中近世ドイツにおける裁判制度としての 魔女裁判に関する考察

滋賀大学大学院教育学研究科論文集
51
第 17 号,pp. 51-61,2014
原著論文
中近世ドイツにおける裁判制度としての
魔女裁判に関する考察
川
村
直
弘†
Naohiro KAWAMURA
キーワード:魔女,魔女裁判,神聖ローマ帝国,ドイツ,歴史
は
じ
め
に
中近世のヨーロッパ各地で行われた,悪魔と
契約して魔法を用い社会に害を与える人々に対
第1章
魔女裁判の成立とキリスト教
第1節
魔女裁判成立以前の魔法とキリスト
教の態度
する迫害は,「魔女狩り」という言葉を用いて
本節では当時のヨーロッパ社会における魔法
語られる。魔女と呼ばれた人々が,現代に生き
の実像について考察する。当時の魔法は大きく
る我々には許容し難い理由で殺害されたことは
2 つに分けられる。1 つは主として精霊,降霊
事実である。しかし,多くの人々が魔女の凄惨
術を用いる魔法である。この魔法の担い手は聖
な死のみに目を奪われ,その詳細な姿に目を向
職者など,当時の知識人層に位置する人々だっ
けようとする者は少ない。
た。もう 1 つはまじない的な魔法である。この
当時の魔女たちは他の犯罪者たちと同様に告
魔法の主たる担い手は共同体の中の女性であっ
発され,法廷で取り調べを受け,判決内容に基
た。この魔法は不能結びという男性を性的不能
づいて刑を受けた。そのような側面を強調して,
にする効果を持った印章や,薬草の知識,呪術
魔女迫害は,魔女に対して行われた裁判として
的な方法を用いた実用的なものであった。
捉えることが出来る。故に,本論ではドイツに
これらの魔法は当時のヨーロッパ社会におい
焦点をあて,当時の合法的な裁判制度の下で行
ては一般的に存在しうるものと考えられていた
われた魔女裁判についての考察を行う。その具
ため,単に魔法が使えるという理由で人々が罰
体像に触れることによって,私は未だ不鮮明な
せられることは無かった。魔法を用いた人が罰
部分が多い魔女裁判の制度的な実像を明らかに
せられるのは,魔法を凶器にして人や社会に害
したい。
を与えた場合,すなわち「害悪魔術 maleficium」を用いた場合などの限定的な状況のみで
あった。後に魔女裁判を開始するカトリック教
会も 1080 年に教皇グレゴリウス 7 世がデン
マーク王ハーラル 3 世に対して,年老いた女性
†社会科教育専修 教科教育専攻
指導教員:宇佐美隆之
や聖職者たちに嵐や病気の責任を負わせ残酷な
方法で殺害していることを手紙で非難した例が
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あることから,当時は魔法を無暗に裁こうとは
ら,制度成立当初は混乱を極めた異端審問制度
していなかったと考えられる。
であったが,14 世前半には制度として安定期
に入った。異端審問が増加するに連れて,高名
第2節
異端審問制度の成立
本節では後に魔女裁判に大きな影響を与える
な審問官が自身の行った判例や,審問手続きを
まとめた手引書を作成するようになる。トゥー
こととなる,カトリック教会内における異端審
ルーズの審問官ベルナール・ギーが 1323 年頃
問制度成立の経緯について述べる。
に作成した『異端審問の実務』等がその代表的
カトリック教会の華美で形式化した儀礼様式
なものと言える。この手引書が他の審問官たち
や,教会を中心とする教会組織に反対する異端
に普及することによって,異端審問制度は統一
諸 派 の 1 つ で あ っ た カ タ リ 派 は 1170 年 頃,
的な審問過程を確立させた。異端審問制度が成
トゥールーズ近郊のサン=フェリクスで宗教会
立し,異端者の捜査,撲滅に成果を挙げていく
議を開催した。この新たな教会組織形成の動き
一方で,魔法はその管轄の対象になっていな
をカトリック教会は何としても阻止する必要が
かった。審問官の手引書においても極少数の例
あった。当初,異端者を捜索,撲滅する任務は
が見られるのみであり,この時期の魔法は従来
各地の司教区に設置されていた裁判所に属する
と同じように扱われていた。
聖職者によって担われていた。しかし,南フラ
ンスの世俗諸侯が異端の庇護者だったことや,
在地聖職者の神学的知識の不十分さが原因とな
第3節
異端化する魔法と魔女の誕生
本節では 14 世紀後半から 15 世紀中頃に行わ
り,異端の拡大を抑制することは出来なかった。
れた,新たな異端としての「魔女」概念の形成
教皇は状況を打開すべく,教皇特使の派遣,教
について述べる。
皇令による世俗諸侯,在地聖職者への統制強化
具体的な起源が不明であるものの,1320 年
といった対応を行ったが,目立った成果を上げ
に枢機卿ギョーム・ゴダンが教皇ヨハネス 22
ることはなかった。
