政 経 史 学 会 2015 年 度 秋 季 学 術 大 会 共 通 論 題 報 告 日 本 の 復 興 と 農 業 に対 す る 世 銀 融 資 - 愛知 用 水 を 中 心 に - 永江雅和(専修大学) はじめに 戦後ブレトンウッズ体制のもとでIMFと並んで設立された世界銀行は戦後復興期から高 度成長の入り口にあった日本経済にとって重要な役割を果たした国際機関であった.同銀に よ る 対 日 投 資 プ ロ ジ ェ ク ト は 34 件 ,融 資 総 額 は 9 億 3040 万 $ に の ぼ り ,電 源 開 発 関 連 事 業 や,製鉄事業,東海道新幹線,高速道路建設などの建設に世銀資金が用いられたことが知ら れている.しかし当時農業関連インフラにも世銀融資が行われたことはあまり知られていな い 1 .本 報 告 で は そ の 1 つ で あ る 愛 知 用 水 事 業 に つ い て 注 目 し ,① 日 本 の 復 興 過 程 に お い て , 日本がなぜ農業分野における世銀融資を求めるに至ったのか,②世銀がなぜ日本の農業分野 への融資を構想,実施するに至ったのか,そして③愛知用水事業が日本農業に与えた影響は いかなるものであったのかについて検討することとしたい. 愛 知 用 水 建 設 を 巡 り ,日 本 と 世 銀 が 交 渉 を 行 っ た 1950 年 代 ,特 に そ の 前 半 期 の 農 政 で は , 40 年 代 か ら 引 き 続 き「 食 糧 増 産 政 策 」が 継 続 さ れ て い た が ,そ の 意 味 合 い は 国 内 の 飢 餓 水 準 の 回 避 を 目 的 と す る 40 年 代 の そ れ と は 異 な っ て い た . 朝 鮮 戦 争 に よ る 食 糧 輸 入 に 対 す る 不 安も存在したが,最も重要な点は,日本経済の国際収支赤字であり,なかでも食糧輸入が輸 入 総 額 の な か で 農 産 物 が 過 半 を 占 め る 状 態 で あ っ た . そ の た め 1952 年 3 月 1 日 農 林 省 で は 「 経 済 自 立 」( 外 貨 節 約 ) の た め ,「 食 糧 増 産 五 か 年 計 画 」 を 発 表 し , 年 間 5000 億 円 の 財 政 資 金 投 入 に よ り 5 か 年 で 2 千 万 石( 300 万 ト ン )の 食 糧 増 産 を 図 る こ と を 目 指 し た の で あ る 2 . し か し 一 方 で 1953 年 M S A ,54 年 の 公 法 480 号( 農 産 物 貿 易 促 進 援 助 法 )は ,ア メ リ カ の 余 剰 農 産 物 受 入 れ に よ り 国 内 農 業 に 打 撃 を 与 え た 政 策 と し て ,日 本 の 食 糧 増 産 政 策 の「 綻 び 」 と捉えられている3. ま ず 世 界 銀 行 の 設 立 と そ の 機 能 に つ い て ,先 行 研 究 に 基 づ い て ま と め る こ と と す る .1944 年 7 月 に ブ レ ト ン ウ ッ ズ 会 議 に お い て I M F と と も に 設 立 が 決 定 さ れ ,46 年 6 月 か ら 業 務 を 開始した世界銀行(設立当初は国際復興開発銀行(IBRD)以下世銀)は,設立当初,先 進国の復興と途上国の開発を目的として,主に社会インフラ建設への融資を役割とし,国際 収支の危機に際しての短期資金供給を役割とするIMFと,相互に補完的機能を果たすこと が期待された.世銀融資の特徴は戦前債務返済協定の締結などを条件として,特定プロジェ クトに対する融資(プロジェクトローン)に限定される点に求められる4. 日 本 は 1952 年 8 月 に 世 銀 に 加 盟 し , 当 時 の 吉 田 茂 内 閣 は , 世 銀 融 資 を 中 心 と し て 外 資 導 入 を 経 済 復 興 の 手 段 の ひ と つ と し て 位 置 づ け た 5 .当 時 の 池 田 勇 人 蔵 相 の 要 請 を 受 け て 10 月 に世銀調査団が来日したが,調査団に日本が提示したプロジェクト案件のなかに当初から農 業関連融資である愛知用水事業が含まれていた.調査団をはじめ世銀側は日本の国際収支の 安 定 を 一 貫 し て 不 安 視 し て お り ,1953 年 末 に 派 遣 さ れ た ド ー ル 調 査 団 は ,国 際 収 支 改 善 の 観 点から日本の食糧増産政策を重視し,その観点から農業インフラ関連融資が推進されたもの と考えられる.しかし一方でアメリカ国務省は日本の増産政策に懐疑的であり,東南アジア からの食糧輸入を推奨したことが従来指摘されており,この点で世銀=アメリカ政府の見解 ではなかった点に注意を払う必要がある6. 1954 年 6 月 の 日 本 側 の 要 請 で は ,総 額 7500 万 ド ル の う ち 農 業 関 連 融 資( 愛 知 用 水 ,八 郎 潟 干 拓 , 石 狩 泥 炭 地 ) が 2000 万 ド ル 計 上 さ れ て い る . 比 較 的 農 業 の 比 率 が 高 い の は 日 本 政 府の意向というよりも,むしろ日本側が世銀の意向を読み取ったものであったという.同年 7 月のドールとの交渉の結果,愛知用水は優先順位 1 位のプロジェクトとして要請された. 1 ただし世銀融資はドル建てによる具体的な機材・技術購入資金のみに適用されるため,その 他必要とされる円資金について,余剰農産物借款見返り円から調達することが計画され,そ の 結 果 ,全 所 要 資 金 308 億 円 の う ち ,世 銀 借 款 は 50 億 円 に 留 ま る 見 込 み と な っ た 7 .つ ま り 世銀は対日融資全体を俯瞰する観点から日本の国際収支安定化に資するプロジェクトとして 愛知用水をはじめとする農業関連プロジェクトを推奨したものと言えるが,このことと,ア メリカ政府が日本に対して余剰農産物借款を同時に進めたことの整合性が問われることにな る. 1.