KH_020_3_002 - 国立民族学博物館学術情報リポジトリ

大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
中 国 辺 境 諸 民 族 の 文 化 と居 住 地
一一 工一パーハル ト説の紹介 と評価
その皿.南 方辺境諸民族
大
Ethnic
Groups
An Appraisal
Part
in Border
林
太
Regions
良
of China
in Historical
of "Kultur and Siedlung der Randvolker
by Wolfram
Eberhard.
II: Ethnic
Groups
Taryo
in Southern
Times:
Chinas"
Regions
OBAYASHI
Kultur and Siedlung der Randvolker Chinas by Eberhard is a classic
in the historical ethnology of China, in which he put together a great
amount of material and analysed and classified ethnic groups in the
border regions of China in historical times. Peoples in the border
regions of the south were classified by him into 11 categories: (1) the
Chuang peoples, (2) the Yao peoples, (3) the Li peoples, (4) the Kelao
peoples, (5) the Liao peoples, (6) the Miao peoples, (7) the Pa peoples,
(8) the Paiman peoples, (9) the Tan peoples, (10) the Yueh peoples, and
(11) other peoples. In addition to these, two other categories from
among the ethnic groups of the western border regions, i.e. (1) the Fan
peoples and (2) the Wuman peoples, should be taken into consideration
in the discussion of his conception of the ethnic and cultural history of
southern China.
Each category of southern peoples represents a culture complex,
characterized by a series of culture features, among others the type of
subsistence economy. Eberhard recognizes the Yao peoples with swidden cultivation, and the Chuang peoples, equivalent to the Tai culture
of his Lokalkulturen, with rice cultivation in wet fields, as two major and
東京女子大学,国 立 民族学博物館共同研究員
Key
Words
: southern
China,
historical
complex,
Eberhard
キ ー ワ ー ド:中 国 南 部,歴 史 民 族 学,民
ethnology,
族 分 類,文
classification
化 複 合,エ
of
peoples,
culture
ーバ ー ハ ル ト
455
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
fundamental categories, while most of the others, excepting perhaps the
Liao, according to him, are either derivatives from these two fundamental ones or later developments resulting from a mixture of one or both of
these major ones with each other or some others. This theory seems to
be sound in the main. He includes with foresight the Yueh and the Pa in
his research on the southern peoples.
In spite of these merits, the volume contains some shortcomings
and views hard to accept. He often relies not on primary sources but on
secondary compilatory works for the material. He treats the Yao and
the Miao separately, without paying due attention to the fact that both
belong to the same family linguistically.
Generally speaking,
Eberhard's hypotheses concerning the linguistic position of each
category are weakly founded, and sometimes quite disputable, such as
the supposition that the Yao and the Yueh are Austronesian speakers
and the Liao Austroasian speakers.
He gives no serious consideration to interethnic relations between
the Han Chinese and the border peoples. He also underestimates the
changes which took place in the ways of life of the peoples through the
ages, particularly the change from swidden cultivation to wet rice
agriculture among many peoples in the south during the period from the
Tang through the Sung ages.
Eberhard's investigation certainly has a series of points open to
criticism, yet it retains its position as a classic in the ethnic and cultural
history of China, with its wealth of information and, last but not least,
numerous insights and suggestions for further research.
1.は
じめ に
1.南
2.エ
ーバ ーハ ル トY'よ る南 方 辺境 諸 民 族
3.西
a。 チ ワソ諸 民 族
a.番
諸 民族
b.ヤ
b.烏
蛮 諸 民族
ナ諸 民 族
c. リ諸 民 族
4.諸
地 方 文 化 との 比較
d.ケ
5,エ
ーバ ー ハル ト説 の 問題 点
ラオ諸 民 族
e. リ ャオ諸 民 族
a.一
般 的評 価 と批 判
f. ミ ャオ諸 民 族
b.ミ
ャ オ=ヤ オ諸 民 族
g.巴
c.越
と ヤオ とタイ
諸民族
h。 白蛮 諸 民 族
i.頚
456
方 辺 境諸 民 族 の構 成
方 辺 境 の二 つ の 民族 群
4.巴
と蛮 と僚 と
諸民族
e.番
とは何 か
j.越
諸民族
f.白
蛮 と烏蛮
k.そ
の他 諸 民 族
6.結
論
大林 中国辺境諸民族 の文化 と居住地
1.は
じ
め
に1)
ヴ ォル フ ラ ム ・エ ーバ ー ハ ル トの 『中 国 辺 境 諸 民 族 の 文 化 と居 住 地 』[EBERHARD
1942a】 は,中 国 大 陸 の民 族 史,文 化 史 へ の 注 目す べ き貢 献 であ っ た。 私 は別 稿 に お
い て 同書 の 大 筋 の 紹 介 と,全 体 的,一 般 的 な 評価 を試 み た 【
大 林 1995】。 しか し,同
書 や そ もそ もエ ー/¥ハ
ル トの構 想 の本 格 的 な 検 討 は,こ の よ うな一 般 的,全 体 的 な
もの だ けで は 充 分 で は な い。 個 別 的 な 問題 に つ い て の彼 の見 解 を詳 し く吟 味 して は じ
め て,エ ーバ ー ハル トの研 究 の本 格 的 な評 価 も可 能 で あ り,ま た 彼 の 労 作 に含 まれ た
興 味 深 い着 想 を 我 わ れ が さ らに発 展 させ て い くこ と も可 能 に な るで あ ろ う。 そ の よ う
な意 味 で,私 は こ こに 同書 の南 方 辺 境 諸民 族 につ い て の 部分 を取 り上 げ,検 討 して み
る こ とに した い。
2.エ
ー バ ー ハ ル トに よ る 南 方 辺 境 諸 民 族
『中 国辺 境 諸 民 族 の文 化 と居 住 地 』 は,中 国史 上 に 登 場 す る800種 の辺 境 諸 民 族 を
大 き く北 方 辺境 諸民 族,西 方 辺境 諸 民 族,南 方辺 境 諸 民 族 に 分 け,そ の ほか伝 説 的 諸
民族 と古 代 諸 民 族 とい う部 類 を 立 て て い る。 古代 諸 民族 とい うの は漢 代 以前 の辺 境 諸
民族 の こ とで あ る。
こ こで我 わ れ が取 り上 げ る南 方 辺 境 諸 民 族 は,(Dチ
ヤ オ(狢)諸
オ(猿)諸
民 族,(n)リ(黎)諸
民 族,(q)ミ
螢 諸 民 族,(u)越
民 族,(o)ケ
ャオ(苗)諸
民 族,(m)
ラオ(屹 猪)諸 民 族,(p)リ
民族,(r)巴
諸 民 族,(v)そ
ワ ン(狸)諸
諸 民 族,(s)白
ャ
蛮 諸 民 族,(t)
の 他 の 諸 民 族 の11小 群 に 分 け られ て い る。 これ
か らこの順 で紹 介 す る こ とに し よ う。
a.チ
ワ ソ諸 民 族
エ ー バ ー ハ ル トが チ ワ ン 系 民 族 と して 挙 げ た の は,次
の25民 族 で あ る 。f乞猛,一 ド猶
狛 家,清
獲,狗
江 沖 家,清
竜 家(苗),馬
曾 竹 竜 家,洞
1)本
狛 家,青
鐙 竜 家,木
家 苗,嗣(→
沖 家,猿,紳
邦,狼(儂),白
鳳
洞),洞
家,黒
狛 家,黒
沖 家,白
竜 家,補
耳 竜 家,老
竜 沖 家,沙
苗,ろ 羊人 【EBE㎜)1942a:176-192】
樋(老
人,大
樋),
頭 竜 家,
。
論 文 は1994-1996年 度 文 部 省 科 学 研 究 費 「多 民族 国 家 ・中 国 に おけ る民 族 関 係 につ い て
の総 合的 研 究 」(代 表 者 塚 田誠 之,課 題 番 号06044239)に
よる研 究 成果 の 一部 であ る。
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国立民族学博物館研究報告 20巻3号
これ を見 て もわ か る よ うに エ ー・ミーハ ル トの チ ワン系諸 民 族 は大 体広 西 の タ イ系 諸
民 族 で あ る。 た だ 貴 州 の 各種 の 「竜 家 」 は,系 統 が 現 在 も不 明 で あ るか ら,す べ て が
タイ 系諸 族 とは 言 え な い 。 それ は と もか く と して,彼 に よれ ば,こ れ ら25種 族 は 本 質
的 に は統 一 的 な文 化 を も って い る。 これ らの文 化 は タイ文 化 と見 な して よい。 報 告 は
比較 的遅 くは じま り,宋 代 に な って か らで現 代 に至 る まで の も の であ る。 遅 くな って
登 場 した理 由は,チ
ワソ諸 族 が居 住 す る今 日の広 西,貴 州 の両 省 は,漢 民 族 に よって
遅 くな っ ては じめ て 開発 され たた め で あ る。 唐 代 の資 料 は な るほ ど広 西 を知 って は い
るが,チ
ワン諸 民 族 に つ い て は何 も これ と言 った 報 告 を して い な い。 エ ーバ ーハ ル ト
は別 の方 法 論 で 行 な った 『古 代 中国 に お け る地 方 文 化 』 の研 究 に も とつ い て,チ
ワン
諸 族 はか つ て は は るか北 に住 ん で い た の で,そ の た め 彼 らは大 変 急 速 に 中 国高 文 化 の
組 織 の 中 に くみ 込 まれ て しま った の だ と想 定 しな くて は な らない と言 って い る。 お ま
け に 彼 らは北 部 諸 地 域 で も,た だひ と りで住 ん で いた の で は な く,ヤ オ諸 族 や 越 諸 族
と混 ざ って住 ん で い た の で,古 代 に お い て民 族 的 単 位 と して は現 わ れ なか った の であ
る。 広西 に おい て 漢 族 植 民者 は,ま だ タイ族 が残 って い た の を見 出 し,特 別 の群 と し
て 認 め,取
り扱 った の で あ った。
これ ら南 方 のチ ワ ソ諸 族 の文 化 は,一 種 の農 耕 文 化,多 分 主 と して 水稲 耕 作 を 伴 っ
た 文 化 で あ る。 た だ 山 中 に圧 迫 され た場 合 は違 う。 他 の諸 文 化 と対 照 を な す この文 化
の 特徴 は次 の とお りで あ る。
経 済形 態 一
水 稲 耕 作 を行 な い河 谷 に拡 が り,で き る限 り山地 を 避 け る。 牛(あ
る
い は 水 牛)は 重 要 だ が,生 産 手 段 と して よ りもむ しろ 主 に価 値 の尺 度
と して重 要 で あ る。
社 会組 織 一
ク ラ ンが 存在 す るが,漢 族 と違 って,必 ず し も外 婚 が 支配 的 な の では
ない 。 通 常 は祖 先 祭 祀 が あ る。 結 婚 は 仲 介者 な しに,ふ つ う祭 りの 時
に 自 由に 決 め られ る。 しか し妻 は最 初 の 子供 が生 れ る まで彼 女 の両 親
の と こ ろ に と どま っ て い る(つ ま り不 落 夫 家 で あ る)。 そ の 時 に な っ
て 彼 女 は や っ と夫 の家 に移 り住 み,結 婚 した と見 な され る。 豊 穣 儀 礼
と性 的 自由 を伴 う春 の祭 り(歌 垣)が 催 され る。恋 人 同士 の ま り投 げ,
帯 の 交 換 は,と
もに 同意 の しる しであ る。 祭 りの 時 に踊 と歌 競 争 が あ
る。 祭 りの 時 は柱 立 て が 行 なわ れ る。
宗 教 一
報 告 が ほ とん どな い。 呪 術師 が お り,動 物 へ の変 身 へ の信 仰 が あ る。
盛 毒 が極 め て特 徴 的 で あ る。
死 者 祭祀 一
458
火 葬 と並 ん で棺 が あ り,二 次 的 に棺 を 放棄 す る こ とが行 なわ れ る。 し
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
物資文化一
か し火 葬 は 二 次 的 な 習 俗 ら しい 。
高 床 家 屋(欄)。
蝋 結 染 め(バ
テ ィ ク)と
餅 染 め(イ
カ ッ ト)。 しば し
ぼ プ リ ー ツ の あ る 短 い ス カ ー ト,髭(Chui。Frisur)。
文身。 帽子あ る
い は タ ーバ ソ。 飲 む た め の 吹 管 あ る い は 鼻 飲 。 弩 。 水 を 好 む 。
こ の 文 化 は 多 くの 場 所 で ヤ オ 文 化 に よ っ て ひ ど く重 層 さ れ て,そ
の 結 果 変 容 して し
ま っ た 。 他 の 地 点 で は こ と に よ る と チ ワ ン文 化 の 影 響 を うけ て で き た ミ ャ オ 文 化 に よ
り,逆 に チ ワ ン族 が 影 響 を うけ た ら し い 【EBERHARD b.ヤ
1942a:195-196】
。
オ諸民族
エ ーバ ーハ ル トは,ヤ オ系 民 族 と して 次 の40民 族 を取 り上 げ た 。 長髪 瑠,曲 江 瑠,
住 瑠,黒 瑠,番 民,花 藍瑠,花 肚 瑠,紅 頭 瑞,紅 瑠,狗 瑠,過
山瑠,藍 雷,藍 碇 瑠,
令 勾 瑠,流 瑠,羅 労 璃,梅 山蛮,莫 瑠,納 垢,八 砦 瑠,白 瑠,藥 瓠 蛮,葉 古 瑠,板 瑠,
平 地 瑠,山 子,山 瑠,上 山瑠,大
五 渓 民(蛮?),武
良瑠,藤 峡 瑠,頂 板瑠,汀 瑠,堕 民,嗣 瑠,外 瑠,
陵蛮,五 水 蛮,武 寧 蛮,瑠 で あ る 【EBERHARI)1942a:196-216]20
これ ら諸 族 に つ い て の記 述 を も とに,エ
文 化(einheitliche Kultur)を
ーバ ー ハル トは ヤ オ系 諸 族 は み な統 一 的 な
もち,し た が って一 括 す るの は 正 当 だ と考 え た 。
ヤ オ系 諸 族 は は じめ蛮 とい う名 で今 日の 湖 南 省 に 出現 し,宋 代 以 後,瑠
とい う名 で
雲南 や 四 川 か ら漸 江 に いた る まで広 く分 布 して い る。
ヤ オ族 が どの 大 民族 群 に 入 るの か言 うの は 難 しい。 彼 らが言 語 的 に しぼ しば タ イ 系
諸族 に 同化 した こ とは,何 事 も証 明 しない 。 漸 江 の ヤ オ族(堕 民)は そ の 言 語 を完 全
に放 棄 し,中 国 語 を話 して い るの だ。 そ れ 以 外 に も,タ イの 影響 は ヤ オ系 諸 族 の文 化
に及 ん だ こ とが 予 想 され,実 証 され て い る。 彼 らの文 化 は オ ース トロア ジ ア語 族(中
国南 西 の ワ族 な どの 彼 の い わ ゆ るk群)と
共 通 す る と ころ は 多 くな い 。 そ こ で エ ー
バ ーハ ル トは,ヤ オ系諸 族 を オ ース トロネ シ ア諸族 の初 期 の一 つ の群 だ とい う説 を 提
案 した の で あ った 。
ヤオ 系諸 民 族 の文 化 は エ ーバ ーハ ル トに よれ ぽ 次 の よ うに要 約 で きる。
経 済形 態 一
焼 畑 耕 作 を伴 った 山地 生 活 。 これ は 居住 地 を しば しば移 転 す る こ とを
余 儀 な くさせ る。 これ と並 ん で狩 猟 と採 集活 動 が 行 なわ れ る。 主 と し
て イ モ類 が栽 培 され る。
社 会 組 織一
2)エ
首 長 制 も部 族組 織 も本 格 的 に発 達 して お らず,反 対 に 父系 的 な ク ラ ソ
ーバ ーハ ル トは 当時 常 用 され て い た狢 の字 を用 いて い るが,こ
こで は今 日の用 法 に従 い
瑠 に 改 め た 。 同様 な措 置 は 以下 の他 の 民 族 名 の表 記 に つ い て も行 な った 。
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国立民族学博物館研究報告 20巻3号
が強 固 に 発達 して い る。 外婚 制 が行 な わ れ,交 叉 イ トコ婚 もまれ で な
い。 豊 穣儀 礼 の性 格 を もち,性 的 自 由を 伴 った舞 踊 祭,掛 け合 い歌,
自由結 婚 。 結婚 式 は 子 供 が 生 れ て は じめ て行 なわ れ る。 成年 式,一 種
の シ ャマ ニズ ムが あ る。
宗 教一
犬 神 薬 瓠 の 崇拝,犬 に つ い て の タ ブ ーが あ る。また虎 に つ い て の タa7一
と虎 崇 拝 もあ る。 年 末 に 灘,つ ま り精 霊 を 追 い 出す 儀 式 が 行 なわ れ,
そ の際,仮 面 仮 装 者 が 登 場 す る。 位 牌 は な い が祖 先 崇 拝 は あ る。
死 者 祭 祀一
棺 に いれ る埋 葬 。 棺 は お そ ら く元 来 は 簡 単 な 木 の幹 を く り抜 いた だ け
の も のだ った ろ う。
物 質 文 化一 一平 た い土 地 に建 てた 一 階 建 の 家 で,居 住 用 テ ラスを 伴 って い な い。 家
の 中心 を な す の は炉 で,そ の まわ りに 人 々は寝 る。 方 形 家屋 の一部 分
が炊 事 用 に使 わ れ る。 こ こは 前 の炉 とは 別 の炊 事 用 の 火 が あ る。 家屋
は おそ ら くた ん に小 家 族 一 つ だ け に対 して の もの であ る。 幅狭 い布 で
作 った 短 い ス カ ー ト。 裸 足 で歩 行,精 巧 な髪 かた ち。 衣 服 は しぽ しば
犬 祖 神 話 と関 係 が あ る。 背 の 荷 ㈱
帯 で 運 ぶ 田B-1942a:
22 221]o
そ の ほ か,エ ーパ ーハ ル トが ヤ オ系 諸 文 化 に つ い て述 べ て い る こ との 中 で重 要 な こ
とは,ヤ オ 系諸 民 族 とそ の文 化 の形 成 に つ い て の彼 の説 で あ る。 エ ーバ ーハ ル トは焼
畑 耕 作 とい う経 済 形 態 と,父 系 ク ラ ソ組 織 を ヤ オ諸 族 に と って典 型 的 な もの と見 な し