世の名でトゥールーズとカルカソンの審問官に
1208 年に教皇特使ピエール・ド・カステル
「…デーモンとの間で明文化された契約を締結
ノーが南フランスの諸侯のレモン 6 世の息のか
する者」 1) を取り締まる全権を委ねていること
かった者に殺害されたことを契機にアルヴィ
や,1326 年もしくは 1327 年の勅書『Super il-
ジョア十字軍が開始された。これによって,在
lius specula』においても同様の記述があるこ
地聖職者の管轄であった異端撲滅の主体は世俗
とから 2),14 世紀前半には魔女の概念の前身と
諸侯へと移った。この十字軍が北フランス諸侯
も言える,悪魔と契約した異端の概念の定型は
の領土獲得戦争と化したことは論ずるまでもな
完成し,教皇の耳に届いていたと思われる。し
い。グレゴリウス 9 世が教皇に就任した頃,異
かし,この段階では,空中飛行,サバトへの参
端との戦いについて 1 つの結論が出る。それは
加,悪魔との性交の概念は未だ姿を現しておら
在地の聖職者や諸侯の力に頼っていては異端撲
ず,また,1390 年代までの訴訟件数も年平均 1
滅は完遂出来ないということであった。
件程度であった。
1232 年に各地の司教に向けて大勅書『Ille
異端としての魔女の概念形成の開始場所につ
humani generis』が公布された。これによりド
いても諸説ある。ベーリンガー 3)はアマデウス
ミニコ会士を中心とした聖職者たちが異端追及
8 世統治下の 15 世紀前半のサヴォア公国にお
の任を引き受けることとなり,異端との戦いの
いて,従来はらい病患者やユダヤ人に対して向
任務の主要な担い手は,教皇直属の Inquisitor
けられていた偏見が転嫁され,概念形成が進ん
すなわち異端審問官 (以下審問官) へと移った。
だと考えている。また,デッカー 4)は同時期に
これが一般的に異端審問制度と呼ばれる制度の
審問官とヴァルド派の抗争が繰り広げられてい
始まりである。
たアルプス山麗において,当地に以前から存在
『Ille humani generis』において審問官の具体
していた異教的な習慣とヴァルド派の異端概念
的な規定や権限が言及されていなかったことか
が融合し,魔法の使用が異端的行為として審問
中近世ドイツにおける裁判制度としての魔女裁判に関する考察
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官の前に現れたことが,始まりであるとしてい
く法的な根拠の整備も進んだ。その動きは教皇
る。当時のヨーロッパ社会には第 1 節で述べた
が審問官に新たな権限を付与する形式で行われ
2 種類の魔法とは別に,キリスト教が受容され
た。1451 年のニコラウス 5 世,1457 年の教皇
る以前の異教的な信仰やそれに関連する儀式が
カリクトゥス 3 世,1459 年に教皇ピウス 2 世
残っていた。906 年頃に出された『 司 教 教 令 』
が立て続けに同様の権限を審問官に対して認め
に記載がある異教の神との会合 や,1400 年の
ていることから,この時期を以て魔女は新しい
ピエモンテ,ドフィネに存在したストリンゲン
異端としてカトリック教会全体に定着し,異端
信仰がこれに該当すると考えられる。
審問制度において魔女を裁く準備が完了したと
カノーン・エピスコピー
5)
15 世紀初頭には魔女の概念は更なる進化を
考えられる。
遂げた。教皇エウゲニウス 4 世の 1437 年の勅
書の記述 6)では,悪魔との契約に加えて,魔法
第4節
の使用と聖体の濫用の結びつきが強調されてい
本節では異端審問制度の下で行われた魔女裁
る。しかし,この段階の魔女の概念は,魔女の
判の推移について考察する。15 世紀の後半か
概念が誕生した地域を中心とした局地的な概念
ら末頃まで活発に行われた異端審問制度による
であったと思われる。
魔女の概念がヨーロッパ全土に拡散する契機
となるのは,1431 年から 1439 年に行われた
異端審問制度下の魔女裁判の推移
魔女裁判は,ドイツ西部のライン川の沿岸地域
やフランスやスイス等の地域で行われ,犠牲者
の数は 3000 人を超えると考えられている。
バーゼル公会議である。この会議は,当時カト
魔女裁判の中心となったのは,魔女の概念を
リック教会で問題となっていたカトリック教会
生み出した聖職者,とくに審問官だった。在地
の至上決定権に関する議論の場となったという
の聖職者の中にも魔女裁判を積極的に行う者た
点で,他の公会議とは一線を画したものだった。
ちがいた。
会議の直接的な議題となることは無かったもの
悪魔学は魔女裁判のイデオロギーの根幹を成
の,各地から集まった多数の参加者の間で交わ
すものだった。新しい概念である魔女の概念の
された情報交換によって魔女の概念はヨーロッ
