近世九州における永代下人に関する一考察

秀
村
近世九州における永代下人に関する一考察
一 永代下人と譜代下人
選
三
これまで近世の奉公人について、一般的には幕府法、また幕府法を受けた藩法では一年から最長十年を限度とす
る年季奉公を主とし、それ以外にも季節奉公人や日雇奉公・旅日雇など、その奉公期間は多様な形で存在していた。
しかも実際には幕法・藩法が年季十年内に限っているにもかかわらず年季を限らずに永年季の奉公人もいたし、始
めから生涯主人、主家に仕える者として年季を限らず長く奉仕する「永代下人」と言われた者がいた。学界では隷
属度の濃い者として一般に「譜代下人」という用語が使われているが、譜代下人は下人の親子二代、三代…と続い
た場合を言うべきで、むしろ永く一生主人、主家に仕える下人は「永代下人」と言われていて、その方が適確では
(1)
ないかと思う。「永代」という文言は『広辞苑』には「永世 とこしえ」、
『大日本国語大辞典』には「ながい年月。
とこしえ」として長い年月と永久とかと解しているが、近世ではそうではなく、むしろ『日葡辞書』が「 Nagai- (永い代)」としていて、最後に永久を挙げているにすぎず、民衆の間では「永代」は長い年月、最も長くて人
yo.
の一生くらいを意味する位のものではなかったかと思われる。
各地の史料では永代と譜代とは使いわけられている例もあり、次の文書は金田平一郎教授御旧蔵の文書で、先生
近世九州における永代下人に関する一考察
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近世九州における永代下人に関する一考察
ご逝去後に御遺族より私にお譲りいただいたものである。
私下人永代売渡申男書物之事
(ママ)
一私下人歳廿拾七ニ罷成九蔵と申者、代銀三百目当村長右衛門肝要ヲ以永代子々孫々ニ至迄売切申処実正ニ
候、右者第一御公義様御年貢方ニ行当り右三百目之銀子たしかニ請取御年貢御上納申処明白也、然上者後々
末代ニ至請可申す と
一言申す間敷候、先々ニをゐて此九蔵不男女寄 数々出来申候共、売切り渡申上者其
方譜代ニ御使可相成候、此上天下一道ニ御国之新敷如何様之御法度立替リ申共、此九蔵ニ付 者
毛頭違乱申
間敷候、万一他方ゟ如何様之六ケ敷儀出来申候共、私又者可判人罷出、申わけ仕可申候、少ニ而も六ケ敷儀
正保四年 亥ノ二月十一日 喜五右衛門 花押 同村五人与 九郎左衛門 印 懸申間敷候、沙 為
後日証文如件
足代村売主
(以下同様四人 略 )
同村口入 長右衛門 印 麻植郡之内学村
三郎左衛門殿
(裏書 略 )
右の文書に見るごとく「永代子々孫々…末代ニ」に至るまでも売渡すことは漠然と一生から、その子孫にいたるま
─ 28 ─
で末の世まで永くの意味であろうが、 (金田先生はセガレと読まれていた)については明確に主人に対し「譜代」
として使いわけている。以下の例でも永代は一生くらいの意味にとったがよく、お寺で「永代」供養というのはせ
いぜいその人一生、一代、五十年くらいの読経の供養で、子々孫々までとか、永久の意味ではないとのことである。
さきに筑前国福岡藩の「明和四年宗像郡久原村宗旨御改帳」の中から 下人の記載あるものを表示したが、その
(2)
中で組頭市郎次のもとの下人六人の中に太郎次六十八歳、同女房六十六歳、同男子太郎次二十七歳とあり、こうい
う場合こそ譜代下人ではないかと思う。術語として「譜代下人」が永代下人は其の子、孫…に至る可能性もあるの
で広い意味で用いられているのならばそれでもよいが、私は「譜代下人」は中世の下人にこそふさわしく、近世で
は初期に限られ、後進的な辺境地域では後世にも見られたが、全般的に近世前期には幕府・藩の年季十年の制限が
(3)
あったが、その後元禄十一(一六九八)年に年季制限が撤廃されたのは社会がしだいに安定化してきて、雇傭の機
会も殖えてきていたので、永代下人の子も奉公に出る可能性があったのではないかと思う。というのは筑後生葉郡
(4)
山北村において永代下人ではないが、名子(主家との関わりでは永代下人と同質)の子が他所に奉公に出ている事
例もあり、永代下人の子も他に奉公(年季奉公など)する可能性は充分あったと思うからである。
二 近世末期・近代初期大隅国高山郷における永代下人
(5)
さきに薩摩藩大隅高山郷の「永代下人」の成因として幼年者の身売、譲与をあげたが、おそらく幼少の子を有力
な家に託し、有力な家はそれらの者を抱えていることは常日頃も、非常の時にも必要なことであった。
ことに主家が武家(郷士)の場合は軍役、戦場においてものの役に立つ者は「主人にひたと相付き矢弾の中でも