て い るが,そ れ 以外 の構 成 要素 も考 え て い る。
a.チ
ワ ソ文 化,つ
ま りタイ 系諸 族 の文 化 か らの要 素 。 タ イ系 諸 族 とヤ オ系 諸 族 は
しば しば 一 緒 に住 み 接 触 して きた。 そ の結 果,ヤ オ族 は 所 に よ っては タイ 系諸 族 の 衣
服 を 受 容 し,一 部 は 水 田稲 作 も受 容 した 。 更 に,牛 が ヤオ 族 の と ころで 特 に重 要 な場
合 が あ るが,エ ーバ ーハ ル トの推 測 で は これ は ヤ オ族 固 有 の もの では な く,タ イ 系諸
族 との 接 触 を通 じて,こ とに よ る と越 文 化 との接 触 に よ って も,ヤ オ族 の と ころに 入
って きた もの な ので あ る。
b.そ
の 他 。 ヤ オ族 で は 新 年 は7月(マ
マ)14日 か15日 だ った ら し く,ヤ オ族 の一
番 重 要 な 神 で あ る藥 瓠 へ の供 犠 も,こ の 日に 行 なわ れ た もの ら しい。 これ か ら見 て満
月 を 基 準 にす る暦 が あ った ら しい。 ヤ オ族 に 元来,固 有 の暦 が あ った か否 か は問 題 で
あ るが,後 に な る と満 月暦 とそれ に 属 す る年 中行 事 が 彼 らの文 化 にす っか り根 を 下 ろ
した 。 盤毒 や さま ざ まな 占い の方 法 が ヤオ 文化 に帰 属 す る ものか ど うか に つ いて は,
エ ーバ ーハ ル トは確 信 を も って い ない 。
460
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
布 の 幅 が 狭 い た め の 短 い ス カ ー トを 穿 く習 慣 は,リ(黎)諸
布 を 縦 に す れ ぽ ス カ ー トを 長 くで き る わ け だ か ら,原
族 に も あ る 。 し か し,
始 的 な 織 機 で 幅 の 狭 い 布 しか 出
来 な い か ら 必 ず 短 い ス カ ー トと い うわ け で は な い 【EBERHARD c.リ
1942a:218-219]。
諸民 族
エ ーバ ー ハ ル トは リ(黎)諸
民族 と して,産 里,猫,黎,僅,里
の五 つ を挙 げ た
【EBERHARD 1942a:221-226]。 これ らは 中 国人 に よ って互 い に親 縁 だ と見 な され た 民
族 で あ って,海 南 島,そ の 他広 東 と広 西 の一 部 に住 ん で い る。 た だ 産 里 だ け は雲 南 省
西 南 部 と ミャ ンマ ーに 住 む と報 ぜ られ,資 料 不 足 のた め,中 国人 が 言 うよ うに リ群 に
入 るか ど うか証 明 で き ない 【EBERHARD l 942a:227】。
リ諸 民 族 の文 化 は宋 代 ご ろか ら知 られ て お り,今 日で は チ ワ ソ族 の文 化 に 極 め て近
い親 縁 関 係 を も って い る よ うに 見 え る。それ に も拘 らず,エ ーバ ーハ ル トの考 え では,
純 粋 な チ ワソ文化 と呼 ぶ のは 適 当 で な い。 リ文 化 中 には,ヤ オ 文 化 に結 びつ く諸要 素
が あ る。 中 国 人 は これ を感 じと り,時 には チ ワ ソ族 もヤ オ族 も リ族 か ら分 れ た の だ と
言 った りす る。 最後 に,リ 文 化 の 中 に は リ ャオ文 化 の諸 要 素 も含 まれ て い る,と 彼 は
信 じて い る。 そ こで,エ ー バ ー ハル トは,元 来 は ヤ オ族 と親 縁 だ が,リ
ャナ族 とも何
か の 関連 を もつ 民 族 だ った のが,後 に な って チ ワソ族 に よ って極 め て 強 く重 層 され,
そ の結 果 ほ とん ど 自 らの文 化 を放 棄 して チ ワ ソ化 す るに至 った のだ,と 想 定 して い る。
リ文 化 の もっ とも重 要 な 特徴 は 次 の とお りで あ る。
経 済形 態 一一一畑 作 作 物 の 栽培,そ れ と並 ん で狩 猟 。 牛(あ る い は水 牛)の 著 しき強
調 。
社 会 組織 一
きわ だ った 種 族組 織 な い し ク ラ ソ組 織 は な い 。 した が って 無 条 件 的 な
外 婚 制 もな い。=豊穣 儀 礼 と性 的 自由を 伴 う春 の祭 。若 者 宿 。 自由結 婚。
結 婚 は子 供 の出 産後 発 効 す る。
宗 教一
牛崇 拝 と牛 供 犠 。 近 代 の ヨー ロ ッパ人 の報 告 に よ る と牛角 を 柱 の上 に
挿 す 。 盤呪 術 。
死者 祭 祀 一
報 告 な し。
物 質文 化 一
欄 家 屋(高 床 家 屋)で 丸 天 井 の屋 根 がつ いて い る。貫 頭 衣,短 い ス カ ー
ト,そ れ に並 ん で桶 状 ス カー ト。 籐 の 帯。 大 きなか ん ざ し,吸 い筒 。
銅 鼓 と鼓 祭 。 卵 占 い。 文 身,竹
の弦 の つ い た 弓 【EBERHARI)1942a:
228-229]o
461
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
d.ケ
ラオ 諸 民 族
エ ーバ ー ハル トは ケ ラオ(f乞 倦)諸 民 族 と して 次 の17を 挙 げ た 。 岐,佗 人,佗 倦,
佗 猫 苗,勇 毛 佗 倦,猪 矢 佗 倦,苗 佗倦,紅 佗 倦,狸 倦,猫
兜,鍋 圏 佗倦,休 倦,被 炮
f乞倦,水 佗 倦,打 牙 佗 倦,土f乞 倦,桶 桶f乞倦 であ る 【EBERHARD 1942a:229-235】。
エ ーバ ーハ ル トは,ケ ラオ諸 民 族 は 起 源的 には リャオ族 と一 緒 だ った蓋 然 性 が 高 い
と見 る。 しか し,リ ャオ族 に とって 典 型 的 な文 化 要素 を ケ ラオ諸 族 は 沢 山 は保 存 して
いな い 。 た だ成 年 式 儀 礼 と しての 抜 歯 だ け で あ る。 リャオ諸 族 と共 通 の,そ
して ヤ オ
族 と も共 通 の習 俗 は 棺 を放 棄 す る こ とで あ る。 リャオ諸 族 と共 通 で あ る が,他 の 民族
に もあ るの は貫 頭 衣 であ る。
ケ ラオ 諸 族 と リャオ族 との相 違 点 は,弓 矢 を も って い る こ と,平 地 方形 家 屋,竜 崇
拝 な どで あ る。 こ とに よ る と ケ ラオ文 化 は チ ワ ン文 化 や ヤ オ文 化 の要 素 が著 し く重 層
した た め 変 容 した古 い リャオ文 化 と見 な して よか ろ う。 これ に うま く合 うのは ケ ラ オ
諸 族 が リャオ諸 族 の古 い分 布 地 域Y'住 ん で い るが,南 の チ ワ ン族 の 古 い領 域 に入 って
くる と,一 層 チ ワ ソ族 に よ って変 容 して い る こ とで あ る。
ケ ラ オ文 化 の特 徴 は次 の とお りであ る。
経 済 形 態一
農耕 だが,い か な る形 式 か は正 確 に は 判 って い な いが,お そ ら く焼 畑
耕 作 で はな か ろ う。 牛 飼 育,狩 猟 。
社 会 組 織一
必 ず しも外 婚 は行 なわ な い。 自 由結 婚 。子 供 が生 れ てか らの結 婚 式 。
宗
竜 崇 拝 。 お そ ら く虎 崇 拝 もあ る。
教一
死 者 祭 祀一
丸 木製 の棺 。 これ は後 に 放棄 す る。 時 に は 火葬 。 位 牌 あ り。
物 質文化一
畑 を伴 う方 形 地 上 家 屋 。貫 頭 衣 。 時 に は 桶 状 ス カ ー トと腰 布Huft-
tuch。 不 潔 。 弓 矢[EBERHAR])1942a:236「237】
。
e. リ ャ オ 諸 民 族
エ ー バ ー ハ ル トは 次 の8民
南 平 蛮,鼻
て 広 東,広
蛮,山
僚,守
西Y'及
族 を リ ャ オ 系 民 族 と して 挙 げ た 。 飛 頭 僚,僚,木
宮 僚,土
び,時
僚 で,四
川 か ら貴 州,雲
南,湖
南,江
篭 僚,
西,・福 建 を へ
代 も 漢 代 か ら 現 代 に 及 ん で い るIEB㎜D 1942a:
237-246】 。 な お 僚 と い う字 はlaoと
い う発 音 が 正 し い が
1981:490],エ
記 して お り,ま た ラ オ ス の ラ オ 族 と の 混 同 を 避
ーバ ー ハ ル トはLiaoと
け る た め に も,私
【r中国 少 数 民 族 』 編 写 組
も エ ー バ ー ハ ル トに 従 っ て リ ャ オ と 記 す こ と に した い 。
エ ー パ ー ハ ル トは リ ャ オ 文 化 の 特 徴 を 次 の よ う に ま と め て い る 。
462
大林 中国辺境諸民族 の文化 と居住地
経済 形 態 一一 焼 畑 耕作 あ る い は狩 猟(漁撈)だ
け 。 家 畜 と して は おそ ら くと りわ け
豚 と犬 。 牛 は後 に な って つ け 加わ った(こ の こ とは ケ ラオ に もあ て は
まる)。
社 会 組織 一
部 族 も クラ ソ もな く,首 長 もな く,例 外 的 な 場 合 に一 種 の指 導 者 制 が
あ る。 クー ヴ ァー ド,i数種 の イ ニ シエ ー シ ョン。
宗 教 一
呪術 信 仰,頭 蓋 崇 拝,人 狩 りお よびか つ ては 食 人 俗 。
死 者 祭 祀一
棺 。 これ は 放 棄 され るか,そ れ と も立 った ま ま埋 葬(以 前 は屈 葬?)。
物 質 文 化一
干欄 家 屋(高 床 建 築)で 破 風 側 に 入 口,つ ま り妻 入 りで あ る。 ポ ンチ
ョ(貫 頭 衣),手
・
で食 べ る。 青 銅製 容 器 と銅 鼓(後 に は)信 号 楽 器 と
して の角 。 弓 な し。 た だ槍 と楯 と刀 の み。 新 生 児 は 水 中 に 置 か れ る。
そ して エ ーパ ー ハル トに よれ ぽ,リ
ャオ は南 部 に お い て のみ チ ワ ソ族 の影 響 を受 け
た の で あ っ て,チ ワ ソ族 と リ ャオ族 の間 には 次 の よ うな文 化 的 相 違 が あ る。クー ヴ ァー
ド,イ ニ シ エ ー シ ョ ン儀 礼 と して の抜 歯,部 族組 織 や ク ラ ン組 織 が 完 全 に欠 如 して い
る こ と,妊 娠 期 間 が短 い と称 され てい る こ と,新 生 児 を 水 中 に 入れ る こ と,干 欄 と呼
ば れ る家屋 形 式,頭 蓋 崇拝 。以 上 はす べ て,こ の形 で は チ ワ ソ族 には ない もの で あ る。
また リャオ 族 は 水 田耕 作 を 行 な わず,河 谷 居 住 の 明瞭 な偏 好 を も って い な い。 価 値 尺
度 と して の 牛 が な い。 豊 穣 儀 礼,歌 合 戦,帯 の 交換,球 戯,踊
りを 伴 った春 の祭 り,
これ は す べ て な い 。藪 繕 染 め,イ 緕 卜
染 めは 報 告 され て い な い。 ス カ ー トの ひ だ も報 告
が な い 。 一 種 の 洗 礼 を 除 く と水 を 好 む こ と は ど こ に も 語 られ て い な い 。
こ の よ うに リ ャ オ 文 化 は チ ワ ソ文 化 と相 違 して い る 。 他 方 で は ヤ オ 文 化 と の 類 似 点
と し て は,犬
の 尊 重 が あ る 。 しか し リ ャ オ と ヤ オ と の 類 似 よ り も 相 違 の ほ う が 大 き く,
類 似 は接 触 の結 末 と思 われ る。
エ ー パ ー ハ ル トは リ ャ オ は オ ー ス ト ロ ア ジ ア 諸 族 と 若 干 の 親 縁 関 係 を もつ が,肌
色 が あ ま り黒 く な い 点 が 違 う と記 して い る が,オ
何 か は 明 記 し て い な い 。 そ れ に も拘 ら ず,彼
群 が,タ
の
ー ス トロア ジア語 族 との共 通 要素 が
は リ ャ オ は オ ー ス トロ ア ジ ア 語 族 の 古 い
イ 語 族 に よ っ て 大 変 強 く,か つ 早 くか ら影 響 を 受 け,ま
た ヤ オ族 に よ って も
変 化 を 加 え られ た も の で あ る と 考 え る 。 ヶ ラ オ 族 は リ ャ オ と近 い 親 縁 関 係 に あ る ら し
い[EsERxAxn 1942a:249-250]。
f. ミ ャ オ 諸 民 族
エ ー パ ー ハ ル トは 次 の65民 族 を ミ ャ オ 系 民 族 と して 取 り扱 った 。 長 脚,鎮
頂 苗,赤
苗,清
江 黒 苗,箒
苗,青
苗,九
股 苗,九
名 九 姓 苗,車
塞 苗,穿
草 苗,尖
青 苗,川
苗,
463
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
漢 苗,黒 脚 苗,黒 種 苗,黒 櫻 苗,黒 苗,黒 山苗,黒 生 苗,西 渓 苗,西 苗,萌 藍 苗,花
衣 苗,花 苗,花 背 苗,黄 斑 苗,紅 江 苗,洪 州 苗,紅 花 苗,紅 苗,高 披 苗,高 山苗,克
孟 拮 羊 苗,谷 藺 苗,樟 福 苗,郎 慈 苗,櫻 居 黒 苗,麻 陽 苗,費 耶 苗,茄 頭苗,苗,黒
定
苗,入 塞 黒 苗,白 苗,扁 頭 苗,平 伐 苗,山 苗,生 苗,水 家 苗,水 西苗,宋 家 苗,察 家,
草 塘 苗2柴 墓(姜)苗
乳短裾 苗,洞 苗,洞 患 苗,雅 雀 苗, 一
一
牙 伐 苗,.鴨 子苗,楊 保 苗,
楊 洞 羅 漢 苗,夫 苗,爺 頭 苗,巖 苗 で あ る 【EBE㎜)1942a:250-270】
。
これ ら諸 族 に つ い て の文 献記 録 を も とに,エ ーバ ーハ ル トは ミャオ系 諸 族 に つ い て,
次 の よ うに論 じて い る。
彼 は ヤ オ系 諸 族 に つ い て は,統 一 的 な文 化 を も ってい る と考 え た が,こ れ に反 して,
ミャオ系 諸 族 につ い て は,統 一 的 な文 化 を もたず,極 め て さ まざ まな要 素 の 混 合 が認
め られ る と論 じて い る。 この混 合 に お い て は チ ワ ン(タ イ)系 要 素 とヤ オ系 要 素 とが
圧 倒 的 で あ る ので,エ
ーパ ー ハル トは,ミ
ャオ族 は元 来 は ヤ オ族 だ った が,タ イ 系諸
族 と大 幅 に混 合 し,さ らに ミャオ族 の 祖先 の番 の場 合 と同様 に,二 次 的 に(チ ベ ッ ト
系 の)烏 蛮 族 が征 服 者 と して上層 を形 づ くった の だ と考 え た。この よ うな過 程 の結 果,
他 の民 族 群 とは 外 か ら見 て も違 う一 群 が形 成 され た 。
しか し,も っ と詳 し く分 析 して み る と,こ とに よ る と資 料 が 乏 しいた め に一 群 を な
して い る とか,諸 文 化 の混 合 だ とい う印象 を 受 け て い た だけ であ って,む しろ あ る種
族 は 大 な り小 な り一 つ の 群 に,他 の種 族 は別 の 群 に属 しはす る も のの,ど の種 族 も全
面 的 に た だ一 つだ け の 群 に は属 さ な い こ とが 明 らか に な るか も しれ な い。 つ ま りエ ー
バ ーハ ル トは ミャオ諸 族 の 文化 は複 雑 で ヤオ系 諸 族 ほ ど簡 単 に 位 置 づ け で き な い こ と
を 強調 して い る ので あ る。
い わ ゆ る ミャオ文 化 の 特徴 は,エ ーパ ーハ ル トに よる と次 の よ うな もの で あ る。
経 済 形 態 一
山 地 耕 作 を伴 う山地 生 活 で あ って,お そ ら く焼畑 を伴 う掘 棒 耕 の形 式
で あ る。 これ と並 ん で 狩猟 と採 集 活 動 が あ り,時 に は牧 畜 もあ る。 馬
や 羊 を飼 育 す る種 族 も少数 あ るが,そ の 他 の 種族 は牛 か 水 牛 を 専 門 に
飼 って い る。
社 会 組 織一
一
一部 は クラ ンを もつ が,一 部 は も っ て い な い。 しぼ しぼ 祖 先 崇 拝 が
行 なわ れ る。 見 た と ころ父 系 制 が 圧倒 的 ら しい。 春 の祭 りに は 豊穣 儀
礼 と性 的 自 由,ま
り投 げ,掛 け 合 い歌,鬼 竿,若 者 宿 を伴 って い る。
男 女 間 の帯 の交 換 が あ る。 犬供 犠 と虎 祭 祀 もあ る。 盤毒 と関 連 した5
.月5日 の 祭 りが あ る。
宗
464
教一
報 告 が ほ とん どな い。
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
死 者 祭 祀一
棺 に入 れ て の埋 葬,あ
るい は棺 な しに 巻 い て埋 葬 した り,放 棄 した り
す る。
物 質 文 化一
ヤ オ族 の よ うな炉 の つ いた 家 屋 や 洞窟 居 住 の他 に 欄家 屋 つ ま り高床 家
屋 が あ る。 しか しベ ッ ドは ない 。 バ テ ィ ク染 め(蝋 結染 め)と 機 織 り
が 行 なわ れ るが,フ
ェル トも あ る。 ポ ンチ ョ形 式 の 衣 服 もあ る。 短 い
ス カ ー トで,し ば しば プ リー ツが あ る。脚 絆,頭
形 結 髪 と並 ん で椎 髪,つ
巾あ るい は帽 子 。 角
ま り髪 を後 ろに た れ,1た
ば ね に した まげ 。
銅 鼓 と木 鼓 。木 を刻 んで 記憶 の助 け とす る 【EBERHARI)1942a:2741。
そ して エ ーバ ー ハ ル トは ミャオ文 化 を 構 成 す る諸要 素 を次 の よ うに分 け て い る。
a.チ
ワソ文 化 つ ま りタイ 系文 化 。 チ ワ ソ文 化 の諸 要素 が他 を圧 して も っ と も明瞭
で あ り強 力で あ る。 も っ とも経 済形 態 では そ うで は な い。 と言 うの は チ ワ ン族 に反 し
て ミャオ族 は 典 型 的 な 山地 住 民 だ か らで あ る。 ミ ャオ族 は チ ワソ族 と同様 に 大 きな春
の祭 りを も ってお り,大 体 《月 の 祭 り》[跳月]と 名 づ け られ て い る。 この祭 りは 豊穣
儀 礼 の 性 格 を もち,性 的 自由 が許 され て い る。 この性 的 自由 は野 合,さ
らに後 に は 本
式 の結 婚 に通 じてい る。 しか し,本 式 の 結婚 が行 なわ れ た とい うのは,子 供 が 生 れ た
時 に な って は じめ て であ る。 それ ま では 妻 は 実 家 に と どま り,夫 は彼 女 を訪 問す るだ
け で あ る。 この 習俗 は母 系 制 と必ず 関連 を もつ に違 い な い,と い うもの では な い。 義
理 の両 親 の と ころ に住 む よ うに な る の は,夫 が 妻 の妊 娠 能 力 に 確 信 を もち,そ の時 に
な って は じめ て 贈物 を し よ う とす るの が理 由 で あ る。 夫 が まだ 贈 物 を 支払 わ な い うち
は,妻 を 実家 にお い て お く とい うの は 理解 で き る こ とだ。
チ ワソ族 と同様,ミ
ャオ族 も春 の 祭 りで の掛 け合 い 歌,ま
て お り,チ ワ ン族 と同様 に歌 うのが 好 きだ 。牛(あ
り投 げ,帯 の交 換 を 知 っ
るい は 水 牛)は
ミャオ 族 の とこ ろ
で も大 きな 役 割 を果 す 。 彼 らは リ諸 族 と同 様 に 若者 宿 を も って い る。 若 者 宿 は これ ま
た性 的 自由を 伴 った春 の祭 りの全 複 合 体 に 属 して い る ら しい 。
5月5日
の 祭 りは,チ
ワ ン族 に と って重 要 で あ る よ うに,盤 毒 の調 製 や 理 論 と関連
してい る。 ミャオ族 も これ を5月5日
に調 製 す る。 彼 らは チ ワ ソ族 と同様 に鶏 占い を
も ち,さ らに卵 占い や棒 占 いを 行 な って い る。 これ ら占 い は な るほ ど さま ざ まな 文 化
に 由来 す るが,ど れ も これ もチ ワソ文 化 に も存 在 して い る。
ミャオ族 は欄 家 屋 を も って い るが,ど
うも一 部 だけ ら しい。 彼 らは 蝋結 染 め や,プ
リー ツス カ ー トを も って い る。 そ して少 な くと も若 干 の もの は チ ワ ソ族 と同様 に水 を
好 む。 この よ うに チ ワ ソ族 との 類似 は全 く大 変 大 きい。
b.ヤ
オ文 化 。 ヨー ロ ッパ人 ば か りで な く中 国人 もヤオ 族 と ミャオ族 を しば しば一
465
国立民族学博物館研究 報告 20巻3号
緒 に した 。 た とえば海 南 島 の ミ ャオ族 は ヤ オ族 に 近 い 。 お まけ に 宋 代 以前 は ヤ オ も ミ
ャオ も蛮 と呼ば れ,そ の後 もヤ オを ミャオ と呼 ん だ場 合 が あ る(奮 民 を参 照)。
さ らに ヤ オ族 も ミャオ族 もと もに 山 に住 み,焼 畑 耕作 の形 で少 し しか 山地 農 耕 をせ
ず,時 に は農 耕 を せ ず に採 集 狩 猟 生 活 を送 る点 で も共 通 して い る。 ミャオ族 は ヤ オ族
と同様 に 交 叉 イ トコ婚 を行 な い,時 に は犬 供 犠 も行 な い,一 般 的 で は な いが 犬 祖 神話
が あ る。 ミャオ族 は 高床 住 居 を もた な い 時 は,ヤ オ族 の炉 つ き家 屋 を も ってい る ら し
い。 最 後 に,ミ
ャオ族 は角 状 結 髪 を して い る が,こ れ は ヤ オ族 の複 雑 な結 髪 一
しば 髪 の 中 に棒 を 編 み込 む一
c.南
しば
と比 較 され な くて は な らな い。
チ ベ ッ ト(烏 蛮)文 化 。 第1は,ミ
ャオ族 は ロ ロ(舞)族
の よ うだ と何 度 も
言 わ れ る。 それ か ら彼 らは しば しぼ フ ェル トを用 い,し ぼ しぼ 脚 絆 を つ け る。 さ らに
