わたしの学生時代

わたしの学生時代
播磨
和代
1968 年教養科卒業
「わたしの学生時代」と聞くだけで、何か
暖かい気持ちになる。
もう青短を卒業して四十数年・・・私にとって本当に楽しい大切な思い出いっぱいの 2
年間でした。
2012 年に短大の大改組がありましたが、私自身も短大のいろいろな節目にかかわってき
た気がします。
教養学科の 1 期生であること。そして入学し、旧第二シオン寮に入寮。その 1 年生の秋
には猿楽町に新築されたシオン寮へ引越し、新旧両方を経験できたこと。福岡から出てき
た私には初めて親元を離れた不安も有りましたが、学校ではすぐに仲良しもでき、寮では
優しい 2 年生に何かとよくしていただき学校生活と共に思い出深い寮生活となりました。
1 年生の前期だけを過ごした旧寮では畳の部屋の四隅に小さな文机、夜は布団を敷いて四
人頭をつき合わせて寝たものでした。夕方の礼拝で歌った賛美歌からなぜか故郷の家を思
い出し胸が一杯になり、お部屋に帰ってからは涙が止まらず・・・心配した先輩が一生懸
命慰めて下さった事も懐かしく思い出されます。
お休みの日も放って置けなかったのか、先輩のデイトに迄付いて行ったりした困った後
輩でした。
秋に移った新寮は、当時としてはおしゃれで設備も他に類を見ないほどの素敵な建物で、
とてもうれしかったのを覚えています。
4 階建てで、各階の広い踊り場の壁にアイロン台がはめ込みになっており、簡単な調理場
も有る。一部屋は 4 人部屋でしたが、本棚付きの勉強机に、2 段ベッド、クローゼットに洗
面台。女子寮のお手本のようで、見学に来られる方もあるのだと聞いて自慢に思ったもの
でした。
前期、後期それぞれにお世話になった先輩は、この年になってしまうと、もう見かけは
傍から見ればどちらが年上でどちらが年下かわからないのに、今でも頼りにしてしまう「先
輩」なのです!
学校生活では入学して一月位たった頃でしょうか。中軽井沢の寮にオリエンテイション
に行きました。
その時の写真を見ると、卒業迄ずっと仲良しだった 6 人グループがもうできていたよう
です。一緒に学び、一緒に遊び、一緒に悩み、一緒に泣いた友でした。今は一人、一番明
るかった子が天に召され、5 人になっているのは残念です。
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みんなの絆を強くしてくれたこの中軽井沢寮も 2 年前、閉鎖されました。卒業後、いつ
かまた友と訪れたいと願っていた私は、奈良に住む友と閉寮 10 日程前に 2 泊 3 日で訪れる
ことができ、幸せでした。この中軽井沢寮の礼拝堂は、旧第一シオン寮の礼拝堂で、私が
入寮式をしていただいた建物であり、再び会えた感謝とお別れもしてきました。
何年か年上の卒業生にお聞きすると中軽井沢の寮は知らないとおっしゃるので、これも
私達(1968(昭和 43)卒)位から始まったものだったのでしょうか?だとすると私は最初
と最後にお世話になったのかもしれません。
教養科の授業では、幸田学長自らの授業を受けたこと。昨年亡くなられた清水英夫先生
の授業では「来週は僕の友人の田英夫君をお呼びして講義してもらいます。僕よりハンサ
ムなので楽しみに!」と言うような事をおっしゃって、後に国会議員になられた田さんの
魅力有る授業を受けたこと。
そして一番思い出深いのは 2 年生で選択したゼミ、比較文学の担任だった平井照敏先生
の授業…少人数で先生との距離も近く、贅沢な教育を受けさせていただいたのだと思いま
す。
今、学校との繋がりは同窓会を通してです。
出身地福岡を離れ、徳島に嫁いだ私には親類も学生時代の友人も居ませんでした。20 年
前、青短同窓会の徳島支部ができ、お誘いをいただいて参加させていただいています。
長年のお付き合いで気心も知れほとんどが年上のお姉さま方なので頼りにさせていただ
くことが多く、心強い存在で本当にありがたく思っています。ただ一つ残念なことは、私
達年代の後の若い方の参加がなく、淋しい限りです。どうやって魅力有る会にして若い方
に出てきていただくか、それが目下の最大の課題です。
若き日を同じ学校、同じ空間で過ごした言葉では表現しがたい雰囲気を大切に、いつま
でも素敵な時間を分かち合えたら…そう願っています。
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