学習メモ

自己を見つめる (全二回)
「私」という「自分」
学習のポイント
めぐむ
萠 さぎさわ
鷺沢
① たった一人の「私」
、それぞれの私にとっての「自分」
② バス停での奇跡:誰かの ために何かをするということ
③ 「自分」と「他者」
:誰かにとって意味のある存在
① この世界は、
「自分」と「他者」とで成り立っている
「自分」自身のため
② 誰かのために何かをする のは、
③ 自分らしく生きるために、他者を思い、他者を愛する
理解を深めるために
『
「自分らしく生きる」
、というのは、どういうことなのだろう』──という問
いかけから、このエッセイは始まります。
「自分」は何のために生きているんだろう? 「自
「自分」って何だろう? 分らしく生きる」には、どうすればいいんだろう? ──こうした問題について、
考え、悩んだ経験を持つ人も多いのではないでしょうか。
『
「私」という「自分」
』の筆者・鷺沢萠は、「自分らしく生きる」という問題を、
「他者」
(自分以外の人間)との関係において捉えようとします。「自分らしいこ
と」について考えるために、どうして「他者」が問題となるのでしょうか。
また、筆者は「誰かにとって意味のある存在」でありたい、という強い思いを
述べています。
「誰かにとって意味のある存在」であるために、筆者は「誰か」
(つ
まり「他者」です)を助けてあげたい、
「誰か」の役に立ちたい、と言います。
例えば困っているAさんを助けてあげることで、「自分」はAさんにとって「意
味のある存在」となる。これは分かりますね。このとき、「自分」は「Aさんの
ために」なることをしたわけです。ところが、筆者が「誰かにとって意味のある
存在」でありたい、と願うのは、
「誰かのため」なのではなく、「自分のため」な
のです。これは、どういうことでしょうか。
筆者には、筆者の論理や考え方があります。それを整理し、自分なりに理解す
ることが、このエッセイを読むうえでの大事なポイントになるでしょう。筆者の
思いと、あなたの思いとは、重なり合う部分もあれば、そうではない部分もある
と思います。でも、筆者の伝えようとしていることを、分かろうとしてください。
筆者の考えや思いから顔をそむけたら、そこには対話は生まれません。自分と
は違った考えや思いと向き合うことから、対話が始まります。筆者の言葉に耳を
第 3・4 回
傾けながら、あなた自身でも考えてみましょう。「自分らしく生きる」ことにつ
いて。
「自分」が「生きる」ことの意味について。それが、筆者とあなたとの対
話なのです。
−4−
長谷川達哉
現代文
第1回
第2回
講師
▼
ラジオ学習メモ
「私」という「自分」
さぎさわ
めぐむ
鷺沢 萠 自「分らしく生きる 、」というのは、どういうことなのだろう。
正直に言えば、私は自分自身が「自分らしく」生きているのかどうか、わから
ない。今目の前にある「やらなければならない(と思う)こと」が「自分らしい
こと」なのか「そうでないこと」なのか、わからないからだ。もっと正直に言え
ば、たった今目の前に「やらなければならない(と思う)こと」が存在している
以上、それが自分らしいことなのかそうでないのか、というようなことを考えて
いる余裕は、あまりない。
ただ私は、ここに「自分」という人間が存在する以上、いつでも「自分以外の
他者」
、つまり誰かのためになる何かをやりたい、誰かの役に立つことをしたい、
誰かにとって意味のある存在でいたい、というふうに考えている。
誰かにとって意味のある存在、という言葉を、どうか重たく解釈しないでほし
い。たとえば私にはこんな思い出がある。
とある外国でのことだ。その国のバス料金のシステムを知らないままバスに乗
ってしまったことがある。バスに乗って現金を差し出したら運転士さんに現地の
言葉で何か言われ、乗車を拒否された。しかし私はその言葉を理解できないので
「これでは足らないのですか?」などという全く見当違いなことを英語で述べな
がら硬貨を差し出す以外に手立てがなく、しかし運転士さんのほうは英語を理解
しないためにある種の押し問答のような状態になってしまい、私はまさに困り果
てていた。
そのとき、乗車口近くに立っていたおばさんが、運転士さんに何事か早口で話
しかけた。運転士さんと短いやりとりをした後で、おばさんは何か紙片のような
ものを運転士さんに手渡した。そうして私は、バスに乗ることを許可された。目
の前で、奇跡が起こったかのような感覚があった。
もちろん実質的には、それは奇跡でも何でもなかった。
これは後になってわかることだが、その国のバスのシステムは私が訪れる数か
月前に改正されており、バスに乗るためには現金ではなく前もってバス・クーポ
ンを購入しておかなければならないようになっていたのだ。だからそのとき起こ
ったのは、親切な現地の中年女性が言葉もわからぬかわいそうな外国人のために