正当性を証明するために審問官が行った魔女裁
パ全土に拡散したと考えられている。また,
判の判例が利用された。審問官と悪魔学は互い
1437 年に教皇支持派のフェラーラと公会議主
の需要と供給を満たしながら魔女裁判の正当性
義者のバーゼルに公会議が分裂した際に,公会
を確立し,多くの犠牲者を出した。悪魔学の
議主義者が擁立した対立教皇フェリクス 5 世が,
隆盛は 1486 年に『魔女に与える鉄槌
Malleus
魔女の概念の起源の 1 つと考えられているサ
Maleficarum』が出版されたことによって最高
ヴォア公国の支配者アマデウス 8 世であること
潮を迎えた。このような悪魔学の著作は魔女の
から,彼の影響下で魔女を裁く動きがサヴォア
実在を承認し,同時に「魔女」の性別や,魔女
公国を超えて全ヨーロッパに拡大したという見
の空中飛行,サバトへの参加,悪魔との性交と
方も存在する
いった概念を作り上げた。一方で,これらの概
7)
。
バーゼル公会議の前後を境に法学者と神学者
念は悪魔学の書物の中でのみ認められており,
たちは,新たな異端に関する論文を発表した。
教皇関係の文書の中にはそのような記述は一切
1437 年の『蟻塚
見られない。また,それらの書物は出版の際に
『女性の擁護者
Formicarius』や,1440 年の
Chanpion des Dames』がそれ
教皇庁の認可を得る必要が無かったことから,
に当たる。これらの著作に共通していることは,
悪魔学の内容は必ずしも魔女に対するカトリッ
魔女集団の実在を肯定している点であった。審
ク教会の総意を表したものではないと考えられ
問官たちは魔女を裁くためのイデオロギーとし
る。
てこれらを受け入れた。1458 年頃にスイスの
また,異端審問制度による魔女裁判には,そ
レヴェンデーナ渓谷で行われた魔女の迫害には
の制度の構造に由来する大きな欠点が存在した。
それらの著作の内容が大きく反映されている。
審問官インスティトーリスが 1485 年にインス
魔女の概念が成熟するのと同時に,魔女を裁
ブルックで行った魔女裁判がその最たる例と言
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える 8)。審問官が特定の地域で異端審問を開始
開された魔女裁判は各地で発生し,その件数は
する際には,その地の司教区を管轄する司教と,
以前よりも増加していた。魔女裁判はカトリッ
世俗領主の許可と援助を得る必要があり,彼ら
ク地域,プロテスタント地域の両方で発生した。
に反対された場合には,審問官は活動出来な
スイスではカルバン派の地域で大規模な迫害が
かった。そのような失敗の可能性を常に孕んで
発生した。また,アイルランド等,それまでは
いた異端審問制度における魔女裁判の件数は
異端審問制度でさえ足を踏み入れたことがない
徐々に減少し,15 世紀の末には一時的に沈静
地域でも独自の法律が制定され魔女裁判が行わ
化する。
れた。このように各地で犠牲者を出した魔女裁
判再開後の最初の熱狂は 1580 年代の終わりに
第2章
魔女裁判の世俗化と社会の変化
ピークを迎えた。
魔女裁判の再発と変容
出版された。この時期の悪魔学の発展はプロテ
迫害の過熱に合わせて,悪魔学の書籍も再び
第1節
本節では審問官による魔女裁判の沈静化から
スタントの聖職者も加わって,超宗派的に進ん
半世紀後に再開された魔女裁判について考察す
だ。しかし,この時期の魔女裁判において悪魔
る。この時期の魔女裁判の大きな特徴は,従来
学はその迫害を先導する役目を果たすことは無
の異端審問制度とは異なり,世俗領主の裁判権
かった。
の下にある世俗裁判で行われるようになったと
いうことである。
第2節
魔女裁判の世俗化を促した諸要因
15 世紀末を境に一時的な小康状態に入った
本節では,上述した魔女裁判の管轄移行の原
後も局地的な魔女裁判は散発していた。これら
因について考察する。この変化は当時のヨー
の魔女裁判がどちらの裁判制度で行われたのか
ロッパ社会に生じていた様々な変化が結びつい
は判然としない。しかし,この時期に発生した
て生じたと考えられる。
重大な変化がカトリック教会による魔女裁判を
1 つ目に考えられる理由は,環境的な変化で
妨げる大きな要因の 1 つであると考えられる。
あ る。フ ェ イ ガ ン に よ る と,ヨ ー ロ ッ パ は
この時期のカトリック教会は以前ほど影響力
1300 年代初頭の極めて寒冷な時代を境に小氷
を失っていた。1517 年に開始された宗教改革
河期と呼ばれる不安定な寒冷化に襲われる時代
には,教皇の地方に対する影響力を確実に奪っ
に入ったと考えられている 9)。激しい天候の変
ていた。カトリック教会はプロテスタントの拡
化は飢饉を引き起こし,食物価格の高騰と相