日本側愛知用水構想の歴史的性格 かつて愛知県,尾張地方東部から知多半島にかけての地域は,水利に恵まれない天水田が 多い,干ばつ常習地帯であった.知多郡八幡村(現知多市八幡町)の久野庄太郎等の運動の も と で 1948 年 ,愛 知 用 水 期 成 同 盟 会( 同 年 10 月 1 日 に「 愛 知 用 水 開 発 期 成 会 」に .そ の 後 「 愛 知 用 水 期 成 会 」)が 結 成 さ れ ,木 曽 川 上 流 岐 阜 県 兼 山 町 か ら 尾 張 地 方 を 縦 断 し 知 多 半 島 を 通 っ て 伊 勢 湾 に 出 る 関 係 市 町 村 4 市 48 カ 村 , 幹 線 120 キ ロ , 支 脈 線 182 キ ロ , 受 益 面 積 水 田 1 万 9000 町 歩 , 畑 1 万 1 千 町 歩 に 及 ぶ 農 業 用 水 計 画 が 構 想 さ れ た . 会 長 に は 半 田 市 長 森 信蔵,副会長には武豊町長中川益平らが名を連ね,関係町村は大府町,東海村,阿久比村, 上野村,横須賀町,八幡村,武豊町,常滑町,河和町,内海町,豊浜村,野間村など(同志 会発足時の参加メンバー居住地)8.これに豊明村出身であった安城農業高校の教員浜島辰 雄が協力し計画が進められた9. 政 府 へ の 陳 情 は 豊 明 村 出 身 の 当 時 農 林 省 開 拓 局 長 で あ っ た 伊 藤 佐 を 通 じ て 行 わ れ , 1948 年 12 月 25 日 ,首 相 吉 田 茂 に 陳 情 を 行 い ,好 感 触 を 得 た .ま た 元 農 相 の 石 黒 忠 篤 か ら ,事 業 を 水 資 源 確 保・洪 水 対 策・電 源 開 発 を 組 み 合 わ せ た「 日 本 型 TVA」に 昇 華 す べ き で あ る と の 示 唆 を 得 た と い う 1 0 .愛 知 県 で は こ れ ら 陳 情 と 並 行 し て 県 耕 地 課 が 木 曽 川 上 流 調 査 を 実 施 し て い た が 1 1 , そ の 後 1949 年 か ら 農 林 省 開 拓 局 に よ り 現 地 調 査 開 始 さ れ , 事 業 構 想 が 本 格 化 し て い っ た 1 2 . 1951 年 5 月 桑 原 幹 根 愛 知 知 事 は 県 庁 内 に 企 画 課 を 新 設 し , 愛 知 用 水 調 査 費 予 算 500 万 円 を 計 上 す る . 1951 年 第 二 次 吉 田 内 閣 に よ り 国 土 総 合 開 発 法 が 制 定 さ れ ,開 発 の 重 点 と な る 特 定 地 域 の 選 定 が 進 め ら れ た 結 果 , 同 年 12 月 木 曽 川 流 域 が 特 定 地 域 に 指 定 さ れ た 1 3 . ま た 用 水 事 業 に と も な う 受 益 調 整 と 賦 課 金 調 達 を 主 た る 目 的 と す る 組 織 と し て , 1952 年 5 月 8 日 愛 知 用 水 土 地 改 良 区 が 設 置 さ れ( 初 代 理 事 長 伊 藤 佐 )1 4 ,1955 年 10 月 に は 第 二 二 特 別 国 会 で 可 決 し た 愛知用水公団法に基づき,愛知用水公団が発足した. その一方で用水建設にともなうダム事業により村域の多くが水没する危機にさらされた長 野 県 王 滝 村 で は 1952 年 3 月 4 日 , 「 二 子 持 ダ ム 建 設 反 対 期 成 同 盟 会 」が 結 成 さ れ ,反 対 運 動 1 5 が開始された . 運 動 は 1955 年 に 至 り ,「 ダ ム 水 没 犠 牲 者 委 員 会 」 に 改 組 さ れ 条 件 闘 争 へ と 移 行 す る こ と に な る が ,そ の 後 も 交 渉 は 続 け ら れ ,1958 年 6 月 11 日 愛 知 用 水 公 団 と 王 滝 村 ,三 岳 村 の 両 村 長 と の 間 に 水 没 補 償 協 定 が 締 結 さ れ ,公 共 補 償 2 億 円 ,個 人 補 償 9 億 6 千 万 円( 水 没 者 108 世 帯 ,そ の 他 関 係 者 83 世 帯 )が 支 払 わ れ る こ と に な っ た 1 6 .な お 水 没 者 には移住先が斡旋されたが,その一部は用水事業による開拓地が充てられることとなった. 工 事 の 着 工 第 一 号 で あ る 三 好 池( 調 整 池 )の 起 工 式 は 1957 年 11 月 5 日 に 行 わ れ ,同 月 に 取 水 口 で あ る 牧 尾 ダ ム の 工 事 も 開 始 さ れ た 1 7 .工 事 に は 世 銀 借 款 に よ り 調 達 し た ア メ リ カ 製 の 大 型 土 木 機 械 が 導 入 さ れ , エ リ ッ ク ・ フ ロ ア ー 社 ( E・ F・ A) を コ ン サ ル タ ン ト ・ エ ン ジ ニ ア と し て ,ア メ リ カ 式 の 工 法 を 導 入 し つ つ 工 事 が 進 め ら れ た 1 8 .ま た 支 線 工 事 に つ い て は , 1956 年 6 月 28 日 ,公 団 と 愛 知 県・岐 阜 県 と の 間 に「 愛 知 用 水 支 線 水 路 事 業 の 委 託 に 関 す る 基 本 協 定 」が 結 ば れ ,支 線 水 路 事 業 の 一 部 が 県 に 委 託 さ れ る こ と と な っ た .支 線 水 路 は 計 14 工 区 , 1194.7 ㎞ に 及 ん だ が , こ の う ち 公 団 直 轄 施 工 は 92.7 キ ロ , 岐 阜 県 委 託 が 34.4 キ ロ , 愛 知 県 委 託 は 1067.7 キ ロ で あ っ た 1 9 .工 事 途 中 の 1959 年 9 月 26 日 ,愛 知 県 周 辺 を 伊 勢 湾 台 風 が 襲 来 し , 関 係 地 域 に 甚 大 な 被 害 発 生 す る な ど , 工 事 の 進 行 は 困 難 を 極 め た が , 1961 年 5 月 28 日 に 牧 尾 ダ ム が 完 工 し , 1961 年 9 月 30 日 , 愛 知 用 水 通 水 式 が 実 施 さ れ 当 初 計 画 2 通りの 5 年間で愛知用水は完工することとなった20. 