二〇一六年 年頭司牧書簡

二〇一六年 年頭司牧書簡
「神のいつくしみとゆるしを証しする共同体」
教会共同体について考えてみたいと思いま
す。
教会は昨年 月8日より、いつくしみの
特別聖年を迎えています。教皇様は大勅書
の中で共同体づくりについても示唆に富ん
だ内容のことを述べておられます。まずは
その点に注目してみましょう。
参照)
。
参照)
、 や「 こ れ ら
父である神は裁きの神ではなく、ゆるしと
─
小さきものにしたことはすなわち私にして
・
とができました。今年も、雪が解
くれたことである」
(マタイ
章参照)と
けたら司牧訪問を再開したいと考
いうイエス様の言葉は、神はいつくしみ深
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司教 ベルナルド 勝谷 太治
正義を越えたいつくしみ
ように勧めておられます(大勅書
)
札幌教区の皆さまに新年のご挨
拶と祝福をおくります。
いつくしみに満ちておられる方だからで
あなた方も憐み深いものとなりなさい (ルカ6・
昨年は、各地のすべての教会を
訪問するつもりで、巡回して歩き
す。その父の心はイエス様の教えや態度に
大勅書の中で教皇様は、正義のみを主張
して、ゆるしと優しさに欠けていた教会の
ました。多くの信者の方々と触れ
良く表れています。善いサマリア人のたと
姿勢を反省し、私たちにいつくしみを示す
合い話し合う機会を持つことがで
え 話( ル カ
10
えていますが、この書簡では昨年
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い方であり、愛と憐みをすべての人に向け
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の 教 会 訪 問 で 感 じ た こ と を 含 め、
10
あなた方の父が憐み深いように、
12
き、様々な共同体の現実を見るこ
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向けられた神 で あ る 父 の い つ く し み に 接 し
心を前提とせ ず に イ エ ス 様 に よ っ て 彼 ら に
による断罪や 罪 の 告 発 で は な く 、 彼 ら の 回
なったといわ れ る 姦 淫 の 女 も 、 正 義 の 主 張
徴税人ザアカ イ も 、 そ の 後 イ エ ス の 弟 子 に
放蕩息子のた と え が 示 す こ と も 、 回 心 し た
て 行 き、 か か わ り を 持 っ て い か れ ま し た 。
とを示すため に 、 無 条 件 に 彼 ら の 中 に 入 っ
いる人も、神 の い つ く し み の 対 象 で あ る こ
だ罪の中にあ っ て 神 か ら 遠 く に 身 を 置 い て
回心を求めた の で は あ り ま せ ん 。 む し ろ ま
うだったでし ょ う 。 イ エ ス 様 は 彼 ら に ま ず
また、当時 倫 理 的 に 正 し い 生 き 方 と は 思
えない生活を し て い た 人 た ち に 対 し て は ど
は、新しいいのちによみがえらせる力であ
本質へと立ち帰る時が来ています。ゆるし
兄 弟 の 弱 さ と 苦 し み を 引 き 受 け る た め に、
よ う な 不 毛 で 荒 れ た 人 生 し か あ り ま せ ん。
るしのあかしがなければ、砂漠で生活する
れ合って支え合う共同体を作るのです。「ゆ
き、ゆるし合い、互いの至らなさを受け入
という恵みの実感が、他者に向けて心を開
みを受け、多くの罪を許されたものである
のです。まず、私たち自身が神のいつくし
びを分かちあって生きるよう招かれている
みによって養われ、ゆるされた者である喜
断し、裁くのではなく、共に神のいつくし
ん。自分の信仰生活を基準として人々を判
ちの兄弟姉妹にも向けなければなりませ
ではなく、まず教会共同体、すなわち私た
いつくしみの眼差しを、社会に対してだけ
れ な い こ と で す。 私 た ち に 大 切 な こ と は、
ではありません。争いはある意味で避けら
多くの人が集まるところには必ず、分裂
と争いが生じます。教会共同体もその例外
革の前提となるのが私たちの回心です。
ています。しかし、そのような組織的な改
による自立した共同体づくりは急務となっ
なることが予想されます。そのための信徒
や高齢の司祭)しか、派遣できない体制と
なる司祭1名と数名の協力司祭(含、病気
状を見れば、数年後には各地区に責任者と
さるよう皆さんにお願いいたしました。現
指して現状から何ができるかを考えてくだ
教会共同体」
、
「常に宣教する共同体」を目
会」
、 近 い 将 来 を 見 据 え た「 建 物 で は な い
徒によって宣教司牧がなされる自立した教
るよう私たち を 招 く も の で も あ り ま す 。
て、初めて回 心 し 人 生 を 変 え て い く 力 を 得
時からの私たちの中に巣食う根本的な罪へ
知識の木」の実を食べた人祖アダムの罪の
の基準としないことです。これは「善悪の
です。その為に大切なことは、自分を正義
て、和解へ至るか、その努力をしているか
て争いの現実からゆるし合い受け入れ合っ
争いを避けることではなく、どのようにし
)
り、希望をもって未来を見つめる勇気を与
えるものです」
(大勅書
分裂からゆるしへ
昨 年 私 は 教 区 百 周 年 に 当 た っ て、 教 区
ニュースを通して教会共同体について、「信
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たのです。
「正義にのみ訴えることが正義を台なし
にしてしまう 危 険 を 伴 っ て い る こ と を 、 経
験は教えてい ま す 。 だ か ら こ そ 、 神 は い つ
くしみとゆる し を 携 え て 正 義 を 超 え て お ら
れるのです。」(大勅書 )私たちは、この
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ように招かれ て い る こ と を 理 解 し て い る 必