大を抑えるために全力を注ぐ必要が生じ,カト
まって深刻な食糧危機を引き起こした。魔女の
リック教会に直接悪影響を与えない魔女を裁く
概念が生まれた地域と考えられているアルプス
ことは後回しにされた。また,後に魔女裁判を
山脈の麓の地域は環境悪化の影響を最も被った
行うプロテスタントも,この時期は宗派の拡大
地域の 1 つだった。温暖な時期に切り開かれた
と安定化に努めており,魔女を裁く余裕は無
村落は,元々,土地が貧弱な限界耕作地帯であ
かった。16 世紀の前半はそのような宗教的闘
り,飢饉の影響を大きく受けた。また,1550
争の最中にあり,それによって異端審問制度に
年頃からの寒冷化の波はアルプス山脈の氷河の
おける魔女裁判は抑制されたと考えられる。ま
下降を促し,多くの集落が成長した氷河に押し
た,この時期はインスティトーリスがインスブ
つぶされ,雪解け水が引き起こす洪水によって
ルックで魔女裁判を完遂できなかった時以上に
多くの耕作不能地が生まれた。当時の人々の日
各地域で世俗権力の中央集権化が進展していた
記からは寒冷な気候が 17 世紀に入っても続い
時代でもあった。そのような状況が重なり,こ
たことが明らかになる。
の時期には,異端審問制度における魔女裁判は
このような急激な気候の変化は神罰や,魔法
実質的に再開不可能な状況に陥っていたと考え
による天候操作に結び付けられた。エスリンゲ
られる。
ンの説教師ナオゲオルウスは 1562 年に発生し
イエズス会士カシニウスの報告によると,再
た霰と雹を魔女と組み合わせて魔女裁判を行い,
中近世ドイツにおける裁判制度としての魔女裁判に関する考察
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その正当性を論じた彼の著作は 19 世紀に至る
権力が疑わしい者を裁判にかけ,罰することが
まで重版された。
可能となり,魔女が裁判にかけられることが容
2 つ目に考えられる理由は,メディアの発達
易となった。
による情報の流通性の変化である。1450 年頃
にグーテンベルクが実用的な活版印刷の技術を
第 3 節 世俗裁判制度における魔女裁判の推移
生み出したことによって,書籍が社会に与える
本節では,上述してきた世俗裁判化した魔女
影響は変化したと思われる 10)。16 世紀に入る
裁判の具体的な姿について述べる。法廷を世俗
と,宗教改革の過熱による書籍の増加と共に,
裁判所へ移したことによって,魔女裁判の形態
数枚の紙片にまとめられた“ビラ”や,“パン
は多様化する。魔女を裁くという本来の目的は
フレット”といった新たなメディアが誕生した。
失われていないものの,魔女裁判を主導した者
このメディアは当時の社会に発生していたセン
によって,その意味合いは大きく変化した。
セーショナルな事例を好んで取り上げた。おそ
世俗裁判化した魔女裁判において,裁判の主
らく,その事例の中には魔女裁判に関するもの
たる動機となったのは,社会の不条理の代償を
も含まれていたと考えられる。また,印刷物の
誰かに払わせたい民衆からの突き上げであった
中に描かれた挿絵が,人々が魔女の姿を想像す
と考えられる。これは 1562 年のレッヒベルク
る手助けを果たしたと思われる。
伯領の魔女裁判の記録や,1657 年に小都市ア
3 つ目の理由はローマ教皇庁の変化である。
モルバッハおよびその周辺で住民が出した陳情
第 1 節で述べた教皇の影響力の低下と共に,教
書から明らかになる。この迫害の現場に悪魔学
皇庁の方針自体にも変化が生じる。
や権力者の扇動は重要な役割を演じなかった。
教皇パウルス 3 世は 1542 年の勅書『Licet
ab initio』を以て「ローマ並ビニ全世界異端審
このような形で開始された魔女裁判は,君主の
権力機構が脆弱な司教領や,中小規模の領邦,
問聖省スナワチ検邪聖省」を設立させた。それ
大領邦の中の飛び地といった地域で頻発した。
まで,教皇庁の魔女に対する姿勢は,教皇の魔
領内に領主が居住しておらず,代官が支配を任
女に対する意識に左右されていた。しかし,検
されていたリントハイムにおける魔女裁判や,
邪聖省内の人材が慎重路線で固められることで,
また,俗人,聖職者に限らず魔女の存在を熱心
教皇の意思に関係なくその路線を維持していく
に信じ,その撲滅を願う人物が政治の中心に存
ことが可能になった。1575 年にセルモネータ
在したことが魔女裁判の危険性を増大させた。
の魔女裁判の際に検邪聖省から現地の審問官へ
そのような人々は聖俗の境に関係無く存在した
送られた指示や,1580 年に教皇領アヴィニョ
と思われる。自由都市オッフェンブルクにおけ
ンにおける魔女裁判の際に教皇が現地の審問官
る魔女裁判では,参事会内の強硬派が魔女裁判