以上本節では愛知用水事業構想が地元農民の運動に由来するものであったこと ,また行政 的には戦後開拓行政から国土総合開発行政への過渡期に愛知用水事業が位置づけられていた ことを確認したい. 2.愛知用水建設費を巡る世銀借款交渉の展開 愛 知 用 水 事 業 は 当 初 国 営 新 規 事 業 と し て 立 ち 上 げ る こ と が 検 討 さ れ た が , 当 初 概 算 55 億 円 と 算 出 さ れ た 莫 大 な 工 事 費 へ の 負 担 か ら , 他 の 財 源 獲 得 の 道 が 模 索 さ れ た . 1951 年 8 月 , 農林省農地局は文書「農地の拡張および改良による増産計画について」において,世銀によ る対インド,パキスタン,タイ向けの農業インフラ融資の例をあげ,農業インフラ建設にお ける外資導入の可能性を指摘し,インパクトローン(円貨借款)による愛知用水向け融資可 能 性 の 検 討 を 開 始 し た 2 1 .1952 年 11 月 来 日 し た 世 銀 ド ー ル 調 査 団 の 意 識 は プ ロ ジ ェ ク ト の 「経済性」 ( ≒ 返 済 可 能 性 )に 集 中 し て お り ,農 林 省 が 計 画 す る 二 子 持 サ イ ト の コ ン ク リ ー ト・ ダム案に疑義が呈され,以後世銀が提案する牧尾橋ロックフィルダム案が対立し,このこと が , 交 渉 長 期 化 の 一 因 と な っ た 2 2 . ま た ド ー ル 使 節 団 は 「 国 際 復 興 開 発 銀 行 1953 年 対 日 使 節団日本経済および財政政策に関する非公式覚書」において「使節団は日本の食糧増産に最 重要性が付さるべきこと,およびこの部門に一層大きな投資支出が明らかに必要であること を留意する」 「農産物増産のため現在遊んでいる土地を耕作または牧畜のいずれかに利用する 方法を発見するため,計画を拡張し促進することが実行可能とは考えられないだろうかと思 う」 「 農 業 開 発 の 援 助 は 少 な く と も 産 業 の 近 代 化 と 同 様 注 目 に 価 す る も の で あ る 痛 感 す る 」と 記し,自立経済達成の観点から食糧増産を目指すための農業関連融資に交渉当初から前向き な 姿 勢 を 示 し て い る .た だ し イ ン パ ク ト ロ ー ン に つ い て は 1954 年 4 月 29 日 の 世 銀 副 総 裁 ガ ーナ―から大蔵大臣小笠原三九郎宛の書簡において「外貨を必要とする計画以外に世銀とし ては融資することは考えない」と明確に否定し,愛知用水建設における世銀融資の役割を部 分 的 な も の に 留 め る 姿 勢 を 明 確 に し た 2 3 . 残 余 部 分 の 財 源 に つ い て は , 1954 年 の 6 月 ~ 7 月に実施された日本大使館と世銀のドール,デフリースとの交渉において,日本側が余剰農 産物資金融通特別会計資金(以下余農資金)の活用を提案している.これに対して世銀側は 余農資金への全額依存は危険であることを指摘し,他の財源確保を要請し,日本側も財政資 金の調達を言明する形で世銀の了承を得ることになる24. また前述したダム方式を巡る借款交渉の長期化は,愛知用水事業を巡る経済的条件や国内 外 の 環 境 に も 変 化 を 生 じ さ せ る こ と に な っ た . た と え ば 56 年 に 入 り , 第 3 次 余 剰 農 産 物 輸 入 の 中 止 案 が 浮 上 し た 結 果 ,世 銀 側 は 融 資 金 利 引 き 上 げ を 提 示 す る よ う に な る 2 5 .ま た 余 剰 農 産 物 販 売 代 金 に つ い て も 55 年 以 後 , 国 内 外 の 米 価 が 逆 転 し , 国 内 米 価 の 割 高 化 が 進 行 し た結果,返済の基礎となる食管国内米価を維持できるのか懸念する内容の指摘を行っている 2 6 .こ の 事 態 は 単 に 借 款 の 返 済 可 能 性 に 関 わ る 問 題 だ け で な く ,国 際 収 支 の 安 定 の た め に 国 産食糧の増産が必要であるという事業の前提を揺るがせるものであった.その結果,国内で も多額の借款を前提とする農業投資に対する批判が浮上するが,これに対して愛知用水初代 総 裁 浜 口 雄 彦( 元 東 京 銀 行 頭 取 )は ,次 の よ う に 回 答 し て い る . 「愛知用水という大工事がい ろ い ろ な 経 済 効 果 を 地 元 に も た ら す こ と は 間 違 い な い .( 中 略 ) し か し 本 当 の こ と を い う と , ぼくは,こういった直接的利益以上の効果を狙っているんだよ.この事業は大規模な外資導 入が日本で成功するか,失敗するかのテストケースだ.日本はアメリカより金利は随分高い のに,それでも外貨はなかなか入ってこない.これは外国人が日本に不安感を持っているか ら だ .( 中 略 ) こ れ に 失 敗 す れ ば , 他 の 借 款 は も う 続 い て 日 本 に 入 っ て こ な い よ 」 2 7 . 公 団 総裁に農業土木関係者ではなく銀行出身者を据えたことからもわかるように,政府にとって 同用水の意義は農業政策を超えた国土総合開発の一環となっており,事業を日本の外資導入 の呼び水と位置づけることにより反対意見に理解を求める方針を取ってゆくことになったの である. 以 上 の よ う な 曲 折 を 経 つ つ も , 1957 年 7 月 25 日 に 借 款 交 渉 は 妥 結 ( 貸 付 金 700 万 ド ル , 3 年 利 率 5.75% ,内 訳 ① 設 計 並 び に 工 事 に 関 す る 役 務 150 万 ド ル ,工 事 機 械 440 万 ド ル ,畑 地 か ん が い に 関 す る 役 務 4 万 ド ル , 工 事 期 間 中 の 金 利 そ の 他 経 費 106 万 ド ル ) し た . 3.