江戸時代の生活保護

江戸時代の生活保護
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セーフティネットとしての「七分積金」
松平定信が中心になって行われた寛政改革の一環として、寛政三年(一七九一)
十二月に設立された七分積金の制度は、ハチやクマたちをいざというときに支えて
いたのです。この七分積金は、江戸の庶民向けの備荒貯穀(びこうちょこく)=囲
籾(かこいもみ)や、土地を担保にした低利融資の原資であるのとともに、今でい
う低所得者向けの生活保護の財源でもありました。この資金や囲籾を運用していた
のが町会所(まちかいしょ)で、勘定奉行と町奉行の管轄でしたが、実務は幕府の
御用達商人や町役人が行っていました。籾蔵とともに寛政四年(一七九二)に向柳
原に建てられています。
なぜ幕府は、このような社会政策を行なうようになったのでしょうか? それは、
天明の飢饉に伴って発生した江戸での大規模な打ち壊しが、幕府の危機感を募らせ
たからでした。
七分積金や町会所のことを詳しく話し始めると、それだけで一冊の本になるくら
いですから、ここではセーフティ・ネットの部分に限って述べることにします。
七分積金が創設されたときに、勘定奉行の立合いのもとに南町奉行が江戸各町の
名主や地主、家主それぞれの代表者たちを集めて申し渡した記録には、地主階層は
もとより零細住民のセーフティ・ネットを作ることが制度の目的の一つだと述べら
れています。
まず地主向けには、彼らが本当に立ち行かなくなるような災害などの時に、タイ
ムリーに資金の貸付や交付を行うと書かれています。次に、ハチやクマといった店
借(たながり)層については、身寄りのない高齢者や子どもが食うに困るようなと
きには、調査の上、手当を支給するとあります。
寛政四年五月二十一日になると、七分積金を原資にした窮民救済の手続が町奉行
から名主や家主に通達されています。それによれば、①高齢(七〇歳程度より上)
で身体が不自由でも扶養する子などの身寄りがいない、②幼年(一〇歳程度より下)
で父母に別れるなど身寄りがない。③若くても貧困で長病(ながわずらい)にかか
っていて面倒を見る者がいない、といった者が救済の対象でした。
この条件に該当する者が町内に居れば、名主、家主が実態を把握した上で、名主
の証明書を家主が町会所に持参して「手当」を請求・受け取ることとされました。
5月二十一日に制度ができて、二十七日から申込が始まり、
「手当」の支給も始まっ
ています。それだけ幕府は窮民救済を急いでいたのです。
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江戸時代の「生活保護」の実際
そこでの実務を処理していたのは家主とみられますから、家主は今日のソーシャ
ルワーカーの機能も果たしていたわけです。そこで、家主から名主を経て町会所に
提出された「生活保護申請」の手続きの中から代表的な例を紹介します。
これは寛政四年(一七九二)五月の「町会所積金窮民救済方申渡」の二十七日の分
(申込み初日で八件の申請があった)に含まれています。
それらを見ると、対象者を管轄する名主名と町名、家主、支給金額、受給者の名
前・年齢とともに、手当が必要な理由が簡潔明瞭に記されている点が共通していま
す。たとえば、名主の市郎右衛門が支配する小石川金杉水道町の与八という家主が
管理する裏店(うらだな)に住む、寮善という六六歳の僧侶に銭一貫五〇〇文を支
給したことが書いてあります。その理由は、
「寮善は独身で、五年前から疝気(せん
き・下腹痛を伴う内臓障害)を患い身体が不自由になりましたが、世話をする者が
いません」と簡潔に記されています。
同じ小石川金杉水道町の七右衛門という家主の管理する裏店に住む弥助(七五歳)
にも銭一貫五〇〇文の支給が申請されています。
「弥助は独身者で、近年病身になっ
たため生計を立てることができなくなって困窮しており、面倒を見る者もいません」
という理由です。
さらに、同じく七右衛門が管理する裏店には、はつ(六五歳)と娘まつ(三〇歳)
も住んでいましたが、この二人にも手続きがされています。なぜ、三〇歳の働き盛
りも「生活保護」の対象となったのでしょうか? この申請書には次のような事情
が記されています。
「まつは“生得愚者”
(せいとくのぐしゃ)で結婚しても実家に戻されてしまった
ので、母親のはつが縫物などの賃仕事で養っていたのですが、この年の三月、はつ
が自宅の入口から転げ落ちて怪我をしてしまいました。そのため、縫物ができなく
なって生計が立たなくなり、困窮するようになりました。二人を養育する者も居り
ません。」ということで、支給額は二人で銭二貫文でした。
このように「生活保護」の対象は、現在の高齢者福祉や障害者福祉に相当する者
たちでした。
その一方で、
「町会所積金窮民救済方申渡」では「平常稼方無精ニて養育成兼候者
抔ヲ病気之趣ニ申立候儀等ハ勿論有之間敷、左様之者ハ町役人共申合、得と教諭も
可致遺事ニ候。此ヶ条粉敷無之様能々名主共相糺可申出候」ということも忘れては
いません。つまり、普段から怠けていて食い詰めた者が病気を装うことはあっては
ならないことだから、もし、そのような者があれば町役人たちが協力して「教育的
指導」を行いなさい!と命じています。本当に病気か仮病なのかは紛らわしいので、
町役人たちは十分に調べなければならない、とも言っています。
こうした目配りは、
「生活保護費」を真に必要とする者に、必要なだけ確実に支給
するための仕組みでした。
「大家=家主といえば親も同然」なわけですから、家主や
それを監督する名主に「生活保護」を行うかどうかの実質的な決定権を与えたのです。
なお、七分積金の支給方法について、町奉行と勘定奉行から老中首座の松平定信
に立てた「お伺い」の中にも、
「稼方おろそかにて及困窮候ものなとえ、手当なと遺
候ハ反て弛ミニも可相成哉」とあります。怠けたがゆえに困窮した者に手当を与え
るのは、かえって本人をタルませてしまうのではないかと、直接給付政策の弱点を
吐露しているのです。それだからこそ、町役人による調査が、七分積金制度を支え
る役割を果たしていたわけです。
平成二十一年の暮にいわゆる「年越し派遣村」が鳴り物入りで設けられましたが、
実際には、働く意思のない人々などが入り交じって、現金を支給されると右から左
に酒などを買い込んだことが問題になったのは記憶に新しいことです。本当に援助
を必要としている人々にきちんと福祉の手立てを講じることは大事なことですが、
七分積金の場合には、そうしたことにも十二分に配慮が行き届いていたといえるで
しょう。