随身」する者でなければならず、幼少より膝の上で育てるように育てた「ひざおやし」でなければものの役に立た
近世九州における永代下人に関する一考察
─ 29 ─
近世九州における永代下人に関する一考察
(6)
ないとまで言われており (「おやす」は育てるの意味)
、戊申の役には多数の下人が主人に従った。大隅高山郷士宇都宮多
(7)
聞院が越後で戦死するや、随従していた下人常吉は遺骨を抱いて帰還後、
「生還を恥、殉死する、因て本家にて葬
(8)
る」と墓碑に録され、主家の宇都宮家の墓地に葬られている。また守屋舎人は文久二(一八六二)年八月~三年正
月に異国守衛方のために江戸に上った際には永代下人の小市を伴って江戸へ往復、在府している。
さらに大隅国肝属郡高山郷の郷士守屋納一郎家(守屋舎人家の分家)においては、
証文
札年十弐歳 真言宗 永代下人 休次郎
右者私永代下人ニ而御座候処、御支配下之内江先年より中宿いたし居候ニて何そ無口能者御座候ニ付、此者被
(9)
召置可給候、万一不正之儀共も御座候ハハ御知セ被下候ハハ直ニ引取可申候、仍て証文如此御座候、以上
元治二年丑二月朔日 守屋納一郎印
後田村 御庄屋衆中
また別に
証文
札年拾五歳 永代下人 休七
但 辺田金助事
右同断
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辰六月廿四日 守屋納一郎
波見村 御庄屋衆中
(
(
( (
とあり、同様に慶応三(一八六七)年卯九月二日には永代下人善五郎(十七歳)について、また明治三(一八七二)
(1
(
(
(
(二歳)とともに舎人家に入った者であり、同じく舎人の永代下人助右衛門も二十三乃至二十七歳のときに舎人家に
して宮之城領主島津家の家臣(高山居住の家)に仕え、やがて宇都宮家の下人となり、二十歳の時に妻(十八歳)息
(
もっとも守屋舎人家の永代下人小市は舎人の姉の嫁ぎ先の宇都宮家から舎人家に入った者であるが、はじめ若く
年若い下人を置いたのは守屋家が、年若い日から「家の子」として互いに意志の疎通するためであったろう。
守屋納一郎家が麓より遠く離れた広い原野の拡がっている後田村や豊予海峡に面する波見村に土地を開くために
年午二月十九日には永代下人休次郎(十八歳)についての文書を、いずれも波見村庄屋衆に出している。
(1
(
(
納一郎家の近くに置き、晩年は納一郎家に頼ったため、下人たちは舎人没後は納一郎家に「付属」し、ことに小市は
が、後年には守屋舎人家における舎人と次代弾正(舎人次男)との間で祭祀に関する意見の相違から舎人は隠居家を
密な関係により永代下人になったと思われる。さらに小市・助右衛門ともに舎人の「永代下人」と録されてはいる
ではなかった。したがって永代下人は必ずしもヒザオヤシのみと限らず、若いころに主家に入り、その後の主従の親
入った者であった。母や兄も舎人家に出入りしていたので、高山郷の者であったと思われるが文字通りのヒザオヤシ
(1
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国的に見る名子・家抱等とほとんど同じであり、また生涯主家の屋敷内にいて、一代(イッデ)デカン(デカンは
これら永代下人は家族をもち、土地、屋敷を与えられて主家に諸種の勤め(加勢)をする者で、北・中九州、全
聞いたが同家では農地改革で守屋家が同家に有利な条件での解放温かい配慮には感謝しているとのことであった。
納一郎家の墓地に葬られて立派な墓碑が立てられているほどであった。道中原の道中家(小市の子孫)の調査の際に
(1
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(1
近世九州における永代下人に関する一考察
(
(
方言で男奉公人、下人、下男をいう)といわれ、死後も前掲小市や常吉のごとく主家の墓地に葬られる者もあり、
各地で下人墓は屡見聞される。また同郷の郷士吉井家では一生住み込みの三太という下人がいたといわれ(伊東マ
ル氏談。実家は吉井家)、オスエの間には下人下女の位牌があったと言われている(吉井虎視氏談、二人とも昭和三
十年代後期における聞き取り)。
前述の高山郷守屋家の分家守屋納一郎家には
証文 札年十弐歳 真言宗 永代下人 休次郎
右者私永代下人ニ而御座候処、御支配下之内 江先年より中宿いたし居候ニて、何そ無口能
者御座候ニ付、此者被召置可給候、万一不正之儀共も御座候ハハ御知セ被下候ハハ直ニ引取可申候、仍て証文
如此御座候、以上
元治二年丑二月朔日 守屋納一郎印