借款返済方法と農民負担 世銀が愛知用水に関する融資を実施するにあたり,最も重視した点のひとつは,事業主体 と資金確保についてであった.日本政府としては事業に関わる巨額の資金を一般会計から支 出することはできないため,公社方式での建設を打診し,世銀側も企業体としての独立性確 保の観点から,これに同意した.当初日本政府は公社に国の負担分に見合う補助金を年々交 付して,受益者からの徴収金と合わせて借入金の返済に充当することを計画していたが,世 銀側は返済期間中の政権変動により補助金投入が不安定になる可能性を懸念し,補助金より も出資金を要望した.世銀は建設期間中の事業資金調達計画および建設終了後の返済を含む 収 支 計 画 表 の 提 出 を 日 本 政 府 に 求 め ,所 用 資 金 の 確 保 に つ い て 政 府 の 確 約 を 要 望 し た 2 8 .政 府 が 立 案 し た 当 初 の 事 業 費 は 総 額 321 億 円 で あ り , う ち 世 銀 借 款 は 36 億 円 , 国 庫 補 助 金 が 117 億 円 ,余 農 資 金 が 24.5 億 円 ,そ の 他 借 入 金 が 143.6 億 円 で 算 出 さ れ た .そ の 他 借 入 金 の 借入先について明確な見通しは立っておらず,余農資金の継続を念頭に置いたものであった が,最終的に運用部資金から貸付けられることとなった.この資金のうち,国家補助金部分 以外については,県,電力会社,水道事業者,農民といった受益者から分担して徴収し,返 済 を 行 う 計 画 が 立 て ら れ た .こ の う ち 農 民 負 担 部 分 は 81.6 億 円 と 計 算 さ れ て お り ,土 地 改 良 区を通じて賦課される計画であった29.返済方式については,元利均等返済(年 2 回返済) に よ り , 1961 年 11 月 1 日 か ら 77 年 5 月 1 日 ま で , 16 年 32 回 払 い の 償 還 計 画 が 合 意 さ れ た(返済開始時期について,当初世銀は工事開始時期からの返済を要求していたが,借款交 渉 の 結 果 , 用 水 の 受 益 開 始 時 期 と な る 61 年 か ら の 返 済 開 始 で 妥 結 さ れ た ) 3 0 . その後の工事過程における台風被害や用地買収費の高騰,反対運動等に起因する事前調査 不 足 に よ る 工 費 増 加 の 結 果 , 総 工 費 は 423 億 円 ま で ふ く れ あ が り , さ ら に 受 益 計 画 面 積 も , 当 初 計 画 の 約 3 万 3000ha か ら 3 万 675ha に 減 少 し た .不 足 す る 工 事 費 調 達 の た め ,愛 知 県 が名古屋南部臨海工業地帯への工業用水を愛知用水から分水することを認めてもらう替わり に 26 億 3700 万 円 の 負 担 を す る こ と と な っ た が ,そ の 後 国 庫 補 助 金 の 減 額 等 も あ り ,世 銀 資 金 に よ る 外 国 機 材 購 入 を 節 約 す る 等 の 対 策 を 行 っ た 結 果 ,最 終 的 な 資 金 調 達 は 国 庫 補 助 金 80 億 円 , 世 銀 借 款 17.64 億 円 , 余 農 資 金 122.5 億 円 , 運 用 部 資 金 229.29 億 円 , そ の 他 3.42 億 円の構成となった31. 総工費増額に対して農民からの賦課金は最終的に増額されない方向で調整が行われたが, 用 水 の 受 益 農 地 の 面 積 に つ い て 公 団 算 定 の 2 万 1669.5ha と 土 地 改 良 区 側 積 算 の 1 万 5089ha と の 間 で 認 識 が 食 い 違 い , 本 来 予 定 さ れ て い た 1961 年 か ら の 農 民 賦 課 は 一 時 据 え 置 か れ , 1965 年 度 ま で 実 施 さ れ な か っ た 3 2 .こ れ は 工 事 が 完 了 し た 1961 年 か ら 63 年 に か け て 用 水 流域で比較的雨に恵まれた結果,用水の受益意識が高まらなかったことなどが要因として作 用 し た .そ の た め 公 団 は 当 初 国 庫 補 助 金 の み で の 運 営 を 強 い ら れ た が ,1962 年 以 降 ,受 益 面 積 の 再 調 査 を 行 っ た 結 果 , 14996.9ha を 受 益 面 積 と し て 賦 課 が 進 め ら れ る こ と と な っ た . 賦 課 金 額 に つ い て は 当 初 設 定 さ れ て い た 10a 当 た り 最 初 の 10 年 間 は 3,560 円 , 後 の 5 年 は 1,400 円 と い う 価 格 が 過 重 で あ る と い う 批 判 が 高 ま っ た 結 果 ,1965 年 4 月 の 土 地 改 良 区 臨 時 総 代 会 に お い て 10a あ た り 1,000 円 の 賦 課 が 開 始 さ れ る こ と と な っ た .そ の 後 も 公 団 は 不 足 分の賦課金の増額を土地改良区に求め続けたが土地改良区側の抵抗は強く,賦課金額増額を 巡 る 問 題 は ,公 団 と 土 地 改 良 区 の 長 年 の 懸 案 と し て 続 く こ と と な っ た 3 3 .農 民 の 立 場 か ら み れば,プロジェクトの長期化と,総合計画化の進行が,この点では結果として農民負担を減 少させる効果を持ったと言える. 4.愛知用水と戦後開拓 1955 年 世 銀 調 査 団 報 告 書「 日 本 農 業 の 現 況 と 見 通 し 」で は ,日 本 の 最 も 重 要 な 経 済 問 題 と して増加傾向にある人口に充分な食糧を確保することとし,その主要対策として未利用地の 開拓を指摘した.また日本の農業計画について①米穀以外のものの生産計画に一段と留意す 4 る こ と ② 現 在 の 食 糧 増 産 対 策 は , 土 地 改 良 事 業 に 偏 り す ぎ て い る か ら 将 来 10 年 間 に 毎 年 8 万 ha の 土 地 を 開 拓 す る 必 要 が あ る ③ 家 畜 頭 数 を 増 加 す る た め ,多 く の 資 金 を 充 当 す る こ と , ④畑地灌漑の拡充に対して,いっそう努力を集中すべきこと⑤畑作物の栽培,有畜農業に関 する研や普及事業に一段と力を入れること.