もなく回復すると
回復すると、
すると、
フェルナ
フェルナンデスの分
ンデスの分遣隊を更に南のドゥラン
ドゥランゴ
ランゴに向かわせ、
わせ、実の従弟二人
従弟二人のみを
二人のみを残
のみを残した。
した。
二人は
二人はビヤをラバに乗
ヤをラバに乗せコスコマテ
せコスコマテと呼ばれる洞窟
ばれる洞窟に
洞窟に入り、二ヶ月ほど身
ほど身を隠した。
した。傷は
少しずつ癒
しずつ癒えていった。
ていった。
ビヤが外
ヤが外部と遮断されている
遮断されている間
されている間、彼の分遣隊の多くが消滅
くが消滅し
消滅した。辛うじて原形
うじて原形を
原形を保った
のはドゥ
のはドゥラン
ドゥランゴ
ランゴに避難した二部隊
した二部隊ぐ
二部隊ぐらいで、
らいで、最も大きな打
きな打撃を蒙ったのは、
ったのは、二百人
二百人いたセ
いたセ
ルバンテスの部隊
スの部隊であった
部隊であった。
であった。ゲレロ戦
レロ戦のあとでカランサ軍
のあとでカランサ軍から寝返
から寝返った
寝返った八十
った八十人
八十人は、給料不
払いのため脱走
いのため脱走した
脱走した。
した。内輪もめな
内輪もめなど
もめなどで更に脱走者が
脱走者が続き、残ったのは同郷
ったのは同郷の
同郷の者三十人
三十人ほど
になっていた。
になっていた。これらも故郷
これらも故郷ナミ
故郷ナミキパに
ナミキパに帰
キパに帰ると、
ると、戦うのを拒
うのを拒み離脱した
離脱した。
した。セルバンテスは
一人でアメリカ軍
でアメリカ軍を襲い、騎兵に
騎兵に射たれた。
たれた。騎兵は
騎兵は未だ生きているセ
きているセルバンテスをロープ
スをロープ
に繋ぎ、馬で引いてナミ
いてナミキパ
ナミキパの
キパのアメリカ軍
アメリカ軍本営ま
本営まで帰った。
った。顔が潰れたセルバンンテ
ンンテスを
家族が指の傷から確認
から確認した
確認した。
した。フリオ・アコスタ
フリオ・アコスタはゲレロ戦
レロ戦のあと、
のあと、アメリカ
アメリカ軍
リカ軍への抵抗
への抵抗を
抵抗を
呼びかけ、
びかけ、攻撃を
攻撃を計画しているとこ
計画しているところ
しているところ、オホス・アスレスで
ス・アスレスで逆
レスで逆にアメリカ軍
にアメリカ軍に先手を打た
れ、四十一人
四十一人が落命、多くが負傷
くが負傷し
負傷し、アコスタ
アコスタは逃亡した
逃亡した。
した。
24
25
四月の初めウイルソンの閣僚
めウイルソンの閣僚数
閣僚数人が懲罰遠征軍の
懲罰遠征軍の引き上げを唱えていた。
ていた。国防長官
国防長官ニュ
長官ニュ
ートン・ベ
ートン・ベーカーはビ
ーカーはビヤの軍
ヤの軍勢は離散し、パーシングは既
パーシングは既に目的を
目的を達している以
している以上、盗賊
を追いかけるのは馬鹿
いかけるのは馬鹿げ
馬鹿げていると
ていると、彼の態度を
態度を表明していた
表明していた。
していた。参謀総長ヒュー・スコット
参謀総長ヒュー・スコット
も同じ意見であった
意見であった。
であった。このよ
このような態度
うな態度の
態度の原因となったのは
原因となったのは、
となったのは、ドイツのUボートが中立
ートが中立国
中立国の
船舶を
船舶を撃沈したため、
したため、アメリカが同盟側
アメリカが同盟側に
同盟側に加わってド
わってドイツへの宣
への宣戦布告を
布告を行う可能性が
可能性が高
まったことによ
ったことによる。このよ
このような危
うな危機に直面しているときに
直面しているときに、
しているときに、軍隊をメキシコに
軍隊をメキシコに置
をメキシコに置いている
わけにはいかなかった。
わけにはいかなかった。ビヤは身
ヤは身を隠し、彼の手の者はチワワとドゥ
はチワワとドゥラン
ドゥランゴ
ランゴ全域に
全域に飛散し
飛散し
ている状況下
ている状況下にあっては
状況下にあっては、
にあっては、アメリカ軍
アメリカ軍の駐留は
駐留は長期に亘り、行動範囲も
動範囲も拡大するであ
拡大するであろ