へ下した指示 からも,その姿勢は明らかにな
を主導したことが明らかになっている。
11)
る。また,検邪聖省が公認の手引書を作成し,
審問官が精力的に活躍しなくなった後も,聖
異端審問の手続きを改めようとする試みも行わ
職者による魔女裁判は引き続き行われた。聖界
れた。1621 年に検作成された手引書 12) の中に
諸侯と呼ばれる聖職者たちの領土は,一般的に
は,これまでヨーロッパ各地で行われてきた魔
聖堂参事会や領内の都市の独立傾向が高く,在
女裁判の手続き的な不備と,悪魔学に対する教
地の周辺勢力の影響を受けやすかった。それ故
皇庁の不信感が強く現れていた。この変化に
に司教は領内における魔女裁判の要求を抑える
よって,異端審問官の下での魔女裁判が再発す
ことが出来ず,なし崩し的に魔女裁判を行うし
る可能性は無くなったと思われる。
かなかった。また領内の魔女裁判に乗じて反抗
4 つ目の理由は,世俗裁判の裁判形態に変化
が生じたことである。この時期にドイツの司法
的な都市の代表者の粛清が行われた事例もあっ
たようだ。
制度は,従来の弾劾形式とローマ法を受容した
また,宗教改革に端を発したカトリック教会
ことで生まれた糾問式が併用される裁判形式に
の分裂が魔女裁判に与えた影響も大きかったと
変化した。この過程で原告が存在しなくとも公
思われる。カトリック教会とプロテスタントの
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間で去就に揺れる地域で魔女裁判が頻発してい
的な裁判の過程について考察する。魔女裁判は
る。ベーリンガーはカトリック教会内の対抗宗
(1) 逮 捕・拘 束,(2) 予 備 審 問,(3) 本 審 問,
教改革において,自分自身と他者への厳しさを
(4) 判決・刑執行の行程で行われたと考えられ
中心に養成された初期の世代の聖職者が迫害の
る。
中心となっている可能性を指摘している。
(1) 逮捕・拘束は,文字通り,魔女と思われ
神聖ローマ帝国の司法機関や教皇庁が魔女裁
る容疑者を逮捕,拘束する段階である。当時の
判に干渉した事例もいくつか存在する。しかし,
裁判制度には 2 通りの手順が存在した。原告が
元々影響力が弱い皇帝や,影響力が衰えていた
特定の人物の容疑について公権力に訴え出るこ
教皇の介入は抑止力にはならなかった。オッ
とによって開始される弾劾形式と,公権力が自
フェンブルクのアンナ・マリア・ホーフマンの
発的に行動し,疑いのある人物を捕えて開始さ
事例では,彼女の親戚が帝室裁判所を動かし,
れる糾問形式である。魔女裁判もそのような 2
オッフェンブルクに対して裁判無効の訓令を突
つの告発形式に則って行われた。弾劾形式の場
きつけることに成功した。しかし,この訓令は
合は原告からの訴えを受けて公権力が容疑者の
無視され,アンナは処刑された。また,1656
逮捕に動く場合や,容疑者の居住地が判明して
年にパーダーボルンの事例では,教皇庁が直接
いる場合は,出頭命令が出された可能性が考え
介入を行い,一時的に事件は終息に向かったが,
られる。容疑者が逃走を図った場合には再発を
最終的に多くの被害者を出した。
封じるために監視下に置かれる場合もあった。
魔女裁判が暴走すると,その地域の資源すべ
容疑者が近隣の地域に逃亡した際には逃亡先の
てを消耗が底をつくまで迫害は終結しなかった。
権力者に連絡を送り,その地の司法権によって
当時の裁判制度はかなりの資金を必要とする行
魔女裁判の実施を要請する場合もあった。裁判
為であった。迫害が長期化した地域では,無差
費用は糾問形式の場合は原則として原告が負担
別な処刑による人的資源が損耗し,裁判費用の
し,弾劾形式の場合は公権力が負担した。
負担によって支配権力の財政が打撃を受けた。
(2) 予備審問は容疑者に対する直接的な尋問
ヴュルツブルクでは,過熱した魔女裁判の結果,
や,証人等に対する尋問によって証拠や徴表を
最終的には領主の相続人までが処刑された。エ
集め,(3) 本審問の際に必要な情報収集や,調
ルヴァンゲンにおいては魔女裁判を主導してい
書を作成する段階である。証拠や徴表は公権力
た参事会の中で魔女の告発が行われるほどの状
による調査や,容疑者に対する尋問,人々の証
況に陥った。一方で国家体制が整った大領邦に
言によって集められたと思われる。詳細は後述
おいては,独自の立法によって魔女を裁くこと
するが,魔女が拷問の結果名前を挙げる「サバ
が可能になったにも関わらず目立った魔女裁判
トで見かけた人物」はここで役立つものと思わ
を経験しなかったザクセン大公国のような例も
れる。
存在する。
(3) 本審問は (2) 予備審問によって作成され
このようなヨーロッパにおける魔女裁判は
た調書や尋問記録を元に参審員を含めて容疑者