など,愛知用水事業の派生的効果として日本農 業を発展させるべきであることを主張している34.世銀としては融資の順調な回収のため, 日本の農業が発展せねばならず,その具体的方法として特に重視したのは新農地の開拓と, 畑作地帯における灌漑改善による生産性向上であった. ま ず 農 地 開 拓 で あ る が ,愛 知 用 水 に は 事 業 の 一 環 と し て 開 拓 計 画 が 組 み 込 ま れ ,1954~ 55 年 に か け て 6041 ㌶ の 適 地 調 査 が 行 わ れ ,3166 ㌶ が 適 地 判 定 さ れ た .選 定 の 基 準 と し て は ① 1 団 地 1 ha 以 上 .② 計 画 用 水 路 よ り 低 い 標 高 で あ る こ と .た だ し ポ ン プ で 揚 水 で き る 場 合 は 揚 程 15m 以 内 で , 灌 漑 可 能 面 積 5 ha 以 上 の 集 団 地 で あ る こ と . ③ 局 部 的 に 不 適 地 で あ っ て も,機械開墾可能地ならば適地とする.④造林計画地,保安林,文化財保護地,砂防地など も適地ならば一応含める.⑤地元の意向は,とりあえず適地判定の対象としない.⑥傾斜は 20 度 ま で と す る .⑦ 水 源 涵 養 地 ,開 墾 作 業 中・開 墾 済 み の 団 地 ,都 市 計 画 地 区 等 は 除 外 す る . の 条 件 が 示 さ れ た 3 5 .開 拓 地 は 必 ず 愛 知 用 水 の 受 益 地 と す べ き と な る 観 点 か ら さ ら に 選 別 が 進 め ら れ , 55 年 ~ 68 年 に か け て 東 春 日 井 郡 , 愛 知 郡 , 知 多 郡 , 碧 海 郡 , 西 加 茂 郡 に お い て 14 地 区 1702ha( 緑 ヶ 丘 第 二 地 区 を 除 き 全 て 民 有 地 ,在 村 地 主 所 有 地 1151ha,不 在 地 主 所 有 地 238ha)が 開 拓 地 と し て 買 収 さ れ る こ と と な っ た 3 6 .買 収 さ れ た 土 地 は ,愛 知 県 の 作 成 し た地区開拓計画に基づき公団と県が開墾工事を実施した.開墾工事は終戦直後の緊急開拓事 業時のような,入植者の労力に依存する開墾ではなく,特に畑地造成には,畑地灌漑を前提 と し て , 傾 斜 度 20 度 ま で の 丘 陵 地 に 大 規 模 建 設 機 械 を 投 入 し て 行 わ れ た 3 7 . な か で も 緑 ヶ 丘 第 2 地 区( 現 み よ し 市 )は 畑 地 か ん が い を 前 提 と し た 機 械 開 墾 方 式 実 験 地 区 と み な さ れ 世 銀から派遣されたユタ州立大学教授ビショップなども加わって農地開拓と畑地かんがいの実 験 が 実 施 さ れ た 3 8 .入 植 は 174 戸 258.2 ㌶ ,増 反 が 3713 戸 984.8 ㌶ と 増 反 が 中 心 で あ っ た が,入植はダム建設により水没した玉滝村の住民が中心であったが,その他貯水池や用水路 建設ために土地を買収された地主の子弟が入植した事例も存在した.増反者の場合も,土地 の被買収者への補償的意味合いの土地配分が中心となった.一戸当たりの配分面積は入植平 均 約 1.48ha, 増 反 平 均 約 26a と , 同 県 既 存 農 家 の 平 均 経 営 面 積 で あ る 0.7ha を 上 回 る 規 模 で配分が行われた39. その結果,入植地の専業農家比率は周辺の農業地域より高い結果となり ,東浦地区では約 90% , 阿 久 比 ・ 小 牧 地 区 で も 約 半 数 が 専 業 農 家 と し て 残 っ た ( 1972 年 時 点 ). こ れ ら 専 業 農 家の経営の中心は果樹,野菜,畜産であり,主穀自給を兼ねてほとんどの農家が用水を利用 し て 水 稲 作 を 行 っ た .こ れ ら 愛 知 用 水 受 水 地 域 の 開 拓 地 の 耕 地 面 積 推 移 を 見 る と ,1963 年 か ら 1,968 年 の 間 に 水 田 面 積 の 増 加 ,畑 地 面 積 の 減 少 ,樹 園 面 積 の 増 加 と い う 傾 向 が 見 ら れ る . 水田面積の増加については,水稲専業農家の増加という側面と,複合経営農家による自給部 分を含む水田増加という2つの方向を見ることができる.畑地面積に関しては商品性の低い 畑地栽培の部分が水田に転換しているという流れがある一方で園芸作物の強化という側面も 見 る こ と が で き ,そ の こ と は 樹 園 地 の 増 加 に よ っ て も 裏 付 け る こ と が で き る 4 0 .知 多 半 島 で は通水後に早生・普通種の温州ミカンの新植が増加し,南知多町内海地区が温州ミカンの集 団産地として知られるようになったほか,三好町のカキ・ブドウ,東浦町のブドウ,小牧町 のモモ・カキ・ブドウなど一部農家による果樹栽培の大規模化・専業化が進行したほか,名 古屋市近郊地域で用水を利用したリンゴ人口着色が試みられるなど,同地域の農業が基本法 農政に適応するための基盤が整理された側面が指摘される41. 5.畑地灌漑技術の普及と変質 世 銀 は 前 述 し た 報 告 書「 日 本 農 業 の 現 況 と 見 通 し 」で ,畑 地 灌 漑 事 業 に つ い て「 同 計 画 は , と く に 11,000ha の 畑 地 に か ん が い を し よ う と す る も の で あ る が , こ れ は 日 本 で は 全 く 新 し い試みであるので,この計画は大いに注目を浴びるだろう.