ミャオ族 は 山 の上 に居 住 す る の を好 む 点 で烏 蛮 と同 じで あ る。 若 干 の ミャオ族 は 真 の
牧 畜 民 として記 述 され,他 の ミャオ族 に つ い て は馬 飼 育 と羊 飼 育 が 報 ぜ られ て い る。
多 くの ミ ャオ族 は 烏 蛮 の よ うY'死 体 を 巻 くだ け で,棺 に は 入れ な い。
d. リャ オ文 化 。 少 な くと もい くつ か の ミャオ 族 は リャ=オ族 と関 係 を も って い る。
こ とに クー ヴ ァー ドが そ れ を示 す 要 素 で あ る。 こ とに よ る とまた 他 の要素 が あ るか も
しれ な い。
ミャオ族 の 居住 地 域 は,ヤ オ族,リ ャオ族,烏 蛮,チ ワ ソ族 の居 住空 間 の中 に あ る。
これ だ け 見 て も,ミ ャオ族 がす べ て の方 向 か ら影 響 を 受 け た こ とが判 る。 問題 は,後
に何 回 も重 層 され た 元 来 の ミャオ文 化 とい うもの が あ った か ど うか で あ る。 エ ーバ ー
ハ ル トは,彼 が見 る こ との で きる限 りで は,こ の よ うな もの は な い とい う。
現 在 の ミ ャオ族 の居 住 地域 は,か つ て は い わ ゆ る番 が 住 ん で い た。 番 は彼 が西 方 辺
境諸 民 族 中の 一民 族 群 と して設 定 した 群 で あ って,後 で紹 介 し よ う。 番 とい う名 称 が
な くな った 瞬 間 に,同
じ民 族 が ミャオ とい う名 に な った 。 ミャオ族 の西 の 部分 は,東
の部 分 が 蛮 と呼 ばれ た の と同 じ く らい確 か に 番 と呼 ぼ れ た の で あ る。 番文 化 は混 合 文
化 で,チ ベ ッ ト的要 素 が 優 越 して い る。 この チ ベ ッ ト的 要 素 は ミャオ文化 に も現 わ れ
る。 も しも個 々の ミャオ諸 族 に つ い て充 分 な 資料 が あれ ば,い
くつか の種 族 で は,昔
の番 と同様 に 多 くの チ ベ ッ ト的要 素 を認 め る こ とが で き る と,エ ーバ ーハ ル トは確 信
して い る。他 の ミャオ 諸族 の とこ ろで は,タ イ要 素 や ヤ オ要 素 が多 いだ ろ う。最 後 に,
巴文 化 の名 残 りも見 られ る こ とが期 待 で き る[EBERHAR])1942a:271-273】
g.巴
諸 民 族
工 一 バ ー ハ ル トは 巴 諸 民 族 と し て,江
466
。
夏 蛮,間
中 夷,康
君,汚
中 蛮,巴,巴
建 蛮,
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
板 楯 蛮,岩 渠,賓,据
山,巫 蛮 の11を 挙 げ る。 これ らは す べ て 古代 の 巴 国の 領域 に住
み,中 国人 に よ って互 い に親 縁 関係 が あ る と見 な され た もの で あ る。 ただ 巴 と板 楯 蛮
に つ い てだ け 比較 的詳 細 が 判 って い るだ け だ が,そ れ も神 話 に つ い て で,物 質文 化Y'
つ い て の報 告 は な い(こ れ は誤 り。 後 を見 よ一
で し ま っ た た め に,物
大 林)。 中 国 高文 化 に早 く溶 け こん
質 文 化 は も う 残 ら ず,神
話 だ け が 残 った の で あ る
[EEBERHARD 1942a:304-305]0
エ ーバ ーハ ル トは 古 文献 の 資料 だ け で は 巴文 化 の 再 構 成 は 不 足 だ と して,『 地方 文
化 』 に 出す 資 料 も利 用 して,次 の よ うな仮 説 を 提 出 した 。 巴は 一 つ の別 個 の群 を な し
てい るが,統 一 的 な起 源 で は な い。彼 らの主 な 部分 は ヤ オ群 に 由来 す る。 した が って
板 楯 蛮 と葉 瓠 蛮 につ い て の報 告 が 入 り混 ってい る。 ま た ヤ オ族 の最 古 の居 住 地 も古 代
巴族 の近 くだ った 。 この上 を一 つ の 莞要 素 が 重 層 した。 東 莞 族 へ の 関 係 は しば しぼ 強
調 され,巴
と蜀 の文 化 の類 似 は強 調 され て いた し,実 際存 在 して い た 。 お まけ に,チ
ワ ン文 化 と こ とに よる と リャオ文 化 の要 素 が加 わ った 。
この す べ て を材 料 と して,貴 族 組 織 に反 映 してい る よ うな重 層 過 程 を 通 じて,周 囲
の諸 文 化 よ りも高 度 の文 化 が発 達 し,こ れ が隣 接 諸 文 化 に,こ
とに 番 文 化 とヤ オ族 に
著 し く影 響 を与 えた 。 この文 化 は大 変早 く,お そ くと も前2千 年 紀 に は 形 成 され てい
た ら しい 。 とい うの はそ れ ぞ れ が前2千 年 紀 末 には 形 成 中 の 中 国高 文 化 に す で に影 響
を 与 え た か ら で あ る。 こ の 巴 文 化 は 南 方 の 最 高 の 文 化 で あ る[EBERHARD 1942a:
306]0
そ してエ ーバ ーハ ル トは 他 の 民族 群 と異 な って巴 諸 民 族 は特 徴 的 な文 化 要 素 の一 覧
を試 み てい な い。 た だ文 化 の 構 成要 素 中 で 虎神 話 や 人 身 供 犠,洞 窟 出現 神 話,黒 や 赤
の よ うな特 定 の 色 と民 族 と の結 びつ き に触 れ て い る程 度 で あ る 【EBERHARD 1942a:
305-306]o
h.白
蛮諸 民族
エ ー ・ミー ハ ル トは 白蛮 諸 民 族 と し て 次 の44種 族 を 挙 げ た 。 阿 焚,棘
夷,癬,茜
歯,
建 怜,金
復 夷,孔
苔,痢
歯,清
五(烏),連
漢,僕
癬,蒲
羊 鬼,潰,丁
蛤 蛮,情
然,馬
普 通,靡
莫,黒
家,弄
棟 蛮,白
痢,民
人,撲
劇(蒲
刺),蒲
菖,董
蛮,尾
撲,野
これ ら44種 族 は 雲 南 に 住 み,中
羅,普
蒲,葉
焚 暴,西
饗,休
児 子,提
勒,撲
臓,裸
夷,白
蛮(蒲
夷,白
蛮),普
楡 で あ る 【EBERHARD 国 人 に よ っ て 雲 南 の2大
黒,姑
人,比
磨,普
苞,焚,白
特,水
蛮,
罷 夷,地
1942a:306-322】
。
種 族 群 の 一 つ と し て,ま
烏 蛮 に 対 立 す る群 と して 認 め られ て い た も の で あ る 【EBERHARI)1942a:322】
た
。
467
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
エ ーバ ー ハ ル トは,白 蛮 に お い て広 西 の チ ワ ソ文 化 と極 め て近 い親 縁 関 係 に あ る一
つ の タイ文 化 を認 め な くて は な らな い,と 言 って い る。 本 来 の チ ワ ン文 化 か らは あ る
種 の逸 脱 が あ るが,そ れ は一 部 は烏 蛮 に よ って重 層 され,あ る い は オ ース トロア ジ ア
語 族 と接 触 した こ とで 説 明 で きる。 他 方 で は,地 理 的 環境 が違 う とい うこ と も一 役 を
演 じて お り,最 後 に チ ワ ソ族 の文 化 もそ れ 自身 決 して全 く純 粋 なわ け では な く,白 蛮
が 受 容 しな か った よ うな要 素 も含 ん で い るか らだ。 白蛮 文 化 は 明瞭 に唐 代 まで,不 明
瞭 に な らぽ漢 代 や 漢 代 以 前 に まで遡 る こ とが で きる。 そ れ は雲 南 とそ の辺 境 諸 地 域 に
局 限 され て い る。
白蛮 文 化 の特 徴 は次 の とお りで あ る。
経 済 形 態一
農 耕,お そ ら く水 稲耕 作 。 純粋 な河 谷 居 住 民 。 山 は避 け る。
社 会 組 織一
父権 で一 部 は 大 変 は っき りして い る が,一 般 的 に は 弱 ま っ てい る。 結
婚 は 自由で,大 部 分 は豊 穣 祭 の 時 に行 なわ れ る。女 性 は結 婚 前 に は 大
きな性 的 自由を もつ。 時 には 労役 婚 もあ る。 ブ ラ ン コを伴 う春 の祭 。
水 を掛 け るの が 婚 約 の しる しで あ る。
宗 r' 呪 的信 仰,動 物 変 身 の信 仰,藍 毒 。
死 者 祭 祀一
棺 を埋 め,し ば しば棺 を放 棄 す る。 火葬 は 元 来 の もの で は な い。
物 質文 化一
高 床 家 屋(欄)。
イカット
耕 染 め 。 桶 型 ス カ ー ト,樹 皮 や 花 で つ くった 布 。
タ ーバ ン,頭 髪 中 に羽 毛 を挿 す 。髭 。文 身。新 生 児 を洗 う。水 を 好 む 。
武 器 と しては 弩,刀 剣 と槍[EBERHARD i.蛋
1942a:326】。
諸 民族
エ ーバ ー ハ ル トは蛋(蛋)諸
民 族 として裸 本,盧 亭,馬 人,蛋 家 を 挙 げ た が,そ の
うち裸 本 は盧 亭 と 同 じだ か ら3種 族 だ け で あ る 【EBERHARD 1942a:326-330】 。
この資 料 か ら判 断 で き る限 りでは,蛋 は オ ー ス トロネ シア語 族 で あ る ら しい。 つ ま
り古 い オ ース トロネ シ ア語 族 と同様 に,一 部 は陸 上 で竹 加 工 者 と して,一 部 は 水上 で
海 洋 民 族 と して別 々 に生 活 して い る オ ース トロネ シ ア語族 で あ る。注 目す べ き こ とは,
彼 らは 本 来 の大 洋 航 海 民 で は な く,資 料 か ら読 み とれ る よ うに,河 川 航 行 か ら大 洋 航
海 へ 至 った の で あ る。
この 文 化 の 特徴 は次 の とお りで あ る。
経 済 形 態一
農 耕 を しな い船 上 住 民,あ る い は 山 中で の竹 編 み 民 。
社 会 組 織 と死者 祭 祀一 一 何 も知 られ て い な い。
宗 教一
468
蛇祭祀。
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
物 質 文 化一
j.越
捕 魚,真
珠 採 り,髭,耳
環,腕
環 【EBERHARD 1942a:331]。
諸 民族
エ ーバ ーハ ル トは越 諸 民 族 と して次 の17を 挙 げ た。 楚,且 甑,夷 州,夷 越,琉 球,
酪 越,閾,南
磐,甑,甑
騎,番
禺,山
越,宣
洲,呉,揚
越,越,越
裳であ る
【EBERHARD 1942a:331-3411。 この 中 に楚 も入 って い る こ と,ま た琉 球 や 亘 洲 も含 ま
れ て い る こ とに注 意 して お こ う。
これ ら17民 族 は 一 部 は 中 国人 に よ って越 諸 民 族 と して ま とめ られ た もの で あ り,一
部 は これ ら越 諸 民 族 の近 くに住 み,こ れ ら とお そ ら く結 び つ きが あ った に違 い な い諸
民 族 で あ る。 これ らは み な 古代 の民 族 で 前6世 紀 か ら漢 代 に至 っ て い る。 漢代 末 を も
っ て厳 密 な民 族 名 と して の越 は消 滅 し,な お散 発 的 に 地 理 的名 称 と して現 わ れ るだ け
で あ る。 これ ら資 料 に よれ ば,越 諸 民 族 は 山東 沿 岸 か ら江 蘇,安 徽,江 西,漸 江,福
建,湖 南 をへ て,広 東,広 西 ま で,そ れ ど こ ろか トンキ ソ(ベ
トナ ムの 北 部),貴
州
の境 まで 住 ん で いた に 違 い な い。 この よ うに 広 大 な地 域 の住 民 は 消滅 した わ け で は な
く,こ れ とい った大 移 動 も報 告 され て い ない 。 北部 の越 系 住 民,つ ま り山東,江 蘇,
安徽 の越 系 住 民 は非 常 に早 く漢 化 して しま った 。漢 代 以 後 にか つ て の越 領 域 に 現 わ れ
る異民 族 は 何 らか の形 で越 と関 係 が あ る に違 い ない[EBERHARD l942a:342】。
彼 に よれ ぽ 越 の文 化 は単 一 的 で な い。 もっ と もそれ は南 方 にお け る最 高 の文 化 の一
つ だ が。 西 湖 南 の 山地 とい う原 郷 か ら東 方 の平 野 に拡 大 した ヤ オ族 を 根幹 と して,そ
こで河 谷 居 住 か ら平野 居 住 に移 行 せ ざる をxな か った元 来 河 谷 居 住 民 の 猿(チ
ワ ン)
族 と出会 っ た。こ う して生 じた 混合 過 程 か ら越 文化 が発 生 した 。上述 の よ うに エ ーバ ー
ハル トは ヤ オ族 と螢 民 を基 本的 には オ ース トロネ シ ア語 族 だ が,た だ 特 殊 化 の仕 方 が
違 うだ け だ と考 え てい る。 同様 に越 人 の と ころ で も オ ー ス トロネ シア語 族 の二 つ の特
殊 型 が 見 出 され る。 つ ま り,山 地 住 民 と水 上 住 民 の存 在 が 示 唆 され てい るの だ 。 そ こ
で エ ーバ ーハ ル トは越 人 を 一種 の オ ー ス トロネ シア語 族 だ が,タ イ族 の要 素 が 加 わ っ
た もの と解 釈 した。 こ の タイ 族 の要 素 は所 に よ って 強度 が さ ま ざ まな の であ る。 だ か
ら越 文 化 は か くもさ ま ざ ま な外 観 を呈 す るの だ 。 エ ーバ ー ハル トは広 東 や 広 西 で 越 と
呼 ぼれ てい る人hを,大
き な保 留 つ きで越 と呼 び た い とい う。 と言 うの は彼 ら の文 化
に つ い て報 告 され て い る ものは,大 部 分 越 文 化 で は な くて,タ イ 文化 か ヤ オ文 化 だ か
らで あ る。
エ ーバ ー ハル トは越 文 化 の 内容 を 次 の よ うに ま とめ て い る。
経済 形 態 一
予 め 田 を焼 く水 田耕 作(火 耕 水 褥)。 牛 は重 要 だ が,馬 は ない 。
469
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
社 会組 織 一
国家 形 成 の端 緒 。
宗 教 一
蛇 崇 拝 は あ るが,死 者 祭 祀 は何 ら知 られ て い な い。
物 質文 化 一
太 鼓 として用 い られ る臼,良 い 刀剣 と,そ もそ も優 秀 な金 属文 化,鉄
と銅,ベ
テル を噛 み,文 身,鼻 飲,水 を 好 む,航 海 者,盤 毒,ポ
ョ式 衣 服(貫 頭衣)[EBERxaRD k.そ
ンチ
l942a:346】。
の他諸 民族
エ ー バ ー ハ ル トは,そ
の 他 の 南 方 諸 民 族 と し て 次 の60民 族 を 挙 げ た 。安 化 蛮,占
婚 夷,長
沙 蛮,真
沐,交
扶 南,符
奴,撫
葛 蛮,広
原 蛮,鬼
奴,殊
人,狼,浪,林
邑,i冷,零
酒,雛
民,蛮
人,南
額 子,山
夷,狙,憺
狼 苗,曼
州 夷,炎
羅 漢 苗,羅
土 人,文
臆,診
水 蛮,1孝,銃
狼 人,烏A蛮,武
る 【EBE㎜
1,資
趾,金
人,合
岡 蛮,冴,伴
浦 蛮,宜
岡 蛮,曇
不 事 人,朱
原 蛮,猿,黄
安 化 蛮,婚
州 蛮,日
州 夷,豫
南,零
2.ど
の 民 族 群 に 属 す る の か 確 か で な い も の一
支,葬
子,葛
人,羅
人,南
江 蛮,白
漢 苗,蛮
蛮,広
原 蛮,鬼
額 子,狙,僧
智,充
支,宜
州 蛮,葬
1.南
南,林
人,雛
題,自
深,
部 蛮,月
烏,庸
であ
酒,維
洞 夷 人,
診 沐,朱
崖,穿
不 事 人,充
民,山
夷,雛
州 蛮,
題,
烏。
奴,狼
人,狼,浪,狗,六
耳,轍
人,土
人,烏
の 本 で 取 り扱 う地 理 的 範 囲 の 外 の 民 族 で あ る が,比
趾,扶
耳,厳
鱗,羅
3.こ
,真 臆,交
南,
額 子,六
頼 蛮,究
。
占城
子,日
女,
に 分れ る。
炎 人,庸
一
州 蛮,種
鱗,六
人,豫
沙 蛮,金
陵 蛮,流
狼 人,武
西 原 蛮,猿,黄
部 蛮,月
夷,長
自深,文
崖,穿
陵 蛮,流
こ れ ら 諸 族 は 次 の3類
料 が 充 分 で な い も の一
人,合
浦 蛮,西
江 蛮,白
1942a:346-3661。
符 奴,{孝,統
頼 蛮,究
城,
邑 【EBBRxaitD 宵,種
女,撫
額 子,六
潜 蛮,冴,祥1狼
水 蛮,
洞夷
苗,
較 資 料 と して 挙 げ た も の
1942a:367-370】
。
方 辺 境 諸 民 族 の構 成
以上 が エ ーパ ーハ ル トが南 方 辺 境 諸 民族 を構 成 す る と して挙 げ た11小 群 で あ る。 し
か し これ ら の大 部分 は大 き く見 れ ば2群 に ま と ま る。
第 一 の群 は タイ 系 民族 で あ るチ ワソ諸 民族 を 含 ん で い る。 河 谷 居 住 者 で 水 田 で稲 を
つ く り,ゆ るや か な 父権 的 組 織 を もつ が 多 くの母 権 的 混 入要 素 を 含 む 。 この文 化 の中
心 は 広西 だ った ら しい 。 しか し,こ の文 化 は広 東 全 域 に侵 入 し,福 建,漸 江,江 蘇,
江 西,湖 南,貴 州,四 川 と雲 南 の諸 省 に も認 め られ る。 これ を 越axて さ らに イ ソ ドシ
ナに 拡 が って い る。
470
大林 中国辺境諸民族 の文化 と居住地
この文 化 は どこに お い て も純 粋 に保 た れ て来 たわ け では な い 。 た とえぽ 雲 南 で は さ
ま ざ まな接 触 の結 果,白 蛮 文 化 が 特 別 の 文化 と して形 成 され た 。東 方 では,ヤ オ文 化
要 素 と混合 して越 文 化 の形 成 が 行 なわ れ た。 貴 州 や 四川 にお け る局 地 的 な諸文 化 に お
いて,タ イ文 化 は か な り変 貌 した 。
第 二 の群 と しては ヤ オ諸 民 族 と螢 族 が あ り,エ ーバ ー ハル トは どち ら も古 オ ース ト
ロネ シア語 族 と見 な して い る。 彼 らは 山 で焼 畑 耕 作 を営 み,犬 祖神 話 を も って い る。
彼 らの うち別 の一 部 は 水上 で特 殊 化 して船 上 生 活 民 に な った 。
古 代 に お い て は越 諸 民族 が文 化 的 にみ る とオ ー ス トロネ シ ア語族 中,最 高 の部 分 で
あ った 。越 文 化 は ヤ オ文化 に チ ワ ン文 化 が著 し く混 入 してで きた もの で あ る。越 の崩
壊 と と もに,あ る いは,そ の イ ン ドシ ナ(安 南 と トンキ ンつ ま りベ トナ ム)へ の移 動
とと もに,あ る いは 中 国 高文 化 中 に解 消 して しま う と ともに,高 い 水準 にあ った越 文
化 か ら退 行 した も のが 再 び 今 の ヤ オ族 と蛋 民 と して現 わ れ た の で あ る。
さ らに 南 方諸 民 族 の 中 に は,オ ー ス トロア ジ ア系 の リャオ族 が あ る。 しか し彼 らは
純 粋 の 形 で は残 っ てお らず,大 部 分 は チ ワン族,あ
る い は ヤ オ族 に大 幅 に 同化 して し
ま った ら しい。
そ の ほ か,巴,ケ
ラオ,ミ ャオ,リ ャオ にか な り強 力 な チ ベ ッ ト文 化 の影 響 が 及 び,
これ らの文 化 の本 来 の 形 を変 えた 。
華 南 に お い て は民 族 間 関 係 は,中 国北 部 や西 部 と比 べ ては るか に複 雑 で あ る。 した
が って,華 南 に お いて は 中 国人 自身 に よる民族 分 類 も北 や 西 に 比 べ て不 確 実 で あ る。
オ ース トロア ジ ア語 族,オ
で あ る とす れ ぽ,こ
ース トロネ シア語 族,タ
の3語 族 が分 れ た のは,今
イ語 族 が 基 本 的 に は相 互 に 親縁
日の 華 南 の地 に お い て で あ った ろ う
[EBERxaaD 1942a:371-372]0
ヤ オ文 化 は 湖南,湖 北 の地 で形 成 され,タ イ文 化 はむ しろ広 東,広 西 の平 野 で形 成
され た もの ら し く,中 国東部 の越 文 化 の地 は,こ れ ら二 つ の文 化 の二 次 的 な拡 大 地 域
つ ま り植 民 地 域 な の で あ る。
全 体 と して 混合 群 な のは ミャ=オ族 もそ うで あ る。 番 族 の子 孫 が ヤ オ族 化 し,そ れ が
リャオや タイ に よ って影 響 を 受 け,最 後 に さ らに チ ベ ッ ト族 に よ って重 層 され て 出 来
た もので あ る。 しか しこの過 程 が い つ行 な わ れ た か 明 らか で ない 。 けれ ども最 後 の チ
ベ ッ ト人 に よ る重 層 は早 け れ ぽ前2千 年 紀 初 頭 ,遅 けれ ぽ8世 紀,つ ま り唐 代 に烏 蛮
が活 躍 した こ と と関係 づ け られ るか も知 れ な い 。
巴 もチベ ッ ト化 した オ ー ス トロネ シア語 族 で あ る。 この過 程 が い つ始 ま った か 明 ら
か で な いが,前3世
紀 よ りも前 で あ る。 巴 文 化 は優 越 性 を もつ よ うに な り,そ れ と と
471
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
もに他 の近 隣 諸 文 化 に対 して衝 撃 力 を 行使 した 。 巴 文 化 の形 成 とそ の近 隣諸 文 化 へ の
作用 は,北 方 に お け る 中 国高 文 化形 成 の過 程 に比 す べ き ものが あ る。
これ よ りも重 要 性 が 少 し劣 る のは越 文 化 で あ って,相 違 点 とい えぽ,中 国高 文 化 の