するであろう
と、ベーカーとスコットは予測
ーカーとスコットは予測していた
予測していた。
していた。
パーシングは次
パーシングは次のように報告
うに報告した
報告した。
した。メキシコにお
メキシコにおいて我
いて我々の使命を
使命を達成するためには
達成するためには、
するためには、
困難な
困難な戦いを長
いを長期に亘って続
って続けなくてはならない。
けなくてはならない。ビヤはチワワの隅
ヤはチワワの隅々を熟知し、メキシ
コ人は彼への友情
への友情、
友情、あるいは恐怖心
あるいは恐怖心から
恐怖心から我
から我々の行動を逐一報告している
報告している。
している。ビヤは食料
ヤは食料を
食料を持
たず村
たず村人に頼り、乗り回した馬
した馬は機会があるご
があるごとに新
とに新しいのに乗
しいのに乗り換えている。
ている。ビヤには
有利な
有利な条件が
条件が備わっている。
わっている。このよ
このような状況下
うな状況下では
状況下では、
では、出来るだけ広範囲にわたる
広範囲にわたる地域
にわたる地域を
地域を長
期に占領する
占領する必要
する必要がある
必要がある。
がある。更にそれぞ
にそれぞれの地域
れの地域に
地域において、
いて、出来るだけ多くの住民
くの住民の
住民の支持を
得て、信頼できる
信頼できる情報
できる情報の
情報の収集が可能になる
可能になるよ
になるように努
うに努める。
める。荒野を
荒野を乗り越え、安定した
安定した補給
した補給
線を確立し、各駐屯地へ
各駐屯地へ充分な兵や動物を供給し
供給し、何時でも活
でも活力のある部隊
のある部隊を
部隊を動かせるよ
かせるよ
うにする。
うにする。これ等
これ等の基本計画は
基本計画は既に実行に移し、速やかに目的
やかに目的を
目的を達成する
達成するよ
するよう努力してい
る。
このよ
このような方
うな方針はカランサ軍
はカランサ軍との衝突
との衝突を
衝突を招き、全面戦争
全面戦争に
戦争に発展する危
する危険性があった。
があった。ゲ
26
225
レロの戦
レロの戦いでビ
いでビヤに壊滅的
ヤに壊滅的な
壊滅的な打撃を与え、初期の
初期の目的を
目的を達成していたので
達成していたので、
していたので、軍隊を
軍隊を引き揚
げても、
ても、ウイルソンが支払
ウイルソンが支払う
支払う政治的な対価は
対価は小さいとベ
さいとベーカーとスコットは考
ーカーとスコットは考えていた。
ていた。
しかしビ
しかしビヤの再起
ヤの再起を
再起を恐れた財界
れた財界人
財界人からの圧
からの圧力を受けた農務
けた農務長官
農務長官デー
長官デーヴ
デーヴィッド
ィッド・ヒュースト
ン、内務省長
務省長官フランクリン・レーンは撤退
フランクリン・レーンは撤退に
撤退に強く反対した
反対した。
した。ウイルソン大
ウイルソン大統領はキュー
バ政府と
政府と結んだ条約と同じように、
うに、アメリカが正当
アメリカが正当であ
正当である
であると判断したときには何
したときには何時でも一
でも一
方的に武力介入が出来るような条件
うな条件をカランサに
条件をカランサに飲
をカランサに飲ませる腹
せる腹があったため、
があったため、無条件に
条件に撤退
することは考
することは考えていなかった。
ていなかった。
その間
その間、カランサ軍
カランサ軍は日を追うごとにパーシングのアメリカ軍
とにパーシングのアメリカ軍に対し敵意を顕にしてい
た。それが最初
それが最初に
最初に露呈する
露呈する事
する事件が起きた。
きた。チワワ市
チワワ市へ公文書を
公文書を届けるため飛行機二機
けるため飛行機二機が
飛行機二機が使
用された。
された。それぞ
それぞれが文書
れが文書の
文書の写しを携
しを携え、一機は
一機は市の東側、別の一機は
一機は西に着陸する計画
する計画
で出発した
出発した。
した。パイロットの一人
パイロットの一人は
一人は着陸時に逮捕され、
