Untitled

江戸しぐさの終焉 原田実
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はじめに
普及してしまった﹁江戸しぐさ﹂
﹁ あ い さ つ し ぐ さ ﹂ 他 の 人 に も あ い さ つ し よ う。
︵江戸しぐさ
﹁えしゃくのまなざし﹂にこめられた礼ぎの心をうけつごう︶
これは、東京都渋谷区のある公立小学校で、入口に掲げられていた
標語である 。
﹁江戸しぐさ﹂と称されるマナーは、江戸時代の商人たちが作り上げ
たものという触れ込みで、学校の道徳教育や企業の社員研修などで広
く用いられ て い る 。
3
この標語の﹁えしゃくのまなざし﹂︵会釈 の ま な ざ し︶も﹁江戸しぐ
さ﹂のひとつで、見ず知らずの相手でも、街角で出会ったらさりげな
く目を見合わせ軽く挨拶することだという。
毎朝、すべての生徒がこの標語の下をくぐる。(2014 年 9 月、太田克史撮影)
たしかに、子供たちが挨拶の習慣を身につけるのは良いことだろう。しかし、それにわざ
わざ江戸時代からの﹁伝統﹂という意味付けをする必要はあるのだろうか。
﹁江戸しぐさ﹂は江戸時代にルーツをも
そして、すでに広く知られるようになってきたが、
つマナーで は な い 。
本書は、﹁江戸しぐさ﹂が江戸時代の発祥ではなく、現代人の創作であることをあらためて
考証し、さらにそれが教育現場に広まった経緯とその問題点について、検証していくもので
ある。
前著からの発展
本書には、前著﹃江戸しぐさの正体﹄の続編としての側面もある。前著を世に問うた直後、
私は﹁江戸しぐさ﹂問題の解決までは長い道のりになるだろうと覚悟していた。
しかし、その後の展開の速さは私の予想をはるかに超えるものだった。本書執筆の準備を
進める間にも、私の眼前で﹁江戸しぐさ﹂問題の終息にいたるまでの道筋が次第に明らかに
なってきた よ う で あ る 。
前著は、
﹁江戸しぐさ﹂といえば推奨する書籍ばかりだった出版界で、
﹁江戸しぐさ﹂への
批判を一冊を通して展開した最初の書籍である。
4
それが大きな反響を呼んだ理由は、これまで﹁江戸しぐさ﹂というものを知らなかった読
者には、その普及状況と問題点という初耳の話題を提供し、すでに﹁江戸しぐさ﹂を知って
し ばみ つあ き ら
いた読者には、それまで漠然と抱えていた疑惑や違和感に初めて明確な回答をもたらすこと
ができたか ら だ ろ う 。
﹁江戸しぐさ﹂普及団体の動向
﹁江戸しぐさ﹂の事実上の作者である芝三光のひととなりや、
などについては、前著刊行後の取材で新たにわかった事実もある。本書でそれらについてと
りあげることができたことを喜ばしく思う。さらに、前著に対するマスコミの反応や﹁江戸
しぐさ﹂普及団体の対応についても本書に反映させた。
﹁江戸しぐさ﹂問題の解説書として、これだけでも独立した一冊と
しかし、一方で本書は、
して読める内容になっている。前著をまだ読まれていない読者も、安心して手に取っていた
だきたい。
本書の構成
ここで本書の概要を示しておきたい。
まず、第一章では﹁江戸しぐさ﹂の概要とそれが江戸時代のものではありえない理由につ
いて説明し、さらにそれが江戸時代のものであることを前提に学校で使用される教科書や教
はじめに
5
材に導入されている現状を述べた。
第二章では、芝三光の履歴に関する や、彼が﹁江戸しぐさ﹂を創作した理由を論じ、さ
らに芝の創作した﹁江戸しぐさ﹂がマスコミを通じて広められ、
﹁江戸の良さを見なおす会﹂
や﹁NPO法人江戸しぐさ﹂など、複数の普及団体が形成されるにいたった経緯を述べた。
また、その中では新たに芝の没後に後継者の座をめぐって生じた関係者の確執や、二〇〇
五年頃の﹁江戸しぐさ﹂ブーム以降の各普及団体の動向についても最近の取材に基づいて記
した。
第三章では、実際に﹁江戸しぐさ﹂を教育現場に定着させるうえで大きな役割を果たした
親学という思想について概説し、それに対する批判を行なった。
第四章では、マスメディアやネットにおける前著への反響を概説した。
第五章は、前著刊行に対する普及団体の対応をまとめるとともに、各普及団体の現状につ
いての情報を読者に報告するものである。
第六章は、学界が﹁江戸しぐさ﹂の拡散を放置したことや、マスメディアや行政がその推
進に手を貸してきたことの問題を改めて指摘するものである。
終章では﹁江戸しぐさ﹂問題の現状をあらためて俯瞰するとともに、今後﹁江戸しぐさ﹂
がどのような方向に向かうかの展望を示した。
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作り物の﹁江戸﹂を超えて
なお、私は﹁江戸しぐさ﹂の批判者だが﹁江戸しぐさ﹂の中に実用的なものが含まれてい
ることも認めている。なぜなら﹁江戸しぐさ﹂は現代人が、現代生活の中で得られた体験・
知見をとりいれつつ、現代人のために作ったマナーや処世訓だからである。
だから今まで﹁江戸しぐさ﹂を学んでこられた方が本書を手にとられたとして、これから
も﹁江戸しぐさ﹂を続けることを私は非難しようとは思わない。
しかし、そういう方にも、この二つのことだけは心に留めておいていただきたい。一つは、
あなたがこれから﹁江戸しぐさ﹂を行なう時には、それを作った芝三光のことに思いを馳せ
ること、もう一つは、あなたがこれから人に﹁江戸しぐさ﹂を勧めたり教えたりする時に、
それが実際には江戸時代から伝わったわけではなく、芝三光という人物が作ったものである
ことを言い添えることである。
前者は、あなたを恩知らずにしないため、もう一つは、あなたを噓つきにしないためのも
のだ。道徳的であろうとして恩知らずや噓つきになってしまうのでは本末転倒というもので
はないか。さらにいえば、同じことを行なうにしても﹁江戸しぐさ﹂という捏造の意図を含
んだ言葉を使い続ける意味はあるのか、そこまで考えていただければ幸いである。
はじめに
7
歴史の本当の面白さは、現代人とはまったく違う常識や倫理観を持った人々について知る
ことで、私たちが生きる時代の特殊性をも知ることができるところにある。
