WIJC160207世にあるクリスチャン(4)

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2016 年2月 7 日 聖書:ダニエル1章1-16
聖書:ダニエル1章1-16節
1章1-16節
タイトル:世にあるクリスチャン
タイトル:世にあるクリスチャン(4)
世にあるクリスチャン(4):ダニエル
(4):ダニエルに見るそのモデル
:ダニエルに見るそのモデル(1)
に見るそのモデル(1)「信仰と常識
(1)「信仰と常識」
「信仰と常識」
序 論
●先週は David 先生を通して第二ペテロの手紙
先生を通して第二ペテロの手紙 3 章 9-16 節から素晴らしいメッセージを頂いた。
から素晴らしいメッセージを頂いた。
1.主は必ずもう一度来られる。
1.主は必ずもう一度来られる。しかし、それが遅れている。
は必ずもう一度来られる。しかし、それが遅れている。
2.その
2.その理由は、
理由は、主の怠慢でも、無力さからでもない。
は、主の怠慢でも、無力さからでもない。
3.それは、主のご計画のうちに、
3.それは、主のご計画のうちに、悔い改めて、救われる者が起こされ
主のご計画のうちに、悔い改めて、救われる者が起こされ、
悔い改めて、救われる者が起こされ、更に、
4.私たちが主のご来臨に備えられ
4.私たちが主のご来臨に備えられるのを待つ
私たちが主のご来臨に備えられるのを待つ「
るのを待つ「主のご
主のご忍耐」
忍耐」の故であるということを学んだ。
の故であるということを学んだ。
●このように、やがて主
このように、やがて主は必ず
やがて主は必ず来られ
は必ず来られる
来られる。そして、私たちは天に召される。或いは、それが遅くなるな
そして、私たちは天に召される。或いは、それが遅くなるな
ら、私たちが地上での使命を終えて、主の御許、天国に召される日が先に来る
ら、私たちが地上での使命を終えて、主の御許、天国に召される日が先に来るであろう。
来るであろう。
●その日が来るまで、私たちはクリスチャンとして、
その日が来るまで、私たちはクリスチャンとして、この地上に住み、
この地上に住み、この世に生きるのである。
に住み、この世に生きるのである。
●この世に生きつつ、私たちクリスチャンは、
この世に生きつつ、私たちクリスチャンは、
1.様々な試練、試み、誘惑に会い
様々な試練、試み、誘惑に会い、さながら、火で精錬される金のように、その品性を
、さながら、火で精錬される金のように、その品性をきよめられ
精錬される金のように、その品性をきよめられ、
きよめられ、
その信仰に成長し、キリストに似るものとされるのである。
その信仰に成長し、キリストに似るものとされるのである。
2.また、この世にいる
また、この世にいる人々にイエス様の福音を持ちゆき、伝え
この世にいる人々にイエス様の福音を持ちゆき、伝えるのである。
人々にイエス様の福音を持ちゆき、伝えるのである。
●このように、世に生きるクリスチャンは、ただ漫然とイエス様の来臨を待つのではない。目的と期待
があるのである。
●ある意味で、聖書に書かれていることは、基本的にすべて、世にあるクリスチャン、世に生きるクリ
スチャンは、どのように生きるべきかを教えていると言って過言ではない。
●今年は、できるだけ、聖書をその観点から学びたいと願いつつ礼拝メッセージを取次ぎ始めた。すで
にそのためにヨセフの生涯を一つのモデルとして学んだ。
●今日から、ダニエルの生涯をもう一つのモデルとして学びたい。
今日から、ダニエルの生涯をもう一つのモデルとして学びたい。
本 論
Ⅰ.まず最初に、ダニエル自身がどういう人物で、また、どのような状況にあった人かについて触れたい。