何となれば,これによる受益度 5 は大きく,またデモンストレーション的な価値があるからである」と高い期待を寄せ た42. た だ し 実 施 主 体 に つ い て は 55 年 2 月 7 日 付 メ モ ラ ン ダ ム に お い て ,こ れ( 畑 地 灌 漑 と 開 墾 ) を公社の事業とせず,政府または他の事業体が行うのが望ましいと,事業の分離を提案して い る 4 3 .1955 年 12 月 5 日 ,農 林 省 は 省 内 に 農 地 局 建 設 部 長 を 会 長 と す る 愛 知 用 水 特 別 調 査 委員会を発足させ, 「愛知用水地区の機械開墾ならびに畑地かんがいの合理的な成功を目途と し,その実施に関する問題点を協議」させることとした.並行して東海近畿農業試験場愛知 用水試験地と愛知用水公団パイロットファームの設置が定められ,さらに数カ所の委託試験 地 の 設 置 が 定 め ら れ た .こ れ に 対 し て 世 銀 ド ー ル は 56 年 5 月 17 日 公 団 総 裁 宛 の 書 簡 に お い て 3 名 の 専 門 家 の 役 務 提 供 を 受 け る こ と を 強 く 要 請 し ,地 域 農 業 技 術 の 発 展 に 世 銀 と し て も 関与する姿勢であることを強調している44. この世銀からの推薦によって日本に派遣された人物として畑地灌漑技術移転に貢献したの は ユ タ 州 立 大 学 教 授 ビ シ ョ ッ プ ( A. Alvin Bishop) で あ る . ビ シ ョ ッ プ は 1956 年 か ら 58 年 に か け て 3 度 来 日 し 愛 知 用 水 受 水 地 域 に お け る 畑 地 灌 漑 に 関 す る 技 術 指 導 を 行 っ た .来 日 調査の結果ビショップは愛知用水公団に対して①畑地灌漑組織を決定する基準として,イン テーク・レート(灌漑水侵入率)の概念と測定方法,②等高線うね間灌漑法の適用による地 盤造成費の節約,③圃場灌漑におけるローテーション・システム(輪番灌漑法)の推奨,④ 灌 漑 効 率 の 測 定 と そ の 目 安 ( 60% ) の 提 示 , ⑤ 実 験 農 場 の 充 実 と 日 本 人 技 術 者 の 養 成 訓 練 , などを勧告した45. 愛 知 用 水 公 団 設 立 に 伴 い ,ビ シ ョ ッ プ 等 の 勧 告 を 受 け ,1956 年 5 月 に 畑 地 か ん が い 実 験 農 場 ( 現 大 府 市 ), が 設 立 さ れ , 用 水 効 果 を 前 提 と す る 各 種 新 農 法 の 実 験 が 開 始 さ れ た 4 6 , し かし公団営農場はその費用が受益農民の負担となることが批判の対象となり,また研究が農 林 省 の 試 験 場 の 活 動 と 重 複 す る 問 題 も あ っ た こ と か ら ,1961 年 6 月 ,用 水 事 業 の 完 成 と と も に 閉 鎖 さ れ た 4 7 .そ の 後 研 究 は 農 林 省 所 管 の 東 海 近 畿 農 業 試 験 場 ,愛 知 県 農 業 試 験 場 な ど で 畑 地 か ん が い 関 連 の 試 験 研 究 が 続 け ら れ た .1960 年 に 農 林 省 の 畑 地 か ん が い 試 験 費 助 成 が 打 ち 切 ら れ た 後 も , 県 費 に よ っ て 試 験 が 続 け ら れ る こ と と な っ た の で あ る 4 8 . 同 県 で は 1959 年 9 月 畑 地 か ん が い の 営 農 指 導 地 を 新 設 し , 県 費 4 か 所 , 国 費 助 成 12 カ 所 ( 1959~ 62 年 ) が 設 置 さ れ た .ま た 1962 年 度 か ら 10ha 規 模 の 畑 地 か ん が い モ デ ル ブ ロ ッ ク は 7 カ 所 選 定 さ れ,スプリンクラー,広幅散布機などが貸与され,共同化と作付の統一的運営を促進し,畑 地かんがい経営普及の拠点とすることが目指され,また普及効果を大きくするため愛知県畑 地 か ん が い 営 農 改 善 対 策 協 議 会 が 県 に 設 け ら れ た 4 9 .作 目 と し て は 当 初 ,陸 稲 や 畑 水 稲 な ど が普及されたが,その後より有利な作目へ移行し,三好指導地の早まきだいこんや,豊浜指 導地のレナンキュラス球根,守山指導地の,ほうれんそう栽培などが地域の作目体系に組み 入れられ普及した事例とされている50. ただしこうした畑地灌漑の研究と普及努力に反して,愛知用水受水地域における畑地灌漑 の 実 績 は 当 初 の 予 定 を 大 き く 下 回 る こ と と な っ た . 通 水 直 後 の 1962 年 度 に お け る 畑 地 灌 漑 面 積 は 当 初 計 画 の 11,000 の 2 割 を 下 回 る 1,961ha に 過 ぎ ず ,そ れ は 1976 年 に は さ ら に 減 少 し , 1,109ha と 当 初 計 画 の 約 10% に ま で 低 下 し て し ま っ た 5 1 . こ う し た 畑 地 灌 漑 の 不 振 の 要 因 と し て は ,① 通 水 が 始 ま っ た 1961 年 か ら 63 年 に か け て 降 水 に 恵 ま れ た こ と ,② 都 市 化 の 進 行 に よ り 1962 年 か ら 76 年 に か け て 3,716ha に 及 ぶ 農 地 転 用 が 発 生 し た こ と ,③ 末 端 の 灌漑施設の整備費負担を農民側が敬遠したこと,などがあげられている.特に③については 末 端 5ha 未 満 の 灌 漑 施 設 整 備 が 61 年 の 用 水 完 成 と と も に 補 助 事 業 と し て 打 ち 切 ら れ , そ の 後 は 非 補 助 事 業 と な っ た こ と が 影 響 し て い る .非 補 助 事 業 に お け る 農 家 負 担 額 は ,10a あ た り 2,900 円 ( の ち 2,200 円 に 改 正 ) は 農 家 に と っ て 負 担 が 大 き く ま た う ね 間 灌 漑 技 術 が 想 定 す るイモ類,ムギ類主体の自給的畑作から得られる収益が負担額に見合わなくなってきたこと が 原 因 で あ る と 考 え ら れ る 5 2 .