現代人の常識や倫理観が江戸時代でも通用したという﹁江戸しぐさ﹂の考え方は、それに
反するもの で あ る 。
本書が、読者の皆さんにとって、現代人による作り物の﹁江戸﹂ではない、実際の歴史へ
の関心を深めるきっかけとなれば著者として嬉しく思う。
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目 次
はじめに
7
普及してしまった﹁江戸しぐさ﹂
/前著からの発展 /本書の構成 /
作り物の﹁江戸﹂を超えて 15
3
4
5
﹁ 江戸しぐさ﹂ とは何か
/ 非 合 理 的 だ っ た﹁ 傘 か し げ ﹂ / 座 席 が な い 渡
ざ んし
﹁時泥
し舟で﹁こぶし腰浮かせ﹂ /軍国主義教育の残滓・﹁蟹歩き﹂ /
か ご
﹁江戸しぐさ﹂とは何か 第一章 3
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?
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/﹁駕籠止めしぐさ﹂はタクシーの作法 /江戸の風俗
棒は十両の罪﹂
と真っ向から対立する﹁七三の道﹂ /身分社会ではありえない﹁三脱の教
え﹂ /たとえ話からして矛盾している﹁尊異論﹂ /﹁江戸っ子狩り﹂ と
﹁ロクを磨く﹂ /﹁江戸しぐさ﹂を載せた教科書 /なぜ、算数教科書に掲
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29
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?
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/こっそりと削除
33
提 唱 者・芝 三 光 か ら 文 部 科 学 省 ま で 載されたのか /監修は実際に行なわれていたのか
する各社
﹁江戸しぐさ﹂の推進の歴史
第二章 37
?
る /﹁江戸しぐさ﹂の登場 /生年を偽っ
たど
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﹁ 江戸しぐさ ﹂ 普及の歴史を
38
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ていた芝三光 /﹁東都茶人会﹂は実在したか /幼少時代の体験ばかり
やなぎた くにお
語る /柳 田國男が取材に来た /芝の昔語りはほとんどが眉唾 /
本名すらも教えない /現実を受け入れられなかった芝三光 /芝の履歴 きよかず
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?
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/コインロッカー・ベビーへの注目 /初期の支援者・村尾清一氏 /
芝三光、大学に行く /専門家は芝をどう評価したのか /出典は小学校
/物騒な場所としての﹁江戸﹂ /﹁見なおす会﹂の停滞 /越
の授業
﹁見なお
川禮子氏の入門 /桐山勝氏の参入 /提唱者・芝三光の死 /
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す会﹂の活動再開 /初期からの弟子・和城伊勢氏 /知られざる有力会
員・野乃みどり氏 /﹁江戸しぐさ﹂を覚えていない会長 /唯一江戸期
/託すべき器ではなかった不肖の弟子 /和城氏
に りうる﹁ムクドリ﹂
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を突き動かしたのは独占欲 /二人の女性の元に分割された芝の教えと遺品 /﹁NPO法人江戸しぐさ﹂の設立 /桐山氏による﹁江戸しぐさ﹂の設定
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整備 /二つの新興勢力 /担ぎ出された和城氏 /山内あやり氏の独
立 /﹁にわか講師﹂の登場 /﹁にわか講師﹂の筆頭・高橋史朗氏 /
国政にも浸透した﹁親学﹂と﹁江戸しぐさ﹂ /最大の﹁江戸しぐさ﹂推進
﹁親学﹂の正体 団体・文部科学省 90
92
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和性の根幹 親学とは何か /疑似科学としての﹁親学﹂ /サムシング・グレートは提
せんしょう
唱者の信仰告白 /親学の﹁学﹂は僭称 /育鵬社・TOSSと親学の親
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﹁江戸しぐさ﹂支持の﹃朝日新聞﹄に掲載された書評 /地方紙やブログで
﹁江戸しぐさ﹂をめぐる風向きの変化 第四章 103
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第三章 88
も /市民団体の反応 /初めての学術的批判 /事実に基づくのはイ
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/インタビュー・ラジオ出演等 /推進派だった
デオロギー以前の常識
団体からの講演依頼 /活字メディアによる﹁江戸しぐさ﹂問題追及 /
専門家のコメント /責任逃れに終始する文部科学省 /残念なテレビ番
122
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131
126
128
組 /ついにテレビが動く /田中優子氏と﹁江戸しぐさ﹂ /田中優子
氏の責任 /研究者と政治家にも反応が /NPO法人江戸しぐさは、な
ぜ強気に出ないのか 125
141
134
139
136
﹃江戸しぐさの正体﹄はトンデモ本 /NPO法人江戸しぐさからの挑戦 /NPO法人の人材枯渇 /ファミリーミーティングの怪 /独り歩き
弱体化する推進団体 137
する﹁江戸しぐさ﹂ 148
157
第五章 119
133
﹁江戸しぐさ﹂問題の責任 第六章 130
?