「もう一人分」のクーポンを払ってくれた、という出来事にすぎない。
クーポンというものの存在すら知らなかった私だが、とにかくバスに乗れたの
はそのおばさんのおかげだ、ということだけはそのときに理解できた。だから私
−5−
は彼女に対して英語で感謝を述べた。彼女はそれに対して、笑いながらやはり私
にはわからない現地の言葉で何か言った。私は「ありがとう」のひと言さえ現地
の言葉では言えないままその国を訪れた自分を激しく恥じた。
第 3・4 回
長谷川達哉
人「には親切にしなさい 、
」「困っている人がいたら助けてあげなさい」という
現代文
講師
▼
ラジオ学習メモ
ようなキレイゴトを言いたいのではない も
( ちろんそれも大切なことだが 。)た
とえば感謝を伝えた私に向かっておばさんが言った言葉も、単なる「どういたし
まして」ではなく、何か皮肉めいたことだったかもしれない。
けれど実質的にはとにかく、感覚的には私は奇跡をまのあたりにした経験をし
たし、英語圏でない外国へ行くときには、せめて「ありがとう」と「ごめんなさ
い」ぐらいの土地の言葉を覚えてから行くべきである、という教訓を学んだ。そ
のおばさんのおかげで。
きっと私は彼女の顔を忘れないだろうと思うし、あの異国のバス停での光景を
も忘れないだろうと思う。そうしてもしも、私自身がいつかあの日の自分のよう
な誰かと会ったなら、たとえば切符の買い方がわからない様子の外国人をどこか
の駅で見かけたなら、助けてあげたいな、というふうに単純に考えもする。
つまりその時点で、名前も知らないあのおばさんは、私という「誰か」にとっ
て、すでに十分すぎるほど「意味のある存在」なのである。
世界は、「自分」と「自分以外の他者」で成り立っている。言い換えればそれは、
いくら強烈で確実な「自分」を有していたところで、それを認識してくれる「自
分以外の他者」がいなければ世界は成立し得ない、ということでもある。
たとえば「自分は強い」ということを自分の中でいくら信じていたところで、
そういう「強い私」を認識してくれる「自分以外の他者」がいなければ「強い私」
は架空のものになる。
「強い私」はどこにもいなくなってしまうのだ。
もっと言えば、
「自分以外の他者」の存在を無視するとき、言葉、あるいは感
覚ですらその意味は無になる。
「あのリンゴは赤い」という事実をいくら自分が
認識していたとしても、その事実を伝達する対象となる他者がいなければ、赤い
リンゴ自体がどこにも存在しないものになるのだ。
他者がいなければ自己も存在し得ない。つまり「私」という「自分」は、他者
によって生かされているのである。
前に、なるべく誰かのためになりたい、誰かにとって役に立つ存在でいたい、
というようなことを述べた。それは私にとっては、決して「誰か」という他者の
ためではない。それどころかそれは自分のためですらある。誰かのためになりた
い、誰かの役に立ちたい、という思いは、「私」という「自分」を確立するため、
「私」という「自分」を架空のものにしないため、「私」という「自分」をどこか
でこの世界につなぎとめておくための、ほとんど利己的とさえ呼べるほどの希望
なのである。
そういう思いを切ないくらいに抱えながら生きていくことが「自分らしく生き
る」と呼ぶに足り得るものであるならば、もしかしたら私は自分らしく生きてい
るのかもしれない、と思う。
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私は死を恐れる。生に対する未練がある。たぶんそれは自分の生が無に帰する
第 3・4 回
のが怖いせいだと思う。
そうならないようにするため、
自分の存在を無に終わらせないようにするため、
私は精一杯に他者を思い、他者を愛す。少なくとも、そうであるよう努める。
そうして、他者を思い他者を愛し、自分の思いをできるだけたくさん他者に伝
現代文
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ラジオ学習メモ
える、ということが、私にとっては冒頭で言った「やらなければならないこと」
なのだ。
冒頭ではわざわざ括弧に入れて書いたが、私にとって「やらなければならない
こと」は、すなわち「自分が『やらなければならない』と思うこと」であり、そ
れはつまり誰でもなく私自身が「やりたいこと」なのだと思う。
▼作者紹介▲
ほ
し
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鷺沢 萠(さぎさわ・めぐむ)1968年〜2004年。東京都生まれ。
小説家。高校三年生のときに書いた『川べりの道』で小説家としてデビュー。
第 3・4 回
主な作品に『帰れぬ人びと』『駆ける少年』など。本文は『この惑星のう
えを歩こう』より。
現代文
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