西 洋 農 法 の 日 本 へ の 技 術 移 転 に 関 わ る 問 題 で あ る と い う 観 点 もあり得るが,本質的には世銀やビショップが当初想定した食糧増産政策的線に沿った畑地 灌漑が,高度経済成長期に入り,基本法農政期に入った農家経営の課題と乖離しつつあった 6 ことが畑地灌漑面積縮小の原因であったと考えることができる. しかしこうした受益面積と計画面積の差異のみをもって愛知用水における畑地灌漑技術導 入 を 評 価 す る こ と は 適 切 で は な い . 上 で 述 べ た よ う に 1961 年 以 降 , 国 内 研 究 所 に 引 き 継 が れた畑地灌漑研究は作目を陸稲や麦類・イモ類から蔬菜,果樹へと重点を移し,灌漑の手法 についても,うね間灌漑からスプリンクラー,広幅散布機など,作目変化に対応した技術に 進んでいった.その研究課程でビショップ等が伝播した技術がどのように活用されたのかに ついての検証は今後の課題となってゆくだろう.重要な点は,技術を受け入れた日本側は, 当 初 世 銀 か ら 指 導 さ れ た 技 術 を ,農 政 段 階 の 変 化 に 応 じ て 柔 軟 に 切 り 替 え て い っ た 点 に あ る . 小括 冒頭で設定した課題に対する本報告での回答は次のようになる.①世銀は対日融資を行う にあたり,プロジェクト単位での効果を考えるだけでなく,相手国の国際収支状況の改善等 経済全体のバランスに配慮したプロジェクトの組み合わせを考慮していた.日本の食糧自給 率向上を目指した対日農業融資はアメリカ政府の意向というより世銀独自の判断に基づくも のであったが,その一方で融資の確実な回収を目指すために,ダムの形式に拘った結果交渉 が 長 期 化 し ,事 業 の 経 済 効 果 が 当 初 意 図 し た も の と 異 な っ た 形 に な っ た と い う 側 面 も あ っ た . ア メ リ カ 政 府 と 世 銀 と の 間 に は 1950 年 代 の 日 本 農 業 の 位 置 づ け 方 に つ い て , 意 見 の 乖 離 が 存在したように見えるが,それはアメリカにとって,当時の日本を戦後の世界経済秩序のな かにどのように位置づけるかについての見方が,流動的であったことを意味するように思わ れ る .② 愛 知 用 水 事 業 は 現 地 農 村 住 民 や 開 拓 者 団 体 の 意 向 に 基 づ く プ ロ ジ ェ ク ト で あ っ た が , 日本政府が一貫してこの時期に農業部門への融資を重視していたとは考え難い.それは余剰 農産受入れ政策と並行して同事業を進行させたことなどからも伺うことができるし,愛知用 水公団関係者が同事業を日本に対する工業部門を含む外資導入のモデルケースとして位置づ け る こ と で , 事 業 の 正 当 化 を 図 ろ う と し た こ と か ら も 伺 う こ と が で き る . ③ 当 初 1950 年 代 における食糧増産政策の文脈の中で構想された愛知用水事業であったが,交渉の長期化の影 響もあり,完成時期に日本農政はすでに基本法農政段階に突入していた.そのため農地開拓 は新規入植よりも,増反と用地補償の目的で主に行われることとなった.また畑地かんがい 技術普及については,その指導と普及には組織的断絶がみられるものの,地元農業者や県試 験場の継続的研究の結果,基本法農政に適合的な蔬菜・果樹農業の土台を同地域に形成する ことに貢献したのである. こ の 視 角 は ,浅 井 良 夫 「 世 界 銀 行 の 対 日 戦 略 の 形 成 - 1951~ 56 年 ( 上 )」( 成 城 大 学 『 経 済 研 究 』 第 204 号 ,2014 年 3 月 ) の 指 摘 に 学 ん だ 論 点 で あ る . 2橋本玲子『日本農政の戦後史』 ( 青 木 書 店 ,1996 年 ) 25 頁 , 暉 峻 衆 三 編 『 日 本 の 農 業 150 年 1850~ 2000 年 』( 有 斐 閣 , 2003 年 ) 152 頁 な ど . 3 前 掲 暉 峻 編 ( 2003 年 ) 158 頁 . 4 前 掲 浅 井 ( 2014 年 ) . 5 外 資 導 入 の 前 提 と し て ,戦 前 期 外 債 処 理 が 必 要 で あ っ た が ,吉 田 内 閣 は こ の 問 題 に つ い て も対処を行い,債務国に対して外債処理協定を締結した.この間の事情については,岸田真 「 日 本 の IMF 加 盟 と 戦 前 期 外 債 処 理 問 題 - ニ ュ ー ヨ ー ク 外 債 会 議 と 日 米 ・ 日 英 関 係 」( 伊 藤 正 直・浅 井 良 夫 編『 戦 後 IMF 史 創 造 と 変 容 』名 古 屋 大 学 出 版 会 ,2014 年 所 収 )に 詳 し い . 6 前 掲 浅 井 ( 2014 年 ) . 7 高崎哲郎『水の思想土の理想-世紀の大事業愛知用水』 ( 鹿 島 出 版 会 , 2010 年 ) 119 頁 . 8 こ の 時 点 で 愛 知 用 水 は 名 古 屋 市 を 受 益 地 域 に 含 ま な い も の と し て 構 想 さ れ た .そ の 理 由 に つ い て 前 掲 高 崎 ( 2010) 62 頁 に , 当 時 の 市 助 役 で あ り 都 市 計 画 担 当 者 で あ っ た 田 淵 寿 郎 の 反対にあったと記されている. 9 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) ,55-62 頁 . 1 0 前 掲 高 崎 74 頁 . 1 7 当初県調査の段階では巨額の事業費負担が予想されたことから,日本発送電株式会社の 丸山ダムかさ上げの方向で議論が進められた. 1 2 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) 78 頁 . 1 3 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) 88 頁 . 