A. ダニエルはユダヤ人であった。当時、ユダヤという国が全体としてどういう状況にあったかを説明したい。
1.1-2節
-2節を見ると、「・・・・・」
を見ると、「・・・・・」とある
「・・・・・」とある。
とある。
2.それまで中近東を中心に世界を支配していたアッスリヤ帝国が滅び、取って代わったのは、
2.それまで中近東を中心に世界を支配していたアッスリヤ帝国が滅び、取って代わったのは、
バビロニヤ帝国であった。
3.そのバビロニヤ帝国軍の最高司令官を務め、
3.そのバビロニヤ帝国軍の最高司令官を務め、ユダヤを
そのバビロニヤ帝国軍の最高司令官を務め、ユダヤを陥落させた
ユダヤを陥落させたのが
陥落させたのが 1 節のネブカデネザ
節のネブカデネザ
ルである。まもなく彼は父を継ぎ、ユダヤを含めた大帝国の
である。まもなく彼は父を継ぎ、ユダヤを含めた大帝国の王となる。
大帝国の王となる。
(3)即ち、ダニエルが生まれ育ったユダヤという国は、当時敗戦国であった。
即ち、ダニエルが生まれ育ったユダヤという国は、当時敗戦国であった。
B.次に、そのような状況の中で、ダニエル自身はどういう人物であり、どんな状況にあったかを学びたい。
1.当時バビロニア帝国は、敗戦国に対してアッスリヤ帝国より柔軟な
1.当時バビロニア帝国は、敗戦国に対してアッスリヤ帝国より柔軟な政
当時バビロニア帝国は、敗戦国に対してアッスリヤ帝国より柔軟な政策を取った。即ち、
を取った。即ち、敗
った。即ち、敗
戦国の中核をなすリーダー格の人物を抜擢してバビロンに
してバビロンに捕虜として連れて来た
れて来たのである。
のである。
(1)そうすることによって、バビロンの国に
(1)そうすることによって、バビロンの国に優秀な人物を取り入れることができ、
れることができ、更には、
更には、
(2)敗戦国の力を
(2)敗戦国の力を骨抜きにして、
きにして、反逆することができ
することができないように
ことができないように弱体化することができた。
することができた。
2.3-4節
3-4節「・・・・」
4節「・・・・」にあるように、
「・・・・」にあるように、ネブカデネザル王は、それら
にあるように、ネブカデネザル王は、それら優秀なユダヤ人の中から、
更に、
更に、優秀で自国のために役に立ちそうな人物を選んで自分の側近としようとした。
(1)そのための
(1)そのための第一の
そのための第一の前提的条件は、彼らが貴族・王家の出身であることであった。
あることであった。
(2)王が
2)王が挙げたそれに続く条件は、4
は、4 節に記されている。「・・・・」。
(3)その
(3)そのようにして
そのようにして選ばれた人々の中に、ダニエルと彼の
れた人々の中に、ダニエルと彼の友人である、ハナヌヤ、ミシャエ
ル、アザルヤがいた。
3.このように
3.このように選ばれることは、彼らにとってはこの世的に言うなら、
れることは、彼らにとってはこの世的に言うなら、一
この世的に言うなら、一面極めて名誉なことで
あったであろ
あったであろう
であろう。なぜなら、何しろ彼らは、敗戦国の国民でありな
でありながら、大帝国バビロン
の帝王の特別に選ばれた側近なのであるから。
C.しかし、同時に、それは彼らにとって大きなチャレンジでもあった。
1.第一のチャ
1.第一のチャレンジは、彼らにバビロン人としての
ンジは、彼らにバビロン人としての名前が与えられたことである。それは
えられたことである。それは以下
のようである。7
のようである。7 節
ヘブル語名 意味
バビロニヤ名
意味
2
ダニエル
神は我が裁き主
ベルテシャザル
バビロンの神の軍
ハナニヤ
主の賜いしもの
シャデラク
王の朋友
ミシャエル 神は比類なく尊い
メシャク