され、怒り狂った群
った群集に取り巻かれ市
かれ市の牢
獄まで歩き、監禁さ
監禁された。
れた。群衆の
群衆の中にいたアメリカ人
にいたアメリカ人の通報で
通報で駆けつけた領
けつけた領事によって間
って間
もなく救
もなく救出された。
された。機体は
機体は煙草の
煙草の火などで傷つけられ、
つけられ、二人のパイロットは
二人のパイロットは離
のパイロットは離陸するま
するまで
脅かされ続
かされ続けた。
けた。
27
28
第十三騎兵
十三騎兵大
騎兵大隊のフランク・トンプ
のフランク・トンプキンス大
キンス大佐は勇敢な
勇敢な軍人であった
軍人であった。
であった。トンプ
トンプキンスは
ビヤがパラル近
ヤがパラル近くにいるはずだ
くにいるはずだと考えた。ビヤは盗賊時
ヤは盗賊時代
盗賊時代から、
から、追い詰められるとパラル
周辺の
周辺の山中に
山中に身を隠したことから
したことから、
から、今回もそうであろ
もそうであろうと言
うと言った。
った。そして彼
そして彼の小さな騎兵
さな騎兵
大隊は、あと十
あと十頭ほどのラバを
ほどのラバを貰
のラバを貰えば、密かにど
かにどの部隊よ
部隊よりも早
りも早くパラルへ行
くパラルへ行って見
って見せる
とパーシングに進言
とパーシングに進言した
進言した。
した。
トンプキンスはビ
キンスはビヤが南
ヤが南に向かったことだ
かったことだけは確信
けは確信していた
確信していた。
していた。パーシングは、
パーシングは、ビヤが四
ヤが四
十人ほどの
ほどの部下を
部下を連れて、
れて、ゲレロから南
レロから南西約百
西約百キロにある小
キロにある小さな村
さな村クシウイラチクから更
クシウイラチクから更
に南に向かったとの
かったとの情報
との情報を
情報を得ると、
ると、トンプ
トンプキンス
キンスの助言を
助言を取り入れることにした。
れることにした。4月4
日、パーシングは十二
パーシングは十二頭
十二頭のラバ、
のラバ、追加の
追加の食料と
食料と銀貨五百
銀貨五百ペ
五百ペソを渡
ソを渡してトンプ
してトンプキンスをパラ
ルへ出発
ルへ出発させた
出発させた。
させた。トンプ
トンプキンスの後
キンスの後にはウイリア
にはウイリアム
ウイリアム・ブラウンの第
ラウンの第十大隊、その後
その後にはロ
にはロ
バート・ハ
バート・ハウゼの第十一大
十一大隊が続いた。
いた。ブラウンはトンプ
ラウンはトンプキンス
キンスの左、ハウゼは右脇を
右脇を庇
うように進
うに進んだ。更にドッズの大隊は分水嶺辺りに
水嶺辺りに潜
りに潜んでいる可能性
んでいる可能性のある
可能性のあるビ
のあるビヤを求
ヤを求めて
西に向かった。
かった。パーシングはこの四
パーシングはこの四個縦隊
個縦隊との連絡
との連絡を
連絡を保つために本営
つために本営をさらに
本営をさらに南
をさらに南下させ、
させ、
チワワ市
チワワ市から南
から南百マイル足
マイル足らずの位
らずの位置にあるサテ
にあるサテボに移動を
移動を開始した
開始した。
した。国境線から三百五
から三百五
十マイルも南
マイルも南に進出することになった。
することになった。
トンプ
トンプキンスがパラルの北
キンスがパラルの北約五十マイルのサン・サラ
五十マイルのサン・サラゴ
マイルのサン・サラゴサに到着
サに到着した
到着した4
した4月10日の夜、
カランサ軍
カランサ軍パラル守
パラル守備隊に所属すると
所属すると言
すると言うアントニオ・メサ大
うアントニオ・メサ大尉がトンプ
がトンプキンスの野営地
キンスの野営地
にやって来
にやって来た。彼は電話でアメリカ
電話でアメリカ軍
でアメリカ軍の到着をパラルへ
到着をパラルへ知
をパラルへ知らせるためにやって来
らせるためにやって来たと言
たと言い、
終始協力的な態度を
態度を示した。
した。そこでは放
そこでは放牧が出来、野営地も
野営地も準備して必要
して必要な
