一 九四五年六月、 太平洋戦争も終わりの頃。 沖縄県

県教育長賞︵優秀賞︶
﹃戦後七〇年日の課題﹄
昭和薬科大学附属中学校二年
た。一四歳、ちょうど、今の私の歳だ。
中学二年のこの夏休み、私はあるテレビ番組を見
た。そして、その番組で祖父の兄の死の真相という重
く悲しい事実を知ったのだ。驚いたのが、番組の中で
元護郷隊隊員の方が証言するまで、私どころか親族は
誰もこの事実を知らなかったことだ。それまで﹁兄は
一九四五年六月、太平洋戦争も終わりの頃。沖縄県
護郷隊のことについて知りたくなった。戟後七〇年の
この信じられない事実に直面し、私はもっと詳しく
喜納 萌絵子
ケガで亡くなった﹂としか聞かされていなかった祖父
北部の恩納岳で、負傷して歩けなくなった青年に一人
今年、沖縄の新聞は、戦争のことを多く取り上げ、新し
は、疾しながらテレビを見たそうだ。
の日本軍の軍医が近付き頭から毛布をかけた。そし
い証言も掲載された。護郷隊のことも容易に見つける
れ、一人が脱落すると、連帯責任で全員が竹の棒で殴
て、その軍医は、青年に向けて拳銃を放った。それが、
皆さんは、﹁護郷隊﹂を知っているだろうか。護郷隊
られた。昼夜を問わず厳しい訓練は続き、時には、少年
ことができた。その内容は、想像を絶する酷いもの
とは、一九四四年、日本が劣勢に追い込まれた戦況の
達を互いに殴り合わせ、同郷の相手を前に力を抜いた
私の祖父の兄の最期だった。その時彼は、一七歳。護郷
中、沖縄県北部の恩納村の山奥で組織されたゲリラ部
のがばれた者は、﹁こうやるんだ﹂と顔が腫れあがるほ
だった。水をこぼした床の上で腕立て伏せを命じら
隊のことである。驚くべきことにその部隊は、地元の
ど拳で殴られた。またある者は、つい数か月前まで家
隊の隊員だった。
一四∼一七歳の少年を中心に組織された部隊であっ
○
学問でも友情でもない。絶対服従と、死ぬことを恐れ
て送り込まれる者もいた。彼らがそこで学んだのは、
たり、着物姿で住民になりすまし敵陣地へスパイとし
族と暮らしていた我が家に火をつけるよう命じられ
況を見ると、本当の平和は、まだ訪れていない、と私は
沖合で墜落する事故が起きたばかりだ。このような状
まっている。また、この八月には、米軍ヘリが伊計島の
る形で移設されるため県内では移設反対の声が高
われていたのだ。戦争を知らない私にとって、そのこ
けば吹きとんでしまうゴミのような軽い物として扱
起こったかを知ること、そして過ちを繰り返さない方
護郷隊の真実を知って今思う事、それは、過去に何が
では、私たちは平和のために何をすべきだろうか。
田山ゝつ。
とから受けた衝撃は大きかった。同時に、改めてこの
法を模索することだ。戦争や戟後を知らない人がどん
ないという精神だった。少年達の命は、まるで風が吹
事実に向き合った祖父の気持ちを考えると辛くなっ
どん増加するこの社会において、私たち若者が積極的
に真実を知ろうとすること、そして、平和を守ってい
。
た
今年でちょうど戦後七〇年。果たして日本は、そし
こうという堅固な意思を持つこと、これが、私たちが
未来は、誰にも分からない。でも、一人一人が過去の
て沖縄は、平和と一言えるのだろうか。祖父のようによ
うことになった者もいる。また、生き残りの少年兵た
失敗を知り、戟争の残酷さ、そして、絶対に戦争をして
平和な社会で生きるためにするべき課題だと思う。
ちも心の傷は未だ癒えず、苦しみを抱えて生き続けて
はいけないという気持ちを受け継ぐことで、沖縄、そ
うやく、肉親の死の真実を知り、新たな苦しみを味わ
いる。さらに沖縄は今、辺野古新基地問題で揺れてい
して、日本は、本当の平和に向かって歩んでいけると
田山、つ。
る。新聞でこの問題の記事を見ない日はない。日本政
府は、普天間基地の危険回避のため新基地を作り、新
たな場所へ移設するという計画を進めている。しか
し、基地は、同じ沖縄県内である辺野古へ、更に拡張す
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