バビロンの神を礼拝せよ
を礼拝せよ
アザリヤ
主の助けるもの
アベデネゴ
神は星座の軍なり
(1)これらのバビロニヤの
(1)これらのバビロニヤの名前は、みな異教の神々、特にベルと呼ばれる神の名前に関係す
るものであった。
(2)
(2)自分の名前を強制的に変えられることは、
えられることは、受ける側にすれば、自分のIDと人格、プラ
イドの否定であり、屈辱以外何ものでもなかった。
ものでもなかった。
(3)
(3)しかし、近年の歴史においては、それこそが、第二次戦
いては、それこそが、第二次戦争前・中に、日本が、韓国の
方々にしたことであった。
(4)ダニエルとその
(4)ダニエルとその友人たちも同様な屈辱とチャレンジを受けていたのである。
2.そこに更に、もう一つのチャ
そこに更に、もう一つのチャレンジが来た。それが今日のメッセージの
ンジが来た。それが今日のメッセージの背景である。
(1)5 節に、
節に、それが書かれている。
それが書かれている。
(2)王様は
(2)王様は「
王様は「宦官の長」と
官の長」と呼ばれる政府のトップの高官に
高官にダニエルとその
ダニエルとその他選ばれた者たち
が王様の毎日食べるご馳走とブドウ酒から同じように食べ・飲むようにするべく
ようにするべく命
するべく命じた。
(3)これは、ダニエルを始め、
(3)これは、ダニエルを始め、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤたちには次の 2 つの理由で
大きなチャレンジであった。
●ユダヤ人たちには律法で「汚れたもの」として食べてはならないものがあった(例:
ウロコのない魚、ひづめの分かれていない動物など)。異教の王であったネブカデネ
教の王であったネブカデネ
ザル王の
ザル王の食事メニューにそれらが含まれ
ーにそれらが含まれていたら、それは
それらが含まれていたら、それは律法を犯すことになる。
すことになる。
●しかし、もっと大きなことは、ネブカデネザル王が食べる物は、みなまず異教の神の
祭壇に一旦捧げられたもので、それを食べることは、偶像礼拝に加担することになる。
3. このようにダニエルたちは、正に異教の世界の真っ只中に生きていた。即ち、
(1)自分たちの信仰のことなど全く理解してくれない、
(2)否、それどころか、理
、それどころか、理解するつもり
するつもりは
つもりは全くない、否、しばしば反対でさえある、
(3)異教の王、異教の上司、異教の仲間、周囲中異教の人々ばかりの中に生きていたのである。
(4)そのような世界に
(4)そのような世界に彼らは、
そのような世界に彼らは、働き、生きていた
き、生きていたのである。
ていたのである。
(5)しかも、異教の、
教の、最高権威を持つ帝王の最も近いところで、即ち、
を持つ帝王の最も近いところで、即ち、逃げ出すことも、ごまか
すこともできない場所で、彼らは信仰者として生きたのである。
(6)パウロも私たちクリスチャンの置かれた状況についてエペソ書 2 章 2 節で、サタン(
タン(悪魔)を
「空中の権威を持つ支配者として」描き、ネブカデネザルならぬ悪魔が帝王として君臨する
世界に私たちが生きていることを述べている。
4.ダニエルたちは、
4.ダニエルたちは、そのような
は、そのような異教の世界のど
教の世界のど真ん中を信仰者として
ん中を信仰者として生き
として生きた。その
生きた。その姿こそが、今、
私たちクリスチャン
私たちクリスチャンが、
クリスチャンが、不信仰に満ちたこの世を生きるためのモデルなのである。
ちたこの世を生きるためのモデルなのである。
Ⅱ.それでは、ダニエルたちは、「世にあるクリスチャン」として、異教世界をどのように生きたのか?