143
155
146
?
144
152
?
浸 透 し た 虚 偽 の 後 始 末 は 誰 が す る の か / 旧 石 器 遺 跡 捏 造 事 件 と の 類 似 160
/ 自 分 で 石 器 を 埋 め て い た / 批 判 的 検 証 を 怠 っ た 専 門 家 た ち / 文 化 庁
と考古学界の責任逃れ /﹁江戸しぐさ﹂問題との共通点 /三〇年前から
否定されていた﹁国際性﹂ /偽りの伝統なればこそ 163
168
173
166
164
﹁トンデモ﹂としての認知 /偽史シンポジウム /﹁江戸しぐさ﹂を支持
﹁江戸しぐさ﹂の終焉 終 章 165
173
174
175
﹁ 江戸しぐさ﹂ はナマハ
した落語家たち /﹁江戸しぐさ﹂は教育問題 /
ゲより使えない /埼玉県神社庁の不用意 /エンターテインメントとし
ての消費が望ましい未来 /﹁江戸しぐさ﹂の終焉 おわりに
主要参考文献 189
187
180 177
183
182
179
186
162
⇐
『宝永御江戸絵図』
(部分)
宝永は徳川綱吉およ
び家宣の頃。江戸期
には多くの絵図が作
られたが、それを見
れば、江戸の町が固
定化したものではな
く、徐々に拡大して
いったことがわかる。
第一章
﹁江戸しぐさ﹂とは何か
﹁江戸しぐさ﹂とは何か
﹁江戸しぐさ﹂がどのようなものであるのか、概観することにしたい。
本章では ま ず 、
個別のしぐさ、提唱者と継承者、そして教育や社会への浸透について記述する。前著﹃江
戸しぐさの正体﹄と重複する部分もあるが、改めてまとめておく。
さて、NPO法人江戸しぐさのHPでは﹁江戸しぐさ﹂を次のように
定義してい る 。
﹁江戸しぐさ﹂は、江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立
つ者の行動哲学です。よき商人として、いかに生きるべきかという
商人道で、人間関係を円滑にするための知恵でもありました。
年以上もの間、戦争のない平和な時代が続き
江戸時代は、
ました。その平和な安心な社会を支えたのが﹁江戸しぐさ﹂という
元NPO法人江戸しぐさ理事で、現在は日本江戸しぐさ協会代表を務
人づきあい、共生の知恵です。
2
6
0
NP O 法人江戸しぐさ
(http://www.edoshigusa.
のホームページ。
org/)
16
める山内あ や り 氏 は 、
﹁江戸しぐさ﹂の総数について、
﹁八〇〇とも八〇〇〇とも言われてい
る﹂とする 。
現在、﹁江戸しぐさ﹂として広められているしぐさや考え方としては、次のようなものがあ
る。前著で私が記した、反証の要旨と共にご紹介しよう。
非合理的だった﹁傘かしげ﹂
︻
︼
傘かしげ 雨の日に狭い路地ですれ違う時に、お互いの傘を反対方向に傾けることで
雨水が相手にかかるのを防ぐ動作のこと。
戸時代末期までは贅沢品に留まっていた。
江戸では京や大坂に比べ和傘の普及が遅れ、江
みのかさ
かっぱ
狭い路地を行き来するような庶民は雨具として蓑笠や合羽を用いていたため、傘をさしたま
まで人がすれ違うための作法をわざわざ作ったとは考えにくい。
また、現在の洋傘と江戸時代の和傘は構造が異なるため、和傘ですれ違う時は洋傘のよう
に傾けるよりすぼめた方が楽だった。さらに、江戸によくある家の造りでは路地に面して土
間が開け放されており、雨の日でも雨戸を閉め切らないことが多かった。そこで通りかかっ
た人が﹁傘かしげ﹂など行なおうものなら、人様の家の中に雨水を注ぎ込みかねなかった。
第 1 章 「江 戸 し ぐ さ」と は 何 か
17
﹁傘かしげ﹂は洋傘が普及し、家の造りも江戸時代と変わった現代ならではの作法である。
座席がない渡し舟で﹁こぶし腰浮かせ﹂?