必要な物を供給する
供給する、
する、
と約束した。
した。しかし朝
しかし朝になり電話
になり電話が
電話が通じなかったことを告
じなかったことを告げると、
ると、メサは先
メサは先に出発した
出発した。
した。
パラルま
パラルまでは一人
では一人で
一人で一日の
一日の行程、物資を
物資を運んでいたら二日
んでいたら二日を
二日を要した。
した。寝食充分
寝食充分なトンプ
なトンプキ
29
226
ンスの部隊
ンスの部隊は
部隊は翌朝、
翌朝、行程二日の
二日の行軍を
行軍を開始した
開始した。
した。
30
パラルに近
パラルに近づいても期
いても期待していた出
していた出迎えはなかった。
はなかった。しかしトンプ
しかしトンプキンスは自
キンスは自信を持っ
ていた。
ていた。彼は警護の兵と共に町の中央にある衛
にある衛兵本部へ向かい、
かい、部隊を
部隊を町に入れる許
れる許可を
貰おうとした。
うとした。あくま
あくまでも形
でも形式だけであった。
けであった。カランサ兵
カランサ兵が二階にあるジェネラル・イス
マエル・ロサ
マエル・ロサノ
ル・ロサノの事務所へ
務所へ案内した。
した。ロサノ
ロサノはアメリカ軍
はアメリカ軍を歓迎し
歓迎しなかった。
なかった。ビヤは未
ヤは未だ
北方に居るとして、
るとして、トンプ
トンプキンスの遠征
キンスの遠征目的
遠征目的に
目的に関する説明
する説明を
説明を聴こうとしなかった。
こうとしなかった。トンプ
トンプ
キンスはメサ大
キンスはメサ大尉から貴殿
から貴殿が
貴殿が歓迎しているとのメッ
歓迎しているとのメッセ
しているとのメッセージを受
ージを受け取っていることを伝
っていることを伝える
と、メサはビ
メサはビヤ兵に捕らわれたであろ
らわれたであろう、とロサノ
とロサノは応じた。
じた。結局町
結局町の外でキャ
でキャンプ地の
提供を受けることになり、
けることになり、一時間
一時間待たされてから案
たされてから案内人と共に出発した
出発した。
した。
部隊の
部隊の後を騒々しく「
しく「ビバ・
ビバ・ビヤ」を連呼する野次馬
する野次馬が
野次馬が続いた。
いた。トンプ
トンプキンスは問題
キンスは問題の
問題の
発生する恐
する恐れのある最
れのある最後尾にいた。
にいた。部隊の
部隊の先頭がロサノ
がロサノの指定する
指定する場
する場所に到着した
到着した。
した。トン
プキンスは前方
キンスは前方へ
前方へ進み、指定された
指定された場
された場所を見た。そこは三方
そこは三方を
三方を山に囲まれ、お碗の底の様
な地形で
地形で、周囲からの銃
からの銃撃を防ぎようがなかった
ぎようがなかった。
うがなかった。トンプ
トンプキンスはこの場
キンスはこの場所を拒否した。
した。
交渉している
交渉している間
している間に、彼は万一を考え、騎兵部隊を
騎兵部隊を西の山際に配置した
配置した。
した。トンプ
トンプキンスは、
キンスは、
群集が発砲したことをロサノ
したことをロサノに抗議したのに応
したのに応え、自分の
自分の責任ではないとロサノ
ではないとロサノは逃げた。
その間
その間メキシコの国
メキシコの国旗を掲げたカランサ軍
たカランサ軍が現れた。
れた。怒ったトンプ
ったトンプキンスはロサ
キンスはロサノ
はロサノに銃口
を向けるとカランサ軍
けるとカランサ軍は引き下がった。
がった。トンプ
トンプキンスがロサノ
キンスがロサノを放免すると
放免すると、
すると、ロサノは急
いで町
いで町の方戻っていった。
っていった。
トンプ
トンプキンスは交
キンスは交戦を避ける一方
ける一方、
一方、何時でも応
でも応戦できるよ
できるようパトロール部隊
パトロール部隊を
部隊を放ち、西
方の丘に配置した
配置した部隊
した部隊に
部隊にカランサ軍
カランサ軍が近づいたら発
いたら発砲するよ
するよう命じた。
じた。間もなく南
もなく南の丘に
カランサ軍
カランサ軍が現れた。