A. 第一に、彼らは、この世のど真ん中にあっても、「自分の信じることに対して『誠実』『真実』であった。
1.このことを、そもそも信仰とは
.このことを、そもそも信仰とは何か?という観点から考えたい。
(1)多くの場合、人々が、「
人々が、「信仰がある」「
信仰がある」「信
」「信じる」と言う時、
」と言う時、ほとんどの場合、何かが
「できる」という「力、能力」と関連した信仰である。即ち、
した信仰である。即ち、「
。即ち、「誰かがそれをできると
いう、その
いう、その能力を信
力を信じる」ことにフォーカスが行きやすい。
きやすい。
(2)しかし、
2)しかし、ヘブル語の「信じる」「信頼する」に当たる「アマーン」と言う言葉の本来の
意味は、当てになること、確かさ、誠実さ、真実さ、というもっと
さ、というもっと内面的なことである
的なことである。
である。
(3)私たちが
(3)私たちがお祈りの最後に唱える「アーメン」は、この「ア
える「アーメン」は、この「アマーン」から出ている言葉で
あるが、意味
あるが、意味は、その
意味は、その祈りが真実・誠実な心からで
な心からであることを宣言するものである。
(4)即ち
(4)即ち、
即ち、聖書的に、信仰の人とは、第一に「自分の信じていると告白していることに、誠
実な人」のことである。
2.ダニエルたちはその意味で
2.ダニエルたちはその意味で「
ダニエルたちはその意味で「信仰の人」
信仰の人」であり
であり、自ら信じるところに「
るところに「誠実な人」であった
人」であった。
であった。
(1)彼らは、天地の
(1)彼らは、天地の造り主なる神、ヤーウェーなる神を信じていた。即ち、
ていた。即ち、
●偶像と呼ばれる、他の神々でなく、
3
●今で言うなら、
今で言うなら、イエス様によって明らかにされた唯一の神様を信じ、従っていた。
(2)しかし
(2)しかし、
しかし、ある日突然に、その
然に、その信仰に
その信仰に対して
信仰に対して挑戦と誘惑が訪れた。
●異教の王であるネブカデネザル王の食卓に上った食事と葡萄酒を、ダニエルたちも食
べ、また飲まなければならないという王からの命令であった。
●彼らは、それが、彼ら自身も偶像礼拝に加担することになると理解した。
●即ち、それは、彼らの信じる神様と、またその
様と、またその神様を信じる自らの信仰に
らの信仰に不忠実、不
誠実、不真実になることを知っていた。
●それゆえ、彼らはそれを拒絶したのである。
したのである。
(3)偶像礼拝を嫌うこと、偶像礼拝を空しいことと軽蔑し、笑うことも、拒絶することも、
ある状況では、必ずしも、
では、必ずしも、決して難しいことではないかもしれない
しいことではないかもしれない。
かもしれない。
(4)例えば、今のような民主主義の時代、あるいは、文化的多元主義(Pluralism)の時代なら、
の時代なら、
王様が偶像礼拝者であろうと、周囲のほとんどの民衆が偶像を拝んでいたとしても、そ
の中で、一人、
の中で、一人、少数派として、偶像礼拝を拒むことは
ことは決して難しくないであろう。
(5)そのような状況下で、たとい偶像礼拝を拒否したとしても、それが、
したとしても、それが、自らの信じる神、
自らの信じていることに対して忠誠、忠実、誠実な人の姿とは言い切れない。
(6)
(6)しかし、ダニエル
しかし、ダニエルたちが、王様からの
ダニエルたちが、王様からの食べ物と葡萄酒を断って、偶像礼拝を
礼拝を拒絶したと
きは、それらとは
きは、それらとは全く違う状況であった。
●それは絶対専制君主の時代であり、
主の時代であり、王の命令に
り、王の命令に従わないなら命のない時代であった。
●それゆえ周囲の人々は当然のように、
の人々は当然のように、全員偶像礼拝者であり、そのような
礼拝者であり、そのような偶像礼拝者
の目がいつもそれに反する者たちを監視していた。
●その真っ只中で、ダニエルたちは、
中で、ダニエルたちは、偶像礼拝を
礼拝を拒否・拒絶したのであった。
したのであった。
●従って、ダニエルたち
って、ダニエルたちが、