後田村 御庄屋衆中
証文
札年拾五歳 永代下人 休七
但 辺田金助事
右同断
「万延元年庚申四月七日改ニ 下人共名前 証文出ス留横折」(守屋泰造家文書)
辰六月廿四日 守屋納一郎 波見村 御庄屋衆中
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(1
(
(
とあり、また九月二日に永代下人善五郎(十七歳)、さらに明治三年午二月十九日には永代下人休次郎(十八歳)に
ついても同様の文書を波見村庄屋衆に出している。いずれも麓より遠く離れた原野の後田村、麓から遠く離れた東
の海峡に面する波見村に田を開くため年若い下人を置き、彼らとその子孫が開拓した土地は戦後その子孫に解放さ
近世九州北部農村における永代下人
れて農家として健在である。
三
以上は南九州の事例を挙げたが、九州北部の村々でも見聞するもので、私の幼い日の記憶では、父の生家は現飯
塚市、旧筑前国穂波郡椿村で、同郡北古賀の青木家に嫁していた父の叔母を訪ねるのに小学五年の私を伴ったこと
があった。青木家は代々医師で(大叔母の夫は九大の前身福岡医学校の出身で有力な医者であった)
。訪れた父は二
人の老女と親しく話し、家の人も二人を同様に遇しているので、初めはどちらが大叔母なのかと惑ったが、しばら
く話しているうちに、一人は大叔母と、もう一人の老女は大叔母が嫁に来る時につれてきて一生仕え、耳が遠くな
(
(
さ
じ
り身寄りもないので、同家にいるということであった。今思えば(その言葉は勿論なかったが、)かつての永代下女
であったわけである。
近世九州における永代下人に関する一考察
さらに細川さんと多久の古文書を見ている時に「キャーフ娘」という文言の意味が分からず、訊ねたら、村の有
昔の人ですが親からいわれて、代々こうしています」ということであった。
と柴をあげられたので、訊ねたら実家の大塚家に長く勤め身寄りのなかった下女の墓石で、
「私たちも全く知らない
久市図書館の司書細川章さんとその母上の幸さんが山のお墓に私たちを案内された時、山道の路傍の小さな石に水
また私たちが以前に佐賀県の多久で「多久古文書の村」を始めた頃、
「村」を「散使」の名で世話をされていた多
(1
─ 33 ─
(1
近世九州における永代下人に関する一考察
力な家に幼女の将来を見てもらうように頼み、頼られた家ではその娘にキャーフ(腰巻、古代語の挟布か)を与え
るのをキャーフ娘と言い、その後何かにつけて面倒を見、娘はキャーフ親には事あるごとに奉仕する。男の子の場
合にはヘコを与えてヘコ息子と言うと教えられた。それで村の寄合の時に、ヘコ息子・キャーフ娘について色々の
話を聴いたが、既にヘコ親・キャーフ親だった人はいなくて(戦時中までであったろうとのこと)、キャーフ息子・
娘の体験者からしか聞き取りができなかったが、親は子のために有力な家に幼い時からキャーフ息子・娘として頼
り、ヘコ親・キャーフ親からは折々の節目のときには学用品や着物などを贈り、ヘコ息子・キャーフ娘をもつこと
は、人手の要る冠婚葬祭や農繁期など、また村の政治の面でも大切であったことを知った。こうして幼い日からオ
ヤカタ・コカタ関係を結ぶことは双方に大事なことであり、とくにかかる有力な家に頼み子供の将来をまかせて、
時には奉公人にしてもらうのは、近い時代まで続いたことで、必ずしも年期を限定せず、主家と奉公人の親疎の関
係や個々の事情で年季、無年季、永代になったであろう。
また私個人の記憶では、母の実家(福岡市、市川家)では出入りの子方の子(江島正夫)を幼い小学生の時から
育て、高等小学校卒業後、伯父の家が鉱山監督局の前で鉱山採掘手続の事務所をわりに手広くしていたので、伯父
は工業学校へやるつもりだったが本人の希望で事務員の一人となり、私の祖母と伯父の家で成長し、伯父に子がな
いので私たち兄弟とは大変親しく従兄弟のようであった。正夫は現役で入営の時、その後の日中戦争最初の召集、
二度目の召集の時も伯父の家から「出征」し、中国南部で負傷し、もう召集はされないと思っていたが、三度目の
召集でフィリッピンで戦死した。伯父の片腕として働き、家を新築して彼の母が住んでいたが、福岡の空襲で私の
家が全焼した時には、敗戦の年の十一月まで私の母と介助のお手伝いさんをその家に住ませてくれたほどであっ
た。戦死しなかったら「家の子」として、伯父は然るべき処遇をしたであろう。
私はこうした経験から、子方からの雇傭人を含めて近世の下人、奉公人の性格を考えるようになり、それは個別
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(