れた。トンプ
トンプキンスが発
キンスが発砲する前
する前に、隣にいた軍
にいた軍曹が頭を射貫かれ即
かれ即死し
た。更に西の側面に
側面に百人ほど
百人ほどの
ほどの新しいカランサ
しいカランサ部隊
カランサ部隊が
部隊が現れた。
れた。トンプ
トンプキンスは攻撃
キンスは攻撃を
攻撃を避け、
もと来
もと来た道をサンタ
をサンタ・クルスへ向
クルスへ向け後退を始めた。
めた。他にも騎兵
にも騎兵が
騎兵が一人死亡
一人死亡し
死亡し数人が重傷を
重傷を
負っていた。
っていた。馬に乗れない者
れない者は置いて行
いて行かざるを得
るを得なかった。
なかった。4月12日午後1
日午後1時半にな
っていた。
っていた。サンタ
サンタ・クルスへは三
クルスへは三時間の道のりであった。
のりであった。ロサノ
ロサノは単に追い返すだけでな
く、トンプ
トンプキンスの縦
キンスの縦隊百人を殲滅しようと、
うと、後を追った。
った。後衛部隊は
部隊は幾度か追撃を
追撃を退け、
更に一人の
一人の死者と
死者と数人の負傷者
負傷者を出しながら逃
しながら逃げ切ったトンプ
ったトンプキンスはサンタ
キンスはサンタ・クルスで
防御を固めると、
めると、三人の
三人の伝令を出し八マイル北
マイル北にいる第
にいる第十大隊に助けを求
けを求めた。
めた。第十大隊
が来てもロサノ
てもロサノの部隊は
部隊は去ろうとしなかった。
うとしなかった。更に第十一大
十一大隊が加わると形勢
わると形勢は
形勢は逆転し、
アメリカ軍
アメリカ軍は有利になった
有利になった。
になった。
パラルの戦
パラルの戦闘で事実上パーシングの
実上パーシングのビ
パーシングのビヤ追討は
追討は終わった。
わった。パラルの住民
パラルの住民が
住民が「ビバ・
ビバ・ビヤ」
を叫んだ事はカランサを不安
はカランサを不安に
不安にした。アメリカ人
アメリカ人への敵対
への敵対行為
敵対行為は
行為は日増しに増
しに増えているとパ
ているとパ
ーシングは報告
ーシングは報告した
報告した。
した。カランサはアメリカ軍
カランサはアメリカ軍に撤退を
撤退を求め、手始めに
手始めに物資
めに物資の
物資の輸送に
輸送に鉄道の
鉄道の
使用を
使用を禁止し
禁止し、次にアメリカ軍
にアメリカ軍に対して弱腰
して弱腰のオ
弱腰のオブ
のオブレゴンに代
ンに代えて、腹心で強硬派のルイ
硬派のルイ
ス・カブ
ス・カブレラをアメリカとの交渉
レラをアメリカとの交渉にあたらせることにした
交渉にあたらせることにした。
にあたらせることにした。メキシコとの全面
メキシコとの全面戦争
全面戦争に
戦争に直面
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32
33
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したウイルソン政府
したウイルソン政府は
政府は部分的
部分的撤退を
撤退を行い、北部の町、モルモン教徒
モルモン教徒が
教徒が移住しているコロニ
移住しているコロニ
ア・ドゥ
ア・ドゥブ
ドゥブランに本営
ランに本営を
本営を移した。
した。この時
この時パーシング追討軍
パーシング追討軍の
追討軍の目的は
目的は、ビヤ捕獲から
捕獲から、
から、カラ
ンサ軍
ンサ軍がビヤを逮
ヤを逮捕あるいは殺
るいは殺害するのを支
するのを支援するため無
するため無期限に止まる、に変更された。
された。
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以前ビ
以前ビヤ軍として戦
として戦ったことのある武装
ったことのある武装集団
武装集団が
集団が本隊を離れ、一年近
一年近くも憲
くも憲政軍の
政軍の手の届
かないドゥ
かないドゥラン
ドゥランゴ
ランゴ山中に
山中に潜んでいたが、
んでいたが、自暴自棄の行動に出た。隊長ナテ
隊長ナティ
ナティビダド・アル