進 出 のた め,巴 文 化形 成 に おけ る よ うに過 程 を もは や 終 りま でや りとげ られ なか った
こ とで あ る。
リ族 は タイ 族 に よ って著 し く重 層 され た ヤ オ族 で,ケ
ラオ族 は タイ 族 が重 層 した リ
ャオ族 で あ る ら しい 。
エ ーパ ーハ ル トは 次 の よ うに想 像 した。 原 チ ベ ッ ト人 は 四川 に住 み,そ の東 隣 りに
原 オ ース トロネ シ ア語族,そ れ に並 ん で東 南 に原 タイ 語族 と原 オ ー ス トロ アジ ア語 族
が住 ん で いた 。 この 原郷 か ら,一 つ の 流れ は西 と西 北 に,他 の流 れ は ゆ っ く りとい く
つ もの波 を な して 南 と東 に進 んだ ので あ る。
そ して 中国 高 文 化 は,こ れ ら辺 境 諸文 化 が重 層 す る こ とに よっ て発 生 した の で あ っ
た[EBERHARD 3.西
1942a:417-4221。
方 辺 境 の二 つ の民 族 群
南方 辺 境 諸 民 族 に つ い て の エ ーバ ーハ ル トの説 を 理 解す るた め に は,彼 が南 方 辺 境
諸 民族 と して ま とめ た 民族 を見 るだ け で は不 充 分 で あ る。 それ 以 外 に 彼 が 西方 辺 境 諸
民 族 と して ま とめ た チ ベ ヅ ト=ビ ル マ語 系 諸 民 族 の 一部 も参 照 しな くて は な らな い。
そ れ は チ ベ ッ ト=ビ ル マ系 諸 民 族 の一部 は西 南 中国,こ
とに雲 南 省 や 四 川 省 に広 く分
布 して い るか らで あ り,ま た 南 方 辺 境諸 民 族 の うち,上 述 の よ うに 巴 諸 民族 や ミャオ
諸 民族 な どには,彼 の考 え で は チベ ッ ト=ビ ル マ系 民 族 か らの影 響 が 大 きか った とい
うか らで あ る。
エ ーバ ーハ ル トは西 方 辺 境 諸 民 族 を,(g)莞
烏 蛮諸 民 族,(j)番
諸 民 族,(k)そ
諸 種 族,(h)西
チ ベ ッ ト族,(i)
の 他 の 西 南諸 民族 に分 け た が,こ
こで問 題 に し
た い のは,烏 蛮 諸 民 族 と番 諸 民 族 で あ る。
a.番
諸 民 族
工 一 バ ー ハ ル トが 《番 群 》 と して 挙 げ た の は,次
利,騰
番,方
番,黒
帳 房 生 番,西
趙,洗
馬 姑,西
の32民 族 で あ る 。 張 番,程
南 番,小
羅 計,羅
番,羅
星,羅
典,羅
坐,盧
番,木
瓜,巴
龍 番,多
嶺,東
謝,萬
寿,王
番,章
番,夜
回 で あ る 【EBERHARD 472
猪,八
龍 番,謝
番 苗,巴
番,謝
翠,石
番,計
蛮,流
番,蘇
求,
綺,大
1942a:129-136]。
大林 中国辺境諸民族 の文化 と居住地
これ ら番 は,す べ て 今 日の貴 州省 と,広 西 の北 西 部 に住 み,報 告 は ほ とん ど宋 代 に
限 られ て い る。 エ ーバ ーハ ル トの考 えで は,宋 代 以 前 に は これ ら諸 族 の居 住 地 に,漢
族 が まだ 侵 入 して い なか った か らで あ る。 つ ま り,中 国人 の植 民 化 の 線 は,こ の地 域
を迂 回 した の で あ る。この 植 民地 化 の線 の一 つ は 裏 陽(湖 北)か ら漢 口をへ て長 沙(湖
南)へ 通 じ,そ こか ら二 つ に 分 れ,一 つ は 直接 南 下 して 広 州 へ行 き,も
う一 つ は桂 林
(広西)を へ て 梧州 へ 行 き,そ こか ら水 路 を広 東 に行 く。 この場 合,こ の 地域 を西 に
お く こ とに な る。
別 の植 民 化 の 線 は,成 都(四 川)か
ら越蕎(四 川 省 西 南部)を へ て雲 南 府(昆 明)
に行 き,そ こか ら西 に騰 越 に,さ らに イ ソ ドに 行 く線 で,こ れ は この地 域 を 東 に お く
こ とに な る。
後 世 重 要 に な る植 民化 の横 断 線,つ ま り,漢 口か ら重 慶 を へ て 成都 に行 く線 や,ま
た別Y'梧 州(広 西)か
ら南 寧 を へ て 河 を遡 って 雲南 府 に至 る道 も,同 様 に この地 域 を
横 断 しな い。 宋 代 に な って初 め てゆ っ く りと進 入 が始 ま り,今 日もま だ完 結 して い な
い 。 だ か ら宋 代 以 前 に報 告 が少 ない の で あ る。
宋代 以後 に この地 域 の番 につ い ての報 告 が な くな るのは こ とに 明 代 に な っ て苗 族 と
して現 われ るか らで あ る。
残 念 な が ら,番 に つ い て のす べ て の記述 は大 変 簡 単 で,良
くない。 名前 しか 報 じて
ない の が 大部 分 で,そ れ は 祥何 と夜 郎 の記 述 のす ぐあ とに記 され て い る。 この両 民 族
は エ ーバ ーハ ル トに よ る と烏蛮 系 で あ る。番 の一 つ の羅 典 は別 の と ころ で舞(ロ
ロ)
種 族 と呼 ば れ,烏 蛮 に数 え られ る。 それ や これ を考 え 合 せ る と,番 は 烏 蛮 と親 縁 で,
ともに 広 義 の チ ベ ッ ト系 諸 民 族 に属 す る[EBERHARD 1942a:137-138】 。
番 の文 化 を考 え る に当 り,黒 張房 生 番 は,近 代 の報 告 しか な く,居 住 地域 も違 い,
文 化 も莞 族 と一 致 して お り,番 の議 論 か ら除 外 しな くて は な らな い。
それ では 番 の文 化 と して,ど の よ うな こ とが言 え るか とい うと,山 地 居 住(西 趙),
熊 の毛 皮 の縁 な し帽子 と,長 靴,ウ
ールの 衣 服,脚 絆,焼 畑(東 謝)で,こ
れ らの要
素 は烏 蛮 と共 通 す る。
そ の他 の点 では 南方 諸 民 族 との関 連 が も っ と強 く出 て い る。つ ま り氏 族 組 織,椎 髪,
斑布(西 南 番),夫 婦 別 居(羅 坐),少 女 が 農 耕,木 臼,規 則 的 な市,春
の祭 り(八 番
苗),樹 上(高 床)居 住 と銅 鼓(東 謝)で あ って,同 様 な 像 を ミャオ 族 の と ころ で も
見 る こ とが で き る[EBEaxaaD 1942a:137-138】。
エ ーバ ー ハ ル トは,番 の文 化 は一 方 で は禿 文 化,他 方 で は南 方 諸文 化 と関 係 を もつ
点 に お い て,一 種 の重 層 に よ って 出来 た群 と考 え,こ の番 文 化 の地域 の東 部 四川 は 古
473
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
代 に 巴 文 化 が 発 生 し た こ と を 指 摘 し て い る[EBERHARD b.烏
1942a:174】 。
蛮諸 民族
エ ーバ ーハ ル トは烏 蛮 諸 民 族 と して,次 の96民 族(重 複 か と思わ れ る もの も含 む)
を 挙 げ た。 義 昌(阿 昌),阿 者 羅 羅,阿 蝸,阿 鈎,阿 都,阿 烏 保 狸,一長 揮 蛮,庶 砦,
撒 彌(Che'‐mi),車
蘇,撒 完,強 宗,九 道,屈 都,海
西子,海 裸 狸,黒 羅 羅,黒 暴,
砦磨 徒,析 怒,休 制,雪 松 村 人,乾 夷,保 裸,保 狸,寄 羅,狢 漉,果 葱,古 宗J苦 葱,
浪 宥,老 烏,力 砦(揉 狸),羅(羅
羅 旬,羅 婆,漉 漉,漉
部),狸 裸,羅 伽,羅 鬼,落 蘭,羅 羅,狸 落,羅 蒙,
芒,魯 兀,蒙 詔,蒙 析,蒙 舎,蒙 嵩,彌 鹿(彌 勒),妙
狸 猴,
磨察(木 察),磨 些,磨 彌,鷹 沙,狗 機(栂 鶏),南 詔,女 官,怒 子,巴 宜,巴 凡 兀姑,
白脚6果狸,白 衣,白 保 獺,白 羅 羅,悶 畔,歩 雄,撒 彌(Sa-mi),洒
山蘇,施 浪,施 蛮,大 頭 保 狸,特 磨,澄 談,頭
泥,沙 麻,沙 窩,
目,祥 何,自 杷,刺 毛,暴,徒
莫 祇,
東嚢,蝸 諾 竜,烏 撒,烏 蛮,烏 蒙,烏 慶 蛮,烏 白蛮,烏 孫 泥 阻,烏 饗,夜 郎,子 矢,
越 嵩 で あ る 【EBERHARD 1942a:97-122]。
これ ら烏 蛮 諸 民 族 は 中 国人 の 分 類 に も とつ い て ま とめ られ た。 そ の分 布 は 今 日の雲
南 省 で あ っ て,こ の 省 の外 に は 少 し しか 出 て い な い(四 川 省 南部,貴 州 省 東部,広 西
省 東部,ベ
トナ ム,ミ ャ ンマ ー,シ ャ ンス テ ー ツ)【EBERHARD 1942a:1231。
これ ら烏 蛮 諸 民 族 は 西洋 の 学 者 が チ ベ ッ ト=ビ ル マ諸 民 族 と名 づ け て い る もの で あ
る。 チ ベ ッ ト=ビ ル マ 語 族 の 中 で も本 来 の チ ベ ッ ト人(エ
ーバ ー ハ ル トのg群
とh
群)と 親 縁 の一 群 で あ る。 烏 蛮 は チ ベ ッ ト人 に文 化 的 に 似 て い る。
烏 蛮諸 民 族 は 焼 畑耕 作 あ るい は純 粋 の牧 畜 を行 な い,山 地 の か な り高 い と ころ に住
む 。 この群 の諸 民 族 は 漢代 以 来知 られ てい るが,よ
り正 確 な 報告 は唐 代 以 後 に な って
は じめ て伝 え られ る よ うにな った 。 エ ーバ ーハ ル トが取 り扱 った資 料 は近 代 へ の境 ま
で 達 して い る。 そ うや っては じめ て充 分 な 材料 を見 つ け る こ とが で きた ので あ った。
烏 蛮文 化 の特 徴 は 次 の とお りで あ る。
経 済形 態 一一 一焼 畑 褥耕,単 純 な穀 物 の栽培 。 あ ま り高 度 の 高 い と ころや 北部 に お い
て は,羊
と馬 の 飼 育。 そ れ に ヤ クの飼 育 も行 なわ れ る。 これ と並 ん で
狩 猟 や漁撈 も行 な われ る。 これ ら諸 民 族 の よ り古 い経 済 形 態 は遊 牧 だ
った可 能 性 が あ る。
社 会組 織 一
女 性 の重 要 性 が 目を惹 く。 こ とに よる と元 来 母権 的 だ った こ とを示 唆
して い る のか も知 れ な い。確 固 た る種 族 組 織 や ク ラ ン組 織 は 欠如 し,
また首 長 制 も欠 け て い る。 た だ著 し く重 層 した民 族 地 域(た
474
とえ ぽ黒
大林 中国辺境諸民族 の文化 と居住地
ロ ロ族 地域)に お い て の み社 会 的 成 層 が 現 れ る。 交 叉 イ トコ婚 は 稀 で
あ る。
宗 教 一
著 しい 呪術 信 仰 が 目を 惹 くが,そ の本 来 の 性格 は報 ぜ られ て い ない 。
天 へ の 供犠 が時 々報 告 され て い る。6月24日
に火 把 節 が あ る が,お そ
ら く年 の半 ば の祭 りで あ る。
死 者祭 祀 一
死 者 を くる み,火 葬 す る。
物 質文 化 一
材 木 や板 で作 った 小 屋,時 には こけ ら葺 きの屋 根 。 家 屋 の形 は おそ ら
く方 形 。屋 内 には 寝 台 は な い ら しい。 衣 服 は フ ェル トや 羊毛 製 で,帯
が つ い て い る。 革 靴,脚 脾,タ ーバ ソ。 何 本 か の編 み 毛 が あ る。 髭 は
お そ ら く大 部 分 抜 き取 られ る。 耳 環 。 肌 色 は濃 い。 毛皮 を マ ン トと し
て着 る こ とが あ る。 しば しば ミル ク,バ タ ー,バ タ ー茶 を摂 る。 植 物
の 茎 か ら 占 う。 武 器 と して は 弩,楯,冑,弓,刀
剣 【EBERHARD
1942a:128-129]a
エ ーバ ー ハル トが 指摘 す る よ うに,全 体 と して この群 は チ ベ ッ ト=ビ ル マ語 族 の ロ
イ
ロ(舞)諸
族 で あ る 。 莞 文 化 と共 通 性 も あ る が ,異 な る と こ ろ も あ る の は オ ー ス ト ロ
ア ジ ア 系 住 民 の 上 に 重 層 した か ら で,形
[EBERxnRn 4.諸
質 的 に も そ の 結 果,肌
が 黒 くな った の で あ る
1942a:174]0
地 方 文 化 との比 較
エ ーバ ー ハル トは1942年 に 『辺 境 諸 民族 』 ぼ か りで な く 『古 代 中 国 に おけ る地 方文
化 』 も刊行 した 。 ア ン カ ラに住 み,か つ 大戦 が 進 行 中 とい う状 況 の も とで,北 と西 の
諸 地 方文 化 を論 じた上 巻 は ライ デ ンで,南
と東 の諸 地 方文 化 を取 り扱 った下 巻 は 北京
で刊 行 され た 。 『辺 境 諸 民 族 』 が 辺 境 諸 民 族 につ い て の資 料 を整 理 し,分 類 した もの
であ るの に 対 し,『 地 方 文 化 』 は 主 と して漢 民 族 自身 の民 俗,伝 承 に つ い て の記 録 の
中か ら,中 国高 文 化 の誕 生 に寄 与 した と思わ れ る地 域 的 な文 化 複 合 を い くつ か 摘 出 し
た もの で あ る。 この 二種 の作 品 は 互 い に他 を前 提 と して い る。 つ ま り諸 地 方 文化 が,
タイ 文 化 とか ヤ オ文 化 とい う名 を も って命 名 され た の は,ま
さにr辺 境 諸 民 族 』 に お
いて,そ れ ら民 族 群 の文 化 複 合 が再 構 成 され て い た のを 手 が か りV'で きた か らで あ り,
他 方,『 辺 境諸 民族 』 の い くつ か の民 族 群 は,文 化 内容 につ い て の記 録 が 貧 弱 な た め,
文 化 複 合 を再 構 成 す るた め には,r地 方 文 化 』 の結 果 に依 存 して い るか らで あ る。
これ か ら 『地 方 文 化 』 の 中か ら,本 稿 の範 囲 に関 す る文 化 につ い てr辺 境 諸 民 族 』
475
国立民族学博物 館研究報告 20巻3号
の結 果 と簡 単 な 比 較 を試 み る こ とに した い。彼 が 基本 的 な文 化 複 合 と考 えた ヤ オ文 化,
チ ワソ(タ イ)文 化,リ
ャオ文 化 を まず取 り上 げ,次 に 彼 が 二次 的 な文 化複 合 と考 え
た越 文 化 と巴文 化 とを 取 り上 げ る こ とに す る。
エ ー・ミーハル トは 『地 方 文 化 』 下 巻 で ヤオ文 化 を論 じ,系 列39か ら51ま で の13系 列
を設 定 した。そ れ ら系 列 とは,3月3日
の 祭,犬 祖 神 話,猿 と山 の精,火 の神 々,鶴,
禺 の踊 り,弓 の 射 手,月 の女 た ち,焼 畑 農 耕,料 理 容器,山 上 の墓,妻 貸 し,恋 歌(歌
垣),伝 染 で あ る[EBERIiARD 1942c:5-131]。
これ ら諸 特 徴 のか な りの もの は 『辺 境 諸 民 族』 で も挙 げ られ て い る。 つ ま り犬 祖 神
話,焼 畑 農耕,恋 歌(歌 垣)な
どで あ る。 しか し,い ず れ か 片方 に しか 出て こな い特
徴 も少 な くな い。 『辺 境諸 民 族 』 で は親 族 集 団 や 家屋 に つ い て い ろ い ろ特 徴 が挙 げ ら
れ て い るが 『地 方 文 化 』で は あ ま り取 り上 げ られ て い な い。反 対 にr地 方 文 化 』 で は,
犬祖 神 話 以外 に もい ろい ろ な 神話 伝 説 が 論 ぜ られ て い る。
次 に タイ文 化 に うつ ろ う。 これ は 『辺 境 諸 民 族』 の チ ワ ン文 化 に対 応 す る もの で あ
る。 『地 方 文 化 』 では 系 列52か ら70ま で の19系 列 が論 ぜ られ て い る。 つ ま り恋 愛 呪 術
(盤 を含 む),人 身 供 犠,牛 供 犠,三 足 の亀,蛙,稲,神
農,九 竜,農 耕 供 犠,雷 神,
象,樹 皮 布,女 た ち,ベ テル の 実,文 字 を書 く精 霊 た ち,男 子 結 社,仮 面 行 列,死 者
で あ る[EBERHARD 1942c:132-363]。
これ ら諸 民 族 の うち水 稲 耕 作 や 盤 は チ ワ ン文 化 に お い て も挙 げ られ て い る も のの,
他 は ほ とん ど挙 げ られ て い ない 。 そ れ らは 『地 方 文 化』 に お い て新 た に論 じ られ た も
ので あ る。 他 方,親 族 組 織 や 物 質 文 化 に お い て は チ ワン諸民 族 の文 化 に 独 自の項 目が
あ る。 こ こで 注 目す べ き こ とは,『 辺 境 諸 民 族 』 では チ ワ ソ諸 民 族 以 外 に リ諸 民族 の
文 化 に も,『 地 方 文 化 』 の タ イ文 化 に 対 応 す る も のが い くつ か 含 まれ て い る こ とで あ
る。 た とえば 若 者 宿,牛 供 犠,盛 呪 術 で あ る。
『地方 文 化 』 の リャオ文 化 は系 列80と81の2系
列 だ け で あ って,宇 宙卵 神 話 と首 狩
(頭蓋 崇 拝 を 含 む)が 論 ぜ られ て い る[EBBRxAxD 1942c:467-488】 。 『辺 境 諸 民 族 』
の リャオ諸 民 族 に も頭蓋 崇拝 が挙 げ られ て い る が,宇 宙 卵神 話 は特 徴 と して 出 てい な
い。 反対 に 『辺 境 諸 民族 』 で は,経 済,社 会,宗 教,物 質文 化 にわ た る一 連 の要 素 が
挙 げ られ て い る。
『地 方文 化 』 の越 文 化 は系 列71か ら79ま で の9系 列 を 含 ん で い る。 つ ま り防風 神,
銅 鼓,鉄,蛇
崇 拝,竜
舟 競 争,図
豫 呪 術,骨
な し王,鐘,鶏
で あ るIE朋RHARD
1942c:364-4661。 r辺 境 諸 民 族 』 の越 諸 民 族 の文 化 に も蛇 崇拝,鉄,金
属技 術 は 挙 が
っ てい るが,神 話,儀 礼 は 出 て いな い 。 しか しr辺 境 諸 民族 』 は,一 般 的民 族 誌 的 な
476
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
項 目の挙 げ 方 を して い る。
最 後 に 巴文 化 を見 よ う。 これ は 『地 方 文 化 』 上巻 で,系 列29か ら38ま で の10系 列 が
論 じられ て い る。 つ ま り楚 辞,蜀 王1,蜀
王 皿,悪 神 張,虎,萬
の 妃,漆,蜀
人,李 泳 と水,竹 王 で あ る 【EBERHARD 1942b:321-391】 。 これ に 対 してr辺
の 巨石
境諸民
族 』 の 巴諸 民 族 で は,文 化 複 合 の再 構 成 が で きず に い た が,そ れ で も虎神 話 や 洞 窟 出
現 神話(い ず れ も 『地 方 文 化 』 で は系 列 《虎 》)に 言 及 して い た。 しか しr地 方 文化 』
の ほ うが は るか に=豊か な 内容 を も って い る こ とは 言 うま で も な い。
以上 の 簡 単 な 比較 か ら も明 らか な よ うに,『 辺 境 諸 民 族 』 で ま とめ られ た 各 民 族 群
の文 化 内容 と,そ れ に対 応 す るr地 方 文 化 』 の 地 方文 化 の諸 系 列 とは,一 部 一 致 は あ
る もの のか な りの 出 入 が あ る。 これ は一 つ には 『辺 境諸 民族 』 は,一 般 的 ・民 族 誌 的
な ま とめ 方 を した の に 対 し,『地 方 文 化 』 は む しろ興 味 深 い 項 目を 取 り上 げ,そ れ ぞ
れ に意 味 的 あ るい は機 能 的 に関 連 す るさ ま ざ ま な伝 承 な どを一 系 列 と して論 ず るや り
方 を取 った 結 果 で もあ る。 また 第 二 に,資 料 の面 か ら も,一 方 は辺 境 諸 民族 に つ い て
の 記録 と,他 方 は漢 民 族 の地 方 伝 承 の記 録 とい う相違 が あ る。
この よ うに して,『 辺 境 諸 民族 』 と 『地 方 文 化 』 は,互
いV'補 い合 う性 格 の二 組 の
著 書 で あ る。 両 者 を 比較 して利 用 す る こ とは,中 国 民 族 史,文 化 史 の研 究上,有 益 な
方 法 で あ ろ う。
5.エ
a.一
ー バ ー ハ ル ト説 の 問 題 点
般 的評 価 と批 判
以上,私
は エ ーバ ーハ ル トが 中国 南 部 の 民族 と して挙 げ た 南方 辺 境 諸 民 族 の11小 群
と,西 方辺 境 諸 民 族 の2小 群 を紹 介 した 。 また,そ れ らの 群 の文 化 と,彼 が 『地 方文
化 』 で 論 じた文 化 複 合 との比較 も試 み た 。 これ か ら彼 の説 に つ い て 検討 を試 み る こ と
に した い 。
エ ーバ ーハ ル トのr辺 境 諸 民族 』 は,彪 大 な 数 の民 族 につ い て の 資料 を集 め,整 理
し,分 類 した 。 それ だ け で も大 きな業 績 で あ った。 しか し,エ ーバ ーハ ル トの 研 究 が
林 恵 祥 【1936]やそ の他 の研 究 者 の試 み と違 って い るの は,そ れ ぞ れ の民 族 群 に 特 徴
的 な文 化 要 素 を摘 出 して,そ れ ぞれ の民 族群 に一 つ の文 化 複 合 を想 定 した こ とで あ る。
そ してそ の場 合,当 時 ドイ ツ語 圏 の民 族 学 で 影 響 の 強か った 文 化 圏 説 の仮 説 な どに よ
りか か る よ うな安 易 な道 を選 ばず,中
国 の資 料 自体 か ら考 えた の で あ った3)0ま た こ
477
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