(
の事情で奴婢、下人や名子になったり、家族の一員になったり、時によっては奉公人分家として同族になったりも
した。さきに述べたように守屋家の場合、永代下人の子孫が後田の開拓地に長く住み、有利な条件で農地を解放さ
れたなども一例で、旧主従個々の関係は一律でなく、それぞれ親疎の事情は異なり単純に一律理解してはならない
と思う。
「享保の飢饉」の惨状は著しく、多くの民衆の死亡、流浪、人身の売買・質入れ等がなされたが、筑前福岡藩早良
郡脇山村では、享保飢饉六〇年後の寛政三年(一七九一)に次の文書がある。
早良郡脇山村
百姓四郎次下人
(精)
寛政三年亥六月 幸八
幸八と申もの七十二歳ニ相成、四郎次家ニ三代相勤、根元享保十七年一統飢饉之節餓死ニも候処、四郎次祖父
養ひ置候恩をおもひ、幼少より主人之ためをおもひ昼夜情を尽し、四郎次幼少之頃父も相果、孤ニ成候節、幸
八心を尽し家中を治め四郎次を養育いたし、遂に四郎次身上も折合候、先年より給米其外渡世ニ有付と可申旨、
(
(
主人より申候得共、曾 而不承知、主人の恩を可報志ニ有之、其忠貞信実趣、諸人奇特之ものニ有之段相達、及
御沙汰候、依之為御褒美米弐俵被下候之事
亥ノ六月 御郡奉行
花房左兵衛様
近世九州における永代下人に関する一考察
右は享保の飢饉の時に飢え死ぬところを助けられて、その家の主人の死後に主人の子が孤児であるため長く勤
(1
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(1
近世九州における永代下人に関する一考察
め、その子を成長させて老年に及んだので、主家から独立させ生活させようと勧めたが、報恩のためと聴かずに勤
め続け(本人の気持は慣れた生活の方がよかったのかもしれない)郡奉行からの表彰になったのである。
(
(
飢饉の時に豊前小倉藩田川郡津野村では他国へ売られた者があり、寛永十三(一六三六)年・同十九・二十(一
(
(
六四一・二)年の凶作、飢饉には不作でも年貢が定免のままで「子・兄弟・女房なと売事無積」であり、さらに万
(2
( (
山村に入りこむこともあって、津野村では平地の村で人口が激減するときに増しており、しかも名子層において多
では人口が殖えることもあり、餓えた民衆が山の樹木の実や葉、山草、葛根、薯預、野老、蕨を食用にするために
治、延宝、さらに享保十七・八(一七三二・三)年の大飢饉の惨況を述べている。もっとも飢饉の時には山の地域
(2
かった。飢饉の時には平場の村々から山村の名主層のもとに名子として入り、年少の子供は名主の家に抱えられて
( (
最低の生存の保護を受けたのであろう。飢饉の年でなくとも次のような史料がある。
年切養覚
与蔵
一明和六年丑ゟ子年迄十二年、此の方へ相勤め候様□父権七と直談致候
(
(
「永年季」「永代」にしてもよいと双方に意識されていたのではあるまいか。
めの約束をしている(いずれも「宝暦十年起、年々日」(佐々木文書)
。年の若い子を有力な家に入れて、よければ
七(一七七八)年戌より十三年、来る戌年まで、前借とか給米の記載はない。おそらく給与の約束などはなくて勤
とあり、
「年切奉公状之事」として安永六(一七七七)年酉十二月十五日に父清蔵、祖父七三郎が十歳の祐蔵を安永
(2
橘南谿の「西遊記」には、「奴僕」の項に日向辺の農民には、富有な者は、一生買い切りの僕を多くもち、米良、
(2
─ 36 ─
(2
五箇、其外此近国の山中より来る奴僕の親へ塩一俵、米五升を与えて、その子を一生不通に買い切り、男女ともに
甚だ多い。田地多く持つ農民は、多く召し抱えているため、その者ともが私に通じて出生する子をも深くは禁ぜず、
主人よりも厚く世話して養い育てる。これを「庭の子」といい、譜代相伝の奴僕で、彼らは其家を我家(いえ)と
思い忠勤をつくす。主人家も娘を嫁せる時には、かならず此婢女を添えて遣わす。もし奴僕が主人の気にそむく時
は、主人の心次第に売り払うこともある。一生を託した家の事なので主人の家をわが家と心得て忠を尽すため、主
人も我が子のように思い恩愛の情深く「まことに主従の心厚くみゆ。
」と記している。旅行者の見聞であり、上方の
主従関係や三都の町屋の奴婢の無礼不法を批判し、古風純朴を懐かしむ心を録しているので、全面的には信頼でき
ないにしても、ある程度事実を伝えているかと思われる。
近世九州における永代下人に関する一考察
(
(
(
(
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柳田國男は昔の「売る」という言葉は現代の使用法とは違い「ある期間の労力を、他人にしきせしめることを「身