ダニエルたちが、偶像礼拝とのつながりから、王の食事と葡萄酒を拒絶する
ことは、言語道断であり、許されぬことであった。
●それ故、それは
故、それは、仕事も、生
も、生活も、家族も、命も、何もかもを
もかもを失うことを覚悟したも
のであり、正に命懸けの行為であった。
●神様は、そこに、
様は、そこに、彼ら
そこに、彼らの本当の
彼らの本当の信仰
の本当の信仰の
信仰の姿、即ち、彼らの真実と誠実を見たのである。
を見たのである。
(7)真の信仰とは、何かでっかいことを期待するものではなく、
かでっかいことを期待するものではなく、事情・状況が変わり、自分
に都合が悪くなっても、変わらない、当てになる、堅い決意に満ちた心の姿勢である。
●イザヤ 26:3「
26:3「志の堅固な者をあなたは
な者をあなたは全き平安のうちに守られます。その人があな
たに信頼しているからです」。真の信仰とはどんなときにも信頼を変えない心である。
●詩篇 15:4「損になっても、立てた誓いは変えない」
3.私たちクリスチャンの生きている時代は、
私たちクリスチャンの生きている時代は、かつてダニエル
の生きている時代は、かつてダニエルたち
かつてダニエルたちが生きていた
たちが生きていた時代と似ている。
が生きていた時代と似ている。
(1)教会
(1)教会外の周囲のマジョリティーは、私たちの信仰を無視する、否定する、嘲笑する、馬
鹿にする、反対する時代に生きている。
(2)それがゆえに、
(2)それがゆえに、教会
それがゆえに、教会内で告白していると
していると同じ信仰を、教会の
信仰を、教会の外で、告白したり、その信
仰に生きることを恐れ、躊躇したり、妥協したりしている人が少なくない。
(3)しかし、ダニエルたちは、そうではな
(3)しかし、ダニエルたちは、そうではなかった。
しかし、ダニエルたちは、そうではなかった。むしろ、その時代、この
しろ、その時代、この世の
この世の真っただ中
で、自らの信仰に誠実であり、真実であることを命を懸けて貫いたのである。
(4)私たちは、これを GOOD FOR THEM と他人ごとのように済ましてはならない。
●信仰に対する挑戦が起こるたびに、信仰に対する誠実さを失い、カメレオンのように
信仰の態度を変えていては、世に生きるクリスチャンとして
えていては、世に生きるクリスチャンとして輝くことはできない。
●即ち、私たちは、自らの信じ、告白する信仰に対する断固とした誠実さを実践するこ
となくして、世に生きる
なくして、世に生きるクリスチャンとして
世に生きるクリスチャンとして輝くことはできない。
B. 第二に、だからと言って、彼らは、決して狂信的で、極端で非常識な行為に出たのではなかった。
1.言い換えるなら、彼らは、自らの信仰に誠実、真実であろうとして、社会的に非常識な行動
に出たのではない。むしろ、きわめて常識的
しろ、きわめて常識的な道を歩んだのである。
2.クリスチャンはこの世の者ではない。だか
2.クリスチャンはこの世の者ではない。だから
クリスチャンはこの世の者ではない。だから尚のこと彼らにとって常識は重要である。
3.米国クリスチャン史上最も有名な伝道者の一人 D. L. ムーデーは「クリスチャンは 3 つの
洗礼が必要である。第一水の洗礼、第二火の洗礼、第三常識の洗礼である」と言った。
4
4.自分の信仰を熱心に守り、実践しようとする余りに、人のことを考えられなくなり、人がど
うなるかなどお構いないという非常識な態度を取るクリスチャンが少なくない。
なくない。
5.しかし、ダニエルはそうではなかった。彼は
しかし、ダニエルはそうではなかった。彼は自らの信仰に誠実であっただけでなく、他人の
ことを考える常識のある信仰であった。
える常識のある信仰であった。
6.これ
6.これこそ
これこそが
こそが、世にあるクリスチャンには必要な姿勢である。
7.このことは 8-16 節を見ると明白である。
(1) ダニエルは自らの信仰に誠実であろうとして、宦官の長に王様からの食事と葡萄酒を避
けたい旨を伝え願った。