︻こぶし腰浮かせ ︼ 乗合の乗物で席についてから、こぶし一つ分腰を浮かせて横に動
いて席を詰める。後から乗り込んできた人が座る場所を作るための心遣いである。
﹁こぶし腰浮かせ﹂は、現代の電車で実際によく行なわれている作法と共通である。東京メ
トロがかつて﹁江戸しぐさ﹂を用いたマナー啓発を行なった時も、このしぐさがポスターに
用いられて い た 。
しかし、江戸で乗合の乗物と言えば渡し舟だが、それは貨物や馬も載せる ︵ というより人 も
貨物 の一種 として運 ぶ︶ための構造になっており﹁こぶし腰浮かせ﹂を行なうような座席はつ
けられてい な か っ た 。
また、渡し舟は舟着場で客を一斉に乗せてから川の両岸を渡すものであり、途中乗船とい
う状況自体がまずありえなかった。
江戸時代で横長の腰掛と言えば、代表的なものは店先の縁台だが、それはくつろいで座る
ためのものであった。そこでわざわざ席を詰めて、自分も新たに座った人も窮屈な思いをす
18
ることはな い 。
つまり、﹁こぶし腰浮かせ﹂は公共交通が発達した現代ならではの作法で、江戸時代には使
いようがなかったのである。
ちなみに、お茶の会など畳に大勢が座している時、後から来た人に座る
場所をずらす動作のことを﹁膝送り﹂﹁膝繰り﹂ということがある。正座し
た人が立ち上がらずに動くには、腰より膝が目立つ形になる。
﹁こぶし腰浮かせ﹂が、畳に座るのを旨とする暮らしではなく、現代的な
腰かけ中心の暮らしから生まれた言葉であることは、この﹁膝送り﹂
﹁膝繰
り﹂との対比からも明らかだろう。
ざんし
軍国主義教育の残滓・﹁蟹歩き﹂
︻蟹歩き︼ 狭い路地をすれ違う時にはお互いに蟹のように横向きにな
って歩く。
﹁江戸しぐさ﹂の伝承者たちによるとこの動作は戦前、小学校で
私の経験からいうと、狭い路地をすれ違う時は横向きになって同時に歩
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教えられたこともあるという。
渓斎英泉が描いた天保
期の蕨宿。渡し船には
人馬の差なく乗り込ん
でおり、座席もない。
こうとするより、一方が立ち止まって道を譲るようにした方が楽である。﹁蟹歩き﹂は、狭い
通路で道を譲りあうことなく、左右から同時に進まなければならないような特殊な状況を想
定した動き だ ろ う 。
明治期の海軍には、
﹁横歩﹂と言ってまさしく蟹のように歩く訓練があった。艦内・艦上の
狭い通路で、譲りあう余裕さえないほど急いで動かなければならない水兵にとって、それは
必須の動作だったのだろう。
戦前には、学校の体育で軍事教練をとりいれた授業が行なわれたこともあった。ゆえに、
海軍の横歩をとりいれた授業があること自体は事実でもおかしくはない。
﹁時泥棒は十両の罪﹂
︻時泥棒 ︼
アポイントメント無しでの訪問や、アポイントメントをとった時刻に遅れる
のは相手の時間を奪うことになるから、泥棒も同じということ。江戸時代の刑法では、金を
盗むと十両から打ち首になる。そのため、突然の訪問や遅刻は死罪に値する罪だという意味
である。
電話・電信や郵便制度のように直接の訪問を必要としない通信手段がなかった江戸時代に
20
は、突然の訪問は当たり前だった。また﹁時泥棒は十両の罪﹂という考え方は、現代社会の
ように精密な時計に律された時間観念の共有が前提だが、江戸時代には機械式時計は普及し
ていなかっ た 。
︵二時間前後︶の長さが季節や昼夜によって変わる非定時
さらに、江戸時代の時刻は、一刻
法で運用されていたため、機械式時計に合わせた定時法での時刻表示は、かえって不便でし
かなかった ︵大名時計 という非定時法 に調整 できる機械式時計 もあったが、 それこそ大名 クラスの
。
た め の高級 お も ち ゃ で あ っ て、実用性 は求 め ら れ て い な か っ た︶
江戸の人々の時間観念のルーズさについては、日本に西洋式操船を伝えたオランダ海軍二
等尉官 ︵後 に海相︶ヴィレム・カッテンディーケも手記の中で呆れているくらいである。
ご
練で次第に厳格な時間観念を身
明治以降の日本人は、鉄道・軍隊・学校・工場などでの訓
さかのぼ
につけていった。その時間観念に基づく作法を江戸時代に らせるのは時代錯誤である。
か
﹁駕籠止めしぐさ﹂はタクシーの作法?