(
売」とか「身売奉公」といったこと、
「下人は家の子」であり「家に居て働く人々」が「家の子」で、これを統括し
(
育之下女はつ年三十九」が同晩より見えず、律院村に行ったようで、新右衛門は善左衛門の妹婿で、去暮まで数年「名子」と
ず、訪ね探したが見えずと届け、他方田中村善左衛門・与頭・庄屋・大庄屋から新右衛門と内縁ある田中村善左衛門の「庭
には、律院村新右衛門・与頭・庄屋、大庄屋より新右衛門の「庭育之下人」善五郎(年二十三)が四月廿五日の晩より見え
「庭の子」について寓目するもので日向ではないが、府内藩の享保十一(一七二六)年「御用留日記」の午五月「申上覚」
〔補論〕
ならないことであろう。下人は家族の一員でもあったのである。
指揮する者が「親方」であったと言っていたという古風な語の遣い方を挙げているのは、おおいに考慮しなければ
(2
していたので善五郎と申し合わせたと思い尋ねたが見出さないと届けている。庭育の下人が主家から逃走したのである。
(2
また、寛永十九(一六四二)年『長崎平戸町人別帳』にも「庭子」が数人見出される。石本新兵衛下女きく(年三十)の
(2
近世九州における永代下人に関する一考察
娘はつ(年十二「庭子にて父しれす」
)
。 石本九郎左衛門尉下女みつ(年十一「私儀庭子ニて御座候故、父ハしれ不申候」)
。
下女かめの娘いせ(年四「庭子 父知れず」
)
。その他庭子とは録されていないが、下女四人にはそれぞれの幼少の子(四人)
がいた。また幼少の時に捨て子で「父母の儀不存」という下女(年五十)も見出されるが、関連して考えるべきかと思う。な
お「地方凡例録」には「家抱は百姓の譜代の下人にして門屋と云処もあり庭子と云処もあり、尤も庭子と家抱とは少し訳の
替ることにて、田畑は譲り渡さずとも、譜代の家人夫婦とも屋敷内へ夫々差置、少しの田地を耕作を致さするを庭子と云、或
は台処の内部屋などを補理して差置き、子供出生したるを庭子と云処もあり」(大石慎三郎校訂『地方凡例録』下巻 東京堂
出版 一一一頁)とあり。
『国史大辞典』
(吉川弘文館)では「血縁関係のない譜代の下人ではあるが、主家に対し分家の関
係をもち、したがって両者間には内付関係が形成され、年貢諸役も本家の名によって果たすのみ」とし、本百姓の従属農民
(
─ 38 ─
の一種としている。しかし、各地の史料で見る庭子とは著しく異なっている。今後さらに各地の史料によることが大切であ
ろう。
四 戦乱時における民衆の捕縛、連行と下人
前節では農村における飢饉や生活難、将来の生活保証のため有力な家に入れられ、
「家の子」として永代下人・下
女になった者を見てきたが、戦いに敗れた地域の多くの民衆が侵入者に捕縛され、時には遠隔地に連れ行かれて、
奴隷(日本人の「人」として見る感覚と異なる東南亜・南欧的奴隷)として売られることがあった。さきに中村吉
治『近世初期農政史研究』は、島津氏による豊後大友氏敗戦のため豊後の民衆が捕縛され、肥後など各地に連れて
(
行かれ、売却されたりしたことを挙げて、ことにイスパニア人に奴隷として売られた者もあり、秀吉による人身売
買の禁止となったことを指摘した。
(2
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(
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(3
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(
(
害を受けた。ことに多くの家中武家、兵士が朝鮮出陣中におこったためにさらに悲惨であった。
「国中に生じた彼女
秀吉直轄領化のために領土の引き渡しを受けにくる他国の軍勢に侵入されて略奪、暴行、捕縛、連行の惨憺たる被
さらに朝鮮侵略において文禄二(一五九三)年大友吉統(義統)は敵前逃亡の故に改易されて、大友の領国は、
などに奴隷として売却されたものと思われる」と言っている。
(
三文で売却した。(売られた)人々の数はおびただしかった。とあり、外園は「彼らの多くは、東南アジアやインド
(
連中まで養えるわけがなく、彼らをまるで家畜のように高来に連れて行って売渡した。…貧困から免れようと二束
で捕虜にした人々は、肥後に連行され売却された。その年肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ…買い取った
少年、少女たちを拉致するのが目撃され…人質に対して、異常なばかりの残虐行為をした」と録し、