の よ うな 文 化 内 容 の分 析 や 比 較 を通 して,そ れ ぞれ の民 族 群 の形 成 の過 程 を 推測 した
こ とであ る。したが って,歴 史 民 族 学 的 な 関心 が エ ーバ ー ハ ル トの試 み を貫 いて お り,
そ の意 味 で 本 書 は東 ア ジ アの 歴 史民 族 学 の古 典 と して の地 位 を保 って い る ので あ る。
次 に彼 の 分 類 や再 構 成 した文 化 内容 に移 ろ う。
彼 の分 類 は い ろ い ろ な意 味 で示 唆 に富 んで お り,当 時 の,あ るい は一 部 の後 の 中 国
学 者 に比 べ て もす ぐれ て い る点 が あ る。
た とえ ば,エ
ーバ ー ハ ル トが 南方 辺 境 諸 民 族 の 中 に越 諸 民 族 を1小 群 と して 入 れ た
こ とは,今 日か ら見 れ ば 当然 で は あ るが,当 時 に して みれ ば 卓 見 で あ った 。た とえぽ,
林 恵祥 のr中 国 民族 史 』 では,荊 呉 系 と百 越 系 は,そ れ ぞれ 華 夏 系 や東 夷 系 と並 ぶ漢
族来 源 の3,4と
して取 り扱 わ れ,中 国南 部 や 西南 部 の諸 民 族,つ
ま り苗 狢 系,ロ
ロ
・ビル マ系 ,焚 揮 系 とは切 り離 して取 り扱 わ れ て いた の であ る 【
林 1936】。 この た め
越 や荊 呉 と南 方 諸 民族 との間 の 密接 な 関係 は 見失 わ れ る結 果 に な った の で あ る。 これ
に反 してエ ーバ ーハ ル トは 越 諸 民族 を南 方 辺境 諸 民 族 の一 部 と して取 り上 げ た た め,
示 唆 に富 む 越 文 化論 を展 開 で きた の で あ った 。 た だ楚 の よ うに個 性 の 強 い大 きな文 化
で,し か も越 との 言語 な どの系統 関 係 も よ く判 らな い ものを,エ
ーバ ーハ ル トが 越 文
化 に含 め た の に は,私 は疑 問 を 感 じて い る。
また,エ
ー バ ーハ ル トは 巴 諸 民 族 を 南 方 辺 境 諸 民 族 の 中 に位 置 づ け た 。 巴諸 民 族
は ふ つ う氏 莞 の 西 南 の 群 と して 取 り扱 わ れ て い る も の で あ っ て 【
た と え ば,林
1936:第12章;劉
1969:120-122】,こ れ を西 方 辺 境 諸 民 族 の枠 内 で な くて,南 方 辺 境
諸 民族 の 一 群 と して取 り上 げ た の は一 つ の見識 と言 っ て よい 。 しか し,そ の 出来 栄 え
は あ ま り感心 しな い。 物 質 文 化 につ い て の資 料 が な い と言 っ て い るが,『 後 漢 書 』 巻
116に よれ ぽ,板 楯 蛮 は 白竹 の弩 を も っ てい た し,ま た そ の 名称 か ら見 て も板 楯 を も
って いた 。 また 南 部 蛮 つ ま り庫 君 蛮 も妖 虫 を 射 殺 した とい うか ら弓 か 弩 を もっ て いた
に 相違 な い。 また 布 や鶏 羽 を 貢 して い た こ とか ら見 て,布 を織 って い た に違 い な い。
エ ーバ ー ハル トの 巴文 化 の再 構 成 は ほか の民 族群 ほ ど うま くい って い な か った ので あ
る。
次 は彼 の分 類 や 再構 成 した 文 化 内 容 に移 ろ う。
全体 と して の エ ーバ ー ハ ル トの 大 きな功 績 に も拘 らず,細 か く見 れ ば欠 点 もあ り,
批 判 すべ き と ころ や不 満 な点,賛 成 で きな い点 もい ろ い ろあ る。
まず 大 きな 民 族 群 は,大 綱 に お い て首 肯 で き る もの で は あ るが,2,3問
3)そ
る(ト
478
題な点が
こ に は も ち ろ ん 文 化 圏 説 の 批 判 者 た る 師 匠 の リ ヒ ア ル ト ・ ト ゥル ソ ヴ ァル トの 影 響 が あ
ゥル ン ヴ ァ ル トの 文 化 圏 説 批 判 に つ い て は,Thurnwald【1931:10-19】
を 参 照)。
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
あ る。た とえ ば,エ ーバ ー ハル トは 中 国西 南 部 の オ ース トロア ジ ア(モ ソ=ク メ ー ル)
語 族 に しか るべ き注 意 を払 ってい な い 。 た とえ ば,ワ 族 は 西 方 辺境 諸 民 族 の 中 の 「そ
の他 の西 南 諸 民 族 」 の一 つ(K11)と
して取 り扱 わ れ て い て,ワ 族 を は じめ とす る雲
南 の オ ース トロア ジ ア語 系 諸 民族 を 一 つ の 小群 に ま とめ る こ とを して い な い。 この よ
うに 本 物 の オ ー ス トロア ジ ア語 族 を き ち ん と取 り扱 わ な い で お い て,リ
ャオ 諸 族 を
オ ー ス トロア ジア系 か と考 えて い るの は,い か に も適 切 を欠 くや り方 であ る。 そ して
リャオ諸 族 は お そ ら くカ ダイ語 族 か と思わ れ,オ
ース トロア ジア語 族 で あ った蓋 然 性
は 大 き くな い よ うに 見 え る の で あ る。
また 烏蛮 と白蛮 の 取 り上 げ方 に も問 題 が あ るが,こ れ は あ とで論 ず る こ とに し よ う。
次 は 文 化 複合 の設 定 に つ い て一 言 した い 。 エ ーバ ー ハ ル トが 南 方 辺境 諸 民 族 を11の
小 群 に 分 け つ つ も,大 部 分 は文 化 的 に はチ ワソ とヤ オ の2大 系 列 に ま とま り,そ の 他
に リャオ系 の文 化 が あ る と考 え た 。 これ は 華 南 の 伝統 的文 化 には,ヤ オ 文化 に よっ て
代表 され る山 地 の焼 畑耕 作 民 文 化 と,チ ワ ン文 化 に よ って代 表 され る低 地 の 水稲 耕 作
文化 とい う二 つ の 系 列 が あ り,焼 畑 耕作 文 化 と しては さ らに ヤ オ文 化 よ りも古 い リャ
オ文 化 が あ る とい う構 想 で あ る。
リャ オ文 化 の問 題 は 一 応別 にす れ ぽ,華 南 に焼 畑 耕 作 文 化 と水 稲耕 作 文 化 とい う二
つ の異 な る文化 的 伝 統 が あ った とい う考 え は,そ の後 の研 究 者 も大 な り小 な り採 用 し
て い る考 えで あ る。 この構 想 の 古典 的 な定 式 化 が エ ーパ ー ハ ル ト説 だ った の で あ る4)0
これ は た しか に彼 の大 き な功 績 で あ った 。 しか し,そ こに は不 満 が な いわ け では な
い 。
エ ー バ ー ハ ル トの 研 究 で 物 足 りな い の は,同
的 に 変 化 し て い っ た こ と,こ
一 民 族,あ
るい は 民族 群 の文化 が歴 史
とに 漢 族 文 化 と の 接 触 を 通 じて 変 化 し て い っ た こ と の 追
求 が 不 充 分 な こ と で あ る 。 た と え ば エ ー パ ー ハ ル トが 民 族 群 の 分 類,文
化 複 合 の再 構
成 に あ た っ て 重 要 視 した 経 済 形 態 に し て も,佐
代 の四 川 省 南
竹 靖 彦 の 説 に よ れ ば,宋
部 の 少 数 民 族 は 焼 畑 耕 作 か ら 定 畑 ・水 田 耕 作 へ の 過 渡 期 に あ っ た 。 そ して 同 様 な 過 程
は 同 時 期 の 中 国 西 南 部 の 少 数 民 族 の と こ ろ で 共 通 して 見 られ,い
くの 場 合,密
接 に 結 び つ い て いた とい う 【
佐 竹 1968:44】 。
こ の よ うな 歴 史 的 変 化,漢
4)エ
わ ゆ る 《漢 化 》 と多
族 文 化 か ら の 影 響 や,あ
とで ふ れ る漢 族 と の 接 触 を 通 じ
ーバ ーハ ル トが 中 国文 明形 成 論 に つ い て は じめ て そ の構 想 を1936年 の ドイ ツ民族 学会 で
発 表 した 時,後 の論 著 に お け る タ イ文 化(チ ワ ン文 化)や 越 文 化 に 当 る文 化 複 合 は す で に 出
され て いた が,ヤ オ文 化 は まだ 出 て い なか った 【EBE㎜)1937b,1938】
。 しか し,そ の 少
しあ とに書 か れ た と思わ れ る論文 【EBE- 1937c,紹 介 は 本 稿483-485】 で は,書 族 や 堕 民
の 問題 が詳 し く論 ぜ られ て い る。 お そ ら くこの こ ろか らヤ オ文 化 の構 想 が生 れ,だ ん だ ん 形
を 整 え て い った の で あ ろ う。
479
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
て の アイ デ ンテ ィテ ィの確i立 【
竹 村 1994】 とい った要 因 を考 慮 して,エ
ーパ ー・・ル
トの体 系 は考 え直 さな け れ ば な らな い。 しか しそ の場 合 も,彼 が提 供 して い る資料 と
示 唆 は,貴 重 な基 礎 なの で あ る。
しか し,資 料 の面 に 関 して は,本 書 は 批 判 す べ き点 を も って い る。 つ ま り,本 書 は
必 ず しも基 本 的 な一 次 資 料 を 精 読 して ま とめ られ た とは言 えず,二 次 的 な編 纂 物 か ら
の孫 引 きが か な り多 く,ま た 読 み 方 も常 に精 密 とは言 え な い こ とで あ る。
一 例 と して,リ
ャオ諸 民 族 の 最 初 の2民 族 の資料 を見 よ う。 飛 頭 Y`つ いて は,顧
炎武 の 『天 下 郡 国 利病 書 』,『酉 陽 雑 姐』,『玉 芝 堂 談蕾 』 か ら 『新 論 』,r赤 雅 』 に よ っ
て 『碧 西 叢 載 』,『太 平 広 記 』 を 資 料 と して い るが,第2の
僚 族 につ い て は,『 太 平 御
覧 』 か ら 『魏 書 』 と 『北 史 』 を 孫 引 き し,胡 撲 安 の 『中華 全 国風 俗 志 』 か らr晴 書 』
地 理 志 を孫 引 き して い る場 合 す らあ る。 そ の ほか 鄭 樵 のr通 志 』 やr嘉 慶 重 修 大 清 一
統 志 』 が用 い られ て い る。
この例 や そ の他 の例 か ら推 して,エ ーバ ー ハル トが編 纂 物 を しぼ しぼ利 用 した の は,
侠 文 が 引か れ て い るた め で あ る とか,現 行 本 の誤 りを 正 す た め とい う内 容上 の理 由に
よる よ りもむ しろ,便 宜上 の理 由 に よる もの で あ った よ うに 思わ れ る。 彼 の 立場 は,
恕 す べ き二 つ の理 由か ら理 解 で きる。 一 つ は,ナ チ ス に反対 とい う政 治 的 な理 由 に よ
って,不 安 定 な生 活 を 送 って お り,で き る うち に,仕 事 を早 くま とめ た い とい う焦 り
か ら,原 典 に 当 らず に,編 纂 物 か らの引 用 で 済 ま せた ので あ ろ うこ とで あ る。 も う一
つ は,彼 は この 大 著 を ア ンカ ラで ま とめ た の で,お そ ら く必 要 な文 献 参 看 の 便 に乏 し
く,主 と して 自分 の蔵 書 と カ ー ドに依 存 せ ざ るを 得 な か った か らで もあ ろ う。
もち ろん,こ れ ら諸 族 につ い て の民 族 誌 的 記 述 は しば しぽ 乏 し く,ま た 二 次 的編 纂
物 を通 して も,あ る程 度 カバ ー で き る こ とは 事 実 で あ る。 しか し,エ ーバ ー ハル トの
この よ うな資 料 の 選択 は,資 料 集 と して の 同書 の 価値 を あ る程 度 制 限す る もの と言 わ
な くては な らな い 。
b. ミ ャ オ=ヤ
オ諸 民族
最初 に取 り上 げ る民 族群 は彼 が ミャオ諸 民 族 とヤオ 諸 民族 と呼 ん だ もの で あ る。 こ
れ ら民族 の起 源 に つ い て は,中 国 の近年 の学 界 で は 古 代 の武 陵 蛮 ない し五 漢 蛮 に共 通
の祖 先 を認 め る説 が 大 勢 を 占 め て い る。
た とえ ぽ,『 瑠 族簡 史 』 【
『瑠 族簡 史』 編 写 組 1983:第1章
第2節1に
よ る と,瑞 族
の来 源 に つ い て は まだ 定 説 が な い。 しか し多数 意 見 で,か つ 客観 的 で あ る とい う説 に
よる と,彼 らの祖 先 は 長 沙 ・武 陵蛮 あ る いは五 漢 蛮 で,原 住 地 は長 沙 ・武 陵 両郡 つ ま
480
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
り湖南 省 の湘 江 ・資 江 ・況 江 地 域 と洞 庭 湖 沿 岸 地 域 で あ る1岡 田 1993:62;な
国 少数 民 族 』 編 写 組 1981:510;竹
おr中
村 1981を 参 照 】
。
また 『中 国 少数 民族 』 編 写 組 に よる 『中国 少 数 民 族 』 の苗 族 の章 【1981:445]に よ
る と,ミ ャオ族 の先 祖 は秦 漢 時 代 に,今 で も彼 らが 比 較 的 集 ま って住 ん で い る湘 西,
黙 東 の五 漢 地 区 に住 ん で お り,い わ ゆ る五 漢 蛮 や 武 陵 蛮 の 中 に 含 まれ て い た が,後 に
西 方 に 向 って移 動 し,今 日の分 布 状 態 とな った とい う。
そ れ と と もに,林 恵 祥11936:第14章
】以来 ミャオ とヤ オを 苗 瑠 系 と して 一 括 して取
り扱 うこ と もふ つ うであ る。 しか し,エ ーバ ーハ ル トは ヤ オ諸 民 族 と ミャオ諸 民 族 と
を,ミ
ャオ ・ヤ オ系 と して一 括 せ ず に,別 々の 小群 と して 取 り扱 った 。 これ は ミャオ
とヤ オ とが歴 史 的 にす で に 長期 間,別 々の 民族(群)と
見 られ て 来 た こ とを考え る と
当然 の取 り扱 い で あ る。 しか し,そ の一 方 で は この 両群 が こ とに深 い 関 係 に あ る とは
別 に強 調 して い な い の で,言 語 上 か ら考 え られ る元 来 は 同系 統 だ った こ とが 霞 ん で し
ま う結 果 に な って い る。
とは言 え,彼 は ミャオ文 化 は 基 本 的 に混 合 文 化 と考 え,そ の基 本 的 な構 成 要 素 と し
て ヤ オ文 化 を 想 定 して い る。 これ は一 つ に は ミャオ諸 族 の ほ うが ヤオ 諸 族 よ りも群 内
部 の文 化 的 差 異 が 大 きい こ とに よ って お り,また 第二 に は 中 国南 部諸 民 族 にお い て は,
焼 畑 耕 作 に も とつ く原 基的 な文 化 複 合 を 代表 して い る のが ヤオ諸 族 であ る とい う彼 の
基 本 的 な考 え に よ る もの で あ る。
この よ うな立 場 と叙述 の仕 方 を と って い る 以上,エ
ーバ ーハ ル トが,ミ
ャオ=ヤ オ
語 族 の 元来 の文 化 は どの よ うな もの で あ った か,と い う問 いを 出 して い ない の は 当然
で あ る。 けれ ども彼 の記 述 の 中 には,こ の よ うな 問 い の一 つ の答 え に な りうる個 所 が
あ る。 そ れ は ミャオ諸 民 族 の文 化 中 にお け るヤ オ文 化 的要 素 の こ とで あ る。 つ ま り,
ヤ オ群 と ミャオ群 の共 通 文 化 要素 で あ るか ら,ミ ャオ=ヤ オ語 族 の元来 の文 化 内容 を
うか が う重要 な手 がか りに な るか らで あ る。 山 地 居 住,焼 畑 耕 作 と採 集 狩 猟,交 叉 イ
トコ婚,犬 供 犠,犬 祖 神 話,炉 つ き家 屋,結 髪 が,そ れ ら要 素 であ る。 交 叉 イ トコ婚
の よ うに問 題 と思 わ れ る も の も含 まれ て い るが,充 分 検 討 に値 す る リス トで あ る と言
え よ う。
ミャオ=ヤ オ 諸 族 の元 来 の共 通文 化 内容 が何 で あ った に せ よ,両 民 族群 は歴 史 上,
主 な分 布 領 域 を 異 に し,別 々 の発 展 の道 を辿 った 。 大 ざ っぱ に言 えば,ミ
ャオ諸 族 の
分布 の 中心 は 貴 州 省 に あ り,ヤ オ諸 族 の分 布 の 中心 は,両 広 山 地 に あ った。 この分 布
地 域 の相 違 は 両 群 の 文 化 の相 違 を考 え るの に も重 要 であ る。
一 つ は 外か らの影 響 に 関 して で あ る。 た とえ ぽ,貴 州 の ミャオ諸 族 は,西 方 の チ ベ
481
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
ッ ト=ビ ル マ語 族 に近 接 して お り,した が って チベ ッ ト=ビ ル マ語 族 の文 化 的 影 響 を,
ヤ オ諸 族 の場 合 よ りも多 く受 け て い て も不 思議 で な い。 そ の 点,エ ーバ ー ハル トが ミ
ャオ文 化 の構 成 要 素 の一 つ と して南 チ ベ ッ ト(鳥 蛮)文 化 を 挙 げ た の も も っ と もで あ
り,充 分 考 慮 に値 す る仮 説 で あ る。
他 民 族 との 関係 は,た ん に 文化 内容 の要 素 に 関 して重 要 な だ け で は な い。 民 族 的 ア
イ デ ソテ ィテ ィを堅 持 す る こ とに よ って,そ の 文 化 と社 会 は 独 自の個 性 が 与 え られ て
きた の であ る。 ヤ オ族 は文 化 的 に 「漢 化 」 が 著 しか った に もか か わ らず 「漢 族 化 」 し
なか った。 竹 村卓 二 は 次 の よ うに論 じて い る。
「〈家 先 単 〉 に せ よ道 教 体 系 にせ よ,漢 族 体 制 側 が 「同 化 」 装 置 と して 用 意 した い
わ ば ハ ー ドウ ェ アを,ヤ オ族 側 が む しろ く渡 海 神 話〉 や 〈掛 灯 儀礼 〉 な どの ソフ ト
ウ ェア の開 発 に よ って逆 利 用 し,エ ス ニシ テ ィの 「境 界 」 維 持 に 成 功 した結 果 にほ
か な らない 」 【
竹村 1994:361。
民 族 間関 係 に よ って文 化 内容 ば か りで な く,文化 の構 造 の 変化 も進 行 した の で あ る。
第 二 は生 態 学 的 条 件 の相 違 で あ る。 ミャオ族 の 主 な居 住 地 域 は 西 南 台 地 で あ り,ヤ
オ族 の それ は 両 広 丘 陵 で あ る。 西 南 台地 は華 南 で も っ と も多 くの家 畜 を 産 す る とこ ろ
で あ った 【CxESSBY 1934:376,訳399]。
した が って ミ ャオ 諸 族 に お い て 牛 類 飼 育
と牛 類 供犠 が さか ん な こ とに反 し,ヤ オ諸 族 では そ うで な い こ とな どは,少 な く とも
一 部 は 生態 学 的 条 件 の 相違 に よる もの か も知 れ ない 。
ま た エ ー バ ー ハ ル トは ヤ オ 諸 民 族 の 一 つ(m5)と
して 番 民 を 取 り扱 っ て い る
【EBERHARD 1942a:197-199】 。 同 様 な 考 え は 中 国 の学 界 で もか な りさか ん で あ る が,
蒋 柄 釧 が論 じて い る よ うに,雷 民 の祖 先 は 閾(福 建),鯉(広
東),籟(江
西)三 省 の
交 界 に唐宋 時 代V'住 ん で い た蛮 僚 で あ った ろ うし,さ らに 遡 れ ば この地 域 の山 越 だ っ
た ら しい 【
蒋 1988:21-108】。 と言 うこ とは 會 族 は そ の 先 祖 以 来,南 揚 子 江 山 地 とい
う生 態 学 的領 域 に お いて 発達 を とげた 民 族 で あ って,両 広 丘 陵 に お い て発 達 した ヤ オ
諸族 とは相違 して い る こ とに な ろ う。 エ ーバ ーハ ル トの よ うに ミャオ諸 民 族 を ヤオ諸
民 族 と区別す る な らば,番 族 もヤ オ諸 民 族 の列 か ら外 して,独 立 の一 群 と認 め る こ と
が 適 当 で あ った ろ う と思 わ れ る。
しか し,他 民 族,他 文 化 との 関係 にせ よ,生 態 学 的 条 件 の 相違 にせ よ,ま だ 本 格 的
研 究 は これ か ら とい う段 階 に あ り,こ こでは 問題 の所 在 の指 摘 に と どめ て お きた い。
これ か らヤ オ ニ ミャオ群 と関連 深 い三 つ の 民族 群 につ い て 検 討 を加 えた い。 そ れ は
越 と巴 と番 で あ る。 まず 越 諸 民 族 に つ い て。
482
大林 中国辺境諸民族 の文化 と居住地
c.越
とヤ オ とタ イ
エ ーバ ー ハル トの 南方 諸 民 族 の 中 で,越 群 は 重 要 な地 位 を 占め て い る。 そ こで 注 目
され るの は,越 文 化 の 根 幹 に ヤ オ文 化 が あ る とい う考 え で あ る。 この 考 え は 彼 が
フ ィ ール ドにお い て 実感 と して得 た もの が基 礎 にな って い る の で,少 し詳 し く紹 介 し
よ う。
つ ま り,エ ーバ ーハ ル トが 中国 の地方 文 化 の構 想 を形 づ くる に当 って重 要 だ った の
は,1934年
か ら35年 に か け て,ベ ル リン民 族 学 博 物 館 の依 嘱 に よって 行 な った 中国 調