18 世紀まで続き,ドイツでは 1775 年に最後の
の尋問を行い,裁判の判決を明らかにする段階
魔女の処刑が行われた。また,1782 年にスイ
である。この段階で容疑者は被告に代わり,本
スのカルバン派の管区グラールスにおいて行わ
格的な裁判が開始される。最も重要視されたの
れた魔女裁判を最後にヨーロッパ大陸における
は被告の自白であった。必要である場合には拷
合法的な魔女裁判は終焉を迎えた。
問が行われた。拷問は裁判官の認可の下,刑吏
によって行われ,地域によって様々な拷問が行
第3章
魔女裁判の具体的な姿
われた。拷問によって被告が自白を行った場合
は,後日改めて被告に対して自白内容を確認す
第1節
世俗裁判における魔女裁判の具体的
る機会が設けられた。被告が拷問に耐え,容疑
な手続き
を否認し続けた場合,被告は無罪となった。ま
本節では世俗裁判で行われた魔女裁判の具体
た,被告自身や,被告の関係者によって出され
中近世ドイツにおける裁判制度としての魔女裁判に関する考察
た免責の運動や,僅かな例ではあるが外部の権
57
“das Reichskhundig Exempel”」と呼ばれたト
力からの干渉によって裁判が停止される場合も
リアー市長フラーデに対する魔女裁判である 13)。
あった。裁判の内容は裁判官や参審員の間で協
1587 年の春からの凶作に加えて,領内に選
議され,判決が言い渡された。
帝侯に対する魔術攻撃の噂が流れ始める。同時
(4) 判決・刑執行は,(3) 本審問において導
期にサバトへ参加した容疑で尋問を受けていた
き出された結果について改めて確認を行い,裁
2 人の少年が選帝侯への魔術攻撃の首謀者とし
判の判決を下す段階である。判決の際には被告
てフラーデの名を挙げると,その後も同様の告
の前で改めて容疑が朗読され,被告はその内容
発や密告が相次いだ。フラーデや彼を擁護する
を改めて認める必要があった。被告の罪状が読
市参事会の努力も空しく,更なる告発が続くと,
み上げられ,その内容を被告が認めたのち,裁
フラーデはトリアーからの逃亡を企て,自宅に
判の責任者によって判決が言い渡された。その
拘禁され,1589 年 3 月に逮捕命令が出された。
後,裁判長が持っていた杖を折って被告の目の
拷問を含んだ 5 回の審問の中でフラーデは自身
前に投げるという行為が当時のヨーロッパの裁
にかけられた容疑のすべてを自白した。自白し
判における慣習であった。この行為によって,
た内容の中には,悪魔との性交,悪魔との契約,
被告は刑吏に身柄を引き渡され,刑場まで連行
魔女のサバトへの参加等が含まれた。裁判は 9
された。刑の執行の際にも,刑の執行を見物す
月 13 日の 5 回目の審問において結審し,18 日
るために集まった群衆の前で被告の罪状が読み
に市参事会で判決が言い渡され,フラーデは処
上げられた後,刑が執行された。魔女に与えら
刑された。
れる刑は火刑と決まっていた。通常,火刑は被
この裁判の特徴はフラーデ本人を含めた彼の
告が生きたままの状態で行われるのが常であっ
関係者が無罪の証明のために奔走したことであ
たが,魔女裁判では判決の際に温情として一旦
る。彼は領内の様々な権力に接触して裁判を回
被告を絞殺した上で火刑を行うという形式をと
避する方法を模索している。彼の助命運動は予
るのが常であった。しかし,判決や (3) 本審
備審問過程の前の段階で終了しているが,この
問で一旦自白した内容を翻した場合等は被告が
ような助命運動は外部に協力者が存在すれば,
生きたまま火刑に処される場合もあった。
判決が決するまで実施することが出来たと考え
世俗裁判制度における魔女裁判は上述したよ
られる。
うな過程で行われたと考えられる。また,具体
2 つ目の事例は 1600 年初頭にミュンヘンの
的には明記していないが,当時の裁判は,裁判
法廷で行われたパッペンハイマー事件と呼ばれ
官のみで判断し難い要因が生じた際には,裁判
る魔女裁判である 14)。この魔女裁判は一家が便
を一時停止し,近隣の大学等に裁判の鑑定書を
壺掃除や乞食を生業とし,その結果,一家が予
送付し,判断を仰がなければならないという規
てから悪評を被っていたことも含めて,魔女裁
定が存在した。この仕組みは魔女裁判が開始さ
判の事例としてよく取り上げられる裁判であ
れ,判決が出されて刑が決するまでのどの段階
る 15)。
においても必要であれば行われた。
1600 年 2 月,ガインドルと呼ばれる窃盗犯
が自身の罪に鍵屋兄弟が手を貸したことを証言
第2節
魔女裁判とカロリナの裁判過程との
したことで,鍵屋の兄弟とその両親,年の離れ
比較
た弟からなる一家が逮捕された。聴取の結果,
本節では第 1 節で述べた魔女裁判の手続きを
魔法による犯罪を行った可能性があると判断さ
当時行われた魔女裁判の実例と照らし合わせて