(2) この宦官の長は、それをかなえてやりたかったが、それは、王の命令に背くことであり、
自分の立場を危うくするばかりか、命の危険もあることを言って、躊躇した。
(3) そのとき、ダニエルは、宦官の長とその下に働く世話役に言った。「それなら、10
に言った。「それなら、10 日
間試させてください。私たちには野菜と水だけをください。10
だけをください。10 日後に、王様のご馳走
を食べ、葡萄酒
葡萄酒を飲んでいる人たちと、私たちとどちらが顔色が良いか見比べてくださ
い。それであなたが私たちの申し出を受け入れられるか決めてください」と。
(4) 10 日後に、世話役が実際に比べてみると、ダニエルたちの方がズーッとはるかに顔色
が良かった」。そこで世話役は、ダニエルの願い通りにしてやった。
8.ダニエルの取った
ダニエルの取った道は、異教の人々、今で言う
教の人々、今で言うなら
今で言うならクリスチャンでない
ならクリスチャンでない方々にも、納得し
てもらえるものであった。彼は、関係する人々、周囲の人々を悩ませたり、混乱させたり、
迷惑をかけることがないように十分に常識的な配慮をしたのであった。
C. 最後に、ダニエルたちは、世に生きるクリスチャンとして、彼らのために何かを必ずしてくださる神の配剤と
介入を信じていた。
1.野菜と水だけを
だけを食べる人と、
べる人と、肉を中心とした贅沢の極みを尽くした王
くした王室の料理を食べる人と
比べて、どちらが元気で力強いか?
(1)実質面から考えるとき、「菜食」と言っても、例えば、大豆が大いに用いられ植物性の
タンパク質の摂取が研究されたり、配慮されたりしていた訳けではないだろう。
(2)一
(2)一般のイメージから言っても、今のような
のイメージから言っても、今のような菜食主義が謳歌されている時代とは違う。野
菜も食べ方によってすごい栄養価の高い食事となるなどという理解も知識もなかった。
(3)むしろ当時
しろ当時野菜を中心とした食事は、栄養に乏しく貧しい人たちの食事の象徴であった。
誰もが、肉を中心とした食事は、贅沢で栄養価満
栄養価満点の、健康的食事と考えた時代である。
2.しかし、そのような中で、ダニエルは、野菜と水だけの彼らが、決して肉食グループに健
康・元気さにおいて負けないと確信してい
信していた。それは、
ていた。それは、神様が必ず、信じ、従う者を祝福
し、このことに介入して、彼らを勝たせてくださると信じたからである。
3.神様はその信仰に答えて、この事件に介入し、ダニエルたちのために
し、ダニエルたちのために三つのことをなさった。
(1)第一に、
(1)第一に、9
第一に、9 節を見て頂きたい。「宦官の長」と呼ばれる、この事件の政府側最終責任者
である人物が、ダニエルに好意をもつように「神様」が仕向けられたのである。
けられたのである。
(2)第二は、彼だけでなく、「世
(2)第二は、彼だけでなく、「世話役」と呼ばれる直接の担当者も好意的理解を示すように
神様が図られたことが感じられる。
られる。
(3)第
(3)第三は、何としても、周囲のすべての人々の予想と不安を裏切るように、ダニエルたち
の顔色も健康状
健康状態も、すべて王の食事と飲み物を頂いている者たちよりも勝っていたこ
とである。
3.この
3.この神様は必ず何かをしてくださるという信仰なくして、私たちは世にあるクリスチャンと
かをしてくださるという信仰なくして、私たちは世にあるクリスチャンと
して輝くことはできない。
くことはできない。神様は必ず、あなたの信仰と服従に答えて何かをしてくださる。
結 論
●三谷康
三谷康人:サラリーマン人生にとって致命傷とも言える 3 回の左遷、3 回の降格という経験。そのほ
とんどの理由が、工場長として、会
長として、会社行事としての神社参拝の問題をどうするかなど、自らの信仰に
誠実に生きようとした為であった。しかし、
であった。しかし、その度
その度に神様はビジネス・アイデアを下さったり、彼の
さったり、彼の
生涯に不思議なように介入し、遂には大昇格してカネ
してカネボウ株式会社の筆頭専
筆頭専務#2の地位についた。