査 旅行 だ った。 彼 は 華北 と華 中か らそ れ ぞれ 一 ヶ所 を選 ん で調 査 した がrそ の 中で も
比 較 的長 期 間調 査 したf江 省 金 華 は,彼 に新 た な見 通 しを与 え て くれ た。
漸 江 省東 部 は 山地 的 な特 徴 のた めに 一種 の退 避 地 域 を な して お り,そ こで は 当時 な
お部 分 的 に は住 民 抑 圧 が 存在 して いた 。 こ こは 最初 一 目見 た と ころ では 中 国共 通 の文
化 的 特 徴 を そ な え て い るが,次 に華 中 に 属 す る こ とに気 づ き,そ の あ とで,金 華 の町
とそ の 南 の 地域 は,近 隣 の か な り広 い範 囲 の ど こに も ない 特 色 を もって い る こ とが判
って くるの で あ る。
そ れ は 第 一 に,牛
と牛 とを 闘 わ せ る形 式 の 闘 牛 で,雲 南 や貴 州 の非 漢 族 系 原住 民 の
と ころ に存 在 す る もので あ る。 古 い文 献 に は 四 川 か らも記 録 が あ り,こ こ も非 漢 族 的
性 格 の強 い と ころ だ。 同様 な 分 布 を も って い るの は樹 木 崇 拝,主
と して楠 の 木 の崇 拝
で あ っ て,父 とか母 と呼 ぼ れ て い る。 所 に よ って は これ ら の木 の た め に特 別 の 社殿 が
建 て られ,そ の 中 で は もは や樹 木 自体 で な くて,神 像 が そ の代 表 者 と して 崇拝 され る。
この樹 木 崇 拝 も華 南 原住 民 の もの と比 較 で き る。 さ らに華 南 の ヤオ族 の もの とそ っ く
りの 兄妹 始 祖 型 の 洪 水 の話 の よ うな一 連 の民 話 が あ る。 そ の他 多 くの要 素 か ら も,漸
江 省 の この地 域 の 文 化構 造 は 華 南 諸地 域 の それ と密 接 な 関係 が あ る こ とが うか が わ れ
る。
ところ で,こ の地 域 に はか な りの 数 の 書族 とい う非 漢 民族 が住 ん で お り,ヤ オ族 と
極 め て 近 い 関係 に あ る。上 記 の諸 特 徴 は,雷 族 が もち 込 ん だ よ うに 思 われ る。 た とえ
彼 らに は これ ら特 徴 が 失 われ て しま って い る よ うに 見 え る と して も。現 在 の番 民 は17
世 紀 初 頭 に な って は じめ て広 東 省 や 福 建 省 か ら ここに や って来 た。 しか し地 方 志 な ど
か ら見 て13世 紀 初 頭V'は す で に雷 民 が この地 域 に住 ん で い た ら し く,17世 紀 の移 動 は
再 来 住 に 過 ぎな い よ うだ 。17世 紀 初 頭 の 戦 闘 で,住 民 の大 部分 は死 に,多
くの 中国 人
と雷 民 が 新 た に来 住 して きた の で あ る。
と ころ で ベ ル リソ民 族 学 博 物 館 所 蔵 の 一枚 の絵(1・D・34069)は
明代 の絵 を後 に
483
国立民族学博物館研 究報告 20巻3号
模 写 した も の で あ るが5),恐 ら くこの 地 に お げ る闘 牛 が この再 来 住 以 前 に あ った こ と
を示 してい る。民 話 と樹 木 崇 拝 が 再 来 住 以 前 に あ った こ とは まだ証 明 され て い な いが,
多 くの女 神 が 崇拝 され て いた こ とは証 明 され て お り,こ れ も華 南 を指 し示 して い る。
した が って,こ れ ら特 色 は今 日の 書民 と と もに は じめ てや っ て来 た とい うわ け で は な
い の で あ る。
今 日の雷 民 の 居 住地 の少 し北,紹 興 の町 の近 くに 堕民 が い る。 彼 らは乞 食 の カ ース
トで あ って,男 は 乞 食 を し,女 は 結 婚 の仲 介 や 歌 い 手 と して活 躍 して い るが,固 有 の
文 化要 素 は も うも って い な い ら しい 。 史料 の上 では 明代 初 期 か ら,い つ も乞 食 の カ ー
ス トと して 出 て くる。 明 代 の 画 家 徐 滑 が そ のr徐 文 長 集 』 巻18,7-8頁(1911年
上海
版)で 引 用 した 紹 興 の 古 い年 代 記 に よ る と,当 時 彼 らは ま だ 固有 の古 い 衣 服や 習 俗 を
も って い た。 女 た ちは 犬 の頭 の髪 か た ち で,男 た ちは 牛 の角 で ラ ソプを 作 り,牛 の彫
像 を 作 った。 堕 民 も番 族 や ヤ オ族 と親 縁 の非 漢 民 族 の残 津 だ った の で あ る。彼 ら)Yも
華 南 諸 民族 に特 徴 的 な 牛 崇拝 の一 部 が 見 られ た。 この 牛 崇拝 は,も っ とも 明瞭 な形 を
とった 場 合,儀 式 的 牛 供 犠,闘 牛,供 犠 した牛 の角 の 保 存 が 含 まれ て い る。 さ らに雷
民 や ヤオ 族 に あ る犬 の 縁 な し帽子,犬
の髪 か た ち は,犬 崇 拝 や犬 祖 伝 説 と関 係 が あ る
が,こ れ も堕 民 を ヤ オ族 の 一 派 とす る のを 一 層確 実Y'す る。17世 紀 に おげ る現在 の雷
民 の来 住 以前,少
な くと も明 代初 期 以来,お そ ら くそれ 以 前 か ら漸 江 省 の この地 域 に
は,ヤ オ族 と親縁 の初 期 番 民 と堕民 の存 在 が 証 明 で きる のだ 。
唐 代 や そ れ 以前 の史 料 には 書 民 も堕民 も出 て こな いが,こ の 地域 に は越 諸 民 族 が住
ん で いた こ とを報 じて い る。 す べ て の會 族 は 漸 江 省 の会 稽 山 の起 源 だ と言 い,越 人 も
会 稽 山 を故 郷 と考 え て いた 。 越 人 も犬 神 話 を も って い た。 また 牛 崇拝 は越 人 に典 型 的
で,か つ て越 人 の 住 ん で いた と ころ で は いた る と ころ に痕 跡 が あ る。越 人 の分 布 領域
は 今 日の漸 江,江 蘇,江 西,安 徽 の諸 省,そ れ に山 東省 南 部 であ った 。越 人 の本 拠 に
漢 族 は,4∼5世
紀 に第 一 派 が入 った後,本 質 的 に は9世 紀 に な って 居住 す る よ うに
な った。 当時 漢 族 は 主 と して河 谷 居 住者 と して古 い越 系住 民 の上 に 重層 し,越 系 住 民
は これ に よっ て分 裂 し,多 くの部 族 とな って 山地 に押 し込 め られ た 。 一部 は南 方Y'移
住 した。 漢 族 は 民 族 的Y'も 越 人 を 吸 収 した よ うに,彼 らの習 俗 の一 部 も受 容 した。
越 諸 族 の一 部 と して の 番 民 は漢 族 の 来 住 民 と相 並 ん で 引 きつ づ き居 住 し,な い しは
混 合 し,他 方,雷 民 の 一部 は越 諸 族 の 一 般 的南 遷 に伴 って行 き広 東 省 に と どま った 。
そ こか ら途 中長 期 間 福 建 省 に 滞在 した 後,17世 紀 に また漸 江 省 に入 った が,そ
こでは
5) ベ ル リソ民族 学博 物 館 に は,日 本 の ア イ ヌ絵 な ど,諸 民 族 の 風 俗 を 描 い た古 い絵 画 を 多 数
所 蔵 して お り,こ れ もそ の 一 つ で あ る。
484
大林 中国辺境諸民族の文化 と居 住地
そ の 間 に 古 い番 民 は ほ とん ど全 く絶 滅 して しま って い た 。 しか し堕 民 は 隔離 と一 種 の
カ ース ト形 成 に よって,再 来 住 す る こ とな く今 日まで 自立 して きた が,時 代 のた つ う
ちに 彼 ら固 有 の文 化 内容 を失 って しま った の で あ る[EBERHARI)1937c:87-91】
。
エ ーバ ーハ ル トの この構 想 は,充 分 検 討 に値 す る も ので あ る。 鈴 木 満 男 の調 査 研 究
[た とえぽ 鈴 木 1994】も,そ の こ とを 強 く示 唆 して い る。 エ ーバ ーハル トの構 想 を考
え る場 合 に 重 要 な のは,古 代 の 山越 の 問 題 で あ る。 しか し,山 越 につ いて,我 われ は
まだ僅 か しか 知 らな いの で あ る 【
大 林 1993]。
ただ 雷 族 の 早 い波 がす で に13世 紀 に漸 江 省 に現 われ て いた とい うの は疑 問 の 余地 が
あ ろ う。 上 述 の よ うに番 民 は 基 本的 には 南 揚 子 江 山地 南 辺 の住 民 の子 孫,し た が って
古代 山越 の子 孫 だ った と思 わ れ る。この 南揚 子 江 山地 の文 化 的伝 統 を うけ た住 民 群 が,
何 回 も漸 江 省 東 部 に も出た り入 った りした こ とは 充分 考 え られ る可 能性 で あ る。 南 揚
子 江 山地 文 化 との か かわ りは,越 文 化 の形 成 期 あ るい は それ 以 前 か ら,山 越 の時 代,
書 族 の時 代 と何 回 も繰 り返 し行 な わ れた もの と見 るの が 実際 的 で あろ う。
また 堕 民 は 『辺境 諸 民 族 』 で は ヤ オ諸 民 族 の一 つ(m33)と
して挙 げ られ て い る。
この 大 胆 な想 定 も私V'は 極 め て魅 力 的 で あ る。
越 に つ い て は ヤオ 諸 民族 ぼか りで な く,タ イ諸 民 族 も重 要 で あ る。 エ ーバ ー ハ ル ト
自身,越 文 化 は焼 畑 耕 作 の ヤ オ文 化 と水稲 耕 作 の タイ 文 化 とが結 合 して 生 れ た もの と
考 え てい た[EBExxaxD 1942c]。 そ れ と並 ん で重 要 な のは,問 題 の言 語 学 的 側面 で あ
る 。 古 代 の越 を オ ー ス トロネ シア 語 族 と見 るエ ーバ ー ハ ル トの 説 は 疑 わ し く 【
崎山
1990参 照 】,む しろ タ イあ るい は オ ー ス トロ=・タ イ語 族 と見 る蓋 然性 が あ る。
ここ で面 白い のは,雲 南 民 族学 院 の黄 恵 規 の説 で,彼 は 《越 人文 化 区》 を 次 の 三 つ
に 区分 した 。
第一 地 区 江 蘇,漸 江,福 建,広 東 。 こ こは 早 くか ら華 夏 文 化 や楚 文 化 の影 響 を う
け て 同化 過 程 を 歩み 漢 人 化 した 《同化 型 地 区 》 で あ る。
第 二地 区 広 西,海 南,貴 州 の 諸 省 とベ トナ ム北 部 。 こ こは漢 楚文 化 や そ の他 の文
化 の 影響 を うけ た け れ ど も漢 人 に は な らな か った 。 しか し漢 文 化 が か な り深 く及 んだ
と ころ で 《異 化 型文 化》 で あ り,《過 渡 型 地 区 》 で あ る。
第 三 地 区 雲 南 省 西 南部,タ
イ国 中 北部,ミ
ャ ンマ ー東 北部,そ れ に ア ッサ ム の一
部 。 漢 文 化 の影 響 も イ ン ド文 化 の影 響 も少 な く,越 人 文 化 を も っ とも よ く保 留 した。
そ の中 で も西 双 版 納 とチ ェ ソマ イつ ま りラ ソナLanna地
域 は 標 準 的 な タ イ人 地 域 で
あ る。
越 人 文 化 が も っ とも よ く残 った の は第 三 地 区 で,第 二 地 区 が そ れ につ ぎ,第 一 地 区
485
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
が も っ と も 少 な い 。 タ イ 族 は 越 の 子 孫 で あ る が,第
た の で は な く て,第
一 地 区 や 第 二 地 区 か ら移 動 して き
三 地 区 内部 で 進 化 して で きた もの で あ る 【
黄 1992:4-5,348,
35b-357]0
こ こ で 黄 が タ イ 族 と呼 ん で い る の は,タ
と に 指 し,ま
イ語 族 の 中 で も南方 群 な い しタイ語 群 を こ
た 彼 が 越 人 と 呼 ん だ も の は,広
くオ ー ス トロ=タ
イ系 諸 民 族 を指 してい
る と見 て よ い 。 黄 が 漢 文 化 や 楚 文 化 か ら の 影 響 の 度 合 い を 考 慮 に 入 れ て 越 人 文 化 を 三
地 域 に 分 け た の は,オ
ー ス トロ=タ
こ で 問 題 と 思 わ れ る の は,漢
オ=ヤ
イ 系 諸 民 族 分 類 の 興 味 深 い 試 み で あ る。 た だ,こ
楚 文 化 の 影 響 以 外 の,文
化 の 地 域 差 の 問 題,ま
オ 語 族 と の 関 係 が 充 分 取 り上 げ ら れ て い な い と ころ に,今
た ミャ
後 の課 題 が あ る よ う
に 思わ れ る。
こ こ で ミ ャ オ=ヤ
オ 語 の 中 国 南 部 ・東 南 ア ジ ア の 諸 言 語 の 中 に お け る 位 置 づ け に つ
い て つ け 加 え て お き た い 。 ミ ャ オ=ヤ
オ語族 は さま ざ まな 他 の大 語 族 へ の 帰 属 な い し
関 係 が 取 沙 汰 さ れ て き た に も拘 らず,す
れ て い な い 。 モ ソ=ク
[FORREST 1948::`・.や
べ て の研 究 者 が 納 得 す る よ うな説 は まだ 出 さ
メ ー ル 語 族 に 属 す る,あ
る い は 近 い とす る 説 は フ ォ レ ス ト説
ヤ ホ ソ ト フ説[YaxONTOV 1964:12-13】
カミあ り,チ ベ ッ ト=
ビ ル マ 語 族 に 属 す る と考 え る マ ス ペ ロ説 【IVIASPERO 1952:529-530】
ド リ ク ー ル は ミ ャ オ=ヤ
ー
オ 語 は オ ー ス ト ロ ア ジ ア語 と チ ベ ッ ト=ビ ル マ 語 と の 間 の 鎖
を な し て い る と 論 じ 【HAiJI)RICOURT タ イ 語 群,チ
も あ れ ば,オ
1966:56】,傅
想 動 は 漢=チ
ベ ッ ト語 族 中 の 漢=
ベ ッ ト=ビ ル マ 語 群 に 並 ぶ 第 三 の 語 群 と し て ミ ャ オ=ヤ
オ語 を 考 えて い
る1傅 1957:101。
これ と 並 ん で タ イ=カ
ダ イ 語 族 と 関 連 づ け る考 え も あ る 。 た と え ば,ハ
ワイ大 学 の
ロ ー レ ン ス ・ リ ー ドが1992年
に 東 京 外 国 語 大 学 ア ジ ア ・ア フ リ カ 言 語 文 化 研 究 所 で 行
な っ た 講 演 で は,ミ
オ 語 は タ イ ニ カ ダ イ 語 族 の 中 に 入 れ られ て い る 。つ ま り,
タ イeカ
ャ オ=ヤ
ダ イ 語 族 の 中 に は,タ イ 語 群,カ
ム=ス
イ 語 群,カ
ダ イ 語 群 と並 ん で ミ ャ オ=
ヤ オ 語 群 も 入 っ て い る 。 こ れ ら 語 群 は み な 声 調 が あ り,中 国 語 に 似 た 文 法 構 造 を も っ
て お り,し ば しぼ 系 統 的 に 中 国 語 と 関 係 が あ る と考 え られ て 来 た 。 し か し,そ
れ らは
実 際 は オ ー ス トロ ネ シ ア 諸 語 と関 係 が あ り,タ イ 語 と 中 国 語 の 共 通 語 彙 の 多 く は,何
千 年 に も 及 ぶ 両 言 語 の 接 触 の 結 果 で あ る こ と を 示 す,か
な り の 証 拠 が あ る[REm
1992:9]0
も ち ろ ん 問 題 は ま だ 決 定 した わ け で は な い 。 そ れ で も ミ ャ オ=ヤ
オ 語 を タ イ=カ
ダ
ィ 語 族 の 中 に 位 置 づ け よ う とす る 考 え が 出 て き た こ と は 注 目yr値 す る。 こ こ で 思 い 出
さ れ る の は,ヴ
486
ィ ル ヘ ル ム ・シSミ
ッ トが ミ ャ オ=ヤ
オ 語 を タ イ 語 族 の 一 員 と考 え た
大林 中国辺境諸民族 の文化 と居住地
こ と で あ る。 た だ 彼 は タ イ 語 族 を 北,東,東
と に,ミ
南 の 三 群 に 分 け た が,い
さ さか奇 妙 な こ
ャ オ 語 と ヤ オ 語 をKhamti, Nora, Tairong, Shan, Aitonia, Ahomと
群 に 入 れ て い る 【SCHM-DT と もに北
l926:133】 。 これ は た ん に ミ ャ オ 語 や ヤ オ 語 が タ イ 諸 語 の
中 で は 北 部 に 分 布 し て い る か ら と い う単 純 な 理 由 に よ る も の か も知 れ な い 。
考 え ら れ る も う一 つ の 可 能 性 は,シxミ
ッ トが 彼 の 先 輩 の 考 え を 受 け つ い だ こ と で
あ る 。 そ の 先 輩 と は ウ ィ ー ン の 言 語 学 者 フ リー ト リ ヅ ヒ ・ ミ ュ ー ラ ー(1834∼1899)
で あ る 。19世 紀 の 後 半,ミz一
ラ ー は 独 力 で 世 界 の 諸 言 語 を 記 述 す る とい う大 事 業 を
遂 行 し た 【IVIt?LLER 1876-1888】
し,ま
類 し た 概 説 書 を 著 した[Mt7LLER た19世 紀 末,20世
た し,シ
た 世 界 の 民 族 を 言 語 と身 体 形 質 の 双 方 か ら分
1879】。 シ ュ ミ ッ トが 言 語 学,民
族 学 の研 究 を始 め
紀 初 頭 に お い て は ミ ュ ー ラ ー は ウ ィ ー ンで は 声 名 の あ る 学 者 で あ っ
ュ ミ ッ ト も批 判 は しつ つ も言 語 学 上 は ミs た 【
た と え ばSCHMIDT ラ ー に 負 う部 分 が 少 な くな か っ
l899】。 こ の ミ ュ ー ラ ー は ミ ャ オ 語 を シ ャ ム語,シ
ャ ソ語,ア
ホ ム 語,カ
ム テ ィ語 と 並 ん で タ イ 語 族 に 入 れ てL・た の で あ っ た 【IVIULLER 1879:25,
408-409]。
シxミ
ジ トが ミ ャ オ ニ ヤ オ 語 を シ ャ ソ,ア
に 入 れ た の は,ミ
ホ ム,カ
ム テ ィな ど と同一 の群
ュ ー ラ ー を 踏 襲 し た に 過 ぎ な い の か も知 れ な い の で あ る 。
こ の よ う な 研 究 史 的 な 詮 索 は と も か く と して,私 は 二 つ の こ と を 指 摘 して お き た い 。
一 つ は,こ
上,現
の よ うに ミ ャ オ=ヤ
オ 語 の 所 属 に つ い て 諸 家 の 説 が 大 き く分 れ て い る 以
段 階 で は ひ と まず ミ ャ オ=ヤ
オ 語 族 は 一 つ の 独 立 の 単 位 と し て 認 め,性
の 大 語 族 と結 び つ け な い の が 賢 明 で あ ろ う。 そ の 点,エ
ヤ オ と い う単 位 を 認 め ず,ま
急に他
ー バ ー ハ ル ト説 は,ミ
た ヤ オ 語 を オ ー ス ト ロネ シ ア 語 に 属 さ せ る な ど,遣
ャオ=
憾な
点 が 多 い。
第 二 は,ミ
ャ オ=ヤ
ドの 考 え が,も
以 前 は,ほ
オ 語 を タ イ 語 な い し タ イ=カ
し も っ と も で あ る と す れ ぽ,長
ダ イ 語 に 入 れ る シ ュ ミ ヅ トや リ ー
江 以 南 の 地 域 は,漢
と ん ど す べ て タ イ ニ カ ダ イ 系 の 言 語 が 話 さ れ て い た こ と に な る。 そ う な る
と エ ーバ ー ハ ル トが こ の 地 域 の 二 つ の 大 き な 文 化=民
(タ イ)諸
民 族化 が進 行 す る
民 族(文
化)と
ヤ オ 諸 民 族(文
化)は,元
族 系 列 と して想 定 した チ ワ ン
来 は近 い関 係 に あ った こ とに な
る 。 ま た 黄 恵 焼 の 百 越 文 化 の よ う な 構 想 も理 解 しや す くな る 。
しか し,ま
だ ミ ャ オ=ヤ
オ 語 族 の 位 置 づ け は 決 定 し て い な い 。 した が っ て,こ
こで
は これ 以 上 立 入 っ て 論 ず る こ と は で き な い 。
d.巴
と蛮 と 僚 と
上 に述 べ た よ うに,ヤ オ諸 族 に せ よ,ミ ャオ諸 族 にせ よ,そ の祖 先 は武 陵 蛮 な い し
487
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
五 漢 蛮 だ と考 え られ て い る。 こ こで 《蛮 》 との問 題 につ い て 少 し考 え てみ た い。 それ
に は まず 巴 諸 民族 につ い て 触 れ る必 要 が あ る。
エ ーパ ー ハ ル トの巴 群,こ
とに板 楯 蛮 に つ い て の議 論 は 極 め て不 充 分 で あ る。 一 つ
は 資 料 を よ く読 ま なか った た め か,板 楯 蛮 を ふ くめた 巴 群 に つ い て は,始 祖神 話 につ
い て の 記 述 は あ る が,物
質 文 化 に つ い て の 記 述 が な い と言 っ て い る こ とで あ る
[EBERIiARD 1942a:302-306】。 あ とで 詳 し く述 べ る よ うに,李 済 が 指摘 した よ うに,
板 楯 蛮 は弩 を もっ てい た。 そ して そ の板 楯 とい う名 称 も,板 製 の楯 を も って い たか ら
つ け られ た名 称 で あ ろ う。 この よ うに,彼 は板 楯 蛮 の 文 化 の性 格 を充 分 理 解 で きて い
なか った の で あ る。 そ の た め,李 済 の よ うに板 楯 蛮 と僚 との文 化 的 対 照 に 気 づ か なか