れた一家の身柄はミュンヘンに移された。尋問
眺めていく。以下で示す 3 つの魔女裁判の事例
が開始された 4 月中に一家は魔女術,教会窃盗,
はどれも第 1 節で述べた魔女裁判の手続きに概
強盗,放火,謀殺といった容疑を自供した。ま
ね則って行われた魔女裁判であると思われる。
た,彼らの自供を元に共犯者リストが作成され,
1 つ目の事例は 1587 年からトリアー選帝侯
新たな逮捕者が出た。共犯者の数名を助けるた
領で開始され,後に「帝国中によく知られた例
めに奔走していた人物も共に逮捕され,7 月中
58
川
村
に一家や共犯者の大半が処刑された。
また,この裁判の特徴的な点はその容疑であ
直
弘
るが,これは従来の害悪魔術の要素と異端の魔
女の概念を包括的にまとめたものとなっている。
る。一家の容疑は,異端としての魔女の概念で
このことは魔法や魔女に関する罪について言及
はなく,一般的な犯罪行為と関連があるまじな
された 44 条 17) や,第 2 節で概観した 3 つの実
い的な魔法や害悪魔術の行為によるものであっ
例で容疑の内容が異なることからも間違いない
た。第 3 節で詳述するが,このような,一般的
と思われる。
な犯罪行為と害悪魔術の組み合わせの魔女裁判
カロリナにおいて厳守が求められた,入念な
は,特定の地域における連続した魔女裁判の起
調査による証拠,徴表の発見は,不可能犯罪で
点となる魔女裁判に見られる特徴であると思わ
ある魔女の罪に対してはまったく見込めなかっ
れる。
た。そのため,「疑いなき非行」という,明確
次に挙げるのは 1593 年にネルトリンゲンで
にされた場合に拷問を行うことが可能となる条
行われた宿屋の妻マリア・ホルに対する魔女裁
件が重要となった。この条件の 1 つは,既に有
判である 。11 月 5 日から開始された 15 回の
罪判決を受けた者が自発的に共犯者の名前を挙
尋問の中で彼女に対して行われた拷問は 62 回
げた場合だった 18)。私はこの条件が魔女裁判に
16)
にも渡ったが,彼女は容疑を否認し続けた。
おいて,容疑者が「魔女のサバトで見た人物を
1591 年の 9 月に入ると市参事会において彼女
挙げる行為」に結びつくと考える。特定の地域
をどのような条件で釈放するかが話し合われ,
で魔女裁判が継続して行われると,具体的な容
鑑定の結果,彼女は獄中食事代金の支払いと裁
疑が存在せずとも,既に裁判にかけられている
判当事者への復讐放棄,裁判の口外禁止の宣誓
容疑者が行う「疑いなき非行」の証言によって,
と自宅軟禁を条件に無罪で釈放された。自宅軟
容疑者の量産が可能となった。魔女裁判の実例
禁は徐々に緩和され,最終的には全面解禁され
において,具体的な容疑の内容が異なっている
た。
ことの理由の 1 つにはこのことが挙げられる。
この裁判の特徴的な点は,最終的に容疑者が
上述した魔女裁判のメカニズムは必然的に拷
無罪とされている点である。この事例からは被
問の重視に繋がった。カロリナは徴表を以て軽
告が無罪になった場合の魔女裁判の結審の形が
率な拷問を戒めている反面,拷問の実施段階に
明らかになる。被告は正式な判決の前に市参事
制限を設けられておらず,拷問の回数や程度は
会から釈放と,裁判後に被告が裁判関係者へ私
裁判官の裁量で自由に決定出来た 19)。また,61
的な復讐を行うことを放棄するウァフェーデの
条において,拷問の結果,被告人が容疑を自白
宣誓の承諾を取り付けられており,また被告の
しなかった場合に裁判官と被告人は罪に問われ
夫は釈放後の妻を迎え入れる用意があることを
ないという規定が存在した 20)ことが拷問の実行
確認されている。ウァフェーデの宣誓や無罪判
に拍車をかけたと思われる。また,91 条の規
決の言い渡しについても,その形式は他の裁判
定により裁判官と,容疑者の自白を聞いた 2 名
と同様と考えられる。
の参審員の任意によって,判決段階での被告に
よる自白内容の否認を無効とすることが可能で
第3節
世俗裁判における魔女裁判の裁判手
あった 21)。この規定が魔女裁判を連続して行う
続きに関する考察
ために大きな役割を有していたと思われる。
本節では世俗裁判における魔女裁判の手続き
以上のことから導き出される事実は,世俗裁
について,1532 年に公布されたカール 5 世刑
判制度における魔女裁判が,カロリナの規定か
法典 (以下カロリナ) の条文との比較を通して
ら逸脱した例外的なものではないということで
具体的な考察を行う。この刑法典は,当時神聖
ある。従来,魔女裁判特有のものと考えられて
ローマ帝国で横行していた,裁判官による恣意
いた裁判過程の残虐性や不当性は,カロリナの
的な裁判を打開するために作成された帝国内の
法典としての不備に由来するものであり,魔女
統一的な刑法であった。