︻駕籠止めしぐさ︼
駕籠を止める時は目的の家の真ん前に乗りつけず少し手前で降り
る。また駕籠に乗る時も自宅の前から乗らない。駕籠に乗れる身分だという思い上がりを避
けた謙虚なふるまいである。
第 1 章 「江 戸 し ぐ さ」と は 何 か
21
江戸町人の家の造りは、先述のように路地に面して土間が広がっていた。つまり、目的の
家なり自宅なりの手前はお隣の家の土間の前になる。そこに乗り付けるのは、謙虚どころか
近所迷惑に な り か ね な い 。
町人は自分の足で歩くのが当り前で、駕籠を用いるのはよほど急ぐ時か、女性や老人のよ
うに体力がない者、僧侶がお忍びで遊郭に行く時のように、人から見られたくない者などで
あった。いずれも目的地の前まで乗り付けて当然の場合である。
﹁駕籠止めしぐさ﹂の駕籠を自動車に置き換えれば、現代人がタクシーや社用車を使う作法
としておかしなものではない。というより、現代のタクシーや社用車のための作法をむりや
江戸の風俗と真っ向から対立する﹁七三の道﹂
り江戸時代の駕籠に置き換えたものこそ、
﹁駕籠止めしぐさ﹂というべきだろう。
道をあけておけば、いつでも怪我人を戸板に乗せて運ぶなど急ぎの用事の人が通れるからで
︻七三の道 ︼ 江戸っ子は道路の七分を公道とし、自分たちが歩く道は三分と考えていた。
ある。
22
ず
え
会など、江戸の風景を描いた絵を見ても、人々はてんでんばらばらに歩き、
浮世絵や名所図
立ち話をしたり、往来に縁台を出したり、荷を下ろして商売をしたりで、誰も﹁七三の道﹂
き
しょう
など気にかけているように見えない。
章 氏は一九七三の著書で次のように述べている。
建築家の黒川紀
︵江戸の︶風俗画の中で人びとはのんび
りと町を歩いたり、主婦らしい女同士が
立ち話をしていたりして、少しも過密な
感じがしない。それはなぜか? 自動車
が走っていない。地下鉄が走っていない。
国電が走っていない。あたりまえである。
だが、現代は自動車が走るために道路が
必要であり、電車が走るために線路が必
要である。 あるいは駐車場が必要だし、
23
オフィスビルも必要である。 すなわち、
江戸時代には、こうした公共的な空間が
天保期の出版である『東都
歳事記』より、「盛夏路上
の図」。往来では、ある者
は立ち話を、またある者は
商売をし、
「七三の道」な
ど誰も意識していない。
なかった。なるほど、カゴとか馬の道は必要だったろうが、少なくとも、そうした公
︵黒川紀章﹃都市学入門﹄
︶
共空間は、現代と比較にならないほど少なかった。いうなれば、江戸時代の住民は、
江戸の土地のほとんどを私的空間として暮らしていたのだ。
黒川氏の言う﹁私的空間﹂は、江戸の町人たちが出会い、寛ぎ、語り合う場でもあった。
﹁七三の道﹂のようなせせこましい考え方は、江戸の風物詩と対極にあるものといえよう。
また、落語や講談によると、怪我人が出た時には当人を医者のところに担ぎ込むより医者
の方を連れてくるのが普通だったようである。当時の医療技術では、怪我人を下手に動かす
方が危険だ っ た の だ ろ う 。
﹁七三の道﹂は車道と歩道が分かれ、さらに救急車などの緊急車両を他の車より優先して通
すという現代の常識を、江戸時代に持ち込んだものだろう。
身分社会ではありえない﹁三脱の教え﹂
︻三脱の教え︼ 初対面の人に年齢・職業・地位を聞いてはいけない。肩書や地位で人物
を判断するのを防ぐためである。
24
し ゃし
なるほど、江戸時代に相手の年齢・職業・地位などをわざわざ聞くことはなかった。なぜ
なら、一目見れば衣服や髪型でそれらがわかるようにするのが当たり前で、そうでなければ
世間から相手にされなかったからである。江戸時代、幕府は幾度も奢侈禁止令 ︵奢侈とは贅沢
の こ と︶にあたるお触れを出して、身分ごとの衣服や髪型を規制していた。
また、相手の年齢・職業・地位に応じて対応しなければ非礼になる以上、相手に非礼を犯
させないためにも見た目でそれらを示す必要があった。それが身分制社会における気遣いと
いうもので あ る 。
﹁三脱の教え﹂は、見た目で年齢・職業・地位がわからない人が増えた時代ならではの発想
であり、戦後日本の平等主義社会でこそ初めて実用性を持つ考え方でもある。
たとえ話からして矛盾している﹁尊異論﹂
︻尊異論 ︼ 有能な番頭は、小僧たち一〇人のうち九人の意見が一致していても、あとの
一人の意見がいいと思ったらそれを採用する。このように異論を尊重する考え方を﹁尊異論﹂
これはどこからツッコむべきだろうか⋮⋮。この番頭の態度は、小僧九人の意見を無視し
という。
第 1 章 「江 戸 し ぐ さ」と は 何 か
25
て一人が自分と同じ考えだからと自分の意見を通したのだから、少しも異論の尊重にはなっ
ていない。
﹁江戸しぐさ﹂は商人の知恵というが、経営者が下手にこの番頭の真似をしたら、