った の も不 思議 では な い。 そ して彼 は 『辺 境 諸 民 族 』 に お い て は 巴諸 民 族 の共 通 の文
化 を 再構 成 は して いな い。 巴 諸民 族 は 一群 を なす が,統 一 的 な起 源 では な い。 彼 らの
主 要部 分 は ヤ オ群 か ら 由来 す る。 そ の上 に莞 要 素 が 重 層 し,さ らに チ ワン要素 や こ と
に よ る と リャオ要 素 も加 わ って い る と い う[EBExxaxD 1942a:306]。
エ ーバ ー ハ ル トが 巴 諸 民族 と して ま とめ た のは,南 郡 蛮(康 君 蛮 あ るい は汚 中蛮)
に して も板 楯 蛮 に し て も 四 川 省東 部 の 嘉 陵 江 流 域 の住 民 だ った 。 同 じ 『後 漢 書 』 巻
116,西 南 夷 伝 第76に 出 て い る,四 川 省 の さ らに 西 に住 む 諸 族,搾 都 夷,再 馳 夷,白
馬 氏 はす べ て西 方 辺 境 諸 民族 に お いて,し か もば らば らの個 所 で取 り扱 って い る。 つ
ま り搾 都 夷 は そ の他 の 西 南 諸 民 族 の一 つ と してlk l 29;EBERHARD 馳 夷 は西 チ ベ ッ ト族 の一 つ と して[h4;EBExxaxn 族 の 一 つ と してIg 32;EBERHAR])1942a:76]で
1942a:165】,再
1942a:89】,そ して 白馬氏 は 莞諸 民
あ る。 これ ら蜀 の地 の三 族 をば らぽ
らに所 属 させ た 根 拠 は不 明 で あ る。 た だ し文 化 的 に は 巴諸 民 族 とは か な り相 違 し,よ
り牧 民的,チ
ベ ッ ト的 性格 を もっ てい た よ うであ るか ら,巴 諸 民 族 と一緒 に取 り扱 わ
な か った の は も っ と もで あ る。 そ して これ ら諸 民 族 は 蜀 の地 で も平 地 民 で は な くて 山
地 民 だ った。 しか し春秋 時 代 には 後 述 の よ うに巴 文 化 は 四川 西 部 平 原 に進 出 し,蜀 文
化 と巴 文 化 との 混 合 が 進 ん で 巴 蜀文 化 が成 立 して い た か ら,『 後 漢 書 』 に 住 民 が 記 さ
れ た 時代 に は,平 地 に お い ては 巴 と蜀 とは文 化 的 に 見 て,か な り等質 化 が進 ん でい た
に違 い な い 【
徐 1993:1841。
と ころ で,エ ーパ ーハ ル トは,中 国 を 中心 とす る東 ア ジ ア のほ ぼ 全域 にお け る民 族
を 分類 整 理 しよ うと した。 ど う して も巨視 的 た ら ざ るを得 なか った。 これ に 反 して,
限 られ た時 代 に お け る一 地 域 に焦 点 を 合せ て,そ こに 見 られ る対照 的 な文 化 を もつ 民
族 を 区別 す る試 み は,よ
こ とが あ る。
488
り大 きな 地域,よ
り長 い 期 間 に対 して も大 きな示 唆 を 与 え る
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
そ の一 例 は,李 済 がr中 国人 の形 成』の 中 で行 な った試 み で あ る。つ ま り李済 は 『後
漢 書』 巻116に 記 され た板 楯 蛮 とr魏 書 』巻101G`記 され た 僚 の文 化 を比 較 し,そ れ ぞ
れ が異 な る文 化複 合 を もって い た こ とを指 摘 した の で あ った 。
板 楯 蛮 につ い て は次 の よ うに 記 され て い る。
「板 楯 蛮 夷 は 秦 昭裏 王 の時,一 白虎 有 りて常 に 群虎 を従 へ,数
々秦,蜀,巴,漢
の
境 に遊 び千 余 人 を傷 害 す 。 昭 王 は 乃 ち重 ね て 国中 に募 り,能 く虎 を 殺 す者 は 巴 の万
家 金 百鐙 を賞 とす。 時 に 巴群 間 中 の夷 人 に能 く白竹 の弩 を作 る もの 有 り,乃 ち楼 に
登 りて 白虎 を 射 殺 す 。昭 王 之 を 嘉 せ る も夷 人 を以 て封 を加 ふ るを 欲 せ ず,乃 ち石 を
刻 して盟 要 し,ま た夷 人 の 頃 田は 租 せ ず,十 妻 は算 せ ず,人 を傷 く者 は 論 じ,人 を
殺 す 者 は俵 銭 を以 て 死 を贋 ふ こ とを 得 せ しむ。 盟 に 曰 く 「秦夷 を犯 せ ば 黄 竜 一隻 を
輸 し,夷 秦 を犯 せ ぽ 清 酒一 鐘 を輸 す 」 と,夷 人 之 に安 ず 。 高祖 に至 りて 漢 王 の為 に
夷 人 を 発 して,還
りて 三 た び秦 を 伐 つ 。 秦 地既 に定 り,乃 ち 巴 中 に遣 し,復 其渠 師
の羅,朴,督,郡,度,夕,襲
の七 姓,租 賦 を輸 せ ず,絵 戸 は乃 ち實 銭 口四 十 を 歳
入 し,世 々号 して板 楯 蛮 夷 と為 す 」。
そ して猿 に つ い て は次 の とお りで あ る。
「猿 は蓋 し南 蛮 の 野種 に して漢 中 よ り耶 窄 川 洞 の 間 に達 し,所 在 皆有 り。 種 類 甚 だ
多 く山谷 に散 居 す。 略 々氏 族 の別 無 く又 名 字 無 し。 生 れ る所 の男 女 は只 長 幼 次 第 を
以 て 之 を呼 ぶ 。 其 丈夫 は 阿暮 阿段 と称 し,婦 人 は 阿夷 阿等 の類,皆 語 の次 第 の称 謂
な り。(中 略)た だ楯 を 執 り矛 を持 ち,弓 矢 を識 らず 。(中 略)其 俗 は 鬼神 を 畏 れ,
尤 も淫祀 を 尚ぶ 。 殺 す所 の人 美 髪髭 な る者 は必 ず 其面 皮 を剥 ぎ之 を 竹 に篭 み,燥 す
るに 及 び之 を 号 して 鬼 鼓 と日ひ,舞 ひ て 之 を祀 り以 て福 利 を求 む 。 其 昆季 奴 を売 り
て壷 す者 有 るY'至 らば,乃 ち 自ら売 りて 以 て祭 に供 す 」。
李 済 は この板 楯 蛮 と猿 を 比較 して,4,5世
紀 にお い て は 四 川省 には 少 な く と も二
つ の先 住 民 の群 が あ った と考 え た。 つ ま り,猿 族 は 弓矢 の 知 識 が なか った の に 対 し,
板 楯 蛮 は 白竹弩 の製 作 者 だ った。 猿 には 姓 が な か った が,板 楯 蛮 お よび 巴蛮 に は姓 が
あ った か らで あ る。 人 身 供 儀 が 猿 と巴蛮 の双 方 で 行 なわ れ て い た に も拘 らず,一 方 の
僚,他 方 の板 楯 蛮 と巴蛮 とい う二系 列 が 考 え られ る とい う 【
李 1943:358-361】 。
私 は李 済 の こ の考 え に賛 成 であ る。 蛮 につ いて彼 の説 を 補 強 す る資料 を一 つ あげ て
お こ う。
南 朝 の ころ湖 南,湖 北,河 南 な どで 多 くの集 団 に分れ て住 ん で いた,い わゆ る蛮 の
文 化 はr南 斉 書 』 巻58夷 伝 に,「 布 を衣,徒 跣 し,或 は 椎 誓 或 は勇 髪 す 。 兵 器 は金 銀
おお
を以 て 飾 と為 し,虎 皮 に て楯 を衣 い,弩 射 に便 な り」 とあ っ て,四 川 の板 楯 蛮 と同 様,
489
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
楯 を も ち弩 射 に習 熟 して い た の で あ る。
エ ー バ ーハ ル トは板 楯 蛮 の 蛮 と い う語 に つ いて 次 の よ うに記 して い る。 《蛮 》man
とい う語 は ブ リ ッツ ・イ エ ー ガ ー 【JAGER 1933:223】 に よる とヤ オ語 で あ って《人 間》
を意 味 して い る。 藥 瓠 蛮 と総 称 され る もの は,大 部 分 が事 実 ヤ オ 系 の 諸 族(m群)
で あ るが,中 国 人 は この蛮 と い う字 を2回,お
そ ら くヤ オ語 以 外 の言 語 を話 して い た
と思わ れ る他 の 群 に も用 い て い る。 一 つ は この板 楯 蛮 であ り,も う一 つ は 南平 蛮(p
群)で
あ る と述 べ て い る 【EBERHARD 1942a:303】。 エ ーバ ー ハ ル トの 体 系 で は, p
群 とは リャオ群 で あ って,唐 代 の南 平 蛮 につ い てエ ーバ ー ハ ル トは,純 粋 な リャオ族
で は な い ら しい と記 し,顧 炎 武 のr天 下郡 国利 病 書 』20で は板 楯 蛮 の7氏 族 と関係 づ
け られ て い る こ とを 指摘 し,こ れ に よ る とヤ オ の影 響 もあ った か と考 え るな ど,確 た
る見 解 を もて な い で い る[EBERHARD 1942a:243-244】。 《蛮 》 の 分類 に つ い て は,田
継 周 の 考 え の ほ うが 簡 単 明 瞭 で あ る。漢 代 に は荊 州 各 郡 と益 州 巴郡 の 少 数 民 族 は 《蛮 》
と総 称 され た が,こ れ らは彼 らの歴 史 と社 会 の特 徴 に 従 って 大 体 二系 統 に 分 け る こ と
が で き る。一 つ は い わ ゆ る葉 瓠 の子 孫 で あ り,も う一 つ は 庫 君 の子 孫 であ る。 しか し
こ の二 者 の子孫 は地 区 で は 犬牙 交 錯 しては い る もの の,大 体 に お い て梨 瓠 の子 孫 は武
陵,長 沙,零 陵,桂 陽 の 諸 郡 に,塵 君 の子 孫 は 南郡,巴 郡,江 夏 な どの郡 に住 み,板
楯 と賓 人 は 巴郡 蛮 の一 部 分 あ るい は後 称 であ る 【
田 1990:181】。
ただ 問 題 は この両 群 の言 語 系 統 で あ る。 プ ー リーブランク は 巴 を ミャオ=ヤ オ語 系
と考 えた[Pt肌EYBLANK 1983:422】。 言 語 資 料 が あ るわ け でな く,状 況 証 拠 に よ る も
の で あ るが,穏 当 な と ころで あ ろ う。 蛮 とい う文 字 は後V'は 広 くさ まざ ま な系 統 の民
族 に も用 い られ る よ うに な った が,漢 代 か ら南 北 朝 にか け て蛮 と呼 ば れ た諸 民 族 は大
体 に お い て ミャオ=ヤ オ語 系 だ った の で は な いか,と 思わ れ る。 これ に対 して リャオ
族 は,後 の ケ ラ オ族 な どか ら見 て,カ
ダイ語 族 だ った可 能 性 が考 え られ る 。将 来 こ と
・に よ る と地 名 研 究 の進 歩 に よ って,こ の 問題 は新 しい 光が 投 ぜ られ るか も知 れ な い。
私 は そ の 可能 性 に期 待 を も って い る。
また 巴 の文 化 の研 究 に お い て,エ ーバ ー ハ ル トの研 究 が不 満 足 な もの で あ る こ とは
さ きに も述 べ た。 こ の点 を 改善 す る一 つ の方 法 は 巴 の子 孫 と考 え られ る現 存 少 数 民族
の 文 化 を 参考 にす る こ とで あ る。
つ ま りエ ーバ ー ハル トが 巴諸 民 族 と して 挙 げ た民 族 は,み な古 代(大 部 分 は 漢 代)
の民 族 で あ る。 彼 は 巴諸 民族 は早 く漢 民 族 の 中 に溶 け 込 ん で し ま った と考 え た 。 しか
し,後 世 に も巴諸 民 族 の系 統 を 引 い た民 族 が 少 数民 族 として 存 続 して いた 可 能 性 は 充
分 考 え られ る。 そ の よ うな意 味 に お い て私 が 注 目 して い るの は 土 家 族 で あ る。r辺 境
490
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
諸 民 族 』 で は,《 そ の 他 の 南 方 諸 民 族 》 の 中 に 土 人(明 代?)と
【c48;EBERHARD して 記 され た もの
1942a:363-364】 が土 家族 に 当 るの か も知 れ な い 。 土 家 族 の起 源 に
つ い て は 巴人 説 以外 に も烏 蛮 の一 部 だ とか,唐 末 五 代 初 年 に 入 った百 芸 工 匠 の 子孫 だ
とい う説 もあ るが,私 は 白虎 崇 拝 な どの 理 由 で,巴 人 説 は 蓋 然 性 が高 い と思 って い る
lr中 国 少 数 民 族 』 編 写 組 1981:544;彰
19901。 古 代 の 巴文 化 の再 構 成 に は,エ
ー
バ ーハ ル トが利 用 しな か った この土 家 族 の 民族 誌 的 資 料 も極 め て 興 味 深 く,価 値 あ る
もので あ ろ う。
古 代 巴 の 文化 の研 究 に は,民 族 学 的 立 場 か らの研 究 と並 んで,否,よ
り重 要 な研 究
方 法 と して 考 古学 的 立 場 か らの研 究 が あ る。
こ こで興 味 深 い の は,エ ーバ ーハ ル トが 巴 諸 民 族 と呼 ん だ も の の文 化 は,考 古 学 的
に も対 応 す る もの が認 め られ る こ とで あ る。 つ ま り春 秋 前期 に拡 が った 巴 文化 な い し
巴 蜀 文 化 であ る。 徐朝 竜 に よれ ぽ,(1)虎
厚 で あ る。(2)淳
干,鉦,編
を 崇 拝 し,兵 器 を好 み,軍 事 的色 彩 が濃
鐘 とい った 楽器 を操 り,音 楽 を 得 意 とす る。(3)多
く
の面 に お い て揚 子 江 中 流域 の大 国 で あ る楚 の文 化 か ら強 い 影 響 を 受 け てい る。(4)《巴
蜀 図 語 》 ま た は 《巴蜀 文 字 》 と呼 ぼ れ る準 文 字 シ ス テ ム が発 明 され た 。(5)船
を棺
に して 死 者 を埋 葬 す る風 習 が あ った。
「この文 化 は元h,「
巴 」 と呼 ば れ た 四 川 東 部 の 丘 陵 地 に 展 開 し,普 通 「巴 文 化 」
と名 付 け られ て い る。 戦 闘 に 強 く,音 楽 を得 意 と した 巴文 化 の 担 い 手 「巴人 」 た ち
は,古
く西 周 初期 か ら段 を 滅 ぼ す 戦争 に も駆 り出 され,勇 敢 な戦 い で そ の名 をは せ
た。 彼 らは 「歌舞 を 以 て股 人 を 凌 ぐ」 と,古 代文 献 に記 録 され て い る。
春 秋 時代 には 東方 大 国 で 「五 覇 」 の一 つ で あ る楚 と抗 争 を繰 り返 し,楚 の勢 力 の
西 進 を 堅 く阻 ん だ 。 同 時 に彼 らは 楚 の 都 近 くに 大 量 に 住 み 着 き,「 下 里 巴人 」 と し
て 知 られ,文 化 的 に楚 と深 くか か わ った。そ の彼 らが西 へ川 西 平 原 に進 出 した のは,
おそ ら く抗争 に敗 れ,楚 の圧 迫 を受 け て い た か ら と見 られ て い る」。
巴文 化 は 川 西平 野 を 支 配下 に置 き,巴
と蜀 の文 化 の混 合 が進 み,こ の時 期 か ら秦 の
統 一 ま で の時 代 の文 化 は 巴 蜀文 化 と呼 ば れ て い る[徐 1993:181-1841。
お そ ら く,漢 代 お よび そ れ 以 前 の蛮 や 僚 の文 化 を考 え る場 合,こ の よ うYy考 古 学 的
に 明 らか に され た 巴文 化 と の関 係 を考 慮 に入 れ る必 要 が あ ろ う。
次 に リャオ につ い て もつ け 加 え て お きた い こ とが あ る。 それ は リャオ と タイ系 民 族
との 関 係 に つ いて で あ る。
エ ーバ ー ハ ル トは 中 国 の学 者,た
とえ ぽ 林 恵 祥 【1936:第16章1や 胡 耐 安 【1964:
227-252】 が 焚 揮 系 と して 一 括 した 諸 民 族 を,チ
ワ ソ諸 民 族,リ 諸 民 族,ケ
ラオ諸 民
491
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
族,リ
ャ オ 諸 民 族,白
蛮 諸 民 族 と い う よ う に 五 つ に 分 け,別
で チ ワ ソ諸 民 族 を 重 要 視 し,他
々 に 取 り扱 っ た 。 そ の 中
の 民 族 群 も チ ワ ン文 化 と 文 化 的 に 親 縁 で あ る か,あ
い は チ ワ ン文 化 の 要 素 を 多 く含 む こ と を 考 え た が,そ
る
れ で も別 々 の 群 を な す と見 な す
の を 適 当 と考 え た 。
私 は,エ
ー パ ー ハ ル トの こ の 見 解 は も っ と も で あ る と賛 成 し た い 。 そ れ は 彼 は,こ
れ ら諸 民 族 を 文 化 内 容 か ら 見 て そ れ ぞ れ 別 個 の 文 化 複 合 の 担 い 手 と見 た か ら で,文
複 合 を 基 準 と し て 判 断 す る 限 りに お い て は,こ
れ ら を 別hと
化
考 え る の は 当 然 だ と私 も
判 断 す るか ら で あ る 。
た だ こ こ で 問 題 とな る の は,こ
れ ら民 族 群 が 記 録 さ れ た 年 代 が 同 じ で な い の で,こ
れ ら 諸 群 を 並 列 し て よ い か 否 か と い う点 で あ る。 具 体 的 に 言 う と,リ
ワ ン 諸 民 族,ケ
ラ オ 諸 民 族 の 関 係 が 問 題 で あ る。 つ ま り彼 が リ ャ オ 諸 民 族 と して ま と
め た 諸 民 族 は,彼
[EBERHARD ャオ諸 民 族 とチ
が そ の 年 代 は 漢 代 か ら現 代 に 至 る と記 して い る に も 拘 ら ず
1942a:246】,あ
る程 度 詳 し い 文 化 内 容 の 記 述 の あ る の は,飛
南 平 蛮 の 三 つ で あ っ て,漢
l942a:237-244】
代 か ら 唐 代 に 存 在 し て い た 諸 族 で あ る[EBERHARD
。 そ れ に 対 し て チ ワ ソ諸 族 の 資 料 は,宋
あ る 【EBERHARI)1942a:176-192,1951。
料 を も っ て お ら ず,し
時 代 は 大 部 分,疑
代 か ら現代 に か け て の もの で
ま た ケ ラ オ 諸 民 族 に つ い て は 彼 は あ ま り資
ぽ し ぼ 数 種 の い わ ゆ る ミ ャ オ ・ア ル バ ム と い う 図 録 を 用 い6),
問 符 を つ け て 明 代 か と い い,た
る[EBERHARD 1942a:229-235】
6) エ ー バ ー ハ ル トは,本
だ ケ ラ オ 族 だ け は 宋 代 か と考 え て い
。
書 に お い て は,チ
ワ ソ,ケ
ラ オ,ミ
ャ オ な ど の と こ ろ で 数 種 の 《ミ
ャ オ ・ア ル バ ム 》 を 使 用 し て い る 。 そ れ ら ア ル バ ム は,
Album Hahn:Miao-tse-Album.以
前 ベ ル リ ン の1. Hahn嬢(エ
Ida Hahnか?)が
頭 猿,猿,
ド ゥ ア ル ト ・ハ ー ソ の 妹 の
所 蔵 して い た 彩 色 画 で テ キ ス トつ き 。
Album L D。8756:Miao-tse-Album.ベ
Album I。
D。10825:Miao-tse-Album.ベ
ル リ ン民 族 学 博 物 館 所 蔵 で 彩 色 画 で テ キ ス トつ き 。
Album O. As.6979.雲
ル リ ン民 族 学 博 物 館 所 蔵 で 彩 色 画 で テ キ ス トつ き 。
南 諸 民 族 の ア ル ノミム で,ラ
イ プ チ ッ ヒ 民 族 学 博 物 館 所 蔵 で 彩 色 画,
注 記 つ き。
Album X.:Miao-tse-Album.彩
色 画 で 注 記 あ り。 ベ ル リ ソ の 個 人 所 蔵 。
Bilder I. D.24957.ベ
ル リ ン 民 族 学 博 物 館 所 蔵 の,貴
1以 上EBBxxaxn 1942a:491】
Gotha-Album:Miao-tse-Album.ゴ
Chiu[1937】
州 省 の 諸 民 族 の絵 の の った一 連 の巻 物
。
ー タの 城 内 に あ るか つ て の 公爵 立 博 物 館 所蔵 。 内 容 は
に 紹 介[EBExxaxn l942a:494]。
ラ イ プ チ ッ ヒ民 族 学 博 物 館 所 蔵 の 複 数 の 《ミ ャ オ ・ア ル バ ム 》。 内 容 はEberhard[1940】Y'
紹 介[EBER.HARD で あ る。
1942a:500】
こ れ ら の ア ル バ ム は,台
あ る が,佐
。
湾 に残 され た
『黙 苗 図 説 』 や 大 陸 に 残 さ れ た
々 木 利 和 氏 に よ る ア イ ヌ絵 の 研 究 の よ う に
【SASAKI l993】,専
『百 苗 図 詠 』 の 類 で
門 家 に ょ る これ ら
の ア ル バ ム の 本 格 的 な 研 究 が 望 ま れ る 。 な お ドイ ツ に お け る 《ミ ャオ ・ア ル バ ム 》 研 究 の 先
駆 的 業 績 と し て はJager[1915-1918]が
492
あ る。
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
つ ま りエ ーバ ーハ ル トが リャオ文 化 と して ま とめ た 文 化複 合 は,チ
ワソ文 化 や ヶ ラ
オ文 化 よ りも時 代 的 に 古 い も の な の であ る。 したが って,そ れ ぞれ が 異 な る文 化 複 合
であ る こ とを認 めた 上 で,こ れ らの間 に 系譜 的 な関 係 は ない か,と い う問 題設 定 が可
能 で あ る。
リャオ諸 族 とケ ラオ諸 族 との 間Y'つ い て は,彼
自身,ケ
ラオ文 化 は こ とに よる と,
チ ワン文 化 や ヤ オ文 化 の 要素 が著 し く重 層 した リャオ文 化 だ と見 な して よい だ ろ うと
考 えて い た。 この想 像 は 私 も基本 的 に賛 成 で あ る。 中 国 の学 者 も,た とえぽ 『中 国 少
