椎原 はつ⼦︵しいはら エッセイ・小論文 ■⼊賞 はつこ︶さん・六⼗七歳/⼤分県⾅杵市在住 五十八歳まで小学校の養護教諭を務める。 たふる⾥に何か恩返しをしよう﹂ という話が持ち上がった︒ 中学校の還暦同級会をきっかけに﹁ ⾃分たちを育んでくれ ここを桜の名所にしようという機運を盛り⽴ててくれた︒そ 書も何もない﹃同級⽣﹄の会は和やかで楽しく︑協⼒して︑ えてくれた桜の樹の下で弁当を持ち寄り︑みんなで花⾒︒肩 39ちとせ会 ふる⾥は︑平成の市町村合併までは﹃村﹄が付いてた過疎の の場で会⻑選び︒中学時代︑毎朝︑⾖腐を売り歩いて学校に ートルほどの苗⽊はか細く︑添え⽊も必要︒添え⽊を地⾯に は⼤変だ︒桜の苗を植える⽳を⼀つ掘るのも四苦⼋苦︒⼀メ ﹃ 千本︑桜を植える﹄ ︑⾔うのは簡単だが︑やはり⾏うの りを済ませてくれていた︒感謝︒ 最初の植樹は思いがけず市も協⼒してくれ︑事前に下草刈 れ︑その年の秋︑まず桜の苗⽊⼆〇〇本植えることになった︒ ﹃きよあきさん﹄は︑持ち前の⾏動⼒で︑同級⽣を率いてく 来ていた⾖腐屋の息⼦﹃きよあきさん﹄が引き受けてくれた︒ ﹃ 町﹄ ︒ ﹁ ⽩⿅⼭︵ふる⾥の⼭︶に桜を植えて︑桜の名所にして︑ みんなに⾒てもらうというのはどうじゃろう︒﹂ 誰かが提案した︒ ﹁ 夢のある話じゃなあ︒それ︑いいなあ﹂ ﹁桜を千本植えようえ︒私らが死んでも桜が残って次の世 代を楽しませてくれるかもしれん﹂ ﹁ はなさか爺さん︑はなさか婆さんになるっち事じゃな︒ 桜をいっぱい植えて︑⽩⿅⼭を花咲き⼭にしよう︕﹂ あれから五年が経った︒その間︑約五五〇本の桜苗⽊を植 打ち込むのがまた⼀苦労︒ 学時代 ﹄ ︒ 話はすぐにまとまり︑会の名前も即決まった︒ 会 えた︒計画通りに⾏けば︑後五年で︑千本︑桜を植えること 還暦を迎えたとはいえ同級⽣が集まると気分は⼀気に﹃ 中 の名前は︑ ﹃ 39ちとせ会 ﹄ ︒我々が中学校を卒業した﹁ 昭和 になる︒ その⼀つが⿅による被害︒ ﹃⽩⿅⼭﹄ ︑その名のように︑昔 しかし︑そう思い通りにはいかなかった︒ 39年﹂とふる⾥﹃千歳村︵今は豊後⼤野市千歳町︶﹄に﹁ サ ンキュー﹂と感謝する気持ちを込めて付けた︒ 活動の第⼀歩は︑⽩⿅⼭での花⾒から始まった︒先⼈が植 3 3 からここには⿅がいたのだろうか︒植えた桜の苗⽊を⿅に⾷ い荒らされる事態が発⽣した︒慌てて同級⽣有志が集まり⿅ よけのネット張り︒ネットを広範囲張り巡らすのは⼤変な作 業︒ネットには⼈が⾃由に中に⼊れるよう扉を付けるなどの 配慮︒﹃ きよあきさん﹄は︑理解を得る為に﹃ 地域の⼈へ﹄ という⼿紙を作ってネットのあちこちに吊るし︑さらに﹃⿅ さんへ﹄と⿅に宛てたユーモアある⼿紙も吊るした︒ 台⾵などの⾃然災害もかなりあり︑呆然としたことも何度 かあった︒下草刈りの際︑間違って苗⽊を切ってしまうとい うようなこともあった︒ 今︑順調に育っているのは定かではないが植えた半数くら いかもしれない︒ 今⽇届いた﹃きよあきさん﹄からのメールには﹁今までた くさん学習しましたので︑これからは⼋割くらいの定着率で ⾏くと思います︒⼗年で千本と思っていましたが︑⼗五年も ⼆⼗年もかかりそうですね︒ みんな︑⻑⽣きしましょう︕﹂ と書かれていた︒ ﹁ はなさか婆さん︑⻑⽣きします︕﹂ と返信しようかな︒ 4 4
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