自分と同じ意見を言う者、つまりはおべっか使いを重用することになりかねない。
民主主義でいうところの少数意見の尊重とは、多数決を前提としつつ少数意見で提示され
た問題をないがしろにしない、という考え方である。多数決ではなく、決定権が特定の一人
に委ねられている状況では成り立ちようがない。
そのような状況で本当に異論を尊重するとすれば、それは決定権を持つ者の意向に逆らう
意見だろう。つまり例示された状況にあてはめれば、番頭と意見の異なる九人の小僧の意見
を採用してこそ異論の尊重ということになる。
このねじれは、多数決が当り前の現代社会で多数決の弊害を防ぐための知恵を、江戸時代
にあてはめようとしたところから生じたものである。
以上は﹁江戸しぐさ﹂のほんの一部である。とはいえ、さらに他の内容を見ていっても、
公開されているもので現実の江戸時代に適合するようなしぐさや考え方はほとんどない。ど
けい
しかも、
﹁江戸しぐさ﹂の伝来に関する説明はその内容以上に荒唐無稽なのである。
こうとうむ
れをとっても現代社会において初めて実用性を持つ作法ばかりなのである。
26
という人物が現代に伝え
︵一九二八∼一九九九。本名・小林和雄、別名・うらしまたろう︶
し ばみ つあ き ら
﹁江戸っ子狩り﹂と﹁ロクを磨く﹂
﹁江戸しぐさ﹂は、芝三光
たとされる 。
盛しぐさ』(1992 年、
現在、﹁江戸しぐさ﹂の普及に携わっている人々は、殆どが芝の弟子、もしくはその孫弟子
。
といった人々である ︵芝 の弟子筋 に属 さない人々 の参入 については後述︶
こしかわれいこ
日本経済新聞社)。
ここで不思議なのは、﹁江戸しぐさ﹂が本当に江戸の町人たちの間に普及していたなら、伝
承者が芝一人だけになるということはありえないだろうということである。
川禮子氏は、一九九二年の著書において、その問題を次のように説明
芝の弟子 に あ た る 越
している。
﹁隠れ江戸っ子狩り﹂は嵐のように吹き荒れた。摘発の目安は﹁江
戸しぐさ﹂であり、ことに女、子供が狙われたという。私たちの
さつりく
目にはふれないが、ベトナムのソンミ村、インディアンのウーン
27
デッドニーの殺戮にも匹敵するほどの血が流れたという。しかし
それらは、史実の記録はおろか、小説にすら書かれてないそうだ。
越川禮子『江戸の繁
︵越川禮子﹃江戸の繁盛しぐさ﹄単行本七一頁、文庫版七五頁︶
う
き目にあ
すなわち、﹁江戸しぐさ﹂を伝えた江戸っ子たちは明治期、官軍によって虐殺の憂
ったという の で あ る 。
後の越川氏の著書﹃商人道﹁江戸しぐさ﹂の知恵袋﹄では、江戸っ子の摘発・殺戮は﹁江
戸っ子狩り﹂
、その﹁江戸っ子狩り﹂を逃れて ︵勝海舟 が軍艦 で逃 がしたとも︶地方に潜伏した
人々が﹁隠れ江戸っ子﹂という形で、
﹁隠れ江戸っ子狩り﹂ という言葉が二つに分割されて
いる。
﹁史実の記録はおろか、小説にすら書かれてないそうだ﹂ということは、その事実そのもの
がなかったということを疑わせるに十分だろう。﹁隠れ江戸っ子狩り﹂の話は、江戸開城前後
の江戸情勢に関して、現存するいずれの史料とも矛盾している。
﹁江戸しぐさ﹂でいう﹁江戸っ子﹂とは、
﹁江戸しぐさ﹂を身につけた者の意味
ちなみにご、
ふ ない
であり、御府内の出身かどうかは関係ないとされているから、この点で矛盾がある。
また、越川氏は﹁江戸しぐさ﹂には直感を働かせることが﹁ロクを磨く﹂という言い回し
。
で重視されていたとする ︵﹁ ロク﹂ とはいわゆる第六感 のこと︶
越川氏によると、関東大震災の朝、多くの江戸っ子が第六感で地震を予知して東京を離れ
28
たという
︵越川禮子﹃身につけよう
。
江戸しぐさ﹄他︶
この話は、明治の時点で江戸っ子たちが﹁江戸っ子狩り﹂を逃れて江戸を離れたという話
と矛盾している。また、第六感によって関東大震災を逃れることができたなら、それによっ
て亡くなった一〇万人以上の人は勘が悪かったのかということになる。
何にしても、直感を働かせることで震災を予知できるようになるという超能力話は、それ
だけで十分うさんくさいものである。
内容も怪しい、ただ一人の伝承者しかいないという説明もでたらめ、おまけに超能力まで
ついてくる⋮⋮これで﹁江戸しぐさ﹂が江戸時代に成立して現代まで伝えられたものだ、な
どと信じられる人がいるのは不思議とさえいえる。
しかし、実際には﹁江戸しぐさ﹂はその由来まで含めて多くの人に受け入れられ、企業の
社員研修ばかりか教育現場にまで広まるにいたっている。
﹁江戸しぐさ﹂を載せた教科書
従業員研修に﹁江戸しぐさ﹂を採用している企業としては、東京ディズニーランドや東京
ディズニーシーの運営で有名な株式会社オリエンタルランドや、関東以北の高速道路を管理
運営するNEXCO東日本 ︵東日本高速道路株式会社︶などがある。
第 1 章 「江 戸 し ぐ さ」と は 何 か
29
!