数 民 族 』 も次 の よ うに現 代 の ケ ラオ族 は 古 代 の 《僚 》 と関 係 が あ る こ とを 認 め た 。
「唐,宋 の 時,史 書 に 始 め て 《葛僚 》,《佗 僚 》,《信 僚 》,《革 老》,《イ
乞倦 》 な どの 名
称 が 現 れ,ま
とめ て 《僚 》 と呼 ん だ。 僚 人 は お そ ら く古 代 に お い て この一 地 区 の 若
干 の少 数 民 族 の汎 称 であ って,ケ
ラオ族 とは さ らに 直接 的 な密 接 な 関 係 を も って い
た 」1『中 国少 数 民 族 』編 写 組 1981:490;な
これ に反 して,よ
り難 問 は,リ
お胡 耐 安 1964:239参 照1。
ャオ諸 族 とチ ワソ諸族 との関 係 で あ る。 エ ーバ ーハ
ル トは,チ ワ ソ文 化 と リ ャオ 文 化 との間 の文 化 的 相違 を 強調 し,両 者 は 本 来 無 関 係 で,
そ の分 布 領 域 の 南部 で リャオは チ ワン文 化 の影 響 を 受 け た の だ と解 釈 した。 しか し,
彼 が リャオ文 化,チ
ワ ン文 化 の 資 料 と した も の には 時 代 的 な差 が あ るか ら,彼 の よ う
に 両者 を並 列 して取 り扱 うのは 適 切 で な い。 それ に して もエ ーバ ーハ ル トが仮 説 的 に
リャオ文 化 と チ ワソ文 化 の両 方 を 再 構 成 し,別 個 の文 化 複 合 で あ る こ とを 指摘 した の
は,そ の限 りに お い て は二 つ の功 績 だ った と言 わ な くて は な らな い。
e.番
とは 何 か
エ ーバ ー ハ ル トの構 想 に お い て,ミ
ャオ=ヤ オ群 と密 接 な 関 係 の あ る民 族群 の一 つ
は 彼 が 西方 辺 境 諸 民 族 の第 二 の群 と して ま とめ た番 諸 民 族 で あ る。 そ こ で この 番 諸 民
族 に つ い て少 し詳 し く考 え て み た い。 彼 に よれ ば,こ の群 は 文 化 的 に は莞 群 に 近 く,
他 方,南 方 諸 文 化 とも関 係 を もち,重 層 され て で きた群 だ とい う。 さ らに ミ ャオ族 は
番 族 の 子孫 が ヤ オ族 化 し,そ れ は リャオや タイ に よ って影 響 を 受 け,最 後 に チ ベ ッ ト
族 に よ って重 層 され て で きた の だ とい う。
こ の番 諸 民 族 小 群 は,他
《一
の研 究 者 の 分 類 に は 見 られ な い彼 独 自 の も の で あ る。
番 》 とい う名 の,あ ま り知 られ て い な い諸 民 族 を 中心 と して 近 くの 民族 を一 括
した もので あ って,吐 蕃 とか 西 蕃 とい う蕃 のつ くチ ベ ッ ト=ビ ル マ系 諸 族 との ア ナ ロ
ジーか ら考 え れ ぽ,こ れ ら諸 族 を 西方 諸 民族 の中 の 一 小群 と して ま とめ た こ とは理 解
で きる。
493
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
しか し,一
番 とい う名 がつ いて い て も,そ れ が 果 して チ ベ ッ ト=ビ ル マ語 族 に属
す る こ とを直 ち に意 味 す るか 否 か は 別 問 題 で あ る。 こ とに宋 代 にお い て は 莞 も蛮 とか
夷 と呼 ぼ れ た よ うに 【
再 ほ か 1984:214],非
漢 民 族 の呼 び方 も混 乱 して お り,番 とい
う方 を 使 って い たか ら と言 って,西 蕃 な ど と同系 と い う保 証 は な いか らだ 。
そ れ ぼ か りで な く,彼 が番 と して ま とめ た諸 群 が チベ ッ ト=ビ ル マ系 と呼 ん で ょい
か ど うか も問題 が あ る。 近 年 の 中国 学 者 の研 究 に よ る と,む しろ,そ の 多 くにつ い て
は いわ ゆ る僚 で あ って タイ=カ ダ イ系 の疑 い が あ るの だ。
つ ま り張雄 に よれ ば,思 州,播 州,野 州所 領 の諸 罵鷹 州 と叙 州 以 南(今 の 四川 省 東
南,湖 南 省西 南 お よび広 西西 北 辺 縁 地 区)は,も
とは 月
判可蛮,狸 僚,そ れ に武 陵 蛮 夷
の南 部 一 支 の分 布 地 域 だ った 。 この 一 地 区 の少 数 民 族 は,か つ ては 僚 と ま とめ て呼 ば
れ,唐 宋 の時 代 に は,東 謝 蛮,西 趙 蛮,西 南 蕃,南 江 蛮,誠 徽 州 蛮(飛 山 蛮),撫 水
蛮,環 水 蛮,あ るい は夷 子,倍 伶,嗣 蛮 と称 した。 布 依,桐,水
な どの 族 の別 称 あ る
い は蔑 称 で あ る 【
張 1989:240】。
また 彼 は東 謝 蛮 や 西 趙蛮 な どYTつ い て は,野 州都 督 所領 の諸 鴇 魔 州 の諸 蛮 は,分 れ
て大 姓 酋 師 に 率 い られ て い る が,そ の 部 落 に は僚 人 の文化 特 徴 を保 留 して お り,僚 と
夷 子 が 部 民 の主 な組 成 部分 で,そ の ほ か 苗 蛮 の部 落 が そ の 間 に雑 居 してい た と も論 じ
ている 【
張 1989:204】。
また 尤 中 に よれ ば,唐 代 に東 謝,南 謝,西 趙 の首 領 な どが統 轄 した 境 内 は,守 宮 僚
と夷 子 を 除 く と,佗 倦族,苗 族 と,ま だ僚 族 か ら分 出 して い な い水 族 と個 族 の前 身 が
住 ん で い た。 これ が 宋 代 に な る と,守 宮僚 とい う名 が 消 え,夷 子 とい う名 は残 り,新
た に 仲 家 とい う名 称 が 出現 した 。 唐 代 の謝 氏,趙 氏 は 倫 落 して一 般 の頭 目に な り,こ
れ に 代 って起 った の は,竜 氏 を 首 とす る竜,方,張,石,羅,程,章
の七 姓 の貴 族 で,
こ の他 の統 治 に あた り,《 西南 七 蕃 》 と号 した。 そ の地 域 は今 の 四川 省 東 南,四 川 省
南 部 か ら四 川省 西 南 一 帯 を包 括 して い る とい う1尤 1985:218-219】 。
系 統論 以 外 に重 要 な の は,こ れ ら諸 族 が一 定 の時 代 に 置 か れ た民 族 間 関 係 で あ り,
政 治 史 的,経 済 史 的 地位 で あ る。
エ ーバ ーハ ル トが 番 と して分 類 した もの の か な りの 部分 は,唐 や 宋 の時 代 に,唐 や
宋 の王 朝 と南詔,大 理 国 の 中間 地 帯 に 居住 す る人 た ちで あ った。 つ ま り尤 中 の 『中国
西 南 民 族 史』 に よ る と,こ の よ うな 民 族 の あ る ものは 唐 や宋 に罵 属 し,唐 や宋 がそ の
地 に 罵鷹 州,県 を 設 置 す る と,そ の 首 領 を刺 吏 や 県 令 に した。 また あ る者 は 南詔 ・大
理 に 依 附 したが,南 詔 や 大理 もそ れ ら民族 の元 来 の組 織 は変 え な いで,そ の首 領 を部
長 と した。 しか し,唐,宋
494
や 南 詔 ・大理 の彼 らに対 す る統 制 が弛 ん だ 時 に は,何 人 か
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
の首 領 は 独 立 して王 と称 し,そ の地 を 国 と称 した 。 この よ うな現 象 は 宋代 に著 し く,
羅 氏鬼 国や 自杞 国 が そ の例 で あ る。苑 成 大 のr桂 海 虞衡 志 』志 蛮 は 次 の よ うに記 され
て い る。
もと
「南 方 を 蛮 と日 ふ。 今郡 県 の外J罵 鷹 州 洞,故 皆 蛮 地 と錐 も,猶 ほ 省 民 に近 く,税
役 を供 し,故 に 蛮 を 以 て 之 に命 せ ず。 羅 鷹 州 を過 ぎて 則 ち 之 を化 外 と謂 ひ,真 の蛮
ことな
な り。 …種 類 殊 に 誰 り,勝 げ て記 す べ か らず 。 今 そ の桂 林 に近 き者 を志 せ ぽ,宜
州(今 の広 西 宜 山)に 西南 蕃 有 り,大 小 張,大 小 王,龍,石,膝,謝
川 省 南 部 の布 依族 苗 族 自治 州 一 帯),地
諸 蕃(今
の四
は詳 胸 と接 す 。 …又 南 は 琶 州南 江 の外 に連
る者 は,羅 殿,自 杞 等 国 を 以 て名 つ く。 羅 孔,特 磨,白 衣,九 道 等 は 道 を 以 て名 つ
く。 而 して峨 州(今 の広 西天 峨)以 西 は,別 に酋 長 有 りて,統 属 す る所 な き者 は,
蘇綺,羅 坐,夜 面,計 利,流 求,万 寿,多 蛉,阿 誤 等 の 蛮 に て,之 を 白蛮 と謂 ひ,
ただ
酋 は 自 ら太 保 と謂 ひ,大 抵 は 山僚 と相似 る も,但 首 領 有 るの み。 羅 殿 等 の処 は乃 ち
聚 落 を成 し,亦 文 書 公文 有 り,守 殿 を 殿 固王 と称 す 。 其 外又 大 蛮 落 有 り,西 を大 理
と日 ひ,東 を交 趾 と日 ふ 」。
こ の よ うに 独 立 な い し半 独 立 の 集 落 の 中 で 最 大 の も のが 羅 殿 と 自杞 で,し
たが っ
て 国 を 名 の った の で あ る 。 そ して 羅 殿 は 《羅 氏 鬼 国 》 の こ とで あ る 【
尤 1985:
196-197]0
こ こで重 要 な のは,番 諸 族 が一 方 では 進 出 して くる漢 族,他 方 で は雲 南 の 南 詔,大
理 王 国 とい う二 つ の大 きな 政 治勢 力 の中 間 に位 置 してい た こ とか ら生 ず る民 族 間 関 係
であ る。
岡 田宏 二 に よる と,宋代 に は 中国 側 は 大理 国 との交 易 を通 じて軍 馬 を 買 い入 れ たが,
そ の際,大 理 国 と宋 の中 間 に位 置 す る非 漢 民 族 を媒 介 と した 中 継 交 易 の形 式 を と る こ
とが 最 も望 ま しか った 。 そ こで 中間 地 帯 に 居住 す る非 漢 民 族 の 存在 は宋 朝 に と って極
め て重 要 とな り,彼 らを いか に利 用 す るか が,馬 政 の成 否 に も直 接影 響 を 及 ぼ した の
である 【
岡 田 1993:190;な
お塚 田 1983を 参 照1。
そ して横 山塞 に馬 を売 りに 来 た羅 殿 国,自 杞 国,特 磨 道 な どの 諸蕃 の身 体 形 質 や 衣
食 は 『文 献通 考 』 巻328・ 四商5,充
州 の条 に収 め られ た 『桂 海 虞 衡 志 』 に 出 て お り,
胡 起 望 と箪 光 広 に よれ ぽ,宋 代 の舞 族 で,自 杞 ・羅 殿 を指 して い る。 さら に両 氏 に よ
れ ば羅 殿 国 は 唐代 に貴 州 省 西 南部 に一 部 の舞 族 が建 て た地 方 政 権 で,自 杞 国は 唐 宋 時
代 に一 部 の舞 族 が建 てた 地 方 政 権 で,現 在 の雲 南 省 曲靖 地 区南 部 と紅 河州 東 北 部 で,
現在 昆 明 の南 の 名勝 石 林 附 近 に す む サ ニ族(舞 族 撒尼 系)は,宋
代 の 自杞 国 の後 喬 だ
とい う。 特 磨 道 は雲 南 省 文 山州 広 南 県一 帯 に あた り,宋 代 には 主 に 儂 氏 の貴 族 が 居 住
495
国立民族学博物館研究報告 20巻3号
して い た と い う 【
胡 ・箪 1986:215-216,218;岡
こ の よ う に し て 見 て く る と,エ
田 1993:219-220に
ー バ ー ハ ル トの 番 群 の 構 想 は,到
引 用1。
底 そ の ま まの形 で
採 用 す る こ と は 困 難 な こ とが 明 ら か で あ る 。恐 ら く チ ベ ッ ト=ビ ル マ 系 の 民 族 と タ イ=
カ ダ イ 系 の 民 族 が 一 括 さ れ た ら しい 。 こ の よ うな 番 群 か ら 出 発 し て ミ ャ オ 族 の 形 成 を
説 く彼 の 説 が,確
f.白
固 た る 土 台 の 上 に 立 っ て い な い こ とは 言 う ま で も な い 。
番 と烏 蛮
エ ーバ ーハ ル トは 雲 南 の44民 族 を 白蛮 諸 民 族 と して ま とめ,広 西 の チ ワ ソ族 に 大変
近 い関 係 に あ る タ イ系 の 諸 民 族 だ と考 えた 。 しか し,彼 の 白蛮 諸 民 族 とい う分 類 に つ
い ては,問 題 にす べ きい くつ か の点 が あ る。
第 一 は 白蛮諸 民 族 と して ま とめ られ て い るの は,い か な る民 族 で あ るか,と い う問
題 で あ る。 言語 系 統 とい う点 か ら言 えば,白 蛮 諸 民族 は一 色 で は な い 。大 き く見 て 二
系 統 の 民 族 を一 括 してい る。 つ ま り,彼 が 白蛮 諸 民族 と呼 んだ もの は,昔 の 白蛮 の子
孫 と思 わ れ るペ ー族 の よ うな チ ベ ッ ト=ビ ル マ系 民族 ぼか りで な く,タ イ(俸)族
の
よ うな タイ 系 統 の民 族 も多 く含 ん で い る。 そ の点 に お い て は,彼 が 白蛮諸 民族 を タ イ
系 と考 えた の は も っ とも であ る。 雲 南 諸 民 族 の言 語 系統 の研 究 が 未 熟 だ った 当時 に本
書 が書 か れ た の で あ るか ら,白 蛮 諸 民 族 の この 取 り扱 い方 は 理 解 で き る もの で あ る。
私 は エ ーノミーハ ル トが 白蛮 諸 民族 と称 した もの は,歴 史 的 に見 て二 つ の 中心 とそ の
衛 星 諸 族 か らな る民族 間 体 系 を なす 諸 民 族 で は な か った か,と 思 っ てい る。 つ ま り一
つ は唐 か ら元 に か け ては 潟 海 の西 岸 を本 拠 とす るチ ベ ッ ト=ビ ル マ系 支配 者 を いた だ
く南 詔,大 理 とい う国家 機 構 と,そ の勢 力 下 の必 ず しもチ ベ ッ ト=ビ ル マ系 だ け に は
限 られ ない 諸 民 族 の体 系 で あ る。 大理 の崩 壊 後 は,そ れ に代 る強 い核 が な い ル ー ス な
民族 群 とな った 。 も う一 つ は 西 双版 納 に おけ る平 地 の タイ(俸)諸
地 諸 民 族 を そ の 配 下 に お さめ た 民 族 間体 系 で,明,清
王 国 を核 と し,山
代 か ら20世 紀 初 頭 まで存 在 して
い た こ とが 知 られ て い る。
エ ー・ミー ハル トの 白蛮 諸 民 族 とは,こ の二 つ の 民 族 間 体系 を一 括 した もの で あ り,
それ ぞれ の内 部 は か な り複 雑 であ り,決 して等 質 的 で は な か った。 それ に も拘 らず,
平地 居 住 の水 稲 耕 民 と して は,両 体 系 と も文 化 的 に 多 くの共 通 点 が あ った。 エ ーバ ー
ハ ル トが 白蛮 文 化 と して注 目 した の は それ だ った の で あ る。
第 二 の問 題 は,白 蛮 と烏 蛮 との関 係 で あ る。
エ ーバ ーハ ル トはB西 方 諸 民族 の 中 で烏 蛮 を チ ベ ッ ト 【=ビ ル マ1語 系 民 族 と して
取 り扱 い,C南
496
方 諸 民 族 の 中 で 白蛮 を 取 り上 げ,こ れ を タ イ語 系 民 族 だ った と考え
大林 中国辺境諸民族の文化 と居住地
て い る。 これ も今 日の研 究 段 階 か ら見 れ ば物 足 りな い。 烏 蛮 が チ ベ ッ ト=ビ ル マ 系 と
い うの はそ れ で よい が,白 蛮 諸 民 族 全体 で な く白蛮 自体 は タ イ系 で は な くて,や は り
チ ベ ッ ト=ビ ル マ系 と見 るべ きで あ ろ う。 少 な くと もそ の支 配 者 層 は そ うで あ ろ う。
筆 者 に は諏 訪 哲 郎 の 次 の説 が 示 唆 に 富 む と思 わ れ る。 そ れ に よれ ぽ,チ ベ ッ ト=ビ ル
マ系 の言 語 を用 い る土着 の農 耕 民 が 住 ん で いた とこ ろに,北 方 か ら南 下 した少 数 の莞
族 系 の牧 畜民 が,そ の上 に支 配 層 と して君 臨 した集 団 が 烏 蛮 で あ る。 そ れ に対 して,
チベ ッ ト=ビ ル マ語 を 用 い る土 着 の農 耕 民 の 中 に,四 川 方 面 か ら漢 民 族 が 徐 々に 浸透
して 融 合 し,漢 族 文 化 を 相 当受 容 した 集 団 が 白蛮 で あ る1諏 訪 1988:133-134】 。
諏 訪 の この 興味 深 い解 釈 も まだ極 め て 仮説 的 な段 階 に あ る。 け れ ども,白 蛮 は 烏 蛮
と切 り離 さず,関 連 した もの と して取 り扱 うべ き こ と,ま た漢 化 とい う要 因 を エ ーバ ー
ハ ル ト以 上 に 考慮 に入 れ るべ きで あ る とい う二 点 に お い ては,私 は諏 訪 に 賛 成 で あ る。
た だ チ ベ ッ ト=ビ ル マ語 族,こ
とに いわ ゆ る ロ ロ群 の 民族 史,文 化 史 に つ い て は,未
解決 の問 題 が 多 い こ とを こ こで 指摘 して お きた い 。
6.結
論
以 上,私 は エ ーバ ーハ ル トの 『辺 境 諸 民族 』 に おけ る中 国 南部 の諸 民 族 に つ い て検
討 を行 って きた。
まず 認 め な けれ ば な らな い こ とは,こ れ が完 成 した1940年 とい う年 代 を 考 え て み る
と,前 人 未 踏 の領 域 を開 拓 した 記 念 すべ き先駆 的業 績 で あ る ことで あ る。 しか も,中
国研 究 には 不 便 な ア ソカ ラで この 古 典 が完 成 され た とい う こ とを考 え る と驚 異 的 です
らあ る。 取 り上 げ た民 族 の数,利 用 した髭 大 な資料,そ
して大 きな 見通 しは ま さ に圧
倒 的 で あ る。 そ して諸 民族 群 を そ れ ぞ れ 異 な った 文 化複 合 と して把 握 し よ うとす る努
力 は,こ の本 に東 ア ジ アの歴 史 民 族 学 的研 究 の古 典 と して の価 値 を 与 え て い る。
具 体 的 に は,華 南 諸 民族 の多 くを 文 化 的 に見 て焼 畑 耕 作 の ヤオ文 化 と水 稲耕 作 の チ
ワ ソ文 化 とい う二 つ の 大 きな系 列 に ま とめ よ うと した の は,す
ぐれ た 着 想 で あ った。
しか し,リ ャオ文 化 の位 置 づ け は,問 題 を 残 して い る。 また 越 諸民 族 と巴 諸 民 族 を 南
方 辺 境 諸 民 族 の一 部 と して 論 じた の は,当 時 とすれ ぽ卓 見 で あ った。 巴諸 民 族 の 文 化
複 合 を と り出す の に は彼 は 成 功 して い ない が,越 文 化 につ い て の彼 の構 想 は 示 唆 に 富
ん で い る。
この よ うに全 体 と してす ぐれ た面 が大 きい が,欠 点 や不 満 な個 所 も少 な くな い。 ま
ず 資料 の吟 味 が 不 充分 な こ とは,資 料 集 と して の本 書 の価 値 を あ る程 度 傷 つ け て い る。
497
国立民族学博物 館研究報告 20巻3号
ま た具 体 的 な 民族 群 の取 り扱 い で は,ミ
も拘 らず 別個 に取 り扱 い,ミ
ャオ諸 民 族 とヤ オ諸民 族 とを 同一 語族 な の に
ャナeヤ オ群 と して ま とめ る視 点 を 出 さ なか った の は,
や は り一 つ の 限界 で あ る。 また 白蛮 を 烏 蛮 と切 り離 して見 る行 き方 に も問 題 が あ る。
また楚 の よ うに 個 性 あ る大 きな 文化 を越 文 化 の 中Y'含 め る こ と も問題 で あ ろ う。 一般
に 彼 は語 族 の 問 題 に つ い て考 慮 が足 らず,諸 民 族群 と語 族 との 関 係 に つ い ての 彼 の 説
は,ヤ オ と越 が オ ース トロネ シ ア語族,リ
ャオ群 が オ ー ス トロア ジ ア系 とい うよ うに
問 題 が多 い 。 そ れ よ りも大 きい 欠 点 は,漢 民 族 との 民族 間関 係 を充 分 留意 しな か った
こ と,同 一 民 族 の歴 史 的 変 化 を考 慮 す る こ とが 少 な か った こ とで あ る。 こ とに 唐 宋 ご
ろ 多 くの華 南 の民 族 で焼 畑 耕 作 か ら水稲 耕 作 へ の 移 行 が行 なわ れ た こ とは,リ
ャオ文
化 か らチ ワ ソ文 化 へ の変 化 の可 能 性 も考 え させ,経 済形 態 を も って 民 族 や文 化 の系 統
を 考 え よ う とす る彼 の立 場 の有 効 性 に は 限界 が あ る こ とを示 してい る。
この よ うに エ ーノミーハ ル トの研 究 に は,今
日か ら見 れ ば批 判 す べ き点 は 多 い。 そ れ
に も拘 らず,こ の 本 は 中 国 の民 族 史,文 化 史Y'と って 基 本 的 な古 典 で あ る。 私 は この
本 を く り返 し読 む た び ご とに,問 題 の所 在 や,解 決 の た め の着 想 な ど,新
しく学 ぶ と
こ ろが あ った。 他 の人 も この 本 を じっ く り読 む な らぽ,お そ ら く同様 な感 想 を もつ人
が 少 な くな い で あ ろ う。 そ の 意味 に おい て 本書 は常 に新 しい 古典 で あ る7も
文
献
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7)小
498
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