「島津勢が豊後
(
(一五八六)年島津氏による豊後領国の侵略で多くの者が殺害され、
「 実 に お び た だ し い 数 の 人 質、 と り わ け 婦 人 、
後国における戦場の「乱取り」について述べている。外園によればルイス・フロイスの「日本史」には、天正十四
藤木久志は戦国期の戦場における「奴隷狩」について述べ、峰岸純夫・外園豊基は十六世紀末の大友氏領国の豊
(3
(
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(
(
れたが、ことに多くの民衆が殺害、略奪、暴行、捕縛され、連行された。その実態を詳細に研究したものに内藤雋
その後文禄・慶長 役(壬辰・丁酉倭乱)の朝鮮侵略において、多くの文人、学者、医師、陶工等の技術者等連行さ
う。多くの者が周辺の国々に連行されたが、後に作人を還住させることは各領主のその後の大きな課題であった。
時に奴隷の身におとしめられ、上方まで売り飛ばされたのであった」と録しているのはは最も象徴的な事例であろ
(
ある男が大坂で売春を目的に豊後国の十八歳の美しいキリシタンの娘二人を買ったが、彼女たちは大友氏の滅亡の
たちの苦難なり悲嘆を如実に描写することはできない」とフロイスはいっており、外園が「慶長元年(一五九六)、
(3
された者は七五〇〇人余で差引二万人前後が日本に吸収され、ほかにかなりの数が東南アジア、ヨーロッパまで転
近世九州における永代下人に関する一考察
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(2
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輔『文禄慶長役における被虜人の研究』がある。被虜人の総数は二、三万人と推定され、その後約二〇年間に刷還
(3
(
近世九州における永代下人に関する一考察
(
(
(打)
(首)
さま
(猿)
(
(
(責)
(杖)
した。彼らは奴隷というよりもう少し自由度の高い存在で多様性に富んでいた。大半が非農業部門、おもに交通の
とも東南アジアに分布したことは確かめられ、倭寇による被慮人よりもはるかに広い範囲で転売され、流通、分布
にもかかわらず数万人と推定される朝鮮人を日本列島に連行し得た。さらにそれは日本列島にとどまらず、少なく
高橋公明は「倭寇の被虜人と異なり、戦争の遂行に伴うひとつの行為として正統化され……だから比較的短期間
このようにして買われて日本に連れてこられた者は日本国内各地に居住した。
見る目いたハしくてありつる事也…
如くにかいあつめ、たとへハさるをくくりて歩くことくに、牛馬をひかせ荷物もたせなとして、せむるていは、
(買)
おつたて、うちはしらかすの有様ハ、さなからあほうらせつの罪人をせめけるもかくやとおもひ侍る…かくの
( 追 立 )
男女老若かい取て、なわにてくひをく(ゝ)りあつめ、さきへおひたて、あゆひ候ハねハあとより つへにて
(縄)
同十九日ニ、日本よりもよろつのあき人来たりし中に、人あきないせる物来たり、奥陣よりあとにつきあるき、
(商)
た記録「日々記」の中から著名な一節のみ引用する。
した「朝鮮日々記」があり、侵略の軍勢に同行して慶長二(一五九七)年六月廿四日より翌年二月二日まで記録し
(
売されたとみている。ことにその拉致連行の悲惨さを物語る史料に僧慶念(豊後臼杵の城主の側近の一医僧)が記
(3
の同族をもち、屋敷付近には分家の二戸が居住しているが、屋敷近くの一戸は朝鮮から朱雀家に従って来たと伝え
田氏に仕え朝鮮にも出陣したが、近世前期には帰農して触口・庄屋を勤めた家で、堀を巡らした屋敷があり、十戸
また個別的に連れてきたことも屡聞き、私の知る小さな事例でも筑前志摩郡志登村の朱雀家は戦国期高祖山の原
要衝、都市的な景観のなかに存在した」と言っている。
(4
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( (
ており、おそらく供なわれてきて同家の下人的身分から、やがて屋敷、土地を分与されて同家の近くに居住したの
であろう。
また福岡市中央区西町の金龍寺には朝鮮地蔵といわれる石の地蔵が安置されている。朝鮮にて八、九歳の童女が
家や家族も不明のため黒田家の上級の家臣林家に従って来て、長く林家に仕えた女性で、後年二男家に譲られ、当
主の歿後弔いのため尼となり妙清と云った。石仏を建て、自らの葬られる場所として金龍寺に葬られた。林家が立
てた石仏の碑には
妙清之碑