前提に私たち は 、 こ の よ う な 共 同 体 に な る
教することが で き る の で す 。 宣 教 に 向 か う
初めて、神の い つ く し み を 世 に 証 し し 、 宣
いつくしみに 満 ち た も の と な り 、 そ う し て
るし合うこと に よ っ て 、 私 た ち の 共 同 体 は
に生きること 」 し か あ り ま せ ん 。 互 い に ゆ
るのは「ゆる す こ と 」 と 「 ゆ る さ れ た 実 感
「 神 の よ う に な る 」 誘 惑 で す。 そ れ を 超 え
会もあるのです。
のない数千万円の建築資金をためている教
いる教会があるかと思えば、当面の使い道
工面できずに個々人に多くの負担を強いて
ません。教会の雨漏りを直すのに修繕費を
こかの教会の話として危機感すら持ってい
済的にゆとりのある教会は、統合の話はど
に四苦八苦している一方、人材に富み、経
多くの地方教会が少ない人材とお金で
「小教区組織」と「建物」を維持すること
いる大きな教会こそが現実的な課題として
てふさわしいと考えています。各地区、ブ
教区の第二世紀の初めに模索するものとし
的にも人的にも協力し合うイメージは札幌
の信者がすべての教会に責任を持ち、経済
教 会 は ま だ 小 教 区 で す。
)地域内のすべて
経済的に統合されていますが、それぞれの
い モ デ ル と い え る で し ょ う。
(北見地区は
実質的にそれに近いものになっており、良
のではないかと考えています。北見地区が
れの共同体を維持する体制になるのが良い
要があります 。 こ の よ う な 共 同 体 が あ っ て
小さな教会を訪問して感じたことは、自
分たちで教会組織と建物を維持できなけれ
上述のことを具体的に検討していただきた
の誘惑です。 自 分 を 善 悪 の 絶 対 基 準 と し て
こそ、次に述 べ る 教 会 の 未 来 の 姿 の 実 現 が
ば教会が統合され、自分たちの教会がなく
教会の統合や適正配置の話題は将来のこ
ととしてでは な く 、 明 日 の こ と と し て 検 討
可能であるこ と は 明 ら か で す 。
です。将来的には、広域の複数の教会が一
物)の維持のために負担をするということ
ことであり、
力ある教会が、
小さな教会(建
小教区の財政や組織図が統合されること
は、むしろ、分散していた力を集結させる
いた「外国籍の方々」についてです。彼ら
一 つ は、 最 初 に 述 べ た 教 区 百 周 年 に 当
たって考えていただきたい事として挙げて
す。
次に、今までの宣教司牧体制の枠組に入
らない重要な動きについても触れておきま
外国籍信徒と青少年
ロック、小教区で、そして、特に自立して
可能になるの で す 。
いと思います。
を持って、何とか頑張ろうとしている共同
なってしまう。そういう思い込みの危機感
教会共同 体 と 教 会 組 織
体がたくさんあることです。教会はなくな
され必要に迫 ら れ て お り 、 一 部 で は す で に
つの小教区となり、
地域内の小さな教会は、
の存在は教会にとっての宝であるとその中
りません。
実 施 さ れ て い ま す。 し か し そ れ は、「 教 会
ステーション(巡回教会)として、それぞ
先ほど触れたように、このままでは教会
の司牧体制を 現 状 の ま ま 維 持 す る こ と が 不
共同体」をな く す こ と で は あ り ま せ ん 。
日本人と同じ よ う に 彼 ら の 存 在 を 現 状 の 日
索 し て ほ し い と お 願 い し ま し た。 し か し、
増すために多 国 籍 教 会 と し て の 在 り 方 を 模
で述べました 。 そ の 上 で 、 教 会 の 豊 か さ を
るのかを模索するのも今年の課題です。
だうねりをどうしたら教会全体に取り込め
化してきているのです。この可能性に富ん
動しています。そして、それは確実に活性
本の小教区の シ ス テ ム の 中 に 収 め よ う と す
ることには無 理 が あ る こ と に 気 付 き 始 め て
加えて青少年について言えば、今後重点
的に力を入れて支援していきたいと考えて
同様に小教区 の 枠 組 み に 収 め て し ま お う と
小 教 区 に 基 盤 を 置 い て い ま せ ん。 こ れ も、
です。しかし、今の彼らの活動と集まりは、
もう一つは 、 今 ま で 停 滞 し て い た 青 少 年
活動が、にわ か に 活 気 づ い て き て い る こ と
して継続して行います。その他、青少年に
へのエクスポージャーもオプションを増や
す。更に、例年行われている高校生の国外
団を組んで参加する計画を立てる予定で
今年「ワールド・ユース デイ」がポー
ランドで開かれます。札幌教区からも巡礼
います。
すれば彼らを 潰 し て し ま う こ と に な り か ね
関する企画があるならば教区として援助し
います。
ないと感じて い ま す 。
ます。小教区 と い う フ ィ ル タ ー を か け て み
との「時のし る し 」 で は な い か と 感 じ て い
ように、
一人一人が宣教の主人公である
(福
は無限の可能性があります。教皇様が言う
多くの課題の中で、触れられることは少
しですが、各地の現場で実践されることに
ていく考えです。
るならば、外 国 籍 の 人 た ち も 、 青 少 年 も ほ
ことをしっかりと受け止めて、
音の喜び )
これらのこ と は 、 今 ま で の 小 教 区 中 心 の
司牧体制から 別 の 在 り 方 を 模 索 す る よ う に
とんど目につ き ま せ ん 。
しかし、そ の フ ィ ル タ ー を 外 し て み る な
らば彼らは「 教 会 の 中 」 に 確 か に 息 づ き 活
う。
1万7千の可能性を追求していきましょ
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