裁判が魔女を裁くために異常な制度を採用して
まず,カロリナにおける魔女の罪の扱いであ
いた訳ではなかったのだ。
中近世ドイツにおける裁判制度としての魔女裁判に関する考察
お
わ
り
に
ここまで述べてきたように,魔女裁判は行わ
れた裁判制度によって 2 つに区分できる。異端
審問制度における魔女裁判は,異端としての魔
女の概念を生み出したカトリック教会の聖職者
によって始められたが,実際に行われた期間は
短かった。異端審問制度における魔女裁判の後
に始まった世俗裁判制度における魔女裁判は長
期に渡って行われ,ヨーロッパ各地で多くの犠
牲者を出した。
一方で,当時のドイツにおける統一的な刑法
典であるカロリナの内容と世俗裁判制度におけ
る魔女裁判の裁判手続きを照らし合わせると,
世俗裁判制度における魔女裁判がカロリナの規
定を大きく外れて行われた訳ではないことが明
らかになる。従来,魔女裁判に付与されていた
暴力的,残虐的な印象は,カロリナの法制度的
な不備に由来して生じたものだった。魔女裁判
は決して非合法的な裁判では無かった。魔女裁
判は,魔女を裁くという目的に従って既存の裁
判制度が利用された,合法的な裁判の一形態で
あった。
註
1 ) ライナー・デッカー (佐藤 正樹/佐々木れい
訳),『教皇と魔女』
,2007 年,法政大学出版局,
37 ページ
2 ) ライナー・デッカー,前掲書,39 ページ
3 ) Wolfgang
Behringer, 『HEXEN,
Glaube,
Verfolgung, Vermarktung』
,2009,Beck C. H
4 ) ライナー・デッカー,前掲書
5 ) 田 中 雅 志,編 集・解 説,『魔 女 の 誕 生 と 衰 退
原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』,2008 年,
三交社,46〜47 ページ
6 ) ライナー・デッカー,前掲書,54 ページ
7 ) Behringer,前掲書
8 ) 1485 年,審問官インスティトーリスが司教ゲ
オルク・ゴルザーの許可の下,ブリクセン司
教区の都市インスブルックで魔女裁判を試み,
50 人以上が逮捕されるも,第 1 回目の裁判で
裁判手続きの不備が原因で裁判が無効となり,
魔女裁判に失敗した事例
9 ) ブライアン・フェイガン (東郷えりか/桃井緑
美子訳),『歴史を変えた気候大変動』
,2001 年,
河出書房
59
10) 成立年から明らかなように,グーテンベルクの
活版印刷技術は異端審問制度における魔女裁
判の時代には既に完成していた。しかし,当
初の活版印刷技術は従来写本で作成されてい
た書籍の再生産に主として用いられていた。
故に,写本書籍の再生産が落ち着いた後に宗
教改革に起因する出版ラッシュが再度始まり,
同時に“ビラ”や“パンフレット”が出現す
る 16 世紀以降になって初めて,印刷技術の発
展が魔女裁判に影響を与えた。
11) この 2 件の魔女裁判に対して教皇庁は,現地の
審問官に対して慎重な対応を要求している。
特にアヴィニョンの事例に対する教皇の文書
では,被告の女性たちがサバトで見た人物に
ついて行う自白を信じてはならないと明言し
ている。
12) ライナー・デッカー,前掲書,144 ページ
13) 日置 (2006)
14) 若曽根 (1987)
15) パッペンハイマー事件は他の魔女裁判関連の研
究においても魔女裁判の事例として取り上げ
られ,当時の社会においても“パンフレット”
に取り上げられた有名な事件であった。しか
し,この事件の罪状は一般的な犯罪行為と,
犯行の際に用いられた害悪魔術に関するもの
であり,異端としての魔女の概念は大きな問
題とされていない。故に,この事件は単なる
魔法が関連した一般的な犯罪の側面が大きく,
魔女裁判と断定するには更なる考察が必要な
事例であると筆者は考える。
16) 若曽根 (1985)
17) 塙 (1968),
「さらに,ある者が,他の人びとに
〔彼より〕魔法を学ぶべく申し出ずるか,また
は,何びとかを魔法にかくと脅迫して,しか
して,脅迫せられたる者にそのことが行わる
るか,または,彼が,魔法使いもしくは魔女
と特別の組みをもつか,または,魔法を帯び
た る 怪 し き 物,態 度,言 語,流 儀 を も っ て,
徘徊するかし,しかして,当該人物がそのこ
とにつきて風評を立てらるるときは,それは,
魔法に関する確たる一徴表を与うるものにし
て,拷問のための充全なる事由となるものな
り。
」
18) 塙 (1968)
19) 塙 (1968)
20) 塙 (1968)
21) 塙 (1968)
22) 塙 (1968)
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