古池や蛙飛こむ水のをとはどんな音か (今年も昨年同様,卒業論文とは

古池や蛙飛こむ水のをとはどんな音か
(今年も昨年同様,卒業論文とは関係のない話)
野村眞木夫
芭蕉による標記の句には,推敲の過程や書誌的な知見は措くとして,種々の理解の
しかたが提示されている。
ある詩人は経験的に,蛙は水に入るときは飛び込まずスムーズに入っていくのだか
ら,水の音などするわけがない,と主張する。少年時代は田舎に育ったのだそうで,
畦から田んぼへ移動するときならば大いに納得できる。太宰治による津軽の本編第四
節にある説は,これも経験的なのだろうが,著名である。庭の池のほとりで聞いたの
が,要するに,チャボリという小さなあさはかなまずしい貧弱な音だったという。ど
ぶうんといった余韻のある音ではない,というのである。
このようなことが頭のどこかにとどまっていた。九月中旬,大学の通称金魚池のそ
ばを歩いていたところ,チョポという印象の,水音が聞こえた。コンクリートの淵に
雨蛙がいて,多分,僕の姿に気づいて水に飛んだのだろう。蛙は確かに池に飛び込む
わけで,音は太宰の聞いた印象にちかい。外来種のような図体ならともかく,あたり
まえの雨蛙であればこのようなものだと認識できた。さらにその十日程あとのこと,
こんどは一声ケッという鳴き声も添えて,飛び込んでくれた。蕉翁も鳴き声までは思
い及ばなかったんでしょうね。
だからどうした,というほどのことでもなく,太宰の小説を読んで数十年来疑問に
思っていたことが決着したという次第だが,学会誌に発表しても良いのかしらん。