FINEST株式会社や新潟江戸しぐさ研究会、福岡を中心に九州一円で活動するゆなさ
塾など、他の企業のために﹁江戸しぐさ﹂による社員研修を指導する会社や団体も数多い。
教育現場での﹁江戸しぐさ﹂の浸透ということで見逃せないのは、学校で実際に授業に用
いる教材や教科書への掲載である。
ちなみに、道徳は平成二六年度まで正規の教科ではなかったため、道徳教材は文部科学省
の検定対象ではなく、したがって道徳の教科書というものはなかった。
東 京 書 籍 ﹃明日をめざして﹄
現在までに﹁江戸しぐさ﹂を採用した教材や教科書としては次のものがあげられる。
文部科学省では平成二七年度から道徳を﹁特別な教科﹂に位置づけ、新たな道徳教材を作
成するとともに平成三〇年度から検定対象に道徳教科書も加えるべく準備を進めている。
小 学 校 道 徳 副 読 本 学 校 図 書 ﹃かがやけ みらい﹄
年 かけがえのない きみだから﹄
﹃みんなで生き方を考える道徳﹄
中 学 校 道 徳 副 読 本 日 本 標 準 学 研 ﹃中学生の道徳
正 進 社 ﹃キラリ☆道徳﹄
日本文教出版 ﹃あすを生きる﹄
1
30
文部科学省が作成した『私たちの道徳』より。「江戸しぐさ」は、あたか
も歴史的事実であるかのように教材に浸透していった。
31
﹃私たちの道徳 小学校五・六年生﹄
文部科学省作成道徳教材
啓 林 館 ﹃わくわく算数
﹄
﹃中学社会新しいみんなの公民﹄
検 定 済 教 科 書 育 鵬 社 私としては、このように算数教育に倫理的要請を無理やり組み込むようなやり方を見ると、
﹁他人を思い
そこで、算数教科書でも﹁江戸しぐさ﹂の﹁七三の道﹂をコラムにとりあげ、
やる心﹂が育まれるようにしたというのである。
徳心を育む場面や活動﹂を準備したことをセールスポイントとして宣伝している。
ところで、道徳教材や社会科の教科書はともかく、ここに場違いな算数の教科書が加わっ
ているのはなぜだろうか。啓林館のHPでは、算数教科書においても子供たちのために﹁道
なぜ、算数教科書に掲載されたのか
﹁トンデモ本﹂とまで言われる代物である。
﹁江戸しぐさ﹂だけでなく﹁サムシング・グレート﹂
育鵬社の中学公民教科書については、
という疑似科学的内容を好意的にとりあげたコラムも掲載されており、口さがない人からは
﹃アドバンス中学歴史資料﹄
歴 史 資 料 集 帝 国 書 院 6
32
イタリア映画﹃ライフ・イズ・ビューティフル﹄ ︵一九九七︶に出てきたナチス式算数 ︵﹁身体障碍
ど れ だ け国庫 を節約 で き る か﹂ と い う も の︶を思い出してしまう。
者一人 が一日 に一〇〇 マルクの国家財産 を食 いつぶすとして、二〇〇人 の障碍者 を処分 することで、
いずれにしても、文部科学省は﹁江戸しぐさ﹂を掲載した教科書を検定で通してしまった
だけでなく、自ら作成した道徳教材でも﹁江戸しぐさ﹂を採用してしまったわけである。
元の帝国書院は老舗と
して知られる。
このようにチェックが甘い体制で道徳の正式教科化を急いだところで、教育現場にさらな
る虚偽がまぎれこむ を作るだけではないだろうか。
監修は実際に行なわれていたのか?