妙清者朝鮮国人不知其姓氏字里、文禄中我祖三君在朝鮮、見一女子八九歳□、君泣乞活其命、君憐之曰汝勿傷、
予□使人輸送汝干汝親戚、女答曰、妾之親戚歿干兵乱、□殆盡其存者亦□不知、□在□区甚悲、君不能忍□、
仍牧畜之班師之日、遂率以東、既長為下婢以報恩徳、後君以給与君第二男直道家、寛永乙巳歳十一月晦君 葬
干金龍寺、卑於是請薙髪為尼、号曰妙清、供掃干墓兆、遂建石仏於此地、豫為埋骸之所、後病死因葬干此、享
和二年与同 議金石以誌其事、嗚呼□慮之女能感恩知□志、始□□山亦寺□
とあり、町では朝鮮地蔵と言って親しんでいた。「朝鮮の見える場所に朝鮮に向けてほしい」と言ったと伝えられ、
(
(
近世初期金龍寺が荒津山にあった頃は寺の北西、海に近く朝鮮に向けて安置されていたといわれたが、今は本堂の
近世九州における永代下人に関する一考察
地にあり、いかに多くの者が国内に入ったか知れない。朝鮮からは彼らを帰還させるため刷還使が派遣されて来た
家の家臣大塚家・副島家では同家の山の墓地に朝鮮から連れてきた少年の兄弟が葬られている。こうした伝承は各
近くにある。彼女はいわば永代下女、侍女として林家に仕えたのであろう。また佐賀県多久市本多久の龍造寺多久
(4
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(4
近世九州における永代下人に関する一考察
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在したイタリア商人が被虜人を購入した額は当時の米価に換算すれば一人約二石四斗であったと述べ、日本人女性
中村質は「壬申倭乱」は未曽有の数の被虜人(奴隷)を日本社会にもたらし、その価格は暴落したと、長崎に滞
が、故郷の状況が分からないために思いまどい名乗り出なかった者も多かったといわれる。
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(
性労働力の需要が多かったからであろうと推測している。苦境の中にあってキリスト教が浸透しつつあり、労働、
た。二世は出生地は大村生まれ一人以外はすべて長崎で長崎の者であり、女性の比率が高い。貿易都市長崎では女
結婚したりで長崎に来て、やがて長崎の外町から一等地の平戸町に商売し、家屋敷を構えるもの、下女などであっ
て西国各地へ連行されてきた者は無年季の身売(いわば永代下人)や天川(マカオ)への年季奉公や乳母をしたり、
とその家族、その他の朝鮮系住民とキリスト教の観点から詳細に分析している。一世は幼く、若くして被虜人とし
を校注、刊行したが、寛永十九(一六四二)年の長崎の平戸町現住の朝鮮系住民を被虜一世とその家族、被虜二世
(
も同様に安値で当時の日本の奴隷価格が国際的にいかに安価であったかと述べている。中村は『長崎平戸町人別帳』
(4
切り、あと機会を得て述べたいと思っている。(五)については昨年「地域史料研究会、福岡」の「研究時報」第7
小稿はあと(五)上方抱え下し者、
(六)永代下人と主従関係について載せるつもりであったが、一応ここで打ち
あとがき
わったり、或は商家の下女として働く人々のたくましさをこの人別帳は物語っているようである。(以下、次稿)
たり、天川に奉公するなどして長い年月の間に徐々に下人層から脱して、長崎の一等地平戸町に住み商業にかか
結婚を通して日本社会に同化、浮上しつつあったことを窺い得る。年若くして捕縛、連行され、おそらく転売され
(4
号に「近世肥後八代領=宇土藩における上方抱え下し者」の表に約二〇〇人余の奉公人を掲げてその解題を書いて
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(4
いる。この表の二〇〇余人の中にも相当数の「永代」、またそれと推定される下人下女が居り参照していただければ
幸いである。
註
(1)『
日葡辞書』八一七頁。
11
(
同十・明和八年ほかに卯年)
(竹之井敏氏・日高幹子氏調査)
。日高幹子氏からは日高分家の下人墓に案内されたこと
もあった。
) 守屋泰造家文書。
近世九州における永代下人に関する一考察
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(2) 秀村「徳川期北部九州における農村奉公人の諸相」
(
『経済学研究』第一六巻一号、一九五〇)。
(3) 大平祐一「近世日本における雇用法の転換」
(
『立命館法学』第二三一・二三二号、一九九三)はきわめて重要な問題
を提起しており、私のここの記述は再考しなければならないと思っている。