ダド・アル
バレスはテ
レスはテキサスのビッグベ
キサスのビッグベンド地区にあるディーマーズ
にあるディーマーズの店で働いた経験
いた経験があったので
経験があったので、
があったので、
その辺
その辺りを攻撃
りを攻撃し
攻撃しようと国
うと国境へ向かっていた。
かっていた。5月5日、アルバ
アルバレスは八十
レスは八十人
八十人のグループ
のグループ
を二組に
二組に分け、多い方の六十人をグレンスプ
をグレンスプリングスにある米軍守
リングスにある米軍守備
米軍守備隊攻撃に
隊攻撃に向け、自ら
は残り二十人
二十人を連れ、ボキヤにある店
キヤにある店を略奪し、ディーマーを誘拐
ディーマーを誘拐した
誘拐した。
した。この襲
この襲撃による
米軍の損害は
損害は死者二人
死者二人、
二人、負傷者
負傷者三人、
三人、さらに八
さらに八歳の少年が死んだ。ジョージ・ラングホ
ジョージ・ラングホー
ン少佐が指揮するアメリカ陸
するアメリカ陸軍部隊はグレンス
軍部隊はグレンスプ
はグレンスプリング攻撃隊
リング攻撃隊を
攻撃隊を追ってメキシコの中
ってメキシコの中を百
六十八マイルも
十八マイルも入
マイルも入り込んで、
んで、五人を捕獲し
捕獲し誘拐された
誘拐された二人
された二人を
二人を解放した。
した。
この事
この事件を受け5月10日、ウイルソン大
ウイルソン大統領はアリゾ
はアリゾナ、ニューメキシコ,
ニューメキシコ,テキサス
の州兵四千五百
州兵四千五百人
四千五百人を招集し、三万八千人
八千人に警戒態勢を
態勢を取らせた。
らせた。
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21. Friedrich Katz, “The Life and Times of Pancho Villa”
Villa”, Stanford University Press, 1998, P567
22. John S. Eisenhower, “Intervention! The United States and the Mexican Revolution, W. W. Norton
& Co., Inc., 19131913-1917, P227
23.
Friedrich Katz, “The Life and Times of Pancho Villa”
Villa”, Stanford University
University Press, 1998, P571
24. Ibid. P573
25. Ibid. P575
26. Ibid. P577
27. Ibid. P587
28. John S. Eisenhower, “Intervention! The United States and the Mexican Revolution, W. W. Norton
& Co., Inc., 19131913-1917, P262
29. Ibid. P264
30. Ibid. P269
31. Ibid.
Ibid. P270
32. Ibid. P271
33. Ibid. P274
34. Friedrich Katz, “The Life and Times of Pancho Villa”
Villa”, Stanford University Press, 1998, P579
35.
James A. Sandos, “Rebellion in the Borderlands, Anarchism and the Plan of San Diego,
19041904-19, P145
36. John S. Eisenhower, “Intervention! The United States and the Mexican Revolution, W. W. Norton
& Co., Inc., 19131913-1917, P287