し に せ
さて、道徳や算数については、教科書や教材に歴史的事実と異なることが書かれていたと
しても、歴史教材ではないからという言い訳ができる ︵本当は通すべき
。だが、社会科教材の老舗の帝国書院が、よりによって歴
ではないが︶
史資料集で﹁江戸しぐさ﹂を採用してしまったというのは、もはや目
を覆うしかない惨状である。
33
﹃アドバンス中学歴史資料﹄には、監修者として黒田日出男氏 ︵東京
大学名誉教授︶
、小和田哲男氏 ︵静岡大学名誉教授︶
、阿部恒久氏 ︵共立女
『アドバンス中学歴史
資料』(帝国書院)。版
そうそう
子大学国際学部教授︶
、成田龍一氏 ︵日本女子大学教授︶
、仁藤敦史氏 ︵国立歴
せきがく
史民俗博物館教授︶
、という錚々たる顔ぶれが名を連ねている。
学の名を借りながら﹁江戸しぐさ﹂という虚
帝国書院は、これだけの碩
偽の掲載を許してしまったのである。
﹁江戸しぐさ﹂問題は、結果として現代の教育文化全体の空洞化を浮き彫
りにしてしまった感がある。
こっそりと削除する各社
育鵬社の中学公民教科書と啓林館の算数教科書は、平成二八年度使用の
ものから、
﹁江戸しぐさ﹂コラムを外す決定がすでになされている。また、
帝国書院では二〇一五年版から、コラム﹁江戸しぐさ﹂を、
﹁今に続く食文
化∼ファスト・フードの聖地・江戸﹂に差し替えている。育鵬社と帝国書
院はその変更の理由について特に説明していない。
啓林館のHPでは、﹁江戸しぐさ﹂コラムを外す理由について、コラムの
掲載場所は八〇頁だが、その内容が﹁八八ページの﹁全体をきまった比に
分ける﹂に該当するため﹂だと説明している。しかし、本当に載せるべき
『アドバンス中学歴史資料』(帝国書院) より。右の「江戸しぐさ」コラムが、
左の内容に差し替えられた。
34
理由があったのなら、掲載位置を八八頁以降にずらせばよいだけである。
る。しかし、誤りがあったことを公に認めず、きち
誤りを改めること自体はよいことでいあ
んぺい
んとした説明もなしに改訂するのは隠 ともみなしうる。育鵬社・啓林館・帝国書院の各社
には、
﹁江戸しぐさ﹂掲載と削除に関する事情を公表していただきたいものである。
﹁江戸しぐさ﹂がいかにして作られ、広まり、そして教育現場に浸透して
さて、次章では、
いったのか、その草創期からの歴史を って考えていくことにしたい。
第 1 章 「江 戸 し ぐ さ」と は 何 か
35
⇐
『家康公肖像』
(部分)
大都市としての江戸
の基礎を作った徳川
家康は、天正 18(15
90)年、小田原攻め
で後北条氏が滅亡す
ると関東に移封され
た。越川禮子『商人
道「江戸しぐさ」の
知恵袋』では、関ヶ
原合戦後の 1600 年
に江戸に入ったと記
されているが、当然
事実ではない。
﹁江戸しぐさ﹂の推進の歴史 第二章
提唱者・芝三光から文部科学省まで
﹁江戸しぐさ﹂普及の歴史を
る
たど
﹁江戸しぐさ﹂の登場から現在まで、普及のキーになった人物・団体
本章では、
を追いつつ、その歴史を っていくことにしたい。
取り扱うのは、事実上の提唱者・芝三光から文部科学省までで、文献上で実在
が確認できる期間は約四〇年間である。推進者たちの歴史は、すなわち普及の歴
史でもある 。
前著以降に入手した資料も用い、 現時点で再構成できる限りの﹁江戸しぐさ﹂
史を提示し た い と 考 え る 。
﹁江戸しぐさ﹂の登場
現在確認されている﹁江戸しぐさ﹂という語の初出は、一九八一年八月二八日
付﹃読売新聞﹄朝刊のコラム﹁編集手帳﹂である。
﹁江戸の良さを見なおす会﹂というのがある、と聞いた。もう十年以上も続
いているというから、昨今の〝江戸もの〟ブームに乗っかってできたもので
はあるまい/大学の先生や医師、サラリーマンや主婦などの﹁講中﹂が、江
『読売新聞』1981
年 8月28日付朝刊
より。現在のとこ
ろ「江戸しぐさ」
という語の初出。
38
︵
﹁岩波国
戸 文 化 に つ い て 自 由 に 意 見 を 交 換 し 合 っ て い る 会 の よ う だ。
﹁江戸しぐさ﹂ も研究テ
語辞典﹂︶
だが、江戸の町人の間には独特の振りがあったとか
ーマの一つ、という。しぐさは①やり方。しうち②身ぶり。俳優の動作。所作
そのコラムでは﹁江戸しぐさ﹂の具体例として、店の主人が客へのお愛想に目をしばたた
かせる﹁お愛想目つき﹂と、雨の日にすれ違う時に傘を傾ける﹁カサかたげ﹂が挙げられて
いる。
それに先立つ一九七四年六月七日付﹃東京新聞﹄朝刊文化欄﹁ニュースの追跡 話題の発
掘 この人 ﹂ に は 、
﹁岩淵いせ ﹃江戸のよさを見直す会﹄を主宰﹂という取材記事が掲載さ
れている。
︵ その記事 が書 かれる︶数年前に社内研
その記事によると、岩淵氏は
修会の後の懇談会で講師から﹁江戸のしつけ﹂について聞かされて研
究を始め、四年前 ︵ つ ま り一九七〇年頃︶に﹁江戸のよさを見直す会﹂
第 2 章 「江 戸 し ぐ さ」の 推 進 の 歴 史 提 唱 者・芝 三 光 か ら 文 部 科 学 省 ま で
39
を作ったと い う 。
その記事には、岩淵氏の研究の成果が次のように記されている。
『 東 京 新 聞 』1974 年 6 月 7 日
付朝刊文化欄より。「江戸しぐ
さ」関係者の、もっとも早い時
期のメディア露出だ。
君 は、
何 と 闘 う か?
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行動機会提案サイトです。読む→考える→行
動する。このサイクルを、困難な時代にあっ
ても前向きに自分の人生を切り開いていこう
とする次世代の人間に向けて提供し続けます。
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