1 4 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) 101 頁 . 1 5 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) 105 頁 . 1 6 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) 170 年 . 1 7 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) 166 頁 . 1 8 志 村 博 康「 農 業 土 木 技 術 の 発 展 」 ( 今 村 奈 良 臣・佐 藤 俊 朗・志 村 博 康・玉 城 哲・永 田 恵 十 郎・旗 手 勲『 土 地 改 良 百 年 史 』平 凡 社 ,1977 年 )に よ れ ば ,こ の 時 期 の 大 規 模 土 木 機 械 の 導 入やアメリカ式工法の導入は,後の豊川用水をはじめとする大規模土木プロジェクトに関わ るノウハウ形成に重要な役割を果たしたことが指摘されている. 1 9 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) 197 頁 . 2 0 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) 224 頁 . 21愛知用水公団『愛知用水史』 ( 1968 年 ) 203 頁 . 2 2 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) 131 頁 . 2 3 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 205-207 頁 . 2 4 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 207-208 頁 . 2 5 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 303 頁 . 2 6 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 305 頁 . 2 7 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) 147 頁 . 2 8 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 582 頁 . 2 9 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 584 頁 . 30 愛知用水公団『愛知用水史資料編』 ( 1968 年 ) 326 頁 . 返 済 開 始 時 期 に つ い て , 当 初 世 銀は工事開始時期からの返済を要求していたが,借款交渉の結果,用水の受益開始時期とな る 61 年 か ら の 返 済 開 始 で 妥 結 さ れ た . 3 1 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 593 頁 . 3 2 前 掲 愛 知 用 水 公 団 資 料 編 ( 1968 年 ) 488-499 頁 . 3 3 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 715-723 頁 . 3 4 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 217-220 頁 . 35 愛知県開拓史研究会編『愛知県開拓史 通史編』 ( 愛 知 県 , 1980 年 ) 566 頁 . 3 6 前 掲 愛 知 県 開 拓 史 研 究 会 編 ( 1980 年 ) 568 頁 . 3 7 前 掲 愛 知 県 開 拓 史 研 究 会 編 ( 1980 年 ) 570 頁 . 3 8 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 428-429 頁 . 3 9 前 掲 愛 知 県 開 拓 史 研 究 会 編 ( 1980 年 ) 574 頁 . 4 0 前 掲 愛 知 県 開 拓 史 研 究 会 編 ( 1980 年 ) 580 頁 . 4 1 前 掲 愛 知 県 開 拓 史 研 究 会 編 ( 1980 年 ) 584 頁 . 4 2 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 217-220 頁 . 4 3 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 245 頁 . 4 4 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 286-287 頁 . 4 5 前 掲 高 崎 ( 2010 年 ) 183 頁 . 4 6 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 627 頁 . 4 7 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 634 頁 . 4 8 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 640 頁 . 4 9 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 643-645 頁 . 5 0 前 掲 愛 知 用 水 公 団 ( 1968 年 ) 648 頁 . 5 1 前 掲 愛 知 県 開 拓 史 研 究 会 編 ( 1980 年 ) 579 頁 . 5 2 前 掲 愛 知 県 開 拓 史 研 究 会 編 ( 1980 年 ) 581 頁 . 11 8
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