(4) 山北村北村庄屋文書(福岡県史編纂資料 九州歴史資料館仮蔵)
(5) 秀村選三『幕末薩摩藩の農業と社会』
(創文社 二〇〇四)二三六~八頁。
いっで
(6)『
、出水郷伊藤家安政五年「伊藤家掟」
。
島津家御旧制軍法巻抄』
(7)
(8) 秀村前掲書二三九頁。
(9)
( )
( ) 万延元年庚申四月七日改ニ
下人共名前 証文出ス留横折(守屋泰造家文書)
。
( ) 秀村前掲書二二五頁。
) 同右前掲書二五一頁。
(
10
( ) 同右前掲書二四〇頁。小市は一生主家の内にいた。一代デカンといわれる。
( ) 大隅高山郷の長能寺の墓地の奥に下人墓があり、山下家と柏原家が花香をとっていたが、山下家のは花崗岩で刻字は
なく、山下家には下人茂八その父母・妻の墓石七基に戒名、歿年、名が刻まれている(享保十八・延享五・宝暦六・
15 14 13 12
16
近世九州における永代下人に関する一考察
)
( ) 福岡県田川郡添田町『津野』
(添田町役場発行 一九六七)七七頁。
) 前掲『津野』八〇頁。
) 奉公人分家が同族のなかに入れられていることもある(福岡県浮羽町山北の河北家の同族組織の事例、その他)。
) 馬奈木家文書(福岡市早良区脇山馬奈木治六氏蔵)
。 文書村だより」
(三九三~四〇六頁)参照。 の調査、収集、研究、学習のために学界・市民共同で組織したもの。秀村選三編『西南地域史研究』第三輯、
「多久古
( ) 佐賀県多久市において石炭産業の崩壊過程で石炭資料の収集、保存のため学界・民間有志で協力したが、そのほか多
久市立図書館には古文書が多数保存され、また民家にも多くの古文書があり、また新しく見出されたりして、これら
(
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(
(
(
) 峰岸純夫『日本中世の社会構成・階級と身分』
) 外園豊基『戦国期在地社会の研究』
(二〇〇三 校倉書房)一七二
( )
( )
(外園前掲書二六一頁より引用)
。
ルイス・フロイス『日本史』
( ) 外園前掲書一六三頁。
) ルイス・フロイス『日本史』
(外園前掲書一六五頁より引用)
。
(
-
一七七頁。
( ) 中村質校訂『長崎平戸町人別帳』
(九州史料叢書第三七 一九六五、九州史料刊行会)
。原本は九大記録資料館九州文
化史部門所蔵 元山文庫。
( ) 中村吉治『近世初期農政史研究』
(一九三七、岩波書店)二四四頁。
) 藤木久志『雑兵たちの戦場』
(一九九五 朝日新聞社)七九~八三頁。
( )「
『定本柳田國男集』第十六巻(一九六二、二一~二頁 筑摩書房)
。
都市と農村」
( ) 府内藩文書(大分県図書館蔵)
。
( )「
宝暦十年起、年々日記」佐々木家文書。
( )「
『東洋文庫』二四九 七七~八〇頁 平凡社)。
西遊記」巻之四 奴僕(
21
) 外園前掲書。
(一六五頁)
) 内藤雋輔『文禄慶長役における被虜人の研究』
(一九七六 東大出版会)。
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17
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37 36 35 34 32 31 30 29 28
( ) 内藤前掲書一九八頁。
(
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(
(
(
(
(
(
) 内藤前掲書六〇〇頁。
) 高橋公明「異民族の人身売買」
(荒野泰典編『アジアのなかの日本史』三 海上の道、東京大学出版会、一九九二)。
) 秀村選三「近世前期筑前における触口・庄屋の同族と家従属者~志摩郡板持村朱雀家について(「福岡県地域史研究」
二五)
。
) 秀村「望郷の朝鮮地蔵」
(
『福岡歴史探検』海潮社、一九九一)
) 刷還使。
) 中村質『近世対外交渉史論』
(二〇〇〇 吉川弘文館)三〇頁。
) 中村質校注『長崎平戸町人別帳』
(九州史料叢書三七)
。原本は九州大学記録資料館九州文化史資料部門所蔵。
) 中村質校注前掲書一九頁。
謝辞
小稿をまとめるにあたって梶嶋政司・竹之井敏・服部民子・日高幹子・細川章氏に御教示と大変御世話になった。小稿校
正中に細川さんの御訃報を聞いて心から哀悼の意を表する。なお私事にわたるが、戦死して、すべて忘れられた江島正夫の
ことを書かせていただき、心から感謝申し上げます。
近世九州における永代下人に関する一考察
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